b385から389.
主師親御書 (しゅししん ごしょ).
日蓮大聖人 34歳 御作.

 

b385

しゅししん ごしょ.
主師親 御書.

けんちょう しちねん 34さい おんさく.
建長 七年 三十四歳 御作.

しゃかぶつは われらが ためには しゅ なり し なり しん なり.
釈迦仏は 我等が 為には 主 なり 師 なり 親 なり.

ひとりして すくい まもると とき たまえり.
一人して すくひ 護ると 説き 給へり.

あみだぶつは われらが ためには しゅ ならず しん ならず し ならず.
阿弥陀仏は 我等が 為には 主 ならず 親 ならず 師 ならず.

しかれば てんだいだいし これを しゃくして いわく.
然れば 天台大師 是を 釈して 曰く.

「さいほうは ほとけ べつにして えん ことなり.
「西方は 仏 別にして 縁 異なり.

ほとけ べつなるが ゆえに おんけんの ぎ じょうぜず.
仏 別なるが 故に 隠顕の 義 成ぜず.

えん ことなるが ゆえに こ ちちの ぎ じょうぜず.
縁 異なるが 故に 子 父の 義 成ぜず.

また この きょうの しゅ まつに まったく この むね なし.
又 此の 経の 首 末に 全く 此の 旨 無し.

まなこを とじて せんさく せよ」と.
眼を 閉じて 穿鑿 せよ」と.

まこと なるかな しゃかぶつは ちゅうてんじくの じょうぼんだいおうの たいしとして 19の おんとし.
実 なるかな 釈迦仏は 中天竺の 浄飯大王の 太子として 十九の 御年.

いえを いで たまいて だんどくせんと もうす やまに こもらせ たまい.
家を 出で 給いて 檀特山と 申す 山に 籠らせ 給ひ.

たかねに のぼっては つまぎを とり しんこくに くだっては みずを むすび.
高峯に 登つては 妻木を とり 深谷に 下つては 水を 結び.

なんぎょうくぎょうして おんとし 30と もうせしに ほとけに ならせ たまいて.
難行苦行して 御年 三十と 申せしに 仏に ならせ 給いて.

いちだいしょうきょうを とき たまいしに.
一代聖教を 説き 給いしに.

うわべには けごん あごん ほうとう はんにゃ とうの しゅじゅの きょうぎょうを とかせ たまえども.
上には 華厳 阿含 方等 般若 等の 種種の 経経を 説かせ 給へども.

ないしんには ほけきょうを とかばやと おぼしめされ しかども.
内心には 法華経を 説かばやと おぼしめされ しかども.

しゅじょうの きこん まちまちにして いっしゅ ならざる あいだ.
衆生の 機根 まちまちにして 一種 ならざる 間.

ほとけの みこころをば とき たまわで.
仏の 御心をば 説き 給はで.

ひとの こころに したがい よろずの きょうを とき たまえり.
人の 心に 随ひ 万の 経を 説き 給へり.

かくの ごとく 42ねんが ほどは こころくるしく おぼしめし しかども.
此くの 如く 四十二年が 程は 心苦しく 思食 しかども.

いま ほけきょうに いたって わが ねがい すでに まんぞくしぬ.
今 法華経に 至つて 我が 願 既に 満足しぬ.

わが ごとくに しゅじょうを ほとけに なさんと ときたまえり.
我が 如くに 衆生を 仏に なさんと 説き 給へり.

くおん より このかた あるいは しかと なり あるいは くまと なり.
久遠 より 已来 或は 鹿と なり 或は 熊と なり.

あるときは きじんの ために くわれ たまえり.
或時は 鬼神の 為に 食われ 給へり.

かくの ごとき くどくをば ほけきょうを しんじたらん しゅじょうは.
此くの 如き 功徳をば 法華経を 信じたらん 衆生は.

それ しんぶっしとて これ まことの わが こ なり.
是れ 真仏子とて 是 実の 我が 子 なり.

