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蓮盛抄 (れんじょうしょう)
別名、禅宗問答抄 (ぜんしゅう もんどうしょう).
日蓮大聖人 34歳 御作.

 

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れんじょう しょう.
蓮盛 抄.

けんちょう しちねん 34さい おんさく.
建長 七年 三十四歳 御作.

ぜんしゅういわく ねはんの とき せそん ざに のぼり ねんげして しゅうに しめす.
禅宗 云く 涅槃の 時 世尊 座に 登り 拈華して 衆に 示す.

かしょう はがん びしょうせり.
迦葉 破顔 微笑せり.

ほとけの いわく われに しょうほうげんぞう ねはんの みょうしん じっそう むそう びみょうの ほうもん あり.
仏の 言く 吾に 正法眼蔵 涅槃の 妙心 実相 無相 微妙の 法門 有り.

もじを たてず きょうげに べつでんし まかかしょうに ふぞく するのみと.
文字を 立てず 教外に 別伝し 摩訶迦葉に 付属 するのみと.

とうて いわく いかなる きょうもんぞや.
問うて 云く 何なる 経文ぞや.

ぜんしゅう こたえて いわく だいぼんてんのうもんぶつけつぎきょうの もんなり.
禅宗 答えて 云く 大梵天王問仏決疑経の 文なり.

とうて いわく くだんの きょう いずれの さんぞうの やくぞや.
問うて 云く 件の 経 何れの 三蔵の 訳ぞや.

じょうげん かいげんの ろくの なかに かつて この きょう なし いかん.
貞元 開元の 録の 中に 曾つて 此の 経 無し 如何.

ぜんしゅう こたえて いわく この きょうは ひきょう なり.
禅宗 答えて 云く 此の 経は 秘経 なり.

ゆえに もん ばかり てんじく より これを わたす うんぬん.
故に 文 計り 天竺 より 之を 渡す 云云.

とうて いわく いずれの しょうにん いずれの にんしの よに わたりしぞや.
問うて 云く 何れの 聖人 何れの 人師の 代に 渡りしぞや.

あとかた なきなり.
跡形 無きなり.

この もんは じょうこの ろくに のせず なかごろ より これを のす.
此の 文は 上古の 録に 載せず 中頃 より 之を 載す.

このこと ぜんしゅうの こんげん なり.
此の事 禅宗の 根源 なり.

しかも ころくに のすべし しんぬ ぎもん なり.
尤も 古録に 載すべし 知んぬ 偽文 なり.

ぜんしゅう いわく ねはんぎょうの 2に いわく.
禅宗 云く 涅槃経の 二に 云く.

「われ いま しょゆうの むじょうの しょうほう ことごとく もって まかかしょうに ふぞく す」うんぬん.
「我 今 所有の 無上の 正法 悉く 以て 摩訶迦葉に 付属 す」 云云.

この もん いかん.
此の 文 如何.

こたえて いわく むじょうの ことばは だいじょうに にたりと いえども これ しょうじょうを さすなり.
答えて 云く 無上の 言は 大乗に 似たりと 雖も 是れ 小乗を 指すなり.

げどうの じゃほうに たいすれば しょうじょうをも しょうほうと いわん.
外道の 邪法に 対すれば 小乗をも 正法と いはん.


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れいせば だいほう とうぜんと いえるを.
例せば 大法 東漸と 云えるを.

みょうらくだいし かいしゃくの なかに 「つうじて ぶっきょうを さす」と いいて.
妙楽大師 解釈の 中に「通じて 仏教を 指す」と 云いて.

だいしょうごんじつを ふさねて だいほうと いうなり うんぬん.
大小権実を ふさねて 大法と 云うなり 云云.

げどうに たいすれば しょうじょうも だいじょうと いわれ.
外道に 対すれば 小乗も 大乗と 云われ.

げろう なれども ぶんには とのと いわれ じょうろうと いわるるが ごとし.
下﨟 なれども 分には 殿と 云はれ 上﨟と 云はるるが ごとし.

