b438から442.
教機時国抄(きょうきじこくしょう)
日蓮大 聖人 41歳御作
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きょうきじこくしょう.
教機時国抄.

こうちょう 2ねん 2がつ とうか 41さい おんさく.
弘長 二年 二月 十日  四十一歳 御作.

ほんちょう しゃもん にちれん これを しるす.
本朝 沙門 日蓮 之を 註す.

1に きょうとは しゃかにょらい しょせつの いっさいの きょう りつ ろん 5048かん 480ちつ.
一に 教とは 釈迦如来 所説の 一切の 経 律 論 五千四十八巻 四百八十帙.

てんじくに るふすること いっせんねん.
天竺に 流布すること 一千年.

ほとけの めつご いっせん 115ねんに あたって しんたんこくに ぶっきょう わたる.
仏の 滅後 一千一十五年に 当つて 震旦国に 仏経 渡る.

ごかんの こうめいこうてい えいへい 10ねん ひのとう より.
後漢の 孝明皇帝 永平 十年 丁卯 より.

とうの げんそうこうてい かいげん 18ねん かのえうまに いたる.
唐の 玄宗皇帝 開元 十八年 庚午に 至る.

664さいのあいだに いっさいきょう わたり おわんぬ. 
六百六十四歳の 間に 一切経 渡り 畢んぬ.

この いっさいの きょう りつ ろんの なかに しょうじょう だいじょう ごんきょう じっきょう けんきょう みっきょうあり.
此の 一切の 経 律 論の 中に 小乗 大乗 権経 実経 顕経 密経あり.

これらを わきまうべし.
此等を 弁うべし.

この みょうもくは ろんし にんしよりも いでず ぶっせつより おこる.
此の 名目は 論師 人師よりも 出でず 仏説より 起る.

じゅっぽう せかいの いっさいしゅじょう ひとりも なく これを もちうべし.
十方 世界の 一切衆生 一人も 無く 之を 用うべし.

これを もちいざる ものは げどうと しるべきなり. 
之を 用いざる 者は 外道と 知るべきなり.

あごんきょうを しょうじょうと とく ことは ほうどう はんにゃ ほっけ ねはん とうの しょだいじょうきょうより いでたり. 
阿含経を 小乗と 説く 事は 方等 般若 法華 涅槃 等の 諸大乗経より 出でたり.

ほけきょうには いっこうに しょうじょうを ときて ほけきょうを とかざれば ほとけ けんどんに おつべしと ときたもう. 
法華経には 一向に 小乗を 説きて 法華経を 説かざれば 仏 慳貪に 堕すべしと 説きたもう.

ねはんぎょうには いっこうに しょうじょうきょうを もちいて ほとけを むじょうなりと いわんひとは した こうちゅうに ただるべしと うんぬん.
涅槃経には 一向に 小乗経を 用いて 仏を 無常なりと 云わん 人は  舌 口中に 爛るべしと 云云.

2に きとは ぶっきょうを ひろむる ひとは かならず きこんを しるべし.
二に 機とは 仏教を 弘むる 人は 必ず 機根を 知るべし.

しゃりほつそんじゃは こんしに ふじょうかんを おしえ かんえの ものには すそくかんを おしうる あいだ 90にちを へて.
舎利弗尊者は 金師に 不浄観を 教え 浣衣の 者には 数息観を 教うる 間 九十日を 経て.
 
しょけの でし ぶっぽうを 1ぶんも さとらずして かえって じゃけんを おこし いっせんだいと なり おわんぬ.
所化の弟子 仏法を 一分も 覚らずして 還つて 邪見を 起し 一闡提と 成り 畢んぬ.

ほとけは こんしに すそくかんを おしえ かんえの ものに ふじょうかんを おしえたもう ゆえに しゅゆの あいだに おぼえる ことを えたり.
仏は 金師に 数息観を 教え 浣衣の 者に 不浄観を 教えたもう 故に 須臾の 間に 覚る ことを 得たり.

ちえ だい1の しゃりほつすら なお きを しらず.
智慧 第一の 舎利弗すら 尚 機を 知らず.

いかに いわんや まつだいの ぼんし きを しりがたし.
何に 況や 末代の 凡師 機を 知り 難し.

ただし きを しらざる ぼんしは しょけの でしに いっこうに ほけきょうを おしうべし.
但し 機を 知らざる 凡師は 所化の 弟子に 一向に 法華経を 教うべし.