この くどくを この ひとに あたえんと とき たまえり.
此の 功徳を 此の 人に 与へんと 説き 給へり.

それほどに おぼしめしたる おやの しゃかぶつをば ないがしろに おもいなして.
是れ程に 思食したる 親の 釈迦仏をば ないがしろに 思ひなして.

ゆいい いちだいじと とき たまえる ほけきょうを しんぜざらん ひとは いかでか ほとけに なるべきや.
唯以 一大事と 説き 給へる 法華経を 信ぜざらん 人は 争か 仏に なるべきや.

よくよく こころを とどめて あんずべし.
能く能く 心を 留めて 案ずべし.

2のまきに いわく.
二の巻に 云く.

もし ひと しんぜずして この きょうを きぼうせば すなわち いっさいせけんの ぶっしゅを だんず.
「若し 人 信ぜずして 此の 経を 毀謗せば 即ち 一切世間の 仏種を 断ず.

ないし よきょうの いちげをも うけざれ」と.
乃至 余経の 一偈をも 受けざれ」と.

もんの こころは ほとけに ならんためには ただ ほけきょうを じゅじせん ことを ねがって.
文の 心は 仏に ならん為には 唯 法華経を 受持せん 事を 願つて.

よきょうの いちげいっくをも うけざれと.
余経の 一偈一句をも 受けざれと.

3のまきに いわく.
三の巻に 云く.

けこく より きたって たちまち だいおうの ぜんに あうが ごとし」と.
「飢国 より 来つて 忽ち 大王の 膳に 遇うが 如し」と.

もんの こころは うえたる くに より きたって たちまちに だいおうのぜんに あえり.
文の 心は 飢えたる 国 より 来つて 忽に 大王の 膳に あへり.

こころは いぬ やかんの こころを いたすとも.
心は 犬 野干の 心を 致すとも.

かしょう もくれん とうの しょうじょうの こころをば おこさざれ.
迦葉 目連 等の 小乗の 心をば 起さざれ.

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われたる いしは あうとも かれきに はなは さくとも.
破れたる 石は 合うとも 枯木に 花は さくとも.

にじょうは ほとけに なるべからずと おおせられ しかば.
二乗は 仏に なるべからずと 仰せられ しかば.

しゅぼだいは ぼうぜんとして ての ひとはちを なげ.
須菩提は 茫然として 手の 一鉢を なげ.

かしょうは ていきゅうの こえ だいせんがいを とどろかすと もうして なげき かなしみしが.
迦葉は 涕泣の 声 大千界を 響すと 申して 歎き 悲みしが.

いま ほけきょうに いたって かしょうそんじゃは こうみょうにょらいのきべつを さずかり しかば.
今 法華経に 至つて 迦葉尊者は 光明如来の 記ベツを 授かり しかば.

もくれん しゅぼだい まかかせんねん とうは これを みて われらも さだめて ほとけに なるべし.
目連 須菩提 摩訶迦旃延 等は 是を 見て 我等も 定めて 仏に なるべし.

うえたる くに より きたって たちまちに だいおうの ぜんに あえるが ごとしと よろこびし もん なり.
飢えたる 国 より 来つて 忽に 大王の 膳に あへるが 如しと 喜びし 文 なり.

われら しゅじょう むしこうごう より このかた.
我等 衆生 無始曠劫 より 已来.

みょうほうれんげきょうの にょいほうじゅを かたときも あい はなれざれども.
妙法蓮華経の 如意宝珠を 片時も 相 離れざれども.

むみょうの さけに たぼらかされて ころもの うらに かけたりと しらずして.
無明の 酒に たぼらかされて 衣の 裏に かけたりと しらずして.

すくなきを えて たりぬと おもいぬ.
少きを 得て 足りぬと 思ひぬ.

