b1493から1498.
南条兵衛七郎殿御書 (なんじょうひょうえしちろうどの ごしょ)
別名、慰労書 (いろうしょ).
日蓮大聖人 43歳 御作.

 

b1493

なんじょうひょうえしちろうどの ごしょ.
南条兵衛七郎殿 御書.

ぶんえい がんねん 12がつ 43さい おんさく.
文永 元年 十二月 四十三歳 御作.

あたう なんじょうひょうえしちろう.
与 南条兵衛七郎.

ごしょろうの よし うけたまわり そうろうは まことにてや そうろうらん.
御所労の 由 承り 候は まことにてや 候らん.

せけんの さだめ なき ことは やまい なき ひとも とどまりがたき ことに そうらえば.
世間の 定 なき 事は 病 なき 人も 留りがたき 事に 候へば.

まして やまい あらん ひとは もうすに およばず.
まして 病 あらん 人は 申すに およばず.

ただ こころ あらん ひとは ごせを こそ おもい さだむ べきにて そうらえ.
但 心 あらん 人は 後世を こそ 思い さだむ べきにて 候へ.

また ごせを おもい さだめん ことは わたくしには かないがたく そうろう.
又 後世を 思い 定めん 事は 私には かなひがたく 候.

いっさいしゅじょうの ほんしにて まします しゃくそんの おしえ こそもとには なり そうろうべけれ.
一切衆生の 本師にて まします 釈尊の 教 こそ 本には なり 候べけれ.

しかるに ほとけの おしえ まちまち なり.
しかるに 仏の 教へ 又 まちまち なり.

ひとの こころの ふじょう なる ゆえか.
人の 心の 不定 なる 故か.

しかれども しゃくそんの せっきょう 50ねんには すぎず.
しかれども 釈尊の 説教 五十年には すぎず.

さき しじゅうよねんの あいだの ほうもんに けごんきょうには しんぶつぎゅうしゅじょう ぜさんむさべつ.
さき 四十余年の 間の 法門に 華厳経には 心仏及衆生 是三無差別.

あごんきょうには く くう むじょう むが.
阿含経には 苦 空 無常 無我.

だいしつきょうには せんじょうゆうずう.
大集経には 染浄融通.

だいほんきょうには こんどうむに .
大品経には 混同無二.

そうかんきょう かんぎょう あみだきょう とうには おうじょうごくらく.
雙観経 観経 阿弥陀経 等には 往生極楽.

これらの せっきょうは みな しょうほう ぞうほう まっぽうの.
此等の 説教は 皆 正法 像法 末法の.

いっさいしゅじょうを すくわんが ために こそ とかれ はべりけんめ.
一切衆生を すくはんが ために こそ とかれ はべりけんめ.

しかれども ほとけ いかんが おぼしけん.
しかれども 仏 いかんが おぼしけん.

むりょうぎきょうに 「ほうべんの ちからを もって 40よねんには いまだ しんじつを あらわさず」と とかれて.
無量義経に 「方便の 力を 以て 四十余年には 未だ 真実を 顕さず」と 説かれて.

さき 40よねんの おうじょうごくらくとうの いっさいきょうは おやの せんぱんの ごとく.
先 四十余年の 往生極楽 等の 一切経は 親の 先判の ごとく.

くいかえされて 「むりょうむへん ふかしぎあそうぎこうを すぐるとも.
くひかへされて 「無量無辺 不可思議阿僧祇劫を 過ぐるとも.

ついに むじょうぼだいを じょうずる ことを えず」と いいきらせ たまいて.
終に 無上菩提を 成ずる ことを 得ず」と いゐきらせ 給いて.

ほけきょうの ほうべんぽんに かさねて.
法華経の 方便品に 重ねて.

「しょうじきに ほうべんを すて ただ むじょうの みちを とく」と とかせ たまえり.
「正直に 方便を 捨て 但 無上の 道を 説く」と 説かせ 給へり.

ほうべんを すてよと とかれて はべるは.
方便を すてよと とかれて はべるは.

40よねんの ねんぶつ とうを すてよと とかれて そうろう.
四十余年の 念仏 等を すてよと とかれて 候.

こう たしかに くいかえして じつぎを さだむるには.
かう たしかに くひかへして 実義を 定むるには.

「せそんの ほうは ひさしくして のち かならず まさに しんじつを とくべし」と いい.
「世尊の 法は 久くして 後 要当に 真実を 説くべし」と いひ.

