b412から416.
一念三千法門 (いちねん3000 ほうもん).
日蓮大聖人 37歳 御作.

 

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いちねん3000 ほうもん.
一念三千 法門.

しょうか 2ねん 37さい おんさく.
正嘉 二年 三十七歳 御作.

ほけきょうの よきょうに すぐれたる こと.
法華経の 余経に 勝れたる 事.

なにごとぞ この きょうに いっしんさんかん いちねん3000と いうこと あり.
何事ぞ 此の 経に 一心三観 一念三千と 云う事 あり.

やくおうぼさつ かんどに しゅっせして てんだいだいしと いわれ.
薬王菩薩 漢土に 出世して 天台大師と 云われ.

この ほうもんを さとり たまい しかども.
此の 法門を 覚り 給い しかども.

まず げんぎじっかん もんぐじっかんかん かくいさんまい しょうしかん.
先ず 玄義十巻 文句十巻 覚意三昧 小止観.

じょうみょうしょ しねんじょ しだいぜんもん とうの おおくの ほうもんを とき しかども.
浄名疏 四念処 次第禅門 等の 多くの 法門を 説き しかども.

この いちねん3000の ほうもんをば だんじ たまわず.
此の 一念三千の 法門をば 談じ 給はず.

ひゃっかい1000にょの ほうもん ばかりなり.
百界千如の 法門 計りなり.

おんとし 57の なつ 4がつの ころ けいしゅう ぎょくせんじと もうす ところにて.
御年 五十七の 夏 四月の 比 ケイ州 玉泉寺と 申す 処にて.

おんでし しょうあんだいしに おしえ たもう しかんと もうす もん じっかん あり.
御弟子 章安大師に 教え 給ふ 止観と 申す 文 十巻 あり.

かみ 4じょうに なお ひし たまいて ただ 6そく ししゅさんまい とう ばかりなり.
上 四帖に 猶 秘し 給いて 但 六即 四種三昧 等 計りなり.

5のまきに いたって じっきょう じゅうじょう いちねん3000の ほうもんを たて.
五の巻に 至つて 十境 十乗 一念三千の 法門を 立て.

それ いっしんに ぐす とうと うんぬん.
夫れ 一心に 具す 等と 云云.

これより 200ねんごに みょうらくだいし しゃくして いわく.
是より 二百年後に 妙楽大師 釈して 云く.

「まさに しるべし しんど いちねんの3000 なり.
「当に 知るべし 身土 一念の三千 なり.

ゆえに じょうどうの とき この ほんりに かのうて いっしんいちねんほうかいに あまねし.
故に 成道の 時 此の 本理に 称て 一身一念 法界に 遍し」と 云云.

この いちねん3000 いっしんさんかんの ほうもんは ほけきょうの 1のまき じゅうにょぜ より おこれり.
此の 一念三千 一心三観の 法門は 法華経の 一の巻の 十如是 より 起れり.

もんの こころは ひゃっかい1000にょ 3000せけん うんぬん.
文の 心は 百界千如 三千世間 云云.

さて いっしんさんかんと もうすは よしゅうは にょぜと あそばす.
さて 一心三観と 申すは 余宗は 如是と あそばす.

これ ひがごとにて 2ぎ かけたり.
是れ 僻事にて 二義 かけたり.

てんだいなんがくの おんぎを しらざる ゆえなり.
天台南岳の 御義を 知らざる 故なり.

されば とうしゅうには てんだいの しょしゃくの ごとく.
されば 当宗には 天台の 所釈の 如く.

3べん よむに くどく まさる.
三遍 読に 功徳 まさる.

だい1に ぜそうにょと そうしょうたいりき いかの 10を にょと いう.
第一に 是相如と 相性体力 以下の 十を 如と 云ふ.

にょと いうは くうの ぎ なるがゆえに じっぽうかい みな くうたい なり.
如と 云うは 空の 義 なるが故に 十法界 皆 空諦 なり.

これを よみ かんずる ときは わが み そく ほうしんにょらい なり.
是を 読み 観ずる 時は 我が 身 即 報身如来 なり.

84000 または はんにゃ とも もうす.
八万四千 又は 般若 とも 申す.