なんみょうほうれんげきょうと だに となえ たてまつり たらましかば すみやかに ほとけに なるべかりし.
南無妙法蓮華経と だに 唱え 奉り たらましかば 速に 仏に 成るべかりし.

しゅじょう どもの 5かい じゅうぜん とうの わずかなる かいを もって.
衆生 どもの 五戒 十善 等の わずかなる 戒を 以て.

あるいは てんに うまれて だいぼんてん たいしゃくの みと なって いみじき ことと おもい.
或は 天に 生れて 大梵天 帝釈の 身と 成つて いみじき 事と 思ひ.

あるときは ひとに うまれて もろもろの こくおう だいじん くぎょう てんじょうびと とうの みと なって.
或時は 人に 生れて 諸の 国王 大臣 公卿 殿上人 等の 身と 成つて.

これほどの たのしみ なしと おもい.
是れ程の たのしみ なしと 思ひ.

すくなきを えて たりぬと おもい よろこびあえり.
少きを 得て 足りぬと 思ひ 悦びあへり.

これを ほとけは ゆめの なかの さかえ まぼろしの たのしみ なり.
是を 仏は 夢の 中の さかへ まぼろしの たのしみ なり.

ただ ほけきょうを たもち たてまつり すみやかに ほとけに ばるべしと とき たまえり.
唯 法華経を 持ち 奉り 速に 仏に なるべしと 説き 給へり.

また 4の まきに いわく.
又 四の巻に 云く.

しかも この きょうは にょらいの げんざいすら なお おんしつ おおし.
「而も 此の 経は 如来の 現在すら 猶 怨嫉 多し.

いわんや めつどの のちをや」 うんぬん.
況や 滅度の 後をや」 云云.

しゃかぶつは ししきょうおうの まご じょうぼんのうには ちゃくし なり.
釈迦仏は 師子キョウ王の 孫 浄飯王には 嫡子 なり.

10ぜんの 位を すて 5てんじく だいいち なりし びじょ やしゅたらにょを ふりすてて.
十善の 位を すて 五天竺 第一なりし 美女 耶輸多羅女を ふりすてて.

19の おんとし しゅっけして つとめ おこない たまいしかば.
十九の 御年 出家して 勤め 行ひ 給いしかば.

30の おんとし じょうどうし ましまして 32そう 80しゅごうの おんかたちにて.
三十の 御年 成道し 御坐して 三十二相 八十種好の 御形にて.

みゆきなる ときは だいぼんてんのう たいしゃく さゆうに たち.
御幸なる 時は 大梵天王 帝釈 左右に 立ち.

たもん じこく とうの してんのう せんご いにょう せり.
多聞 持国 等の 四天王 先後 囲繞 せり.

ほうを とき たもう おんときは 4べん はちおんの せっぽうは ぎおんしょうじゃに みち.
法を 説き 給ふ 御時は 四弁 八音の 説法は 祇園精舎に 満ち.

3ち 5げんの とくは しかいに しけり.
三智 五眼の 徳は 四海に しけり.

しかれば いずれの ひとか ほとけを にくむべき なれども なお しっと するもの おおし.
然れば 何れの 人か 仏を 悪むべき なれども 尚 怨嫉 するもの 多し.

まして めつどの のち 1ごうの ぼんのうをも だんぜず.
まして 滅度の 後 一毫の 煩悩をも 断ぜず.

すこしの つみをも わきまえ ざらん.
少しの 罪をも 弁へ ざらん.

ほけきょうの ぎょうじゃを にくみ うらむ もの おおからん ことは うんかの ごとく ならんと みえたり.
法華経の 行者を 悪み 嫉む 者 多からん 事は 雲霞の 如く ならんと 見えたり.

しかれば すなわち まつだい あくせに この きょうを ありの ままに とく ひとには.
然れば 則ち 末代 悪世に 此の 経を 有りの ままに 説く 人には.

てき おおからんと とかれて そうろうに.
敵 多からんと 説かれて 候に.

