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日女御前御返事 (にちにょごぜん ごへんじ).
別名、御本尊相猊抄(ごほんぞん そうみょう しょう)
日蓮大 聖人 56歳御作.

 

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にちにょ ごぜん ごへんじ.
日女 御前 御返事.

けんじ 3年 8がつ 56さい おんさく.
建治 三年 八月 五十六歳 御作.

ごほんぞん くようの おんために.
御本尊 供養の 御為に.

がもく 5かん はくまい いちだ
鵞目 五貫 白米 一駄

かし そのかず おくり たび そうらい おわんぬ.
菓子 其の数 送り 給び 候い 畢んぬ.

そもそも この ごほんぞんは ざいせ 50ねんの なかには 8ねん.
抑 此の 御本尊は 在世 五十年の 中には 八年.

8ねんの あいだにも ゆじゅつぽんより ぞくるいほんまで 8ぽんに あらわれ たもう なり.
八年の 間にも 涌出品より 属累品まで 八品に 顕れ 給う なり.

さて めつごには しょうほう ぞうほう まっぽう のなかには.
さて 滅後には 正法 像法 末法 の中には.

しょうぞう にせんねん には.
正像 二千年 には.

いまだ ほんもんの ほんぞんと もうす なだにも なし.
いまだ 本門の 本尊と 申す 名だにも なし.

いかに いわんや あらわれ たまわん をや.
何に 況や 顕れ 給はん をや.

また あらわすべき ひとなし.
又 顕すべき 人なし.

てんだい みょうらく でんぎょう とうは うちには かんがみ たまえども ゆえこそ あるらめ.
天台 妙楽 伝教 等は 内には 鑒み 給へども 故こそ あるらめ.

ことばには いだし たまわず.
言には 出だし 給はず.

かの がんえんが ききしこと こころには さとると いえども.
彼の 顔淵が 聞きし事 意には さとると いへども.

ことばに あらわして いわざるが ごとし.
言に 顕して いはざるが 如し.

しかるに ぶつめつご 2000ねん すぎて.
然るに 仏滅後 二千年 過ぎて.

まっぽうの はじめの 500ねんに しゅつげん せさせ たまうべき よし.
末法の 始の 五百年に 出現 せさせ 給ふべき 由.

きょうもん かくかくたり みょうみょうたり.
経文 赫赫たり 明明たり.

てんだい みょうらく とうの かいしゃく ふんみょうなり.
天台 妙楽 等の 解釈 分明なり.

ここに にちれん いかなる ふしぎにてや そうろうらん.
爰に 日蓮 いかなる 不思議にてや 候らん.

りゅうじゅ てんじん とう てんだい みょうらく とう だにも.
竜樹 天親 等 天台 妙楽 等 だにも.

あらわし たまわざる だいまんだらを.
顕し 給はざる 大曼荼羅を.

まっぽう 200 よねんの ころ.
末法 二百 余年の 比.

はじめて ほっけぐずうの はたじるしと して あらわし たてまつるなり.
はじめて 法華弘通の はたじるしと して 顕し 奉るなり.

これ まったく にちれんが じさくに あらず.
是 全く 日蓮が 自作に あらず.

たほうとう ちゅうの だいむにせそん ぶんしんの しょぶつ.
多宝塔 中の 大牟尼世尊 分身の 諸仏.

すり かたぎたる ほんぞんなり.
すり かたぎたる 本尊なり.

されば しゅだいの ごじは ちゅうおうに かかり.
されば 首題の 五字は 中央に かかり.

しだいてんのうは ほうとうの しほうに ざし.
四大天王は 宝塔の 四方に 坐し.

しゃか たほう ほんげの しぼさつ かたを ならべ.
釈迦 多宝 本化の 四菩薩 肩を 並べ.

ふげん もんじゅ とう しゃりほつ もくれん とう ざを くっし.
普賢 文殊 等 舎利弗 目連 等 坐を 屈し.

にってん がってん だいろくてんのまおう りゅうおう あしゅら.
日天 月天 第六天の魔王 竜王 阿修羅.

そのほか ふどう あいぜんは なんぼくの にほうに じんを とり.
其の外 不動 愛染は 南北の 二方に 陣を 取り.

あくぎゃくの だった ぐちの りゅうにょ いちざを はり.
悪逆の 達多 愚癡の 竜女 一座を はり.

さんぜんせかいの ひとの じゅみょうを うばう あっきたる きしもじん じゅうらせつにょ とう.
三千世界の 人の 寿命を 奪ふ 悪鬼たる 鬼子母神 十羅刹女 等.

しかのみならず にほんこくの しゅごしん たる.
加之 日本国の 守護神 たる.

てんしょうだいじん はちまんだいぼさつ てんじんしちだい ちじんごだいの かみがみ.
天照太神 八幡大菩薩 天神七代 地神五代の 神神.