だい2に にょぜそう これ わが みの しきぎょう あらわれたる そう なり.
第二に 如是相 是れ 我が 身の 色形 顕れたる 相 なり.

これ みな け なり.
是れ 皆 仮 なり.

そうしょうたいりき いかの 10 なれば じっぽうかい みな けたいと もうして けの ぎ なり.
相性体力 以下の 十 なれば 十法界 皆 仮諦と 申して 仮の 義 なり.

これを よみ かんずる ときは わが み そく おうじんにょらい なり.
是を 読み 観ずる 時は 我が 身 即 応身如来 なり.

または げだつ とも もうす.
又は 解脱 とも 申す.

だい3に そうにょぜと いうは ちゅうどうと もうして ほとけの ほっしんの かたち なり.
第三に 相如是と 云うは 中道と 申して 仏の 法身の 形 なり.

これを よみ かんずる ときは わが み そく ほっしんにょらい なり.
是を 読み 観ずる 時は 我が 身 即 法身如来 なり.

または ちゅうどう とも ほっしょう とも ねはん とも じゃくめつ とも もうす.
又は 中道 とも 法性 とも 涅槃 とも 寂滅 とも 申す.

この みっつを ほっぽうおうの さんじん とも くうけちゅうの さんたい とも.
此の 三を 法報応の 三身 とも 空仮中の 三諦 とも.

ほっしん はんにゃ げだつの さんとく とも もうす.
法身 般若 解脱の 三徳 とも 申す.

この さんじんにょらい まったく ほかに なし.
此の 三身如来 全く 外に なし.

わが み そく さんとくくきょうの たい にて さんじんそくいっしんの ほんがくの ほとけ なり.
我が 身 即 三徳究竟の 体 にて 三身即一身の 本覚の 仏 なり.

これを しるを にょらい とも しょうにん とも さとり とも いう.
是を しるを 如来 とも 聖人 とも 悟 とも 云う.

しらざるを ぼんぷ とも しゅじょう とも まよい とも もうす.
知らざるを 凡夫 とも 衆生 とも 迷 とも 申す.

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じっかいの しゅじょう おのおの たがいに じっかいを ぐそく す.
十界の 衆生 各 互に 十界を 具足 す.

がっすれば 100かい なり.
合すれば 百界 なり.

100かいに おのおの じっかいを ぐすれば 1000にょ なり.
百界に 各各 十如を 具すれば 千如 なり.

この 1000にょ これに しゅじょうせけん こくどせけん 5おんせけんをぐすれば 3000 なり.
此の 千如 是に 衆生世間 国土世間 五陰世間を 具すれば 三千 なり.

100かいと あらわれたる しきそうは みな すべて けの ぎ なれば けたいの 1なり.
百界と 顕れたる 色相は 皆 総て 仮の 義 なれば 仮諦の 一なり.

せんにょは すべて くうの ぎ なれば くうたいの 1なり.
千如は 総て 空の 義 なれば 空諦の 一なり.

3000せけんは そうじて ほっしんの ぎ なれば ちゅうどうの 1なり.
三千世間は 総じて 法身の 義 なれば 中道の 一なり.

ほうもん おおしと いえども ただ さんたい なり.
法門 多しと 雖も 但 三諦 なり.

この さんたいを さんじんにょらい とも さんとくくきょう とも もうすなり.
此の 三諦を 三身如来 とも 三徳究竟 とも 申すなり.

はじめの さんにょぜは ほんがくの にょらい なり.
始の 三如是は 本覚の 如来 なり.

おわりの しちにょぜと いったいにして むにむべつ なれば ほんまつくきょうとうとは もうすなり.
終の 七如是と 一体にして 無二無別 なれば 本末究竟等とは 申すなり.

ほんと もうすは ぶっしょう まつと もうすは みけんの ほとけ きゅうかいの な なり.
本と 申すは 仏性 末と 申すは 未顕の 仏 九界の 名 なり.

くきょうとうと もうすは みょうかくくきょうの にょらいと りそくの ぼんぷ なる われらと.
究竟等と 申すは 妙覚究竟の 如来と 理即の 凡夫 なる 我等と.