せけんの ひとびと われも たもちたり われも よみ たてまつり ぎょうじ そうろうに.
世間の 人人 我も 持ちたり 我も 読み 奉り 行じ 候に.

かたき なきは ほとけの そらごとか ほけきょうの まこと ならざるか.
敵 なきは 仏の 虚言か 法華経の 実 ならざるか.

また まことの おんきょう ならば とうせいの ひとびと きょうを よみ まいらせ そうろうは そらよみか.
又 実の 御経 ならば 当世の 人人 経を よみ まいらせ 候は 虚よみか.

まことの ぎょうじゃにては なきか いかん.
実の 行者にては なきか 如何.

よくよく こころうべき ことなり あきらむべき ものなり.
能く能く 心得べき 事なり 明むべき 物なり.

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4のまきに たほうにょらいは しゃかむにぶつ おんとし 30にして ほとけに なりたもうに.
四の巻に 多宝如来は 釈迦牟尼仏 御年 三十にして 仏に 成り給ふに.

はじめには けごんきょうと もうす きょうを じっぽう けおうの みぎりにして.
初には 華厳経と 申す 経を 十方 華王の みぎりにして.

べつえんとんだいの ほうりん ほうえ くどくりん こんごうどう こんごうぞうの しぼさつに たいして.
別円頓大の 法輪 法慧 功徳林 金剛幢 金剛蔵の 四菩薩に 対して.

37にちの あいだ とき たまいしにも きたり たまわず.
三七日の 間 説き 給いしにも 来り 給はず.

その にじょうの きこん かなわざりしかば ようらくさいなんの ころもを ぬぎすて.
其の 二乗の 機根 叶はざりしかば 瓔珞細?の 衣を ぬぎすて.

そべいくにの ころもを き はらなこく ろくやおんに おもむいて 12ねんの あいだ.
?弊垢膩の 衣を 著 波羅奈国 鹿野苑に 趣いて 十二年の 間.

しょうめつしたいの ほうもんを とき たまいしに.
生滅四諦の 法門を 説き 給ひしに.

あにゃくりん とうの 5にん しょうかし 8まんの しょてんは むしょうにんを えたり.
阿若倶鄰 等の 五人 証果し 八万の 諸天は 無生忍を 得たり.

つぎに しきよく にかいの ちゅうかん だいほうぼうの ぎしき じょうみょうの おんしつには.
次に 欲色 二界の 中間 大宝坊の 儀式 浄名の 御室には.

3まん 2000の とこを たて はんにゃ びゃくろじの ほとり.
三万 二千の 牀を 立て 般若 白鷺池の 辺.

16えの ぎしき せんじょうこゆうの むねを のべ たまいしにも きたり たまわず.
十六会の 儀式 染浄虚融の 旨を のべ 給いしにも 来り 給はず.

ほけきょうにも 1のまき ないし4のまき にんきほん までも きたり たまわず.
法華経にも 一の巻 乃至 四の巻 人記品 までも 来り 給はず.

ほうとうほんに いたって はじめて きたり たまえり.
宝塔品に 至つて 初めて 来り 給へり.

しゃかぶつ まず 40よねんの きょうを われと そらごとと おおせられ しかば.
釈迦仏 先 四十余年の 経を 我と 虚事と 仰せられ しかば.

ひと もちうる ことなく ほけきょうを しんじつ なりと とかせて たまえども.
人 用うる 事なく 法華経を 真実 なりと 説かせ 給へども.

ほとけと いうは むこもうの ひととて ながく きょげんし たまわずと ききしに.
仏と 云うは 無虚妄の 人とて 永く 虚言し 給はずと 聞きしに.

1にち ならず ふつか ならず ひとつき ならず ふたつき ならず 1ねん 2ねん ならず.
一日 ならず 二日 ならず 一月 ならず 二月 ならず 一年 二年 ならず.

