b474から486.
聖愚問答抄 上 (しょうぐもんどうしょう じょう).
日蓮大聖人 44歳 御作.

 

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しょうぐもんどうしょう じょう.
聖愚問答抄 上.

ぶんえい 2ねん 44さい おんさく.
文永 二年 四十四歳 御作.

それ せいを うけし より しを まぬがれざる ことわりは.
夫れ 生を 受けし より 死を 免れざる 理りは.

かしこき みかど より いやしき たみに いたるまで ひとごとに これを しると いえども.
賢き 御門 より 卑き 民に 至るまで 人ごとに 是を 知ると いへども.

じつに これを だいじとし これを なげくもの 1000まんにんに ひとりも ありがたし.
実に 是を 大事とし 是を 歎く 者 千万人に 一人も 有がたし.

むじょうの げんき するを みては うときをば おそれ したしきをば なげくと いえども.
無常の 現起 するを 見ては 疎きをば 恐れ 親きをば 歎くと いへども.

さきだつは はかなく とどまるは かしこき ように おもいて.
先立つは はかなく 留るは かしこき やうに 思いて.

さくじつは かの わざ きょうは この こととて いたずらに せけんの5よくに ほだされて.
昨日は 彼の わざ 今日は 此の 事とて 徒らに 世間の 五慾に ほだされて.

しらこまの かげ すぎやすく ひつじの あゆみ ちかずく ことを しらずして.
白駒の かげ 過ぎやすく 羊の 歩み 近づく 事を しらずして.

むなしく いしょくの ごくに つながれ いたずらに みょうりの あなに おち.
空しく 衣食の 獄に つながれ 徒らに 名利の 穴に をち.

さんずの きゅうりに かえり 6どうの ちまたに りんねせん こと.
三途の 旧里に 帰り 六道の ちまたに 輪回せん 事.

こころ あらん ひと だれか なげかざらん だれか かなしまざらん.
心 有らん 人 誰か 歎かざらん 誰か 悲しまざらん.

ああ ろうしょうふじょうは しゃばの ならい.
嗚呼 老少不定は 娑婆の 習ひ.

えしゃじょうりは うきよの ことわり なれば はじめて おどろくべきに あらねども.
会者定離は 浮世の ことはり なれば 始めて 驚くべきに あらねども.

しょうかの はじめ よを はようせし ひとの ありさまを みるに.
正嘉の 初め 世を 早うせし 人の ありさまを 見るに.

あるいは おさなごを ふりすて あるいは おいたる おやを とどめおき.
或は 幼き 子を ふりすて 或は 老いたる 親を 留めをき.

いまだ そうねんの よわいにて よみじの たびに おもむく.
いまだ 壮年の 齢にて 黄泉の 旅に 趣く.

こころの なか さこそ かなしかるらめ.
心の 中 さこそ 悲しかるらめ.

いくも かなしみ とどまるも かなしむ.
行くも かなしみ 留るも かなしむ.

かの そおうが しんにょに ともないし なさけを いっぺんの あさの くもに のこし.
彼 楚王が 神女に 伴いし 情を 一片の 朝の 雲に 残し.

りゅうしが せんきゃくに あいし おもいを しちせの こういんに なぐさむ.
劉氏が 仙客に 値し 思いを 七世の 後胤に 慰む.

よが ごとき もの なにに よって うれいを やすめん.
予が 如き 者 底に 縁つて 愁いを 休めん.

かかる やまがつの いやしき こころ なれば みには おもいの なかれかしと いいけん.
かかる 山左の いやしき 心 なれば 身には 思の なかれかしと 云いけん.

ひとの ふるごとさえ おもいで でられて すえの よの わすれがたみにも とて.
人の 古事さへ 思い出 でられて 末の 代の わすれがたみにも とて.

なにわの もしほぐさを かきあつめ みずくきの あとを かたちの ごとく しるしおく なり.
難波の もしほ草を かきあつめ 水くきの あとを 形の 如く しるしをく なり.