「ひさしく この かなめを もくして いそいで すみやかに とかず」とうと さだめられ しかば.
「久しく 斯の 要を 黙して 務いで 速かに 説かず」等と 定められ しかば.

たほうぶつは だいち より わきいでさせ たまいて このこと しんじつなりと しょうじょうを くわえ.
多宝仏は 大地 より わきいでさせ 給いて この事 真実 なりと 証誠を くわへ.

じっぽうの しょぶつは はっぽうに あつまりて こうちょう ぜっそうをだいぼんてんぐうに つけさせ たもう.
十方の 諸仏は 八方に あつまりて 広長 舌相を 大梵天宮に つけさせ 給ふ.

2しょ 3かい 2かい 8ばんの しゅじょう ひとりも なく これを み そうらいき.
二処 三会 二界 八番の 衆生 一人も なく これを み 候いき.

これらの ふみを み そうろうに ぶっきょうを しんぜぬ あくにん げどうは さておき そうらいぬ.
此等の 文を み 候に 仏教を 信ぜぬ 悪人 外道は さておき 候いぬ.

ぶっきょうの なかに いり そうらいても にぜん ごんきょう ねんぶつとうを あつく しんじて.
仏教の 中に 入り 候ても 爾前 権教 念仏 等を 厚く 信じて.

じっぺん ひゃっぺん 1000べん いちまん 6まん とうを いちにちに はげみて.
十遍 百遍 千遍 一万 乃至 六万 等を 一日に はげみて.

10ねん 20ねんの あいだにも なんみょうほうれんげきょうと いっぺんだにも もうさぬ ひとびとは.
十年 二十年の あひだにも 南無妙法蓮華経と 一遍だにも 申さぬ 人人は.

せんぱんに ついて ごはんを もちいぬ ものにては そうろう まじきか.
先判に 付いて 後 判をもちゐぬ 者にては 候 まじきか.

→a1493

b1494

これらは ぶっせつを しんじたりげには わがみも ひとも おもいたりげに そうらえども.
此等は 仏説を 信じたりげには 我身も 人も 思いたりげに 候へども.

ぶっせつの ごとく ならば ふこうの ものなり.
仏説の 如く ならば 不孝の 者なり.

ゆえに ほけきょうの だい2に いわく.
故に 法華経の 第二に 云く.

「いま この 3かいは みな これ わが う なり.
「今 此の 三界は 皆 是れ 我が 有 なり.

その なかの しゅじょうは ことごとく これ わが こ なり.
其の 中の 衆生は 悉く 是れ 吾が 子 なり.

しかも いま この ところは もろもろの げんなん おおし.
而も 今 此の 処は 諸の 患難 多し.

ゆいがいちにん のみ よく くごを なす.
唯我一人 のみ 能く 救護を 為す.

また きょうしょうすと いえども しかも しんじゅ せず」とう うんぬん.
復 教詔すと 雖も 而も 信受 せず」等 云云.

この もんの こころは しゃかにょらいは われら しゅじょうには おやなり し なり しゅ なり.
此の 文の 心は 釈迦如来は 我等 衆生には 親 なり 師 なり 主 なり.

われら しゅじょうの ためには あみだぶつ やくしぶつ とうは.
我等 衆生の ためには 阿弥陀仏 薬師仏 等は.

しゅ にては ましませども おやと しとには ましまさず.
主 にては ましませども 親と 師とには ましまさず.

ひとり 3とくを かねて おん ふかき ほとけは しゃか いちぶつに かぎり たてまつる.
ひとり 三徳を かねて 恩 ふかき 仏は 釈迦 一仏に かぎり たてまつる.

おやも おやに こそよれ しゃくそん ほどの おや.
親も 親に こそよれ 釈尊 ほどの 親.

しも しに こそよれ しゅも しゅに こそよれ.
師も 師に こそよれ 主も 主に こそよれ.

しゃくそんほどの ししゅは ありがたく こそ はべれ.
釈尊 ほどの 師主は ありがたく こそ はべれ.

この おやと しと しゅとの おおせを そむかんもの.
この 親と 師と 主との 仰せを そむかんもの.

てんじん ちぎに すてられ たてまつざらんや.
天神 地祇に すてられ たてまつらざらんや.

ふこう だいいちの ものなり.
不孝 第一の 者なり.

ゆえに また きょうしょうすと いえども しんじゅせず とうと とかれたり.
故に 雖復教詔而不信受等と 説かれたり.

たとい にぜんの きょうに つかせ たまいて ひゃくせんまんおっこう ぎょうぜ たもうとも.
たとひ 爾前の 経に つかせ 給いて 百千万億劫 行ぜさせ 給うとも.