さべつ なきを くきょうとう とも びょうどうだいえの ほけきょう とも もうすなり.
差別 無きを 究竟等 とも 平等大慧の 法華経 とも 申すなり.

はじめの 3にょぜは ほんがくの にょらい なり.
始の 三如是は 本覚の 如来 なり.

ほんがくの にょらいを さとり いだし たまえる みょうかくの ほとけ なれば.
本覚の 如来を 悟り 出し 給へる 妙覚の 仏 なれば.

われらは みょうかくの ふぼ なり.
我等は 妙覚の 父母 なり.

ほとけは われらが しょしょうの こ なり.
仏は 我等が 所生の 子 なり.

しの1に いわく 「しは すなわち ほとけの はは かんは すなわち ほとけの ちち なり」と うんぬん.
止の一に 云く 「止は 則 仏の 母 観は 即 仏の 父 なり」と 云云.

たとえば ひと 10にん あらんずるが めんめんに ぞうぞうに たからを つみ.
譬えば 人 十人 あらんずるが 面面に 蔵蔵に 宝を つみ.
.
わが ぞうに たからの あることを しらず かつえ しし こごえ しす.
我が 蔵に 宝の ある事を 知らず かつへ 死し こごへ 死す.

あるいは ひとり この なかに かしこき ひと ありて さとり いだすが ごとし.
或は 一人 此の 中に かしこき 人 ありて 悟り 出すが 如し.

9にんは ついに しらず.
九人は 終に 知らず.

しかるに あるいは おしえられて しょくし あるいは くくめられて しょくするが ごとし.
然るに 或は 教えられて 食し 或は くくめられて 食するが 如し.

ぐの1の しかんの 2じは ただしく もんたいを しめす.
弘の一の 止観の 二字は 正しく 聞体を 示す.

きかざる ものは ほんまつくきょうとうも いたずらか.
聞かざる 者は 本末究竟等も 徒らか.

こ なれども おやに まさる こと おおし.
子 なれども 親に まさる 事 多し.

ちょうかは かたくなわしき ちちを うやまいて けんじんの なを えたり.
重華は かたくなはしき 父を 敬いて 賢人の 名を 得たり.

はいこうは ていおうと なって のちも その ちちを はいす.
沛公は 帝王と 成つて 後も 其の 父を 拝す.

その うやまわれし ちちをば まったく おうと いわず.
其の 敬われし 父をば 全く 王と いはず.

うやまいし こをば おうと あおぐが ごとし.
敬いし 子をば 王 と仰ぐが 如し.

それ ほとけは こ なれども かしこく ましまして さとり いだし たまえり.
其れ 仏は 子 なれども 賢く ましまして 悟り 出し 給へり.

ぼんぷは おや なれども ぐちにして いまだ さとらず.
凡夫は 親 なれども 愚癡にして 未だ 悟らず.

くわしき ぎを しらざる ひと るびの ちょうじょうを ふむ なんど あっく す.
委しき 義を 知らざる 人、毘盧の 頂上を ふむ なんど 悪口 す.

だいなる ひがごと なり.
大なる 僻事 なり.

いっしんさんかんに ついて しだいの さんかん ふしだいの さんかんと いうこと あり.
一心三観に 付いて 次第の 三観、不次第の 三観と 云う事 あり.

くわしく もうすに およばず そうろう.
委く 申すに 及ばず 候.

この さんかんを こころえすまし じょうじゅ したる ところを けごんきょうに さんがいゆいいっしんと うんぬん.
此の 三観を 心得すまし 成就 したる 処を 華厳経に 三界唯一心と 云云.

てんだいは しょすいにゅうかいと のぶ.
天台は 諸水入海と のぶ.

ほとけと われらと すべて いっさいしゅじょう りしょう いつにて.
仏と 我等と 総て 一切衆生 理性 一にて.

へだてなきを びょうどうだいえと いうなり.
へだてなきを 平等大慧と 云うなり.

びょうどうと かいては おしなべてと よむ.
平等と 書いては おしなべてと 読む.

この いっしんさんかん いちねんさんぜんの ほうもん しょきょうに たえて これ なし.
此の 一心三観 一念三千の 法門 諸経に たえて 之 無し.

ほけきょうに あわざれば いかでか じょうぶつ すべきや.
法華経に 遇わざれば 争か 成仏 す可きや.

