b461から467.
持妙法華問答抄 (じみょうほっけ もんどうしょう).
日蓮大聖人 42歳 御作.

 

b461

じみょうほっけ もんどうしょう.
持妙法華 問答抄.

こうちょう 3ねん 42さい おんさく.
弘長 三年 四十二歳 御作.

そもそも まれに じんしんを うけ たまたま ぶっぽうを きけり.
抑も 希に 人身を うけ 適ま 仏法を きけり.

しかるに ほうに せんじん あり ひとに じょうげ ありと いえり.
然るに 法に 浅深 あり 人に 高下 ありと 云へり.

いかなる ほうを しゅぎょうしてか すみやかに ほとけに なり そうろうべき.
何なる 法を 修行してか 速に 仏に なり 候べき.

ねがわくわ その みちを きかんと おもう.
願くは 其の 道を 聞かんと 思ふ.

こたえて いわく いえいえに そんしょう あり.
答えて 云く 家家に 尊勝 あり.

くにぐにに こうき あり.
国国に 高貴 あり.

みな その きみを たっとみ その おやを あがむと いえども あに こくおうに まさるべきや.
皆 其の 君を 貴み 其の 親を 崇むと いへども 豈 国王に まさるべきや.

ここに しんぬ.
爰に 知んぬ.

だいしょう ごんじつは いえいえの あらそい なれども.
大小 権実は 家家の 諍ひ なれども.

いちだいしょうきょうの なかには ほっけ ひとり すぐれたり.
一代聖教の 中には 法華 独り 勝れたり.

これ とんしょうぼだいの しなん じきしどうじょうの しゃりん なり.
是れ 頓証菩提の 指南 直至道場の 車輪 なり.

うたがって いわく にんしは きょうろんの こころを えて しゃくを つくる ものなり.
疑つて 云く 人師は 経論の 心を 得て 釈を 作る 者なり.

しからば すなわち しゅうしゅうの にんし めんめん おのおのにきょうもんを しつらい.
然らば 則ち 宗宗の 人師 面面 各各に 教門を しつらい.

しゃくを つくり ぎを たて しょうとくぼだいと こころざす.
釈を 作り 義を 立て 証得菩提と 志す.

なんぞ むなしかる べきや.
何ぞ 虚しかる べきや.

しかるに ほっけ ひとり まさると そうらわば こころ せばく こそ おぼえ そうらえ.
然るに 法華 独り 勝ると 候はば 心 せばく こそ 覚え 候へ.

こたえて いわく ほっけ ひとり いみじと もうすが こころ せばく そうらわば.
答えて 云く 法華 独り いみじと 申すが 心 せばく 候はば.

しゃくそん ほど こころ せばき ひとは よに そうらわじ.
釈尊 程 心 せばき 人は 世に 候はじ.

なんぞ あやまりの はなはだしきや.
何ぞ 誤りの 甚しきや.

しばらく いっきょう いちりゅうの しゃくを ひいて その まよいを さとらせん.
且く 一経 一流の 釈を 引いて 其の 迷を さとらせん.

むりょうぎきょうに いわく 「しゅじゅに ほうを とき しゅじゅにほうを とく ことを ほうべんりきを もってす.
無量義経に 云く 「種種に 法を 説き 種種に 法を 説くこと 方便力を 以てす.

しじゅうよねん いまだ しんじつを あらわさず」 うんぬん.
四十余年 未だ 真実を 顕さず」 云云.

この もんを きいて だいしょうごん とうの 8まんにんの ぼさつ いちどうに.
此の 文を 聞いて 大荘厳 等の 八万人の 菩薩 一同に.

「むりょうむへん ふかしぎあそうぎこうを すぐるとも.
「無量無辺 不可思議阿僧祇劫を 過ぐるとも.

ついに むじょうぼだいを じょうずる ことを えず」と りょうげ したまえり.
終に 無上菩提を 成ずる ことを 得ず」と 領解し 給へり.

この もんの こころは けごん あごん ほうどう はんにゃの しじゅうよねんの きょうに ついて.
此の 文の 心は 華厳 阿含 方等 般若の 四十余年の 経に 付いて.

いかに ねんぶつを もうし ぜんしゅうを たもちて ぶつどうを ねがい.
いかに 念仏を 申し 禅宗を 持ちて 仏道を 願ひ.

むりょうむへん ふかしぎあそうぎこうを すぐるとも.
無量無辺 不可思議阿僧祇劫を 過ぐるとも.

むじょうぼだいを じょうずる ことを えじと いえり.
無上菩提を 成ずる 事を 得じと 云へり.

しかのみならず ほうべんぽんには 「せそんは ほう ひさしくして のち かならず まさに しんじつを とき たもうべし」と とき.
しかのみならず 方便品には 「世尊は 法 久くして 後 要 当に 真実を 説きたもうべし」と とき.

また ゆいういちじょうほう むにやくむさんと ときて この きょう ばかり まこと なりと いい.
又 唯有一乗法 無二亦無三と 説きて 此の 経 ばかり まこと なりと 云い.

また 2の まきには 「ただ われ ひとり のみ よく くごを なす」と おしえ.
又 二の 巻には 「唯 我 一人 のみ 能く 救護を 為す」と 教へ.

「ただ ねがいて だいじょうきょうてんを じゅじして ないし よきょうの いちげをも うけず」と とき たまえり.
「但 楽いて 大乗経典を 受持して 乃至 余経の 一偈をも 受けず」と 説き 給へり.

もんの こころは ただ われ ひとりして よく すくい まもる ことを なす.
文の 心は ただ われ 一人して よく すくひ まもる 事を なす.

ほけきょうを うけ たもたん ことを ねがいて.
法華経を うけ たもたん 事を ねがひて.

よきょうの いちげをも うけざれと みえたり.
余経の 一偈をも うけざれと 見えたり.

