b375から382.
諸宗問答抄 (しょしゅう もんどうしょう).
日蓮大聖人 34歳 御作.

 

b375

しょしゅう もんどうしょう.
諸宗 問答抄.

けんちょう しちねん 34さい おんさく.
建長 七年 三十四歳 御作.

あたう さんみぼう にちぎょう.
与 三位房 日行.

とうて いわく.
問うて 云く.

そもそも ほっけしゅうの ほうもんは てんだい みょうらく でんぎょう とうの おんしゃくをば おんもちい そうろうや いかん.
抑 法華宗の 法門は 天台 妙楽 伝教 等の 御釈をば 御用い 候や 如何.

こたえて いわく.
答て 云く.

もっとも この しゃく どもを みょうきょうの じょしょうとして たて もうす ほうもんにて そうろう.
最も 此の 御釈 共を 明鏡の 助証として 立て 申す 法門にて 候.

とうて いわく.
問て 云く.

なにを みょうきょうとして たてられ そうろうぞや.
何を 明鏡として 立てられ 候ぞや.

この おんしゃく どもには にぜんごんきょうを えらび すてらること そうらわず.
彼の 御釈 共には 爾前権教を 簡び 捨てらる 事 候はず.

したがって あるいは しょごぶつえ えんどんぎさい とも.
随つて 或は 初後仏慧 円頓義斉 とも.

あるいは しみょう ひみょう みょうぎ ことなる こと なしとも しゃくせられて.
或は 此妙 彼妙 妙義 殊なる こと 無しとも 釈せられて.

けごんと ほっけとの ぶつえ おなじ ぶつえにて ことなること なしと しゃくせられ そうろう.
華厳と 法華との 仏慧 同じ 仏慧にて 異なること 無しと 釈せられ 候.

つうきょう べっきょうの ぶつえも ほっけと おなじと みえて そうろう.
通教 別教の 仏慧も 法華と 同じと 見えて 候.

なにを もって ひとえに ほっけ すぐれたりとは おおせられ そうろうや.
何を 以て 偏に 法華 勝れたりとは 仰せられ 候や.

こころえず そうろう いかん.
意得ず 候 如何.

こたえて いわく てんだいの おんしゃくを ひかれ そうろうは さだめて てんだいしゅうにて おわせ そうろうらん.
答て 云く 天台の 御釈を 引かれ 候は 定て 天台宗にて 御坐 候らん.

しかるに てんだいの おんしゃくには きょうどう しょうどうとて 2すじを もって 60かんを つくられて そうろう.
然るに 天台の 御釈には 教道 証道とて 二筋を 以て 六十巻を 造られて 候.

きょうどうは そく きょうそうの ほうもんにて そうろう.
教道は 即 教相の 法門にて 候.

しょうどうは そく ないしょうの さとりの かたにて そうろう.
証道は 即 内証の 悟の 方にて 候.

ただいま ひかれ そうろう しゃくの もん どもは きょうしょうの にどうの なかには.
只今 引れ 候 釈の 文 共は 教証の 二道の 中には.

いずれの もんと おんこころえ そうろうて ひかれ そうろうぞや.
何れの 文と 御得意 候て 引かれ 候ぞや.

もし きょうもんの おんしゃくにて そうらわば きょうそうには 3しゅの きょうそうを たて.
若し 教門の 御釈にて 候わば 教相には 三種の 教相を 立て.

にぜん ほっけを しゃくして しょうれつを はんぜられ そうろう.
爾前 法華を 釈して 勝劣を 判ぜられ 候.

まず 3しゅの きょうそうと もうすは いかにて そうろうぞやと これを たずぬべし.
先づ 三種の 教相と 申すは 何にて 候ぞやと 之を 尋ぬ可し.

もし 3しゅの きょうそうと もうすは ひとつには こんじょうの ゆう ふゆうの そう.
若し 三種の 教相と 申すは 一には 根性の 融 不融の 相.

ふたつには けどうの しじゅう ふしじゅうの そう.
二には 化導の 始終 不始終の 相.

みっつには していの おんごん ふおんごんの そう なりと こたえば.
三には 師弟の 遠近 不遠近の 相 なりと 答へば.

さては ただいま ひかれ そうろう おんしゃくは いずれの きょうそうの もとにて ひかれ そうろうやと たずぬ べきなり.
さては 只今 引かれ 候 御釈は 何れの 教相の 下にて 引かれ候やと 尋ぬ 可きなり.

もし こんじょうの ゆう ふゆうの もとにて しゃくせらると こたえば.
若し 根性の 融 不融の 下にて 釈せらると 答へば.

また おしかえして とうべし.
又 押し 返して 問う可し.

こんじょうの ゆう ふゆうの もとには やっきょう やくぶとて ふたつの ほうもん あり.
根性の 融 不融の 下には 約教 約部とて 二の 法門 あり.

いずれぞと たずぬべし.
何れぞと 尋ぬ可し.

もし きゃっきょうの もとと こたえば また とうべし.
若し 約教の 下と 答へば 又 問う可し.

やっきょう やくぶに ついて よだつの ふたつの しゃく そうろう.
約教 約部に 付いて 与奪の 二の 釈 候.

ただいまの しゃくは よの しゃく なるか だつの しゃく なるかと これを たずぬべし.
只今の 釈は 与の 釈 なるか 奪の 釈 なるかと 之を 尋ぬ可し.

もし やっきょう やくぶをも よだつをも わきまえずと いわば.
若し 約教 約部をも 与奪をも 弁えずと 云わば.

さてはさては てんだいしゅうの ほうもんは けんごに ぶさたにて そうろうけり.
さてはさては 天台宗の 法門は 堅固に 無沙汰にて 候けり.

もっとも てんだいほっけの ほうもんは きょうそうを もって しょぶつの ごほんいを のべられたり.
尤も 天台法華の 法門は 教相を 以て 諸仏の 御本意を 宣られたり.

もし きょうそうに くらくして ほっけの ほうもんを いわん ものは.
若し 教相に 闇くして 法華の 法門を 云ん 者は.

すいさんほけきょう げんしほっけしん とて ほっけの こころをころす という ことにて そうろう.
雖讃法華経 還死法華心 とて 法華の 心を 殺すと 云う 事にて 候.

→a375

b376

そのうえ 「もし よきょうを ひろむるに きょうそうを あきらめざるも ぎに おいて やぶること なし.
其の上 「若し 余経を 弘むるに 教相を 明らめざるも 義に 於て傷ること 無し.