ねはんの 3に いわく
涅槃経の 三に 云く

「もし ほうほうを もって あらかん および もろもろの びくに ふぞくせば くじゅうを えじ.
「若し 法宝を 以て 阿難 及び 諸の 比丘に 付属せば 久住を 得じ.

なにを もっての ゆえに.
何を 以ての 故に.

いっさいの しょうもん および だいかしょうは ことごとく まさに むじょう なるべし.
一切の 声聞 及び 大迦葉は 悉く 当に 無常 なるべし.

かの ろうじんの ほかの きぶつを うくるが ごとし.
彼の 老人の 他の 寄物を 受くるが 如し.

この ゆえに まさに むじょうの ぶっぽうを もって もろもろの ぼさつに ふぞくすべし.
是の 故に 応に 無上の 仏法を 以て 諸の 菩薩に 付属すべし.

もろもろの ぼさつは よく もんどうするを もって かくの ごときの ほうほう.
諸の 菩薩は 善能 問答するを 以て 是くの 如きの 法宝.

すなわち くじゅう することを う.
則ち 久住 することを 得.

むりょう1000ぜ ぞうえきしじょうにして しゅじょうを りあん せん.
無量千世 増益熾盛にして 衆生を 利安 せん.

かの さかんなる ひとの ほかの きぶつを うくるが ごとし.
彼の 壮なる 人の 他の 寄物を 受くるが 如し.

この ぎを もっての ゆえに しょだいぼさつ すなわち よく とうのみ」うんぬん.
是の 義を 以ての 故に 諸大菩薩 乃ち 能く 問うのみ」云云.

だいしょうの ふぞく それ べつなること ふんみょう なり.
大小の 付属 其れ 別なること 分明 なり.

どうきょうの じゅうに いわく.
同経の 十に 云く.

「なんじら もんじゅ まさに ししゅうの ために ひろく だいほうを とくべし.
「汝等 文殊 当に 四衆の 為に 広く 大法を 説くべし.

いま この きょうほうを もって なんじに ふぞくす.
今 此の 経法を 以て 汝に 付属す.

ないし かしょう あなんとうも きたらば また まさに かくの ごとき しょうほうを ふぞく すべし」うんぬん.
乃至 迦葉 阿難等も 来らば 復 当に 是くの 如き 正法を 付属 すべし」云云.

ゆえに しんぬ もんじゅ かしょうに だいほうを ふぞく すべしと うんぬん.
故に 知んぬ 文殊 迦葉に 大法を 付属 すべしと 云云.

ほとけより ふぞく する ところの ほうは しょうじょう なり.
仏より 付属 する 処の 法は 小乗 なり.

ごしょうろんに いわく.
悟性論に 云く.

「ひと こころを さとる こと あれば ぼだいの みちを える.
「人 心を さとる 事 あれば 菩提の 道を 得る.

ゆえに ほとけと なづく」.
故に 仏と 名づく」.

ぼだいに いつつ あり いずれの ぼだいぞや.
菩提に 五 あり 何れの 菩提ぞや.

とくどう また しゅじゅ なり いずれの みちぞや.
得道 又 種種 なり 何れの 道ぞや.

よきょうに あかす ところは だいぼだいに あらず.
余経に 明す 所は 大菩提に あらず.

また むじょうどうに あらず.
又 無上道に あらず.

きょうに いわく「40よねん みけんしんじつ」うんぬん.
経に 云く 「四十余年 未顕真実」云云.

とうて いわく ほけきょうは きせん なんにょ いずれの ぼだいの みちを うべきや.
問うて 云く 法華は 貴賤 男女 何れの 菩提の 道を 得べきや.

こたえて いわく「ないし いちげに おいても みな じょうぶつ うたがい なし」うんぬん.
答えて 云く「乃至 一偈に 於ても 皆 成仏 疑い 無し」云云.

