b1431から1434.
浄蓮房御書 (じょうれんぼう ごしょ).
日蓮大聖人 54歳 御作.

 

b1431

じょうれんぼう ごしょ.
浄蓮房 御書.

けんじ がんねん 6がつ 54さい おんさく.
建治 元年 六月 五十四歳 御作.

さいみかたびら ひとつ おくりたび そうらい おわんぬ.
細美帷 一つ 送り 給び 候い 畢んぬ.

ぜんどうわしょうと もうす ひとは かんどに りんしと もうす くにのひと なり.
善導和尚と 申す 人は 漢土に 臨シと 申す 国の 人 なり.

ようしょうの とき みっしゅうと もうす くにの みょうしょうと もうす ひとを しと せしが.
幼少の 時 密州と 申す 国の 明勝と 申す 人を 師と せしが.

かの そうは ほけきょうと じょうみょうきょうを そんちょうして.
彼の 僧は 法華経と 浄名経を 尊重して.

われも どくじゅし ひとをも すすめ しかば ぜんどうに これを おしゆ.
我も 読誦し 人をも すすめ しかば 善導に 此れを 教ゆ.

ぜんどう これを ならいて しの ごとく ぎょうぜし ほどに.
善導 此れを 習いて 師の 如く 行ぜし 程に.

かこの しゅうじゅうにや ありけん.
過去の 宿習にや 有りけん.

あんじて いわく ぶっぽうには むりょうの ぎょう あり.
案じて 云く 仏法には 無量の 行 あり.

きに したがいて みな りやく あり.
機に 随いて 皆 利益 あり.

おしえ いみじと いえども きに あたらざれば むなしきが ごとし.
教 いみじと いへども 機に あたらざれば 虚きが ごとし.

されば われ ほけきょうを ぎょうずるは.
されば 我れ 法華経を 行ずるは.

わが きに かなわずは いかんが あるべかるらん.
我が 機に 叶はずは いかんが 有るべかるらん.

きょうには よる べからずと おもいて いっさいきょうぞうに いり.
教には 依る べからずと 思いて 一切経蔵に 入り.

りょうがんを とじて きょうを とる.
両眼を 閉ぢて 経を とる.

かんむりょうじゅきょうを えたり.
観無量寿経を 得たり.

ひけん すれば この きょうに いわく.
披見 すれば 此の 経に 云く.

「みらいせの ぼんのうの ぞくに がいせらるる ものの ため しょうじょうの ごうを とく」とう うんぬん.
「未来世の 煩悩の 賊に 害せらるる 者の 為 清浄の 業を 説く」等 云云.

けごんきょうは にじょうの ため ほけきょう ねはんぎょう とうは 5じょうに わたれども.
華厳経は 二乗の ため 法華経 涅槃経 等は 五乗に わたれども.

たいしは しょうにんの ためなり.
たいしは 聖人の ためなり.

まっぽうの われらが ためなる きょうは ただ かんぎょうに かぎれり.
末法の 我等が 為なる 経は 唯 観経に かぎれり.

しゃくそん さいごの ゆいごんには ねはんぎょうには すぐべからず.
釈尊 最後の 遺言には 涅槃経には すぐべからず.

かの きょうには しちしゅの しゅじょうを つらねたり.
彼の 経には 七種の 衆生を 列ねたり.

だいいちは にゅうすい そく もつの いっせんだいにん なり.
第一は 入水 則 没の 一闡提人 なり.

しょうじの みずに いりしより このかた いまに いでず.
生死の 水に 入りしより 已来 いまに 出でず.

たとえば おおいしを たいかいに なげいれたるが ごとし.
譬へば 大石を 大海に 投入たるが ごとし.

み おもくして うかぶ ことを ならわず.
身 重くして 浮ぶ ことを 習はず.

つねに かいていに あり これを じょうもつと なづく.
常に 海底に 有り 此れを 常没と 名く.

