b210から237.
開目抄・下(かいもくしょう・げ).
日蓮大 聖人 51歳御作.

 

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かいもくしょう げ.
開目抄 下.

また いまよりこそ しょだいぼさつも ぼんたい にちがつ してんらも きょうしゅしゃくそんの みでしにては そうらえ.
又 今よりこそ 諸大菩薩も 梵帝・日月・四天等も 教主釈尊の 御弟子にては 候へ、.

されば ほうとうほんには これらの だいぼさつを ほとけ わが みでしらと おぼすゆえに.
されば 宝塔品には 此等の 大菩薩を 仏 我が 御弟子等と をぼすゆへに
.
かんぎょうして いわく「もろもろの たいしゅに つぐ わが めつどの のち.
諌暁して 云く「諸の 大衆に 告ぐ 我が 滅度の 後・.

たれか よく この きょうを ごじし どくじゅする いま ぶつぜんに おいて みずから せいごんを とけ」とは.
誰か 能く 此の 経を 護持し 読誦する 今 仏前に 於て 自ら 誓言を 説け」とは・.

したたかに おおせ くだせしか.
したたかに 仰せ 下せしか、.

また しょだいぼさつも「たとえば おおかぜの しょうじゅの えだを ふくが ごとし」とうと.
又 諸大菩薩も「譬えば 大風の 小樹の 枝を 吹くが 如し」等と.

きちじょうそうの おおかぜに したがい かすいの たいかいへ ひくが ごとく.
吉祥草の 大風に 随い 河水の 大海へ 引くが ごとく.

ほとけには したがい まいらせしか.
仏には 随い まいらせしか。.

しかれども りょうぜん ひ あさくして ゆめの ごとく うつつならず ありしに.
而れども 霊山 日 浅くして 夢の ごとく・うつつならず ありしに.

しょうぜんの ほうとうの うえに きごの ほうとう あって.
証前の 宝塔の 上に 起後の 宝塔 あつて.

じっぽうの しょぶつ らいしゅうせる みな わが ぶんしん なりと なのらせ たまい.
十方の 諸仏・来集せる 皆 我が 分身 なりと なのらせ 給い.

ほうとうは こくうに しゃか たほう ざを ならべ.
宝塔は 虚空に 釈迦・多宝 坐を 並べ.

にちがつの せいてんに びょうしゅつ せるが ごとし.
日月の 青天に 並出 せるが 如し、.

にんてんだいえは ほしを つらね.
人天大会は 星を つらね.

ぶんしんの しょぶつは だいちのうえ ほうじゅのもとの ししの ゆかに まします.
分身の 諸仏は 大地の上 宝樹の 下の 師子の ゆかに まします、.

けごんきょうの れんげぞうせかいは じっぽう しどの ほうぶつ.
華厳経の 蓮華蔵世界は 十方・此土の 報仏・.

おのおのに くにぐににして かのかいの ほとけ この どに きたって ぶんしんと なのらず.
各各に 国国にして 彼の界の 仏・此の 土に 来つて 分身と なのらず.

この かいの ほとけ かの かいへ ゆかず.
此の 界の 仏・彼の 界へ ゆかず.

ただ ほうえらの だいぼさつのみ たがいに らいえせり.
但 法慧等の 大菩薩のみ 互いに 来会せり、.

だいにちきょう こんごうちょうきょうとうの 8よう9そん 37そんら だいにちにょらいの けしんとは みゆれども.
大日経・金剛頂経等の 八葉九尊・三十七尊等・大日如来の 化身とは みゆれども
.
そのけしん さんじんえんまんの こぶつに あらず.
其の化身・三身円満の 古仏に あらず、.

だいぼんきょうの 1000ぶつ あみだきょうの 6ぽうの しょぶつ いまだに らいしゅうの ほとけに あらず.
大品経の 千仏・阿弥陀経の 六方の 諸仏 いまだ 来集の仏に あらず.

だいしゅうきょうの らいしゅうの ほとけ また ぶんしん ならず.
大集経の 来集の 仏・又 分身 ならず、.

こんきょうみょうきょうの 4ほうの 4ぶつは けしん なり.
金光明経の 四方の 四仏は 化身 なり、.

そうじて いっさいきょうの なかに かくしゅう かくぎょうの さんじんえんまんの しょぶつを あつめて わが ぶんしんとは とかれず.
総じて 一切経の 中に 各修・各行の 三身円満の 諸仏を 集めて 我が 分身とは とかれず、.

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これ じゅりょうほんの おんじょ なり.
これ 寿量品の 遠序 なり、.

しじょう 40よねんの しゃくそんが 1こう 10こう とう.
始成 四十余年の 釈尊が 一劫・十劫 等・.

いぜんの しょぶつを あつめて ぶんしんと とかる.
已前の 諸仏を 集めて 分身と とかる・.

さすが びょうどういしゅにも にず おびただしく おどろかし.
さすが 平等意趣にも にず・をびただしく をどろかし、.

また しじょうの ほとけならば しょけ じっぽうに じゅうまん すべからざれば.
又 始成の 仏ならば 所化・十方に 充満 すべからざれば.

ぶんしんの とくは そなわりたりとも じげんして やく なし.
分身の 徳は 備わりたりとも 示現して 益 なし、.

てんだい いわく「ぶんしん すでに おおし まさに しるべし じょうぶつの ひさしきことを」とう うんぬん.
天台 云く「分身 既に 多し 当に 知るべし 成仏の 久しきことを」等 云云、.

だいえの おどろきし こころを かかれたり.
大会の をどろきし 意を かかれたり。.

その うえに じゆせんがいの だいぼさつ だいちより しゅったいせり.
其の 上に 地涌千界の 大菩薩・大地より 出来せり.

しゃくそんに だい1の みでしと おぼしき ふげん もんじゅらにも にるべくも なし.
釈尊に 第一の 御弟子と をぼしき 普賢文殊等にも・にるべくも なし、.

けごん ほうとう はんにゃ ほけきょうの ほうとうほんに らいしゅうする だいぼさつ だいにちきょうとうの こんごうさったら とうの 16の だいぼさつ なんども.
華厳・方等・般若・法華経の 宝塔品に 来集する 大菩薩・大日経等の 金剛薩たら 等の 十六の 大菩薩 なんども.

この ぼさつに たいとうすれば みこうの むらがる なかに たいしゃくの きたり たまうが ごとし.
此の 菩薩に 対当すれば み猴の 群る 中に 帝釈の 来り 給うが 如し、.

やまがつに げっけいらの まじわるに ことならず.
山人に 月卿等の まじはるに ことならず、.

ふしょの みろくすら なお めいわくせり いかに いわんや その いげをや.
補処の 弥勒すら 猶 迷惑せり 何に 況や 其の 已下をや、.

この 1000せかいの だいぼさつの なかに 4にんの だいしょう まします.
此の 千世界の 大菩薩の 中に 四人の 大聖 まします.

いわゆる じょうぎょう むへんぎょう じょうぎょう あんりゅうぎょう なり.
所謂・上行・無辺行・浄行・安立行 なり、.

この 4にんは こくう りょうぜんの しょぼさつとう まなこも あわせ こころも およばず.
此の 四人は 虚空・霊山の 諸菩薩等・眼も あはせ 心も をよばず、.

けごんきょうの 4ぼさつ だいにちきょうの 4ぼさつ こんごうちょうきょうの 16だいぼさつらも.
華厳経の 四菩薩・大日経の 四菩薩・金剛頂経の 十六大菩薩等も.

この ぼさつに たいすれば えいがんの ものの にちりんを みるが ごとく.
此の 菩薩に 対すれば 翳眼の ものの 日輪を 見るが 如く.

あまが こうていに むかい たてまつるが ごとし.
海人が 皇帝に 向い 奉るが 如し、.

たいこうらの しせいの しゅうちゅうに ありしに にたり.
大公等の 四聖の 衆中に ありしに・にたり.

しょうざんの 4こうが けいていに つかえしに ことならず.
商山の 四皓が 恵帝に 仕えしに ことならず、.

ぎぎどうどうとして そんこう なり.
巍巍堂堂として 尊高 なり、.

しゃか たほう じっぽうの ぶんしんを のぞいては いっさいしゅじょうの ぜんちしきとも たのみ たてまつりぬべし.
釈迦・多宝・十方の 分身を 除いては 一切衆生の 善知識とも たのみ 奉りぬべし、.

みろくぼさつ こころに ねんごん すらく.
弥勒菩薩・心に 念言 すらく、.

われは ほとけの たいしの おんときより 30じょうどう.
我は 仏の 太子の 御時より 三十成道・.

いまの りょうぜんまで 42ねんが あいだ.
今の 霊山まで 四十二年が 間.

この かいの ぼさつ じっぽうせかいより らいしゅうせし しょだいぼさつ みな しりたり.
此の 界の 菩薩・十方世界より 来集せし 諸大菩薩 皆 しりたり、.

また じっぽうの じょう えどに あるいは おんつかい あるいは われと ゆうげして.
又 十方の 浄 穢土に 或は 御使い 或は 我と 遊戯して.

その くにぐにに だいぼさつを けんもんせり.
其の 国国に 大菩薩を 見聞せり、.

この だいぼさつの おんし なんどは いかなる ほとけにてや あるらん.
此の 大菩薩の 御師 なんどは・いかなる 仏にてや・あるらん、.

よも この しゃか たほう じっぽうの ぶんしんの ぶっだには.
よも 此の 釈迦・多宝・十方の 分身の 仏陀には.

にるべくも なき ほとけにて こそ おわすらめ.
にるべくも なき 仏にて こそ・をはすらめ、.

あめの たけきを みて りゅうの だいなることを しり.
雨の 猛を 見て 竜の 大なる事を しり.

はなの だいなるを みて いけの ふかきことは しんぬべし.
華の 大なるを 見て 池の ふかきことは・しんぬべし、.

これらの だいぼさつの きたるくに また たれと もうす ほとけに あい たてまつり.
此等の 大菩薩の 来る国・又 誰と 申す 仏に あい たてまつり・.

いかなる だいほうをか しゅうしゅうし たまうらんと うたがいし.
いかなる 大法をか 習修し 給うらんと 疑いし、.

あまりの ふしんさに こえをも いだすべくも なけれども ぶつりきにや ありけん.
あまりの 不審さに 音をも・いだすべくも・なけれども 仏力にや ありけん、.

みろくぼさつ うたがって いわく.
弥勒菩薩 疑つて 云く.

「むりょう1000まんのくの たいしゅの もろもろの ぼさつは むかしより いまだ すべて みざるところ なり.
「無量千万億の 大衆の 諸の 菩薩は 昔より 未だ 曾て 見ざる所 なり.

この もろもろの だいいとくの しょうじんの ぼさつしゅは たれか そのために ほうを といて きょうけして じょうじゅせる.
是の 諸の 大威徳の 精進の 菩薩衆は 誰か 其の為に 法を 説いて 教化して 成就せる、.

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たれに したがってか はじめて ほっしんし いずれの ぶっぽうをか しょうよう せる.
誰に 従つてか 初めて 発心し 何れの 仏法をか 称揚 せる、.

せそん われ むかしより このかた いまだ かつて この ことを みず.
世尊 我 昔より 来 未だ 曾つて 是の 事を 見ず、.

ねがわくは その しょじゅうの こくどの みょうごうを ときたまえ.
願くは 其の 所従の 国土の 名号を 説きたまえ、.

われ つねに しょこくに あそべども いまだ かつて この ことを みず.
我 常に 諸国に 遊べども 未だ 曾つて 是の 事を 見ず、.

われ このしゅの なかに おいて いまし 1にんをも しらず.
我れ 此の衆の 中に 於て 乃し 一人をも 識らず.

こつねんに ちより いでたり.
忽然に 地より 出でたり.

ねがわくは その いんねんを ときたまえ」とう うんぬん.
願くは 其の 因縁を 説きたまえ」等 云云、.

てんだい いわく.
天台 云く.

「じゃくじょうより このかた こんざ いおう じっぽうの だいし らいえ たえず かぎるべからずと いえども.
「寂場より 已降 今座 已往 十方の 大士 来会 絶えず 限る可からずと 雖も.

われ ふしょの ちりょくを もって ことごとく み ことごとく しる.
我 補処の 智力を 以つて 悉く 見 悉く 知る、.

しかれども このしゅに おいて 1にんをも しらず.
而れども 此の衆に 於て 一人をも 識らず.

しかるに われ じっぽうに ゆうげして しょぶつに ごんぶし たいしゅに こころよく しきちせらる」とう うんぬん.
然るに 我れ 十方に 遊戯して 諸仏に 覲奉し 大衆に 快く 識知せらる」等 云云、.

みょうらく いわく「ちじんは きを しる じゃは みずから じゃを しる」とう うんぬん.
妙楽 云く「智人は 起を 知る 蛇は 自ら 蛇を 識る」等 云云、.

きょうしゃくの こころ ふんみょう なり.
経釈の心・分明 なり.

せんずるところは しょじょうどうより このかた.
詮ずるところは 初成道より このかた.

この ど じっぽうにて これらの ぼさつを みたてまつらず きかずと もうすなり.
此の 土 十方にて 此等の 菩薩を 見たてまつらず・きかずと 申すなり。.

ほとけ この ぎを こたえて いわく.
仏 此の 疑を 答えて 云く.

「あいった なんじら むかしより いまだ みざるところの ものは.
「阿逸多・汝等 昔より 未だ 見ざる所の 者は.

われ このしゃばせかいに おいて あのくたらさんみゃくさんぼだいを え おわって.
我 是の 娑婆世界に 於て 阿耨多羅三藐三菩提を 得 已つて.

この もろもろの ぼさつを きょうけし じどうして その こころを ちょうぶくして.
是の 諸の 菩薩を 教化し 示導して 其の 心を 調伏して.

どうの こころを おこさしめたり」とう.
道の 意を 発こさしめたり」等、.

また いわく「われ がやじょう ぼだいじゅげに おいて ざして さいしょうがくを じょうずる ことを えて むじょうの ほうりんを てんじ.
又 云く「我伽耶城 菩提樹下に 於て 坐して 最正覚を 成ずる ことを 得て 無上の 法輪を 転じ.

しかして すなわち これを きょうけして はじめて どうしんを おこさしむ.
爾して 乃ち 之を 教化して 初めて 道心を 発さしむ.

いま みな ふたいに じゅうせり.
今 皆 不退に 住せり、.

ないし われ くおんより このかた これらの しゅを きょうけせり」とう うんぬん.
乃至 我 久遠より 来 是等の 衆を 教化せり」等 云云、.

ここに みろくらの だいぼさつ おおいに うたがい おもう.
此に 弥勒等の 大菩薩 大に 疑い をもう、.

けごんきょうの とき ほうえらの むりょうの だいぼさつ あつまる いかなる ひとびとなるらんと おもえば.
華厳経の 時・法慧等の 無量の 大菩薩 あつまる いかなる 人人なるらんと・をもへば.

わが ぜんちしきなりと おおせられしかば.
我が 善知識なりと をほせられしかば、.

さもやと うちおもいき.
さもやと・うちをもひき、.

その のちの だいほうぼう びゃくろち とうの らいえの だいぼさつも しかの ごとし.
其の 後の 大宝坊・白鷺池 等の 来会の 大菩薩も・しかの ごとし、.

この だいぼさつは かれらには にるべくもなき ふりたりげに まします.
此の 大菩薩は 彼等には にるべくもなき・ふりたりげに まします.

さだめて しゃくそんの おんししょうか なんど おぼしきを.
定めて 釈尊の 御師匠か なんど おぼしきを.

はじめて どうしんを おこさしむとて ようちの ものども なりしを.
令初発道心とて 幼稚の ものども・なりしを.

きょうけして でしと なせりなんど おおせあれば おおいなる うたがい なるべし.
教化して 弟子と なせりなんど・をほせあれば・大なる 疑 なるべし、.

にほんの しょうとくたいしは にんのう だい32だい ようめいてんのうの みこ なり.
日本の 聖徳太子は 人王 第三十二代・用明天皇の 御子 なり、.

おんとし 6さいの とき くだら こうらい もろこしより ろうじんどもの わたり たりしを.
御年 六歳の 時・百済・高麗・唐土より 老人どもの わたり たりしを.

6さいの たいし わが でしなりと おおせ ありしかば.
六歳の 太子・我が 弟子なりと・をほせ ありしかば.

かのろうじんども また がっしょうして わが しなり とう うんぬん.
彼の老人ども 又 合掌して 我が 師なり 等 云云、.

ふしぎ なりし ことなり.
不思議 なりし 事なり、.

げてんに もうす あるひと みちを ゆけば みちの ほとりに とし 30ばかりなる わかものが.
外典に 申す 或者 道を ゆけば 路の ほとりに 年 三十計りなる・わかものが.

80ばかりなる ろうじんを とらえて うちけり.
八十計りなる 老人を・とらへて 打ちけり、.

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いかなることぞ とえば.
いかなる事ぞと・とえば.

この ろうおうは わがこ なり なんど もうすと かたるにも にたり.
此の 老翁は 我が子 なり なんど 申すと・かたるにも にたり、.

されば みろくぼさつら うたがって いわく.
されば 弥勒菩薩等 疑つて 云く.

「せそん にょらいたいし たりし とき.
「世尊・如来太子 為りし 時・.

しゃくの みやを いで がやじょうを さること とおからずして.
釈の 宮を 出で 伽耶城を 去ること 遠からずして.

どうじょうに ざして あのくたらさんみゃくさんぼだいを じょうずることを え たまえり.
道場に 坐して 阿耨多羅三藐三菩提を 成ずることを 得 給えり、.

これより このかた はじめて 40よねんを すぎたり.
是より 已来 始めて 四十余年を 過ぎたり、.

せそん いかんぞ この しょうじに おいて おおいに ぶつじを なし たまえる」とう うんぬん.
世尊・云何ぞ 此の 少時に 於て 大いに 仏事を 作し 給える」等 云云、.

いっさいの ぼさつ はじめ けごんきょうより 40よねん ええに うたがいを もうけて.
一切の 菩薩 始め 華厳経より 四十余年・会会に 疑を まうけて.

いっさいしゅじょうの ぎもうを はらすなかに このうたがい だい1の うたがい なるべし.
一切衆生の 疑網を はらす中に 此の疑・第一の 疑 なるべし、.

むりょうぎきょうの だいそうごんらの 8まんの だいし.
無量義経の 大荘厳等の 八万の 大士・.

40よねんと いまとの りゃっこう しつじょうの うたがいにも ちょうか せり.
四十余年と 今との 歴劫・疾成の 疑にも 超過 せり、.

かんむりょうじゅきょうに いだいけぶにんの あじゃせおうが.
観無量寿経に 韋提希夫人の 阿闍世王が.

だいばに すかされて ちちの おうを いましめ ははを ころさんとせしが.
提婆に すかされて 父の 王を いましめ 母を 殺さんとせしが.

ぎば がっこうに おどされて ははを はなちたりし とき.
耆婆 月光に・をどされて 母を はなちたりし 時.

ほとけを しょうじ たてまつて まず だい1の といに いわく.
仏を 請じ たてまつて・まづ 第一の 問に 云く.

「われ むかし なんの つみ あって このあくしを うむ せそん.
「我れ 宿し 何の 罪 あつて 此の悪子を 生む 世尊・.

また なんらの いんねん あって だいばだったと ともに けんぞくと なりたまう」とう うんぬん.
復た 何等の 因縁 有つて 提婆達多と 共に 眷属と なり給う」等 云云、.

この うたがいの なかに「せそん また なんらの いんねんあって」とうの うたがいは だいなる だいじなり.
此の 疑の 中に「世尊 復た 何等の 因縁有つて」等の 疑は 大なる 大事なり、.

りんのうは かたきと ともに うまれず たいしゃくは おにと とも ならず.
輪王は 敵と 共に 生れず 帝釈は 鬼と・とも ならず.

ほとけは むりょうこうの じひしゃ なり.
仏は 無量劫の 慈悲者 なり.

いかに だいおんと ともには まします.
いかに 大怨と 共には まします.

かえって ほとけには ましまさざるかと うたがう なるべし.
還つて 仏には・ましまさざるかと 疑う なるべし、.

しかれども ほとけ こたえ たまわず.
而れども 仏 答え 給はず、.

されば かんぎょうを どくじゅせんひと ほけきょうの だいばほんへ いらずば いたづらごと なるべし.
されば 観経を 読誦せん人・法華経の 提婆品へ 入らずば・いたづらごと なるべし、.

だいねはんぎょうに かしょうぼさつの 36の といも これには およばず.
大涅槃経に 迦葉菩薩の 三十六の 問も これには 及ばず、.

されば ほとけ このうたがいを はらさせ たまわずば いちだいの しょうぎょうは ほうまつに どうじ.
されば 仏・此の 疑を 晴させ 給はずば 一代の 聖教は 泡沫に どうじ.

いっさいしゅじょうは ぎもうに かかるべし.
一切衆生は 疑網に かかるべし、.

じゅりょうの いっぽんの たいせつなる これ なり.
寿量の 一品の 大切なる これ なり。.

そののち ほとけ じゅりょうほんを といて いわく.
其の後・仏・寿量品を 説いて 云く.

「いっさいせけんの てんにん および あしゅらは みな.
「一切世間の 天人 及び 阿修羅は 皆.

いまの しゃかむにぶつは しゃくしの みやを いで がやじょうを さること とおからず.
今の 釈迦牟尼仏は 釈氏の 宮を 出で 伽耶城を 去ること 遠からず.

どうじょうに ざして あのくたらさんみゃくさんぼだいを え たまえりと おもえり」とう うんぬん.
道場に 坐して 阿耨多羅三藐三菩提を 得 給えりと 謂えり」等云云、.

このきょうもんは はじめ じゃくめつどうじょうより おわり.
此の経文は 始め 寂滅道場より 終り.

ほけきょうの あんらくぎょうほんに いたるまでの いっさいの だいぼさつらの しょちを あげたる なり.
法華経の 安楽行品に いたるまでの 一切の 大菩薩等の 所知を あげたる なり、.

「しかるに ぜんなんし われ じつに じょうぶつしてより このかた むりょうむへんひゃくせんまんのくなゆたこう なり」とう うんぬん.
「然るに 善男子・我れ 実に 成仏してより 已来・無量無辺百千万億那由佗劫 なり」等 云云、.