また いわく「しょうじきに ほうべんを すて ただ むじょうどうを とく」うんぬん.
又 云く「正直に 方便を 捨て 但 無上道を 説く」云云.

これに しんぬ むじょうぼだい なり.
是に 知んぬ 無上菩提 なり.

「しゅゆも これを きいて すなわち あのくぼだいを くきょう することを うるなり」.
「須臾も 之を 聞いて 即ち 阿耨菩提を 究竟 することを 得るなり」.

この ぼさつを えん こと しゅゆも この ほうもんを きく くどく なり.
此の 菩提を 得ん 事 須臾も 此の 法門を 聞く 功徳 なり.

とうて いわく しゅゆとは 30しゅゆを いちにち いちやと いう.
問うて 云く 須臾とは 三十須臾を 一日 一夜と 云う.

「しゅゆもんし」の しゅゆは これを さすか いかん.
「須臾聞之」の 須臾は 之を 指すか 如何.

こたう くだんの ごとし.
答う 件の 如し.

てんだいしかんの 2に いわく.
天台止観の 二に 云く.

「しゅゆも はいする ことなかれ」うんぬん.
「須臾も 廃する こと無かれ」云云.

ぐけつに いわく「しばらくも はいすることを ゆるさざる ゆえに しゅゆと いう」.
弘決に 云く「暫くも 廃することを 許さざる 故に 須臾と 云う」.

ゆえに しゅゆは せつな なり.
故に 須臾は 刹那 なり.

とうて いわく ほんぶんの でんちに もとずくを ぜんの きぼとす.
問うて 云く 本分の 田地に もとづくを 禅の 規模とす.

こたう ほんぶんの でんちとは なにものぞや.
答う 本分の 田地とは 何者ぞや.

また いずれの きょうに いでたるぞや.
又 何れの 経に 出でたるぞや.

ほけきょう こそ にんてんの ふくでん なれば.
法華経 こそ 人天の 福田 なれば.

むねと にんてんを きょうけし たもう ゆえに ほとけを てんにんしと ごうす.
むねと 人天を 教化し 給ふ 故に 仏を 天人師と 号す.

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この きょうを しんずる ものは こしんの ほとけを みる のみならず.
此の 経を 信ずる 者は 己身の 仏を 見る のみならず.

か げん みの さんぜの ほとけを みる こと.
過 現 未の 三世の 仏を 見る 事.

じょうはりに むかうに しきぞうを みるが ごとし.
浄頗梨に 向ふに 色像を 見るが 如し.

きょうに いわく 「また じょうみょうきょうに ことごとく もろもろの しきぞうを みるが ごとし」うんぬん.
経に 云く 「又 浄明鏡に 悉く 諸の 色像を 見るが 如し」云云.

ぜんしゅう いわく ぜしんそくぶつ そくしんぜぶつと.
禅宗 云く 是心即仏 即身是仏と.

こたえて いわく きょうに いわく.
答えて 云く 経に 云く.

「こころは これ だいいちの あだ なり.
「心は 是れ 第一の 怨 なり.

この あだ もっとも あくと なす.
此の 怨 最も 悪と 為す.

この あだ よく ひとを しばり おくって えんらの ところに いたる.
此の 怨 能く 人を 縛り 送つて 閻羅の 処に 到る.

なんじ ひとり じごくに やかれて あくごうの ために やしなう ところの さいし きょうだい とう.
汝 独り 地獄に 焼かれて 悪業の 為に 養う 所の 妻子 兄弟 等.

しんぞくも すくうこと あたわじ」うんぬん.
親属も 救うこと 能わじ」云云.

ねはんぎょうに いわく「ねがって こころの しと なって こころを しと せざれ」うんぬん.
涅槃経に 云く 「願つて 心の 師と 作つて 心を 師と せざれ」云云.

ぐちむざんの こころを もって そくしんそくぶつと たつ.
愚癡無懺の 心を 以て 即心即仏と 立つ.

