b1005から1008
太田殿女房御返事 (おおたどのにょうぼう ごへんじ)
別名、即身成仏抄 (そくしんじょうぶつしょう).
日蓮大聖人 54歳 御作.

 

b1005

おおたどのにょうぼう ごへんじ.
太田殿女房 御返事.

けんじ がんねん 54さい おんさく.
建治 元年 五十四歳 御作.

みのぶに おいて.
於 身延.

やつきぶんの こめ いっこく たび そうらい おわんぬ.
八月分の 八木 一石 給 候い 了んぬ.

そくしんじょうぶつと もうす ほうもんは しょだいじょうきょう.
即身成仏と 申す 法門は 諸大乗経.

ならびに だいにちきょう とうの きょうもんに ふんみょうに そうろうぞ.
並びに 大日経 等の 経文に 分明に 候ぞ.

しかれば とて かの きょうぎょうの ひとびとの そくしんじょうぶつと もうすは.
爾れば とて 彼の 経経の 人人の 即身成仏と 申すは.

ふたつの ぞうじょうまんに おちて かならず むけんじごくへ いり そうろうなり.
二の 増上慢に 堕ちて 必ず 無間地獄へ 入り 候なり.

きの 9に いわく.
記の 九に 云く.

「しかして ふたつの じょうまん せんじん なきに あらず.
「然して 二の 上慢 深浅 無きに あらず.

にょと いうは すなわち だいむざんの ひとと なる」とう うんぬん.
如と 謂うは 乃ち 大無慙の 人と 成る」等 云云.

しょだいじょうきょうの ぼんのうそくぼだい しょうじそくねはんの ほうもんは.
諸大乗経の 煩悩即菩提 生死即涅槃の 即身成仏の 法門は.

いみじく おそかたき ようなれども これは あえて そくしんじょうぶつの ほうもんには あらず.
いみじく をそたかき やうなれども 此れは あえて 即身成仏の 法門には あらず.

その こころは にじょうと もうす もの はろくおんにして けんじを だんじて.
其の 心は 二乗と 申す 者は 鹿苑にして 見思を 断じて.

いまだ じんじゃむみょうをば だんぜざる ものが.
いまだ 塵沙無明をば 断ぜざる 者が.

われは すでに ぼんのうを つくしたり.
我は 已に 煩悩を 尽したり.

むよに いりて けしんめっちの ものと なれり.
無余に 入りて 灰身滅智の 者と なれり.

けしん なれば そくしんに あらず めっち なれば じょうぶつの ぎ なし.
灰身 なれば 即身に あらず 滅智 なれば 成仏の 義 なし

されば ぼんぷは ぼんのうごうも あり くかの えしんも うしなう こと なければ.
されば 凡夫は 煩悩業も あり 苦果の 依身も 失う 事 なければ.

ぼんのうごうを しゅと して ほうしんおうしん とも なりなん.
煩悩業を 種と して 報身 応身 とも なりなん.

くか あれば しょうじそくねはんとて ほっしんにょらい とも なりなんと.
苦果 あれば 生死即涅槃とて 法身如来 とも なりなんと.

にじょうを こそ だんか せさせ たまいしか.
二乗を こそ 弾呵 せさせ 給いしか.

されば とて ぼんのう ごうくが さんじんの しゅとは なり たまわず.
されば とて 煩悩 業苦が 三身の 種とは なり 候はず.

いま ほけきょうに して うよ むよの にじょうが なき ぼんのうごうくを とりいだして そくしんじょうぶつと とき たもう とき.
今 法華経に して 有余 無余の 二乗が 無き 煩悩 業苦を とり出して 即身成仏と 説き 給う 時.

にじょうの そくしんじょうぶつ する のみならず.
二乗の 即身成仏 する のみならず.

ぼんぷも そくしんじょうぶつ するなり.
凡夫も 即身成仏 するなり.