このもんは けごんきょうの「3しょの しじょうしょうがく」.
此の文は 華厳経の「三処の 始成正覚」.

あごんきょうに いわく「しょじょう」じょうみょうきょうの「しざぶつじゅ」.
阿含経に 云く「初成」浄名経の「始坐仏樹」.

だいしっきょうに いわく「し 16ねん」だいにちきょうの「がしゃくざどうじょう」とう.
大集経に 云く「始 十六年」大日経の「我昔坐道場」等・.

にんのうきょうの「29ねん」むりょうぎきょうの「がせんどうじょう」.
仁王経の「二十九年」無量義経の「我先道場」.

ほけきょうの ほうべんぽんに いわく.
法華経の 方便品に 云く.

「がしざどうじょう」とうを 1ごんに だいこもうなりと やぶる もん なり.
「我始坐道場」等を 一言に 大虚妄なりと・やぶる もん なり。.

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この かこ じょう あらわるる とき しょぶつ みな しゃくそんの ぶんしん なり.
此の 過去 常 顕るる 時・諸仏 皆 釈尊の 分身 なり.

にぜん しゃくもんの ときは しょぶつ しゃくそんに かたを ならべて かくしゅう かくぎょうの ほとけ なり.
爾前・迹門の 時は 諸仏・釈尊に 肩を 並べて 各修・各行の 仏 なり、.

かるがゆえに しょぶつを ほんぞんと する もの しゃくそんらを くだす.
かるがゆへに 諸仏を 本尊と する 者・釈尊等を 下す、.

いま けごんの だいじょう ほうとう はんにゃ だいにちきょうとうの しょぶつは みな しゃくそんの けんぞく なり.
今華厳の 台上・方等・般若・大日経等の 諸仏は 皆 釈尊の 眷属 なり、.

ほとけ 30じょうどうの おんときは だいぼんてんのう だい6てんとうの ちぎょうの しゃばせかいを うばい とり たまいき.
仏 三十成道の 御時は 大梵天王・第六天等の 知行の 娑婆世界を 奪い 取り 給いき、.

いま にぜん しゃくもんにして じっぽうを じょうどと ごうして この どを えどと とかれしを.
今 爾前・迹門にして 十方を 浄土と・がうして 此の 土を 穢土と とかれしを.

うちかえして この どは ほんどなり じっぽうの じょうどは すいしゃくの えどと なる.
打ちかへして 此の 土は 本土なり 十方の 浄土は 垂迹の 穢土と なる、.

ほとけは くおんの ほとけ なれば しゃっけ たほうの だいぼさつも きょうしゅ しゃくそんの みでし なり.
仏は 久遠の 仏 なれば 迹化・他方の 大菩薩も 教主釈尊の 御弟子 なり、.

いっさいきょうの なかに この じゅりょうほん ましまさずば.
一切経の 中に 此の 寿量品 ましまさずば.

てんに にちがつの くにに だいおうの さんがに たまの ひとに たましいの なからんが ごとくして あるべきを.
天に 日月の・国に 大王の・山河に 珠の・人に 神の なからんが・ごとくして・あるべきを.

けごん しんごんとうの ごんしゅうの ちしゃと おぼしき ちょうかん かじょう じおん こうぼうらの いちおう ごんしゅうの ひとびと.
華厳・真言等の 権宗の 智者と をぼしき 澄観・嘉祥・慈恩・弘法等の 一往・権宗の 人人・.

かつは みずからの えきょうを さんたん せんために.
且は 自の 依経を 讃歎 せんために.

あるいは いわく「けごんきょうの きょうしゅは ほうしん ほけきょうは おうじん」と.
或は 云く「華厳経の 教主は 報身・法華経は 応身」と・.

あるいは いわく「ほっけじゅりょうほんの ほとけは むみょうの へんいき だいにちきょうの ほとけは みょうの ぶんい」とう うんぬん.
或は 云く「法華寿量品の 仏は 無明の 辺域・大日経の 仏は 明の 分位」等 云云、.

くもは つきを かくし ざんしんは けんじんを かくす.
雲は 月を かくし 讒臣は 賢人を かくす・.

ひと さんすれば おうしゃくも たまと みえ ゆしんも けんじんかと おぼゆ.
人 讃すれば 黄石も 玉と みへ 諛臣も 賢人かと をぼゆ、.

いま じょくせの がくしゃら かれらの ざんぎに かくされて じゅりょうほんの たまを もてあそばず.
今 濁世の 学者等・彼等の 讒義に 隠されて 寿量品の 玉を 翫ばず、.

また てんだいしゅうの ひとびとも たぼらかされて こんしゃく いちどうの おもいを なせる ひとびとも あり.
又 天台宗の 人人も たぼらかされて 金石・一同の をもひを・なせる 人人も あり、.

ほとけ くじょうに ましまさずば しょけの すくなかるべきことを わきまうべき なり.
仏・久成に・ましまさずば 所化の 少かるべき事を 弁うべき なり、.

つきは かげを おしまざれども みずなくば うつるべからず.
月は 影を 慳ざれども 水なくば・うつるべからず、.

ほとけ しゅじょうを けせんと おぼせども けちえん うすければ はっそうを げんぜず.
仏・衆生を 化せんと・をぼせども 結縁 うすければ 八相を 現ぜず、.

れいせば もろもろの しょうもんが しょじ しょじゅうには のぼれども.
例せば 諸の 声聞が 初地・初住には・のぼれども.

にぜんにして じちょうじど なりしかば みらいの はっそうを ごする なるべし.
爾前にして 自調自度 なりしかば 未来の 八相を ごする なるべし、.

しかれば きょうしゅしゃくそん しじょう ならば.
しかれば 教主釈尊 始成 ならば.

いま この せかいの ぼんたい にちがつ してんらは こっしょより この どを りょうすれども 40よねんの ぶつでし なり.
今 此の 世界の 梵帝・日月・四天等は 劫初より 此の 土を 領すれども 四十余年の 仏弟子 なり、.

りょうぜん 8ねんの ほっけ けちえんの しゅ.
霊山・八年の 法華 結縁の 衆.

いま まいりの しゅくんに おもいつかず くじゅうの ものに へだてらるるが ごとし.
今 まいりの 主君に をもひつかず 久住の 者に へだてらるるが ごとし、.

いま くおんじつじょう あらわれぬれば とうほうの やくしにょらいの にっこう がっこう さいほうあみだにょらいの かんのん せいし.
今 久遠実成 あらはれぬれば 東方の 薬師如来の 日光・月光・西方阿弥陀如来の 観音 勢至・.

ないし じっぽうせかいの しょぶつの みでし だいにち こんごうちょうとうの りょうぶの だいにちにょらいの みでしの しょぼさつ.
乃至 十方世界の 諸仏の 御弟子・大日・金剛頂等の 両部の 大日如来の 御弟子の 諸大菩薩・.

なお きょうしゅしゃくそんの みでし なり.
猶 教主釈尊の 御弟子 なり、.

しょぶつ しゃかにょらいの ぶんしんたる うえは しょぶつの しょけ もうすに およばず.
諸仏・釈迦如来の 分身たる 上は 諸仏の 所化 申すに をよばず.

いかに いわんや この どの こつしょより このかたの にちがつ しゅせい とう.
何に 況や 此の 土の 劫初より・このかたの 日月・衆星等・.

きょうしゅしゃくそんの みでしに あらずや.
教主釈尊の 御弟子に あらずや。.

→a214

b215

しかるを てんだいしゅうより ほかの しょしゅうは ほんぞんに まどえり.
而るを 天台宗より 外の 諸宗は 本尊に まどえり、.

くしゃ じょうじつ りっしゅうは 34しん だんけつじょうどうの しゃくそんを ほんぞんと せり.
倶舎・成実・律宗は 三十四心・断結成道の 釈尊を 本尊と せり、.

てんそんの たいしが めいわくして わがみは たみの こと おもうが ごとし.
天尊の 太子が 迷惑して 我が身は 民の 子と をもうが ごとし、.

けごんしゅう しんごんしゅう さんろんしゅう ほっそうしゅうとうの 4しゅうは だいじょうの しゅう なり.
華厳宗・真言宗・三論宗・法相宗等の 四宗は 大乗の 宗なり、.

ほっそう さんろんは しょうおうじんに にたる ほとけを ほんぞんと す.
法相・三論は 勝応身に にたる 仏を 本尊と す.

てんのうの たいし わが ちちは さむらいと おもうが ごとし.
天王の 太子・我が 父は 侍と・をもうが ごとし、.

けごんしゅう しんごんしゅうは しゃくそんを さげて るしゃなの だいにちとうを ほんぞんと さだむ.
華厳宗・真言宗は 釈尊を 下げて 盧舎那の 大日等を 本尊と 定む.

てんし たる ちちを さげて すじょうも なき ものの ほうおうの ごとくなるに つけり.
天子 たる 父を 下げて 種姓も なき 者の 法王の ごとくなるに・つけり、.

じょうどしゅうは しゃかの ぶんしんの あみだぶつを うえんの ほとけと おもうて きょうしゅを すてたり.
浄土宗は 釈迦の 分身の 阿弥陀仏を 有縁の 仏と をもうて 教主を すてたり、.

ぜんしゅうは げせんの もの.
禅宗は 下賤の 者・.

いちぶんの とくあって ふぼを さぐるが ごとし.
一分の 徳あつて 父母を さぐるが ごとし、.

ほとけを さげ きょうを くだす これ みな ほんぞんに まよえり.
仏を さげ 経を 下す 此 皆 本尊に 迷えり、.

れいせば 3こう いぜんに ちちを しらず ひと みな きんじゅうに どうぜしが ごとし.
例せば 三皇 已前に 父を しらず 人 皆 禽獣に 同ぜしが 如し、.

じゅりょうほんを しらざる しょしゅうの ものは ちくに おなじ ふちおんの もの なり.
寿量品を しらざる 諸宗の 者は 畜に 同じ 不知恩の 者 なり、.

ゆえに みょうらく いわく.
故に 妙楽 云く.

「いちだいきょうの うち いまだ かつて おんを あらわさず.
「一代教の 中 未だ 曾て 遠を 顕さず、.

ふぼの いのち しらずんば あるべからず.
父母の 寿 知らずんば ある可からず.

もし ちちの いのちの とおきを しらずんば また ふとうの くにに まよう.
若し 父の 寿の 遠きを 知らずんば 復 父統の 邦に 迷う、.

いたずらに さいのうと いうとも まったく ひとのこに あらず」とう うんぬん.
徒に 才能と 謂うとも 全く 人の子に 非ず」等 云云、.

みょうらくだいしは とうの すえ てんぽうねんちゅうの もの なり.
妙楽大師は 唐の 末・天宝年中の 者 なり.

さんろん けごん ほっそう しんごんとうの しょしゅう ならびに えきょうを ふかく み ひろく かんがえて.
三論・華厳・法相・真言等の 諸宗・並に 依経を 深く み 広く 勘えて.

じゅりょうほんの ほとけを しらざるものは ふとうの くにに まよえる さいのうある ちくしょうと かけるなり.
寿量品の 仏を しらざる者は 父統の 邦に 迷える 才能ある 畜生と かけるなり、.

といさいのうとは けごんしゅうの ほうぞう ちょうかん.
徒謂才能とは 華厳宗の 法蔵・澄観・.

ないし しんごんしゅうの ぜんむいさんぞうらは さいのうの にんし なれども.
乃至 真言宗の 善無畏三蔵等は 才能の 人師 なれども.

この ちちを しらざるが ごとし.
子の 父を 知らざるが ごとし、.

でんぎょうだいしは にほんけんみつの がんそ.
伝教大師は 日本顕密の 元祖・.

しゅうくに いわく.
秀句に 云く.

「たしゅう しょえの きょうは いちぶん ふぼのぎ ありと いえども しかも ただ あいのみ あって ごんの ぎを かく.
「他宗 所依の 経は 一分 仏母の義 有りと 雖も 然も 但 愛のみ 有つて 厳の 義を 闕く、.

てんだいほっけしゅうは ごんないの ぎを ぐす.
天台法華宗は 厳愛の 義を 具す.

いっさいの けんしょう がく むがく および ぼさつしんを おこせるものの ちちなり」とう うんぬん.
一切の 賢聖・学・無学 及び 菩薩心を 発せる者の 父なり」等 云云、.

しんごん けごんとうの きょうぎょうには しゅじゅくだつの 3ぎ みょうじすら なお なし.
真言・華厳等の 経経には 種熟脱の 三義・名字すら 猶 なし.

いかに いわんや その ぎをや.
何に 況や 其の 義をや、.

けごん しんごんきょうとうの いっしょうしょじの そくしんじょうぶつ とうは.
華厳・真言経等の 一生初地 の即身成仏 等は.

きょうは ごんきょうにして かこを かくせり.
経は 権経にして 過去を かくせり、.

しゅを しらざる だつ なれば ちょうこうが くらいに のぼり.
種を しらざる 脱 なれば 超高が 位に のぼり.

どうきょうが おういに こせんと せしが ごとし.
道鏡が 王位に 居せんと せしが ごとし。.

しゅうじゅう たがいに しゅを あらそう.
宗宗・互に 種を 諍う.

よ これを あらそわず ただ きょうに まかすべし.
予 此を あらそはず 但 経に 任すべし、.

ほけきょうの しゅに よって てんじんぼさつは しゅしむじょうを たてたり.
法華経の 種に 依つて 天親菩薩は 種子無上を 立てたり.

てんだいの いちねんさんぜん これ なり.
天台の 一念三千 これ なり、.

けごんきょう ないし しょだいじょうきょう だいにちきょうとうの しょそんの しゅし みな いちねんさんぜん なり.
華厳経・乃至 諸大乗経・大日経等の 諸尊の 種子・皆 一念三千 なり.

てんだいちしゃだいし 1にん この ほうもんを えたまえり.
天台智者大師・一人 此の 法門を 得給えり、.

けごんしゅうの ちょうかん このぎを ぬすんで けごんきょうの しんにょくえしの もんの たましいと す.
華厳宗の 澄観・此の義を 盗んで 華厳経の 心如工画師の 文の 神と す、.

しんごん だいにちきょうとうには にじょうさぶつ くおんじつじょう いちねんさんぜんの ほうもん これ なし.
真言・大日経等には 二乗作仏・久遠実成・一念三千の 法門 これ なし、.

→a215

b216

ぜんむいさんぞう しんたんに きたってのち てんだいの しかんを みて ち ほっし.
善無畏三蔵・震旦に 来つて後・天台の 止観を 見て 智 発し.

だいにちきょうの こころの じっそう われは いっさいの ほんじょなりの もんの たましいに てんだいの いちねんさんぜんを ぬすみ いれて.
大日経の 心実相・我一切本初の 文の 神に 天台の 一念三千を 盗み 入れて.

しんごんしゅうの かんじんとして そのうえに いんと しんごんとを かざり.
真言宗の 肝心として 其の上に 印と 真言とを かざり.

ほけきょうと だいにちきょうとの しょうれつを はんずるとき りどうじしょうの しゃくを つくれり.
法華経と 大日経との 勝劣を 判ずる時・理同事勝の 釈を つくれり、.

りょうかいの まんだらの にじょうさぶつ じっかいごぐは いちじょう だいにちきょうに ありや.
両界の 漫荼羅の 二乗作仏・十界互具は一定・大日経に ありや.

だい1の おうわく なり.
第一の 誑惑 なり、.

ゆえに でんぎょうだいし いわく.
故に 伝教大師 云く.

「しんらいの しんごんけは すなわち ひつじゅの そうじょうを みんじ.
「新来の 真言家は 則ち 筆受の 相承を 泯じ、.

くとうの けごんけは すなわち ようごうの きぼを かくす」とう うんぬん.
旧到の 華厳家は 則ち 影響の 規模を 隠す」等 云云、.

えぞの しま なんどに わたて ほのぼのと いう うたは われ よみたり なんど もうすは.
俘囚の 嶋 なんどに・わたて・ほのぼのと いう うたは われ よみたり なんど 申すは・.

えぞていの ものは さこそと おもうべし.
えぞていの 者は・さこそと をもうべし、.

かんど にほんの がくしゃ また かくの ごとし.
漢土・日本の 学者 又 かくの ごとし、.

りょうしょわじょう いわく.
良しょ和尚 云く.

「しんごん ぜんもん けごん さんろん ないし もし ほっけとうに のぞめば これ しょういんもん」とう うんぬん.
「真言・禅門・華厳・三論 乃至 若し 法華等に 望めば 是接引門」等 云云、.

ぜんむいさんぞうの えんまの せめに あづからせ たまいしは.
善無畏三蔵の 閻魔の 責に あづからせ 給しは.

この じゃけんに よる のちに こころを ひるがえし.
此の 邪見に よる 後に 心を ひるがへし.

ほけきょうに きぶくしてこそ このせめをば のがれさせ たまいしか.
法華経に 帰伏してこそ・このせめをば 脱させ 給いしか、.

そのご ぜんむい ふくうら ほけきょうを りょうかいの ちゅうおうに おきて だいおうの ごとくし.
其の後 善無畏・不空等・法華経を 両界の 中央に をきて 大王の ごとくし.

たいぞうの だいにちきょう こんごうの こんごうちょうきょうをば さゆうの しんかの ごとく せし これ なり.
胎蔵の 大日経・金剛の 金剛頂経をば 左右の 臣下の ごとくせし・これ なり、.

にほんの こうぼうも きょうそうの ときは けごんしゅうに こころを よせて ほけきょうをば だい8に おきしかども.
日本の 弘法も 教相の 時は 華厳宗に 心を よせて 法華経をば 第八に をきしかども.

じそうの ときには じつえ しんが えんちょう こうじょうらの ひとびとに つたえ たまえし とき.
事相の 時には 実慧・真雅・円澄・光定等の 人人に 伝え 給いし 時・.

りょうかいの ちゅうおうに かみの ごとく おかれたり.
両界の 中央に 上の ごとく・をかれたり、.

れいせば さんろんの かじょうは ほっけげん10かんに ほけきょうを だい4じ えにはにと さだむれども.
例せば 三論の 嘉祥は 法華玄十巻に 法華経を 第四時・会二破二と 定れども.

てんだいに きぶくして 7ねん つかえ はいこうさんしゅうして みを にくきょうと なせり.
天台に 帰伏して 七年 つかへ 廃講散衆して 身を 肉橋と なせり、.

ほっそうの じおんは ほうおんりん 7かん 12かんに いちじょうほうべん さんじょうしんじつとうの もうげん おおし.
法相の 慈恩は 法苑林・七巻・十二巻に 一乗方便・三乗真実等の 妄言 多し、.

しかれども げんさんの だい4には こりゃくりょうぞん とうと わがしゅうを ふじょうに なせり.
しかれども 玄賛の 第四には 故亦両存 等と 我が宗を 不定に なせり、.

ことばは りょうほう なれども こころは てんだいに きぶくせり.
言は 両方 なれども 心は 天台に 帰伏せり、.

けごんの ちょうかんは けごんの しょを つくって けごん ほっけ そうたいして ほっけを ほうべんと かけるに にたれども.
華厳の 澄観は 華厳の 疏を 造て 華厳・法華・相対して 法華を 方便と かけるに 似れども.

かの しゅう これを もって じつと なす.
彼の 宗 之を 以て 実と 為す.

この しゅうの りゅうぎ りつう ぜざること なし とうと かけるは くい かえすに あらずや.
此の 宗の 立義・理通 ぜざること 無し 等と かけるは 悔い 還すに あらずや、.

こうぼうも また かくの ごとし.
弘法も 又 かくの ごとし、.

ききょう なければ わが おもてを みず.
亀鏡 なければ 我が 面を みず.

かたき なければ わが ひを しらず.
敵 なければ 我が 非を しらず、.

しんごんとうの しょしゅうの がくしゃら わが ひを しらざりし ほどに.
真言等の 諸宗の 学者等・我が 非を しらざりし 程に.

でんぎょうだいしに あい たてまつって じしゅうの とがを しる なるべし.
伝教大師に あひ たてまつて 自宗の 失を しる なるべし。.

されば しょきょうの しょぶつ ぼさつ にんてんとうは.
されば 諸経の 諸仏・菩薩・人天等は.

かれがれの きょうぎょうにして ほとけに ならせ たまうよう なれども.
彼彼の 経経にして 仏に ならせ 給うやう なれども.

じつには ほけきょうにして しょうがく なり たまえり.
実には 法華経にして 正覚 なり 給へり、.

→a216

b217

しゃか しょぶつの しゅじょうむへんの そうがんは みな この きょうに おいて まんぞくす.
釈迦 諸仏の 衆生無辺の 総願は 皆 此の 経に をいて 満足す.

こんじゃいまんぞくの もん これ なり.
今者已満足の 文 これ なり、.

よ ことの よしを おしはかるに けごん かんぎょう だいにちきょう とうを よみ しゅぎょうする ひとをば.
予 事の 由を・をし計るに 華厳・観経・大日経 等を よみ 修行する 人をば・.

その きょうぎょうの ほとけ ぼさつ てんら しゅごしたまうらん うたがい あるべからず.
その 経経の 仏・菩薩・天等・守護し 給らん 疑 あるべからず、.

ただし だいにちきょう かんぎょうとうを よむ ぎょうじゃら.
但し 大日経・観経等を よむ 行者等・.

ほけきょうの ぎょうじゃに てきたいを なさば かの ぎょうじゃを すてて ほけきょうの ぎょうじゃを しゅごすべし.
法華経の 行者に 敵対を なさば 彼の 行者を すてて 法華経の 行者を 守護すべし、.

れいせば こうし じふの おうてきと なれば ちちを すてて おうに まいる.
例せば 孝子・慈父の 王敵と なれば 父を すてて 王に まいる.

こうの いたりなり.
孝の 至りなり、.

ぶっぽうも また かくの ごとし.
仏法も 又 かくの ごとし、.

ほけきょうの しょぶつ ぼさつ じゅうらせつ にちれんを しゅごし たまう うえ.
法華経の 諸仏・菩薩・十羅刹・日蓮を 守護し 給う 上・.