よきょうには ろっかい はっかい より じっかいを あかせども さらにぐを あかさず.
余経には 六界 八界 より 十界を 明せども さらに 具を 明かさず.

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ほけきょうは ねんねんに いっしんさんかん いちねん3000の いわれを かんずれば.
法華経は 念念に 一心三観 一念三千の 謂を 観ずれば.

わが み ほんがくの にょらい なることを さとり いだされ むみょうの くも はれて.
我が 身 本覚の 如来 なること 悟り 出され 無明の 雲 晴れて.

ほっしょうの つき あきらかに もうそうの ゆめ さめて ほんがくの げつりん いさぎよく.
法性の 月 明かに 妄想の 夢 醒て 本覚の 月輪 いさぎよく.

ふぼしょしょうのにくしん ぼんのうぐばくの み すなわち ほんぬじょうじゅうの にょらいと なるべし.
父母 所生の 肉身、煩悩具縛の 身、 即 本有常住の 如来と なるべし.

これを そくしんじょうぶつ とも ぼんのうそくぼだい とも しょうじそくねはん とも もうす.
此を 即身成仏とも 煩悩即菩提とも 生死即涅槃とも 申す.

このとき ほうかいを てらしみれば ことごとく ちゅうどうの いちりにて ほとけも しゅじょうも ひとつ なり.
此の時 法界を 照し 見れば 悉く 中道の 一理にて 仏も 衆生も 一なり.

されば てんだいの しょしゃくに 「いっしき いっこう ちゅうどうに あらざること なし」と しゃくし たまえり.
されば 天台の 所釈に 「一色 一香 中道に 非ざること 無し」と 釈し 給へり.

このときは じっぽうせかい みな じゃっこうじょうど にて.
此の時は 十方世界 皆 寂光浄土 にて.

いずれかの ところをか みだ やくしとうの じょうどとは いわん.
何れの 処をか 弥陀 薬師等の 浄土とは 云わん.

これをもって ほけきょうに 「この ほうは ほういに じゅうして せけんのそうじょうじゅう なり」と とき たもう.
是を以て 法華経に 「是の 法は 法位に 住して 世間の相常住 なり」と 説き 給ふ.

さては きょうを よまずとも しんちの かんじん ばかりにて じょうぶつ すべきかと おもい たれば.
さては 経を よまずとも 心地の 観念 計りにて 成仏 す可きかと 思い たれば.

いちねん3000の かんねんも いっしんさんかんの かんぽうも みょうほうれんげきょうの 5じに おさまれり.
一念三千の 観念も 一心三観の 観法も 妙法蓮華経の 五字に 納れり.

みょうほうれんげきょうの 5じは また われらが いっしんに おさまりて そうらいけり.
妙法蓮華経の 五字は 又 我等が 一心に 納りて 候けり.

てんだいの しょしゃくに 「この みょうほうれんげきょうは ほんち じんじんの おうぞう.
天台の 所釈に 「此の 妙法蓮華経は 本地 甚深の 奥蔵.

さんぜの にょらいの しょうとく したもう ところなり」と しゃくし たり.
三世の 如来の 証得 したもう 所なり」と 釈したり.

さて この みょうほうれんげきょうを となうる とき しんちゅうの ほんがくの ほとけ あらわる.
さて 此の 妙法蓮華経を 唱うる 時 心中の 本覚の 仏 顕る.

われらが みと こころをば くらに たとえ みょうの いちじを いんに たとえたり.
我等が 身と 心をば 蔵に 譬へ 妙の 一字を 印に 譬へたり.

てんだいの おんしゃくに 「ひみつの おうぞうを ひらく これを しょうして みょうと なす.
天台の 御釈に「秘密の 奥蔵を 発く 之を 称して 妙と 為す.

ごんじつの しょうきを しめす ゆえに ごうして ほうと なす.
権実の 正軌を 示す 故に 号して 法と 為す.

くおんの ほんがを さす これを たとうるに れんを もってす.
久遠の 本果を 指す 之を 喩うるに 蓮を 以てす.

ふにの えんどうに えす これを たとうるに けを もってす.
不二の 円道に 会す 之を 譬うるに 華を 以てす.