とうて いわく むちの ひとの なかにして この きょうを とくこと なかれとの もんは いかん.
問うて 云く 無智の 人の 中にして 此の 経を 説くこと 莫れとの 文は 如何.

こたえて いわく きを しるは ちじんの せっぽうする ことなり.
答えて 云く 機を 知るは 智人の 説法する 事なり.

また ほうぼうの ものに むかっては いっこうに ほけきょうを とくべし どっくの えんと なさんが ためなり.
又 謗法の 者に 向つては 一向に 法華経を 説くべし 毒鼓の 縁と 成さんが 為なり.

れいせば ふきょうぼさつの ごとし.
例せば 不軽菩薩の 如し.

また ちしゃと なるべき きと しらば かならず まず しょうじょうを おしえ つぎに ごんだいじょうを おしえ のちに じつだいじょうを おしう べし.
亦 智者と 成る 可き 機と 知らば 必ず 先ず 小乗を 教え 次に 権大乗を 教え 後に 実大乗を 教う 可し.

ぐしゃと しらば まず かならず じつだいじょうを おしう べし.
愚者と 知らば 必ず 先ず 実大乗を 教う 可し. 

しんぼう ともに げしゅと なれば なり.
信謗 共に 下種と 為れば なり.

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3に ときとは ぶっきょうを ひろめん ひとは かならず ときを しるべし.
三に 時とは 仏教を弘めん 人は 必ず 時を 知るべし.
 
たとえば のうにんの あきふゆ たを つくるに たねと ちと ひとの こうろうとは たがわざれども 1ぶんも えき なく かえって そんす.
譬えば 農人の 秋冬 田を 作るに 種と 地と 人の 功労とは 違わざれども 一分も 益 無く 還つて 損す.

1だんを つくる ものは しょうぞん なり 1ちょう 2ちょう とうの ものは だいそんなり.
一段を 作る 者は 少損 なり 一町 二町 等の 者は 大損なり.

はるなつ こうさく すれば じょう ちゅう げに したがって みな ぶんぶんに やく あるが ごとし. 
春夏 耕作 すれば 上 中 下に 随つて 皆 分分に 益 有るが 如し.

ぶっぽうも またまた かくの ごとし ときを しらずして ほうを ひろめば やく なきうえ かえって あくどうに だする なり.
仏法も 亦復 是くの 如し 時を 知らずして 法を 弘めば 益 無き 上 還つて 悪道に 堕する なり.

ほとけ しゅっせい したもうて かならず ほけきょうを とかんと ほっするに.
仏 出世 したもうて 必ず 法華経を 説かんと 欲するに.

たとい き あれども とき なきが ゆえに 40よねんには この きょうを ときた まわず.
縦い 機 有れども 時 無きが 故に 四十余年には 此の 経を 説き たまわず.

ゆえに きょうに いわく せつじ いまだ いたらざるが ゆえなり とうと うんぬん.
故に 経に 云く 説時 未だ 至らざるが 故なり 等と 云云.

ほとけの めつごの つぎの ひより しょうほう いっせんねんは じかいの ものは おおく はかいの ものは すくなし.
仏の 滅後の 次の 日より 正法 一千年は 持戒の 者は 多く 破戒の 者は 少し.

しょうほう いっせんねんの つぎの ひより ぞうほう いっせんねんは はかいの ものは おおく むかいの ものは すくなし. 
正法 一千年の 次の 日より 像法 一千年は 破戒の 者は 多く 無戒の 者は 少し.

ぞうほう いっせんねんの つぎの ひより まっぽう 1まんねんは はかいの ものは すくなく むかいの ものは おおし. 
像法 一千年の 次の 日より 末法 一万年は 破戒の 者は 少く 無戒の 者は 多し.

しょうほうには はかい むかいを すてて じかいの ものを くよう すべし. 
正法には 破戒 無戒を 捨てて 持戒の 者を 供養 すべし.

ぞうほうには むかいを すてて はかいの ものを くよう すべし.
像法には 無戒を 捨てて 破戒の 者を 供養 すべし.

まっぽうには むかいの ものを くようすること ほとけの ごとく すべし.
末法には 無戒の 者を 供養すること 仏の 如くすべし.

ただし ほけきょうを ぼうぜん ものをば しょう ぞう まつの 3じに わたりて.
但し 法華経を 謗ぜん 者をば 正 像 末の 三時に 亘りて. 

じかいの ものをも むかいの ものをも はかいの ものをも ともに くよう すべからず.
持戒の 者をも 無戒の 者をも 戒の 者をも 共に 供養 すべからず. 