もし ほけきょうを ひろむるに きょうそうを あかさざれば もんぎ かくる ことあり」と しゃくせられて.
若し 法華を 弘むるに 教相を 明さざれば 文義 闕くる こと有り」と 釈せられて.

ことさら きょうそうを もととして てんだいの ほうもんは こんりゅう せられ そうろう.
殊更 教相を 本として 天台の 法門は 建立 せられ 候.

おおせられ そうろう ごとく しだいも なく へんえんをも えらばず.
仰せられ 候 如く 次第も 無く 偏円をも 簡ばず.

じゃしょうも えらばず.
邪正も 選ばず.

ほうもん もうさん ものをば しんじゅ せざれと てんだい かたく いましめられ そうろうなり.
法門 申さん 者をば 信受 せざれと 天台 堅く 誡しめられ 候なり.

これほどに しろしめさず そうらいけるに なかなか てんだいの おんしゃくを ひかれ そうろうこと.
是程に 知食さず 候けるに 中々 天台の 御釈を 引かれ 候事.

あさましき おんこと なりと せむ べきなり.
浅マシき 御事 なりと 責む 可きなり.

ただし てんだいの きょうそうを 3しゅに たてらるる なかに.
但し 天台の 教相を 三種に 立てらるる 中に.

こんじょうの ゆう ふゆうの そうの げにて そうたいみょう ぜったいみょうとて にみょうを たて そうろう.
根性の 融 不融の 相の 下にて 相待妙 絶待妙とて 二妙を 立て 候.

そうたいみょうの げにて また やっきょう やくぶの ほうもんを しゃくして.
相待妙の 下にて 又 約教 約部の 法門を 釈して.

ぶっきょうの しょうれつを はんぜられて そうろう.
仏教の 勝劣を 判ぜられて 候.

やっきょうの ときは いちだいの きょうを ぞうつうべつえんの しきょうに わかって.
約教の 時は 一代の 教を 蔵通別円の 四教に 分つて.

これに ついて しょうれつを はんずる ときは ぜんさんいそ ごいちいみょうとは はんぜられて.
之に 付いて 勝劣を 判ずる 時は 前三為ソ 後一為妙とは 判ぜられて.

ぞうつうべつの さんきょうをば そきょうと きらい.
蔵通別の 三教をば ソ教と 嫌ひ.

のちの いっきょうをば みょうほうと せんしゅ せられ そうらえども.
後の 一教をば 妙法と 選取 せられ 候へども.

このときも なお にぜんごんきょうの とうぶんの とくどうを ゆるし.
此の 時も なほ 爾前権教の 当分の 得道を 許し.

しばらく けごんとうの ぶつえと ほっけの ぶつえとを ひとし からしめて.
且く 華厳等の 仏慧と 法華の 仏慧とを 等 から令めて.

ただいまの しょご ぶつえ えんとんぎせい とうの よの しゃくをつくられ そうろうなり.
只今の 初後 仏慧 円頓義斉 等の 与の 釈を 作られ 候なり.

しかりと いえども やくぶの ときは いちだいの きょうを 5じにわかって 5みに はいし.
然りと 雖も 約部の 時は 一代の 教を 五時に 分つて 五味に 配し.

けごんぶ あごんぶ ほうとうぶ はんにゃぶ ほっけぶと たてられ.
華厳部 阿含部 方等部 般若部 法華部と 立てられ.

ぜんしみいそ ごいちいみょうと はんじて だつの しゃくを つくられ そうろうなり.
前四味為ソ 後一為妙と 判じて 奪の 釈を 作られ 候なり.

しかれば だつの しゃくに いわく.
然れば 奪の 釈に 云く.

さいにん そにん にぐはんか じゅうかへんせつ ぐみょうそにん」 と.
「細人 ソ人 二倶犯過 従過辺説 倶名ソ人」 と.

しゃくの こころは けごんきょうにも べつえん にきょうを とかれて そうらえば.
此釈の 意は 華厳部にも 別円 二教を 説かれて 候へば.

えんの かたは ぶつえと いわるるなり.
円の 方は 仏慧と 云わるるなり.

ほうとうぶにも ぞうつうべつえんの しきょうを とかれたれば えんの かたは また ぶつえ なり.
方等部にも 蔵通別円の 四教を 説れたれば 円の 方は 又 仏慧 なり.

はんにゃぶにも つうべつえんの ご さんきょうを といて そうらえば.
般若部にも 通別円の 後 三教を 説いて 候へば.

それも えんの かたは ぶつえ なり.
其れも 円の 方は 仏慧 なり.

しかりと いえども けごんは べつきょうと もうす えせものを つれて.
然りと 雖も 華厳は 別教と 申す えせ物を つれて.

とかれたる あいだ わるきもの つれたる ぶつえ なりとて きらわるる なり.
説れたる 間 わるき物 つれたる 仏慧 なりとて 簡わるる なり.

ほうとうぶの えんも ぜんさんきょうの えせものを つれたる ぶつえ なり.
方等部の 円も 前三教の えせ物を つれたる 仏慧 なり.

はんにゃぶの えんも ぜんにその えせものを つれたる ぶつえ なり.
般若部の 円も 前二ソの えせ物を つれたる 仏慧 なり.

しかる あいだ ぶつえの なは おなじと いえども かの へんに したがって そと いわれ.
然る 間 仏慧の 名は 同と 雖も 過の 辺に 従つて ソと 云われて.

わるき えんきょうの ぶつえと くだされ そうろうなり.
わるき 円教の 仏慧と 下され 候なり.

これに よりて しきょうにても しんじつの しょうれつを はんずる ときは.
之に 依て 四教にても 真実の 勝劣を 判ずる 時は.

いちおうは さんぞうを なづけて しょうじょうと なし.
一往は 三蔵を 名て 小乗と 為し.

さいおうは さんきょうを なづけて しょうじょうと なすと しゃくして.
再往は 三教を 名て 小乗と 為すと 釈して.

いちおうの ときは 250かい とうの あごん さんぞうきょうの ほうもんを そうじて.
一往の 時は 二百五十戒 等の 阿含 三蔵教の 法門を 総じて.

しょうじょうの ほうと きらい すてらるれども.
小乗の 法と 簡い 捨てらるれども.

さいおうの しゃくの ときは さんぞうきょうと だいじょうと いいつる.
再往の 釈の 時は 三蔵教と 大乗と 云いつる.