だい2をば しゅっちふもつと もうす.
第二をば 出已復没と 申す.

たとえば みに ちから ありとも うかぶことを ならわざれば いで おわって また いりぬ.
譬へば 身に 力 有りとも 浮ぶことを ならはざれば 出で 已つて 復入りぬ.

これは だいいちの いっせんだいの ひとには あらねども いっせんだいの ごとし.
此れは 第一の 一闡提の 人には 有らねども 一闡提の ごとし.

また じょうもつと なづく.
又 常没と 名く.

だい3は しゅっちふもつと もうす.
第三は 出已不没と 申す.

しょうじの かわを いでてより このかた ぼっする ことなし.
生死の 河を 出でてより このかた 没する ことなし.

これは しゃりほつとうの しょうもん なり.
此れは 舎利弗 等の 声聞 なり.

だい4は しゅっちそくじゅう だい5は かんぽう だい6は せんしょ だい7は とうひがん とうなり.
第四は 出已即住、 第五は 観方、 第六は 浅処、第七は 到彼岸 等なり.

だい4 だい5 だい6 だい7は えんかく ぼさつ なり.
第四 第五 第六 第七は 縁覚 菩薩 なり.

しゃかにょらい よに いでさせ たまいて いちだい 5じの きょうぎょうを とき たまいて.
釈迦如来 世に 出でさせ 給いて 一代 五時の 経経を 説き 給いて.

だいさん いじょうの ひとびとを すくい たまい おわんぬ.
第三 已上の 人人を 救い 給い 畢んぬ.

だい1は すてさせ たまいぬ.
第一は 捨てさせ 給いぬ.

ほうぞうびく あみだぶつ これを うけとって しじゅうはちがんを はっして むかえ とらせ たもう.
法蔵比丘 阿弥陀仏 此れを うけとつて 四十八願を 発して 迎え とらせ 給う.

じっぽうさんぜの ほとけと しゃかぶつとは だい3 いじょうの いっさいしゅじょうを すくい たもう.
十方三世の 仏と 釈迦仏とは 第三 已上の 一切衆生を 救い 給う.

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b1432

あみだぶつは だい1 だい2を むかえ とらせ たもう.
あみだ仏は 第一 第二を 迎え とらせ 給う.

しかるに いま まつだいの ぼんぷは だい1 だい2に あいあたれり.
而るに 今 末代の 凡夫は 第一 第二に 相当れり.

しかるを じょうようだいし てんだいだいし とうの たしゅうの にんしは このことを わきまえずして.
而るを 浄影大師 天台大師 等の 他宗の 人師は 此の 事を 弁えずして.

くほんの じょうどに しょうにんも うまると おもえり.
九品の 浄土に 聖人も 生ると 思へり.

あやまりが なかの あやまり なり.
誤りが 中の 誤り なり.

いっこう まつだいの ぼんぷの なかに かみ3ぼんは ぐうだい.
一向 末代の 凡夫の 中に 上三品は 遇大.

はじめて だいじょうに あえる ぼんぷ.
始めて 大乗に 値える 凡夫.

ちゅうの 3ぼんは ぐうしょう はじめて しょうじょうに あえる ぼんぷ.
中の 三品は 遇小 始めて 小乗に 値へる 凡夫.

げの さんぼんは ぐうあく いっしょうぞう あくむけんひほうの あらぼんぷ.
下の 三品は 遇悪 一生造 悪無間非法の 荒凡夫.

りんじゅうの とき はじめて かみの しちしゅの しゅじょうを わきまえたる ちじんに いきあいて.
臨終の 時 始めて 上の 七種の 衆生を 弁えたる 智人に 行きあひて.

きしの かみの きょうぎょうを うちすてて みずに おぼるるの きを すくわせ たもう.
岸の 上の 経経を うちすてて 水に 溺るるの 機を 救はせ 給う.

かんぎょうの げほん げしょうの だいあくぎょうに なむあみだぶつを さずけたり.
観経の 下品 下生の 大悪業に 南無阿弥陀仏を 授けたり.