くようせば かならず くにに 3さい しちなん おこり くようせし ものも かならず むけんだいじょうに だすべきなり. 
供養せば 必ず 国に 三災 七難 起り 供養せし 者も 必ず 無間大城に 堕すべきなり.

ほけきょうの ぎょうじゃの ごんきょうを ぼうずるは しゅくん おや しの しょじゅう しそく でしらを ばっするが ごとし.
法華経の 行者の 権経を 謗ずるは 主君 親 師の 所従 子息 弟子等を 罰するが 如し.

ごんきょうの ぎょうじゃの ほけきょうを ぼうずるは しょじゅう しそく でしらの しゅくん おや しを ばっするが ごとし. 
権経の 行者の 法華経を 謗ずるは 所従 子息 弟子等の 主君 親 師を 罰するが 如し.

また とうせは まっぽうに いって 2ひゃく いちじゅう よねん なり. 
又 当世は 末法に 入つて 二百 一十 余年 なり.

ごんきょう ねんぶつとうの ときか ほけきょうの ときか よく よく じこくを かんがう べきなり.
権経 念仏等の 時か 法華経の 時か 能く 能く 時刻を 勘う べきなり.

4に くにとは ぶっきょうは かならず くにに よって これを ひろむべし.
四に 国とは 仏教は 必ず 国に 依つて 之を 弘むべし. 

くにには かんこく ねつこく ひんこく ふこく ちゅうこく へんこく たいこく しょうこく いっこうちゅうとうこく いっこうせっしょうこく いっこうふこうこく とう これ あり.
国には 寒国 熱国 貧国 富国 中国 辺国 大国 小国 一向偸盗国 一向殺生国 一向不孝国 等 之 有り.

また いっこう しょうじょうの くに いっこう だいじょうの くに だい しょう けんがくの くにも これ あり. 
又 一向 小乗の 国 一向大乗の 国 大 小 兼学の 国も 之 有り.

しかるに にほんこくは いっこうに しょうじょうの くにか いっこうに だいじょうの くにか だい しょう けんがくの くに なるか よく よく これを かんがう べし.
而るに 日本国は 一向に 小乗の国か 一向に 大乗の 国か 大 小 兼学の 国 なるか 能く 能く 之を 勘う べし.

5に きょうほうるふの せんごとは いまだ ぶっぽう わたらざる くに には いまだ ぶっぽうを きかざる ものあり. 
五に 教法流布の 先後とは 未だ 仏法 渡らざる 国 には 未だ 仏法を 聴かざる 者あり.

すでに ぶっぽう わたれる くに には ぶっぽうを しんずる ものあり.
既に 仏法 渡れる 国 には 仏法を 信ずる 者あり.

かならず さきに ひろまれる ほうを しって のちの ほうを ひろむべし.
必ず 先に 弘まれる 法を 知つて 後の 法を 弘むべし.

さきに しょうじょう ごんだいじょう ひろまらば のちに かならず じつだいじょうを ひろむべし.
先に 小乗 権大乗 弘らば 後に 必ず 実大乗を 弘むべし.

さきに じつだいじょう ひろまらば のちに しょうじょう ごんだいじょうを ひろむ べからず.
先に 実大乗 弘らば 後に 小乗 権大乗を 弘む べからず.

がりゃくを すてて こんじゅを とるべし こんじゅを すてて がりゃくを とること なかれ.
瓦礫を 捨てて 金珠を 取るべし 金珠を 捨てて 瓦礫を 取ること 勿れ.

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いじょうの この 5ぎを しって ぶっぽうを ひろめば にほんこくの こくしと なる べきか.
已上の 此の 五義を 知つて 仏法を 弘めば 日本国の 国師と 成る 可きか.

ゆえに ほけきょうは いっさいきょうの なかの だい1の きょうおう なりと しるは これ きょうを しる ものなり.
所以に 法華経は 一切経の 中の 第一の 経王 なりと 知るは 是れ 教を 知る 者なり.

ただし こうたくの ほううん どうじょうの えかん とうは ねはんぎょうは ほけきょうに すぐれたりと.
但し 光宅の 法雲 道場の 慧観 等は 涅槃経は 法華経に 勝れたりと.

しょうりょうざんの ちょうかん こうやの こうぼう とうは けごんきょう だいにちきょう とうは ほけきょうに すぐれたりと.
清涼山の 澄観 高野の 弘法 等は 華厳経 大日経 等は 法華経に 勝れたりと.