つうきょうと べっきょうとの さんきょう みな しょうじょうの ほうと.
通教と 別教との 三教 皆 小乗の 法と.

ほんちょうの ちしょうだいしも ほっけろんの きと もうす もんを つくって.
本朝の 智証大師も 法華論の 記と 申す 文を 作つて.

はんしゃく せられて そうろうなり.
判釈 せられて 候なり.

→a376

b377

つぎに ぜったいみょうと もうすは かいえの ほうもんにて そうろうなり.
次に 絶待妙と 申すは 開会の 法門にて 候なり.

このときは にぜん ごんきょうとて きらい すてらるる ところの おしえを.
此の 時は 爾前 権教とて 嫌ひ 捨らるる 所の 教を.

みな ほっけの たいかいに おさめ いるる なり.
皆 法華の 大海に おさめ 入るる なり.

したがって ほっけの たいかいに いりぬれば にぜんの ごんきょうとて きらわるる もの なきなり.
随つて 法華の 大海に 入りぬれば 爾前の 権教とて 嫌わるる 者 無きなり.

みな ほっけの たいかいの ふかしぎの とくとして.
皆 法華の 大海の 不可思議の 徳として.

なんみょうほうれんげきょうと いう いちみに たたきなしつる あいだ.
南無妙法蓮華経と 云う 一味に たたきなしつる 間.

ねんぶつ かい しんごん ぜんとて べつの みょうごんを よびだす べき どうり かつて なきなり.
念仏 戒 真言 禅とて 別の 名言を 呼び出す 可き 道理 曾て 無きなり.

したがって しゃくに いわく.
随つて 釈に 云く.

「しょすいにゅうかい どういつかんみ しょちにゅうにょじっち しっぽんみょうじ」 とうと しゃくして.
「諸水入海 同一鹹味 諸智入如実智 失本名字」 等と 釈して.

もとの みょうじを ひとことも よび あらわす べからずと しゃくせられて そうろうなり.
本の 名字を 一言も 呼び 顕す 可らずと 釈せられて 候なり.

せけんの ひと てんだいしゅうは かいえの のちは そうたいみょうの とき.
世間の 人 天台宗は 開会の 後は 相待妙の 時.

きらい すてられし ところの ぜんしみの しょきょうの みょうごんを となうるも.
斥い 捨てられし 所の 前四味の 諸経の 名言を 唱うるも.

また しょぶつ しょぼさつの みょうごんを となうるも.
又 諸仏 諸菩薩の 名言を 唱うるも.

みな これ ほけきょうの みょうたいにて あるなり.
皆 是 法華の 妙体にて 有るなり.

たいかいに いらざる ほど こそ かくべつの おもい なりけれ.
大海に 入らざる 程 こそ 各別の 思 なりけれ.

たいかいに いって のちに みれば ひごろ よし わるしと.
大海に 入つて 後に 見れば 日来 よし わるしと.

きらい もちいけるは だいびゃっけんにて ありけり.
嫌ひ 用ひけるは 大僻見にて 有りけり.

きらわるる しょりゅうも もちいらるる れいすいも.
嫌はるる 諸流も 用ひらるる 冷水も.

みなもとは ただ たいかい より いでたる いっすいにて ありけり.
源は ただ 大海 より 出でたる 一水にて 有りけり.

しかれば いずれの みずと よびたりとても ただ たいかいの いっすいに おいて.
然れば 何の 水と 呼びたりとても ただ 大海の 一水に 於て.

べつべつの みょうげんを よびたるにて こそあれ.
別別の 名言を よびたるにて こそあれ.

かくべつかくべつの ものと おもうて よぶに こそ とがは あれ.
各別各別の 物と 思うて よぶに こそ 科は あれ.

ただ たいかいの いっすいと おもうて いずれをも こころに まかせて.
只 大海の 一水と 思うて 何れをも 心に 任せて.

うえんに したがって となえ たもつに くるしかる べからずとて.
有縁に 従つて 唱え 持つに 苦しかる 可からずとて.

ねんぶつをも しんごんをも いずれをも こころに まかせて たもち となうる なり.
念仏をも 真言をも 何れをも 心に 任せて 持ち 唱うる なり.

いま いう このぎは あたえて いうときは さも あるべきかと おぼゆれども.
今 云う 此の 義は 与えて 云う時は さも 有る可きかと 覚れども.

うばって いう ときは ずいぶん だじごくの ぎにて あるなり.
奪つて 云う 時は 随分 堕地獄の 義にて 有るなり.

その ゆえは たとい ひとり かくの ごとく こころえ.
其の 故は 縦ひ 一人 此くの 如く 意得.

いずれをも たもち となうるとても ばんにん この こころねを えざる ときは.
何れをも 持ち 唱るとても 万人 此の 心根を 得ざる 時は.

ただ れいの へんけん へんじょうにて たもち となえれば.
只 例の 偏見 偏情にて 持ち 唱えれば.

ひとり じょうぶつ するとも ばんにんは みな じごくに だすべき じゃけんの あくぎ なり.
一人 成仏 するとも 万人は 皆 地獄に 堕す可き 邪見の 悪義 なり.

にぜんに たてる ところの ほうもんの みょうげんと その ほうもんの うちに だんずる ところの どうりの しょせんとは.
爾前に 立てる 所の 法門の 名言と 其の 法門の 内に 談ずる 所の 道理の 所詮とは.

みな これ へんけん へんじょうに よりて.
皆 是 偏見 偏情に よりて.

にゅうじゃけんちゅうりん にゃくうにゃくむ とうの ごんきょう なり.
入邪見稠林 若有若無 等の 権教 なり.

しかれば これらの みょうげんをば もって たもち となえ.
然れば 此等の 名言を 以て 持ち 唱へ.

これらの しょせんの りを かんずれば ひとえに こころえたるも こころえざるも みな だいじごくに おつべし.
此等の 所詮の 理を 観ずれば 偏に 心得たるも 心得ざるも 皆大地獄に 堕つべし.

こころえ たりとて となえ たもち たらんものは ぎゅうていに たいかいを おさめたる もののごとし.
心得 たりとて 唱へ 持ち たらん者は 牛蹄に 大海を 納めたる 者の如し.

これ びゃっけんの もの なり.
是 僻見の 者 なり.

なんぞ さんあくどうを まぬがれん.
何ぞ 三悪道を 免がれん.

また ここえざる ものの となえ たもたんは もと めいわくの もの なれば.
又 心得ざる 者の 唱へ 持たんは 本 迷惑の 者 なれば.