ほけきょうを いっぺんも なんみょうほうれんげきょうと もうさせ たまわずば.
法華経を 一遍も 南無妙法蓮華経と 申させ 給はずば.

ふこうの ひと たる ゆえに さんぜじっぽうの しょうしゅうにも すてられ.
不孝の 人 たる 故に 三世 十方の 聖衆にも すてられ.

てんじん ちぎにも あだまれ たまわんか.
天神 地祇 にも あだまれ 給はんか.

たとえば ごぎゃく じゅうあく むりょうの あくを つくれる ひとも.
たとひ 五逆 十悪 無量の 悪を つくれる 人も.

こんだにも り なれば とくどう なること これあり.
根だにも 利 なれば 得道 なる事 これあり.

だいばだった おうくつまら とう これなり.
提婆達多 鴦崛摩羅 等 これなり.

たとえ こんどん なれども つみ なければ とくどう なること これあり.
たとひ 根鈍 なれども 罪 なければ 得道 なる事 これあり.

すりはんどく とう これなり.
須利槃特 等 是なり.

われら しゅじょうは こんの どん なること すりはんどくにも すぎ.
我等 衆生は 根の 鈍 なる事 すりはんどくにも すぎ.

もの いろ かたちを わきまえざる こと ようもくの ごとし.
物の いろ かたちを わきまへざる 事 羊目の ごとし.

とんじんち きわめて あつく じゅうあくは ひびに おかし.
貪瞋癡 きわめて あつく 十悪は 日日に をかし.

ごぎゃくをば おかさざれども ごぎゃくに にたる つみ また ひびに おかす.
五逆をば おかさざれども 五逆に 似たる 罪 又 日日に おかす.

また じゅうあく ごぎゃくに すぎたる ほうぼうは ひとごとに これあり.
又 十悪 五逆に すぎたる 謗法は 人毎に これあり.

させる ことばを もって ほけきょうを ぼうずる ひとは すくなけれども.
させる 語を 以て 法華経を 謗ずる 人は すくなけれども.

ひと ごとに ほけきょうをば もちいず.
人 ごとに 法華経をば もちゐず.

また もちいたるよう なれども ねんぶつ とうの ようには しんじん ふかからず.
又 もちゐたるやう なれども 念仏 等の やうには 信心 ふかからず.

しんじん ふかきものも ほけきょうの かたきをば せめず.
信心 ふかきものも 法華経の かたきをば せめず.

いかなる だいぜんを つくり ほけきょうを せんまんぶ よみ しょしゃし.
いかなる 大善を つくり 法華経を 千万部 読み 書写し.

いちねん3000の かんどうを えたる ひと なりとも.
一念三千の 観道を 得たる 人 なりとも.

ほけきょうの かたきだにも せめざれば とくどう ありがたし.
法華経の 敵をだにも せめざれば 得道 ありがたし.

たとえば ちょうに つかうる ひとの 10ねん 20ねんの ほうこう あれども.
たとへば 朝に つかふる 人の 十年 二十年の 奉公 あれども.

きみの かたきを しりながら そうも せず わたくしにも あだまずば.
君の 敵を しりながら 奏も せず 私にも あだまずば.

ほうこう みな うせて かえって とがに おこなわれんが ごとし.
奉公 皆 うせて 還つて とがに 行はれんが 如し.

→a1494

b1495

とうせいの ひとびとは ほうぼうの ものと しろしめすべし.
当世の 人人は 謗法の 者と しろしめすべし.

ほとけ にゅうめつの つぎの ひ より 1000ねんをば.
仏 入滅の 次の 日 より 千年をば.

しょうほうと もうして じかいの ひと おおく とくどうの ひと これあり.
正法と 申して 持戒の 人 多く 得道の 人 これあり.

しょうほう 1000ねんの のちは ぞうほう 1000ねん なり.
正法 千年の 後は 像法 千年 なり.

はかいの ものは おおく とくどう すくなし.
破戒の 者は 多く 得道 すくなし.

ぞうほう 1000ねんの のちは まっぽう まんねん なり.
像法 千年の 後は 末法 万年 なり.

じかいも なし はかいも なし むかいの もの のみ くにに じゅうまんせん.
持戒も なし 破戒も なし 無戒の 者 のみ 国に 充満せん.

しかも じょくせと もうして みだれたる よ なり.
而も 濁世と 申して みだれたる 世 なり.

しょうせと もうして すめる よには じきじょうの まがれる きを.
清世と 申して すめる 世には 直繩の まがれる 木を.