→a1005

b1006

この ほうもんを だにも くわしく あんじ ほどかせ たまわば.
此の 法門を だにも くはしく 案じ ほどかせ 給わば.

けごん しんごん とうの ひとびとの そくしんじょうぶつと もうし そうろうは.
華厳 真言 等の 人人の 即身成仏と 申し 候は.

えきょうに もんは そうらえども その ぎは あえて なき こと なり.
依経に 文は 候へども 其の 義は あえて なき 事 なり.

ひがごとの おこり これなり.
僻事の 起り 此れなり.

こうぼう じかく ちしょうらは この ほうもんに めいわくせる ひと なりと み そうろう.
弘法 慈覚 智証等は 此の 法門に 迷惑せる 人 なりと み 候.

いかに いわんや その いげの ことく せんとくらは いうに たらず.
何に 況や 其の 已下の 古徳 先徳等は 言うに 足らず.

ただ てんだいの だい46の ざす とうようの ちゅうじんと もうす ひと こそ.
但 天台の 第四十六の 座主 東陽の 忠尋と 申す 人 こそ.

この ほうもんは すこし あやぶまれて そうろう ことは そうらえ.
此の 法門は すこし あやぶまれて 候 事は 候へ.

しかれども てんだいの ざす じかくの まつを うくる ひと なれば.
然れども 天台の 座主 慈覚の 末を うくる 人 なれば.

いつわり おろかにて さて はてぬるか.
いつわり をろかにて さて はてぬるか.

そのうえ にほんこくに せいを うくる ひとは いかでか こころには おもうとも.
其の上 日本国に 生を 受くる 人は いかでか 心には をもうとも.

ことばに いだし そうろうべき.
言に 出し 候べき.

しかれども しゃか たほう じっぽうの しょぶつ.
しかれども 釈迦 多宝 十方の 諸仏.

じゆ りゅうじゅぼさつ てんだい みょうらく でんぎょうだいしは.
地涌 竜樹菩薩 天台 妙楽 伝教大師は.

そくしんじょうぶつは ほけきょうに かぎると おぼしめされて そうろうぞ.
即身成仏は 法華経に 限ると をぼしめされて 候ぞ.

わが でしらは このことを おもいでに せさせ たまえ.
我が 弟子等は 此の事を をもひ出に せさせ 給へ.

みょうほうれんげきょうの 5じの なかに しょろんし しょにんしの しゃく.
妙法蓮華経の 五字の 中に 諸論師 諸人師の 釈.

まちまちに そうらえども みな しょきょうの けんを いでず.
まちまちに 候へども 皆 諸経の 見を 出でず.

ただ りゅうじゅぼさつの だいろんと もうす ろんに.
但 竜樹菩薩の 大論と 申す 論に.

「たとえば だいやくしの よく どくを もって くすりと なすが ごとし」と もうす しゃく こそ.
「譬えば 大薬師の 能く 毒を 以て 薬と 為すが 如し」と 申す 釈 こそ.

この いちじを こころへさせ たまい たりけるかと みえて そうらえ.
此の 一字を 心へさせ 給い たりけるかと 見へて 候へ.

どくと もうすは くじゅうの にたい.
毒と 申すは 苦集の 二諦.

しょうじの いんがは どくの なかの どくにて そうろうぞかし.
生死の 因果は 毒の 中の 毒にて 候ぞかし.

この どくを しょうじそくねはん ぼんのうそくぼだいと なし そうろうを.
此の 毒を 生死即涅槃 煩悩即菩提と なし 候を.

みょうの きわめとは もうしけるなり.
妙の 極とは 申しけるなり.

りょうやくと もうすは どくの へんじて くすりと なりけるを りょうやくとは もうし そうらいけり.
良薬と 申すは 毒の 変じて 薬と なりけるを 良薬とは 申し 候いけり.

この りゅうじゅぼさつは だいろんと もうす もんの いっぴゃくの まきに.
此の 竜樹菩薩は 大論と 申す 文の 一百の 巻に.