あに みとく いとく みしょう いしょうの ひとに あらずや.
豈 未得 謂得 未証 謂証の 人に 非ずや.

とう ほっけしゅうの こころ いかん.
問う 法華宗の 意 如何.

こたう きょうもんに「ぐ32そう のぜしんじつめつ」 うんぬん.
答う 経文に 「具三十二相 乃是真実滅」 云云.

あるいは 「そくじょうじゅぶっしん」 うんぬん.
或は 「速成就仏身」 云云.

ぜんしゅうは りしょうの ほとけを とうとんで おのれ ほとけに ひとしと おもいぞうじょうまんに おつ.
禅宗は 理性の 仏を 尊んで 己れ 仏に 均しと 思ひ 増上慢に 堕つ.

さだめて これ あびの ざいにん なり.
定めて 是れ 阿鼻の 罪人 なり.

ゆえに ほけきょうに いわく「ぞうじょうまんの びくは まさに だいきょうに おちんとす」.
故に 法華経に 云く「増上慢の 比丘は 将に 大坑に 墜ちんとす」.

ぜんしゅう いわく びるの ちょうじょうを ふむと.
禅宗 云く 毘盧の 頂上を 踏むと.

いわく びるとは なにものぞや.
云く 毘盧とは 何者ぞや.

もし しゅうへん ほうかいの ほっしん ならば さんせん だいちも みな.
若し 周遍 法界の 法身ならば 山川 大地も 皆.

これ びるの しんど なり これ りしょうの びる なり.
是れ 毘盧の 身土 なり 是れ 理性の 毘盧 なり.

この しんどに おいては いぬ やかんの たぐいも これを ふむ.
此の 身土に 於ては 狗 野干の 類も 之を 踏む.

ぜんしゅうの きぼに あらず.
禅宗の 規模に 非ず.

もし じつに ほとけの いただきを ふまんか.
若し 実に 仏の 頂を 踏まんか.

ぼんてんも その いただきを みずと いえり.
梵天も 其の 頂を 見ずと 云えり.

はくじ いかでか これを ふむ べきや.
薄地 争でか 之を 踏む 可きや.

それ ほとけは いっさいしゅじょうに おいて しゅししんの とく あり.
夫れ 仏は 一切衆生に 於いて 主師親の 徳 有り.

もし おんとく ひろき じふ ふまんは ふこう ぎゃくざいの だいぐにん あくにん なり.
若し 恩徳 広き 慈父 踏まんは 不孝 逆罪の 大愚人 悪人 なり.

こうしの てんせき なお もって この やからを すつ.
孔子の 典籍 尚 以て 此の 輩を 捨つ.

いわんや にょらいの しょうほうをや.
況んや 如来の 正法をや.

あに この じゃるい じゃほうを ほめて むりょうの じゅうざいを えんや うんぬん.
豈 此の 邪類 邪法を 讃めて 無量の 重罪を 獲んや 云云.

ざいせの かしょうは ずちょうらいきょうと いう.
在世の 迦葉は 頭頂礼敬と 云う.

めつごの あんぜんは ちょうじょうを ふむと いう おそるべし.
滅後の 闇禅は 頂上を フむと 云う 恐る可し.

ぜんしゅう いわく きょうげべつでん ふりゅうもんじ.
禅宗 云く 教外別伝 不立文字.

こたえて いわく およそ よに るふの おしえに さんしゅを たつ.
答えて 云く 凡そ 世に 流布の 教に 三種を 立つ.

1には じゅきょう これに 27種 あり.
一には 儒教 此れに 二十七種 あり.

2には 道教 これに 25け あり.
二には 道教 此れに 二十五家 あり.

3には 12ぶんきょう てんだいしゅうには しきょう はっきょうを たつるなり.
三には 十二分教 天台宗には 四教 八教を 立つるなり.

これらを きょうげと たつるか.
此等を 教外と 立つるか.