けずらする ように ひを すて これを もちうるなり.
けづらする やうに 非を すて 是を 用うるなり.

しょう ぞう より ごじょく ようよう いできたりて.
正 像 より 五濁 やうやう いできたりて.

まっぽうに なり そうらえば ごじょく さかりに すぎて.
末法に なり 候へば 五濁 さかりに すぎて.

おおかぜの おおなみを おこして きしを うつ のみならず.
大風の 大波を 起して 岸を 打つ のみならず.

また なみと なみとを うつなり.
又 波と 波とを うつなり.

けんじょくと もうすは しょう ぞう ようよう すぎぬれば.
見濁と 申すは 正 像 やうやう すぎぬれば.

わずかの じゃほうの ひとつを つたえて むりょうの しょうほうを やぶり.
わづかの 邪法の 一つを つたへて 無量の 正法を やぶり.

せけんの つみにて あくどうに おつる ものよりも.
世間の 罪にて 悪道に おつる ものよりも.

ぶっぽうに もって あくどうに おつる もの おおしと みえはんべり.
仏法を 以て 悪道に 堕つる もの 多しと みへはんべり.

しかるに とうせは しょうぞう 2000ねん すぎて まっぽうに いって 200よねん.
しかるに 当世は 正 像 二千年 すぎて 末法に 入つて 二百余年.

けんじょく さかりにして あく よりも ぜんこんにて.
見濁 さかりにして 悪 よりも 善根にて.

おおく あくどうに おつべき じこく なり.
多く 悪道に 堕つべき 時刻 なり.

あくは ぐちの ひとも あくと しれば したがわぬ へんも あり.
悪は 愚癡の 人も 悪と しれば したがはぬ 辺も あり.

ひを みずを もって けすが ごとし.
火を 水を 以て けすが 如し.

ぜんは ただ ぜんと おもう ほどに しょうぜんに ついて だいあくのおこる ことを しらず.
善は 但 善と 思ふ ほどに 小善に 付いて 大悪の 起る 事を しらず.

ゆえに でんぎょう じかく とうの しょうせき あり.
所以に 伝教 慈覚 等の 聖跡 あり.

すたれ あばるれども ねんぶつどうに あらずと いいて すておきて.
すたれ あばるれども 念仏堂に あらずと いひて すてをきて.

その かたわらに あたらしく ねんぶつどうを つくり.
その かたはらに あたらしく 念仏堂を つくり.

かの きしんの でんばたを とりて ねんぶつどうに よす.
彼の 寄進の 田畠を とりて 念仏堂に よす.

これらは ぞうほうけつぎきょうの もんの ごとく ならば くどく すくなしと みえはべり.
此等は 像法決疑経の 文の 如くならば 功徳 すくなしと みへはべり.

これらを もって しるべし.
これらを もつて しるべし.

ぜん なれども だいぜんを やぶる しょうぜんは あくどうに おつる なるべし.
善 なれども 大善を やぶる 小善は 悪道に 堕つる なるべし.

いまの よは まっぽうの はじめ なり.
今の 世は 末法の はじめ なり.

しょうじょうきょうの き ごんだいじょうきょうの き.
小乗経の 機 権大乗経の 機.

みな うせはてて ただ じつだいじょうの き のみあり.
皆 うせはてて 唯 実大乗経の 機 のみあり.

こぶねには おおいしを のせず.
小船には 大石を のせず.

あくにん ぐしゃは おおいしの ごとし.
悪人 愚者は 大石の ごとし.

しょうじょうきょう ならびに ごんだいじょうきょう ねんぶつ とうは こぶね なり.
小乗経 並に 権大乗経 念仏 等は 小船 なり.

だいあくそうの とうじ とうは やまい だい なれば しょうじ およばず.
大悪瘡の 湯治 等は 病 大 なれば 小治 およばず.

まつだい じょくせの われらには ねんぶつ とうはたとえば ふゆ たを つくるが ごとし.
末代 濁世の 我等には 念仏 等は たとへば 冬 田を 作るが 如し.

ときが あわざる なり.
時が あはざる なり.

くにを しるべし くにに したがって ひとの こころ ふじょう なり.
国を しるべし 国に 随つて 人の 心 不定 なり.

たとえば こうなんの たちばなの わいぼくに うつされて からたちと なる.
たとへば 江南の 橘の 淮北に うつされて からたちと なる.

こころ なき そうもく すら ところに よる.
心 なき 草木 すら ところに よる.