じゃけん ごんきょうの しゅうしんに よって むけんだいじょうに いらん こと.
邪見 権教の 執心に よつて 無間大城に 入らん 事.

うたがい なき ものなり.
疑い 無き 者なり.

かいえの あとも そきょうとて きらい すてし あくほうをば.
開会の 後も ソ教とて 嫌い 捨てし 悪法をば.

みょうげんをも その しょせんの ごくりをも となえ たもって.
名言をも 其の 所詮の 極理をも 唱へ 持つて.

まじゆべからずと みえて そうろう.
交ゆべからずと 見えて 候.

ぐけつに いわく 「そうたい ぜったい ともに すべからく あくを はなるべし.
弘決に 云く 「相待絶待 倶に 須く 悪を 離るべし.

えんに じゃくする なお あく なり.
円に 著する 尚 悪 なり.

いわんや また よをや」 うんぬん.
況や 復 余をや」 云云.

→a377

b378

もんの こころは そうたいみょうの ときも ぜったいみょうの ときも.
文の 心は 相待妙の 時も 絶待妙の 時も.

ともに すべからく あくほうをば はなるべし.
倶に 須く 悪法をば 離るべし.

えんに じゃくする なお あし.
円に 著する 尚 悪し.

いわんや また よの ほうをやと いう もん なり.
況や 復 余の 法をやと 云う 文 なり.

えんと いうわ まんぞくの ぎ なり.
円と 云うは 満足の 義 なり.

よと いうは けつげんの ぎ なり.
余と 云うは 闕減の 義 なり.

えんきょうの じっかい びょうどうに じょうぶつ する ほうを あらわしたる かたを あくぞと きらう.
円教の 十界 平等に 成仏 する 法を すら 著したる 方を 悪ぞと 嫌ふ.

いわんや また じっかい びょうどうに じょうぶつ せざるの あくほうの かけたるを もって.
況や 復 十界 平等に 成仏 せざるの 悪法の 闕たるを 以て.

しゅうじゃくを なして あさゆう じゅじどくじゅ げだつ しょしゃ せんをや.
執著を なして 朝夕 受持 読誦 解説 書写 せんをや.

たといに ぜんの えんを いまの ほけきょうに かいえし いるるとも.
設ひ 爾前の 円を 今の 法華に 開会し 入るるとも.

にぜんの えんは ほっけの いちみと なる ことなし.
爾前の 円は 法華の 一味と なる 事無し.

ほっけの たいないに かいえし いれられても.
法華の 体内に 開会し 入れられても.

たいないの ごんと いわれて じつとは いわざるなり.
体内の 権と 云われて 実とは 云わざるなり.

たいないの ごんを たいげに とりだして しばらく おいちぶつじょう ぶんべつせっさん するとき.
体内の 権を 体外に 取出して 且く 於一仏乗 分別説三 する時.

ごんに おいて えんの なを つけて さんじょうの なかの えんきょうと いわれたる なり.
権に 於て 円の 名を 付て 三乗の 中の 円教と 云われたる なり.

これに よりて いにしえも こんじょうの ちかいを もって.
之に 依りて 古へも 金杖の 譬を 以て.

さんじょうに あてて さたすること あり.
三乗に あてて 沙汰 する事 あり.

たとえば こがねの つえを みっつに うちおりて.
譬へば 金の 杖を 三に 打をりて.

ひとつづつ さんじょうの きこんに あたえて いずれも みな こがね なり.
一づつ 三乗の 機根に 与へて 何れも 皆 金 なり.

しかれば なんぞ おなじ こがねに おいて さべつの おもいを なして.
然れば 何ぞ 同じ 金に 於て 差別の 思を なして.

しょうれつを はんぜんやと だんごう したり.
勝劣を 判ぜんやと 談合 したり.

これは うちきく ところは さもやと おぼえたれども.
此は うち聞く 所は さもやと 覚えたれども.

あしく がくしゃの こころえたる なり.
悪く 学者の 得心たる なり.

いま いう この ぎは たとえば ほっけの たいないの ごんの こんじょうを.
今 云う 此の 義は 譬へば 法華の 体内の 権の 金杖を.

ほとけ 3こんに あてて たいげに 3ど うちふり たまえる.
仏 三根に あてて 体外に 三度 うちふり 給へる.

その かげを きこんが みつけずして みな しんじつの おもいをなして おのが けんに まかせたる なり.
其の 影を 機根が 見付ずして 皆 真実の 思を 成して 己が 見に 任せたる なり.

その しんじつには こんじょうを うちおりて みっつに なしたる ことが あらばこそ.
其の 真実には 金杖を 打折て 三に なしたる 事が 有らばこそ.

いまの たとえは がっぴとは ならめ.
今の 譬は 合譬とは ならめ.

ほとけは ごんの こんじょうを おらずして 3ど ふり たまえるを.
仏は 権の 金杖を 折らずして 三度 ふり 給へるを.

きこん ありて みっつに なりたりと しゅうちゃくし こころえたる.
機根 ありて 三に 成りたりと 執著し 得心たる.

かえすがえす ふとくしんの だいびゃっけん なり だいびゃっけん なり.
返す返す 不得心の 大邪見 なり 大邪見 なり.

3ど ふりたるも ほっけの たいないの ごんの くどくを.
三度 振りたるも 法華の 体内の 権の 功徳を.

たいがいの さんこんに はいして 3ど ふりたるにて こそあれ.
体外の 三根に 配して 三度 振りたるにて こそ有れ.

まったく みょうたいの ふしぎの えんじつを ふりたる こと なきなり.
全く 妙体 不思議の 円実を 振りたる 事 無きなり.

しかれば たいげの かげの さんじょうを たいないの もとの ごんの ほんたいへ かいえし いるれば.
然れば 体外の 影の 三乗を 体内の 本の 権の 本体へ 開会し 入るれば.

もとの たいないの ごんと いわれて まったく たいないの えんとは ならざるなり.
本の 体内の 権と 云われて 全く 体内の 円とは 成らざるなり.

この こころを もって たいない たいげの ごんじつの ほうもんをば こころえ わきまう べきものなり.
此の 心を 以て 体内 体外の 権実の 法門をば 得意 弁ふ べき者なり.

つぎに ぜんしゅうの ほうもんは あるいは きょうげべつでん ふりゅうもんじと いい.
次に 禅宗の 法門は 或は 教外別伝 不立文字と 云ひ.