かじょうじの きちぞう じおんじの きほっし とうは はんにゃ じんみつ とうの 2きょうは ほけきょうに すぐれたりと いう.
嘉祥寺の 吉蔵 慈恩寺の 基法師 等は 般若 深密 等の 二経は 法華経に 勝れたりと 云う.

てんだいさんの ちしゃだいし ただ ひとりのみ いっさいきょうの なかに ほけきょうを すぐれたりと たつる のみに あらず.
天台山の 智者大師 只 一人のみ 一切経の 中に 法華経を 勝れたりと 立つる のみに 非ず.

ほけきょうに すぐれたる きょう これ ありと いわん ものを かんぎょう せよ.
法華経に 勝れたる 経 之れ 有りと 云わん 者を 諌暁 せよ.

やまずんば げんせに した こうちゅうに ただれ ごしょうは あびじごくに だすべし とうと うんぬん.
止まずんば 現世に 舌 口中に 爛れ 後生は 阿鼻地獄に 堕すべし 等と 云云.

これらの そういを よく よく これを わきまえたる ものは きょうを しれる ものなり.
此等の 相違を 能く 能く 之を 弁えたる 者は 教を 知れる 者なり.

とうせいの せんまんの がくしゃ とう いち いちに これに まよえるか.
当世の 千万の 学者 等 一 一に 之に 迷えるか.
 
もし しからば きょうを しれる もの これ すくなきか.
若し 爾らば 教を 知れる 者 之れ 少きか.

きょうを しれる もの これ なければ ほけきょうを よむ もの これ なし.
教を 知れる 者 之れ 無ければ 法華経を 読む 者 之れ 無し.

ほけきょうを よむもの これ なければ こくしと なる もの なきなり.
法華経を 読む 者 之れ 無ければ 国師と なる 者 無きなり.

こくしと なるもの なければ くにじゅうの しょにん いっさいきょうの だい しょう ごん じつ けん みつ の さべつに まようて.
国師と なる 者 無ければ 国中の 諸人 一切経の 大 小 権 実 顕 密の 差別に 迷うて.

ひとりに おいても しょうじを はなるる もの これなく.
一人に 於ても 生死を 離るる 者 之れ 無く.

けっくは ほうぼうの ものと なり ほうに よって あびじごくに だする ものは だいちの みじん よりも おおく.
結句は 謗法の 者と 成り 法に 依つて 阿鼻地獄に 堕する 者は 大地の 微塵 よりも 多く.

ほうに よって しょうじを はなるる ものは そうじょうの つちよりも すくなし.
法に 依つて 生死を 離るる 者は 爪上の 土よりも 少し.

おそるべし おそるべし.
恐る可し 恐る可し.

にほんこくの いっさいしゅじょうは かんむこうていより このかた 4ひゃくよねん いっこうに ほけきょうの きなり.
日本国の 一切衆生は 桓武皇帝より 已来 四百余年 一向に 法華経の 機なり.

れいせば りょうぜん 8かねんの じゅんえんの き たるが ごとし.
例せば 霊山 八箇年の 純円の 機 為るが 如し.

てんだいだいし しょうとくたいし がんじんわしょう こんぽんだいし あんねんわしょう えしん とうの きに これ あり.
天台大師 聖徳太子 鑒真和尚 根本大師 安然和尚 慧心 等の 記に 之 有り.

これ きを しれるなり.
是れ 機を 知れるなり.

しかるに とうせの がくしゃの いわく にほんこくは いっこうに しょうみょう ねんぶつの きなり とうと うんぬん.
而るに 当世の 学者の 云く 日本国は 一向に 称名念仏の 機なり 等と 云云.

れいせば しゃりほつの きに まようて しょけの しゅうを いっせんだいと なせしが ごとし.
例せば 舎利弗の 機に 迷うて 所化の 衆を 一闡提と 成せしが 如し.

にほんこくの とうせは にょらいの めつご 2せん2ひゃく いちじゅうよねん ご 500さいに あたって.
日本国の 当世は 如来の 滅後 二千二百一十余年 後 五百歳に 当つて.

みょうほうれんげきょう こうせんるふの じこくなり これ ときを しれる なり.
妙法蓮華経 広宣流布の 時刻なり これ 時を 知れる なり.

しかるに にほんこくの とうせいの がくしゃ あるいは ほけきょうを なげうちて いっこうに しょうみょうねんぶつを ぎょうじ.
而るに 日本国の 当世の 学者 或は 法華経を 抛ちて 一向に 称名念仏を 行じ.