まして こころ あらんもの なんぞ ところに よらざらん.
まして 心 あらんもの 何ぞ 所に よらざらん.

→a1495

b1496

されば げんじょうさんぞうの さいいきと もうす もんに.
されば 玄奘三蔵の 西域と 申す 文に.

てんじくの くにぐにを おおく しるしたるに.
天竺の 国国を 多く 記したるに.

くにの ならい として ふこう なる くにも あり こうの こころ ある くにも あり.
国の 習 として 不孝 なる 国も あり 孝の 心 ある 国も あり.

しんにの さかん なる くにも あり ぐち おおき くにも あり.
瞋恚の さかん なる 国も あり 愚癡の 多き 国も あり.

いっこうに しょうじょうを もちいる くにも あり いっこう だいじょうを もちいる くにも あり.
一向に 小乗を 用る 国も あり 一向 大乗を 用る 国も あり.

だいしょう けんがく する くにも ありと みえはべり.
大小 兼学 する 国も ありと 見へ侍り.

また いっこうに せっしょうの くに いっこうに ちゅうとうの くに.
又 一向に 殺生の 国 一向に 偸盗の 国.

また こめの おおき くに また あわの おおき くに ふじょう なり.
又 穀の 多き 国 又 粟 等の 多き 国 不定 なり.

そもそも にほんこくは いかなる おしえを ならってか しょうじを はなるべき くにぞと かんがえたるに.
抑 日本国は いかなる 教を 習つてか 生死を 離るべき 国ぞと 勘えたるに.

ほけきょうに いわく 「にょらいの めつごに おいて えんぶだいの うちに ひろく るふ せしめ だんぜつ せざらしむ」とう うんぬん.
法華経に 云く 「如来の 滅後に 於て 閻浮提の 内に 広く 流布せしめ 断絶 せざらしむ」等 云云.

この もんの こころは ほけきょうは なんえんぶだいの ひとの ための うえんの きょう なり.
此の 文の 心は 法華経は 南閻浮提の 人の ための 有縁の 経 なり.

みろくぼさつの いわく「とうほうに しょうこく あり ただ だいき のみあり」とう うんぬん.
弥勒菩薩の 云く 「東方に 小国 有り 唯だ 大機 のみ有り」等 云云.

この ろんの もんの ごときは えんぶだいの うちにも.
此の 論の 文の 如きは 閻浮提の 内にも.

ひがしの しょうこくに だいじょうきょうの き あるか.
東の 小国に 大乗経の 機 あるか.

じょうこうの きに いわく「この てんは とうほくの しょうこくに うえん なり」とう うんぬん.
肇公の 記に 云く「コの 典は 東北の 小国に 有縁 なり」等 云云.

ほけきょうは とうほくの くにに えんありと かかれたり.
法華経は 東北の 国に 縁 ありと かかれたり.

あんねんわしょうの いわく 「わがにほんこく みな だいじょうを しんず」とう うんぬん.
安然和尚の 云く 「我が日本国 皆 大乗を 信ず」等 云云.

えしんの いちじょうようけつに いわく 「にほん いっしゅう えんきじゅんいち」とう うんぬん.
慧心の 一乗要決に 云く 「日本 一州 円機純一」等 云云.

しゃかにょらい みろくぼさつ しゅりやそまさんぞう らじゅうさんぞう.
釈迦如来 弥勒菩薩 須梨耶蘇摩三蔵 羅什三蔵.

そうじょうほっし あんねんわしょう えしんのせんとく とうの こころ ならば.
僧肇法師 安然和尚 慧心の先徳 等の 心 ならば.

にほんこくは じゅんに ほけきょうの き なり.
日本国は 純に 法華経の 機 なり.

いっく いちげ なりとも ぎょうぜば かならず とくどう なるべし.
一句 一偈 なりとも 行ぜば 必ず 得道 なるべし.

うえんの ほう なるが ゆえなり.
有縁の 法 なるが 故なり.

たとえば くろがねを じしゃくの すうが ごとし.
たとへば くろがねを 磁石の すうが 如し.

ほうしょの みずを まねくに にたり.
方諸の 水を まねくに にたり.

ねんぶつ とうの よぜんは むえんの くに なり.
念仏 等の 余善は 無縁の 国 なり.

じしゃくの かねを すわず ほうしょの みずを まねかざるが ごとし.
磁石の かねを すわず 方諸の 水を まねかざるが 如し.

ゆえに あんねんの しゃくに いわく.
故に 安然の 釈に 云く.