じょうどしゅうの ろっぽうの しょぶつ 25の ぼさつ しんごんしゅうの 1200ら.
浄土宗の 六方の 諸仏・二十五の 菩薩・真言宗の 千二百等・.

7しゅうの しょそん しゅごの ぜんじん にちれんを しゅごし たまうべし.
七宗の 諸尊・守護の 善神・日蓮を 守護し 給うべし、.

れいせば 7しゅうの しゅごしん でんぎょうだいしを まほり たまいしが ごとしと おもう.
例せば 七宗の 守護神・伝教大師を まほり 給いしが 如しと・をもう、.

にちれん あんじて いわく.
日蓮 案じて 云く.

ほけきょうの 2しょ 3えの ざに ましましし にちがつ とうの しょてんは.
法華経の 二処・三会の 座に ましましし、日月 等の 諸天は.

ほけきょうの ぎょうじゃ しゅったいせば じしゃくの くろがねを すうが ごとく.
法華経の 行者 出来せば 磁石の 鉄を 吸うが ごとく.

つきの みずに うつるが ごとく しゅゆに きたって ぎょうじゃに かわり.
月の 水に 遷るが ごとく 須臾に 来つて 行者に 代り.

ぶつぜんの おんちかいを はたさせ たまうべしと こそ おぼえ そうろうに.
仏前の 御誓を はたさせ 給べしと こそ をぼへ 候に.

いままで にちれんを とぶらい たまわぬは にちれん ほけきょうの ぎょうじゃに あらざるか.
いままで 日蓮を とぶらひ 給はぬは 日蓮・法華経の 行者に あらざるか、.

されば かさねて きょうもんを かんがえて わがみに あてて みの とがを しるべし.
されば 重ねて 経文を 勘えて 我が身に あてて、身の 失を しるべし。.

うたがって いわく.
疑て 云く.

とうせいの ねんぶつしゅう ぜんしゅうとうをば.
当世の 念仏宗・禅宗等をば.

いかなる ちげんを もって ほけきょうの てきじん いっさいしゅじょうの あくちしきとは しるべきや.
何なる 智眼を もつて 法華経の 敵人・一切衆生の 悪知識とは しるべきや、.

こたえて いわく わたくしの ことばを いだす べからず.
答えて 云く 私の 言を 出す べからず.

きょうしゃくの みょうきょうを いだして ほうぼうの しゅうめんを うかべ.
経釈の 明鏡を 出して 謗法の 醜面を うかべ.

その とがを みせしめん いきめくらは ちから およばず.
其の 失を みせしめん 生盲は 力 をよばず、.

ほけきょうの だい4 ほうとうほんに いわく.
法華経の 第四 宝塔品に 云く.

「その ときに たほうぶつ ほうとうの なかに おいて はんざを わかち しゃかむにぶつに あたう.
「爾の 時に 多宝仏・宝塔の 中に 於て 半座を 分ち 釈迦牟尼仏に 与う、.

その ときに たいしゅ 2にょらいの 7ほうの とうの なかの ししの ざの うえに ましまして.
爾の 時に 大衆 二如来の七 宝の 塔の 中の 師子の 座の 上に 在して.

けっかふざし たまうを み たてまつる.
結跏趺坐し 給うを 見 たてまつる、.

だいおんじょうを もって あまねく ししゅに つげ たまわく.
大音声を 以て 普く 四衆に 告げ 給わく、.

たれか よく この しゃばこくどに おいて ひろく みょうほけきょうを とかん.
誰か 能く 此の 娑婆国土に 於て 広く 妙法華経を 説かん、.

いま まさしく これ とき なり.
今 正しく 是れ 時 なり、.

にょらい ひさしからずして まさに ねはんに いるべし.
如来 久しからずして 当に 涅槃に 入るべし、.

ほとけ この みょうほけきょうを もって ふぞくして あること あらしめんと ほっす」とう うんぬん.
仏 此の 妙法華経を 以て 付属して 在ること 有らしめんと 欲す」等 云云、.

だい1の ちょくせん なり.
第一の 勅宣 なり。.

また いわく「その ときに せそん かさねて このぎを のべんと ほっして げを といて のたまわく.
又 云く「爾の 時に 世尊 重ねて 此の 義を 宣べんと 欲して 偈を 説いて 言く、.

しょうしゅせそん ひさしく めつどしたまうと いえども ほうとうの なかに ましまして なお ほうの ために きたり たまえり.
聖主世尊・久しく 滅度し 給うと 雖も 宝塔の 中に 在して 尚 法の 為に 来り 給えり、.

しょにん いかんぞ つとめて ほうに むかわざらん.
諸人 云何ぞ 勤めて 法に 為わざらん、.

また わが ぶんしんの むりょうの しょぶつ ごうしゃ とうの ごとく きたれる ほうを きかんと ほっす.
又 我が 分身の 無量の 諸仏・恒沙 等の 如く 来れる 法を 聴かんと 欲す.

おのおの みょうなる ど および でししゅ てんにん りゅうじん もろもろの くようの じを すてて.
各 妙なる 土 及び 弟子衆・天人・竜神・諸の 供養の 事を 捨てて.

ほうをして ひさしく じゅうせしめんが ゆえに ここに らいしし たまえり.
法をして 久しく 住せしめんが 故に 此に 来至し 給えり、.

→a217

b218

たとえば だいふうの しょうじゅの えだを ふくが ごとし.
譬えば 大風の 小樹の 枝を 吹くが 如し、.

この ほうべんを もって ほうをして ひさしく じゅうせしむ.
是の 方便を 以て 法をして 久しく 住せしむ、.

もろもろの たいしゅに つぐ.
諸の 大衆に 告ぐ.

わが めつどの のち たれか よく このきょうを ごじし どくじゅせん.
我が 滅度の 後 誰か 能く 此の経を 護持し 読誦せん.

いま ぶつぜんに おいて みずから せいごんを とけ.
今 仏前に 於て 自ら 誓言を 説け」、.

だい2の ほうしょう なり.
第二の 鳳詔 なり。.

「たほうにょらい および わがみ あつむるところの けぶつ まさに このこころを しるべし.
「多宝如来 および 我が身 集むる所の 化仏 当に 此の意を 知るべし、.

もろもろの ぜんなんし おのおの あきらかに しいせよ.
諸の 善男子・各 諦かに 思惟せよ.

これは これ かたき ことなり よろしく だいがんを おこすべし.
此れは 為れ 難き 事なり、宜しく 大願を 発こすべし、.

しょよの きょうてん かず ごうしゃの ごとし.
諸余の 経典 数・恒沙の 如し.

これらを とくと いえども いまだ これ かたしと するに たらず.
此等を 説くと 雖も 未だ 為れ 難しと するに 足らず、.

もし しゅみを とって たほう むすうの ぶつどに なげ おかんも また いまだ これ かたしと せず.
若し 須弥を 接つて 他方 無数の 仏土に 擲げ 置かんも 亦 未だ 為れ 難しと せず、.

もし ほとけ めつご あくせの なかに おいて よく この きょうを とかん これ すなわち これ かたし.
若し 仏 滅後・悪世の 中に 於て 能く 此の 経を 説かん 是 則ち 為れ 難し、.

たとい こうしょうに かれたる くさを にない おうて なかに いって やけ ざらんも また いまだ これ かたしと せず.
仮使 劫焼に 乾れたる 草を 担い 負うて 中に 入つて 焼け ざらんも 亦 未だ 為れ 難しと せず、.

わが  めつどの のちに もし この きょうを もちて 1にんの ためにも とかん これ すなわち これ かたし.
我が 滅度の 後に 若し 此の 経を 持ちて 一人の 為にも 説かん 是 則ち 為れ 難し、.

もろもろの ぜんなんし わが めつごに おいて たれか よく この きょうを ごじし どくじゅせん.
諸の 善男子・我が 滅後に 於て 誰か 能く 此の 経を 護持し 読誦せん、.

いま ぶつぜんに おいて みずから せいごんを とけ」とう うんぬん.
今 仏前に 於て 自ら 誓言を 説け」等 云云、.

だい3の かんちょく なり.
第三の 諌勅 なり、.

だい4 だい5の にかの かんぎょう だいばほんに あり しもに かくべし.
第四・第五の 二箇の 諌暁・提婆品に あり 下に かくべし。.

この きょうもんの こころは がんぜん なり.
此の 経文の 心は 眼前 なり.

せいてんに だいにちりんの かかれるが ごとし はくめんに ほくろの あるに にたり.
青天に 大日輪の 懸が ごとし 白面に 黶の あるに にたり、.

しかれども いきめくらの ものと じゃがんの ものと 1がんの ものと かくいじしの もの へんしゅうかの ものは みがたし.
而れども 生盲の 者と 邪眼の 者と 一眼の ものと 各謂自師の 者・辺執家の 者は みがたし.

ばんなんを すてて どうしん あらん ものに しるし とどめて みせん.
万難を すてて 道心 あらん 者に しるし とどめて みせん、.

せいおうぼが そのの もも りんおう しゅっせの うどんげよりも あいがたく.
西王母が そのの もも・輪王 出世の 優曇華よりも あいがたく.

はいこうが こううと 8ねん かんどを あらそいし よりともと むねもりが 7ねん.
沛公が 項羽と 八年・漢土を あらそいし 頼朝と 宗盛が 七年・.

あきつしまに たたかいし しゅらと たいしゃくと こんじちょうと りゅうおうと あのくちに あらそえるも.
秋津嶋に たたかひし 修羅と 帝釈と 金翅鳥と 竜王と 阿耨池に 諍えるも.

これには すぐべからずと しるべし.
此には すぐべからずと しるべし、.

にほんこくに このほう あらわるること 2どなり.
日本国に 此の法 顕るること 二度なり.

でんぎょうだいしと にちれんとなりと しれ.
伝教大師と 日蓮となりと しれ、.

むげんの ものは うたがうべし ちから およぶべからず.
無眼の ものは 疑うべし 力 及ぶべからず.

この きょうもんは にほん かんど がっし りゅうぐう てんじょう じっぽうせかいの いっさいきょうの しょうれつを.
此の 経文は 日本・漢土・月氏・竜宮・天上・十方世界の 一切経の 勝劣を.

しゃか たほう じっぽうの ほとけ らいしゅうして さだめ たまうなるべし.
釈迦・多宝・十方の 仏・来集して 定め 給うなるべし。.

とうて いわく.
問うて 云く.

けごんきょう ほうとうきょう はんにゃきょう じんみつきょう りょうがきょう だいにちきょう ねはんぎょうとうは 9いの うちか 6なんの うちか.
華厳経・方等経・般若経・深密経・楞伽経・大日経・涅槃経等は 九易の 内か 六難の 内か、.

こたえて いわく.
答えて 云く.

けごんしゅうの とじゅん ちごん ほうぞう ちょうかんらの さんぞう だいし よんで いわく.
華厳宗の 杜順・智儼・法蔵・澄観等の 三蔵 大師・読んで 云く.

「けごんきょうと ほけきょうと 6なんの うち なは 2きょう なれども.
「華厳経と 法華経と 六難の 内・名は 二経 なれども.

しょせつ ないし り これ おなじ しもんかんべつ けんしんたいどうの ごとし」.
所説・乃至 理 これ 同じ 四門観別・見真諦同の ごとし」、.

ほっそうの げんじょうさんぞう じおんだいしら よんで いわく.
法相の 玄奘三蔵・慈恩大師等・読んで 云く.

「じんみつきょうと ほけきょうとは おなじく ゆいしきの ほうもんにして だい3じの きょう 6なんの うちなり」.
「深密経と 法華経とは 同く 唯識の 法門にして 第三時の 教・六難の 内なり」.

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b219

3ろんの きちぞうら よんで いわく.
三論の 吉蔵等 読んで 云く.

「はんにゃきょうと ほけきょうとは みょういたいどう 2きょう1ぽうなり」.
「般若経と 法華経とは 名異体同・二経一法なり」.

ぜんむいさんぞう こんごうちさんぞう ふくうさんぞうら よんで いわく.
善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵等・読んで 云く.

「だいにちきょうと ほけきょうとは り おなじ おなじく 6なんの うちの きょう なり」.
「大日経と 法華経とは 理 同じ、をなじく 六難の 内の 経 なり」、.

にほんの こうぼう よんで いわく.
日本の 弘法・読んで 云く.

「だいにちきょうは 6なん くいの うちに あらず.
「大日経は 六難・九易の 内に あらず.

だいにちきょうは しゃか しょせつの いっさいきょうの ほか ほっしん だいにちにょらいの しょせつ なり」.
大日経は 釈迦 所説の 一切経の 外・法身・大日如来の 所説 なり」、.

また ある ひと いわく.
又 或る 人 云く.

「けごんきょうは ほうしんにょらいの しょせつ 6なん 9いの うちには あらず.
「華厳経は 報身如来の 所説・六難・九易の 内には あらず」、.

この 4しゅうの がんそら かように よみければ.
此の 四宗の 元祖等 かやうに 読みければ.

その ながれを くむ すうせんの がくとらも また この けんを いでず.
其の 流れを くむ 数千の 学徒等も 又 此の 見を いでず、.

にちれん なげいて いわく.
日蓮 なげいて 云く.

かみの しょにんの ぎを そうなく ひなりと いわば とうせいの しょにん おもてを むくべからず.
上の 諸人の 義を 左右なく 非なりと いはば 当世の 諸人 面を 向くべからず.

ひに ひを かさね けっくは こくおうに ざんそうして いのちに およぶべし.
非に 非を かさね 結句は 国王に 讒奏して 命に 及ぶべし、.

ただし われらが じふ そうりん さいごの ごゆいごんに いわく.
但し 我等が 慈父・雙林 最後の 御遺言に 云く.

「ほうに よって ひとに よらざれ」とう うんぬん.
「法に 依つて 人に 依らざれ」等 云云、.

ふえにんとうとは しょえ 2え 3え だい4え ふげん もんじゅらの とうかくの ぼさつが.
不依人等とは 初依・二依・三依・第四依・普賢・文殊等の 等覚の 菩薩が.

ほうもんを とき たまうとも きょうを てに にぎらざらんをば もちゆべからず.
法門を 説き 給うとも 経を 手に にぎらざらんをば 用ゆべからず、.

「りょうぎきょうに よって ふりょうぎきょうに よらざれ」と さだめて.
「了義経に 依つて 不了義経に 依らざれ」と 定めて.

きょうの なかにも りょうぎ ふりょうぎきょうを きゅうめいして しんじゅすべきこそ そうらいぬれ.
経の 中にも 了義・不了義経を 糾明して 信受すべきこそ 候いぬれ、.

りゅうじゅぼさつの じゅうじゅうびばしゃろんに いわく.
竜樹菩薩の 十住毘婆沙論に 云く.

「しゅたらこくろんに よらずして しゅたらびゃくろんに よれ」とう うんぬん.
「修多羅黒論に 依らずして 修多羅白論に 依れ」等 云云、.

てんだいだいし いわく.
天台大師 云く.

「しゅたらと あうものは ろくして これを もちいよ もん なく ぎ なきは しんじゅ すべからず」とう うんぬん.
「修多羅と 合う者は 録して 之を 用いよ 文 無く 義 無きは 信受 すべからず」等 云云、.

でんぎょうだいし いわく.
伝教大師 云く.

「ぶっせつに えひょうして くでんを しんずること なかれ」とう うんぬん.
「仏説に 依憑して 口伝を 信ずること 莫れ」等 云云、.

えんちんちしょうだいし いわく「もんに よって つたうべし」とう うんぬん.
円珍智証大師 云く「文に 依つて 伝うべし」等 云云、.

かみに あぐるところの しょしの しゃく みな いちぶん きょうろんに よって しょうれつを わきまうよう なれども.
上に あぐるところの 諸師の 釈・皆 一分・経論に 依つて 勝劣を 弁うやう なれども.

みな じしゅうを かたく しんじゅし せんしの びゅうぎを たださざる ゆえに.
皆 自宗を 堅く 信受し 先師の 謬義を たださざる ゆへに.

こくえしじょうの しょうれつなり しょうごんこぎの ほうもん なり.
曲会私情の 勝劣なり 荘厳己義の 法門 なり・.

ほとけ めつごの とくし ほうこう ごかん いごの げてんは ぶっぽう ほかの げどうの けんよりも.
仏 滅後の 犢子・方広・後漢 已後の 外典は 仏法 外の 外道の 見よりも.

3こう 5ていの じゅしょよりも じゃけん ごうじょうなり じゃほう たくみ なり.
三皇 五帝の 儒書よりも 邪見・強盛なり 邪法・巧 なり、.

けごん ほっそう しんごんとうの にんし てんだいしゅうの せいぎを ねたむ ゆえに.
華厳・法相・真言等の 人師・天台宗の 正義を 嫉 ゆへに.

じっきょうの もんを えして ごんぎに じゅんぜしむること ごうじょう なり.
実経の 文を 会して 権義に 順ぜしむること 強盛 なり、.

しかれども どうしん あらん ひと へんとうを すて.
しかれども 道心 あらん 人・偏党を すて.

じたしゅうを あらそわず ひとを あなづること なかれ.
自他宗を あらそはず 人を あなづる事 なかれ。.

ほけきょうに いわく「いこんとう」とう うんぬん.
法華経に 云く「已今当」等 云云、.

みょうらく いわく.
妙楽 云く.

「たとい きょう あって しょきょうの おうと いうとも いこんとうせつさいいだい1と いわず」とう うんぬん.
「縦い 経 有つて 諸経の 王と 云うとも 已今当説最為第一と 云わず」等 云云、.

また いわく「いこんとうの みょう ここに おいて かたく まよう ほうぼうの ざいく ちょうごうに ながる」とう うんぬん.
又 云く「已今当の 妙 ここに 於て 固く 迷う 謗法の 罪苦 長劫に 流る」等 云云、.

この きょうしゃくに おどろいて いっさいきょう ならびに にんしの しょしゃくを みるに こぎの こおり とけぬ.
此の 経釈に をどろいて 一切経・並に 人師の 疏釈を 見るに 狐疑の 冰 とけぬ.

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b220

いま しんごんの ぐしゃら いん しんごんの あるを たのみて.
今 真言の 愚者等・印 真言の あるを・たのみて.

しんごんしゅうは ほけきょうに すぐれたりと おもい.
真言宗は 法華経に すぐれたりと をもひ.

じかくだいしらの しんごん すぐれたりと おおせられぬれば なんど おもえるは.
慈覚大師等の 真言 勝れたりと をほせられぬれば・なんど・をもえるは・.

いうに かいなき こと なり.
いうに かいなき 事 なり。.

みつごんきょうに いわく.
密厳経に 云く.

「じゅうじ けごんとうと たいじゅと じんつう しょうまん および よきょうと みな このきょうより いでたり.
「十地 華厳等と 大樹と 神通 勝鬘 及び 余経と 皆 此の経従り 出でたり、.

かくの ごときの みつごんきょうは いっさいきょうの なかに すぐれたり」とう うんぬん.
是くの 如きの 密厳経は 一切経の 中に 勝れたり」等 云云、.

だいうんきょうに いわく.
大雲経に 云く.

「このきょうは すなわち これ しょきょうの てんりんじょうおう なり.
「是の経は 即 是 諸経の 転輪聖王 なり.

なにを もっての ゆえに このきょうてんの なかに しゅじょうの じっしょう ぶっしょう じょうじゅうの ほうぞうを せんぜつする ゆえ なり」とう うんぬん.
何を 以ての 故に 是の経典の 中に 衆生の 実性・仏性・常住の 法蔵を 宣説する 故 なり」等 云云、.

ろくはらみつきょうに いわく.
六波羅蜜経に 云く.

「いわゆる かこ むりょうの しょぶつ しょせつの しょうほう および われ いま とくところの いわゆる 8まん4せんの もろもろの みょうほう おん なり.
「所謂 過去 無量の 諸仏・所説の 正法 及び 我 今 説く所の 所謂 八万四千の 諸の 妙法 蘊 なり、.

せっして 5ぶと なす.
摂して 五分と 為す.

1には そたらん 2には びなや 3には あびだるま 4には はんにゃはらみつ 5には だらにもんと なり.
一には 索咀纜・二には 毘奈耶・三には 阿毘達磨・四には 般若波羅蜜・五には 陀羅尼門と なり.

この 5しゅの くらを もって うじょうを きょうけす.
此の 五種の 蔵を もつて 有情を 教化す、.

もし かの うじょう けいきょう じょうぶく たいほう はんにゃを じゅじする こと あたわず.
若し 彼の 有情 契経 調伏 対法 般若を 受持する こと 能わず.

あるいは また うじょう もろもろの あくごう 4じゅう 8じゅう 5むけんざい ほうとうきょうを ぼうずる いっせんだいらの しゅじゅの じゅうざいを つくるに.
或は 復 有情 諸の 悪業・四重・八重・五無間罪 方等経を 謗ずる 一闡提等の 種種の 重罪を 造るに.

しょうめつして そくしつに げだつし とみに ねはんを さとることを えせしむ.
銷滅して 速疾に 解脱し 頓に 涅槃を 悟ることを 得せしむ、.

しかも かれが ために もろもろの だらにぞうを とく.
而も 彼が 為に 諸の 陀羅尼蔵を 説く、.

この 5の ほうぞう たとえば にゅう らく しょうそ じゅくそ および みょうなる だいごの ごとし.
此の 五の 法蔵 譬えば 乳・酪・生蘇・熟蘇 及び 妙なる 醍醐の 如し、.

そうじもんとは たとえば だいごの ごとし.
総持門とは 譬えば 醍醐の 如し.

だいごの あじは にゅう らく その なかに みみょう だい1にして よく もろもろの やまいを のぞき.
醍醐の 味は 乳・酪・蘇の 中に 微妙 第一にして 能く 諸の 病を 除き.

もろもろの うじょうをして しんしん あんらく ならしむ.
諸の 有情をして 身心 安楽 ならしむ、.

そうじもんとは けいきょう とうの なかに もっとも だい1と なす.
総持門とは 契経 等の 中に 最も 第一と 為す.

よく じゅうざいを のぞく」とう うんぬん.
能く 重罪を 除く」等 云云、.

げじんみつきょうに いわく.
解深密経に 云く.

「その ときに しょうぎしょうぼさつ また ほとけに もうして いわく.
「爾の 時に 勝義生菩薩 復 仏に 白して 云く.