されば われ いっさいきょうを みるに ほけきょう とうは まつだいの きには せんちゅうむいち なり.
されば 我れ 一切経を 見るに 法華経 等は 末代の 機には 千中無一 なり.

だい1 だい2の われら しゅじょうは だい3 いじょうの きの ために とかれて そうろう.
第一 第二の 我等 衆生は 第三 已上の 機の 為に 説かれて 候.

ほけきょう とうを まつだいに しゅぎょう すれば みは くるしんで えきなしと もうして.
法華経 等を 末代に 修行 すれば 身は 苦しんで 益なしと 申して.

ぜんどうわしょうは たちどころに ほけきょうを なげすてて かんぎょうを ぎょうぜしかば.
善導和尚は 立所に 法華経を 抛げすてて 観経を 行ぜしかば.

さんまい ほっとくして あみだぶつに けんざんして.
三昧 発得して 阿弥陀仏に 見参して.

かさねて この ほうもんを わたしたもう 4じょうの しょ これなり.
重ねて 此の 法門を 渡し給う 四帖の 疏 是なり.

どうの いわく 「しかるに しょぶつの だいひは く なるものに おいて.
導の 云く 「然るに 諸仏の 大悲は 苦 なる者に 於て.

こころ ひとえに じょうもつの しゅじょうを みんねん す.
心 偏に 常没の 衆生を 愍念 す.

これを もって すすめて じょうどに きせしむ.
是を 以て 勧めて 浄土に 帰せしむ.

また みずに おぼるる ひとの ごとく きゅうに すべからく ひとえに すくうべし.
亦 水に 溺るる 人の 如く 急に 須く 偏に 救うべし.

がんじょうの もの なんぞ もちいて すくうことを なさん」と うんぬん.
岸上の 者 何ぞ 用いて 済うことを 為さん」と 云云.

また いわく 「しんじんと いえるは すなわち これ じんしんの こころ なり.
又 云く 「深心と 言えるは 即ち 是れ 深信の 心 なり.

また 2しゅ あり.
亦 二種 有り.

ひとつには けつじょうして じしんは まさに これ ざいあく しょうじの ぼんぷ なり.
一には 決定して 自身は 現に 是れ 罪悪 生死の 凡夫 なり.

こうごう より いらい つねに ぼっし つねに るてんして しゅつりの えん あること なしと じんしん す」.
曠劫 より 已来 常に 没し 常に 流転して 出離の 縁 有ること 無しと 深信 す」.

また いわく 「ふたつには けつじょうして.
又 云く 「二には 決定して.

かの あみだぶつの しじゅうはちがんは しゅじょうを しょうじゅし たもうこと うたがい なく.
彼の 阿弥陀仏の 四十八願は 衆生を 摂受し たもうこと 疑 無く.

おもんぱかり なく かの がんりきに じょうずれば さだめて おうじょうを えると じんしん す」 うんぬん.
慮り 無く 彼の 願力に 乗ずれば 定めて 往生を 得ると 深信す」 云云.

しゃくの こころは かみに かきあらわして そうろう.
此の 釈の 心は 上に かき顕して 候.

じょうどしゅうの かんじんと もうすは これなり.
浄土宗の 肝心と 申すは 此れなり.

われら まつだいの ぼんぷは ねはんぎょうの だい1 だい2 なり.
我等 末代の 凡夫は 涅槃経の 第一 第二 なり.

さるときに しゃかぶつの おしえには しゅつりの えん あること なし.
さる時に 釈迦仏の 教には 出離の 縁 有ること 無し.

ほうぞうびくの ほんがんにては 「じょうとくおうじょうと しるを さんしんの なかの じんしんとは もうすなり」とう うんぬん.
法蔵比丘の 本願にては 「定得往生と 知るを 三心の 中の 深心とは 申すなり」等 云云.