あるいは しょうじょうの かいりつを おしえて えいざんの だいそうを あなずり. 
或は 小乗の 戒律を 教えて 叡山の 大僧を 蔑り.

あるいは きょうげを たてて ほっけの しょうほうを かろしむ.
或は 教外を 立てて 法華の 正法を 軽しむ.

これらは ときに まよえる ものか.
此等は 時に 迷える 者か.

れいせば しょういびくが きこんぼさつを ぼうじ.
例せば 勝意比丘が 喜根菩薩を 謗じ.

とくこうろんしが みろくぼさつを あなずりて あびの だいくを まねきしが ごとし.
徳光論師が 弥勒菩薩を 蔑りて 阿鼻の 大苦を 招きしが 如し.

にほんこくは いっこうに ほけきょうの くになり.
日本国は 一向に 法華経の 国なり.

れいせば しゃえいこくの いっこうに だいじょう なりしが ごとし.
例せば 舎衛国の 一向に 大乗 なりしが 如し.

また てんじくには いっこうに しょうじょうの くに いっこうに だいじょうの くに だい しょう けんがくの くにも これ あり.
又 天竺には 一向に 小乗の 国 一向に 大乗の 国 大 小 兼学の 国も 之 有り.

にほんこくは いっこう だいじょうの くになり だいじょうの なかにも ほけきょうの くに たる べきなり.
日本国は 一向 大乗の 国なり 大乗の 中にも 法華経の 国 為る 可きなり.

ゆがろん じょうこうの き しょうとくたいし でんぎょうだいし あんねん とうの き これあり これ くにを しれる ものなり.
瑜伽論 肇公の 記 聖徳太子 伝教大師 安然 等の 記 之 有り 是れ 国を 知れる 者なり.

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しかるに とうせいの がくしゃ にほんこくの しゅじょうに むかって いっこうに しょうじょうの かいりつを さずけ. 
而るに 当世の 学者 日本国の 衆生に 向つて 一向に 小乗の 戒律を 授け.

いっこうに ねんぶつしゃ とうと なすは.
一向に 念仏者 等と 成すは.

たとえば ほうきに えじきを いれたるが ごとし とう うんぬん.
譬えば 宝器に 穢食を 入れたるが 如し 等 云云.

ほうきの たとえ でんぎょうだいしの しゅご しょうに あり.
宝器の 譬 伝教大師の 守護 章に 在り.

にほんこくには きんめいてんのうの ぎょうに ぶっぽう くだらこくより わたり はじめしより かんむてんのうに いたるまで.
日本国には 欽明天皇の 御宇に 仏法 百済国より 渡り 始めしより 桓武天皇に 至るまで.

2ひゃく40よねんの あいだ この くにに しょうじょう ごんだいじょう のみ ひろまり.
二百四十余年の 間 此の 国に 小乗 権大乗 のみ 弘まり.

ほけきょう ありと いえども その ぎ いまだ あらわれず.
法華経 有りと 雖も 其の 義 未だ 顕れず.

れいせば しんたんこくに ほけきょう わたって 300よねんの あいだ.
例せば 震旦国に 法華経 渡つて 三百余年の 間.

ほけきょう ありと いえども その ぎ いまだ あらわれ ざりしが ごとし.
法華経 有りと 雖も 其の 義 未だ 顕れ ざりしが 如し.

かんむてんのうの ぎょうに でんぎょうだいし いまして.
桓武天皇の 御宇に 伝教大師 有して.

しょうじょう ごんだいじょうの ぎを はして ほけきょうの じつぎを あらわせしより このかた また いぎなく じゅんいつに ほけきょうを しんず. 
小乗 権大乗の 義を 破して 法華経の 実義を 顕せしより 已来 又 異義 無く 純一に 法華経を 信ず.

たとい けごん はんにゃ じんみつ あごん だいしょうの 6しゅうを がくする ものも ほけきょうを もって しょせん となす.  
設い 華厳 般若 深密 阿含 大小の 六宗を 学する 者も 法華経を 以て 所詮と 為す.

いわんや てんだい しんごんの がくしゃをや いかに いわんや ざいけの むちの ものをや. 
況や 天台 真言の 学者をや 何に 況や 在家の 無智の 者をや.

れいせば こんろんざんに いし なく ほうらいざんに どく なきが ごとし.
例せば 崑崙山に 石 無く 蓬莱山に 毒 無きが 如し.