また いわく 「もし ひと しんぜずして この きょうを きぼうせば すなわち いっさい せけんの ぶっしゅを だんぜん.
又 云く 「若し 人 信ぜずして 此の 経を 毀謗せば 則ち 一切世間の 仏種を 断ぜん.

ないし その ひと みょうじゅうして あびごくに いらん」と うんぬん.
乃至 其の 人 命終して 阿鼻獄に 入らん」と 云云.

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この ふみの こころは もし ひと この きょうを しんぜずしてこの きょうに そむかば.
此の 文の 心は 若し 人 此の 経を 信ぜずして 此の 経に そむかば.

すなわち いっさいせけんの ほとけの たねを たつ ものなり.
則ち 一切世間の 仏の たねを たつ ものなり.

その ひとは いのち おわらば むけんじごくに いるべしと とき たまえり.
その 人は 命 をはらば 無間地獄に 入るべしと 説き 給へり.

これらの もんを うけて てんだいは しょうひまさぶつの ことば まさしく.
此等の 文を うけて 天台は 将非魔作仏の 詞 正く.

この もんに よれりと はんじ たまえり.
此の 文に よれりと 判じ 給へり.

ただ にんしの しゃく ばかりを たのみて ぶっせつに よらずば.
唯 人師の 釈 計りを 憑みて 仏説に よらずば.

なんぞ ぶっぽうと いう なを つくべきや.
何ぞ 仏法と 云う 名を 付くべきや.

ごんごどうだんの しだい なり.
言語道断の 次第 なり.

これに よって ちしょうだいしは きょうに だいしょう なく りに へんえん なしと いって.
之に 依つて 智証大師は 経に 大小 なく 理に 偏円 なしと 云つて.

いっさい ひとに よらば ぶっせつ むよう なりと しゃくし たまえり.
一切 人に よらば 仏説 無用 なりと 釈し 給へり.

てんだいは 「もし ふかく ゆえん あり.
天台は 「若し 深く 所以 有り.

また しゅたらと あわせるをば ろくして これを もちゆ.
復 修多羅と 合せるをば 録して 之を 用ゆ.

むもん むぎは しんじゅ すべからず」と はんじ たまえり.
無文 無義は 信受 す可からず」と 判じ 給へり.

また いわく 「もんしょう なきは ことごとく これ じゃの おもい」とも いえり.
又 云く 「文証 無きは 悉く 是れ 邪の 謂い」とも 云へり.

いかが こころう べきや.
いかが 心得 べきや.

とうて いわく にんしの しゃくは さも そうろうべし.
問うて 云く 人師の 釈は さも 候べし.

にぜんの しょきょうに この きょう だいいちとも とき.
爾前の 諸経に 此の 経 第一とも 説き.

しょきょうの おうとも のべたり.
諸経の 王とも 宣べたり.

もし しからば ぶっせつ なりとも もちうべからず そうろうか いかん.
若し 爾らば 仏説 なりとも 用うべからず 候か 如何.

こたえて いわく たとい この きょう だいいち とも しょきょうの おう とも もうし そうらえ.
答えて 云く 設い 此の 経 第一 とも 諸経の 王とも 申し 候へ.

みな これ ごんきょう なり その ことばに よるべからず.
皆 是れ 権教 なり 其の 語に よるべからず.

これに よって ほとけは 「りょうぎきょうに よりて ふりょうぎきょうに よらざれ」と とき.
之に 依つて 仏は 「了義経に よりて 不了義経に よらざれ」と 説き.

みょうらくだいしは 「たとい きょう ありて しょきょうの おうと いうとも.
妙楽大師は 「縦い 経 有りて 諸経の 王と 云うとも.

いこんとうせつ さいいだいいちと いわざれば けんたんたいたい その ぎ しんぬべし」と しゃくし たまえり.
已今当説 最為第一と 云わざれば 兼但対帯其の 義 知んぬ 可し」と釈し 給へり.

この しゃくの こころは たとい きょう ありて しょきょうの おうとは いうとも.
此の 釈の 心は 設ひ 経 ありて 諸経の 王とは 云うとも.

まえに ときつる きょうにも のちに とかんずる きょうにも.
前に 説きつる 経にも 後に 説かんずる 経にも.

この きょうは まされりと いわずば ほうべんの きょうと しれと いう しゃく なり.
此の 経は まされりと 云はずば 方便の 経と しれと 云う 釈 なり.

されば にぜんの きょうの ならいとして いま とく きょう より のちに また きょうを とくべき よしを いわざる なり.
されば 爾前の 経の 習として 今 説く 経 より 後に 又 経を 説くべき 由を 云はざる なり.

ただ ほけきょう ばかり こそ さいごの ごくせつ なるが ゆえに.
唯 法華経 計りこそ 最後の 極説 なるが 故に.

いこんとうの なかに この きょう ひとり すぐれたりと とかれて そうらえ.
已今当の 中に 此の 経 独り 勝れたりと 説かれて 候へ.

されば しゃくには 「ただ ほけきょうに いたって ぜんきょうの こころを といて こんきょうの こころを あらわす」と もうして.
されば 釈には 「唯 法華に 至つて 前教の 意を 説いて 今教の意を 顕す」と 申して.

ほけきょうにて にょらいの ほんいも きょうけの ぎしきも さだまりたりと みえたり.
法華経にて 如来の 本意も 教化の 儀式も 定りたりと 見えたり.

これに よって てんだいは 「にょらいじょうどう しじゅうよねん いまだ しんじつを あらわさず.
之に 依つて 天台は 「如来成道 四十余年 未だ 真実を 顕さず.

ほっけ はじめて しんじつを あらわす」と いえり.
法華 始めて 真実を 顕す」と 云へり.

この もんの こころは にょらい よに いでさせ たまいて.
此の 文の 心は 如来 世に 出でさせ 給いて.