これまた どうわしょうの しぎには あらず.
此又 導和尚の 私義には 非ず.

しゃくぜんじと もうせし ひとの ねはんぎょうを 24へん こうぜしが.
綽禅師と 申せし 人の 涅槃経を 二十四反 かうぜしが.

どんらんほっしの ひの もんを みて たちどころに ねはんぎょうを すてて.
曇鸞法師の 碑の 文を 見て 立所に 涅槃経を 捨てて.

かんぎょうに うつりて のち この ほうもんを どうには おしえて そうろうなり.
観経に 遷りて 後 此の 法門を 導には 教えて 候なり.

らんほっしと もうせし ひとは せいの よの ひと なり.
鸞法師と 申せし 人は 斉の 代の 人 なり.

かんどにては ときに どっぽの ひと なり.
漢土にては 時に 独歩の 人 なり.

はじめには しろんと ねはんぎょうとを こうぜしが.
初には 四論と 涅槃経とを かうぜしが.

ぼだいるしと もうす さんぞうに あいて しろんと ねはんを すて.
菩提流支と 申す 三蔵に 値いて 四論と 涅槃を 捨て.

かんぎょうに うつりて おうじょうを とげし ひと なり.
観経に 遷りて 往生を とげし 人 なり.

さんだいが あいだ つたえて そうろう ほうもん なり.
三代が 間 伝えて 候 法門 なり.

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b1433

かんど にほんには はっしゅうを ならう ちじんも.
漢土 日本には 八宗を 習う 智人も.

しょうほう すでに すぎて ぞうほうに いり しかば.
正法 すでに 過ぎて 像法に 入り しかば.

かしこき ひとびとは みな じしゅうを すてて じょうどの ねんぶつに うつりし こと これなり.
かしこき 人人は 皆 自宗を 捨てて 浄土の 念仏に 遷りし 事 此なり.

にほんこくの いろはわ てんだいさんの えしんの おうじょうようしゅう これなり.
日本国の いろはは 天台山の 慧心の 往生要集 此なり.

さんろんの ようかんが じゅういん おうじょうこうのしき これらは.
三論の 永観が 十因 往生講の式 此等は.

みな この ほうもんを うかがい えたる ひとびと なり.
皆 此の 法門を うかがい 得たる 人人 なり.

ほうねんしょうにんも また しかなり うんぬん.
法然上人も 亦 爾なり 云云.

にちれん いわく このぎを ぞんずる ひとびとらも.
日蓮 云く 此の 義を 存ずる 人人等も.

ただ こうがの だい1 だい2は いっこう じょうどのきと うんぬん.
但 恒河の 第一 第二は 一向 浄土の機と 云云.

これ この ほうもんの かんようか.
此れ 此の 法門の 肝要か.

にちれん ねはんぎょうの 32と 36を ひらきみるに.
日蓮 涅槃経の 三十二と 三十六を 開き見るに.

だい1は ひぼうしょうほうの いっせんだい じょうもつの たいぎょと なづけたり.
第一は 誹謗正法の 一闡提 常没の 大魚と 名けたり.

だい2は また じょうもつ その だい2の ひとを いださば だいばだった くぎゃり ぜんしょうら なり.
第二は 又 常没 其の 第二の 人を 出ださば 提婆達多 瞿伽梨 善星等 なり.

これは ひぼう ごぎゃくの ひとびと なり.
此れは 誹謗 五逆の 人人 なり.

せんずる ところ だい1 だい2は ほうぼうと ごぎゃく なり.
詮ずる 所 第一 第二は 謗法と 五逆 なり.

ほうぞうびくの「たとい われ ほとけを えんに じっぽうしゅじょう.
法蔵比丘の 「設い 我 仏を 得んに 十方衆生.

ししんに しんぎょうして わが くにに うまれんと ほっし.
至心に 信楽して 我が 国に 生れんと 欲し.