せそん はじめ 1じに おいて はらなっし せんにんだしょせろくりんの なかに ありて.
世尊・初め 一時に 於て 波羅な斯 仙人堕処施鹿林の 中に 在て.

ただ しょうもんじょうを ほっしゅする ものの ために 4たいの そうを もって しょうほうりんを てんじ たまいき.
唯 声聞乗を 発趣する 者の 為に 四諦の 相を 以て 正法輪を 転じ 給いき、.

これ はなはだ きにして はなはだ これけう なり.
是 甚だ 奇にして 甚だ 此れ 希有 なり.

いっさいせけんの もろもろの てんにんら さきより よく ほうの ごとく てんずる もの あること なしと いえども.
一切世間の 諸の 天人等・先より 能く 法の 如く 転ずる 者 有ること 無しと 雖も、.

しかれども かの ときに おいて てんじ たまう ところの ほうりんは うじょうなり うよう なり.
而も 彼の 時に 於て 転じ 給う 所の 法輪は 有上なり 有容 なり.

これ みりょうぎなり これ もろもろの じょうろん あんそくの ところ なり.
是れ 未了義なり 是れ 諸の 諍論 安足の 処所 なり、.

しょうそん むかし だい2じの なかに ただ ほっしゅして だいじょうを しゅうする ものの ためにして いっさいの ほうは かいむじしょう なり.
世尊 在昔 第二時の 中に 唯 発趣して 大乗を 修する 者の 為にして 一切の 法は 皆無自性 なり.

むしょうむめつ なり ほんらいじょうじゃく なり.
無性無滅 なり 本来寂静 なり.

じしょうねはん なるに よる おんみつの そうをもって しょうほうりんを てんじ たまいき.
自性涅槃 なるに 依る 隠密の 相を以て 正法輪を 転じ 給いき、.

さらに はなはだ きにして はなはだ これ けうなりと いえども.
更に 甚だ 奇にして 甚だ 為れ 希有なりと 雖も、.

かの ときに おいて てんじ たまう ところの ほうりん また これ うじょう なり.
彼の 時に 於て 転じ 給う 所の 法輪 亦 是れ 有上 なり.

ようじゅする ところ あり なお いまだ りょうぎ ならず.
容受する 所 有り 猶 未だ 了義 ならず、.

これ もろもろの じょうろん あんそくの ところ なり.
是れ 諸の 諍論 安足の 処所 なり、.

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b221

せそん いま だい3じの なかに おいて あまねく いっさいじょうを ほっしゅする ものの ために.
世尊 今 第三時の 中に 於て 普く 一切乗を 発趣する 者の 為に.

いっさいの ほうは みな むじしょう むしょうむめつ ほんらいじゃくじょう じしょうねはんにして.
一切の 法は 皆 無自性・無生無滅・本来寂静・自性涅槃にして.

むじしょうの しょうなるに より けんりょうの そうを もって しょうほうりんを てんじ たまう.
無自性の 性なるに 依り 顕了の 相を 以て 正法輪を 転じ 給う、.

だい1 はなはだ きにして もっとも これ けう なり.
第一 甚だ 奇にして 最も 為れ 希有 なり、.

いまに せそん てんじ たまう ところの ほうりん むじょうむようにして.
今に 世尊 転じ 給う 所の 法輪・無上無容にして.

これ しんの りょうぎなり もろもろの じょうろん あんそくの ところに あらず」とう うんぬん.
是れ 真の 了義なり 諸の 諍論 安息の 処所に 非ず」等 云云、.

だいはんにゃきょうに いわく「ちょうもんするところの せ しゅっせの ほうに したがって みな よく ほうべんして はんにゃ じんじんの りしゅに えにゅうし.
大般若経に 云く「聴聞する所の 世・出世の 法に 随つて 皆 能く 方便して 般若 甚深の 理趣に 会入し.

もろもろの ぞうさする ところの せけんの じごうも また はんにゃを もって ほっしょうに えにゅうし いちじとして ほっしょうを いずる ものを みず」とう うんぬん.
諸の 造作する 所の 世間の 事業も 亦 般若を 以て 法性に会 入し 一事として 法性を 出ずる 者を 見ず」等 云云、.

だいにちきょう だい1に いわく.
大日経 第一に 云く.

「ひみつしゅ だいじょうぎょうあり むえんじょうの こころを おこす ほうに がしょう なし.
「秘密主 大乗行あり 無縁乗の 心を 発す 法に 我性 無し.

なにを もっての ゆえに かの むかし かくの ごとく しゅぎょうせし ものの ごとく.
何を 以ての 故に 彼 往昔 是くの 如く 修行せし 者の 如く.

うんの あらやを かんさつして じしょうげんの ごとしと しる」とう うんぬん.
蘊の 阿頼耶を 観察して 自性 幻の 如しと 知る」等 云云、.

また いわく「ひみつしゅ かれ かくの ごとく むがを すて しんしゅ じざいにして じしんの ほんぷしょうを かくす」とう うんぬん.
又 云く「秘密主 彼 是くの 如く 無我を 捨て 心主 自在にして 自心の 本不生を 覚す」等 云云、.

また いわく「いわゆる くうしょうは こんきょうを はなれ むそうにして きょうがい なく もろもろの けろんに こえて こくうに とうどう なり ないし ごくむじしょう」とう うんぬん.
又 云く「所謂 空性は 根境を 離れ 無相にして 境界 無く 諸の 戯論に 越えて 虚空に 等同 なり 乃至 極無自性」等 云云、.

また いわく「だいにちそん ひみつしゅに つげて いわく.
又云く「大日尊 秘密主に 告げて 言く.

ひみつしゅ いかなるか ぼだい いわく じつの ごとく じしんを しる」とう うんぬん.
秘密主 云何なるか 菩提・謂く 実の 如く 自心を 知る」等 云云、.

けごんきょうに いわく「いっさい せけんの もろもろの ぐんしょう しょうもんじょうを もとめんと ほっすること あること すくなし えんかくを もとむる もの うたた また すくなし.
華厳経に 云く「一切世界の 諸の 群生 声聞乗を 求めんと 欲すること 有ること 尠し 縁覚を 求むる 者 転・復 少し、.

だいじょうを もとむるもの はなはだ けう なり.
大乗を 求むる者 甚だ 希有 なり.

だいじょうを もとむる もの なお これ やすく よく この ほうを しんずる これ はなはだ かたし.
大乗を 求むる 者 猶 為れ 易く 能く 是の 法を 信ずる 為れ 甚だ 難し、.

いわんや よく じゅじし しょうおくねんし せつの ごとく しゅぎょうし しんじつに げせんをや.
況や 能く 受持し・正憶念し・説の 如く 修行し・真実に 解せんをや、.

もし 3ぜんだいせんかいを もって ちょうだいする こと 1こう みどう ぜざらんも かの しょさ いまだ これ かたからず.
若し 三千大千界を 以て 頂戴する こと 一劫 身動 ぜざらんも 彼の 所作 未だ 為れ 難からず.

このほうを しんずるは これ はなはだ かたし.
是の 法を 信ずるは 為れ 甚だ 難し、.

だいせんじんずの しゅじょうの たぐいに 1こう もろもろの がくぐを くよう するも かの くどく いまだ これ すぐれず.
大千塵数の 衆生の 類に 一劫 諸の 楽具を 供養 するも 彼の 功徳 未だ 為れ 勝れず.

このほうを しんずるは これ しゅしょう なり.
是の 法を 信ずるは 為れ 殊勝 なり、.

もし たなごころを もって じゅうぶつせつを じし こくうに なかに おいて じゅうする こと 1こう なるも かの しょさ いまだ これ かたからず.
若し 掌を 以て 十仏刹を 持し 虚空に 中に 於て 住する こと 一劫 なるも 彼の 所作 未だ 為れ 難からず.

この ほうを しんずるは これ はなはだ かたし.
是の 法を 信ずるは 為れ 甚だ 難し、.

じゅうぶつせつじんの しゅじょうの たぐいに 1こう もろもろの がくぐを くよう せんも かの くどく いまだ すぐれりと なさず.
十仏刹塵の 衆生の 類に 一劫 諸の 楽具を 供養 せんも 彼の 功徳 未だ 勝れりと 為さず.

この ほうを しんずるは これ しゅしょう なり.
是の 法を 信ずるは 為れ 殊勝 なり、.

じゅうぶつせつじんの もろもろの にょらいを 1こう くぎょうして くようせん.
十仏刹塵の 諸の 如来を 一劫 恭敬して 供養せん.

もし よく このほんを じゅじせんものの くどく かれよりも さいしょうと なす」とう うんぬん.
若し 能く 此の品を 受持せん者の 功徳 彼よりも 最勝と 為す」等 云云、.

ねはんぎょうに いわく.
涅槃経に 云く.

「このもろもろの だいじょうほうとうきょうてん また むりょうの くどくを じょうじゅすと いえども この きょうに ひせんと ほっするに.
「是の諸の 大乗方等経典 復 無量の 功徳を 成就すと 雖も 是の 経に 比せんと 欲するに.

たとえを なすを えざること 100ばい 1000ばい ひゃくせんまんばい ないし さんじゅ ひゆも およぶこと あたわざる ところ なり.
喩を 為すを 得ざること 百倍 千倍 百千万倍、乃至算数 譬喩も 及ぶこと 能わざる 所 なり、.

ぜんなんし たとえば うしより ちちを いだし ちちより らくを いだし らくより しょうそを いだし しょうそより じゅくそを いだし じゅくそより だいごを いだす.
善男子 譬えば 牛従り 乳を 出し 乳従り 酪を 出し 酪従り 生蘇を 出し 生蘇従り 熟蘇を 出し 熟蘇従り 醍醐を 出す.

だいごは さいじょう なり.
醍醐は 最上 なり、.

→a221

b222

もし ふくすること ある ものは しゅびょう みな のぞき しょうの しょやくも ことごとく そのなかに いるが ごとし.
若し 服すること 有る 者は 衆病 皆 除き 所有の 諸薬も 悉く 其の中に 入るが 如し、.

ぜんなんし ほとけも また かくの ごとし.
善男子 仏も 亦 是くの 如し.

ほとけより 12ぶきょうを いだし 12ぶきょうより しゅたらを いだし しゅたらより ほうとうきょうを いだし ほうとうきょうより はんにゃはらみつを いだし はんにゃはらみつより だいねはんを いだす.
仏従り 十二部経を 出し 十二部経従り 修多羅を 出し 修多羅従り 方等経を 出し 方等経従り 般若波羅蜜を 出し 般若波羅蜜従り 大涅槃を 出す.

なお だいごの ごとし だいごと いうは ぶっしょうに たとう」とう うんぬん.
猶 醍醐の 如し 醍醐と 言うは 仏性に 喩う」等 云云。.

これらの きょうもんを ほけきょうの いこんとう ろくなん くいに そうたい すれば.
此等の 経文を 法華経の 已今当・六難・九易に 相対 すれば.

つきに ほしを ならべ くせんに しゅみを あわせたるに にたり.
月に 星を ならべ 九山に 須弥を 合せたるに にたり、.

しかれども けごんしゅうの ちょうかん ほっそう さんろん しんごん とうの じおん かじょう こうぼうらの ぶつげんの ごとくなる ひと.
しかれども 華厳宗の 澄観・法相・三論・真言 等の 慈恩・嘉祥・弘法等の 仏眼の ごとくなる 人・.

なお この もんに まどえり.
猶 此の 文に まどへり、.

いかに いわんや もうげんの ごとくなる とうせいの がくしゃら しょうれつを わきまうべしや.
何に 況や 盲眼の ごとくなる 当世の 学者等・勝劣を 弁うべしや、.

こくびゃくの ごとく あきらかに しゅみ けしの ごとくなる しょうれつ なお まどえり.
黒白の ごとく・あきらかに 須弥・芥子の ごとくなる 勝劣 なを・まどへり・.

いわんや こくうの ごとくなる りに まよわざるべしや.
いはんや 虚空の ごとくなる 理に 迷わざるべしや、.

きょうの せんじんを しらざれば りの せんじんを わきまうもの なし.
教の 浅深を しらざれば 理の 浅深を 弁うもの なし.

まきを へだて もん ぜんご すれば きょうもんの いろ わきまえがたければ もんを いだして ぐしゃを たすけんと おもう.
巻を へだて 文・前後 すれば 教門の 色 弁えがたければ 文を 出して 愚者を 扶けんと をもう、.

おうに しょうおう だいおう いっさいに しょうぶん ぜんぶん ごにゅうに ぜんゆ ぶんゆを わきまうべし.
王に 小王・大王・一切に 少分・全分・五乳に 全喩・分喩を 弁うべし、.

ろくはらみつきょうは うじょうの じょうぶつ あって むしょうの じょうぶつ なし.
六波羅蜜経は 有情の 成仏 あつて 無性の 成仏 なし.

いかに いわんや くおんじつじょうを あかさず.
何に 況や 久遠実成を あかさず、.

なお ねはんぎょうの ごみに およばず.
猶 涅槃経の 五味に をよばず.

いかに いわんや ほけきょうの しゃくもん ほんもんに たいすべしや.
何に 況や 法華経の 迹門・本門に たいすべしや、.

しかるに にほんの こうぼうだいし このきょうもんに まどい たまいて ほけきょうを だい4の じゅくそみに いれ たまえり.
而るに 日本の 弘法大師・此の経文に まどひ 給いて 法華経を 第四の 熟蘇味に 入れ 給えり、.

だい5の そうじもんの だいごみ すら ねはんぎょうに およばず いかにし たまいけるやらん.
第五の 総持門の 醍醐味 すら 涅槃経に 及ばず いかにし 給いけるやらん、.

しかるを しんたんの にんし あらそって だいごを ぬすむと てんだいらを ぬすびとと かき たまえり.
而るを 震旦の 人師 争つて 醍醐を 盗むと 天台等を 盗人と かき 給へり.

おしいかな こけん だいごを なめずとうと じたん せられたり.
惜い哉 古賢 醍醐を 嘗めず等と 自歎 せられたり、.

これらは さておく.
此等は さてをく.

わがいちもんの もののために しるす たにんは しんじざれば ぎゃくえん なるべし.
我が一門の 者の ために しるす 他人は 信ぜざれば 逆縁 なるべし、.

1たいを なめて たいかいの しおを しり 1けを みて はるを すいせよ.
一渧を なめて 大海の しをを しり 一華を 見て 春を 推せよ、.

ばんりを わたって そうに いらずとも 3かねんを へて りょうぜんに いたらずとも.
万里を わたて 宋に 入らずとも 三箇年を 経て 霊山に いたらずとも.

りゅうじゅの ごとく りゅうぐうに いらずとも.
竜樹の ごとく 竜宮に 入らずとも.

むじゃくぼさつの ごとく みろくぼさつに あわずとも.
無著菩薩の ごとく 弥勒菩薩に あはずとも.

にしょ さんねに あわずとも.
二所三会に 値わずとも.

いちだいの しょうれつは これを しれる なるべし.
一代の 勝劣は これを しれる なるべし、.

じゃは なのかが うちの こうずいを しる りゅうの けんぞくなる ゆえ.
蛇は 七日が 内の 洪水を しる 竜の 眷属なる ゆへ.

からすは ねんちゅうの きっきょうを しれり かこに おんようし なりし ゆえ.
烏は 年中の 吉凶を しれり 過去に 陰陽師 なりし ゆへ.

とりは とぶ とく ひとに すぐれたり.
鳥は とぶ 徳 人に すぐれたり。.

→a222

b223

にちれんは しょきょうの しょうれつを しること けごんの ちょうかん さんろんの かじょう ほっそうの じおん しんごんの こうぼうに すぐれたり.
日蓮は 諸経の 勝劣を しること 華厳の 澄観・三論の 嘉祥・法相の 慈恩・真言の 弘法に すぐれたり、.

てんだい でんぎょうの あとを しのぶゆえ なり.
天台・伝教の 跡を しのぶゆへ なり、.

かの ひとびとは てんだい でんぎょうに きせさせ たまわずば ほうぼうの とが のがれさせ たまうべしや.
彼の 人人は 天台・伝教に 帰せさせ 給はずば 謗法の 失 脱れさせ 給うべしや、.

とうせい にほんこくに だい1に とめる ものは にちれん なるべし.
当世・日本国に 第一に 富める 者は 日蓮 なるべし.

いのちは ほけきょうに たてまつり なおば こうだいに とどむべし.
命は 法華経に たてまつり 名をば 後代に 留べし、.

たいかいの しゅと なれば もろもろの かじん みな したがう.
大海の 主と なれば 諸の 河神・皆 したがう.

しゅみせんの おうに もろもろの さんじん したがわざるべしや.
須弥山の 王に 諸の 山神 したがはざるべしや、.

ほけきょうの ろくなんくいを わきまうれば いっさいきょう よまざるに したがうべし.
法華経の 六難九易を 弁うれば 一切経 よまざるに したがうべし。.

ほうとうほんの 3かの ちょくせんの うえに だいばほんに 2かの かんぎょう あり.
宝塔品の 三箇の 勅宣の 上に 提婆品に 二箇の 諌暁 あり、.

だいばだったは いっせんだいなり てんのうにょらいと きせらる.
提婆達多は 一闡提なり 天王如来と 記せらる、.

ねはんぎょう 40かんの げんしょうは この ほんに あり.
涅槃経 四十巻の 現証は 此の 品に あり、.

ぜんしょう あじゃせらの むりょうの 5ぎゃく ほうぼうの ものの 1を あげ こうべを あげ まんを おさめ えだを したがう.
善星・阿闍世等の 無量の 五逆・謗法の 者の 一を あげ 頭を あげ 万を をさめ 枝を したがふ、.

いっさいの 5ぎゃく 7ぎゃく ほうぼう せんだい てんのうにょらいに あらわれ おわんぬ.
一切の 五逆・七逆・謗法・闡提・天王如来に あらはれ 了んぬ.

どくやく へんじて かんろと なる.
毒薬 変じて 甘露と なる.

しゅみに すぐれたり.
衆味に すぐれたり、.

りゅうにょが じょうぶつ これ 1にんには あらず いっさいの にょにんの じょうぶつを あらわす.
竜女が 成仏 此れ 一人には あらず 一切の 女人の 成仏を あらはす、.

ほっけ いぜんの もろもろの しょうじょうきょうには にょにんの じょうぶつを ゆるさず.
法華 已前の 諸の 小乗教には 女人の 成仏を ゆるさず、.

もろもろの だいじょうきょうには じょうぶつ おうじょうを ゆるすようなれども.
諸の 大乗経には 成仏・往生を ゆるすやうなれども.

あるいは かいてんの じょうぶつにして いちねんさんぜんの じょうぶつに あらざれば うみょうむじつの じょうぶつ おうじょう なり.
或は 改転の 成仏にして 一念三千の 成仏に あらざれば 有名無実の 成仏 往生 なり、.

こいちれいしょと もうして.
挙一例諸と 申して.

りゅうにょが じょうぶつは まつだいの にょにんの じょうぶつ おうじょうの みちを ふみあけたる なるべし.
竜女が 成仏は 末代の 女人の 成仏 往生の 道を ふみあけたる なるべし、.

じゅけの こうようは こんじょうに かぎる.
儒家の 孝養は 今生に かぎる.

みらいの ふぼを たすけざれば げけの せいけんは うみょうむじつ なり.
未来の 父母を 扶けざれば 外家の 聖賢は 有名無実 なり、.

げどうは かみを しれども ふぼを たすくる みち なし.
外道は 過未を しれども 父母を 扶くる 道 なし.

ぶつどうこそ ふぼの ごせを たすくれば せいけんの なは あるべけれ.
仏道こそ 父母の 後世を 扶くれば 聖賢の 名は あるべけれ、.

しかれども ほけきょう いぜんとうの だいしょうじょうの きょうしゅうは じしんの とくどう なお かないがたし.
しかれども 法華経 已前等の 大小乗の 経宗は 自身の 得道 猶 かなひがたし.

いかに いわんや ふぼをや.
何に 況や 父母をや.

ただ もん のみあって ぎ なし.
但 文 のみあつて 義 なし、.

いま ほけきょうの ときこそ にょにんじょうぶつの とき ひぼの じょうぶつも あらわれ.
今 法華経の 時こそ 女人成仏の 時・悲母の 成仏も 顕われ・.

だったの あくにんじょうぶつの とき じふの じょうぶつも あらわるれ.
達多の 悪人成仏の 時・慈父の 成仏も 顕わるれ、.

このきょうは ないてんの こうきょう なり.
此の経は 内典の 孝経 なり、.

2かの いさめ おわんぬ.
二箇の いさめ 了んぬ。.

いじょう 5かの ほうしょうに おどろきて かんじぼんの ぐきょう あり.
已上 五箇の 鳳詔に をどろきて 勧持品の 弘経 あり、.

みょうきょうの きょうもんを いだして とうせいの ぜん りつ ねんぶつしゃ ならびに しょだんなの ほうぼうを しらしめん.
明鏡の 経文を 出して 当世 の禅・律・念仏者・並びに 諸檀那の 謗法を しらしめん、.

にちれんと いいし ものは こぞ 9がつ 12にち ねうしの ときに くび はねられぬ.
日蓮と いゐし 者は 去年 九月 十二日 子丑の 時に 頚 はねられぬ、.

これは こんぱく さどの くにに いたりて.
此れは 魂魄・佐土の 国に いたりて.

かえるとしの 2がつ せっちゅうに しるして うえんの でしへ おくれば おそろしくて おそろしからず.
返年の 二月・雪中に しるして 有縁の 弟子へ をくれば をそろしくて・をそろしからず・.

みんひと いかに おじぬらん.
みん人 いかに・をぢぬらむ、.

これは しゃか たほう じっぽうの しょぶつの みらい にほんこく とうせいを うつし たまう みょうきょう なり.
此れは 釈迦・多宝・十方の 諸仏の 未来 日本国・当世を うつし 給う 明鏡 なり.

かたみとも みるべし.
かたみとも みるべし。.

→a223

b224

かんじほんに いわく.
勧持品に 云く.

「ただ ねがわくは うらおもい したもうべからず.
「唯 願くは 慮 したもうべからず.