けごん はんにゃ とうは みょうに あらず ほけきょう こそ みょうにて そうらえと もうす しゃく なり.
華厳 般若 等は 妙に あらず 法華経 こそ 妙にて 候へと 申す 釈 なり.

この だいろんは りゅうじゅぼさつの ろん.
此の 大論は 竜樹菩薩の 論.

らじゅうさんぞうと もうす ひとの かんどに わたして そうろうなり.
羅什三蔵と 申す 人の 漢土へ わたして 候なり.

てんだいだいしは この ほうもんを ごらん あって なんぼくをば せめさせ たまいて そうろうぞ.
天台大師は 此の 法門を 御らむ あつて 南北をば せめさせ 給いて 候ぞ.

しかるを かんど とうの なか にほん こうにん いごの ひとびとの あやまりの しゅったいし そうらいける ことは.
而るを 漢土 唐の 中 日本 弘仁 已後の 人人の アヤマリの 出来し 候いける 事は.

とうの だい9 たいそうこうていの ぎょう ふくうさんぞうと もうす ひとの.
唐の 第九 代宗皇帝の 御宇 不空三蔵と 申す 人の.

てんじく より わたして そうろう ろん あり.
天竺 より 渡して 候 論 あり.

ぼだいしんろんと もうす.
菩提心論と 申す.

この ろんは りゅうじゅの ろんと なづけて そうろう.
此の 論は 竜樹の 論と なづけて 候.

この ろんに いわく.
此の 論に 云く.

「ただ しんごん ほうの なかに のみ そくしんじょうぶつ する ゆえに これ さんまじの ほうを とく.
「唯 真言 法の 中に のみ 即身成仏 する 故に是れ 三摩地の 法を 説く.

しょきょうの なかに おいて かいて しょせず」と 申す もん あり.
諸教の 中に 於て 闕て 書せず」と 申す 文 あり.

→a1006

b1007

この しゃくに ばかされて こうぼう じかく ちしょうらの ほうもんは.
此の 釈に ばかされて 弘法 慈覚 智証等の 法門は.

さんざんの こと にては そうろうなり.
さんざんの 事 にては 候なり.

ただし だいろんは りゅうじゅの ろん たることは じた あらそう こと なし.
但し 大論は 竜樹の 論 たる事は 自他 あらそう 事なし.

ぼだいしんろんは りゅうじゅの ろん ふくうの ろんと もうす あらそい あり.
菩提心論は 竜樹の 論 不空の 論と 申す あらそい 有り.

これは いかにも そうらえ さておき そうらいぬ.
此れは いかにも 候へ さてをき 候ぬ.

ただ ふしん なることは だいろんの こころ ならば.
但 不審 なる事は 大論の 心 ならば.

そくしんじょうぶつは ほけきょうに かぎるべし もんと もうし どうり きわまれり.
即身成仏は 法華経に 限るべし 文と 申し 道理 きわまれり.

ぼだいしんろんが りゅうじゅの ろんとは もうすとも.
菩提心論が 竜樹の 論とは 申すとも.

だいろんに そむいて しんごんの そくしんじょうぶつを たつる うえ.
大論に そむいて 真言の 即身成仏を 立つる 上.

その いちじは つよしと みえて そうろう.
唯の 一字は 強と 見へて 候.

いずれの きょうもんに よりて いちじをば おいて.
何の 経文に 依りて 唯の 一字をば 置いて.

ほけきょうをば はし そうらいけるぞ しょうもん たづぬべし.
法華経をば 破し 候いけるぞ 証文 尋ぬべし.

りゅうじゅぼさつの 10じゅうびばしゃろんに いわく.
竜樹菩薩の 十住毘婆娑論に 云く.

「きょうに よらざる ほうもんをば こくろん」と うんぬん.
「経に 依らざる 法門をば 黒論」と 云云.