こえ ぶつじを なす これを しょうして きょうと なす」と しゃくし たもう.
声 仏事を 為す 之を 称して 経と 為す」と 釈し 給う.

また 「みょうとは ふかしぎの ほうを ほうび するなり.
又 「妙とは 不可思議の 法を 褒美 するなり.

また みょうとは じっかい じゅうにょ ごんじつの ほう なり」と うんぬん.
又 妙とは 十界 十如 権実の 法 なり」と 云云.

きょうの だいもくを となうると かんねんと ひとつ なること.
経の 題目を 唱うると 観念と 一 なる事.

こころえ がたしと ぐちの ひとは おもい たもうべし.
心得 がたしと 愚癡の 人は 思い 給ふべし.

されども てんだい しの2に におせつもくと いえり.
されども 天台 止の二に 而於説黙と 云へり.

せつとは きょう、もくとは かんねん なり.
説とは 経、 黙とは 観念 なり.

また しきょうぎの 1に いわく 「ただ こうの とうえん ならざる のみに あらず.
又 四教義の 一に 云く 「但 功の 唐捐 ならざる のみに 非ず.

また よく ことわりに あうの かなめ なるをや」と うんぬん.
亦 能く 理に 契うの 要 なるをや」と 云云.

てんだいだいしと もうすは やくおうぼさつ なり.
天台大師と 申すは 薬王菩薩 なり.

この だいしの せつ にかんにと しゃくし たもう.
此の 大師の 説 而観而と 釈し 給ふ.

もと より てんだいの しょしゃくに いんねん やっきょう ほんじゃく かんじんの 4しゅの おんしゃく あり.
元 より 天台の 所釈に 因縁 約教 本迹 観心の 四種の 御釈 あり.

4しゅの じゅうを しらずして ひとしなを みたる ひと.
四種の 重を 知らずして 一しなを 見たる 人.

いつこう ほんじゃくを むねとし いっこう かんじんを おもてと す.
一向 本迹を むねとし 一向 観心を 面と す.

ほけきょうに ほっぴいんねんと いうこと あり.
法華経に 法譬因縁と 云う事 あり.

ほうせつの だんに いたって しょぶつしゅっせの ほんかい いっさいしゅじょう じょうぶつの じきどうと さだむ.
法説の 段に 至つて 諸仏出世の 本懐、一切衆生 成仏の 直道と 定む.

われ のみならず いっさいしゅじょう じきしどうじょうの いんねん なりと さだめ たまいしは だいもく なり.
我 のみならず 一切衆生 直至道場の 因縁 なりと 定め 給いしは 題目 なり.

されば てんだい げんの1に 「しゅうぜんの しょうぎょうを えして こうだいの いちじょうに きす」と.
されば 天台 玄の一に 「衆善の 小行を 会して 広大の 一乗に 帰す」と.

こうだいと もうすは のこらず いんどう したもうを もうすなり.
広大と 申すは 残らず 引導 し給うを 申すなり.

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たとい しゃくそん ひとり ほんかいと のべ たもうとも.
仮使 釈尊 一人 本懐と 宣べ 給うとも.

とうかく いかは あおいで この きょうを しんずべし.
等覚 以下は 仰いで 此の 経を 信ず可し.

いわんや しょぶつ しゅっせのほんかい なり.
況や 諸仏 出世の本懐 なり.

ぜんしゅうは かんじんを ほんかいと あおぐと あれども それは 4しゅの いちめん なり.
禅宗は 観心を 本懐と 仰ぐと あれども 其は 四種の 一面 なり.

いちねん3000 いっしんさんかん とうの かんじん ばかりが.
一念三千 一心三観 等の 観心 計りが.

ほけきょうの かんじん なるべくば だいもくに 10にょぜを おくべき ところに.
法華経の 肝心 なるべくば 題目に 十如是を 置くべき 処に.

だいもくに みょうほうれんげきょうと おかれたる うえは しさいに およばず.
題目に 妙法蓮華経と 置かれたる 上は 子細に 及ばず.

また とうせいの ぜんしゅうは きょうげべつでんと いい たもうかと おもえば.
又 当世の 禅宗は 教外別伝と 云い 給うかと 思へば.