ほとけ めつどの のち くふ あくせの なかに おいて われら まさに ひろく とくべし.
仏 滅度の 後 恐怖 悪世の中に 於て 我等 当に 広く 説くべし、.

もろもろの むちの ひとの あっく めりとうし および とうじょうを くわうるもの あらん われら みな まさに しのぶべし.
諸の 無智の 人の 悪口 罵詈等し 及び 刀杖を 加うる者 有らん 我等 皆 当に 忍ぶべし、.

あくせの なかの びくは じゃちにして こころ てんごくに いまだ えざるを これ えたりと おもい がまんの こころ じゅうまんせん.
悪世の 中の 比丘は 邪智にして 心 諂曲に 未だ 得ざるを 為れ 得たりと 謂い 我慢の 心 充満せん、.

あるいは あれんにゃに のうえにして くうげんに あって みずから しんの どうを ぎょうずと おもって にんげんを きょうせんする もの あらん.
或は 阿練若に 納衣にして 空閑に 在つて 自ら 真の 道を 行ずと 謂つて 人間を 軽賤する 者 有らん.

りように とんじゃくするが ゆえに びゃくえの ために ほうを といて よに くぎょう せらるることを うること 6つうの らかんの ごとくならん.
利養に 貪著するが 故に 白衣の 与に 法を 説いて 世に 恭敬 せらるることを 為ること 六通の 羅漢の 如くならん、.

この ひと あくしんを いだき つねに せぞくのことを おもい なを あれんにゃに かりて このんで われらが とがを いださん.
是の 人 悪心を 懐き 常に 世俗の 事を 念い 名を 阿練若に 仮て 好んで 我等が 過を 出さん、.

つねに たいしゅの なかに あって われらを そしらんと ほっするが ゆえに.
常に 大衆の 中に 在つて 我等を 毀らんと 欲するが 故に.

こくおう だいじん ばらもん こじ および よの びくしゅに むかって ひぼうして わが あくを といて.
国王・大臣・婆羅門・居士 及び 余の 比丘衆に 向つて 誹謗して 我が 悪を 説いて.

これ じゃけんの ひと げどうの ろんぎを とくと いわん.
是れ 邪見の 人・外道の 論議を 説くと 謂わん、.

じょっこう あくせの なかには おおく もろもろの くふ あらん.
濁劫 悪世の 中には 多く 諸の 恐怖 有らん.

あっき そのみに いって われを めり きにくせん.
悪鬼 其身に 入つて 我を 罵詈 毀辱せん、.

じょくせの あくびくは ほとけの ほうべん ずいぎの しょせつの ほうを しらず.
濁世の 悪比丘は 仏の 方便 随宜の 所説の 法を 知らず.

あっくし ひんしゅくし しばしば ひんずい せられん」とう うんぬん.
悪口し 顰蹙し 数数 擯出 せられん」等 云云、

きの 8に いわく.
記の 八に 云く.

「もんに さん はじめに 1ぎょうは つうじて じゃにんを あかす すなわち ぞくしゅ なり.
「文に 三 初に 一行は 通じて 邪人を 明す 即ち 俗衆 なり、.

つぎに 1ぎょうは どうもんぞうじょうまんの ものを あかす.
次に 一行は 道門増上慢の 者を 明す、.

3に 7ぎょうは せんしょうぞうじょうまんの ものを あかす.
三に 七行は 僣聖増上慢の 者を 明す、.

この3の なかに はじめは しのぶべし つぎの ものは さきに すぎたり だい3 もっとも はなはだし.
此の三の 中に 初は 忍ぶ可し 次の 者は 前に 過ぎたり 第三 最も 甚だし.

のちのちの ものは うたた しり がたきを もっての ゆえに」とう うんぬん.
後後の 者は 転 識り 難きを 以ての 故に」等 云云、.

とうしゅんに ちどほっし いわく.
東春に 智度法師 云く.

「はじめに うしょより しもの 5ぎょうは だい1に 1げは さんごうの あくを しのぶ.
「初に 有諸より 下の 五行は 第一に 一偈は 三業の 悪を 忍ぶ.

これ げあくの ひと なり.
是れ 外悪の 人 なり.

つぎに あくせの しもの 1げは これ じょうまん しゅっけの ひと なり.
次に 悪世の 下の 一偈は 是 上慢 出家の 人 なり.

だい3に わくうあれんにゃより しもの 3げは すなわち これ しゅっけの ところに いっさいの あくにんを せっす」とう うんぬん.
第三に 或有阿練若より 下の 三偈は 即 是 出家の 処に 一切の 悪人を 摂す」等 云云、.

また いわく「じょうざい たいしゅより しもの りょうぎょうは こうしょに むかって ほうを そしり ひとを ぼうず」とう うんぬん.
又 云く「常在 大衆より 下の 両行は 公処に 向つて 法を 毀り 人を 謗ず」等 云云、.

ねはんぎょうの 9に いわく.
涅槃経の 九に 云く.

「ぜんなんし いっせんだい あり らかんの かたちを なして くうしょに じゅうし.
「善男子 一闡提 有り 羅漢の 像を 作して 空処に 住し.

ほうとうだいじょうきょうてんを ひぼうせん もろもろの ぼんぷ にん みおわって みな しんの あらかん これ だいぼさつ なりと おもわん」とう うんぬん.
方等大乗経典を 誹謗せん 諸の 凡夫 人 見已つて 皆 真の 阿羅漢 是 大菩薩 なりと 謂わん」等 云云、.

また いわく「そのときに このきょう えんぶだいに おいて まさに ひろく るふすべし.
又 云く「爾の時に 是の経 閻浮提に 於て 当に 広く 流布すべし、.

そのときに まさに もろもろの あくびく あって この きょうを しょうりゃくし わかちて たぶんと なし.
是の時に 当に 諸の 悪比丘 有つて 是の 経を 抄略し 分ちて 多分と 作し.

よく しょうほうの しきこうみみを めっすべし.
能く 正法の 色香美味を 滅すべし、.

この もろもろの あくにん また かくの ごとき きょうてんを どくじゅすと いえども.
是の 諸の 悪人 復 是くの 如き 経典を 読誦すと 雖も.

にょらいの じんみつの ようぎを めつじょして せけんの しょうごんの もんしきむぎの ことばを あんちす.
如来の 深密の 要義を 滅除して 世間の 荘厳の 文飾無義の 語を 安置す.

さきを しょうして あとに つけ あとを しょうして さきに つけ.
前を 抄して 後に 著け 後を 抄して 前に 著け.

ぜんごを なかにつけ なかを ぜんごに つく.
前後を 中に 著け 中を 前後に 著く.

まさに しるべし かくの ごときの もろもろの あくびくは これ まの はんりょ なり」とう うんぬん.
当に 知るべし 是くの 如きの 諸の 悪比丘は 是れ 魔の 伴侶 なり」等 云云、.

→a224

b225

6かんの はつないおんきょうに いわく.
六巻の 般泥おん経に 云く.

「あらかんに にたる いっせんだい あって あくごうを ぎょうず.
「阿羅漢に 似たる 一闡提 有つて 悪業を 行ず、.

いっせんだいに にたる あらかんあって じしんを なさん.
一闡提に 似たる 阿羅漢あつて 慈心を 作さん.

らかんに にたる いっせんだい ありとは この もろもろの しゅじょう ほうとうを ひぼう するなり.
羅漢に 似たる 一闡提 有りとは 是の 諸の 衆生 方等を 誹謗 するなり、.

いっせんだいに にたる あらかんとは しょうもんを きしし ひろく ほうとうを とく なり.
一闡提に 似たる 阿羅漢とは 声聞を 毀呰し 広く 方等を 説く なり.

しゅじょうに かたって いわく われ なんだちと ともに これ ぼさつ なり.
衆生に 語つて 言く 我れ 汝等と 倶に 是れ 菩薩 なり.

ゆえんは いかん いっさい みな にょらいの しょう あるゆえに しかも かの しゅじょう いっせんだい なりと いわん」とう うんぬん.
所以は 何ん 一切 皆 如来の 性 有る故に 然も 彼の 衆生 一闡提 なりと 謂わん」等 云云、.

ねはんぎょうに いわく.
涅槃経に 云く.

「わが ねはんの のち ないし しょうほう めっして のち ぞうほうの なかに おいて まさに びく あるべし.
「我 涅槃の 後 乃至 正法 滅して 後 像法の 中に 於て 当に 比丘 有るべし.

じりつに じぞうして わずかに きょうを どくじゅし おんじきを とんしし その みを ちょうようす.
持律に 似像して 少かに 経を 読誦し 飲食を 貪嗜し 其の 身を 長養す、.

けさを きると いえども なお りょうしの さいし じょこう するが ごとく.
袈裟を 服ると 雖も 猶 猟師の 細視 徐行 するが 如く.

ねこの ねずみを うかがうが ごとし.
猫の 鼠を 伺うが 如し、.

つねに この ことばを となえん.
常に 是の 言を 唱えん.

われ らかんを えたりと.
我 羅漢を 得たりと.

そとには けんぜんを あらわし うちには とんしつを いだかん.
外には 賢善を 現わし 内には 貪嫉を 懐かん.

あほうを うけたる ばらもんらの ごとし.
唖法を 受けたる 婆羅門等の 如し、.

じつに しゃもんに あらずして しゃもんの かたちを げんじ じゃけん しじょうにして しょうほうを ひぼうせん」とう うんぬん.
実に 沙門 に非ずして 沙門の 像を 現じ 邪見 熾盛にして 正法を 誹謗せん」等 云云。.

それ じゅほう そうりんの にちがつ ひだん とうしゅんの みょうきょうに.
夫れ 鷲峯・雙林の 日月・毘湛・東春の 明鏡に.

とうせいの しょしゅう ならびに こくちゅうの ぜん りつ ねんぶつしゃが しゅうめんを うかべたるに いちぶんも くもり なし.
当世の 諸宗・並に 国中の 禅 律・念仏者が 醜面を 浮べたるに 一分も くもり なし、.

みょうほけきょうに いわく「おぶつめつどご くふ あくせちゅう」.
妙法華経に 云く「於仏滅度後恐怖悪世中」.

あんらくぎょうほんに いわく「おごあくせ」.
安楽行品に 云く「於後悪世」.

また いわく「おまつせちゅう」.
又 云く「於末世中」.

また いわく「おごまつせほうよくめつじ」.
又 云く「於後末世法欲滅時」.

ふんべつくどくほんに いわく「あくせまっぽうじ」.
分別功徳品に 云く「悪世末法時」.

やくおうほんに いわく「ご500さい」とう うんぬん.
薬王品に 云く「後五百歳」等 云云、.

しょうほけきょうの かんせつぼんに いわく「ねんごまっせ」.
正法華経の 勧説品に 云く「然後末世」.

また いわく「ねんごらいまっせ」とう うんぬん.
又 云く「然後来末世」等 云云、.

てんぽんほけきょうに いわく とう.
添品法華経に 云く 等、.

てんだいの いわく「ぞうほうの なかの なんさんほくしちは ほけきょうの おんてき なり」.
天台の 云く「像法の 中の 南三北七は 法華経の 怨敵 なり」、.

でんぎょうの いわく「ぞうほうの すえ なんと 6しゅうの がくしゃは ほっけの おんてき なり」とう うんぬん.
伝教の 云く「像法の 末・南都・六宗の 学者は 法華の 怨敵 なり」等 云云、.

かれらの ときは いまだ ふんみょう ならず.
彼等の 時は いまだ 分明 ならず、.

これは きょうしゅしゃくそん たほうぶつ ほうとうの なかに にちがつの ならぶが ごとく.
此は 教主釈尊・多宝仏・宝塔の 中に 日月の 並ぶが ごとく.

じっぽう ぶんしんの しょぶつ じゅげに ほしを つらねたりし なかにして.
十方・分身の 諸仏・樹下に 星を 列ねたりし 中にして.

しょうほう 1せんねん ぞうほう 1せんねん 2せんねんすぎて まっぽうの はじめに.
正法 一千年・像法 一千年・二千年すぎて 末法の 始に.

ほけきょうの おんてき 3るい あるべしと 80まんおくなゆたの しょぼさつの さだめ たまいし こもうと なるべしや.
法華経の 怨敵・三類 あるべしと 八十万億那由佗の 諸菩薩の 定め 給いし 虚妄と なるべしや、.

とうせいは にょらいめつご 2200よねんなり.
当世は 如来滅後・二千二百余年なり.

だいちは ささば はづるとも はるは はな さかずとも.
大地は 指ば・はづるとも 春は・花は・さかずとも.

3るいの てきじん かならず にほんこくに あるべし.
三類の 敵人・必ず 日本国に あるべし、.

さるにては たれたれの ひとびとか.
さるにては・たれたれの 人人か.

3るいの うち なるらん.
三類の 内 なるらん.

また たれびとか ほけきょうの ぎょうじゃなりと さされたるらん.
又 誰人か 法華経の 行者なりと さされたるらん・.

おぼつかなし.
をぼつかなし、.

かの 3るいの おんてきに われら いりてや あるらん.
彼の 三類の 怨敵に 我等 入りてや あるらん.

また ほけきょうの ぎょうじゃの うちにてや あるらん.
又 法華経の 行者の 内にてや あるらん・.

おぼつかなし.
をぼつかなし、.

しゅうの だい4 しょうおうの ぎょう 24ねん きのえとら 4がつ 8かの やちゅうに てんに 5しきの こうき なんぼくに わたりて ひるの ごとし.
周の 第四 昭王の 御宇 二十四年 甲寅・四月 八日の 夜中に 天に 五色の 光気・南北に 亘りて 昼の ごとし、.

→a225

b226

だいち 6しゅに しんどうし あめふらずして こうが せいちの みず まさり.
大地・六種に 震動し 雨ふらずして 江河・井池の 水 まさり.

いっさいの そうもくに はなさき このみ なり たりけり.
一切の 草木に 花さき 菓 なり たりけり.

ふしぎなりし こと なり.
不思議なりし 事 なり、.

しょうおう おおいに おどろき たいし そゆう うらなって いわく「さいほうに しょうにん うまれたり」.
昭王・大に 驚き 大史・蘇由・占つて 云く「西方に 聖人 生れたり」.

しょうおう とうて いわく「この くに いかん」.
昭王 問て 云く「此の 国 いかん」.

こたえて いわく「こと なし 1000ねんの のちに かの しょうごん この くにに わたって しゅじょうを りすべし」.
答えて 云く「事 なし 一千年の 後に 彼の 聖言・此の 国に わたつて 衆生を 利すべし」.

かの わずかの げてんの いちごうみだん けんじの もの しかれども 1000ねんの ことを しる.
彼の わづかの 外典の 一毫未断・見思の 者・しかれども 一千年の ことを しる、.

はたして ぶっきょう 1せん15ねんと もうせし ごかんの だい2 めいていの えいへい10ねん ひのとうの とし.
はたして 仏教・一千一十五年と 申せし 後漢の 第二・明帝の 永平十年 丁卯の 年・.

ぶっぽう かんどに わたる.
仏法・漢土に わたる、.

これは にるべくもなき しゃか たほう じっぽうぶんしんの ほとけの みまえの しょぼさつの みらいき なり.
此は 似るべくもなき 釈迦・多宝・十方分身の 仏の 御前の 諸菩薩の 未来記 なり、.

とうせい にほんこくに 3るいの ほけきょうの てきじん なかるべしや.
当世・日本国に 三類の 法華経の 敵人 なかるべしや、.

されば ほとけ ふほうぞうきょうとうに きして いわく.
されば 仏・付法蔵経等に 記して 云く.

「わが めつごに しょうほう 1せんねんがあいだ わが しょうほうを ひろむべきひと 24にん しだいに そうぞく すべし」.
「我が 滅後に 正法 一千年が間・我が 正法を 弘むべき人・二十四人・次第に 相続 すべし」.

かしょう あなんらは さておきぬ.
迦葉・阿難等は さてをきぬ.

1ひゃくねんの きょうびく 600ねんの めみょう 700ねんの りゅうじゅぼさつら.
一百年の 脇比丘・六百年の 馬鳴・七百年の 竜樹菩薩等・.

いちぶんも たがわず すでに いで たまいぬ.
一分も たがはず・すでに 出で 給いぬ、.

この こと いかんが むなしかるべき.
此の 事 いかんが・むなしかるべき.

この こと そういせば いっきょう みな そうい すべし.
此の 事 相違せば 一経・皆 相違 すべし、.

いわゆる しゃりほつが みらいの けこうにょらい かしょうの みょうこうにょらいも みな もうごと なるべし.
所謂 舎利弗が 未来の 華光如来・迦葉の 光明如来も 皆 妄語と なるべし、.

にぜん かえって いちじょうと なって ようふじょうぶつの しょしょうもん なり.
爾前 返つて 一定と なつて 永不成仏の 諸声聞 なり、.

いぬ やかんをば くようすとも あなんらをば くようすべからずとなん.
犬 野干をば 供養すとも 阿難等をば 供養すべからずとなん、.

いかんがせん いかんがせん.
いかんがせん・いかんがせん。.

だい1の もろもろの むちのひと あらんと いうは きょうもんの だい2の あくせの なかの びくと だい3の のうえの びくの だいだんなと みえたり.
第一の 有諸無智人と 云うは 経文の 第二の 悪世中比丘と 第三の 納衣の 比丘の 大檀那と 見へたり、.

したがって みょうらくだいしは「ぞくしゅ」とう うんぬん.
随つて 妙楽大師は「俗衆」等 云云、.

とうしゅんに いわく「こうしょに むかう」とう うんぬん.
東春に 云く「公処に 向う」等 云云、.

だい2の ほけきょうの おんてきは きょうに いわく.
第二の 法華経の 怨敵は 経に 云く.

「あくせちゅうの びくは じゃちにして こころ てんごくに いまだ えざるを これ えたりと おもい がまんの こころ じゅうまんせん」とう うんぬん.
「悪世中の 比丘は 邪智にして 心 諂曲に 未だ 得ざるを 為れ 得たりと 謂い 我慢の 心 充満せん」等 云云、.

ねはんぎょうに いわく.
涅槃経に 云く.

「このときに まさに もろもろの あくびく あるべし.
「是の時に 当に 諸の 悪比丘 有るべし.

ないし このもろもろの あくにん また かくの ごとき きょうてんを どくじゅすと いえども にょらいじんみつの ようぎを めつじょせん」とう うんぬん.
乃至 是の諸の 悪人 復 是くの 如き 経典を 読誦す と雖も 如来深密の 要義を 滅除せん」等 云云、.

しかんに いわく.
止観に 云く.

「もし しん なきは たかく しょうきょうに おして おのが ちぶんに あらずと す.
「若し 信 無きは 高く 聖境に 推して 己が 智分に 非ずと す、.

もし ち なきは ぞうじょうまんを おこし おのれ ほとけに ひとしと おもう」とう うんぬん.
若し 智 無きは 増上慢を 起し 己れ 仏に 均しと 謂う」等 云云、.

どうしゃくぜんじが いわく「2に りじんげみ なるに よる」とう うんぬん.
道綽禅師が 云く「二に 理深解微 なるに 由る」等 云云、.

ほうねん いわく「しょぎょうは きに あらず ときを うしなう」とう うんぬん.
法然 云く「諸行は 機に 非ず 時を 失う」等 云云、.

きの 10に いわく.
記の 十に 云く.

「おそらくは ひと あやまり げせんもの しょしんの くどくの だいなる ことを しらずして こうを じょういに ゆずり この しょしんを ないがしろに せん.
「恐くは 人 謬り 解せん者 初心の 功徳の 大なる ことを 識らずして 功を 上位に 推り 此の 初心を 蔑に せん.

ゆえに いま かれの ぎょう あさく こう ふかきことを しめして もって きょうりきを あらわす」とう うんぬん.
故に 今 彼の 行 浅く 功 深きことを 示して 以て 経力を 顕す」等 云云、.

→a226

b227

でんぎょうだいし いわく.
伝教大師 云く.

「しょうぞう やや すぎ おわって まっぽう はなはだ ちかきに あり.
「正像 稍 過ぎ 已て 末法 太はだ 近きに 有り.

ほっけ いちじょうの き いま まさしく これ そのとき なり.
法華 一乗の 機 今 正しく 是 其の時 なり.

なにを もって しることを うる.
何を 以て 知ることを 得る.

あんらくぎょうほんに いわく まっせほうめつの とき なり」とう うんぬん.
安楽行品に 云く 末世法滅の 時 なり」等 云云、.

えしんの いわく「にほん いっしゅう えんき じゅんいち なり」とう うんぬん.
慧心の 云く「日本 一州 円機 純一 なり」等 云云、.

どうしゃくと でんぎょうと ほうねんと えしんと いずれ これを しんずべしや.
道綽と 伝教と 法然と 慧心と いづれ 此を 信ずべしや、.

かれは いっさいきょうに しょうもんなし これは ただしく ほけきょうに よれり.
彼は 一切経に 証文なし 此れは 正しく 法華経に よれり、.

その うえ にほんこく いちどうに えんざんの だいしは じゅかいの し なり.
其の 上 日本国・一同に 叡山の 大師は 受戒の 師 なり.

なんぞ てんまの つける ほうねんに こころを よせ わが ていずの しを なげすつるや.
何ぞ 天魔の つける 法然に 心をよせ 我が 剃頭の 師を なげすつるや、.

ほうねん ちしゃ ならば なんぞ この しゃくを せんちゃくに のせて わえ せざる ひとの りを かくせる ものなり.
法然 智者 ならば 何ぞ 此の 釈を 選択に 載せて 和会 せざる 人の 理を かくせる 者なり、.

だい2の あくせちゅうびくと ゆびささるるは ほうねんらの むかい じゃけんの ものなり.
第二の 悪世中比丘と 指さるるは 法然等の 無戒・邪見の 者なり、.

ねはんぎょうに いわく「われら ことごとく じゃけんの ひとと なずく」とう うんぬん.
涅槃経に 云く「我れ等 悉く 邪見の 人と 名く」等 云云、.

みょうらく いわく「みずから 3きょうを さして みな じゃけんと なずく」とう うんぬん.
妙楽 云く「自ら 三教を 指して 皆 邪見と 名く」等 云云、.