あるいは ぶっそふでんと いい しゅたらの きょうは つきを さす ゆびの ごとしとも いい.
或は 仏祖不伝と 云ひ 修多羅の 教は 月を さす 指の 如しとも 云ひ.

あるいは そくしんそくぶつとも いって もじをも たてず.
或は 即身即仏とも 云つて 文字をも 立てず.

ぶっそにも よらず きょうほうをも しゅうがく せず.
仏祖にも 依らず 教法をも 修学 せず.

がぞう もくぞうをも しんよう せずと いうなり.
画像 木像をも 信用 せずと 云うなり.

はんきつして いわく ぶっそふでんにて そうらわば.
反詰して 云く 仏祖不伝にて 候はば.

なんぞ がっしの にじゅうはっそ とうどの 6そとて そうでん せられ そうろうや.
何ぞ 月氏の 二十八祖 東土の 六祖とて 相伝 せられ 候や.

→a378

b379

その うえ かしょうそんじゃは なんぞ.
其の 上 迦葉尊者は 何ぞ.

ひとえだの はなぶさを しゃくそん より さずけられ.
一枝の 花房を 釈尊 より 授けられ.

びしょうして こころの いっぽうを りょうぜんにして つたえたりとは じしょう するや.
微笑して 心の 一法を 霊山にして 伝えたりとは 自称 するや.

また そし むよう ならば なんぞ だるまだいしを ほんぞんと するや.
又 祖師 無用 ならば 何ぞ 達磨大師を 本尊と するや.

また しゅたらの ほう むよう ならば なんぞ あさゆうの しょさに しんごんだらにを よみつるぞや.
又 修多羅の 法 無用 ならば 何ぞ 朝夕の 所作に 真言陀羅尼を よみつるぞや.

しゅりょうごんきょう こんごうきょう えんがくきょう とうを あるいは だんじ あるいは どくじゅ するや.
首楞厳経 金剛経 円覚経 等を 或は 談じ 或は 読誦 するや.

また ほとけ ぼさつを しんよう せずんば なんぞ なむさんぽうと ぎょうじゅうざがに となうるやと せむべきなり.
又 仏 菩薩を 信用 せずんば 何ぞ 南無三宝と 行住坐臥に 唱うるやと 責む可きなり.

つぎに きき しらざる ことばを もって しゅじゅ もうし くるわば いうべし.
次に 聞き 知らざる 言を 以て 種種 申し 狂はば 云う可し.

およそ きには じょうちゅうげの さんこん あり.
凡そ 機には 上中下の 三根 あり.

したがって ほうもんも さんこんに あたえて とく ことなり.
随つて 法門も 三根に 与へて 説 事なり.

ぜんしゅうの ほうもんにも りちきかん こうじょうとして さんこんに あてて ほうもんを しめされ そうろうなり.
禅宗の 法門にも 理致機関 向上として 三根に 配て 法門を 示され 候なり.

ごへんは それがしが きをば さんこんの なかには いずれと こころえて もんち せざる ほうもんを おおせられ そうろうぞや.
御辺は 某が 機をば 三根の 中には 何れと 得意て 聞知 せざる 法門を 仰せられ 候ぞや.

また りちの ぶんか きかんの ぶんか こうじょうの ぶんに そうろうかと せむべきなり.
又 理致の 分か 機関の 分か 向上の 分に 候かと 責む可きなり.

りちと いうは げこんに どうりを いいきかせて ぜんの ほうもんを しらする めいもく なり.
理致と 云うは 下根に 道理を 云いきかせて 禅の 法門を 知らする 名目 なり.

きかんとは ちゅうこんには いかなるか.
機関とは 中根には 何なるか.

ほんらいの めんもくと とへば ていぜんの はくじゅし なんど.
本来の 面目と 問へば 庭前の 柏樹子 なんど.

こたえたる さまの ことばずかいをして ぜんぽうを しめす さまなり.
答えたる 様の 言づかひをして 禅法を 示す 様なり.

こうじょうと いうは じょうこんの ものの ことなり.
向上と 云うは 上根の 者の 事なり.

この きは そし よりも つたえず.
此の 機は 祖師 よりも 伝えず.

ほとけ よりも つたえず われとして ぜんの ほうもんを さとるき なり.
仏 よりも 伝えず 我として 禅の 法門を 悟る 機 なり.

かしょう りょうぜん びしょうの はなに よって こころの いっぽうを えたりと いう ときに.
迦葉 霊山 微笑の 花に 依て 心の 一法を 得たりと 云う 時に.

これ なお ちゅうこんの き なり.
是れ 尚 中根の 機 なり.

いわゆる ぜんの ほうもんと いう ことは かしょう いちようの はなぶさを えしより.
所詮 禅の 法門と 云う 事は 迦葉 一枝の 花房を 得しより.

このかた しゅったいせる ほうもん なり.
已来 出来せる 法門 なり.

そもそも つたえし ときの はなぶさは きの はなか くさの はなか.
抑も 伝えし 時の 花房は 木の 花か 草の 花か.

ごしょくの なかには いかようなる いろの はなぞや.
五色の 中には 何様なる 色の 花ぞや.

また はなの はわ いくじゅうの はぞや いさいに これを たずぬ べきなり.
又 花の 葉は 何重の 葉ぞや 委細に 之を 尋ぬ 可きなり.

その はなを ありの ままに いいだしたる ぜんしゅう あらば.
此の 花を ありの ままに 云い出したる 禅宗 有らば.

じつに こころの いっぽうをも いちぶん えたる ものと しるべきなり.
実に 心の 一法をも 一分 得たる 者と 知る可きなり.

たとえ えたりとは ぞんちす とも しんじつの ぶっちには かのうべからず.
設ひ 得たりとは 存知す とも 真実の 仏意には 叶う可からず.

いかんと なれば ほけきょうを しんぜざるが ゆえなり.
如何と なれば 法華経を 信ぜざるが 故なり.

この こころは ほけきょうの ほうべんぽんの まつ ちょうぎょうに くわしく みえたり.
此の 心は 法華経の 方便品の 末 長行に 委く 見えたり.

くわしくは ひいて はいけんし たてまつる べきなり.
委は 引て 拝見し 奉る 可きなり.

つぎに ぜんの ほうもん なんとしても ものに ちゃくする ところを はなれよと.
次に 禅の 法門 何としても 物に 著する 所を 離れよと.

おしえたる ほうもんにて あるなり.
教えたる 法門にて 有るなり.