そうじて だいしょうの じんぎ とう たいの かみ つらなる.
総じて 大小の 神祇 等 体の 神 つらなる.

その よの ゆうの かみ あに もる べきや.
其の 余の 用の 神 豈 もる べきや.

ほうとうほんに いわく.
宝塔品に 云く.

もろもろの だいしゅを せっして みな こくうにあり うんぬん.
「諸の 大衆を 接して 皆虚空に 在り」 云云.

これらの ぶつ ぼさつ だいしょう とう そうじて.
此等の 仏 菩薩 大聖 等 総じて.

じょぼん れつざの にかい 8ばんの ざつしゅう とう いちにんも もれず.
序品 列坐の 二界 八番の 雑衆 等 一人ももれず.

この ごほんぞんの なかに じゅうし たまい.
此の 御本尊の 中に 住し 給い.

みょうほう  5じの こうみょうに てらされて ほんぬの  そんぎょうと なる.
妙法 五字の 光明に てらされて 本有の 尊形と なる.

これを ほんぞんとは もうすなり.
是を 本尊とは 申すなり.

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きょうに いわく しょほうじっそう これなり.
経に 云く 「諸法実相」 是なり.

みょうらく いわく.
妙楽 云く.

じっそうは かならず しょほう しょほうは かならず じゅうにょ.
「実相は 必ず 諸法 諸法は 必ず 十如.

ないし じっかいは かならず しんど うんぬん.
乃至 十界は 必ず 身土」云云.

また いわく じっそうの じんり ほんぬの みょうほうれんげきょう とう と うんぬん.
又 云く 「実相の 深理 本有の 妙法蓮華経」 等 と 云云.

でんぎょうだいし いわく.
伝教大師 云く.

いちねんさんぜん そく じじゅゆうしん じじゅゆうしんとは しゅつそんぎょうの ほとけ.
「一念三千 即 自受用身  自受用身とは 出尊形の 仏」文.

この ゆえに みぞうの だいまんだらとは なづけ たてまつる なり.
此の 故に 未曾有の 大曼荼羅とは 名付け 奉る なり.

ぶつめつご 2220 よねんには このごほんぞん いまだ しゅつげんし たまわずと いう ことなり.
仏滅後・二千二百二十 余年には 此の御本尊 いまだ 出現し 給はずと 云う 事なり.

かかる ごほんぞんを くようし たてまつり たまう にょにん.
かかる 御本尊を 供養し 奉り 給ふ 女人.

げんざいには さいわいを まねき.
現在には 幸を まねぎ.

ごしょうには この ごほんぞん さゆう ぜんごに たち そいて.
後生には 此の 御本尊 左右 前後に 立ち そひて.

やみに ともしびの ごとく.
闇に 燈の 如く.

けんなんの ところに ごうりきを えたるが ごとく.
険難の 処に 強力を 得たるが 如く.

かしこへ まわり ここへ より.
彼こへ まはり 此へ より.

にちにょごぜんを かこみ まもり たもう べきなり.
日女御前を かこみ まほり 給う べきなり.

あいかまえ あいかまえて とわりを わがやへ よせたくも なきように.
相構え 相構えて とわりを 我が家へ よせたくも なき様に.

ほうぼうの ものを せかせ たまうべし.
謗法の 者を せかせ 給うべし.

あくちしきを すてて ぜんゆうに しんごんせよ とはこれなり.
悪知識を 捨てて 善友に 親近せよ とは是なり.

この ごほんぞん まったく よそに もとむる ことなかれ.
此の 御本尊 全く 余所に 求る事 なかれ.

ただ われら しゅじょうの ほけきょうを たもちて.
只 我れ等 衆生の 法華経を 持ちて.

なんみょうほうれんげきょうと となうる きょうちゅうの にくだんに おわします なり.
南無妙法蓮華経と 唱うる 胸中の 肉団に おはします なり.

これを くしき しんのう しんにょの みやこ とは もうす なり.
是を 九識 心王 真如の 都 とは 申す なり.

じっかいぐそくとは じっかい いっかいも かけず いっかいに あるなり.
十界具足とは 十界 一界も かけず 一界に あるなり.

これに よって まんだらとは もうすなり.
之に 依つて 曼陀羅とは 申すなり.

まんだらと いうは てんじゅくの ななり.
曼陀羅と 云うは 天竺の 名なり.

ここには りんえんぐそくとも  くどくじゅとも なづくる なり.
此には 輪円具足とも 功徳聚とも 名くる なり.

この ごほんぞんも ただ しんじんの にじに おさまれり.
此の 御本尊も 只 信心の 二字に をさまれり.

いしんとくにゅう とは これなり.
以信得入 とは 是なり.