しじゅうよねんが あいだは しんじつの ほうをば あらわさず.
四十余年が 間は 真実の 法をば 顕さず.

ほけきょうに はじめて ほとけに なる まことの みちを あらわしたまえりと しゃくし たまえり.
法華経に 始めて 仏に なる 実の 道を 顕し 給へりと 釈し 給へり.

とうて いわく いこんとうの なかに ほけきょう すぐれたりと いう ことは さも そうろうべし.
問うて 云く 已今当の 中に 法華経 勝れたりと 云う 事は さも 候べし.

ただし ある にんしの いわく.
但し 有 人師の 云く.

しじゅうよねん みけんしんじつと いうは ほけきょうにて ほとけに なる しょうもんの ためなり.
四十余年 未顕真実と 云うは 法華経にて 仏に なる 声聞の 為なり.

にぜんの とくやくの ぼさつの ためには みけんしんじつと いう べからずと いう ぎをば いかが こころえ そうろうべきや.
爾前の 得益の 菩薩の 為には 未顕真実と 云う べからずと 云う義をば いかが 心得 候べきや.

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こたえて いわく ほけきょうは にじょうの ためなり ぼさつの ために あらず.
答えて 云く 法華経は 二乗の 為なり 菩薩の 為に あらず.

されば みけんしんじつと いうこと にじょうに かぎるべしと いうは とくいちだいしの ぎ か.
されば 未顕真実と 云う事 二乗に 限る可しと 云うは 徳一大師の 義 か.

これは ほっそうしゅうの ひと なり.
此れは 法相宗の 人 なり.

このことを でんぎょうだいし はし たもうに 「げんざいの そじきしゃは ぎしょう すうかんを つくりて.
此の 事を 伝教大師 破し 給うに「現在の そ食者は 偽章 数巻を 作りて.

ほうを ぼうじ ひとを ぼうず.
法を 謗じ 人を 謗ず.

なんぞ じごくに だせざらんや」と はし たまい しかば.
何ぞ 地獄に 堕せざらんや」と 破し 給ひ しかば.

とくいちは その ことばに せめられて した やっつに さけて うせ たまいき.
徳一は 其の 語に 責められて 舌 八に さけて うせ 給いき.

みけんしんじつとは にじょうの ためなりと いわば もっとも りを えたり.
未顕真実とは 二乗の 為なりと 云はば 最も 理を 得たり.

その ゆえは にょらい ふきょうの がんしは もとより にじょうの ためなり.
其の 故は 如来布教の 元旨は 元より 二乗の 為なり.

いちだいの けぎ さんしゅうの ぜんぎょう しかしながら にじょうを しょういと したまえり.
一代の 化儀 三周の 善巧 併ら 二乗を 正意と し給へり.

されば けごんきょうには じごくの しゅじょうは ほとけに なるとも にじょうは ほとけに なる べからずと きらい.
されば 華厳経には 地獄の 衆生は 仏に なるとも 二乗は 仏になる べからずと 嫌い.

ほうとうには こうほうに はすの おいざるように にじょうは ほとけの たねを いりたりと いわれ.
方等には 高峯に 蓮の 生ざるように 二乗は 仏の 種を いりたりと 云はれ.

はんにゃには ごぎゃくざいの ものは ほとけに なるべし.
般若には 五逆罪の 者は 仏に なるべし.

にじょうは かなう べからずと すてらる.
二乗は 叶う べからずと 捨てらる.

かかる あさましき すてものの ほとけに なるを もって にょらいの ほんいとし ほけきょうの きぼとす.
かかる あさましき 捨者の 仏に なるを 以て 如来の 本意とし 法華経の 規模とす.

これに よって てんだいの いわく 「けごん だいぼんも これを じする こと あたわず.
之に 依つて 天台の 云く「華厳 大品も 之を 治する こと 能わず.

ただ ほっけ のみ ありて よく むがくをして かえって ぜんこんを しょうじ.
唯 法華 のみ 有りて 能く 無学をして 還つて 善根を 生じ.

ぶつどうを じょうずる ことを えせしむ ゆえに みょうと しょうす.
仏道を 成ずる ことを 得せしむ 所以に 妙と 称す.

また せんだいは こころ あり なお さぶつ すべし.
又 闡提は 心 有り 猶 作仏す 可し.

にじょうは ちを めっす こころ しょうず べからず ほっけ よく じす.
二乗は 智を 滅す 心 生ず 可からず 法華 能く 治す.

また しょうして みょうと なす」と うんぬん.
復 称して 妙と 為す」と 云云.

この もんの こころは くわしく もうすに およばず.
此の 文の 心は 委く 申すに 及ばず.

まさに しんぬ けごん ほうどう だいぼん とうの ほうやくもにじょうの じゅうびょうをば いやさず.
誠に 知んぬ 華厳 方等 大品 等の 法薬も 二乗の 重病をば いやさず.

また さんあくどうの ざいにんをも ぼさつぞと にぜんの きょうには ゆるせども にじょうをば ゆるさず.
又 三悪道の 罪人をも 菩薩ぞと 爾前の 経には ゆるせども 二乗をば ゆるさず.

これに よって みょうらくだいしは 「よしゅを じつに えする こと.
之に 依つて 妙楽大師は「 余趣を 実に 会する こと.

しょきょうに あるいは あれども にじょうは まったく なし.
諸経に 或は 有れども 二乗は 全く 無し.

ゆえに ぼさつに がっして にじょうに たいし がたきに したがって とく」と しゃくし たまえり.
故に 菩薩に 合して 二乗に 対し 難きに 従つて 説く」と 釈し 給えり.

しか のみならず にじょうの さぶつは いっさいしゅじょうの じょうぶつを あらわすと てんだいは はんじ たまえり.
しか のみならず 二乗の 作仏は 一切衆生の 成仏を 顕すと 天台は 判じ 給へり.