くすしの ほうには ほんどうの そとを げきょうじと いう.
医師の 法には 本堂の 外を 外教示と いう.

にんげんの ことばには せいの つづかざるは がいせきと いう.
人間の 言には 姓の つづかざるをば 外戚と 云う.

ぶっきょうには きょうろんに はなれたるをば げどうと いう.
仏教には 経論に はなれたるをば 外道と 云う.

ねはんぎょうに いわく 「もし ほとけの しょせつに したがわざる もの あらば.
涅槃経に 云く 「若し 仏の 所説に 順わざる 者 有らば.

まさに しるべし この ひとは これ まの けんぞく なり」うんぬん.
当に 知るべし 是の 人は 是れ 魔の 眷属 なり」云云.

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ぐけつ 9に いわく「ほっけ いぜんは なお これ げどうの でし なり」うんぬん.
弘決 九に 云く「法華 已前は 猶 是れ 外道の 弟子 なり」云云.

ぜんしゅう いわく ぶっそふでん うんぬん.
禅宗 云く 仏祖不伝 云云.

こたえて いわく しからば なんぞ せいてんの 28そ とうどの 6そを たつるや.
答えて 云く 然らば 何ぞ 西天の 二十八祖 東土の 六祖を 立つるや.

ふぞく まかかしょうの りゅうぎ すでに やぶるるか.
付属 摩訶迦葉の 立義 已に 破るるか.

じごそういは いかん
自語相違は 如何

ぜんしゅう いわく こうじょうの いちろは せんしょうふでん うんぬん.
禅宗 云く 向上の 一路は 先聖不伝 云云.

こたう しからば いまの ぜんしゅうも こうじょうに おいては げりょう すべからず.
答う 爾らば 今の 禅宗も 向上に 於ては 解了 すべからず.

もし さとらずんば ぜんに あらざるか.
若し 解らずんば 禅に 非ざるか.

およそ こうじょうを うたって もって きょうまんに じゅうし.
凡そ 向上を 歌つて 以て キョウ慢に 住し.

いまだ もうしんを じぜずして けんしょうに おごり.
未だ 妄心を 治せずして 見性に 奢り.

きと ほうと あいそむくこと この せめ もっとも ちかし.
機と 法と 相乖くこと 此の 責 尤も 親し.

かたがた けぎを さまたぐ.
旁がた 化儀を 妨ぐ.

その とが うたた おおし.
其の 失 転 多し.

いわく きょうげと ごうし あまつさえ きょうげを まなび.
謂く 教外と 号し 剰さえ 教外を 学び.

ぶんぴつを たしなみ ながら もじを たてず.
文筆を 嗜みながら 文字を 立てず.

ことばと こころと そうおう せず.
言と 心と 相応 せず.

あに てんまの ぶるい げどうの でしに あらずや.
豈 天魔の 部類 外道の 弟子に 非ずや.

ほとけは もじに よって しゅじょうを どし たもうなり.
仏は 文字に 依つて 衆生を 度し 給うなり.

こたう その しょうこ いかん.
問う 其の 証拠 如何.

こたえて いわく ねはんぎょうの 15に いわく.
答えて 云く 涅槃経の 十五に 云く.

ねがわくは もろもろの しゅじょう ことごとく みな しゅっせの もじを じゅじ せよ」.
「願わくは 諸の 衆生 悉く 皆 出世の 文字を 受持 せよ」.

ぞうほうけつぎきょうに いわく「もじに よるが ゆえに しゅじょうを どし ぼだいを う」うんぬん.
像法決疑経に 云く「文字に 依るが 故に 衆生を 度し 菩提を 得」云云.

もし もじを はなれれば なにを もってか ぶつじとせん.
若し 文字を 離れば 何を 以てか 仏事とせん.

ぜんしゅうは げんごを もって ひとに しめさざらんや.
禅宗は 言語を 以て 人に 示さざらんや.