かなしいかな いたましいかな.
悲しいかな 痛しいかな.

われら むし より このかた むみょうの さけに よいて 6どう ししょうに りんねして.
我等 無始 より 已来 無明の 酒に 酔て 六道 四生に 輪回して.

あるときは しょうねつ だいしょうねつの ほのおに むせび.
或時は 焦熱 大焦熱の 炎に むせび.

あるときは ぐれん だいぐれんの こおりに とじられ.
或時は 紅蓮 大紅蓮の 氷に とぢられ.

あるときは がき けかちの かなしみに あいて 500しょうの あいだ いんしょくの なをも きかず.
或時は 餓鬼 飢渇の 悲みに 値いて 五百生の 間 飲食の 名をも 聞かず.

あるときは ちくしょう ざんがいの くるしみを うけて.
或時は 畜生 残害の 苦みを うけて.

ちいさきは おおきなるに のまれ みじかきは ながきに まかる.
小さきは 大きなるに のまれ 短きは 長きに まかる.

これを ざんがいの くと いう.
是を 残害の 苦と 云う.

あるときは しゅら とうじょうの くを うけ.
或時は 修羅 闘諍の 苦を うけ.

あるときは にんげんに うまれて はっくを うく.
或 時は 人間に 生れて 八苦を うく.

しょうろうびょうし あいべつりく おんぞうえく ぐふとっく 5じょうおんく とう なり.
生老病死 愛別離苦 怨憎会苦 求不得苦 五盛陰苦 等 なり.

あるときは てんじょうに うまれて 5すいを うく.
或時は 天上に 生れて 五衰を うく.

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かくの ごとく さんがいの あいだを しゃりんの ごとく まわり.
此くの 如く 三界の 間を 車輪の ごとく 回り.

ふしの なかにも おやの おやたる この こたる ことを さとらず.
父子の 中にも 親の 親たる 子の 子たる 事を さとらず.

ふうふの あいあえるも あいあえたる ことを しらず.
夫婦の 会遇るも 会遇たる 事を しらず.

まよえる ことは ようもくに ひとしく くらき ことは ろうがんに おなじ.
迷へる 事は 羊目に 等しく 暗き 事は 狼眼に 同じ.

われを うみたる ははの ゆらいをも しらず.
我を 生たる 母の 由来をも しらず.

せいを うけたる わがみも しの おわりを しらず.
生を 受けたる 我が 身も 死の 終りを しらず.

ああ うけがたき にんかいの せいを うけ あいがたき にょらいの しょうきょうに あい たてまつれり.
嗚呼 受け難き 人界の 生を うけ 値い 難き 如来の 聖教に 値い 奉れり.

いちげんの かめの うきぎの あなに あえるが ごとし.
一眼の 亀の 浮木の 穴に あへるが ごとし.

こんど もし しょうじの きずな をきらず.
今度 若し 生死の きづなを きらず.

さんがいの ろうはんを いでざらん こと かなしかるべし かなしかるべし.
三界の 籠樊を 出でざらん 事 かなしかるべし かなしかるべし.

ここに ある ちじん きたりて しめして いわく.
爰に 或る 智人 来りて 示して 云く.

なんじが なげく ところ じつに しかなり.
汝が 歎く 所 実に 爾なり.

かくの ごとく むじょうの ことわりを おもいしり ぜんしんを ほっすものは りんかく よりも まれなり.
此くの 如く 無常の ことはりを 思い知り 善心を 発す 者は 麟角 よりも 希なり.

この ことわりを さとらずして あくしんを ほっす ものは ぎゅうもう よりも おおし.
此の ことはりを 覚らずして 悪心を 発す 者は 牛毛 よりも 多し.

なんじ はやく しょうじを のがれ ぼだいしんを おこさんと おもわばわれ さいだいいちの ほうを しれり.
汝 早く 生死を 離れ 菩提心を 発さんと 思はば 吾 最第一の 法を 知れり.