「もし じつじょうに あらずんば おそらくは じたを あざむかん」とう うんぬん.
「如 実乗に 非ずんば 恐らくは 自他を 欺かん」等 云云.

この しゃくの こころは にほんこくの ひとに ほけきょうにて なき ほうを さずくるもの.
此の 釈の 心は 日本国の 人に 法華経にて なき 法を さずくるもの.

わが みをも あざむき ひとをも あざむく ものと みえたり.
我が 身をも あざむき 人をも あざむく 者と 見えたり.

されば ほうは かならず くにを かんがみて ひろむべし.
されば 法は 必ず 国を かんがみて 弘むべし.

かの くにに よかりし ほう なれば かならず この くににも よかるべしとは おもう べからず.
彼の 国に よかりし 法 なれば 必ず 此の 国にも よかるべしとは 思う べからず.

また ぶっぽうるふの くにに おいても ぜんごを かんがうべし.
又 仏法流布の 国に おいても 前後を 勘うべし.

ぶっぽうを ひろむる ならい かならず さきに ひろめける ほうの さまを しるべきなり.
仏法を 弘むる 習い 必ず さきに 弘めける 法の 様を 知るべきなり.

れいせば びょうにんに くすりを あたうるには さきに ふくしたる くすりの さまを しるべし.
例せば 病人に 薬を あたふるには さきに 服したる 薬の 様を 知るべし.

くすりと くすりとが ゆきあいて あらそいを なし ひとを そんずる ことあり.
薬と 薬とが ゆき合いて あらそひを なし 人を そんずる 事あり.

ぶっぽうと ぶっぽうとが ゆきあいて あらそいを なして ひとを そんずる ことの あるなり.
仏法と 仏法とが ゆき合いて あらそひを なして 人を 損ずる 事の あるなり.

さきに げどうの ほう ひろまれる くに ならば ぶっぽうを もって これを やぶるべし.
さきに 外道の 法 弘まれる 国 ならば 仏法を もつて これを やぶるべし.

→a1496

b1497

ほとけの いんどに いでて げどうを やぶり.
仏の 印度に いでて 外道を やぶり.

まとうか じくほうらんの しんたんに きたって どうしを せめ.
まとうか ぢくほうらんの 震旦に 来つて 道士を せめ.

じょうぐうたいし わこくに うまれて もりやを きりしが ごとし.
上宮太子 和国に 生れて 守屋を きりしが 如し.

ぶっきょうに おいても しょうじょうの ひろまれる くにをば だいじょうきょうを もって やぶるべし.
仏教に おいても 小乗の 弘まれる 国をば 大乗経を もつて やぶるべし.

むじゃくぼさつの せしんの しょうじょうを やぶりしが ごとし.
無著菩薩の 世親の 小乗を やぶりしが 如し.

ごんだいじょうの ひろまれる くにをば じつだいじょうを もって これを やぶるべし.
権大乗の 弘まれる 国をば 実大乗を もつて これを やぶるべし.

てんだいちしゃだいしの なん3 ほくしちを やぶりしが ごとし.
天台智者大師の 南三 北七を やぶりしが 如し.

しかるに にほんこくは てんだい しんごんの 2しゅう ひろまりて いまに 400よさい.
而るに 日本国は 天台 真言の 二宗の ひろまりて 今に 四百余歳.

びく びくに うばそく うばいの ししゅう みな ほけきょうの きと さだまりぬ.
比丘 比丘尼 うばそく うばひの 四衆 皆 法華経の 機と 定りぬ.

ぜんじん あくにん うち むち みな 50てんでんの くどくを そなう.
善人 悪人 有智 無智 皆 五十展転の 功徳を そなふ.

たとえば こんろんざんに いし なく ほうらいざんに どく なきが ごとし.
たとへば 崑崙山に 石 なく 蓬ライ山に 毒 なきが 如し.

しかるを この 50よねんに ほうねんと いう だいほうぼうの もの いできたりて.
而るを 此の 五十余年に 法然と いふ 大謗法の 者 いできたりて.

いっさいしゅじょうを すかして たまに にたる いしを もって たまをなげさせ いしを とらせたる なり.
一切衆生を すかして 珠に 似たる 石を もつて 珠を 投させ 石を とらせたる なり.

しかんの 5に いわく 「がりゃくを たっとんで めいしゅ なりと もうす」は これなり.
止観の 五に 云く 「瓦礫を 貴んで 明珠 なりと 申す」は 是なり.

いっさいしゅじょう いしを にぎりて たまと おもう.
一切衆生 石を にぎりて 珠と おもふ.