しかんに いわく「だいきょうに いわく これよりの まえは われら みな じゃけんの ひとと なずくるなり
止観に 云く「大経に 云く 此よりの 前は 我等 皆 邪見の 人と 名くるなり、.

じゃ あに あくに あらずや」とう うんぬん.
邪 豈 悪に 非ずや」等 云云、.

ぐけつに いわく.
弘決に 云く.

「じゃは すなわち これ あくなり この ゆえに まさに しるべし ただ えんを ぜんと なす.
「邪は 即ち 是れ 悪なり 是の 故に 当に 知るべし 唯 円を 善と 為す、.

また 2い あり 1には じゅんを もって ぜんとなし はいを もって あくと なす そうたいの いなり.
復 二意 有り、一には 順を 以つて 善と為し 背を 以つて 悪と 為す 相待の 意なり、.

じゃくを もって あくと なし たつを もって ぜんと なす.
著を 以つて 悪と 為し 達を 以つて 善と 為す.

そうたい ぜったい ともに すべからく あくを はなるべし.
相待・絶待 倶に 須く 悪を 離るべし.

えんに じゃくする なお あくなり いわんや また よをや」とう うんぬん.
円に 著する 尚 悪なり 況や 復 余をや」等 云云、.

げどうの ぜんあくは しょうじょうきょうに たいすれば みな あくどう しょうじょうの ぜんどう.
外道の 善悪は 小乗経に 対すれば 皆 悪道 小乗の 善道・.

ないし しみさんきょうは ほけきょうに たいすれば みな じゃあく ただ ほっけのみ しょうぜん なり.
乃至 四味三教は 法華経に 対すれば 皆 邪悪・但 法華のみ 正善 なり、.

にぜんの えんは そうたいみょう なり ぜったいみょうに たいすれば なお あく なり.
爾前の 円は 相待妙 なり、絶待妙に 対すれば 猶 悪 なり.

ぜんさんきょうに せっすれば なお あくどう なり.
前三教に 摂すれば 猶 悪道 なり、.

にぜんの ごとく かの きょうの ごくりを ぎょうずる なお あくどう なり.
爾前の ごとく 彼の 経の 極理を 行ずる 猶 悪道 なり、.

いわんや かんぎょうとうの なお けごん はんにゃきょうとうに およばざる しょうほうを ほんとして ほけきょうを かんぎょうに とりいれて.
況や 観経等の 猶 華厳・般若経等に 及ばざる 小法を 本として 法華経を 観経に 取り入れて.

かえって ねんぶつに たいして かくほうへいしゃせるは ほうねん ならびに しょけの でしら だんならは ひぼう しょうほうのものに あらずや.
還つて 念仏に 対して 閣抛閉捨せるは 法然 並びに 所化の 弟子等・檀那等は 誹謗 正法の者に あらずや、.

しゃか たほう じっぽうの しょぶつは ほうをして ひさしく じゅうせしめんが ゆえに ここに らいしし たまえり.
釈迦・多宝・十方の 諸仏は 法をして 久しく 住せしめんが 故に 此に 来至し 給えり、.

ほうねん ならびに にほんこくの ねんぶつしゃらは ほけきょうは まっぽうに ねんぶつより さきに めつじん すべしと.
法然 並に 日本国の 念仏者等は 法華経は 末法に 念仏より 前に 滅尽 すべしと.

あに 3しょうの おんてきに あらずや.
豈三 聖の 怨敵に あらずや。.

だい3は ほけきょうに いわく.
第三は、法華経に 云く.

「あるいは あれんにゃに あり のうえにして くうげんに あって ないし びゃくえの ために ほうを といて.
「或は 阿練若に 有り 納衣にして 空閑に 在つて 乃至 白衣の 与に 法を 説いて.

よに くぎょう せらるることを うること 6つうの らかんの ごとく ならん」とう うんぬん.
世に 恭敬 せらるることを 為ること 六通の 羅漢の 如く ならん」等 云云、.

6かんの はつないおんきょうに いわく.
六巻の 般泥経に 云く.

「らかんに にたる いっせんだい あって あくごうを ぎょうじ いっせんだいに にたる あらかん あって じしんを なさん.
「羅漢に 似たる 一闡提 有つて 悪業を 行じ 一闡提に 似たる 阿羅漢 あつて 慈心を 作さん、.

らかんに にたる いっせんだい ありとは これ もろもろの しゅじょうの ほうとうを ひぼうするなり.
羅漢に 似たる 一闡提 有りとは 是 諸の 衆生の 方等を 誹謗するなり.

→a227

b228

いっせんだいに にたる あらかんとは しょうもんを きしして ひろく ほうとうを とき.
一闡提に 似たる 阿羅漢とは 声聞を 毀呰して 広く 方等を 説き.

しゅじょうに かたって いわく われ なんだちと ともに これ ぼさつ なり.
衆生に 語つて 言く 我 汝等と 倶に 是れ 菩薩 なり.

ゆえんは いかん いっさい みな にょらいの しょう あるが ゆえに しかも かの しゅじょうは いっせんだいと いわん」とう うんぬん.
所以は 何ん 一切 皆 如来の 性 有るが 故に 然かも 彼の 衆生は 一闡提と 謂わん」等 云云、.

ねはんぎょうに いわく.
涅槃経に 云く.

「われ ねはんの のち ぞうほうの なかに まさに びく あるべし.
「我れ 涅槃の 後・像法の 中に 当に 比丘 有るべし.

じりつに じぞうして わずかに きょうてんを どくじゅし.
持律に 似像して 少かに 経典を 読誦し.

おんじきを とんしして その みを ちょうよう せん.
飲食を 貪嗜して 其の 身を 長養 せん.

けさを きると いえども なお りょうしの さいし じょこうするが ごとく ねこの ねずみを うかがうが ごとし.
袈裟を 服ると 雖も 猶 猟師の 細視 徐行するが 如く 猫の 鼠を 伺うが 如し、.

つねに この ことばを となえん.
常に 是の 言を 唱えん.

われ らかんを えたりと そとには けんぜんを あらわし うちには とんしつを いだく.
我 羅漢を 得たりと 外には 賢善を 現し 内には 貪嫉を 懐く.

あほうを うけたる ばらもんらの ごとく じつには しゃもんに あらずして しゃもんの かたちを げんじ.
唖法を 受けたる 婆羅門等の 如く 実には 沙門に 非ずして 沙門の 像を 現じ.

じゃけん しじょうにして しょうほうを ひぼうせん」とう うんぬん.
邪見 熾盛にして 正法を 誹謗せん」等 云云、.

みょうらく いわく「だい3 もっとも はなはだし のちのちの もの うたた しりがたきを もっての ゆえに」とう うんぬん.
妙楽 云く「第三 最も 甚し 後後の 者 転 識り難きを 以つての 故に」等 云云、.

とうしゅん いわく「だい3に わくうあれんにゃより しもの 3げは すなわち これ しゅっけの ところに いっさいの あくにんを せっす」とう うんぬん.
東春 云く「第三に 或有阿練若より 下の 三偈は 即 是 出家の 処に 一切の 悪人を 摂す」等 云云、.

とうしゅんに「すなわち これ しゅっけの ところに いっさいの あくにんを せっす」とうとは とうせい にほんこくには いずれの ところぞや.
東春に「即 是 出家の 処に 一切の 悪人を 摂する」等とは 当世・日本国には 何れの 処ぞや、.

えいざんか おんじょうか とうじか なんとか けんにんじか じゅふくじか けんちょうじか.
叡山か 園城か 東寺か 南都か 建仁寺か 寿福寺か 建長寺か・.

よくよく たずぬべし.
よくよく・たづぬべし、.

えんりゃくじの しゅっけの こうべに かっちゅうを よろうを さすべきか.
延暦寺の 出家の 頭に 甲冑を よろうを・さすべきか、.

おんじょうじの 5ぶ ほっしんの はだえに がいじょうを たいせるか.
園城寺の 五分 法身の 膚に 鎧杖を 帯せるか、.

かれらは きょうもんに のうえざいくうかんと さすには にず.
彼等は 経文に 納衣在空閑と 指すには にず.

いせしょくぎょう にょ6つうらかんと ひと おもわず.
為世所恭敬・如六通羅漢と 人 をもはず.

また てんなんしきこと いうべしや.
又 転難識故と いうべしや.

からくには しょういちら かまくらには りょうかんらに にたり.
華洛には 聖一等・鎌倉には 良観等に にたり、.

ひとを あだむこと なかれ まなこ あらば きょうもんに わがみを あわせよ.
人を あだむこと なかれ 眼あらば 経文に 我が身を あわせよ、.

しかんの だい1に いわく「しかんの みょうじょうなることは ぜんだい いまだ きかず」とう うんぬん.
止観の 第一に 云く「止観の 明静なることは 前代 未だ 聞かず」等 云云、.

ぐの 1に いわく「かんの めいてい よる ゆめみしより ちんちょうに およぶまで ぜんもんに あずかり まじわりて えはつでんじゅする もの」とう うんぬん.
弘の 一に 云く「漢の 明帝 夜 夢みし自り 陳朝に およぶまで 禅門に 予り 厠て 衣鉢伝授する 者」等 云云、.

ほちゅうに いわく「えはつでんじゅとは だるまを さす」とう うんぬん.
補注に 云く「衣鉢伝授とは 達磨を 指す」等 云云、.

しの 5に いわく「また 1しゅの ぜんにん ないし もうはの しと ふたり ともに だらくす」とう うんぬん.
止の 五に 云く「又 一種の 禅人 乃至 盲跛の 師徒 二 倶に 堕落す」等 云云、.

しの 7に いわく「9の い せけんの もじの ほっしと とも ならず.
止の 七に 云く「九の 意 世間の 文字の 法師と 共 ならず、.

じそうの ぜんじと とも ならず.
事相の 禅師と 共 ならず、.

1しゅの ぜんじは ただ かんじんの 1いのみ あり.
一種の 禅師は 唯 観心の 一意のみ 有り.

あるいは あさく あるいは いつわる よの 9は まったく これなし きょげんに あらず.
或は 浅く 或は 偽る 余の 九は 全く 此無し 虚言に 非ず.

こうけん まなこ あらん ものは まさに しょうち すべき なり.
後賢 眼 有らん 者は 当に 証知 すべき なり」、.

ぐの 7に いわく.
弘の 七に 云く.

「もじほっしとは うちに かんげなくして ただ ほっそうを かまう.
「文字法師とは 内に 観解無くして 唯 法相を 構う.

じそうの ぜんじとは きょうちを ならわず びかくに こころを とどむ.
事相の 禅師とは 境智を 閑わず 鼻膈に 心を 止む.

ないし こんぽんうろじょう とうなり.
乃至 根本有漏定 等なり、.

1しゆいうかんじん1いとうとは これは しばらく あたえて ろんを なす.
一師唯有観心一意等とは 此は 且く 与えて 論を 為す.

うばえば すなわち かんげ ともに かく.
奪えば 則ち 観解 倶に 闕く、.

せけんの ぜんにん ひとえに りかんを とうとぶ すでに おしえを そらんぜず.
世間の 禅人 偏えに 理観を 尚ぶ 既に 教を 諳んぜず.

かんを もって きょうを けし はちじゃはちふうを かぞえて じょうろくの ほとけと なし.
観を 以つて 経を 消し 八邪八風を 数えて 丈六の 仏と 為し.

ごおんさんどくを がっして なずけて 8じゃと なし.
五陰三毒を 合して 名けて 八邪と 為し.

ろくにゅうを もちいて 6つうと なし 4だいを もって 4たいと なす.
六入を 用いて 六通と 為し 四大を 以つて 四諦と 為す、.

→a228

b229

かくの ごとく きょうを げするは ぎの なかの ぎなり.
此くの 如く 経を 解するは 偽の 中の 偽なり.

なんぞ あさくして ろんずべけんや」とう うんぬん.
何ぞ 浅くして 論ず 可けんや」等 云云、.

しかんの 7に いわく.
止観の 七に 云く.

むかし ぎょうらくの ぜんじ なかかいに しき じゅうするときは しほう くもの ごとくに あおぎ さるときは せんひゃく むれを なし いんいんごうごう また なにの りえきか ある りんじゅうに みな くゆ」とう うんぬん.
「昔 ぎょう洛の 禅師 名 河海に 播き 住するときは 四方 雲の 如く に仰ぎ 去るときは 阡陌 群を 成し 隠隠轟轟 亦 何の 利益か 有る、臨終に 皆 悔ゆ」等 云云、.

ぐの 7に いわく.
弘の 七に 云く.

「ぎょうらくの ぜんじとは ぎょうは そうしゅうに あり すなわち せいぎの みやこする ところ なり.
「ぎょう洛の 禅師とは ぎょうは 相州に 在り 即ち 斉魏の 都する 所 なり、.

おおいに ぶっぽうを おこす ぜんその はじめ その ちを おうけ す.
大に 仏法を 興す 禅祖の 一・其の 地を 王化 す、.

じじんの いを まもりて その なを いださず らくは すなわち らくよう なり」とう うんぬん.
時人の 意を 護りて 其の 名を 出さず 洛は 即ち 洛陽 なり」等 云云、.

6かんの はつないおんきょうに いわく.
六巻の 般泥おん経に 云く.

「くきょうの ところを みずとは かの いっせんだいの やからの くきょうの あくごうを みざるなり」とう うんぬん.
「究竟の 処を 見ずとは 彼の 一闡提の 輩の 究竟の 悪業を 見ざるなり」等 云云、.

みょうらく いわく「だい3 もっとも はなはだし うたた しりがたきが ゆえに」とう.
妙楽 云く「第三 最も 甚だし 転 識り難きが 故に」等、.

むげんの もの いちげんの もの じゃけんの ものは まっぽうの はじめの 3るいを みるべからず.
無眼の 者・一眼の 者・邪見の 者は 末法の 始の 三類を 見るべからず.

いちぶんの ぶつげんを うるもの これを しるべし.
一分の 仏眼を 得るもの 此れを しるべし、.

こうこくおうだいじんばらもんこじとう うんぬん.
向国王大臣婆羅門居士等 云云、.

とうしゅんに いわく「こうしょに むかい ほうを そしり ひとを ぼうず」とう うんぬん.
東春に 云く「公処に 向い 法を 毀り 人を 謗ず」等 云云、.

それ むかし ぞうほうの すえには ごみょう しゅうえんら そうじょうを ささげて でんぎょうだいしを ざんそうす.
夫れ 昔 像法の 末には 護命・修円等・奏状を ささげて 伝教大師を 讒奏す、.

いま まっぽうの はじめには りょうかん ねんあら ぎしょを ちゅうして しょうぐんけに ささぐ.
今 末法の 始には 良観・念阿等 偽書を 注して 将軍家に ささぐ・.

あに さんるいの おんてきに あらずや.
あに 三類の 怨敵に あらずや。.

とうせいの ねんぶつしゃら てんだいほっけしゅうの だんなの こくおう だいじん ばらもん こじらに むかって いわく.
当世の 念仏者等・天台法華宗の 檀那の 国王・大臣・婆羅門・居士等に 向つて 云く.

「ほけきょうは りじん われらは げみ ほうは いたって ふかく きは いたって あさし」とうと もうし うとむるは.
「法華経は 理深 我等は 解微 法は 至つて 深く 機は 至つて 浅し」等と 申し うとむるは.

こうずいしょうきょう ひこちぶんの ものに あらずや.
高推聖境・非己智分の 者に あらずや、.

ぜんしゅうの いわく.
禅宗の 云く.

「ほけきょうは つきを さす ゆび ぜんしゅうは つきなり つきを えて ゆび なにかせん.
「法華経は 月を さす 指・禅宗は 月なり 月を えて 指 なにかせん、.

ぜんは ほとけの こころ ほけきょうは ほとけの ことば なり ほとけ.
禅は 仏の 心・法華経は 仏の 言なり 仏・.

ほけきょうとうの いっさいきょうを とかせ たまいて のち さいごに ひとふさの はなを もって かしょう 1にんに さづく.
法華経等の 一切経を とかせ 給いて 後・最後に 一ふさの 華を もつて 迦葉 一人に さづく、.

その しるしに ほとけの みけさを かしょうに ふぞくし.
其の しるしに 仏の 御袈裟を 迦葉に 付属し.

ないし ふほうぞうの 28 6そ までに つたう」とう うんぬん.
乃至 付法蔵の 二十八・六祖 までに 伝う」等 云云、.

これらの だいもうご こくちゅうを おうすい せしめて とし ひさし.
此等の 大妄語・国中を 誑酔 せしめて とし ひさし、.

また てんだい しんごんの こうそうら なは その いえに えたれども わが しゅうに くらし.
又 天台・真言の 高僧等・名は 其の 家に えたれども 我が 宗に くらし、.

とんよくは ふかく くげ ぶけを おそれて この ぎを しょうふくし さんたんす.
貪欲は 深く 公家・武家を・をそれて 此の 義を 証伏し 讃歎す、.

むかしの たほう ぶんしんの しょぶつは ほけきょうの りょうぼうくじゅうを しょうめいす.
昔の 多宝・分身の 諸仏は 法華経の 令法久住を 証明す、.

いま てんだいしゅうの せきとくは りじんげみを しょうふくせり.
今 天台宗の 碩徳は 理深解微を 証伏せり、.

かるがゆえに にほんこくに ただ ほけきょうの なのみ あって とくどうの ひと 1にんも なし.
かるがゆへに 日本国に 但 法華経の 名のみ あつて 得道の 人 一人も なし、.

たれをか ほけきょうの ぎょうじゃと せん.
誰をか 法華経の 行者と せん、.

じとうを やいて るざい せらるる そうりょは かずを しらず.
寺塔を 焼いて 流罪 せらるる 僧侶は・かずを しらず、.

くげ ぶけに へつらうて にくまるる こうそう これ おおし.
公家・武家に 諛うて・にくまるる 高僧 これ 多し、.

これらを ほけきょうの ぎょうじゃと いうべきか.
此等を 法華経の 行者と いうべきか。.

→a229

b230

ぶつご むなしからざれば さんるいの おんてき すでに こくちゅうに じゅうまんせり.
仏語 むなしからざれば 三類の 怨敵 すでに 国中に 充満せり、.

きんげんの やぶるべきかの ゆえに ほけきょうの ぎょうじゃ なし.
金言の やぶるべきかの ゆへに 法華経の 行者 なし・.

いかがせん いかがせん、.
いかがせん・いかがせん、.

そもそも たれやの ひとか しゅぞくに あっく めり せらるる たれの そうか とうじょうを くわえらるる.
抑 たれやの 人か 衆俗に 悪口 罵詈 せらるる 誰の 僧か 刀杖を 加へらるる、.

たれの そうをか ほけきょうの ゆえに くげ ぶけに そうする.
誰の 僧をか 法華経の ゆへに 公家・武家に 奏する・.

たれの そうか さくさくけんひんずいと たびたび ながさるる.
誰の 僧か 数数見擯出と 度度 ながさるる、.

にちれんより ほかに にほんこくに とりいださんとするに ひと なし.
日蓮より 外に 日本国に 取り出さんとするに 人 なし、.

にちれんは ほけきょうの ぎょうじゃに あらず.
日蓮は 法華経の 行者に あらず.

てん これを すて たまうゆえに たれをか とうせいの ほけきょうの ぎょうじゃとして ぶつごを じつごと せん.
天 これを・すて 給うゆへに、誰をか 当世の 法華経の 行者として 仏語を 実語と せん、.

ほとけと だいばとは みと かげとの ごとし しょうじょうに はなれず.
仏と 提婆とは 身と 影との ごとし 生生に はなれず.

しょうとくたいしと もりやとは れんげの けか どうじ なるが ごとし.
聖徳太子と 守屋とは 蓮華の 花菓・同時 なるが ごとし、.

ほけきょうの ぎょうじゃ あらば かならず さんるいの おんてき あるべし.
法華経の 行者 あらば 必ず 三類の 怨敵 あるべし、.

さんるいは すでに あり ほけきょうの ぎょうじゃは たれ なるらむ.
三類は すでに あり 法華経の 行者は 誰 なるらむ、.

もとめて しと すべし いちげんの かめの うきぎに あたうなるべし.
求めて 師と すべし 一眼の 亀の 浮木に 値うなるべし。.

ある ひと いわく とうせいの さんるいは ほぼ あるに にたり.
有る 人 云く 当世の 三類は ほぼ 有るに にたり、.

ただし ほけきょうの ぎょうじゃ なし.
但し 法華経の 行者 なし.

なんじを ほけきょうの ぎょうじゃと いわんとすれば おおいなる そうい あり.
汝を 法華経の 行者と いはんとすれば 大なる 相違 あり、.

このきょうに いわく.
此の経に 云く.

「てんの もろもろの どうじ もって きゅうじを なさん とうじょうも くわえず どくも がいすること あたわざらん.
「天の 諸の 童子 以て 給使を 為さん、刀杖も 加えず、毒も 害すること 能わざらん」.

また いわく「もし ひと めり すれば こうそくへいそくす」とう.
又 云く「若し 人 悪罵 すれば 口則閉塞す」等、.

また いわく「げんせには あんのんにして のち ぜんしょに うまれん」とう うんぬん.
又 云く「現世には 安穏にして 後・善処に 生れん」等 云云、.

また「こうべ われて しちぶんと なること ありじゅの えだの ごとく ならん」.
又「頭 破れて 七分と 作ること 阿梨樹の 枝の 如く ならん」.

また いわく「また げんせに おいて その ふくほうを えん」とう.
又 云く「亦 現世に 於て 其の 福報を 得ん」等.

また いわく「もし また この きょうてんを じゅじする ものを みて その かあくを いだせば.
又 云く「若し 復 是の 経典を 受持する 者を 見て 其の 過悪を 出せば.

もしは じつにも あれ もしは ふじつにも あれ このひと げんせに びゃくらいの やまいを えん」とう うんぬん.
若しは 実にも あれ 若しは 不実にも あれ 此の人 現世に 白癩の 病を 得ん」等 云云、.

こたえて いわく なんじが うたがい おおいに よし ついでに ふしんを はらさん.
答えて 云く 汝が 疑い 大に 吉し ついでに 不審を 晴さん、.

ふぎょうほんに いわく「あっく めり」とう.
不軽品に 云く「悪口 罵詈」等、.