さと いえば それも じょう なり こうと いうも.
左と 云へば 其れも 情 なり 右と 云うも.

それも じょうなりと あなた こなたへ すべり とどまらぬ ほうもんにて そうろうなり.
其れも 情なりと あなた こなたへ すべり とどまらぬ 法門にて 候なり.

それを せむべき さまは たにんの じょうに ちゃくしたらん ばかりをば.
夫れを 責む可き 様は 他人の 情に 著したらん 計りをば.

さたして おのが じょうりょうに ちゃくし ふうぜらる ところをば しらざるなり.
沙汰して 己が 情量に 著し 封ぜらる 所をば 知らざるなり.

いうべき さまは ごへんは ひとの じょう ばかりをば せむれども.
云うべき 様は 御辺は 人の 情 計りをば 責むれども.

ごへん じょうを じょうと しゅうしたる じょうをばなど はなれえぬぞと はんきつ すべきなり.
御辺 情を 情と 執したる 情をばなど 離れ得ぬぞと 反詰 すべきなり.

およそ ほうとして さんぜしょぶつの とき のこしたる ほうは なきなり.
凡そ 法として 三世諸仏の 説き のこしたる 法は 無きなり.

なんじ ぶっそふでんと いって ぶっそ よりも つたえずと なのらば.
汝 仏祖不伝と 云つて 仏祖 よりも 伝えずと なのらば.

さては ぜんぽうは てんまの つたうる ところの ほうもん なり いかん.
さては 禅法は 天魔の 伝うる 所の 法門 なり 如何.

→a379

b380

しかる あいだ なんじ だんじょうの にけんを いでず.
然る 間 汝 断常の 二見を 出でず.

むけんじごくに だせん こと うたがい なしと いって.
無間地獄に 堕せん 事 疑 無しと 云つて.

なんども かれが いう ことばにて ややも すれば おのが つまる ことば なり.
何度も かれが 云う 言にて ややもすれば 己が つまる 語 なり.

されども ひがくしょうは りに つまらずと いって.
されども 非学匠は 理に つまらずと 云つて.

たにんの どうりをも じしんの どうりをも きき しらざる あいだ.
他人の 道理をも 自身の 道理をも 聞き 知らざる 間.

あんしょうの ものとは いうなり.
暗証の 者とは 云うなり.

すべて りに おれざるなり.
都て 理に おれざるなり.

たとえば いく みずに かず かくが ごとし.
譬えば 行く 水に かず かくが 如し.

つぎに そくしんそくぶつとは そくしんそくぶつ なる どうりを たてよと せむべし.
次に 即身即仏とは 即身即仏 なる 道理を 立てよと 責む 可し.

その どうりを たてずして むりに ただ そくしんそくぶつと いわば.
其の 道理を 立てずして 無理に 唯 即身即仏と 云わば.

れいの てんまの ぎ なりと せむべし.
例の 天魔の 義 なりと 責む可し.

ただ そくしんそくぶつと いう みょうもくを きくに.
但 即身即仏と 云う 名目を 聞くに.

てんだいほっけしゅうの そくしんじょうぶつの みょうもく つかいを ぬすみとって.
天台法華宗の 即身成仏の 名目 つかひを 盗み取て.

ぜんしゅうの いえに つかうと おぼえたり.
禅宗の 家に つかふと 覚えたり.

しかれば ほっけに たつる ようなる そくしんそくぶつ なるか いかんと せめよ.
然れば 法華に 立つる 様なる 即身即仏 なるか 如何と せめよ.

もし その ぎ なく おして みょうもくを つかわば.
若し 其の 義 無く 押して 名目を つかはば.

つかわるる ことばは むしょうげの ほう なり.
つかはるる 語は 無障礙の 法 なり.

たとえば たみの みとして こくしゅと なのらん ものの ごとくなり.
譬えば 民の 身として 国王と 名乗ん 者の 如くなり.

いかに こくおうと いうとも ことばには さわり なし.
如何に 国王と 云うとも 言には 障り 無し.

おのが したの やわらかなる ままに いうとも その みは そくどみんの いやしく きらわれたる み なり.
己が 舌の 和かなる ままに 云うとも 其の 身は 即 土民の 卑しく 嫌われたる 身 なり.

また がりゃくを たまと いうものの ごとし.
又 瓦礫を 玉と 云う 者の 如し.

いし かわらを たまと いいたりとも かつて いしは たまに ならず.
石 瓦を 玉と 云いたりとも 曾て 石は 玉に ならず.

なんじが いうところの そくしんそくぶつの みょうもくも かくのごとく うみょうむじつ なり.
汝が 云う所の 即身即仏の 名目も 此くの 如く 有名無実 なり.

ふびん なり ふびん なり.
不便 なり 不便 なり.

つぎに ふりゅうもんじと いう.
次に 不立文字と 云う.

いわゆる もんじと いうことは いかなる ものと こころえ かくの ごとく たてられ そうろうや.
所詮 文字と 云う事は 何なる ものと 得心 此くの 如く 立てられ 候や.

もんじは これ いっさいしゅじょうの しんぽうの あらわれたる すがた なり.
文字は 是 一切衆生の 心法の 顕れたる 質 なり.

されば ひとの かける ものを もって その ひとの こころねを しって そうする ことあり.
されば 人の かける 物を 以て 其の 人の 心根を 知つて 相する 事あり.

およそ こころと しきほうとは ふにの ほうにて ある あいだ.
凡そ 心と 色法とは 不二の 法にて 有る 間.

かきたる ものを もって その ひとの ひんぷくをも そうする なり.
かきたる 物を 以て 其の 人の 貧福をも 相する なり.

しかれば もじは ただ いっさいしゅじょうの しきしんふにの すがた なり.
然れば 文字は 是 一切衆生の 色心不二の 質 なり.

なんじ もし もじを たてざれば なんじが しきしんをも たつべからず.
汝 若し 文字を 立てざれば 汝が 色心をも 立つ可からず.

なんじ ろっこんを はなれて ぜんの ほうもん いっく こたえよと せむべきなり.
汝 六根を 離れて 禅の 法門 一句 答へよと 責む可きなり.

さてと いうも こうと いうも うと むとの にけんをば はなれず.
さてと 云うも かうと 云うも 有と 無との 二見をば 離れず.

むと いわば むの けんなりと せめよ.
無と 云わば 無の 見なりと せめよ.

うと いわば うの けんなりと せめよ.
有と 云わば 有の 見なりと せめよ.