ねんぶつを もうして ほけきょうを すてたる これなり.
念仏を 申して 法華経を すてたる 是なり.

このことをば もうせば かえって はらを たち ほけきょうの ぎょうじゃを のりて.
此の 事をば 申せば 還つて はらを たち 法華経の 行者を のりて.

ことに むけんの ごうを ますなり.
ことに 無間の 業を ますなり.

ただ とのは この ぎを きこしめして ねんぶつを すて.
但 とのは この ぎを きこしめして 念仏を すて.

ほけきょうに ならせ たまいて はべりしが.
法華経に ならせ 給いて はべりしが.

さだめて かえりて ねんぶつしゃにぞ ならせ たまいて はべるらん.
定めて かへりて 念仏者にぞ ならせ 給いて はべるらん.

ほけきょうを すてて ねんぶつしゃと ならせ たまわんは.
法華経を すてて 念仏者と ならせ 給はんは.

みねの いしの たにへ ころび そらの あめの ちに おつると おぼせ.
峯の 石の 谷へ ころび 空の 雨の 地に おつると おぼせ.

だいあびじごく うたがい なし.
大阿鼻地獄 疑 なし.

だいつうけつえんの ものの 3000じんてんごうを くおんげしゅの ものの500じんてんを へし こと.
大通結縁の 者の 三千塵点劫を 久遠下種の 者の 五百塵点を 経し 事.

だいあくちしきに あいて ほけきょうを すてて ねんぶつ とうの ごんきょうに うつりし ゆえなり.
大悪知識に あいて 法華経を すてて 念仏 等の 権教に うつりし 故なり.

いっかの ひとびと ねんぶつしゃにて ましましげに そうらいしかば.
一家の 人人 念仏者にて ましましげに 候いしかば.

さだめて ねんぶつをぞ すすめ まいらせ たまい そうろうらん.
さだめて 念仏をぞ すすめ まいらせ 給い 候らん.

わが しんじたる こと なれば それも どうりにては そうらえども.
我が 信じたる 事 なれば それも 道理にては 候へども.

あくまの ほうねんが いちるいに たぼらかされたる ひとびと なりと おぼして.
悪魔の 法然が 一類に たぼらかされたる 人人 なりと おぼして.

だいしんりきを おこし おんもちい あるべからず.
大信心を 起し 御用い あるべからず.

だいあくまは とうとき そうと なり.
大悪魔は 貴き 僧と なり.

ふぼ きょうだい とうに つきて ひとの ごせをば さわるなり.
父母 兄弟 等に つきて 人の 後世をば 障るなり.

いかに もうすとも ほけきょうを すてよと たばかりげに そうらわんをば おんもちい あるべからず.
いかに 申すとも 法華経を すてよと たばかりげに 候はんをば 御用い あるべからず.

まず ごきょうざく あるべし.
まづ 御きやうざく あるべし.

ねんぶつ まことに おうじょう すべき しょうもん つよくば.
念仏 実に 往生 すべき 証文 つよくば.

この 20ねんが あいだ ねんぶつしゃ むけんじごくと もうすをば.
此の 十二年が 間 念仏者 無間地獄と 申すをば.

いかなる ところへ もうし いだしても つめずして そうろうべきか.
いかなる ところへ 申し いだしても つめずして 候べきか.

よくよく よわき ことなり.
よくよく ゆはき 事なり.

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ほうねん ぜんどうらが かきおきて そうろう ほどの ほうもんは.
法然 善導等が かきをきて 候 ほどの 法門は.

にちれんらは じゅうしち 8の ときより しりて そうらいき.
日蓮らは 十七 八の 時より しりて 候いき.

このごろの ひとの もうすも これに すぎず.
このごろの 人の 申すも これに すぎず.

けっくは ほうもんは かなわずして よせて たたかいにし そうろうなり.
結句は 法門は かなわずして よせて たたかひにし 候なり.

ねんぶつしゃは すう1000まん かとうど おおく そうろうなり.
念仏者は 数千万 かたうど 多く 候なり.

にちれんは ただ ひとり かとうどは ひとりも これなし.
日蓮は 唯 一人 かたうどは 一人も これなし.

いままでも いきて そうろうは ふかしぎ なり.
今までも いきて 候は ふかしぎ なり.

ことしも 11がつ 11にち あわのくに とうじょうの まつばらと もうす おおじにして.
今年も 十一月 十一日 安房の国 東条の 松原と 申す 大路にして.