こころざし あらば なんじが ために これを といて きかしめん.
志 あらば 汝が 為に 之を 説いて 聞かしめん.

そのとき ぐにん ざ より たって たなごころを あわせて いわく.
其の時 愚人 座 より 起つて 掌を 合せて 云く.

われは ひごろ げてんを がくし ふうげつに こころを よせて いまだぶっきょうと いうことを いさいに しらず.
我は 日来 外典を 学し 風月に 心を よせて いまだ 仏教と 云う 事を 委細に しらず.

ねがわくば しょうにん わが ために これを とき たまえ.
願くば 上人 我が 為に 是を 説き 給へ.

そのとき しょうにんの いわく.
其の時 上人の 云く.

なんじ みみを れいりんが みみに よせ.
汝 耳を 伶倫が 耳に 寄せ.

めを りしゅが まなこに かつて こころを しずめて わが おしえを きけ.
目を 離朱が 眼に かつて 心を しづめて 我が 教を きけ.

なんじが ために これを とかん.
汝が 為に 之を 説かん.

それ ぶっきょうは 8まんの しょうきょう おおけれども しょしゅうのふぼ たること かいりつには しかず.
夫れ 仏教は 八万の 聖教 多けれども 諸宗の 父母 たる事 戒律には しかず.

されば てんじくには せしん めみょう とうの さった.
されば 天竺には 世親 馬鳴 等の 薩タ.

とうどには えこう どうせんと いいし ひと これを おもんず.
唐土には 慧曠 道宣と 云いし 人 是を 重んず.

わが ちょうには にんのう 45だい しょうむてんのうの ぎょうに.
我が 朝には 人皇 四十五代 聖武天皇の 御宇に.

がんじんわしょう この しゅうと てんだいしゅうを わたして とうだいじの かいだん これを たつ.
鑒真和尚 此の 宗と 天台宗と 両宗を 渡して 東大寺の 戒壇 之を 立つ.

しかし より このかた とうせいに いたるまで すうちょうとし ふり そんき ひに あらたなり.
爾し より 已来 当世に 至るまで 崇重年 旧り 尊貴 日に 新たなり.

なかんずく ごくらくじの りょうかんしょうにんは かみ いちにん より しも ばんみんに いたるまで.
就中 極楽寺の 良観上人は 上 一人 より 下 万民に 至るまで.

しょうしんの にょらいと これを あおぎ たてまつる.
生身の 如来と 是を 仰ぎ 奉る.

かの ぎょうぎを みるに じつに もって しかなり.
彼の 行儀を 見るに 実に 以て 爾なり.

いいじまの つにて むつらの せきまいを とっては しょこくの みちを つくり.
飯嶋の 津にて 六浦の 関米を 取つては 諸国の 道を 作り.

しちどうに きどを かまえて にんべつの ぜにを とっては しょがに はしを わたす.
七道に 木戸を かまへて 人別の 銭を 取つては 諸河に 橋を 渡す.

じひは にょらいに ひとしく とくぎょうは せんだつに こえたり.
慈悲は 如来に 斉しく 徳行は 先達に 越えたり.

なんじ はやく しょうじを はなれんと おもわば 5かい 250かいを たもち.
汝 早く 生死を 離れんと 思はば 五戒 二百五十戒を 持ち.

じひを ふかくして ものの いのちを ころさずして.
慈悲を ふかくして 物の 命を 殺さずして.

りょうかんしょうにんの ごとく みちを つくり はしを わたせ.
良観上人の 如く 道を 作り 橋を 渡せ.

これ だいいちの ほう なり.
是れ 第一の 法 なり.

なんじ たもたんや いなや.
汝 持たんや 否や.

ぐにん いよいよ たなごころを あわせて いわく.
愚人 弥 掌を 合せて 云く.

よくよく たもち たてまつらんと おもう.
能く能く 持ち 奉らんと 思ふ.