いずれも いずれも かなわざる ことなり.
何れも 何れも 叶わざる 事なり.

つぎに しゅたらの きょうは つきを さす ゆびの ごとしと いうは.
次に 修多羅の 教は 月を さす 指の 如しと 云うは.

つきを みて のちは いたずらものと いう ぎ なるか.
月を 見て 後は 徒者と 云う 義 なるか.

もし その ぎにて そうらわば ごへんの おやも いたずらものという ぎか.
若 其 義にて 候わば 御辺の 親も 徒者と 云う 義か.

→a380

b381

また ししょうは でしの ために いたずらものか.
又 師匠は 弟子の 為に 徒者か.

また だいちは いたずらものか また てんは いたずらものか.
又 大地は 徒者か 又 天は 徒者か.

いかんと なれば ふぼは ごへんを しゅっしょう するまでの ようにて こそあれ.
如何と なれば 父母は 御辺を 出生 するまでの 用にて こそあれ.

ごへんを しゅっしょうして のちは なにかせん.
御辺を 出生して 後は なにかせん.

ひとの しは ものを ならい とるまで こそ ようなれ.
人の 師は 物を 習い取るまで こそ 用なれ.

ならいとって のちは むよう なり.
習い取つて 後は 無用 なり.

それは てんは うろを くだすまで こそあれ.
夫れ 天は 雨露を 下すまで こそあれ.

あめふりて のちは てんむよう なり.
雨ふりて 後は 天無用 なり.

だいちは そうもくを しゅっしょう せんが ためなり.
大地は 草木を 出生 せんが 為なり.

そうもくを しゅっしょうして のちは だいち むよう なりと いわん ものの ごとし.
草木を 出生して 後は 大地無用 なりと 云わん 者の 如し.

これを せぞくの もの たとえに のど すぎぬれば あつさ わすれ.
是を 世俗の 者の 譬に 喉 過ぬれば あつさ わすれ.

やまい いえぬれば いしを わすると いうらん たとえに すこしも たがわず あいにたり.
病 愈えぬれば 医師を わすると 云うらん 譬に 少も 違わず 相似たり.

いわゆる しゅたらと いうも もんじ なり.
所詮 修多羅と 云うも 文字 なり.

もんじは これ さんぜしょぶつの いのち なりと てんだい しゃくし たまえり.
文字は 是れ 三世諸仏の 気命 なりと 天台 釈し 給へり.

てんだいは しんたん ぜんしゅうの そしの なかに いれたり.
天台は 震旦 禅宗の 祖師の 中に 入れたり.

なんぞ そしの ことばを きらわん.
何ぞ 祖師の 言を 嫌はん.

そのうえ ごへんの しきしん なり.
其の上 御辺の 色心 なり.

およそ いっさいしゅじょうの さんぜ ふだんの しきしん なり.
凡そ 一切衆生の 三世 不断の 色心 なり.

なんぞ なんじ ほんらいの めんもくを すて ふりゅうもんじと いうや.
何ぞ 汝 本来の 面目を 捨て 不立文字と 云うや.

これ むかし わたましけるに わが つまを わすれたる ものの ごとし.
是れ 昔し 移宅しけるに 我が 妻を 忘れたる 者の 如し.

しんじつの ぜんぽうをば いかにとしてか しるべき.
真実の 禅法をば 何としてか 知るべき.

あわれなる ぜんの ほうもんかなと せむべし.
哀なる 禅の 法門かなと 責む可し.

つぎに けごん ほっそう さんろん くしゃ じょうじつ りっしゅう とうの.
次に 華厳 法相 三論 倶舎 成実 律宗 等の.

6しゅうの ほうもん いかに はなを さかせても もうしやすく へんじ すべき かたは.
六宗の 法門 いかに 花を さかせても 申しやすく 返事 すべき 方は.

よくよく いわせて のち なんとの きふくじょうを ただ よみきかす べきなり.
能能 いはせて 後 南都の 帰伏状を 唯 読みきかす 可きなり.

すでに 6しゅうの そしが きふくの じょうを かきて かんむてんのうに そうし たてまつる.
既に 六宗の 祖師が 帰伏の 状を かきて 桓武天皇に 奏し 奉る.

よって かの きふくじょうを さんもんに おさめられぬ.
仍て 彼 帰伏状を 山門に 納められぬ.

その ほか だいりにも しるせられたり.
其 外 内裏にも 記せられたり.

しょどうの いえいえにも しるし とどめて いまに あり.
諸道の 家家にも 記し 留めて 今に あり.

これより このかた けごんしゅう とうの ほうもん まっぽうの いまに いたるまで.
其より 已来 華厳宗 等の 六宗の 法門 末法の 今に 至るまで.

いちども あたまを さし いださず.
一度も 頭を さし 出さず.

なんぞ ただいま こと あたらしく すてられたる ところの ごんきょう.
何ぞ 唯今 事 新く 捨られたる 所の 権教.

むとくどうの ほうに おいて しんじつの おもいを なし.
無得道の 法に をいて 真実の 思を なし.

かくの ごとく おおせられ そうろうぞや こころえられずと せむべし.
此くの 如く 仰せられ 候ぞや 心得られずと せむべし.

つぎに しんごんしゅうの ほうもんは まず.
次に 真言宗の 法門は 先ず.

しんごん さんぶきょうは だいにちにょらいの せつか しゃかにょらいの せつかと たずね さだめて.
真言 三部経は 大日如来の 説か 釈迦如来の 説かと 尋ね 定めて.

しゃかの せつと いわば しゃくそん 50ねんの せっきょうに おいて.
釈迦の 説と 言はば 釈尊 五十年の 説教に をいて.

いこんとうの さんせつを ふんべつ せられたり.
已今当の 三説を 分別 せられたり.

その なかに だいにちきょう とうの 3ぶは いずれの ぶんに おさまり そうろうぞと これを たずぬべし.
其の 中に 大日経 等の 三部は 何れの 分に をさまり 候ぞと 之を 尋ぬ可し.

3せつの なかには いずくに こそ おさまりたりと いわば.
三説の 中には いづくに こそ おさまりたりと 云はば.

れいの ほうもんにて たやすかるべき もんどう なり.
例の 法門にて たやすかるべき 問答 なり.

もし ほけきょうと どうじの せつ なり ぎりも ほっけと おなじと いわば.
若 法華と 同時の 説 なり 義理も 法華と 同じと 云はば.