ないし じゅうねんして もし しょうぜずんば しょうかくを とらじ.
乃至 十念して 若し 生ぜずんば 正覚を 取らじ.

ただ ごぎゃくと ひぼうしょうほうとを のぞく」 うんぬん.
唯 五逆と 誹謗正法とを 除く」 云云.

この がんの ごときんば ほうぞうびくは ごうがの だい1 だい2を すてはてて こそ そうらいぬれ.
此の 願の 如きんば 法蔵比丘は 恒河の 第一 第二を 捨てはてて こそ 候いぬれ.

どうわしょうの ごとく ならば まつだいの ぼんぷ あみだぶつの ほんがんには せんちゅうむいち なり.
導和尚の 如く ならば 末代の 凡夫 阿弥陀仏の 本願には 千中無一 なり.

ほけきょうの けっきょうたる ふげんきょうには ごぎゃくと ひぼう.
法華経の 結経たる 普賢経には 五逆と 誹謗.

しょうほうは いちじょうの きと さだめ たまいたり.
正法は 一乗の 機と 定め 給いたり.

されば まつだいの ぼんぷの ためには ほけきょうは じっそくじっしょう ひゃくそくひゃくしょう なり.
されば 末代の 凡夫の 為には 法華経は 十即十生 百即百生 なり.

ぜんどうわしょうが ぎに ついて もうす せんは しあんには あらず.
善導和尚が 義に 付いて 申す 詮は 私案には あらず.

あみだぶつは むじょうねんおう たりしとき しゃばせかいは すでに すて たまいぬ.
阿弥陀仏は 無上念王 たりし時 娑婆世界は 已に すて 給いぬ.

しゃかにょらいは ほうかいぼんじとして この にんどを とり たまい おわんぬ.
釈迦如来は 宝海梵志として 此の 忍土を 取り 給い 畢んぬ.

じっぽうの じょうどには ひぼう しょうほうと ごぎゃくと いっせんだいとをば.
十方の 浄土には 誹謗 正法と 五逆と 一闡提とをば.

むかう べからずと あみだぶつ じっぽうの ほとけ ちかい たまいき.
迎う べからずと 阿弥陀仏 十方の 仏 誓い 給いき.

ほうかいぼんじの がんに いわく.
宝海梵志の 願に 云く.

「すなわち じっぽうじょうどの ひんしゅつの しゅじょうを あつめて われ まさに これを どすべし」 うんぬん.
「即ち 十方浄土の 擯出の 衆生を 集めて 我 当に 之を 度すべし」云云.

ほけきょうに いわく 「だた われ ひとり のみ よく くごを なす」とう うんぬん.
法華経に 云く 「唯 我 一人 のみ 能く 救護を 為す」等 云云.

ゆいがいちにんの きょうもんは かたきように そうらえども.
唯我一人の 経文は 堅きやうに 候へども.

しゃかにょらいの じぎには あらず.
釈迦如来の 自義には あらず.

あみだぶつとうの しょぶつ われと しゃばせかいを すて しかば.
阿弥陀仏 等の 諸仏 我と 娑婆世界を 捨て しかば.

きょうしゅ しゃくそん ゆいがいちにんと ちかって.
教主 釈尊 唯我一人と 誓つて.

すでに しゃばせかいに いで たまいぬる うえは なにをか うたがい そうろうべき.
すでに 娑婆世界に 出で 給いぬる 上は なにをか 疑い 候べき.

らん しゃく どう しん かん ねん とうの 6にんの ひとびとは ちしゃ なり.
鸞 綽 導 心 観 然 等の 六人の 人人は 智者 なり.

にちれんは ぐしゃ なり ひがくしょう なり.
日蓮は 愚者 なり 非学生 なり.

ただし かみの 6にんは いずれの くにの ひとぞ.
但し 上の 六人は 何れの 国の 人ぞ.

さんがいの ほかの ひとか 6どうの ほかの しゅじょうか.
三界の 外の 人か 六道の 外の 衆生か.