つぶさに わが ために これを とき たまえ.
具に 我が 為に 是を 説き 給へ.

そもそも 5かい 250かいと いう ことは われら いまだ ぞんち せず.
抑 五戒 二百五十戒と 云う 事は 我等 未だ 存知 せず.

いさいに これを しめし たまえ.
委細に 是を 示し 給へ.

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ちじん いわく なんじは むげに おろかなり.
智人 云く 汝は 無下に 愚かなり.

5かい 250かいと いうことをば おさなごも これを しる.
五戒 二百五十戒と 云う事をば 孩児も 是を しる.

しかれども なんじが ために これを とかん.
然れども 汝が 為に 之を 説かん.

5かいとは 1には ふせっしょうかい 2には ふちゅうとうかい.
五戒とは 一には 不殺生戒 二には 不偸盗戒.

3には ふもうごかい 4には ふじゃいんかい 5には ふおんじゅかい これなり.
三には 不妄語戒 四には 不邪淫戒 五には 不飲酒戒 是なり.

250かいの ことは おおきあいだ これを りゃくす.
二百五十戒の 事は 多き 間 之を 略す.

その ときに ぐにん れいはい くぎょうして いわく.
其の 時に 愚人 礼拝 恭敬して 云く.

われ きょう より ふかく この ほうを たもち たてまつるべし.
我 今日 より 深く 此の 法を 持ち 奉るべし.

ここに よが ねんらいの しるひと ある ところに いんきょせる こじ ひとり あり.
爰に 予が 年来の 知音 或 所に 隠居せる 居士 一人 あり.

よが しゅうたんを とむらわん ために きたれるが.
予が 愁歎を 訪わん 為に 来れるが.

はじめには おうじ びょうぼうとして ゆめに にたる ことを かたり.
始には 往事 渺茫として 夢に 似たる 事を かたり.

ついには ぎょうまつの めいめいとして わきまえ がたき ことを だんず.
終には 行末の 冥冥として 弁え 難き 事を 談ず.

うつを さんじ おもいを のべて のち よに とうて いわく.
欝を 散じ 思を のべて 後 予に 問うて 云く.

そもそも ひとの よに ある だれか ごしょうを おもわざらん.
抑 人の 世に 有る 誰か 後生を 思はざらん.

きへん いかなる ぶっぽうをか たもちて しゅつりを ねがい.
貴辺 何なる 仏法をか 持ちて 出離を ねがひ.

また もうじゃの ごせをも とむらい たもうや.
又 亡者の 後世をも 訪い 給うや.

よ こたえて いわく.
予 答えて 云く.

いちにち ある しょうにん きたって わが ために 5かい 250かいを さずけ たまえり.
一日 或る 上人 来つて 我が 為に 五戒 二百五十戒を 授け 給へり.

まことに もって しんかんに そみて たっとし.
実に 以て 心肝に そみて 貴し.

われ ふかく りょうかんしょうにんの ごとく およばぬ みにも わろき みちを つくり.
我 深く 良観上人の 如く 及ばぬ 身にも わろき 道を 作り.

ふかき かわには はしを わたさんと おもえるなり.
深き 河には 橋を わたさんと 思へるなり.

そのとき こじ しめして いわく.
其の時 居士 示して 云く.

なんじが どうしん たっときに にて おろかなり.
汝が 道心 貴きに 似て 愚かなり.

いま だんずる ところの ほうは あさましき しょうじょうの ほう なり.
今 談ずる 処の 法は 浅ましき 小乗の 法 なり.

されば ほとけは すなわち はっしゅの たとえを もうけ.
されば 仏は 則ち 八種の 喩を 設け.

もんじゅは また 17しゅの さべつを のべたり.
文殊は 又 十七種の 差別を 宣べたり.

あるいは ほたるび にっこうの たとえを とり.
或は 螢火 日光の 喩を 取り.

あるいは すいせい るりの たとえ あり.
或は 水精 瑠璃の 喩 あり.