また すてられたる えんがくきょう とうの もんを ひかるる うえは.
又 捨られたる 円覚経 等の 文を 引かるる 上は.

じっきょうの もんに おいて おんいろえに およぶ べからず そうろう.
実経の 文に 於て 御綺に 及ぶ べからず 候.

ちしゃは どくじゅに かんねんをも ならぶべし.
智者は 読誦に 観念をも 並ぶべし.

ぐしゃは だいもく ばかりを となうとも この りに あうべし.
愚者は 題目 計りを 唱ふとも 此の 理に 会う可し.

この みょうほうれんげきょうとは われらが しんしょう.
此の 妙法蓮華経とは 我等が 心性.

そうじては いっさいしゅじょうの しんしょう.
総じては 一切衆生の 心性.

はちようの びゃくれんげの な なり.
八葉の 白蓮華の 名 なり.

これを おしえ たもう ほとけの みことば なり.
是を 教え 給ふ 仏の 御詞 なり.

むし より このかた わが しんちゅうの しんしょうに まよって しょうじを るてん せし み.
無始 より 以来 我が 身中の 心性に 迷て 生死を 流転 せし 身.

いま この きょうに あいたてまつって さんじんそくいちの ほんがくのにょらいを となうるに あらわれて.
今 此の 経に 値ひ奉つて 三身即一の 本覚の 如来を 唱うるに 顕れて.

げんせに その ないしょう じょうぶつ するを そくしんじょうぶつと もうす.
現世に 其 内証 成仏 するを 即身成仏と 申す.

しすれば ひかりを はなつ これ げゆうの じょうぶつと もうす.
死すれば 光を 放つ 是れ 外用の 成仏と 申す.

らいせとくさぶつとは これなり.
来世得作仏とは 是なり.

りゃっこきょうだい げんしゅういちぶとて いっぺんは いちぶ うんぬん.
略挙経題 玄収一部とて 一遍は 一部 云云.

みょうほうれんげきょうと となうる とき しんしょうの にょらい あらわる.
妙法蓮華経と 唱うる 時 心性の 如来 顕る.

みみに ふれし たぐいは むりょうあそうぎこうの つみを めっす.
耳に ふれし 類は 無量阿僧祇劫の 罪を 滅す.

いちねんも ずいき するとき そくしんじょうぶつ す.
一念も 随喜 する時 即身成仏 す.

たとえ しんぜざれども しゅと なり じゅくと なり かならず これによって じょうぶつ す.
縦ひ 信ぜざれども 種と 成り 熟と 成り 必ず 之に 依て 成仏 す.

みょうらくだいしの いわく 「もしは しゅ もしは しゃ みみに へてえんと なる.
妙楽大師の 云く 「若は 取若は 捨 耳に 経て 縁と 成る.

あるいは じゅん あるいは い ついに これに よって だっす」と うんぬん.
或いは 順 或いは 違 終いに 斯れに 因つて 脱す」と 云云.

にちれん いわく にゃくしゅにゃくしゃ わくじゅんわくいの もんきもに めいずる ことば なり.
日蓮 云く 若取若捨 或順或違の 文肝に 銘ずる 詞 なり.

ほけきょうに にゃくうもんぽうしゃ とうと とかれたるは これか.
法華経に 若有聞法者 等と 説れたるは 是か.

すでに きくものと とかれたり.
既に 聞く者と 説れたり.

かんねん ばかりにて じょうぶつ すべくば にゃくうかんぽうしゃと とかるべし.
観念 計りにて 成仏 すべくば 若有観法者と 説かるべし.

ただ てんだいの ごりょうけんに じゅうにょぜと いうは じっかい なり.
只 天台の 御料簡に 十如是と 云うは 十界 なり.

その じっかいは いちねん より こと おこり.
此の 十界は 一念 より 事 起り.

じっかいの しゅじょうは いできたりけり.
十界の 衆生は 出来たりけり.

この じゅうにょぜと いうは みょうほうれんげきょうにて ありけり.
此の 十如是と 云は 妙法蓮華経にて 有けり.

この しゃばせかいは にこんとくどうの くに なり.
此の 娑婆世界は 耳根得道の 国 なり.