あみだぶつに あいたてまつりて しゅっけ じゅかいして しゃもんと なりたる そう か.
阿弥陀仏に 値い奉りて 出家 受戒して 沙門と なりたる 僧 か.

いまの ひとびとは まさかど すみとも きよもり よしとも とうには しゅしょうも およばず いとくも たらず.
今の 人人は 将門 純友 清盛 義朝 等には 種性も 及ばず 威徳も 足らず.

こころの ごうさは もうすばかり なけれども ちょうてきと なりぬれば.
心の がうさは 申すばかり なけれども 朝敵と なりぬれば.

その ひと ならざる ひとびとも まさかどか すみともかと したに うちからみて もうせども.
其の 人 ならざる 人人も 将門か 純友かと 舌に うちからみて 申せども.

かの しそん とうも とがめず.
彼の 子孫 等も とがめず.

よしとも なんど もうすは こ うたいしょうけの ちちぎみ なり.
義朝 なんど 申すは 故 右大将家の 慈父 なり.

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こを うやまい まいらせば ちちを こそ うやまい まいらせ そうろうべきに.
子を 敬い まいらせば 父を こそ 敬い まいらせ 候べきに.

いかなる ひとびとも よしとも ためとも なんど もうすぞ.
いかなる 人人も 義朝 為朝 なんど 申すぞ.

これ すなわち おうほうの おもく ぎゃくしんの つみの むくい なり.
此れ 則 王法の 重く 逆臣の 罪の むくゐ なり.

かみの 6にんも また かくの ごとし.
上の 六人も 又 かくの ごとし.

しゃかにょらい よに いでさせ たまいて いちだいの しょうきょうを とき おかせ たもう.
釈迦如来 世に 出でさせ 給いて 一代の 聖教を 説き をかせ 給う.

50ねんの せっぽうを われと あつめて.
五十年の 説法を 我と 集めて.

せんじん しょうれつ こもう しんじつを さだめて.
浅深 勝劣 虚妄 真実を 定めて.

40よねんは いまだ しんじつを あらわさず いこんとう だい1 とうととかせ たまい しかば.
四十余年は 未だ 真実を 顕さず 已今当 第一 等と 説かせ 給い しかば.

たほう じっぽうの ほとけ しんじつ なりと かはん せさせ たまいて さだめおかれて そうろうを.
多宝 十方の 仏 真実 なりと 加判 せさせ 給いて 定めをかれて 候を.

かの 6にんは みけんしんじつの かんぎょうに よりて みな これ しんじつの ほけきょうを.
彼の 六人は 未顕真実の 観経に 依りて 皆 是れ 真実の 法華経を.

だい1 だい2の あくにんの ためには あらずと もうさば.
第一 第二の 悪人の 為には あらずと 申さば.

いまの ひとびとは かれに すかされて すうねんを へたる ゆえに.
今の 人人は 彼に すかされて 数年を 経たる ゆへに.

まさかど すみともらが しょじゅう とう かれを もちいざりし ひゃくしょう とうを.
将門 純友 等が 所従 等 彼を 用いざりし 百姓 等を.

あるいは きり あるいは うち なんど せしが ごとし.
或は 切り 或は 打ち なんど せしが ごとし.

かれを おそれて したがいし なんにょは かんぐんに せめられて.
彼を おそれて 従いし 男女は 官軍に せめられて.

かの ひとびとと いちじに すいかの せめに あいしなり.
彼の 人人と 一時に 水火の せめに 値いしなり.

いま にほんこくの いっさいの しょぶつ ぼさつ いっさいの きょうをしんずる ようなれども.
今 日本国の 一切の 諸仏 菩薩 一切の 経を 信ずる やうなれども.

こころは かの 6にんの こころ なり.
心は 彼の 六人の 心 なり.

みは また かの 6にんの かじん なり.
身は 又 彼の 六人の 家人 なり.