40よねんの ほどまで そらごと したりと おおせられ しかば.
四十余年の 程まで 虚言 したりと 仰せられ しかば.

また この きょうを まことと とき たもうも きょげんにや あらんずらんと ふしん なししかば.
又 此の 経を 実と 説き 給うも 虚言にや あらんずらんと 不審 なししかば.

この ふしん しゃかぶつ ひとりしては しゃりほつを はじめ こと はれがたかりしに.
此の 不審 釈迦仏 一人しては 舎利弗を 始め 事 はれがたかりしに.

この たほうぶつ ほうじょうせかい より はるばると まいらせ たまいて.
此の 多宝仏 宝浄世界 より はるばると 来らせ 給いて.

ほけきょうは みな これ しんじつ なりと しょうめいし たまいしに.
法華経は 皆 是れ 真実 なりと 証明し 給いしに.

さきの 40よねんの きょうを そらごとと おおせらるる じじつの きょげんに さだまるなり.
先の 四十余年の 経を 虚言と 仰せらるる 事実の 虚言に 定まるなり.

また ほけきょう より ほかの いっさいきょうを そらに うかべて.
又 法華経 より 外の 一切経を 空に 浮べて.

もんもん くく あなんそんじゃの ごとく さとり.
文文 句句 阿難尊者の 如く 覚り.

るふなの べんぜつの ごとくに とくとも これを なんじと せず.
富楼那の 弁舌の 如くに 説くとも 其れを 難事と せず.

また しゅみせんと もうす やまは 16まん 8000ゆじゅんの きんざんにて そうろうを.
又 須弥山と 申す 山は 十六万八千由旬の 金山にて 候を.

たほう せかいへ つぶてに なぐる もの ありとも なんじには そうらわじ.
他方 世界へ つぶてに なぐる 者 ありとも 難事には 候はじ.

ほとけの めつどの のち とうせい まつだいあくせに ほけきょうを ありのままに よく とかん.
仏の 滅度の 後 当世 末代悪世に 法華経を 有りのままに 能く 説かん.

これを かたしとすと とかせ たまえり.
是を 難しとすと 説かせ 給へり.

5てんじくの だい1のだいりき なりし だいばだったも.
五天竺 第一の 大力 なりし 提婆達多も.

たけ 3じょう5しゃく はば 1じょうにしゃくの いしを こそ ほとけに なげかけて そうらいしか.
長 三丈五尺 広 一丈二尺の 石を こそ 仏に なげかけて 候いしか.

また かんどの だいいちの だいりき その こううと もうせし ひとも.
又 漢土 第一の 大力 楚の 項羽と 申せし 人も.

9こく いりの かまに みず みち そうらいしを こそ ひさげ そうらいしか.
九石 入の 釜に 水 満ち 候いしを こそ ひさげ 候いしか.

それに これは しゅみせんをば なぐる ものは ありとも.
其れに 是は 須弥山をば なぐる 者は 有りとも.

この きょうを せつの ごとく よみ たてまつらん ひとは ありがたしと とかれて そうろうに.
此の 経を 説の 如く 読み 奉らん 人は 有りがたしと 説かれて 候に.

ひと ごとに この きょうを よみ かき とき そうろう.
人 ごとに 此の 経を よみ 書き 説き 候.

きょうもんを そらごとに なして とうせいの ひとびとを みな ほけきょうの ぎょうじゃと おもうべきか.
経文を 虚言に 成して 当世の 人人を 皆 法華経の 行者と 思ふべきか.

よくよく こころえ あるべき ことなり.
能く能く 御心得 有るべき 事なり.

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5のまき だいばほんに いわく.
五の巻 提婆品に 云く.

「もし ぜんなんし ぜんにょにん ありて ほけきょうの だいばだったほんを きいて.
「若し 善男子 善女人 有りて 妙法華経の 提婆達多品を 聞いて.