いぜんに もうす ごとく とうちしんどと うんぬん.
以前に 申す 如く 当知身土と 云云.

いっさいしゅじょうの みに 100かいせんにょ 3000せけんを おさむる いわれを あかすが ゆえに.
一切衆生の 身に 百界千如 三千世間を 納むる 謂を 明が 故に.

これを みみに ふるる いっさいしゅじょうは くどくを うる しゅじょう なり.
是を 耳に 触るる 一切衆生は 功徳を 得る 衆生 なり.

いっさいしゅじょうと もうすは そうもく がりゃくも いっさいしゅじょうの うち なるか.
一切衆生と 申すは 草木 瓦礫も 一切衆生の 内 なるか.

うじょう ひじょう そもそも そうもくは なんぞ.
有情 非情 抑 草木は 何ぞ.

こんぺいろんに いわく 「いっそういちもく 1りゃく1じん かく1ぶっしょう かく1 いんが ぐそくえんりょう」 とうと うんぬん.
金ペイ論に 云く「一草一木 一礫一塵 各一仏性 各一因果 具足縁了」 等と 云云.

ほっしほんの はじめに いわく「むりょうの しょてん りゅうおう やしゃ けんだっぱ.
法師品の 始に 云く 「無量の 諸天 竜王 夜叉 乾闥婆.

あしゅら かるら きんなら まごらが にんと ひにんと および びく びくに.
阿修羅 迦楼羅 緊那羅 摩ゴ羅伽 人と 非人と 及び 比丘 比丘尼.

みょうほうれんげきょうの いちげ いっくを きいて ないし いちねんも ずいき せんものは.
妙法蓮華経の 一偈 一句を 聞いて 乃至 一念も 随喜 せん者は.

われ みな あのくたらさんみゃくさんぼだいの きを あたえ さずく」と うんぬん.
我 皆 阿耨多羅三藐三菩提の 記を 与え 授く」と 云云.

ひにんとは そうじて にんかいの そと いっさいうじょうかいとて こころ ある ものなり.
非人とは 総じて 人界の 外 一切有情界とて 心 ある ものなり.

いわんや にんかいをや
況や 人界をや

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ほけきょうの ぎょうじゃは にょせつしゅぎょう せば かならず いっしょうの なかに ひとりも のこらず じょうぶつ すべし.
法華経の 行者は 如説修行 せば 必ず 一生の 中に 一人も 残らず 成仏 す可し.

たとえば はる なつ たを つくるに わせおく あれども 1ねんの なかには かならず これを おさむ.
譬えば 春 夏 田を 作るに 早晩 あれども 一年の 中には 必ず 之を 納む.

ほっけのぎょうじゃも じょう ちゅう げこん あれども かならず いっしょうの なかに しょうとく す.
法華の行者も 上 中 下根 あれども 必ず 一生の 中に 証得 す.

げんの1に いわく 「じょう ちゅう げこん みな きべつを あたう」と うんぬん.
玄の一に 云く 「上 中 下根 皆 記ベツを 与う」と 云云.

かんじん ばかりにて じょうぶつ せんと おもう ひとは いっぽう かけたる ひと なり.
観心 計りにて 成仏 せんと 思ふ 人は 一方 かけたる 人 なり.

いわんや きょうげべつでんの ざぜん をや.
況や 教外別伝の 坐禅 をや.

ほっしほんに いわく 「やくおう おおく ひと ありて ざいけ しゅっけの ぼさつの みちを ぎょうぜんに.
法師品に 云く 「薬王 多く 人 有て 在家 出家の 菩薩の 道を 行ぜんに.

もし この ほけきょうを けんもんし どくじゅし しょしゃし くよう すること えること あたわずんば.
若し 是の 法華経を 見聞し 読誦し 書持し 供養 すること 得ること 能わずんば.

まさに しるべし この ひとは いまだ よく ぼさつの どうを ぎょうぜず.
当に 知るべし 是の 人は 未だ 善く 菩薩の 道を 行ぜず.

もし この きょうてんを きくことを うること あらば.
若し 是の 経典を 聞くこと 得ること 有らば.

すなわち よく ぼさつの みちを ぎょうずる なり」と うんぬん.
乃ち 能善 菩薩の 道を 行ずる なり」と 云云.