また いわく「あるいは じょうもくがしゃくを もって これを ちょうちゃくす」とう うんぬん.
又 云く「或は 杖木瓦石を 以て 之を 打擲す」等 云云、.

ねはんぎょうに いわく「もしは せつ もしは がい」とう うんぬん.
涅槃経に 云く「若しは 殺 若しは 害」等 云云、.

ほけきょうに いわく「しかも この きょうは にょらいの げんざいすら なお おんしつ おおし」とう うんぬん.
法華経に 云く「而かも 此の 経は 如来の 現在すら 猶 怨嫉 多し」等 云云、.

ほとけは こゆびを だいばに やぶられ くおうの だいなんに あい たまう.
仏は 小指を 提婆に やぶられ 九横の 大難に 値い 給う.

これは ほけきょうの ぎょうじゃに あらずや.
此は 法華経の 行者に あらずや、.

ふぎょうぼさつは いちじょうの ぎょうじゃと いわれまじきか.
不軽菩薩は 一乗の 行者と いはれまじきか、.

もくれんは ちくじょうに ころさる ほけきょう きべつの のちなり.
目連は 竹杖に 殺さる 法華経 記べつの 後なり、.

ふほうぞうの だい14の だいばぼさつ だい25の ししそんじゃの 2にんは ひとに ころされぬ.
付法蔵の 第十四の 提婆菩薩・第二十五の 師子尊者の 二人は 人に 殺されぬ、.

これらは ほけきょうの ぎょうじゃには あらざるか.
此等は 法華経の 行者には あらざるか、.

じくの どうしょうは そざんに ながされぬ ほうどうは かなやきを かおに やいて こうなんに うつさる.
竺の 道生は 蘇山に 流されぬ 法道は 火印 を面に やいて 江南に うつさる・.

これらは いちじょうの じしゃに あらざるか.
此等は 一乗の 持者に あらざるか、.

げてんの ものなり しかども はくきょい きたのの てんじんは おんるせらる.
外典の 者なり しかども 白居易 北野の 天神は 遠流せらる.

けんじんに あらざるか.
賢人に あらざるか、.

→a230

b231

ことの こころを あんずるに ぜんしょうに ほけきょう ひぼうの つみなきもの こんじょうに ほけきょうを ぎょうず.
事の 心を 案ずるに 前生に 法華経・誹謗の 罪なきもの 今生に 法華経を 行ず.

これを せけんの とがに よせ あるいは つみなきを あだすれば たちまちに げんばち あるか.
これを 世間の 失に よせ 或は 罪なきを あだすれば 忽に 現罰 あるか・.

しゅらが たいしゃくを いる こんじちょうの あのくちに いる とう.
修羅が 帝釈を いる 金翅鳥の 阿耨池に 入る 等.

かならず かえって いちじに そんするが ごとし.
必ず 返つて 一時に 損するが ごとし、.

てんだい いわく「いま わが しっくは みな かこによる こんじょうの しゅうふくは ほう しょうらいに あり」とう うんぬん.
天台云く「今 我が 疾苦は 皆 過去に 由る 今生の 修福は 報・将来に 在り」等 云云、.

しんちかんきょうに いわく.
心地観経に 曰く.

「かこの いんを しらんと ほっせば その げんざいの かを みよ.
「過去の 因を 知らんと 欲せば 其の 現在の 果を 見よ.

みらいの かを しらんと ほっせば その げんざいの いんを みよ」とう うんぬん.
未来の 果を 知らんと 欲せば 其の 現在の 因を 見よ」等 云云、.

ふぎょうほんに いわく「その つみ おえおわって」とう うんぬん.
不軽品に 云く「其の 罪 畢已」等 云云、.

ふぎょうぼさつは かこに ほけきょうを ぼうじたまう つみ みに あるゆえに がしゃくを かほると みえたり.
不軽菩薩は 過去に 法華経を 謗じ給う 罪・身に 有るゆへに 瓦石を かほると みへたり、.

また じゅんじしょうに かならず じごくに おつべきものは じゅうざいを つくるとも げんばち なし.
又 順次生に 必ず 地獄に 堕つべき者は 重罪を 造るとも 現罰 なし.

いっせんだいにん これなり.
一闡提人 これなり、.

ねはんぎょうに いわく.
涅槃経に 云く.

「かしょうぼさつ ほとけに もうして いわく せそん ほとけの しょせつの ごとく だいねはんの ひかり いっさいしゅじょうの もうくに いる」とう うんぬん.
「迦葉菩薩 仏に 白して 言く 世尊・仏の 所説の 如く 大涅槃の 光 一切衆生の 毛孔に 入る」等 云云、.

また いわく「かしょうぼさつ ほとけに もうして いわく せそん いかんぞ いまだ ぼさつの こころを おこさざる もの ぼだいの いんを えん」とう うんぬん.
又 云く「迦葉菩薩 仏に 白して 言く 世尊 云何んぞ 未だ 菩提の 心を 発さざる 者・菩提の 因を 得ん」等 云云、.

ほとけ この といを こたえて いわく.
仏・此の 問を 答えて 云く.

「ほとけ かしょうに つげたまわく もし この だいねはんぎょうを きくこと あって われ ぼだいしんを おこすことを もちいずと いって しょうほうを ひぼう せん.
「仏 迦葉に 告わく 若し 是の 大涅槃経を 聞くこと 有つて 我 菩提心を 発すことを 用いずと 言つて 正法を 誹謗 せん、.

この ひと そくじに やむの なかに らせつの かたちを みて しんちゅう ふい す.
是の 人 即時に 夜夢の 中に 羅刹の 像を 見て 心中 怖畏 す.

らせつ かたって いわく つたなし ぜんなんし なんじ いま もし ぼだいしんを おこさずんば まさに なんじが いのちを たつべし.
羅刹 語つて 言く 咄し 善男子 汝 今 若し 菩提心を 発さずんば 当に 汝が 命を 断つべし.

この ひと きょうふし さめ おわって すなわち ぼだいの こころを おこす.
是の 人 惶怖し 寤め 已つて 即ち 菩提の 心を 発す.

まさに この ひと これ だいぼさつ なりと しるべし」とう うんぬん.
当に 是の 人 是れ 大菩薩 なりと 知るべし」等 云云、.

いとうの だいあくにん ならざる ものが しょうほうを ひぼうすれば そくじに ゆめみて ひるがえる こころ しょうず.
いたうの 大悪人 ならざる 者が 正法を 誹謗すれば 即時に 夢みて・ひるがへる 心 生ず、.

また いわく「こもく しゃくせん」とう.
又 云く「枯木・石山」等、.

また いわく「しょうしゅ かんうに あうと いえども」とう.
又 云く「しょう種 甘雨に 遇うと 雖も」等・.

また「みょうじゅおでい」とう.
又「明珠淤泥」等、.

また いわく「ひとの てに きず あるに どくやくを とるが ごとし」とう.
又 云く「人の 手に 創 あるに 毒薬を 捉るが 如し」等、.

また いわく「だいう くうに じゅうせず」とう うんぬん.
又 云く「大雨 空に 住せず」等 云云、.

これら おおくの たとえ あり.
此等 多くの 譬 あり、.

せんずるところ じょうぼんの いっせんだいにんに なりぬれば じゅんじしょうに かならず むけんごくに おつべき ゆえに げんばち なし.
詮ずるところ 上品の 一闡提人に なりぬれば 順次生に 必ず 無間獄に 堕つべき ゆへに 現罰 なし.

れいせば かの けつ いんの ちゅうの よには てんぺん なし.
例せば 夏の 桀・殷の 紂の 世には 天変 なし.

じゅうか あって かならず よ ほろぶべき ゆえか.
重科 有て 必ず 世 ほろぶべき ゆへか、.

また しゅごしん このくにを すつるゆえに げんばち なきか.
又 守護神 此国を すつる ゆへに 現罰 なきか.

ほうぼうの よをば しゅごしん すてさり しょてん まもるべからず.
謗法の 世をば 守護神 すて去り 諸天 まほるべからず.

かるがゆえに しょうほうを ぎょうずる ものに しるしなし.
かるがゆへに 正法を 行ずる ものに しるしなし.

かえって だいなんに あうべし.
還つて 大難に 値うべし.

こんこうみょうきょうに いわく「ぜんごうを しゅうするものは ひびに すいげんす」とう うんぬん.
金光明経に 云く「善業を 修する者は 日日に 衰減す」等 云云、.

あっこく あくじ これなり.
悪国・悪時 これなり.

つぶさには りっしょうあんこくろんに かんがえたるが ごとし.
具さには 立正安国論に かんがへたるが ごとし。.

→a231

b232

せんずるところは てんも すてたまえ しょなんにも あえ しんみょうを ごとせん.
詮ずるところは 天も すて給え 諸難にも あえ 身命を 期とせん、.

しんしが 60こうの ぼさつの ぎょうを たいせし こつげんの ばらもんの せめを たえざるゆえ.
身子が 六十劫の 菩薩の 行を 退せし 乞眼の 婆羅門の 責を 堪えざるゆへ、.

くおん だいつうの ものの さんごの じんを ふる あくちしきに あうゆえなり.
久遠 大通の 者の 三五の 塵を ふる 悪知識に 値う ゆへなり、.

ぜんに つけ あくに つけ ほけきょうを すつるは じごくの ごう なるべし.
善に 付け 悪に つけ 法華経を すつるは 地獄の 業 なるべし、.

だいがんを たてん にほんこくの くらいを ゆずらん.
大願を 立てん 日本国の 位を ゆづらむ、.

ほけきょうを すてて かんぎょうとうに ついて ごしょうを ごせよ.
法華経を すてて 観経等に ついて 後生を ごせよ、.

ふぼの くびを はねん ねんぶつ もうさずば.
父母の 頚を 刎ん 念仏 申さずば、.

なんどの しゅじゅの だいなん しゅったいすとも ちしゃに わがぎ やぶられずば もちいじと なり.
なんどの 種種の 大難・出来すとも 智者に 我義 やぶられずば 用いじと なり、.

その ほかの だいなん かぜの まえの ちり なるべし.
其の 外の 大難・風の 前の 塵 なるべし、.

われ にほんの はしらと ならん われ にほんの がんもくと ならん われ にほんの たいせんと ならんとうと ちかいし ねがい やぶるべからず.
我 日本の 柱と ならむ 我 日本の 眼目と ならむ 我 日本の 大船と ならむ等と ちかいし 願 やぶるべからず。.

うたがって いわく.
疑つて 云く.

いかにとして なんじが るざい しざいとうを かこの しゅくじゅうと しらん.
いかにとして 汝が 流罪・死罪等を 過去の 宿習と しらむ、.

こたえて いわく どうきょうは しきぎょうを あらわす.
答えて 云く 銅鏡は 色形を 顕わす.

しんのう けんぎの かがみは げんざいの つみを あらわす.
秦王・験偽の 鏡は 現在の 罪を 顕わす.

ぶっぽうの かがみは かこの ごういんを げんず.
仏法の 鏡は 過去の 業因を 現ず、.

はつないおんきょうに いわく.
般泥?経に 云く.

「ぜんなんし かこに かつて むりょうの しょざい しゅじゅの あくごうを つくるに この もろもろの ざいほうは あるいは きょうい せられ.
「善男子 過去に 曾て 無量の 諸罪 種種の 悪業を 作るに 是の 諸の 罪報は 或は 軽易 せられ・.

あるいは ぎょうじょう しゅうる えぶくたらず おんじきそそ ざいを もとむるに りあらず.
或は 形状 醜陋・衣服 足らず・飲食麁疎・財を 求むるに 利あらず・.

ひんせんの いえ じゃけんの いえに うまれ あるいは おうなんに あい および よの しゅじゅの にんげんの くほう あらん.
貧賤の 家 邪見の 家に 生れ・或は 王難に 遭い・及び 余の 種種の 人間の 苦報 あらん.

げんせに かるく うくるは これ ごほうの くどくりきに よるが ゆえなり」うんぬん.
現世に 軽く 受るは 斯れ 護法の 功徳力に 由るが 故なり」云云、.

この きょうもん にちれんが みに あたかも ふけいの ごとし.
此の 経文・日蓮が 身に 宛も 符契の ごとし.

こぎの こおり とけぬ せんまんの なんも よし なし.
狐疑の 氷 とけぬ 千万の 難も 由 なし.

いちいちの くを わが みに あわせん.
一一の 句を 我が 身に あわせん、.

わくひきょういとう うんぬん.
或被軽易等 云云、.

ほけきょうに いわく「きょうせんぞうしつ」とう うんぬん.
法華経に 云く「軽賤憎嫉」等 云云・.

20よねんが あいだの きょうまん せらる.
二十余年が 間の 軽慢 せらる、.

あるいは ぎょうじょうしゅうる また いわく えぶふそくは よがみなり おんじきそそは よが み なり.
或は 形状醜陋・又 云く 衣服不足は 予が身なり 飲食麁疎は 予が 身 なり.

ぐざいふりは よが みなり しょうひんせんけは よが み なり.
求財不利は 予が 身なり 生貧賤家は 予が 身 なり、.

わくぞうおうなんとう この きょうもん うたがうべしや.
或遭王難等・此の 経文 疑うべしや、.

ほけきょうに いわく「しばしば ひんずいせられん」.
法華経に 云く「数数 擯出せられん」.

この きょうもんに いわく「しゅじゅ」とう うんぬん.
此の 経文に 云く「種種」等 云云、.

しゆごほうくどくりきこ とうとは まかしかんの だい5に いわく.
斯由護法功徳力故 等とは 摩訶止観の 第五に 云く.

「さんぜん びじゃくなるは どうせしむること あたわず いま しかんを しゅうして こんびょう かけざれば しょうじの わを どうず」とう うんぬん.
「散善 微弱なるは 動せしむること 能わず 今 止観を 修して 健病 虧ざれば 生死の 輪を 動ず」等 云云、.

また いわく「さんしょうしま ふんぜんとして きそい おこる」とう うんぬん.
又 云く「三障四魔 紛然として 競い 起る」等 云云.

われ むしより このかた あくおうと うまれて ほけきょうの ぎょうじゃの えじき でんぱたとうを うばいとり せしこと かずしらず.
我れ 無始より このかた 悪王と 生れて 法華経の 行者の 衣食・田畠等を 奪いとり せしこと・かずしらず、.

とうせい にほんこくの しょにんの ほけきょうの やまでらを たおすが ごとし.
当世・日本国の 諸人の 法華経の 山寺を たうすが ごとし、.

また ほけきょうの ぎょうじゃの くびを はねること その かずを しらず.
又 法華経の 行者の 頚を 刎こと 其の 数を しらず.

これらの じゅうざい はたせるも あり いまだ はたさざるも あるらん.
此等の 重罪 はたせるもあり・いまだ・はたさざるも・あるらん、.

はたすも よざん いまだ つきず しょうじを はなるる ときは.
果すも 余残 いまだ・つきず 生死を 離るる 時は.

かならず この じゅうざいを けしはてて しゅつり すべし.
必ず 此の 重罪を けしはてて 出離 すべし、.

→a232

b233

くどくは せんきょう なり これらの つみは じんじゅう なり.
功徳は 浅軽 なり 此等の 罪は 深重 なり、.

ごんきょうを ぎょうぜしには この じゅうざい いまだ おこらず.
権経を 行ぜしには 此の 重罪 いまだ・をこらず.

くろがねを やくに いとう.
鉄を 熱に いたう・.

きたわざれば きず かくれて みえず たびたび せむれば きず あらわる.
きたわざれば きず 隠れて みえず、度度 せむれば・きず あらはる、.

あさのみを しぼるに つよく せめざれば あぶら すくなきが ごとし.
麻子を・しぼるに・つよく せめざれば 油少きが ごとし、.

いま にちれんの ごうじょうに こくどの ほうぼうを せむれば.
今ま 日蓮・強盛に 国土の 謗法を 責むれば.

この だいなんの きたるは かこの じゅうざいの こんじょうの ごほうに まねき いだせる なるべし.
此の 大難の 来るは 過去の 重罪の 今生の 護法に 招き 出だせる なるべし、.

くろがねは ひに あわざれば くろし ひと あいぬれば あかし.
鉄は 火に 値わざれば 黒し 火と 合いぬれば 赤し.

きを もって はやきながれを かけば なみ やまの ごとし.
木を もつて 急流を かけば 波 山の ごとし.

ねむれるししに てを つくれば おおいに ほゆ.
睡れる 師子に 手を つくれば 大に 吼ゆ。.

ねはんぎょうに いわく.
涅槃経に 曰く.

「たとえば ひんにょの ごとし こけ くごの もの あること なく.
「譬えば 貧女の 如し 居家 救護の 者 有ること 無く.

くわうるに また びょうく けかちに せめられて ゆぎょう こつがいす.
加うるに 復 病苦 飢渇に 逼められて 遊行 乞丐す、.

たの かくしゃに とどまり いっしを きせいす この かくしゃの しゅ くちくして さらしむ.
他の 客舎に 止り 一子を 寄生す 是の 客舎の 主 駈逐して 去らしむ、.

その さんして いまだ ひさしからず.
其の 産して 未だ 久しからず.

この こを けいほうして たこくに いたらんと ほっし.
是の 児を 攜抱して 他国に 至らんと 欲し、.

その ちゅうろに おいて あくふううに あいて かんく ならび いたり おおく.
其の 中路に 於て 悪風雨に 遇て 寒苦 並び 至り 多く.

ぶんぼう ほうしゃ どくちゅうの すいくう ところと なる.
蚊虻 蜂螫 毒虫の すい食う 所と なる、.

ごうがに けいゆし こを いだいて わたる.
恒河に 逕由し 児を 抱いて 渡る.

その みず ひょうしつ なれども しかも はなちすてず ここに おいて ぼし ついに ともに ぼっしぬ.
其の 水 漂疾 なれども 而も 放ち捨てず 是に 於て 母子 遂に 共倶に 没しぬ、.

かくの ごとき にょにん じねんの くどく みょうじゅうの のち ぼんてんに しょうず.
是くの 如き 女人 慈念の 功徳 命終の 後 梵天に 生ず、.

もんじゅしり もし ぜんなんし あって しょうほうを まもらんと ほっせば.
文殊師利 若し 善男子 有つて 正法を 護らんと 欲せば.

かの にんにょの ごうがに あって こを あいねんするが ために しんみょうを すつるが ごとくせよ.
彼の 貧女の 恒河に 在つて 子を 愛念するが 為に 身命を 捨つるが 如くせよ、.

ぜんなんし ごほうの ぼさつも また かくのごとく なるべし.
善男子 護法の 菩薩も 亦 是くの如く なるべし、.

むしろ しんみょうを すてよ.
寧ろ 身命を 捨てよ.

かくの ごときの ひと げだつを もとめずと いえども げだつ みずから いたること.
是くの 如きの 人 解脱を 求めずと 雖も 解脱 自ら 至ること.

かの ひんにょの ぼんてんを もとめざれども ぼんてん みずから いたるが ごとし」とう うんぬん.
彼の 貧女の 梵天を 求めざれども 梵天 自ら 至るが 如し」等 云云、.

この きょうもんは しょうあんだいし さんしょうを もって しゃくし たまえり.
此の 経文は 章安大師・三障を もつて 釈し 給へり、.

それを みるべし.
それを みるべし、.

ひんにんとは ほうざいの なきなり にょにんとは いちぶんの じ あるもの なり.
貧人とは 法財の なきなり 女人とは 一分の 慈 ある者 なり、.

かくしゃとは えどなり いっしとは ほけきょうの しんじん りょういんの こ なり.
客舎とは 穢土なり 一子とは 法華経の 信心・了因の 子 なり.

しゃしゅくちくとは るざい せらる.
舎主駈逐とは 流罪 せらる.

その さんして いまだ ひさしからずとは いまだ しんじて ひさしからず.
其の 産して 未だ 久しからずとは いまだ 信じて・ひさしからず、.

あくふうとは るざいの ちょくせん なり.
悪風とは 流罪の 勅宣 なり.

ぶんぼう とうとは もろもろの むちの ひと あり あっくめりとう なり.
蚊虻 等とは 諸の 無智の 人 有り 悪口罵詈等 なり.

ぼし ともに ぼっすとは ついに ほけきょうの しんじんを やぶらずして くびを はねらるる なり.
母子 共に 没すとは 終に 法華経の 信心を やぶらずして 頚を 刎らるる なり、.

ぼんてんとは ぶっかいに うまるるを いう なり.
梵天とは 仏界に 生るるを いう なり.

いんごうと もうすは ぶっかいまで かわらず.
引業と 申すは 仏界まで かはらず、.

にほん かんどの ばんこくの しょにんを ころすとも ごぎゃく ほうぼう なければ むけんじごくには おちず.
日本・漢土の 万国の 諸人を 殺すとも 五逆・謗法 なければ 無間地獄には 堕ちず、.

よの あくどうにして たさいを ふべし.
余の 悪道にして 多歳を ふべし、.

しきてんに うまるること ばんかいを たもてども ばんぜんを しゅうすれども さんぜんにては うまれず.
色天に 生るること 万戒を 持てども 万善を 修すれども 散善にては 生れず、.

また ぼんてんおうと なること うろの いんごうの うえに じひを くわえて しょうずべし.
又 梵天王と なる事・有漏の 引業の上に 慈悲を 加えて 生ずべし、.

→a233

b234

いま この ひんにょが こを おもう ゆえに ぼんてんに うまる.
今 此の 貧女が 子を 念う ゆへに 梵天に 生る.

つねの しょうそうには そういせり.
常の 性相には 相違せり、.

しょうあんの 2は あれども せんずるところは こを おもう じねんより ほかのこと なし.
章安の 二は あれども 詮ずるところは 子を 念う 慈念より 外の事 なし、.

ねんを いっきょうにする じょうに にたり もっぱら こを おもう また じひにも にたり.
念を 一境にする、定に 似たり 専 子を 思う 又 慈悲にも・にたり、.

かるがゆえに たじ なけれども てんに うまるるか.
かるがゆへに 他事 なけれども 天に 生るるか、.

また ほとけになる みちは けごんの ゆいしんほうかい さんろんの はっぷ ほっそうの ゆいしき しんごんの ごりんかんとうも じつには かなうべしとも みえず.
又 仏になる 道は 華厳の 唯心法界・三論の 八不・法相の 唯識・真言の 五輪観等も 実には 叶うべしとも みへず、.