しゅらが たいかいを わたらんをば これ かたしとや せん.
修羅が 大海を 渡らんをば 是れ 難しとや せん.

おさなごの りきしを なげん なんぞ たやすしと せん.
嬰児の 力士を 投ん 何ぞ たやすしと せん.

しからば すなわち ぶっしょうの たね あるものは ほとけに なるべしと.
然らば 則ち 仏性の 種 あるものは 仏に なるべしと.

にぜんにも とけども いまだ しょうしゅの もの さぶつ すべしとは とかず.
爾前にも 説けども 未だ 焦種の 者 作仏 すべしとは 説かず.

かかる じゅうびょうを たやすく いやすは ひとり ほっけの りょうやく なり.
かかる 重病を たやすく いやすは 独り 法華の 良薬 なり.

ただ すべからく なんじ ほとけに ならんと おもわば まんの はたほこを たおし.
只 須く 汝 仏に ならんと 思はば 慢の はたほこを たをし.

いかりの つえを すてて へんに いちじょうに きすべし.
忿りの 杖を すてて 偏に 一乗に 帰すべし.

みょうもんみょうりは こんじょうの かざり がまんへんしゅうは ごしょうの ほだし なり.
名聞名利は 今生の かざり 我慢偏執は 後生の ほだし なり.

ああ はずべし はずべし.
嗚呼 恥づべし 恥づべし.

おそるべし おそるべし.
恐るべし 恐るべし.

とうて いわく ひとつを もって まんを さっする こと なれば.
問うて 云く 一を 以て 万を 察する 事 なれば.

あらあら ほっけの いわれを きくに じもく はじめて あきらかなり.
あらあら 法華の いわれを 聞くに 耳目 始めて 明かなり.

ただし ほけきょうをば いかように こころえ そうろうてか.
但し 法華経をば いかように 心得 候てか.

すみやかに ぼだいの きしに いたるべきや.
速に 菩提の 岸に 到るべきや.

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つたえきく いちねん3000の だいこには えにち くもる ことなく.
伝え聞く 一念三千の 大虚には 慧日 くもる 事なく.

いっしんさんかんの こうちには ちすい にごること なき ひと こそ.
一心三観の 広池には 智水 にごる事 なき 人 こそ.

その しゅぎょうに たえたる きにて そうろうなれ.
其の 修行に 堪えたる 機にて 候なれ.

しかるに なんとの しゅうがくに ひじを くたす こと なかり しかば.
然るに 南都の 修学に 臂を くたす 事 なかり しかば.

ゆがゆいしきにも くらし ほくれいの がくもんに まなこを さらさざり しかば.
瑜伽唯識にも くらし 北嶺の 学文に 眼を さらさざり しかば.

しかんげんぎにも まよえり.
止観玄義にも 迷へり.

てんだい ほっそうの りょうしゅうは ほとぎを こうむりて かべに むかえるが ごとし.
天台 法相の 両宗は ほとぎを 蒙りて 壁に 向へるが 如し.

されば ほっけの きには すでに もれて そうろうにこそ いかんがし そうろうべき.
されば 法華の 機には 既に もれて 候にこそ 何んがし 候べき.

こたえて いわく りち しょうじんにして かんぽう しゅぎょうする のみ.
答えて 云く 利智 精進にして 観法 修行する のみ.

ほっけの きぞと いって むちの ひとを さまたぐるは とうせいの がくしゃの しょぎょう なり.
法華の 機ぞと 云つて 無智の 人を 妨ぐるは 当世の 学者の 所行 なり.

これ かえって ぐちじゃけんの いたりなり.
是れ 還つて 愚癡邪見の 至りなり.

いっさいしゅじょう かいじょうぶつどうの きょう なれば.
一切衆生 皆成仏道の 教 なれば.

じょうこん じょうきは かんねん かんぽうも しかるべし.
上根 上機は 観念 観法も 然るべし.

げこん げきは ただ しんじん かんよう なり.
下根 下機は 唯 信心 肝要 なり.

されば きょうには 「じょうしんに しんきょうして ぎわくを しょうぜざらん ものは.
されば 経には 「浄心に 信敬して 疑惑を 生ぜざらん 者は.

じごく がき ちくしょうに おちずして じっぽうの ぶつぜんに しょうぜん」 と とき たまえり.
地獄 餓鬼 畜生に 堕ちずして 十方の 仏前に 生ぜん」と 説き 給へり.

いかにも しんじて つぎの せいの ぶつぜんを きす べきなり.
いかにも 信じて 次の 生の 仏前を 期す べきなり.

たとえば たかき きしの したに ひと ありて のぼる こと あたわらざんに.
譬えば 高き 岸の 下に 人 ありて 登ること あたはざらんに.

また きしの うえに ひと ありて なわを おろして この なわに とりつかば.
又 岸の 上に 人 ありて 繩を おろして 此の 繩に とりつかば.

われ きしの うえに ひき のぼらさんと いわんに.
我れ 岸の 上に 引き 登さんと 云はんに.

ひく ひとの ちからを うたがい なわの よわからん ことを あやぶみて てを おさめて これを とらざらんが ごとし.
引く 人の 力を 疑い 繩の 弱からん 事を あやぶみて 手を 納めて 是を とらざらんが 如し.

いかでか きしの うえに のぼる ことを うべき.
争か 岸の 上に 登る 事を うべき.

もし その ことばに したがいて てを のべ これを とらえば すなわち のぼる ことを うべし.
若し 其の 詞に 随ひて 手を のべ 是を とらへば 即ち 登る 事を うべし.

ゆいがいちにん のういくごの ほとけの おちからを うたがい.
唯我一人 能為救護の 仏の 御力を 疑い.