かんじん ばかりにて じょうぶつ すべくんば いかでか けんもんどくじゅと いわんや.
観心 計りにて 成仏 すべくんば 争か 見聞読誦と 云わんや.

その きょうは もっぱら もんを もって ほんと なす.
此の 経は 専ら 聞を 以て 本と 為す.

およそ この きょうは あくにん にょにん にじょう せんだいを えらばず.
凡 此の 経は 悪人 女人 二乗 闡提を 簡ばず.

ゆえに かいじょうぶつどう とも いい また びょうどうだいえ とも いう.
故に 皆成仏道 とも 云ひ 又 平等大慧 とも 云う.

ぜんあくふに じゃしょういちにょと きくところに やがて ないしょう じょうぶつ す.
善悪不二 邪正一如と 聞く処に やがて 内証 成仏 す.

ゆえに そくしんじょうぶつと もうし いっしょうに しょうとく するがゆえに いっしょうみょうかくと いう.
故に 即身成仏と 申し 一生に 証得 するが 故に 一生妙覚と 云ふ.

ぎを しらざる ひと なれども となうれば みな ほとけと ほとけと よろこび たもう.
義を 知らざる 人 なれども 唱ふれば 唯 仏と 仏と 悦び 給ふ.

がそくかんき しょぶつやくねん うんぬん.
我即歓喜 諸仏亦然 云云.

100 1000 あわせたる くすりも くちに のまざれば やまい いえず.
百 千 合せたる 薬も 口に のまざれば 病 愈えず.

くらに たからを もてども ひらく ことを しらずして かつえ.
蔵に 宝を 持ども 開く 事を しらずして かつへ.

ふところに くすりを もちても のまんことを しらずして しするが ごとし.
懐に 薬を 持ても 飲まん 事を しらずして 死するが 如し.

にょいほうじゅと いう たまは 500でしほんの この きょうの とくも また かくのごとし.
如意宝珠と 云う 玉は 五百弟子品の 此の 経の 徳も 又 此くの如し.

かんじんを ならべて よめば もうすに およばず.
観心を 並べて 読めば 申すに 及ばず.

かんねん せずといえども はじめに もうしつる ごとく.
観念 せずと雖も 始に 申しつる ごとく.

いわゆる しょほう にょぜそう にょうんぬんと よむときは にょは くうの ぎ なれば.
所謂 諸法 如是相 如云云と 読む 時は 如は 空の 義 なれば.

わがみの せんごうに うくる ところの そうしょうたいりき.
我が 身の 先業に うくる 所の 相性体力.

その ぐする ところの 88しの けんわく.
其の 具する 所の 八十八使の 見惑.

81ほんの しわく その くうは ほうしんにょらい なり.
八十一品の 思惑 其の 空は 報身如来 なり.

いわゆる しょほうにょぜそう うんぬんと よめば これ けの ぎ なれば.
所謂 諸法如是相 云云と よめば 是れ 仮の 義 なれば.

わが この み せんごうに よって うけたる そうしょうたいりき うんぬん.
我が 此の 身 先業に 依つて 受けたる 相性体力 云云.

その ぐしたる じんじゃの わく ことごとく そくしんおうじんにょらい なり.
其の 具したる 塵沙の 惑 悉く 即身応身如来 なり.

いわゆる しょほうにょぜと よむ ときは これ ちゅうどうの ぎに じゅんじて.
所謂 諸法如是と 読む 時は 是れ 中道の 義に 順じて.

ごうに よって うくる ところの そうしょう とう うんぬん.
業に 依つて 受くる 所の 相性 等 云云.

それに したがいたる むみょう みな しりぞいて そくしんほっしんの にょらいと こころを ひらく.
其に 随いたる 無明 皆 退いて 即身法身の 如来と 心を 開く.

この 10にょぜ さんてんに よまるる こと.
此の 十如是 三転に よまるる 事.

さんじんそくしっしん いっしんそくさんじんの ぎ なり.
三身即一身 一身即三身の 義 なり.

3に わかるれども ひとつ なり.
三に 分るれども 一 なり.

1に さだまれども 3 なり.
一に 定まれども 三 なり.

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