じごそうい あるべからず.
自語相違 あるべからず.

だいろんの いっぴゃくに いわく.
大論の 一百に 云く.

「しかも ほっけ とうの あらかんの じゅけつさぶつ.
「而も 法華 等の 阿羅漢の 授決作仏.

ないし たとえば だいやくしの よく どくを もって くすりと なすが ごとし」とう うんぬん.
乃至 譬えば 大薬師の 能く 毒を 以て 薬と 為すが 如し」等 云云

この しゃく こそ そくしんじょうぶつの どうりは かかれて そうらえ.
此の 釈 こそ 即身成仏の 道理は かかれて 候へ.

ただ ぼだいしんろんと だいろんとは おなじ りゅうじゅぼさつの ろんにて そうろうが.
但 菩提心論と 大論とは 同じ 竜樹大聖の 論にて 候が.

すいかの ことなりをば いかんせんと み そうろうに.
水火の 異をば いかんせんと 見 候に.

これは りゅうじゅの いせつには あらず やくしゃの しょい なり.
此れは 竜樹の 異説には あらず 訳者の 所為 なり.

らじゅうは した やけず ふくうは した やけぬ.
羅什は 舌 やけず 不空は 舌 やけぬ.

もうごは やけ じつごは やけぬ こと けんねん なり.
妄語は やけ 実語は やけぬ 事 顕然 なり.

がっし より かんどへ きょうろん わたす ひと 176にん なり.
月支 より 漢土へ 経論 わたす 人 一百七十六人 なり.

その なかに らじゅう ひとり ばかり こそ きょうしゅしゃくそんの きょうもんに わたくしの ことば いれぬ ひとにては そうらえ.
其の 中に 羅什 一人 計り こそ 教主釈尊の 経文に 私の 言 入れぬ 人にては 候へ.

175にんの なか らじゅう より せんご 164にんは らじゅうの ちをもって しり そうろうべし.
一百七十五人の 中 羅什 より 先後 一百六十四人は 羅什の 智を もつて 知り 候べし.

らじゅう きたらせ たまいて ぜんご 164にんが あやまりも あらわれ.
羅什 来らせ 給いて 前後 一百六十四人が 誤りも 顕れ.

しんやくの 11にんが あやまりも あらわれ.
新訳の 十一人が 誤りも 顕れ.

また こざかしく なりて そうろうも らじゅうの ゆえなり.
又 こざかしく なりて 候も 羅什の 故なり.

これ わたくしの ぎには あらず.
此れ 私の 義には あらず.

かんつうでんに いわく 「ぜつごこうぜん」と うんぬん.
感通伝に 云く 「絶後光前」と 云云.

まえを てらすと もうすは ごかん より こうしん までの やくしゃ.
前を 光らすと 申すは 後漢 より 後秦 までの 訳者.

あとを ぜっすと もうすは らじゅう いご ぜんむい こんごうち ふくう とうも.
後を 絶すと 申すは 羅什 已後 善無畏 金剛智 不空 等も.

らじゅうの さとりを うけて すこし こざかしく そうろう なり.
羅什の 智を うけて すこし こざかしく 候 なり.

かんつうでんに いわく 「いげの しょにん ならびに みな あやまつ こと」 うんぬん.
感通伝に 云く 「已下の 諸人 並びに 皆 アヤマつ 事」 云云.

されば この ぼだいしんろんの ゆいの もじは たとい りゅうじゅの ろん なりとも ふくうの わたくしの ことば なり.
されば 此の 菩提心論の 唯の 文字は 設い 竜樹の 論 なりとも 不空の 私の 言 なり.

いかに いわんや つぎしもに 「しょきょうの なかに おいて かいて しょせず」と かかれて そうろう.
何に 況や 次下に 「諸教の 中に 於て 闕いて 書せず」と かかれて 候.

ぞんがいの あやまり なり.
存外の あやまり なり.