けんにんより このかた いまに 50よねんの あいだ だいにち ぶっだ ぜんしゅうを ひろめ.
建仁より 已来 今に 五十余年の 間 大日 仏陀 禅宗を 弘め.

ほうねん りゅうかん じょうどしゅうを おこし じつだいじょうを はして ごんしゅうに つき.
法然 隆寛 浄土宗を 興し 実大乗を 破して 権宗に 付き.

いっさいきょうを すてて きょうげを たつ.
一切経を 捨てて 教外を 立つ.

たとえば たまを すてて いしを とり ちを はなれて そらに のぼるが ごとし.
譬えば 珠を 捨てて 石を 取り 地を 離れて 空に 登るが 如し.

これは きょうほうるふの せんごを しらざる ものなり.
此は 教法流布の 先後を 知らざる 者なり

ほとけ いましめて いわく あくぞうに あうとも あくちしきに あわざれ とうと うんぬん.
仏 誡めて 云く 悪象に 値うとも 悪知識に 値わざれ 等と 云云.

ほけきょうの かんじぼんに ごの 5ひゃくさい 2せんよねんに あたって ほけきょうの てきじん 3るい ある べしと しるし おき たまえり.
法華経の 勧持品に 後の 五百歳 二千余年に 当つて 法華経の 敵人 三類 有る 可しと 記し 置き たまえり.

とうせいは ご 5ひゃくさいに あたれり.
当世は 後 五百歳に 当れり. 

にちれん ぶつごの じっぴを かんがうるに 3るいの てきじん これあり これを かくさば ほけきょうの ぎょうじゃに あらず.
日蓮 仏語の 実否を 勘うるに 三類の 敵人 之 有り 之を 隠さば 法華経の 行者に 非ず.

これを あらわさば しんみょう さだめて うしなわんか.
之を 顕さば 身命 定めて 喪わんか.

ほけきょう だい4に いわく しかも この きょうは にょらいの げんざいにすら なお おんしつ おおし いわんや めつどの のちをや とうと うんぬん.
法華経 第四に 云く 而も 此の 経は 如来の 現在にすら 猶 怨嫉多し 況や 滅度の 後をや 等と 云云.

おなじく だい5に いわく いっさい せけん あだ おおくして しんじ がたし と.
同じく 第五に 云く 一切世間 怨 多くして 信じ 難し と.

また いわく われ しんみょうを あいせず ただ むじょうどうを おしむ と.
又 云く 我身命を 愛せず 但 無上道を 惜む と.

どう だい6に いわく みずから しんみょうを おしまず と うんぬん.
同 第六に 云く 自ら 身命を 惜まず と 云云.

ねはんぎょう だい9に いわく.
涅槃経 第九に 云く.

たとえば おうしの よく だんろんし ほうべんに たくみなる めいを たこくに うけ むしろ しんみょうを うしなうとも. 
譬えば 王使の 善能 談論し 方便に 巧みなる 命を 他国に 奉け 寧ろ 身命を 喪うとも.

ついに おうの しょせつの げんきょうを かくさざるが ごとし. 
終に 王の 所説の 言教を 匿さざるが 如し. 

ちしゃも また しかなり. 
智者も 亦 爾なり.

ぼんぷの なかに おいて しんみょうを おしまずして かならず だいじょう ほうとうを せんぜつ すべし と うんぬん. 
凡夫の 中に 於て 身命を 惜まずして 要必 大乗 方等を 宣説 すべし と 云云.

しょうあんだいし しゃくして いわく.
章安大師 釈して 云く.

にょう そうしん みょうふのくきょう とは みはかるく ほうは おもし みを ころして ほうを ひろめよ とうと うんぬん. 
寧 喪身 命不匿教 とは 身は 軽く 法は 重し 身を 死して 法を 弘めよ 等と 云云.

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これらの ほんぶんを みれば 3るいの てきじんを あらわさずんば ほけきょうの ぎょうじゃに あらず. 
此等の 本文を 見れば 三類の 敵人を 顕さずんば 法華経の 行者に 非ず.

これを あらわすは ほけきょうの ぎょうじゃなり.
之を 顕すは 法華経の 行者なり.

しかれども かならず しんみょうを うしなわんか.
而れども 必ず 身命を 喪わんか.

れいせば ししそんじゃ だいばぼさつ とうの ごとく ならん うんぬん.
例せば 師子尊者 提婆菩薩 等の 如く ならん 云云.

2がつ とうか にちれん かおう.
二月 十日 日蓮 花押.

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