いしんとくにゅうの ほけきょうの なわを あやぶみて.
以信得入の 法華経の 教への 繩を あやぶみて.

けつじょうむうぎの みょうほうを となえ たてまつらざらんは ちから およばず.
決定無有疑の 妙法を 唱へ 奉らざらんは 力 及ばず.

ぼだいの きしに のぼる こと かたかるべし.
菩提の 岸に 登る 事 難かるべし.

ふしんの ものは だざいないりの こんげん なり.
不信の 者は 堕在泥梨の 根元 なり.

されば きょうには うたがいを しょうじて しんぜざらん ものは すなわち まさに あくどうに おつべし」と とかれたり.
されば 経には 「疑を 生じて 信ぜざらん 者は 則ち 当に 悪道に 堕つべし」と 説かれたり.

うけがたき じんしんを うけ あいがたき ぶっぽうに あいて.
受けがたき 人身を うけ 値いがたき 仏法に あひて.

いかでか むなしくて そうろうべきぞ.
争か 虚くて 候べきぞ.

おなじく しんを とる ならば また だいしょう ごんじつの あるなかに.
同じく 信を 取る ならば 又 大小 権実の ある中に.

しょぶつ しゅっせの ほんい しゅじょうじょうぶつの じきどうのいちじょうを こそ しんずべけれ.
諸仏 出世の 本意 衆生成仏の 直道の 一乗を こそ 信ずべけれ.

たもつ ところの おんきょうの しょきょうに すぐれて ましませば.
持つ 処の 御経の 諸経に 勝れて ましませば.

よく たもつ ひとも また しょにんに まされり.
能く 持つ 人も 亦 諸人に まされり.

ここを もって きょうに いわく.
爰を 以て 経に 云く.

「よく この きょうを たもつ ものは いっさいしゅじょうの なかに おいて また これ だいいち なり」と とき たまえり.
「能く 是の 経を 持つ 者は 一切衆生の 中に 於て 亦 為 第一 なり」と 説き 給へり.

だいしょうの きんげん うたがい なし.
大聖の 金言 疑ひ なし.

しかるに ひと この ことわりを しらず みずして.
然るに 人 此の 理を しらず 見ずして.

みょうもん こぎ へんしゅうを いたせるは だごくの もとい なり.
名聞 狐疑 偏執を 致せるは 堕獄の 基 なり.

ただ ねがわくは きょうを たもち なを じっぽうの ぶっだの がんかいに ながし.
只 願くは 経を 持ち 名を 十方の 仏陀の 願海に 流し.

ほまれを さんぜの ぼさつの じてんに ほどこすべし.
誉れを 三世の 菩薩の 慈天に 施すべし.

しかれば ほけきょうを たもち たてまつる ひとは てんりゅう はちぶ しょだいぼさつを もって.
然れば 法華経を 持ち奉る 人は 天竜 八部 諸大菩薩を 以て.

わが けんぞくとば いかように こころえ そうろうてか.
我が 眷属とば いかように 心得 候てか .

すみやかに ぼだいの きしに いたるべしや.
速に 菩提の 岸に 到るべきや.

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しかのみならず いんしんの にくだんに かまんの ぶつげんを そなえ.
しかのみならず 因身の 肉団に 果満の 仏眼を 備へ.

ういの ぽんふに むいの しょうえを ちゃくしぬれば さんずに おそれなく はちなんに はばかり なし.
有為の 凡膚に 無為の 聖衣を 著ぬれば 三途に 恐れなく 八難に 憚り なし.

しちほうべんの やまの いただきに のぼりて きゅうほうかいの くもを はらい.
七方便の 山の 頂に 登りて 九法界の 雲を 払ひ.

むくじの そのに はな ひらけ ほっしょうの そらに つき あきらか ならん.
無垢地の 園に 花開け 法性の 空に 月 明か ならん.

ぜにんおぶつどう けつじょうむうぎの もん たのみ あり.
是人於仏道 決定無有疑の 文 憑 あり.

ゆいがいちにん のういくごの せつ うたがい なし.
唯我一人 能為救護の 説 疑ひ なし.

いちねんしんげの くどくは 5はらみつの ぎょうに こえ.
一念信解の 功徳は 五波羅蜜の 行に 越へ.

50てんでんの ずいきは 80ねんの ふせに まされたり.
五十展転の 随喜は 八十年の 布施に 勝れたり.

とんしょうぼだいの おしえは はるかに ぐんてんに ひいで.
頓証菩提の 教は 遙に 群典に 秀で.

けんぽんおんじゅの せつは ながく しょじょうに たえたり.
顕本遠寿の 説は 永く 諸乗に 絶えたり.

ここを もって はっさいの りゅうにょは たいかい より きたって きょうりきを せつなに しめし.
爰を 以て 八歳の 竜女は 大海 より 来つて 経力を 刹那に 示し.

ほんげの じょうぎょうは だいち より ゆじゅつして ぶつじゅを くおんに あらわす.
本化の 上行は 大地 より 涌出して 仏寿を 久遠に 顕す.

ごんごどうだんの きょうおう しんぎょうしょめつの みょうほう なり.
言語道断の 経王 心行所滅の 妙法 なり.

しかるに この ことわりを いるかせにして よきょうに ひとしむるは.
然るに 此の 理を いるかせにして 余経に ひとしむるは.

ほうぼうの いたり たいざいの しごく なり.
謗法の 至り 大罪の 至極 なり.

たとえを とるに ものなし.
譬を 取るに 物なし.

ほとけの じんぺんにても なんぞ これを とき つくさん.
仏の 神変にても 何ぞ 是を 説き 尽さん.

ぼさつの ちりょくにても いかでか これを はかるべし.
菩薩の 智力にても 争か 是を 量るべき.

されば ひゆほんに いわく.
されば 譬喩品に 云く.