もし しめさずと いわば みなみてんじくの だるまは 4かんの りょうがきょうに よって.
若し 示さずと いはば 南天竺の 達磨は 四巻の 楞伽経に 依つて.

5かんの しょを つくり えかに つたうる とき.
五巻の 疏を 作り 慧可に 伝うる 時.

われ かんちを みるに ただ この きょうのみ あって ひとを どすべし.
我 漢地を 見るに 但 此の 経のみ あつて 人を 度す可し.

なんじ これに よって よを どすべし うんぬん.
汝 此れに 依つて 世を 度す可し 云云.

もし しかれば みだりに きょうげべつでんと ごうせんや.
若し 爾れば 猥に 教外別伝と 号せんや.

つぎに ふでんの ことばに いたっては れいだんにと ゆいじかくりょうと いって もじに よるか.
次に 不伝の 言に 至つては 冷煖二途 唯自覚了と 云つて 文字に 依るか.

これも そうでんの のちの れいだんじち なり.
其れも 相伝の 後の 冷煖自知 なり.

これを もって ほっけに いわく.
是を 以て 法華に 云く.

「あくちしきを すて ぜんゆうに しんごんせよ」.
「悪知識を 捨て 善友に 親近せよ」.

しかんに いわく「しに あわざれば じゃえ ひに まし.
止観に 云く「師に 値わざれば 邪慧 日に 増し.

しょうじ つきに はなはだし ちょうりんに きょくぼくを ひくが ごとく いずるご あること なけん」 うんぬん.
生死 月に 甚し 稠林に 曲木を 曳くが 如く 出づる 期 有こと 無けん」云云.

およそ せけんの さた なおもって たにんに だんごう す.
凡そ 世間の 沙汰 尚 以て 他人に 談合 す.

いわんや しゅっせの じんり むしろ たやすく じこを ほんぶんと せんや.
況んや 出世の 深理 寧ろ 輙く 自己を 本分と せんや.

ゆえに きょうに いわく.
故に 経に 云く.

「ちかくを みる べからざる こと ひとの まつげの ごとく.
「近きを 見る 可からざる こと 人の 睫の 如く.

とおきを みる べからざる こと くうちゅうの とりの あとの ごとし」うんぬん.
遠きを 見る 可からざる こと 空中の 鳥の 跡の 如し」云云.

じょうこん じょうきの ざぜんは しばらく これを おく.
上根 上機の 坐禅は 且く 之を 置く.

とうせの ぜんしゅうは もたいを こうむって かべに むかうが ごとし.
当世の 禅宗は 瓮を 蒙つて 壁に 向うが 如し.

きょうに いわく「もうめいにして みる ところ なし.
経に 云く「盲冥にして 見る 所 無し.

おおぜいの ほとけ および だんくの ほうを もとめず.
大勢の 仏 及び 断苦の 法を 求めず.

ふかく もろもろの じゃけんに いって くを もって くを すてんと ほっす」うんぬん.
深く 諸の 邪見に 入つて 苦を 以て 苦を 捨てんと 欲す」云云.

ぐけつに いわく「せけんの けんご なお しらず.
弘決に 云く「世間の 顕語 尚 識らず.

いわんや ちゅうどうの おんりをや.
況んや 中道の 遠理をや.

えんじょうの みっきょう むしろ しる べけんや」うんぬん.
円常の 密教 寧ろ 当に 識る 可けんや」云云.

とうせの ぜんしゃ みな これ だいじゃけんの やから なり.
当世の 禅者 皆 是れ 大邪見の 輩 なり.

なかんずく さんわく みだんの ぼんぷの ごろくを もちいて.
就中 三惑未断の 凡夫の 語録を 用いて.

しちえんみょうの にょらいの げんきょうを かろんずる.
四智円明の 如来の 言教を 軽んずる.

かえすがえす あやまてる ものか.
返す返す 過てる 者か.

やまいの まえに くすり なし.
疾の 前に 薬 なし.