ここを もって 3ごくの にんしも その はぶん ひとつに あらず.
爰を 以て 三国の 人師も 其の 破文 一に 非ず.

つぎに ぎょうじゃの そんちょうの こと かならず ひとの うやまうによって ほうの たっときに あらず.
次に 行者の 尊重の 事 必ず 人の 敬ふに 依つて 法の 貴きに あらず.

されば ほとけは えほうふえにんと さだめ たまえり.
されば 仏は 依法不依人と 定め 給へり.

われ つたえ きく じょうこの じりつの しょうしゃの ふるまいは.
我 伝え 聞く 上古の 持律の 聖者の 振舞は.

さつを いい しゅうを いうには ちじょうの ことば あり.
殺を 言い 収を 言うには 知浄の 語 有り.

ぎょううん かいせつには ししの おもいを なす.
行雲 廻雪には 死屍の 想を 作す.

しかるに いまの りっそうの ふるまいを みるに ふけん ざいほうを たくわえ りせん しゃくしょうを なりわいとす.
而るに 今の 律僧の 振舞を 見るに 布絹 財宝を たくはへ 利銭 借請を 業とす.

きょうぎょう すでに いはい せり.
教行 既に 相違 せり.

だれか これを しんじゅ せん.
誰か 是を 信受 せん.

つぎに みちを つくり はしを わたす こと かえって ひとの なげき なり.
次に 道を 作り 橋を 渡す 事 還つて 人の 歎き なり.

いいじまの つにて むつらの せきまいを とる.
飯嶋の 津にて 六浦の 関米を 取る.

しょにんの ながき これ おおし.
諸人の 歎き 是れ 多し.

しょこく しちどうの きど これも たびびとの わずらい ただ このことに あり.
諸国 七道の 木戸 是も 旅人の わづらい 只 此の事に 在り.

がんぜんの ことなり.
眼前の 事なり.

なんじ みざるや いなや.
汝 見ざるや 否や.

ぐにん いろを なして いわく.
愚人 色を 作して 云く.

なんじが ちぶんを もって しょうにんを ぼうじ たてまつり.
汝が 智分を もつて 上人を 謗じ 奉り.

その ほうを そしる こと いわれ なし.
其の 法を 誹る 事 謂れ 無し.

しって いうか おろかにして いうか おそろし おそろし.
知つて 云うか 愚にして 云うか おそろし おそろし.

その とき こじ わらって いわく ああ おろかなり おろかなり.
其の 時 居士 笑つて 云く 嗚呼 おろかなり おろかなり.

かの しゅうの びゃっけんを あらあら もうすべし.
彼の 宗の 僻見を あらあら 申すべし.

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そもそも おしえに だいしょう あり.
抑 教に 大小 有り.

しゅうに ごんじつを わかてり.
宗に 権実を 分かてり.

ろくおんせしょうの むかしは けじょうの とぼそに みちびくと いえども.
鹿苑施小の 昔は 化城の 戸ぼそに 導くと いへども.

じゅぶかいけんの むしろには その とくやく さらに これなし.
鷲峯開顕の 莚には 其の 得益 更に 之れ無し.

そのとき ぐにん ぼうぜんとして こじに とうて いわく.
其の時 愚人 茫然として 居士に 問うて 云く.

もんしょう げんしょう じつに もって しかなり.
文証 現証 実に 以て 然なり.

さて いかなる ほうを もってか しょうじを はなれ すみやかに じょうぶつ せんや.
さて 何なる 法を 持つてか 生死を 離れ 速に 成仏 せんや.

こじ しめして いわく われ ざいぞくの み なれども ふかく ぶつどうを しゅぎょうして.
居士 示して 云く 我れ 在俗の 身 なれども 深く 仏道を 修行して.

ようしょう より おおくの にんしの ことばを きき ほぼ きょうぎょうをも ひらきみるに.
幼少 より 多くの 人師の 語を 聞き 粗 経教をも 開き見るに.
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まつだい われらが ごとく なる むあくふぞうの ためには ねんぶつ おうじょうの おしえに しくは なし.
末代 我等が 如く なる 無悪不造の ためには 念仏往生の 教に しくは なし.