「もし その つみを とかば こうを きわむとも つきず」と いえり.
「若し 其の 罪を 説かば 劫を 窮むとも 尽きず」と 云へり.

もんの こころは ほけきょうを いちども そむける ひとの つみをば.
文の 心は 法華経を 一度も そむける 人の 罪をば.

こうを きわむとも とき つくしがたしと みえたり.
劫を 窮むとも 説き 尽し難しと 見えたり.

しかる あいだ さんぜの しょぶつの けどうにも もれ ごうがのにょらいの ほうもんにも すてられ.
然る 間 三世の 諸仏の 化導にも もれ 恒沙の 如来の 法門にも 捨てられ.

くらき より くらきに いって あびだいじょうの くげん いかでか まぬがれん.
冥き より 冥きに 入つて 阿鼻大城の 苦患 争か 免れん.

だれか こころ あらん ひと ちょうこうの かなしみを おそれ ざらんや.
誰か 心 あらん 人 長劫の 悲みを 恐れ ざらんや.

ここを もって きょうに いわく「きょうを どくじゅし しょじ すること.
爰を 以て 経に 云く 「経を 読誦し 書持 すること.

あらん ものを みて きょうせんぞうしつして けっこんを いだかん.
有らん 者を 見て 軽賤憎嫉して 結恨を 懐かん.

その ひと みょうじゅうして あびごくに いらん」と うんぬん.
其の 人 命終して 阿鼻獄に 入らん」と 云云.

もんの こころは ほけきょうを よみ たもたん ものを みて.
文の 心は 法華経を よみ たもたん 者を 見て.

かろしめ いやしみ にくみ そねみ うらみを むすばん.
かろしめ いやしみ にくみ そねみ うらみを むすばん.

その ひとは いのち おわりて あびだいじょうに いらんと いえり.
其の 人は 命を はりて 阿鼻大城に 入らんと 云へり.

だいしょうの きんげん だれか これを おそれ ざらんや.
大聖の 金言 誰か 是を 恐れ ざらんや.

しょうじきしゃほうべんの みょうもん あに これを うたがう べきや.
正直捨方便の 明文 豈 是を 疑う べきや.

しかるに ひと みな きょうもんに そむき よ ことごとく ほうりに まよえり.
然るに 人 皆 経文に 背き 世 悉く 法理に 迷へり.

なんじ なんぞ あくゆうの おしえに したがわんや.
汝 何ぞ 悪友の 教へに 随はんや.

されば じゃしの ほうを しんじ うくるものを なずけて どくをのむ ものなりと てんだいは しゃくし たまえり.
されば 邪師の 法を 信じ 受くる 者を 名けて 毒を 飲む 者なりと 天台は 釈し 給へり.

なんじ よく これを つつしむべし これを つつしむべし.
汝 能く 是を 慎むべし 是を 慎むべし.

つらつら せけんを みるに ほうをば とうとしと もうせども.
倩ら 世間を 見るに 法をば 貴しと 申せども.

その ひとをば ばんにん これを にくむ.
其の 人をば 万人 是を 悪む.

なんじ よくよく ほうの みなもとに まよえり.
汝 能く能く 法の 源に 迷へり.

いかにと いうに いっさいの そうもくは ち より しゅっしょう せり.
何にと 云うに 一切の 草木は 地 より 出生 せり.

これを もって おもうに いっさいの ぶっぽうも また ひとに よりて ひろまるべし.
是を 以て 思うに 一切の 仏法も 又 人に よりて 弘まるべし.

これに よって てんだいは ぶっせすら なお ひとを もって ほうを あらわす.
之に 依つて 天台は 仏世すら 猶 人を 以て 法を 顕はす.

まつだい いづくんぞ.
末代 いづくんぞ.

ほうは たっとけれども ひとは いやしと いわんやとこそ しゃくして おわしそうらえ.
法は 貴けれども 人は 賤しと 云はんやとこそ 釈して 御坐候へ.

されば たもたるる ほうだに だいいち ならば もつ ひと したがって だいいち なるべし.
されば 持たるる 法だに 第一 ならば 持つ 人 随つて 第一 なるべし.

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しからば すなわち その ひとを そしるは その ほうを そしるなり.
然らば 則ち 其の 人を 毀るは 其の 法を 毀るなり.

その こを いやしむるは すなわち その おやを いやしむなり.
其の 子を 賤しむるは 即ち 其の 親を 賤しむなり.

ここに しんぬ とうせいの ひとは ことばと こころと すべて あわず.
爰に 知んぬ 当世の 人は 詞と 心と 総て あはず.

こうきょうを もって その おやを うつが ごとし.
孝経を 以て 其の 親を 打つが 如し.

あに みょうの しょうらん はずかしからざらんや.
豈 冥の 照覧 恥かしからざらんや.

じごくの くるしみ おそるべし おそるべし.
地獄の 苦み 恐るべし 恐るべし.

つつしむべし つつしむべし.
慎むべし 慎むべし.

じょうこんに のぞめても ひげ すべからず.
上根に 望めても 卑下 すべからず.

げこんを すてざるは ほんかい なり.
下根を 捨てざるは 本懐 なり.

げこんに のぞめても きょうまん ならざれ.
下根に 望めても キョウ慢 ならざれ.

じょうこんも もるる こと あり.
上根も もるる 事 あり.

こころを いたさざるが ゆえに.
心を いたさざるが 故に.

およそ その さと ゆかし けれども みち たえ えん なきには かよう こころも おろそかに.
凡そ 其の 里 ゆかし けれども 道 たえ 縁 なきには 通ふ 心も をろそかに.

その ひと こいし けれども たのめず.
其の 人 恋し けれども 憑めず.

ちぎらぬには まつ おもいも なおざり なるように.
契らぬには 待つ 思も なをざり なるやうに.