ほっけは これ じゅんえんいちじつの おしえにて かつて ほうべんを まじえて とく ことなし.
法華は 是 純円一実の 教にて 曾て 方便を 交へて 説く 事なし.

だいにちきょう とうは しきょうを がんゆう したる きょう なり.
大日経 等は 四教を 含用 したる 経 なり.

なんぞ ときも おなじ ぎりも おなじと いわんや.
何ぞ 時も 同じ 義理も 同じと 云わんや.

あやまりなりと せめよ.
謬りなりと せめよ.

つぎに だいにちにょらいの せっぽうと いわば.
次に 大日如来の 説法と 云はば.

だいにちにょらいの ふぼと しょうぜし ところと しせし ところを くわしく さたし とうべし.
大日如来の 父母と 生ぜし 所と 死せし 所を 委く 沙汰し 問うべし.

→a381

b382

いっく いちげも だいにちの ふぼ なし せっしょ なし しょうじの ところ なし.
一句 一偈も 大日の 父母 なし 説所 なし 生死の 所 なし.

うみょうむじつの だいにちにょらい なり.
有名無実の 大日如来 なり.

しかる あいだ ことに ほうもん せめやすかる べきなり.
然る 間 殊に 法門 せめやすかる べきなり.

もし ほうもんの しょせんの ことわりを いわば きょうしゅの うむを さだめて.
若 法門の 所詮の 理を 云はば 教主の 有無を 定めて.

せっきょうの とく ふとくをば きわむべき ことなり.
説教の 得 不得をば 極む可き 事なり.

たとい しごくの りみつ じみつを さたすとも やくしゃに こもう あり.
設ひ 至極の 理密 事密を 沙汰すとも 訳者に 虚妄 有り.

ほっけの ごくりを ぬすみとりて じみつしんごんとか たてられて あるやらん.
法華の 極理を 盗み取て 事密真言とか 立てられて あるやらん.

ふしん なり.
不審 なり.

これに よりて ほうの しょだんは きょうしゅの うむに したがって さた あるべきなりと せむ べきなり.
之に 依りて 法の 所談は 教主の 有無に 随て 沙汰 有る可きなりと 責む 可きなり.

つぎに だいにち にょらいは ほっしんと いわば.
次に 大日如来は 法身と 云はば.

ほっけ よりは みけんしんじつと きらい すてられたる にぜん ごんきょうにも ほっしんにょらいと ときたり.
法華 よりは 未顕真実と 嫌い 捨てられたる 爾前 権教にも 法身如来と 説たり.

なんぞ ふしぎなる べきやと いうべきなり.
何ぞ 不思議なる べきやと 云う可きなり.

もし むしむしゅうの よしを いいて いみじき よしを もうさば かならず だいにちにょらいに かぎらず.
若 無始無終の 由を 云て いみじき 由を 立て 申さば 必 大日如来に 限らず.

われら いっさいしゅじょう ろうぎもんもう とうに いたるまで みな むしむしゅうの しきしん なり.
我等 一切衆生 螻蟻モンモウ 等に 至るまで みな 無始無終の 色心 なり.

しゅじょうに おいて うしうしゅうと おもうは げどうの びゃっけん なり.
衆生に 於て 有始有終と 思ふは 外道の 僻見 なり.

なんじ げどうに どうず いかんと いうべきなり.
汝 外道に 同ず 如何と 云う可きなり.

つぎに ねんぶつは これ じょうどしゅう しょゆうの ぎ なり.
次に 念仏は 是 浄土宗 所用の 義 なり.

これ また ごんきょうの なかの ごんきょう なり.
此れ 又 権教の 中の 権教 なり.

たとえば ゆめの なかの ゆめの ごとし.
譬えば 夢の 中の 夢の 如し.

うみょうむじつにして その じつ なきなり.
有名無実にして 其の 実 無きなり.

いっさいしゅじょう ねがいて しょせん なし.
一切衆生 願て 所詮 なし.

しかれば いう ところの ほとけも ういむじょうの あみだぶつ なり.
然れば 云う 所の 仏も 有為無常の 阿弥陀仏 なり.

なんぞ じょうじゅうふめつの どうりに しかんや.
何ぞ 常住不滅の 道理に しかんや.

されば ほんちょうの こんぽんだいしの おんしゃくに いわく.
されば 本朝の 根本大師の 御釈に 云く.

「ういの ほうぶつは むちゅうの ごんか むさの さんじんはかくぜんの じつぶつ」と しゃくして.
「有為の 報仏は 夢中の 権果、無作の 三身は 覚前の 実仏」と 釈して.

あみだぶつ とうの ういむじょうの ほとけをば おおいに いましめ すておかれ そうろう なり.
阿弥陀仏 等の 有為無常の 仏をば 大に いましめ 捨てをかれ 候 なり.

すでに たのむ ところの あみだぶつ うみょうむじつにして.
既に 憑む 所の 阿弥陀仏 有名無実にして.

な のみ あって その たい なからんには おうじょう すべき どうりをば.
名 のみ 有つて 其の 体 なからんには 往生 す可き 道理をば.

くわしく しゅみせんの ごとく たかく たて たいかいの ごとくに ふかく いうとも.
委く 須弥山の 如く 高く 立て 大海の 如くに 深く 云とも.

なんの しょせん あるべきや.
何の 所詮 有るべきや.

また きょうろんに ただしき みょうもん ありと いわば みょうもん ありと いえども みけんしんじつの もん なり.
又 経論に 正き 明文ども 有と 云はば 明文 ありとも 未顕真実の 文 なり.

じょうどの さんぶきょうに かぎらず けごんきょう とうより はじめて.
浄土の 三部経に 限らず 華厳経 等より 初て.

なんの きょう きょう ろん しゃくにか じょうぶつの みょうもん なからんや.
何の 経 教 論 釈にか 成仏の 明文 無らんや.

しかれども ごんきょうの みょうもん なるときは なんじらが しょしゅうの つたなきにて こそあれ.
然れども 権教の 明文 なる時は 汝等が 所執の 拙きにて こそあれ.

きょうろんに なき ひがごと なり.
経論に 無き 僻事 なり.

いずれも ほうもんの どうりを のべ かざり えきょうを たてたりとも.
何れも 法門の 道理を 宣べ 厳り 依経を 立てたりとも.

むちゅうの ごんかにて むようの ぎに なるべきなり.
夢中の 権果にて 無用の 義に 成る可きなり.

かえす がえす.
返す 返す.

→a382

 
→a375
→c375
 ホームページトップ
inserted by FC2 system