されば えしんの そうずは 「それ おうじょう ごくらくの きょうぎょうは じょくせ まつだいの もくそく なり」と いい.
されば 慧心の 僧都は 「夫れ 往生極楽の 教行は 濁世 末代の 目足 なり」と 云ひ.

ほうねんしょうにんは しょきょうの ようもんを あつめて いっこう せんしゅうの ねんぶつを ひろめ たもう.
法然上人は 諸経の 要文を 集めて 一向 専修の 念仏を 弘め 給ふ.

なかにも みだの ほんがんは しょぶつ ちょうかの すうちょう なり.
中にも 弥陀の 本願は 諸仏 超過の 崇重 なり.

はじめ むさんあくしゅの がん より おわり とくさんほうにんの がんに いたるまで.
始め 無三悪趣の 願 より 終り 得三法忍の 願に 至るまで.

いずれも ひがん めでたけれども だい18の がん ことに われらが ために しゅしょう なり.
いづれも 悲願 目出けれども 第十八の 願 殊に 我等が 為に 殊勝 なり.

また じゅうあく ごぎゃくをも きらわず.
又 十悪 五逆をも きらはず.

いちねん たねんをも えらばず.
一念 多念をも えらばず.

されば かみ いちにん より しも ばんみんに いたるまで この しゅうを もてなし たもう こと たに ことなり.
されば 上 一人 より 下 万民に 至るまで 此の 宗を もてなし 給う事 他に 異なり.

また おうじょうの ひと それ いくばくぞや.
又 往生の 人 それ 幾ぞや.

その とき ぐにんの いわく じつに しょうを はじて だいを したい.
其の 時 愚人の 云く 実に 小を 恥じて 大を 慕ひ.

あさきを さって ふかきに つくは ぶっぽうの ことわり のみに あらず.
浅を 去て 深に 就は 仏教の 理 のみに 非ず.

せけんにも これ ほう なり.
世間にも 是れ 法 なり.

なんじ はやく かの しゅうに うつらんと おもう.
我 早く 彼の 宗に うつらんと 思ふ.

いさいに かの むねを かたり たまえ.
委細に 彼の 旨を 語り 給へ.

かの ほとけの ひがんの なかに 5ぎゃく 10あくをも えらばずと いえる.
彼の 仏の 悲願の 中に 五逆 十悪をも 簡ばずと 云へる.

5ぎゃくとは なんらぞや 10あくとは いかん.
五逆とは 何等ぞや 十悪とは 如何.

ちじんの いわく 5ぎゃくとは ちちを ころし ははを ころし あらかんを ころし ぶっしんの ちを いだし わごうそうを はす.
智人の 云く 五逆とは 父を 殺し 母を 殺し 阿羅漢を 殺し 仏身の血を 出し 和合僧を 破す.

これを 5ぎゃくと いうなり.
是を 五逆と 云うなり.

10あくとは みに みつ くちに 4 こころに みつ なり.
十悪とは 身に 三 口に 四 意に 三 なり.

みに みつとは さつ とう いん.
身に 三とは 殺 盗 婬.

くちに 4とは もうご きご あっく りょうぜつ.
口に 四とは 妄語 綺語 悪口 両舌.

こころに みつとは とん じん ち.
意に 三とは 貪 瞋 癡.

これを 10あくと いうなり.
是を 十悪と 云うなり.

ぐにん いわく われ いま げしぬ.
愚人 云く 我 今 解しぬ.

きょう よりは たりきおうじょうに たのみを かくべきなり.
今日 よりは 他力往生に 憑を 懸くべきなり.

ここに ぐにん また いわく.
爰に 愚人 又 云く.

もってのほか さかんに いみじき みっしゅうの ぎょうじん あり.
以ての外 盛に いみじき 密宗の 行人 あり.