かの げっけい うんかくに すぐれたる りょうぜんじょうどの ゆきやすきにも いまだ ゆかず.
彼の 月卿 雲閣に 勝れたる 霊山浄土の 行きやすきにも 未だ ゆかず.

がそくぜふの にゅうなんの おんすがた み たてまつるべきをも いまだ み たてまつらず.
我即是父の 柔ナンの 御すがた 見 奉るべきをも 未だ 見 奉らず.

これ まことに たもとを くだし むねを こがす なげき ならざらんや.
是れ 誠に 袂をくだし 胸を こがす 歎 ならざらんや.

くれゆく そらの くもの いろ ありあけがたの つきの ひかり までも こころを もよおす おもいなり.
暮行 空の 雲の 色 有明方の 月の 光 までも 心を もよほす 思なり.

ことに ふれ おりに つけても ごせを こころに かけ.
事に ふれ をりに 付けても 後世を 心に かけ.

はるの はな ゆきの あさも これを おもい かぜ さわぎ むらくも まよう.
花の 春 雪の 朝も 是を 思ひ 風 さはぎ 村雲 まよふ.

ゆうべにも わするる ひま なかれ.
夕にも 忘るる 隙 なかれ.

いずる いきは いる いきを またず.
出ずる 息は 入る 息を またず.

いかなる じせつ ありてか まいじさぜんねんの ひがんを わすれ.
何なる 時節 ありてか 毎自作是念の 悲願を 忘れ.

いかなる つきひ ありてか むいちふじょうぶつの おんきょうを たもたざらん.
何なる 月日 ありてか 無一不成仏の 御経を 持たざらん.

きのうが きょうに なり こぞの ことしと なることも.
昨日が 今日に なり 去年の 今年と なる事も.

これ きする ところの よめいには あらざるをや.
是れ 期する 処の 余命には あらざるをや.

すべて すぎにし かたを かぞえて としの つもるをば しると いえども.
総て 過ぎにし 方を かぞへて 年の 積るをば 知ると いへども.

こんぎょうまつに おいて 1にち かたときも だれか いのちの かずに いるべき.
今行末に をいて 一日 片時も 誰か 命の 数に 入るべき.

りんじゅう すでに いまに ありとは しりながら.
臨終 已に 今に ありとは 知りながら.

がまんへんしゅう みょうもんみょうりに じゃくして みょうほうをとなえ たてまつらざらん ことは.
我慢偏執 名聞利養に 著して 妙法を 唱へ 奉らざらん 事は.

こころざしの ほど むげに かいなし.
志の 程 無下に かひなし.

さこそは かいじょうぶつどうの みのりとは いいながら.
さこそは 皆成仏道の 御法とは 云いながら.

この ひと いかでか ぶつどうに ものうからざるべき.
此の 人 争でか 仏道に ものうからざるべき.

いろなき ひとの そでには そぞろに つきの やどる ことかは.
色 なき 人の 袖には そぞろに 月の やどる 事かは.

また いのち すでに いちねんに すぎざれば ほとけは いちねんずいきの くどくと とき たまえり.
又 命 已に 一念に すぎざれば 仏は 一念 随喜の 功徳と 説き 給へり.

もし これ にねん さんねんを ごすと いわば.
若し 是れ 二念 三念を 期すと 云はば.

びょうどうだいえの ほんぜいとんぎょう いちじょうかいじょうぶつの ほうとは いわる べからず.
平等大慧の 本誓頓教 一乗皆成仏の 法とは 云はる べからず.

るふの ときは まっせ ほうめつに および きは ごぎゃく ほうぼうをも おさめたり.
流布の 時は 末世 法滅に 及び 機は 五逆 謗法をも 納めたり.

ゆえに とんしょうぼだいの こころに おきてられて.
故に 頓証菩提の 心に おきてられて.

こぎしゅうちゃくの じゃけんに みを まかする ことなかれ.
狐疑執著の 邪見に 身を 任する 事なかれ.

しょうがい いくばく ならず.
生涯 幾く ならず.

おもえば いちやの かりの やどを わすれて いくばくの みょうりを えん.
思へば 一夜の かりの 宿を 忘れて 幾くの 名利をか 得ん.

また えたりとも これ ゆめの なかの さかえ めずらし からぬ たのしみ なり.
又 得たりとも 是れ 夢の 中の 栄へ 珍しからぬ 楽み なり.

ただ せんぜの ごういんに まかせて いとなむべし.
只 先世の 業因に 任せて 営むべし.

せけんの むじょうを さとらん ことは まなこに さえぎり みみに みてり.
世間の 無常を さとらん 事は 眼に 遮り 耳に みてり.

くもとや なり あめとや なりけん.
雲とや なり 雨とや なりけん.

むかしの ひとは ただ なを のみ きく.
昔の 人は 只 名を のみ きく.

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つゆとや きえ けむりとや のぼりけん いまの ともも また みえず.
露とや 消え 煙とや 登りけん 今の 友も 又 みえず.

われ いつまでか みかさの くもと おもうべき.
我れ いつまでか 三笠の 雲と 思ふべき.

はるの はなの かぜに したがい あきの もみじの しぐれに そまる.
春の 花の 風に 随ひ 秋の 紅葉の 時雨に 染まる.

これ みな ながらえぬ よの なかの ためし なれば.
是れ 皆 ながらへぬ 世の 中の ためし なれば.

ほけきょうには 「よ みな ろうこ ならざる こと すいまつ ほうえんの ごとし」と すすめたり.
法華経には 「世 皆 牢固 ならざる こと 水沫 泡?の 如し」と すすめたり.

「いがりょうしゅじょう とくにゅうむじょうどう」の おんこころの そこ.
「以何令衆生 得入無上道」の 御心の そこ.

じゅんえん ぎゃくえんの おんことのは すでに ほんかい なれば.
順縁 逆縁の 御ことのは 已に 本懐 なれば.