にちれんが でし だんな とう.
日蓮が 弟子 檀那 等.

しょうじきしゃほうべん  ふじゅよきょう いちげと.
正直捨方便 不受余経 一偈と.

むにに しんずる ゆえに よって.
無二に 信ずる 故に よつて.

この ごほんぞんの ほうとうの なかへ いる べきなり.
此の 御本尊の 宝塔の 中へ 入る べきなり.

たのもし たのもし.
たのもし たのもし.

いかにも ごしょうを たしなみ たもうべし たしなみ たもうべし.
如何にも 後生を たしなみ 給ふべし たしなみ 給ふべし.

あなかしこ なんみょうほうれんげきょうと ばかり となえて ほとけになるべき こと もっとも たいせつなり.
穴賢・南無妙法蓮華経と ばかり 唱へて 仏になるべき 事 尤も 大切なり.

しんじんの こうはくに よるべきなり.
信心の 厚薄に よるべきなり.

ぶっぽうの こんぽんは しんを もって みなもと とす.
仏法の 根本は 信を 以て 源 とす.

されば しかんの 4に いわく.
されば 止観の 四に 云く.

ぶっぽうは うみの ごとし ただ しん のみ よく いる」と.
「仏法は 海の 如し 唯 信 のみ 能く 入る 」と.

ぐけつの 4に いわく.
弘決の 四に 云く.

ぶっぽうは うみの ごとし ただ しん のみ よく いる とは こうきゅうの ことば.
「仏法は 海の 如し 唯 信 のみ 能く 入る とは 孔丘の 言.

なお しんを はじめと なす.
尚 信を 首と 為す.

いわんや ぶっぽうの じんりをや しん なくして むしろ いらんや.
況や 仏法の 深理をや 信 無くして 寧ろ 入らんや.

ゆえに けごんに しんを どうの もと くどくの はは となす とう.
故に 華厳に 信を 道の 元 功徳の 母と 為す」 等.

また しの いちに いわく.
又 止の 一に 云く.

いかんが えんの ほうを きき えんの しんを おこし えんの ぎょうを たて えんの くらいに じゅうせん.
「何が 円の 法を 聞き 円の 信を 起し 円の 行を 立て 円の 位に 住せん」.

ぐのいちに いわく.
弘の一に 云く.

えんしん というは りに よって しんを おこす しんを ぎょうの もとと なす うんぬん.
「円信と 言うは 理に 依つて 信を 起す 信を 行の 本と 為す」 云云.

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げてんに いわく.
外典に 云く.

かんおう しんの せつを しんぜしかば かわかみの なみ たちまちに こおり.
「漢王 臣の 説を 信ぜしかば 河上の 波 忽ちに 冰り.

りこう ちちの あだを おもいしかば  そうちゅうの いし はねを のむと いえり.
李広 父の 讎を 思いしかば 草中の 石 羽を 飲む」と 云えり.

しょせん てんだい みょうらくの しゃく ふんみょうに しんを もって もとと せり.
所詮 天台 妙楽の 釈 分明に 信を 以て 本と せり.

かの かんおうも うたがわずして だいじんの ことばを しんぜ しかば たつなみ こおり ゆく ぞかし.
彼の 漢王も 疑はずして 大臣の ことばを 信ぜ しかば 立波 こほり 行く ぞかし.

いしに やの たつ これ また ちちの かたきと おもいし ししんの ゆえなり.
石に 矢の たつ 是れ 又 父の かたきと 思いし 至信の 故なり.

いかに いわんや ぶっぽうに おいて をや ほけきょうを うけ たもちて.
何に 況や 仏法に おいて をや 法華経を 受け 持ちて.

なんみょうほうれんげきょうと となうる そく ごしゅの しゅぎょうを ぐそく するなり.
南無妙法蓮華経と 唱うる 即 五種の 修行を 具足 するなり.

この こと でんぎょうだいし にゅうとうして どうずいわじょうに あい たてまつりて.
此の 事 伝教大師 入唐して 道邃和尚に 値い 奉りて.

ごしゅとんしゅの みょうぎょうと いう ことを そうでんし たもうなり.
五種頓修の 妙行と 云う 事を 相伝し 給ふなり.

にちれんが でし だんなの かんよう これより ほかに もとむる こと なかれ.
日蓮が 弟子 檀那の 肝要 是より 外に 求る 事 なかれ.

じんりきほんに いわく くわしくは また また もうす べく そうろう.
神力品に 云く 委くは 又 又 申す 可く 候.

あなかしこ あなかしこ.
穴賢 穴賢.

けんじ 3ねん 8がつ 23にち.
建治 三年 八月 二十三日.

にちれん かおう.
日蓮 花押.

にちにょ ごぜん ごへんじ.
日女 御前 御返事.

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