ただ てんだいの いちねんさんぜんこそ ほとけに なるべき みちと みゆれ.
但 天台の 一念三千こそ 仏に なるべき 道と みゆれ、.

この いちねんさんぜんも われら いちぶんの えげも なし.
此の 一念三千も 我等 一分の 慧解も なし、.

しかれども いちだいきょうぎょうの なかには この きょうばかり いちねんさんぜんの たまを いだけり.
而ども 一代経経の 中には 此の 経計り 一念三千の 玉を いだけり、.

よきょうの りは たまに にたる おうせき なり.
余経の 理は 玉に・にたる 黄石 なり.

いさごを しぼるに あぶらなし いしづめに この なきが ごとし.
沙を しぼるに 油なし 石女に 子の なきが ごとし、.

しょきょうは ちしゃ なお ほとけに ならず.
諸経は 智者・猶 仏に ならず.

この きょうは ぐにんも ぶついんを うゆべし ふぐげだつ げだつじしとうと うんぬん.
此の 経は 愚人も 仏因を 種べし 不求解脱・解脱自至等と 云云、.

われ ならびに わが でし しょなん ありとも うたがう こころなくば じねんに ぶっかいに いたるべし.
我 並びに 我が 弟子・諸難 ありとも 疑う 心なくば 自然に 仏界に いたるべし、.

てんの かごなき ことを うたがわざれ げんせの あんのん ならざる ことを なげかざれ.
天の 加護なき 事を 疑はざれ 現世の 安穏 ならざる 事を なげかざれ、.

わが でしに ちょうせき おしえ しかども うたがいを おこして みな すてけん.
我が 弟子に 朝夕 教え しかども・疑いを・をこして 皆 すてけん.

つたなき ものの ならいは やくそくせし ことを まことの ときは わするる なるべし.
つたなき 者の ならひは 約束せし 事を・まことの 時は わするる なるべし、.

さいしを ふびんと おもうゆえ げんしんに わかれん ことを なげくらん.
妻子を 不便と・をもうゆへ 現身に わかれん 事を・なげくらん、.

たしょう こうごうに したしみし さいしには こころと はなれしか ぶつどうの ために はなれしか.
多生 曠劫に・したしみし 妻子には 心と はなれしか 仏道の ために・はなれしか、.

いつも おなじ わかれ なるべし.
いつも 同じ わかれ なるべし、.

われ ほけきょうの しんじんを やぶらずして りょうぜんに まいりて かえって みちびけかし.
我 法華経の 信心を やぶらずして 霊山に まいりて 返て みちびけかし。.

うたがって いわく.
疑つて 云く.

ねんぶつしゃと ぜんしゅうとうを むけんと もうすは あらそう こころあり.
念仏者と 禅宗等を 無間と 申すは 諍う 心あり.

しゅらどう にや おつべかるらむ.
修羅道 にや 堕つべかるらむ、.

また ほけきょうの あんらくぎょうほんに いわく.
又 法華経の 安楽行品に 云く.

「ねがって ひと および きょうてんの とがを とかざれ また しょよの ほっしを きょうまんせざれ」とう うんぬん.
「楽つて 人 及び 経典の 過を 説かざれ 亦 諸余の 法師を 軽慢せざれ」等 云云、.

なんじ このきょうもんに そういする ゆえに てんに すてられたるか.
汝 此の 経文に 相違する ゆへに 天に すてられたるか、.

こたえて いわく しかんに いわく.
答て 云く 止観に 云く.

「それ ほとけに りょうせつあり 1には しょう 2には しゃく あんらくぎょうに ふしょうちょうたんと いう ごとき これ しょうの ぎ なり.
「夫れ 仏に 両説あり 一には 摂・二には 折・安楽行に 不称長短と いう 如き 是れ 摂の 義 なり、.

だいきょうに とうじょうを しゅうじし ないし くびを きれという これ しゃくの ぎ なり.
大経に 刀杖を 執持し 乃至 首を 斬れという 是れ 折の 義 なり.

よだつ みちを ことにすと いえども ともに りやく せしむ」とう うんぬん.
与奪・途を 殊にすと 雖も 倶に 利益 せしむ」等 云云、.

ぐけつに いわく「それ ほとけに りょうせつ あり とうとは だいきょうに とうじょうを しゅうじすとは だい3に いわく.
弘決に 云く「夫れ 仏に 両説 あり 等とは 大経に 刀杖を 執持すとは 第三に 云く.

しょうほうを まもる ものは 5かいを うけず いぎを しゅうせず.
正法を 護る 者は 五戒を 受けず 威儀を 修せず、.

ないし しものもん せんよこくおう とうの もん.
乃至 下の文 仙予国王 等の 文、

また しんい きんじて いわく.
又 新医 禁じて 云く.

もし さらに なすこと あれば まさに その くびを たつべし.
若し 更に 為すこと 有れば 当に 其の 首を 断つべし.

かくの ごとき とうの もん ならびに これ はほうの ひとを しゃくぶくする なり.
是くの 如き 等の 文 並びに 是れ 破法の 人を 折伏する なり.

いっさいの きょうろん この 2を いでず」とう うんぬん.
一切の 経論 此の 二を 出でず」等 云云、.

→a234

b235

もんぐに いわく
文句に 云く

「とう だいきょうには こくおうに しんぷし ゆみを もち やを たいし あくにんを ざいふくせよと あかす.
「問う 大経には 国王に 親付し 弓を 持ち 箭を 帯し 悪人を 摧伏せよと 明す、.

この きょうは ごうぜいを おんりし けんげじぜん せよと ごうじゅう おおいに そむく.
此の 経は 豪勢を 遠離し 謙下慈善 せよと 剛柔 碩いに 乖く.

いかんぞ ことならざらん.
云何ぞ 異ならざらん、.

こたう だいきょうには ひとえに しゃくぶくを ろんずれども 1しじに じゅうす なんぞ かつて しょうじゅ なからん.
答う 大経には 偏に 折伏を 論ずれども 一子地に 住す 何ぞ 曾て 摂受 無からん、.

この きょうには ひとえに しょうじゅを あかせども ずは7ぶんと いう.
此の 経には 偏に 摂受を 明せども 頭破七分と 云う.

しゃくぶく なきに あらず おのおの いったんを あげて ときに かなうのみ」とう うんぬん.
折伏 無きに 非ず 各 一端を 挙げて 時に 適う而已」等 云云、.

ねはんぎょうの しょに いわく.
涅槃経の 疏に 云く.

「しゅっけ ざいけ ほうを まもらんには その がんしんの しょいを とり じを すて りを そんして まさに だいきょうを ひろむ.
「出家 在家法を 護らんには 其の 元心の 所為を 取り 事を 棄て 理を 存して 匡に 大経を 弘む.

ゆえに ごじしょうほうと いうは しょうせつに かかわらず.
故に 護持正法と 言うは 小節に 拘わらず.

ゆえに ふしゅういぎと いうなり.
故に 不修威儀と 言うなり、.

むかしの ときは たいらかにして ほう ひろまる まさに かいを たもつべし じょうを たもつこと なかれ.
昔の 時は 平にして 法 弘まる 応に 戒を 持つべし 杖を 持つこと 勿れ.

いまの ときは けんにして ほう かくる まさに じょうを たもつべし かいを たもつこと なかれ.
今の 時は 嶮にして 法 翳る 応に 杖を 持つべし 戒を 持つこと 勿れ、.

こんじゃく ともに けんならば ともに じょうを たもつべし.
今昔 倶に 嶮ならば 倶に 杖を 持つべし.

こんじゃく ともに へいならば ともに かいを たもつべし.
今昔 倶に 平ならば 倶に 戒を 持つべし、.

しゅしゃ よろしきを えて いっこうに すべからず」とう うんぬん.
取捨 宜きを 得て 一向に す可からず」等 云云、.

なんじが ふしんをば せけんの がくしゃ たぶん どうりと おもう.
汝が 不審をば 世間の 学者・多分・道理と をもう、.

いかに かんぎょう すれども にちれんが でしらも この おもいを すてず.
いかに 諌暁 すれども 日蓮が 弟子等も 此の をもひを すてず.

いっせんだいにんの ごとくなる ゆえに まず てんだい みょうらくらの しゃくを いだして かれが じゃなんを ふせぐ.
一闡提人の・ごとくなる ゆへに 先づ 天台・妙楽等の 釈を いだして・かれが 邪難を ふせぐ、.

それ しょうじゅ しゃくぶくと もうす ほうもんは すいかの ごとし.
夫れ 摂受・折伏と 申す 法門は 水火の ごとし.

ひは みずを いとう みずは ひを にくむ.
火は 水を いとう 水は 火を にくむ、.

しょうじゅの ものは しゃくぶくを わらう しゃくぶくのものは しょうじゅを かなしむ.
摂受の 者は 折伏を わらう 折伏の者は 摂受を かなしむ、.

むち あくにんの こくどに じゅうまんの ときは しょうじゅを さきとす.
無智・悪人の 国土に 充満の 時は 摂受を 前とす.

あんらくぎょうほんの ごとし.
安楽行品の ごとし、.

じゃち ほうぼうの ものの おおき ときは しゃくぶくを さきとす.
邪智・謗法の 者の 多き 時は 折伏を 前とす.

じょうふぎょうぼんの ごとし.
常不軽品の ごとし、.

たとえば あつき ときに かんすいを もちい さむき ときに ひを このむが ごとし.
譬へば 熱き 時に 寒水を 用い 寒き 時に 火を このむが ごとし、.

そうもくは にちりんの けんぞく かんげつに くを う.
草木は 日輪の 眷属・寒月に 苦を う.

しょすいは がつりんの しょじゅう ねつじに ほんしょうを うしなう.
諸水は 月輪の 所従・熱時に 本性を 失う、.

まっぽうに しょうじゅ しゃくぶく あるべし.
末法に 摂受・折伏 あるべし.

いわゆる あっこく はほうの りょうこく あるべき ゆえなり.
所謂 悪国・破法の 両国 あるべき ゆへなり、.

にほんこくの とうせいは あっこくか はほうの くにかと しるべし.
日本国の 当世は 悪国か 破法の 国かと・しるべし。.

とうて いわく.
問うて 云く.

しょうじゅの とき しゃくぶくを ぎょうずると しゃくぶくの とき しょうじゅを ぎょうずると りやく あるべしや.
摂受の 時・折伏を 行ずると 折伏の 時・摂受を 行ずると 利益 あるべしや、.

こたえて いわく ねはんぎょうに いわく.
答えて 云く 涅槃経 に云く.

「かしょうぼさつ ほとけに もうして いわく にょらいの ほっしんは こんごうふえなり いまだ しょいんを しること あたわず いかん.
「迦葉菩薩 仏に 白して 言く 如来の 法身は 金剛不壊なり 未だ 所因を 知ること 能わず 云何、.

ほとけの いわく かしょう よく しょうほうを ごじする いんねんを もっての ゆえに この こんごうしんを じょうじゅする ことを えたり.
仏の 言く 迦葉 能く 正法を 護持する 因縁を 以ての 故に 是の 金剛身を 成就する ことを 得たり、.

かしょう がごじしょうほうの いんねんにて いま この こんごうしんじょうじゅうふえを じょうじゅする ことを えたり.
迦葉 我護持正法の 因縁にて 今 是の 金剛身常住不壊を 成就する ことを 得たり、.

ぜんなんし しょうほうを ごじする ものは ごかいを うけず いぎを しゅうせず.
善男子 正法を 護持する 者は 五戒を 受けず 威儀を 修せず.

まさに とうけんきゅうせんを もつべし.
応に 刀剣弓箭を 持つべし、.

かくの ごとく しゅじゅに ほうを とくも しかも こししくを なすこと あたわず.
是くの 如く 種種に 法を 説くも 然も 故師子吼を 作すこと 能わず.

ひほうの あくにんを こうふくすること あたわず.
非法の 悪人を 降伏すること 能わず、.

かくの ごとき びく じりし および しゅじょうを りすること あたわず.
是くの 如き 比丘 自利し 及び 衆生を 利すること 能わず、.

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b236

まさに しるべし この やからは けたい らんだ なり.
当に 知るべし 是の 輩は 懈怠 懶惰 なり.

よく かいを たもち じょうぎょうを しゅごすといえども まさに しるべし.
能く 戒を 持ち 浄行を 守護すと 雖も 当に 知るべし.

この ひとは よく なすところ なからん.
是の 人は 能く 為す所 無からん、.

ないし ときに はかいの もの あって この ごを きき おわって みな ともに しんにして この ほっしを がいせん.
乃至 時に 破戒の 者 有つて 是の 語を 聞き 已つて 咸 共に 瞋恚して 是の 法師を 害せん.

この せっぽうの もの たとい また みょうじゅうすとも なお じかいじりりたと なづく」とう うんぬん.
是の 説法の 者・設い 復 命終すとも 故 持戒自利利他と 名く」等 云云、.

しょうあんの いわく「しゅしゃ よろしきを えて いっこうに すべからず」とう.
章安の 云く「取捨 宜きを 得て 一向に す可からず」等、.

てんだい いわく「ときに かなうのみ」とう うんぬん.
天台 云く「時に 適う而已」等 云云、.

たとえば あきの おわりに しゅしを おろし でんぱたを かえさんに とうまいを うること かたし.
譬へば 秋の 終りに 種子を 下し 田畠を かえさんに 稲米を うること かたし、.

けんにんねんちゅうに ほうねん だいにちの 2にん しゅったいして ねんぶつしゅう ぜんしゅうを こうぎょう す.
建仁年中に 法然・大日の 二人・出来して 念仏宗・禅宗を 興行 す、.

ほうねん いわく「ほけきょうは まっぽうに いっては みういちにんとくしゃ せんちゅうむいち」とう うんぬん.
法然 云く「法華経は 末法に 入つては 未有一人得者・千中無一」等云云、.

だいにち いわく「きょうげべつでん」とう うんぬん.
大日 云く「教外別伝」等 云云、.

この りょうぎ こくどに じゅうまんせり.
此の 両義・国土に 充満せり、.

てんだい しんごんの がくしゃら ねんぶつ ぜんの だんなを へつらい おずること.
天台 真言の 学者等・念仏・禅の 檀那を・へつらい をづる事.

いぬの しゅに おを ふり ねずみの ねこを おそるるが ごとし.
犬の 主にを をふり・ねづみの 猫を をそるるが ごとし、.

こくおう しょうぐんに みやつかい はぶっぽうの いんねん はこくの いんねんを よく とき よく かたるなり.
国王・将軍に・みやつかひ 破仏法の 因縁・破国の 因縁を 能く 説き 能く かたるなり、.

てんだい しんごんの がくしゃら こんじょうには がきどうに おち ごしょうには あびを まねくべし.
天台・真言の 学者等・今生には 餓鬼道に 堕ち 後生には 阿鼻を 招くべし、.

たとい さんりんに まじわって いちねんさんぜんの かんを こらすとも.
設い 山林に まじわつて 一念三千の 観を こらすとも.

くうげんにして さんみつの あぶらを こぼさずとも じきを しらず.
空閑にして 三密の 油を こぼさずとも 時機を しらず.

しょうしゃくの にもんを わきまえずば いかでか しょうじを はなるべき.
摂折の 二門を 弁へずば・いかでか 生死を 離るべき。.

とうて いわく.
問うて 云く.

ねんぶつしゃ ぜんしゅうとうを せめて かれらに あだまれたる いかなる りやくか あるや.
念仏者・禅宗等を 責めて 彼等に・あだまれたる・いかなる 利益か あるや、.

こたえて いわく ねはんぎょうに いわく.
答えて 云く 涅槃経に 云く.

「もし ぜんびく ほうを やぶるものを みておいて かしゃくし くけんし こしょせずんば.
「若し 善比丘 法を 壊る者を 見て置いて 呵責し 駈遣し 挙処せずんば.

まさに しるべし この ひとは ぶっぽうの なかの あだ なり.
当に 知るべし 是の 人は 仏法の 中の 怨 なり、.

もし よく くけんし かしゃくし こしょせば これ わがでし しんの しょうもんなり」とう うんぬん.
若し 能く 駈遣し 呵責し 挙処せば 是れ 我が 弟子 真の 声聞なり」等 云云、.

「ぶっぽうを えらん するは ぶっぽうちゅうの あだ なり.
「仏法を 壊乱 するは 仏法中の 怨 なり.

じ なくして いつわり したしむは これ かれが あだ なり.
慈 無くして 詐り 親しむは 是れ 彼が 怨 なり.

よく きゅうじせんは これ ごほうの しょうもん しんの わがでし なり.
能く 糾治せんは 是れ 護法の 声聞 真の 我が弟子 なり.

かれが ために あくを のぞくは すなわち これ かれが おや なり.
彼が 為に 悪を 除くは 即ち 是れ 彼が 親 なり.

よく かしゃくする ものは これ わが でし くけんせざらん ものは ぶっぽうちゅうの あだ なり」とう うんぬん.
能く 呵責する 者は 是れ 我が 弟子 駈遣せざらん 者は 仏法中の 怨 なり」等 云云。.

それ ほけきょうの ほうとうほんを はいけんするに しゃか たほう じっぽうぶんしんの しょぶつの らいしゅうは なに ごころぞ.
夫れ 法華経の 宝塔品を 拝見するに 釈迦・多宝・十方分身の 諸仏の 来集は なに 心ぞ.

「りょうぼうくじゅう こらいしし」とう うんぬん.
「令法久住・故来至此」等云云、.

さんぶつの みらいに ほけきょうを ひろめて みらいの いっさいの ぶっしに あたえんと おぼしめす みこころの なかを すいするに.
三仏の 未来に 法華経を 弘めて 未来の 一切の 仏子に あたえんと・おぼしめす 御心の 中を すいするに.

ふぼの いっしの だいくに あうを みるよりも ごうじょうにこそ みえたるを.
父母の 一子の 大苦に 値うを 見るよりも 強盛にこそ・みへたるを.

ほうねん いたわしとも おもわで.
法然 いたはしとも・おもはで.

まっぽうには ほけきょうの もんを かたく とじて ひとを いれじとせき きょうじを たぼらかして.
末法には 法華経の 門を 堅く 閉じて 人を 入れじとせき 狂児を たぼらかして.

たからを すてさするように ほけきょうを なげすてさせける こころこそ むざんに みえ そうらえ.
宝を すてさするやうに 法華経を 抛させける 心こそ 無慚に 見へ 候へ、.

→a236

b237

わが ふぼを ひとの ころさんに ふぼに つげざるべしや.
我が 父母を 人の 殺さんに 父母に つげざるべしや、.

あくしの すいきょうして ふぼを ころすを せいせざるべしや.
悪子の 酔狂して 父母を 殺すを せいせざるべしや、.

あくにん じとうに ひを はなたんに せいせざるべしや.
悪人・寺塔に 火を 放たんに せいせざるべしや、.

いっしの じゅうびょうを やいと せざるべしや.
一子の 重病を 炙 せざるべしや、.

にほんの ぜんと ねんぶつしゃとを みて せいせざる ものは かくの ごとし.
日本の 禅と 念仏者とを・みて 制せざる 者は・かくの ごとし.

「じ なくして いつわり したしむは すなわち これ かれが あだ なり」とう うんぬん.
「慈 無くして 詐り 親しむは 即ち 是れ 彼が 怨 なり」等 云云。.

にちれんは にほんこくの しょにんに しゅうし ふぼ なり.
日蓮は 日本国の 諸人に しうし 父母 なり.

いっさい てんだいしゅうの ひとは かれらが だいおんてき なり.
一切 天台宗の 人は 彼等が 大怨敵 なり.

「かれが ために あくを のぞくは すなわち これ かれが おや」とう うんぬん.
「彼が 為に 悪を 除くは 即ち 是れ 彼が 親」等 云云、.

むどうしんの もの しょうじを はなるる ことは なき なり.
無道心の 者 生死を はなるる 事は なき なり、.

きょうしゅしゃくそんの いっさいの げどうに だいあくにんと めり せられさせ たまい てんだいだいしの なんぼく ならびに とくいちに.
教主釈尊の 一切の 外道に 大悪人と 罵詈 せられさせ 給い 天台大師の 南北・並びに 得一に.

さんずんの した もって ごしゃくの みを たつと.
三寸の 舌 もつて 五尺の 身を たつと.

でんぎょうだいしの なんきょうの しょにんに「さいちょう いまだ とうとを みず」とうと いわれさせ たまいし.
伝教大師の 南京の 諸人に「最澄 未だ 唐都を 見ず」等と いはれさせ 給いし.

みな ほけきょうの ゆえなれば はじ ならず.
皆 法華経の ゆへなれば はぢ ならず.

ぐにんに ほめられたるは だい1の はじ なり.
愚人に ほめられたるは 第一の はぢ なり、.

にちれんが ごかんきを かほれば てんだい しんごんの ほっしら よろこばしくや おもうらん.
日蓮が 御勘気を・かほれば 天台・真言の 法師等・悦ばしくや・をもうらん.

かつは むざんなり かつは きかい なり.
かつは むざんなり・かつは きくわい なり、.

それ しゃくそんは しゃばに いり らじゅうは しんに いり でんぎょうは しなに いり.
夫れ 釈尊は 娑婆に 入り 羅什は 秦に 入り 伝教は 尸那に 入り.

だいばししんは みを すつ やくおうは ひじを やく じょうぐうは ての かわを はぐ.
提婆師子は 身を すつ 薬王は 臂をやく 上宮は 手の 皮を はぐ.

しゃかぼさつは にくを うる ぎょうぼう ほねを ふでと す.
釈迦菩薩は 肉を うる 楽法は 骨を 筆と す、.

てんだいの いわく「ちゃくじにい」とう うんぬん.
天台の 云く「適時而已」等 云云、.

ぶっぽうは ときに よるべし にちれんが るざいは こんじょうの しょうくなれば なげかしからず.
仏法は 時に よるべし 日蓮が 流罪は 今生の 小苦なれば・なげかしからず、.

ごしょうには だいらくを うくべければ おおいに よろこばし.
後生には 大楽を・うくべければ 大に 悦ばし。.

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