じょうしんに しんぎょうして ぎわくを しょうぜざらん ものは.
浄心に 信敬して 疑惑を 生ぜざらん 者は.

じごく がき ちくしょうに だせずして じっぽうの ぶつぜんに しょうぜん」と.
地獄 餓鬼 畜生に 堕せずして 十方の 仏前に 生ぜん」と.

この ほんには ふたつの だいじ あり.
此の 品には 二つの 大事 あり.

ひとつには だいばだったと もうすは あなんそんじゃには あに.
一には 提婆達多と 申すは 阿難尊者には 兄.

こくぼんのうには ちゃくし ししきょうおうには まご.
斛飯王には 嫡子 師子キョウ王には 孫.

ほとけには いとこにて ありしが ほとけは いちえんぶだい だいいちの どうしんしゃにて ましまししに.
仏には いとこにて 有りしが 仏は 一閻浮提 第一の 道心者にて ましまししに.

あだを なしてわれは また えんぶだい だいいちの じゃけん ほういつの ものと ならんと ちかって.
怨を なして 我は 又 閻浮提 第一の 邪見 放逸の 者と ならんと 誓つて.

よろずの あくにんを かたらいて ほとけに あだを なして さんぎゃくざいを つくって.
万の 悪人を 語いて 仏に 怨を なして 三逆罪を 作つて.

げんしんに だいち われて むけんだいじょうに おちて そうらいしを.
現身に 大地 破れて 無間大城に 堕ちて 候いしを.

てんのうにょらいと もうす きべつを さずけらるる ほんにて そうろう.
天王如来と 申す 記ベツを 授けらるる 品にて 候.

しかれば ぜんなんしと もうすは おとこ.
然れば 善男子と 申すは 男.

この きょうを しんじ まいらせて ちょうもん するならば だいばだった ほどの あくにんだにも ほとけに なる.
此の 経を 信じ まひらせて 聴聞 するならば 提婆達多 程の 悪人だにも 仏に なる.

まして まつだいの ひとは たとい じゅうざい なりとも たぶんは じゅうあくを すぎず.
まして 末代の 人は たとひ 重罪 なりとも 多分は 十悪を すぎず.

まして ふかく たもち たてまつる ひと ほとけに ならざるべきや.
まして 深く 持ち 奉る 人 仏に ならざるべきや.

ふたつには しゃかつらりゅうおうの むすめ りゅうにょと もうすは.
二には 娑竭羅竜王の むすめ 竜女と 申すは.

はっさいの くちなわ ほとけに なりたる ほんにて そうろう.
八歳の くちなは 仏に 成りたる 品にて 候.

このこと めずらしく とうとき ことにて そうろう.
此の事 めづらしく 貴き 事にて 候.

その ゆえは けごんきょうには「にょにんは じごくの つかい なり よく ぶっしゅしを だんず.
其の 故は 華厳経には 「女人は 地獄の 使 なり 能く 仏種子を 断ず.

がいめんは ぼさつに にて ないしんは やしゃの ごとし」と.
外面は 菩薩に 似て 内心は 夜叉の 如し」と.

もんの こころは にょにんは じごくの つかい よく ほとけの しゅを たつ.
文の 心は 女人は 地獄の 使 よく 仏の 種を たつ.

がいめんは ぼさつに にたれども ないしんは やしゃの ごとしと いえり.
外面は 菩薩に 似たれども 内心は 夜叉の 如しと 云へり.

また いわく「いちど にょにんを みる ものは よく まなこの くどくを うしなう.
又 云く「一度 女人を 見る 者は よく 眼の 功徳を 失ふ.

たとえ だいじゃをば みるとも にょにんを みる べからず」と いい.
設ひ 大蛇をば 見るとも 女人を 見る べからず」と 云い.

また ある きょうには 「しょうの 3000せかいの もろもろの ぼんのうを あわせ あつめて.
又 有る 経には「所有の 三千界の 男子の 諸の 煩悩を 合せ 集めて.