かの まさかどらは かんぐんの むかわざりし ときは たいしょうの しょじゅう ぎょうちの ち.
彼の 将門等は 官軍の 向はざりし 時は 大将の 所従 知行の 地.

しばらく あんのん なりしよう なりしかども.
且らく 安穏 なりしやう なりしかども.

いちょくの せめ ちかづきしかば ところは しゅらどうと なり.
違勅の 責め 近づきしかば 所は 修羅道と なり.

だんしは ちゅうしゃの さかなを ほうるが ごとし.
男子は 厨者の 魚を ほふるが ごとし.

ほのおに いり みずに いりしなり.
炎に 入り 水に 入りしなり.

いま にほんこくも また かくの ごとし.
今 日本国も 又 かくの ごとし.

かの 6にんが びゃっけんに よって.
彼の 六人が 僻見に 依つて.

こんじょうには しゅごの ぜんじんに はなされて さんさいしちなんの くにと なり.
今生には 守護の 善神に 放されて 三災七難の 国と なり.

ごしょうには いちごうしょかんの しゅじょう なれば あびだいじょうの ほのおに いるべし.
後生には 一業所感の 衆生 なれば 阿鼻大城の 炎に 入るべし.

ほけきょうの だい5の まきに まつだいの ほけきょうの ごうてきを.
法華経の 第五の 巻に 末代の 法華経の 強敵を.

ほとけ しるし おきたまえるは 6つうのらかんの ごとしと うんぬん.
仏 記し 置き 給えるは 如六通羅漢と 云云.

かみの 6にんは そんき なること 6つうを げんずる らかんの ごとし.
上の 六人は 尊貴 なること 六通を 現ずる 羅漢の 如し.

しかるに じょうれんしょうにんの ちちおやは かれらの ひとびとの おんだんな なり.
然るに 浄蓮上人の 親父は 彼等の 人人の 御檀那 なり.

ぶっきょう まことならば むけんだいじょう うたがいなし.
仏教 実ならば 無間大城 疑いなし.

また くんの こころを のぶるは しん おやの くを やすむるは こ なり.
又 君の 心を 演ぶるは 臣 親の 苦を やすむるは 子 なり.

もっけんそんじゃは ひぼの がきの くを すくい.
目ケン尊者は 悲母の 餓鬼の 苦を 救い.

じょうぞうじょうげんは じふの じゃけんを ひるがえし たまいき.
浄蔵浄眼は 慈父の 邪見を 翻し 給いき.

ふぼの いたいは この しきしん なり.
父母の 遺体は 子の 色心 なり.

じょうれんしょうにんの ほけきょうを たもち たもう おんくどくは じふの おちから なり.
浄蓮上人の 法華経を 持ち 給う 御功徳は 慈父の 御力 なり.

だいばだったは あびじごくに おち しかども てんのうにょらいの きを おくり たまいき.
提婆達多は 阿鼻地獄に 堕ち しかども 天王如来の 記を 送り 給いき.

かれは ほとけと だいばと どうせい いっか なる ゆえなり.
彼は 仏と 提婆と 同性 一家 なる 故なり.

これは また じふ なり しそく なり.
此れは 又 慈父 なり 子息 なり.

じょうれんしょうにんの しょじの ほけきょう.
浄蓮上人の 所持の 法華経.

いかでか かの こ しょうりょうの くどくと ならざるべき.
いかでか 彼の 故 聖霊の 功徳と ならざるべき.

こと おおしと もうせども とどめ おわんぬ.
事 多しと 申せども 止め 畢んぬ.

3べん ひとに よませて きこしめせ.
三反 人に よませて きこしめせ.

きょうきょう きんげん.
恐恐 謹言.

6がつ 27にち.
六月 二十七日.

にちれん かおう.
日蓮 花押.

かえすがえす するがの ひとびと みな おなじ おんこころと もうさせたまい そうらへ.
返す返す するがの 人人 みな 同じ 御心と 申させ 給い 候へ.

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