そくしんじょうぶつの てほんたる ほけきょうをば さしおいて.
即身成仏の 手本たる 法華経をば 指をいて.

あとかたも なき しんごんに そくしんじょうぶつを たて.
あとかたも なき 真言に 即身成仏を 立て.

あまつさえ ゆいの いちじを おかるる じょう てんか だいいちの びゃっけん なり.
剰え 唯の 一字を をかるる 条 天下 第一の 僻見 なり.

これ ひとえに しゅらこんじょうの ほうもん なり.
此れ 偏に 修羅根性の 法門 なり.

てんだいちしゃだいしの もんぐの 9に じゅりょうほんの こころを しゃくして いわく.
天台智者大師の 文句の 九に 寿量品の 心を 釈して 云く.

「ほとけ さんぜに おいて ひとしく さんじん あり.
「仏 三世に 於て 等しく 三身 有り.

しょきょうの なかに おいて ひして つたえず」と かかれて そうろう.
諸教の 中に 於て 之を 秘して 伝えず」と かかれて 候.

これこそ そくしんじょうぶつの みょうもん にては そうらえ.
此れこそ 即身成仏の 明文 にては 候へ.

→a1007

b1008

ふくうさんぞう この しゃくを けさんが ために ことを りゅうじゅに よせて.
不空三蔵 此の 釈を 消さんが 為に 事を 竜樹に 依せて.

「ただ しんごんの ほうの なかに のみ そくしんじょうぶつ するが ゆえに.
「唯 真言の 法の 中に のみ 即身成仏 するが 故に.

この さんまじの ほうを とく しょきょうの なかに おいて かいてしょせず」と かかれて そうろうなり.
是の 三摩地の 法を 説く 諸教の 中に 於て 闕いて 書せず」と かかれて 候なり.

されば この ろんの つぎしもに そくしんじょうぶつを かかれて そうろうが.
されば 此の 論の 次下に 即身成仏を かかれて 候が.

あえて そくしんじょうぶつには あらず しょうしんとくにんに にて そうろう.
あへて 即身成仏には あらず 生身得忍に 似て 候.

この ひとは そくしんじょうぶつは めずらしき ほうもんとは きかれて そうらえども.
此の 人は 即身成仏は めづらしき 法門とは きかれて 候へども.

そくしんじょうぶつの ぎは あえて うかがわぬ ひとびと なり.
即身成仏の 義は あへて うかがわぬ 人人 なり.

いかにも そうらえば にじょうさぶつ くおんじつじょうを とき たもうきょうに あるべき こと なり.
いかにも 候へば 二乗成仏 久遠実成を 説き 給う 経に あるべき 事 なり.

てんだいだいしの 「おしょきょうちゅう ひしふでん」の しゃくは せんだん せんだん きょう きょう.
天台大師の 「於諸教中 秘之不伝」の 釈は 千旦 千旦 恐恐.

げてん 3000よかんは せいどうの そうい せるに よって よは にごると あかす.
外典 三千余巻は 政当の 相違 せるに 依つて 代は 濁ると 明す.

ないてん 5000 7000 よかんは ぶっぽうの びゃっけんに よって よにごるべしと あかされて そうろう.
内典 五千 七千余巻は 仏法の 僻見に 依つて 代 濁るべしと あかされて 候.

いまの よは げてんにも そういし ないてんにも いはい せるかの ゆえに.
今の 代は 外典にも 相違し 内典にも 違背 せるかの ゆへに.

ふたつの だいか いっこくに おこりて すでに ぼうこくと ならんとし そうろうか.
二の 大科 一国に 起りて 已に 亡国と ならむとし 候か.

ふびん ふびん.
不便 不便.

しちがつ ふつか.
七月 二日.

にちれん かおう.
日蓮 花押.

おおたどのにょうぼう ごへんじ.
太田殿女房 御返事.

→a1008

 
→a1005
→c1005
 ホームページトップ
inserted by FC2 system