さるとりの とき すう100にんの ねんぶつらに まちかけられて そうらいて.
申酉の 時 数百人の 念仏等に まちかけられて 候いて.

にちれんは ただ ひとり 10にん ばかり.
日蓮は 唯 一人 十人 ばかり.

ものの ように あうものは わずかに 3 よにん なり.
ものの 要に あふものは わづかに 三 四人 なり.

いる やは ふる あめの ごとし.
いる やは ふる あめの ごとし.

うつ たちは いまずまの ごとし.
うつ たちは いなづまの ごとし.

でし ひとりは とうざに うちとられ ふたりは だいじの てにて そうろう.
弟子 一人は 当座に うちとられ 二人は 大事の てにて 候.

じしんも きられ うたれ けっくにて そうらいし ほどに いかが そうらいけん.
自身も きられ 打たれ 結句にて 候いし 程に いかが 候いけん.

うちもらされて いままで いきて はべり.
うちもらされて いままで いきて はべり.

いよいよ ほけきょう こそ しんじん まさり そうらえ.
いよいよ 法華経 こそ 信心 まさり 候へ.

だい4の まきに いわく.
第四の 巻に 云く.

「しかも この きょうは にょらいの げんざいすら なお おんしつ おおし.
「而も 此の 経は 如来の 現在すら 猶 怨嫉 多し.

いわんや めつどの のちをや」.
況や 滅度の 後をや」.

だい5の まきに いわく.
第五の 巻に 云く.

「いっさいせけん あだ おおくして しんじ がたし」とう うんぬん.
「一切世間 怨 多くして 信じ 難し」等 云云.

にほんこくに ほけきょうを よみ がくする ひと これ おおし.
日本国に 法華経 よみ 学する 人 これ 多し.

ひとの つまを ねらい ぬすみ とうにて うちはらるる ひとは おおけれども.
人の 妻を ねらひ ぬすみ 等にて 打はらるる 人は 多けれども.

ほけきょうの ゆえに あやまたるる ひとは ひとりも なし.
法華経の 故に あやまたるる 人は 一人も なし.

されば にほんこくの じきょうしゃは いまだ この きょうもんには あわせ そうらわず.
されば 日本国の 持経者は いまだ 此の 経文には あわせ 給はず.

ただ にちれん ひとり こそ よみはべれ.
唯 日蓮 一人 こそ よみはべれ.

がふあいしんみょう たんしゃくむじょうどう これなり.
我不愛身命 但惜無上道 是なり.

されば にちれんは にほん だいいちの ほけきょうの ぎょうじゃ なり.
されば 日蓮は 日本 第一の 法華経の 行者 なり.

もし さきに たたせ たまわば.
もし さきに たたせ 給はば.

ぼんてん たいしゃく してんのう えんまだいおう とうにも もうさせ たもうべし.
梵天 帝釈 四大天王 閻魔大王 等にも 申させ 給うべし.

にほん だいいちの ほけきょうの ぎょうじゃ にちれんぼうの でし なりと なのらせ たまえ.
日本 第一の 法華経の 行者 日蓮房の 弟子 なりと なのらせ 給へ.

よも ほうしん なき ことは そうらわじ.
よも はうしん なき 事は 候はじ.

ただ いちどは ねんぶつ いちどは ほけきょう となえつ.
但 一度は 念仏 一度は 法華経 となへつ.

にしん ましまし ひとの ききには ばかり なんど だにも そうらわば.
二心 ましまし 人の 聞には ばかり なんど だにも 候はば.

よも にちれんが でしと もうすとも おんもちい そうらわじ.
よも 日蓮が 弟子と 申すとも 御用ゐ 候はじ.

のちに うらみさせ たもうな.
後に うらみさせ 給うな.

ただし また ほけきょうは こんじょうの いのりとも なり そうろう なれば.
但し 又 法華経は 今生の いのりとも なり 候 なれば.

もしやと して いきさせ たまい そうらわば.
もしやと して いきさせ 給い 候はば.

あわれ とくとく けんざんして みずから もうし ひらかばや.
あはれ とくとく 見参して みづから 申し ひらかばや.

ことばは ふみに つくさず.
語は ふみに つくさず.

ふみは こころを つくしがたく そうらえば とどめ そうらいぬ.
ふみは 心を つくしがたく 候へば とどめ 候いぬ.

きょうきょう きんげん.
恐恐 謹言.

ぶんえい がんねん 12がつ 13にち.
文永 元年 十二月 十三日.

にちれん かおう.
日蓮 花押.

なんじょうのしちろう どの.
なんでうの七郎 殿.

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