ひとりの にょにんの ごうしょうと なす」と.
一人の 女人の 業障と 為す」と.

3000せかいに あらゆる だんしの もろもろの ぼんのうを とりあつめて にょにん ひとりの つみとすと いえり.
三千大千世界に あらゆる 男子の 諸の 煩悩を 取り 集めて 女人 一人の 罪とすと 云へり.

ある きょうには 「さんぜの しょぶつの まなこは ぬけて だいちに おつとも にょにんは ほとけに なるべからず」と とき たまえり.
或 経には「三世の 諸仏の 眼は 脱て 大地に 堕つとも 女人は 仏に成るべからず」と 説き 給へり.

この ほんの こころは じんちくを いわば ちくしょうたる りゅうにょだにも ほとけに なれり.
此の 品の 意は 人畜を いはば 畜生たる 竜女 だにも 仏に 成れり.

まして われらは かたちの ごとく にんげんの かほう なり.
まして 我等は 形の ごとく 人間の 果報 なり.

かの かほうには まされり.
彼の 果報には まされり.

いかでか ほとけに ならざるべきやと おぼしめす べきなり.
争か 仏に ならざるべきやと 思食す べきなり.

なかにも さんあくどうに おちずと とかれて そうろう.
中にも 三悪道に おちずと 説かれて 候.

その じごくと もうすは はっかん はちねつ ないし はちだいじごくの なかに.
其の 地獄と 申すは 八寒 八熱 乃至 八大地獄の 中に.

はじめ あさき とうかつじごくを たずぬれば この いちえんぶだいの した いっせんゆじゅん なり.
初め 浅き 等活地獄を 尋ぬれば 此の 一閻浮提の 下 一千由旬 なり.

その なかの ざいにんは たがいに つねに がいしんを いだけり.
其の 中の 罪人は 互に 常に 害心を いだけり.

もし たまたま あいみれば りょうしが しかに あえるが ごとし.
もし たまたま 相見れば 猟師が 鹿に あへるが 如し.

おのおの てつの つめを もって たがいに つかみ さく.
各各 鉄の 爪を 以て 互に つかみ さく.

けつにく みな つきて ただ のこって ほね のみあり.
血肉 皆 尽きて 唯 残つて 骨 のみあり.

あるいは ごくそつ ぼうを もって あたま より あなうらに いたるまで みな うちくだく.
或は 獄卒 棒を 以て 頭 より あなうらに 至るまで 皆 打ちくだく.

みも やぶれ くだけて なお いさごの ごとし.
身も 破れ くだけて 猶 沙の 如し.

しょうねつ なんど もうすは たとえん かたなき く なり.
焦熱 なんど 申すは 譬えん かたなき 苦 なり.

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てつじょう しほうに めぐって もんを とじたれば りきしも ひらきがたく.
鉄城 四方に 回つて 門を 閉じたれば 力士も 開きがたく.

もうか たかく のぼって こんじの つばさも かけるべからず.
猛火 高く のぼつて 金翅の つばさも かけるべからず.

がきどうと もうすは その しょじゅうに ふたつ あり.
餓鬼道と 申すは 其の 住処に 二 あり.

ひとつには ちのした 500ゆじゅんの えんまおうきゅうに あり.
一には 地の下 五百由旬の 閻魔王宮に あり.

ふたつには にん てんのなかにも まじわれり.
二には 人 天の 中にも まじはれり.

その そう しゅじゅ なり.
其の 相 種種 なり.

あるいは はらは たいかいの ごとく のんどは はりの ごとく なれば.
或は 腹は 大海の 如く のんどは 鍼の 如く なれば.

あけても くれても しょくすとも あくべからず.
明けても 暮れても 食すとも あくべからず.

まして 500しょう 700しょう なんど おんじきの なをだにも きかず.
まして 五百生 七百生 なんど 飲食の 名をだにも きかず.