しばらくも たもつ ものも また ほんいに かないぬ.
暫くも 持つ 者も 又 本意に かないぬ.

また ほんいに かなわば ほとけの おんを ほうずる なり.
又 本意に 叶はば 仏の 恩を 報ずる なり.

ひも じんじゅうの きょうもん こころ やすければ ゆいがいちにんの おんくるしみも かつかつ やすみ たもうらん.
悲母 深重の 経文 心 安ければ 唯我一人の 御苦みも かつかつ やすみ 給うらん.

しゃか いちぶつの よろこび たもう のみならず.
釈迦 一仏の 悦び 給う のみならず.

しょぶつ しゅっせの ほんかい なれば じっぽう さんぜの しょぶつも よろこび たもうべし.
諸仏 出世の 本懐 なれば 十方三世の 諸仏も 悦び 給うべし.

「がそくかんき しょぶつやくねん」と とかれ たれば.
「我即歓喜 諸仏亦然」と 説かれ たれば.

ほとけ よろこび たもう のみならず かみも すなわち ずいき したもう なるべし.
仏 悦び 給う のみならず 神も 即ち 随喜 し給う なるべし.

でんぎょうだいし これを こうじ たまい しかば はちまんだいぼさつは むらさきの けさを ふせし.
伝教大師 是を 講じ 給い しかば 八幡大菩薩は 紫の 袈裟を 布施し.

くうやしょうにん これを よみ たまい しかば まつおのだいみょうじんは かんぷうを ふせがせ たもう.
空也上人 是を 読み 給い しかば 松尾の大明神は 寒風を ふせがせ 給う.

されば 「しちなんそくめつ しちふくそくしょう」と いのらんも.
されば 「七難即滅 七福即生」と 祈らんにも.

この おんきょう だい1 なり げんせあんのんと みえたれば なり.
此の 御経 第一 なり 現世安穏と 見えたれば なり.

たこくしんぴつのなん じかいほんぎゃくの なんの ごきとうにも.
他国侵逼の難 自界叛逆の 難の 御祈祷にも.

この みょうてんに すぎたるは なし.
此の 妙典に 過ぎたるは なし.

ひゃくゆじゅんのうちに もろもろのすいげん なからしむべしと とかれたれば なり.
令百由旬内 無諸衰患と 説かれたれば なり.

しかるに とうせの ごきとうは さかさま なり.
然るに 当世の 御祈祷は さかさま なり.

せんだい るふの ごんきょう なり.
先代 流布の 権教 なり.

まつだい るふの さいじょう しんじつの ひほうに あらざるなり.
末代 流布の 最上 真実の 秘法に あらざるなり.

たとえば こぞの こよみを もちい からすを うに つかわんが ごとし.
譬えば 去年の 暦を 用ゐ 烏を 鵜に つかはんが 如し.

これ ひとえに ごんきょうの じゃしを たっとんで いまだ じっきょうの みょうしに あわせ たまわざる ゆえなり.
是れ 偏に 権教の 邪師を 貴んで 未だ 実教の 明師に 値わせ 給はざる 故なり.

くやしいかな ぶんぶの べんかが あらたま いずくにか おさめけん.
惜いかな 文武の 卞和が あら玉 何くにか 納めけん.

うれしいかな しゃくそん しゅっせの もとどりの なかの みょうじゅ こんど わがみに えたる ことよ.
嬉いかな 釈尊 出世の 髻の 中の 明珠 今度 我身に 得たる 事よ.

じっぽう しょぶつの しょうせい として いるがせ ならず.
十方 諸仏の 証誠 として いるがせ ならず.

さこそは 「いっさいせけん たおんなんしん」と しりながら.
さこそは 「一切世間 多怨難信」と 知りながら.

いかでか いちぶんの ぎしんを のこして けつじょうむうぎの ほとけに ならざんや.
争か 一分の 疑心を 残して 決定無有疑の 仏に ならざらんや.

かこおんのんの くるしみは いたずらに のみこそ うけこしか などか.
過去遠遠の 苦みは 徒らに のみこそ うけこしか などか.

しばらく ふへんじょうじゅうの みょういんを うえざらん.
暫く 不変常住の 妙因を うへざらん.

みらい えいえいの たのしみは かつかつ こころを やしなうとも.
未来 永永の 楽みは かつかつ 心を 養ふとも .

しいて あながちに でんこう ちょうろの みょうりをば むさぼる べからず.
しゐて あながちに 電光朝露の 名利をば 貪る べからず.

「さんがいは やすきことなし なお かたくの ごとし」は にょらいの おしえ.
「三界無安 猶如火宅」は 如来の 教へ.

「しょいしょほう にょげんにょか」は ぼさつの ことば なり.
「所以諸法 如幻如化」は 菩薩の 詞 なり.

じゃっこうの みやこ ならずは いずくも みな く なるべし.
寂光の 都 ならずは 何くも 皆 苦 なるべし.

ほんがくの すみかを はなれて なにごとか たのしみ なるべき.
本覚の 栖を 離れて 何事か 楽み なるべき.

ねがわくは 「げんせあんのん ごしょうぜんしょ」の みょうほうを たもつ のみこそ.
願くは 「現世安穏 後生善処」の 妙法を 持つ のみこそ.

ただ こんじょうの みょうもん ごせの ろういん なるべけれ.
只 今生の 名聞 後世の 弄引 なるべけれ.

すべからく こころを いつにして なんみょうほうれんげきょうと.
須く 心を 一にして 南無妙法蓮華経と.

われも となえ たをも すすめん のみこそ こんじょう にんかいの おもいで なるべき.
我も 唱へ 他をも 勧ん のみこそ 今生 人界の 思出 なるべき.

なんみょうほうれんげきょう なんみょうほうれんげきょう.
南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経.

にちれん かおう.
日蓮 花押.

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