これも よが なげきを とむらわんが ために らいりんして.
是も 予が 歎きを 訪わんが 為に 来臨して.

はじめには きょうげん きごの ことわりを しめし.
始には 狂言 綺語の ことはりを 示し.

ついには けんみつ 2しゅうの ほうもんを だんじて よに とうて いわく.
終には 顕密 二宗の 法門を 談じて 予に 問うて 云く.

そもそも なんじは いかなる ぶっぽうをか しゅぎょうし いかなる きょうろんをか どくじゅし たてまつるや.
抑 汝は 何なる 仏法をか 修行し 何なる 経論をか 読誦し 奉るや.

よ こたえて いわく われ いちにち ある こじの きょうに よって じょうどの 3ぶきょうを よみ たてまつり.
予 答えて 云く 我 一日 或る 居士の 教に 依つて 浄土の 三部経を 読み 奉り.

さいほう ごくらくの きょうしゅに たのみを ふかく かくるなり.
西方 極楽の 教主に 憑を 深く 懸くるなり.

ぎょうじゃに わく ぶっきょうに 2しゅ あり.
行者の 云く 仏教に 二種 有り.

1には けんきょう 2には みっきょう なり.
一には 顕教 二には 密教 なり.

けんきょうの ごくりは みっきょうの しょもんにも およばずと うんぬん.
顕教の 極理は 密教の 初門にも 及ばずと 云云.

なんじが しゅうしんの ほうを きけば しゃかの けんきょう なり.
汝が 執心の 法を 聞けば 釈迦の 顕教 なり.

わが しょじの ほうは だいにちかくおうの ひほう なり.
我が 所持の 法は 大日覚王の 秘法 なり.

じつに さんがいの かたくを おそれ じゃっこうの ほうだいを ねがわば.
実に 三界の 火宅を 恐れ 寂光の 宝台を 願はば.

すべからく けんきょうを すてて みっきょうに つくべし.
須く 顕教を 捨てて 密教に つくべし.

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ぐにん おどろいて いわく.
愚人 驚いて 云く.

われ いまだ けんみつ にどうと いうことを きかず.
我 いまだ 顕密 二道と 云う事を 聞かず.

いかなるを けんきょうと いい いかなるを みっきょうと いえるや.
何なるを 顕教と 云ひ 何なるを 密教と 云へるや.

ぎょうじゃの いわく よは これ がんぐにして あえて けんを そんせず.
行者の 云く 予は 是れ 頑愚にして 敢て 賢を 存ぜず.

しかりと いえども いま 1 2の もんを あげて なんじが もうまいを かかげん.
然りと 雖も 今 一 二の 文を 挙げて 汝が 矇昧を 挑げん.

けんきょうとは しゃりほつ とうの しょうに よって おうじんにょらいのとき たもう しょきょう なり.
顕教とは 舎利弗 等の 請に 依つて 応身如来の 説き 給う 諸教 なり.

みっきょうとは じじゅほうらくの ために ほうしん だいにちにょらいのこんごうさったを しょけとして.
密教とは 自受法楽の 為に 法身 大日如来の 金剛薩タを 所化として.

とき たもう ところの だいにちきょう とうの さんぶ なり.
説き 給う 処の 大日経 等の 三部 なり.

ぐにんの いわく じつに もって しかなり.
愚人の 云く 実に 以て 然なり.

せんぴを ひるがえして かしこき きょうに つき たてまつらんと おもうなり.
先非を ひるがへして 賢き 教に 付き 奉らんと 思うなり.

また ここに うきくさの ごとく しょしゅうを まわり よもぎの ごとく けんけんに てんずる.
又 爰に 萍の ごとく 諸州を 回り 蓬の ごとく 県県に 転ずる.

ひにんの それとも しらず きたり もんの はしらに よりたちて ほくそえみ かたる ことなし.
非人の それとも 知らず 来り 門の 柱に 寄り立ちて 含笑 語る 事なし.