あるいは おのが あたまを くだきて のうを しょくするも あり.
或は 己が 頭を くだきて 脳を 食するも あり.

あるいは いちやに 5にんの こを うんで よるの うちに しょくするも あり.
或は 一夜に 五人の 子を 生んで 夜の 内に 食するも あり.

ばんか はやしに むすべり.
万菓 林に 結べり.

とらんとすれば ことごとく つるぎの はしらと なり.
取らんとすれば 悉く 剣の 林と なり.

ばんすい たいかいに ながれ いりぬ.
万水 大海に 流 入りぬ.

のまんと すれば もうかと なる.
飲んと すれば 猛火と なる.

いかようにしてか この くを まぬがるべき.
如何にしてか 此の 苦を まぬがるべき.

つぎに ちくしょうと もうすは その じゅうしょに ふたつ あり.
次に 畜生道と 申すは 其の 住所に 二 あり.

こんぽんは たいかいに じゅうす しまつは にん てんに まじわれり.
根本は 大海に 住す 枝末は 人天に 雑れり.

みじかき ものは ながき ものに のまれ ちいさき ものは だいなる ものに くわれ.
短き 物は 長き 物に のまれ 小き 物は 大なる 物に 食はれ.

たがいに あい はんで しばらくも やすむ ことなし.
互に 相 食んで しばらくも やすむ 事なし.

あるいは ちょうじゅうと うまれ あるいは ぎゅうばと なっても.
或は 鳥獣と 生れ 或は 牛馬と 成つても.

おもき ものを おおせられ にしへ いかんと おもえば ひがしへ やられ.
重き 物を おほせられ 西へ 行かんと 思へば 東へ やられ.

ひがしへ いかんと すれば にしへ やらる.
東へ 行かんと すれば 西へ やらる.

さんやに おおく ある みずと くさを のみ.
山野に 多く ある 水と 草を のみ.

おもいて よは しるところ なし.
思いて 余は 知るところ なし.

しかるに ぜんなんし ぜんにょにん この ほけきょうを たもち なんみょうほうれんげきょうと となえ たてまつらば.
然るに 善男子 善女人 此の 法華経を 持ち 南無妙法蓮華経と 唱え 奉らば.

この さんざいを のがるべしと とき たまえり.
此の 三罪を 脱るべしと 説き 給へり.

なにごとか これに しかん たのもしきかな たのもしきかな.
何事か 是に しかん たのもしきかな たのもしきかな.

また 5のまきに いわく.
又 五の巻に 云く.

「われ だいじょうきょうを ひらいて くるしみの しゅじょうを どだつす」と.
「我れ 大乗教を 闡いて 苦の 衆生を 度脱す」と.

こころは われ だいじょうの おしえを ひらいてと もうすは ほけきょうを もうす.
心は われ 大乗の 教を ひらいてと 申すは 法華経を 申す.

くの しゅじょうとは なんぞや.
苦の 衆生とは 何ぞや.

じごくの しゅじょうにも あらず.
地獄の 衆生にも あらず.

がきどうの しゅじょうにも あらず.
餓鬼道の 衆生にも あらず.

ただ にょにんを さして くの しゅじょうと なずけたり.
只 女人を 指して 苦の 衆生と 名けたり.

5しょう3じゅうと もうして みっつ したがうこと あって いつつの さわり あり.
五障三従と 申して 三つ したがふ事 有つて 五つの 障り あり.

りゅうにょ わが にょにんの みを うけて にょにんの くを つみしれり.
竜女 我 女人の 身を 受けて 女人の 苦を つみしれり.

しかれば よをば しるべからず にょにんを みちびかんと ちかえり.
然れば 余をば 知るべからず 女人を 導かんと 誓へり.

なんみょうほうれんげきょう なんみょうほうれんげきょう.
南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経.

にちれん かおう.
日蓮 花押.

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