きの まえに おしえ なし.
機の 前に 教 なし.

とうかくの ぼさつすら なお おしえを もちいき.
等覚の 菩薩すら 尚 教を 用いき.

ていげの ぐにん なんぞ きょうを しんぜざる うんぬん.
底下の 愚人 何ぞ 経を 信ぜざる 云云.

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これを もって かんどに ぜんしゅう こうぜ しかば その くに ただちに ほろびき.
是を 以て 漢土に 禅宗 興ぜ しかば 其の 国 忽ちに 亡びき.

ほんちょうの めっすべき ずいそうに あんしょうの ぜんし じゅうまん す.
本朝の 滅す可き 瑞相に 闇証の 禅師 充満 す.

しかんに いわく「これ すなわち ほうめつの ようかい なり.
止観に 云く「此れ 則ち 法滅の 妖怪 なり.

なお これ じだいの ようかい なり」うんぬん.
亦 是れ 時代の 妖怪 なり」云云.

ぜんしゅう いわく ほっけしゅうは ふりゅうもんじの ぎを はす.
禅宗 云く 法華宗は 不立文字の 義を 破す.

なんぞ ほとけは いちじふせつと とき たもうや.
何故ぞ 仏は 一字不説と 説き 給うや.

こたう なんじ りょうがきょうの もんを ひくか.
答う 汝 楞伽経の 文を 引くか.

ほんぽう じほうの にぎを しらざるか.
本法 自法の 二義を 知らざるか.

まなばずんば ならうべし.
学ばずんば 習うべし.

そのうえ かの きょうに おいては みけんしんじつと やぶられ おわんぬ.
其の上 彼の 経に 於いては 未顕真実と 破られ 畢んぬ.

なんぞ しなんと せん.
何ぞ 指南と 為ん.

とうて いわく ほうぞうけつぎきょうに いわく.
問うて 云く 像法決疑経に 云く.

「にょらいの いっくの ほうを とき たもうを みず」うんぬん いかん.
「如来の 一句の 法を 説き たもうを 見ず」云云 如何.

こたう これは じょうせぼさつの ことば なり.
答う 是は 常施菩薩の 言 なり.

ほけきょうには 「ぼさつ この ほうを きいて ぎもう みな すでに のぞく.
法華経には 「菩薩 是の 法を 聞いて 疑網 皆 已に 除く.

1200の あらかん ことごとく また まさに さぶつ すべし」と いって.
千二百の 羅漢 悉く 亦 当に 作仏 すべし」と 云つて.

80000の ぼさつも 1200の あらかんも ことごとく みな れつざし ちょうもん ずいき す.
八万の 菩薩も 千二百の 羅漢も 悉く 皆 列座し 聴聞 随喜 す.

じょうせ ひとりは みえず.
常施 一人は 見えず.

いずれの せつに よるべき.
何れの 説に 依る可き.

ほっけの ざに あぐる ぼさつの じょうしゅの なかに じょうせの な これ なし.
法華の 座に 挙ぐる 菩薩の 上首の 中に 常施の 名 之 無し.

みえずと もうすも どうり なり.
見えずと 申すも 道理 なり.

いかに いわんや つぎしもに 「しかるに もろもろの しゅじょう しゅつぼつ あるをみて ほうを といて ひとを どす」うんぬん.
何に 況や 次下に 「然るに 諸の 衆生 出没 有るを 見て 法を 説いて 人を 度す」云云.

なんぞ ふせつの いっくを とどめて かせつの みょうりを うしなうべき.
何ぞ 不説の 一句を 留めて 可説の 妙理を 失う可き.

なんじが りゅうぎ いちいち だいびゃっけん なり.
汝が 立義 一一 大僻見 なり.

しゅうじょうを あらためて ほっけに きふく すべし.
執情を 改めて 法華に 帰伏 す可し.

しからずんば あに むどうしんに あらずや.
然らずんば 豈 無道心に 非ずや.

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