あやしみを なして これを とうに はじめには いう ことなし.
あやしみを なして 是を 問うに 始めには 云う 事なし.

のちに しいて といを たつる とき かれが いわく.
後に 強て 問を 立つる 時 彼が 云く.

つき そうそうとして かぜ ぼうぼうたりと なりかたち つねに ことに ごんごまた つうぜず.
月 蒼蒼として 風 忙忙たりと 形質 常に 異に 言語 又 通ぜず.

その しごくを たずぬれば とうせいの ぜんぽう これなり.
其の 至極を 尋れば 当世の 禅法 是なり.

よ かの ひとの ありさまを み その げんごを ききて ぶつどうの りょういんを とう とき.
予 彼の 人の 有様を 見 其の 言語を 聞きて 仏道の 良因を 問う 時.

ひにんの いわく しゅたらの おしえは つきを さす ゆび.
非人の 云く 修多羅の 教は 月を さす 指.

きょうもうは これ ごんごに とどこおる もうじ なり.
教網は 是れ 言語に とどこほる 妄事 なり.

わが こころの ほんぶんに おちつかんと いでたつ ほうは その なをぜんと いうなり.
我が 心の 本分に おちつかんと 出立 法は 其の 名を 禅と 云うなり.

ぐにん いわく ねがわくは われ きかんと おもう.
愚人 云く 願くは 我 聞んと 思ふ.

ひにんの いわく じつに その こころざし ふかくば かべに むかい.
非人の 云く 実に 其の 志 深くば 壁に 向い.

ざぜんして ほんしんの つきを すましめよ.
坐禅して 本心の 月を 澄ましめよ.

ここを もって せいてんには 28そ けい みだれず.
爰を 以て 西天には 二十八祖 系 乱れず.

とうどには 6その そうでん めいはく なり.
東土には 六祖の 相伝 明白 なり.

なんじ これを さとらずして きょうもうに かかる.
汝 是を 悟らずして 教網に かかる.

ふびん ふびん.
不便 不便.

ぜしんそくぶつ そくしんぜぶつ なれば この みの ほかに さらに なにか ほとけ あらんや.
是心即仏 即心是仏 なれば 此の 身の 外に 更に 何にか 仏 あらんや.

ぐにん この ことばを きいて つくづくと しょほうを かんじ しずかに ぎりを あんじて いわく.
愚人 此の 語を 聞いて つくづくと 諸法を 観じ 閑かに 義理を 案じて 云く.

ぶっきょう ばんさにして りひ あきらめ がたし.
仏教 万差にして 理非 明らめ 難し.

むべ なるかな じょうたいは ひがしに こい ぜんざいは みなみに もとめ.
宜 なるかな 常啼は 東に 請い 善財は 南に 求め.

やくおうは ひじを やき ぎょうぼうは かわを はぐ.
薬王は 臂を 焼き 楽法は 皮を 剥ぐ.

ぜんちしき じつに あいがたし.
善知識 実に 値い難し.

あるいは きょうないと だんじ あるいは きょうげと いう.
或は 教内と 談じ 或は 教外と 云う.

この ことわりを おもうに いまだ えんでいを きわめず.
此の ことはりを 思うに 未だ 淵底を 究めず.

ほっすいに のぞむ ものは しんえんの おもいを いだき.
法水に 臨む 者は 深淵の 思いを 懐き.

にんしを みる やからは はくひょうの こころを なせり.
人師を 見る 族は 薄冰の 心を 成せり.

ここを もって きんげんには えほうふえにんと さだめ.
爰を 以て 金言には 依法不依人と 定め.

また そうじょうどの たとえ あり.
又 爪上土の 譬 あり.

もし ぶっぽうの しんぎを しる ひと あらば たずねて しと すべし.
若し 仏法の 真偽を しる 人 あらば 尋ねて 師と すべし.

もとめて あがむべし.
求めて 崇べし.

それ にんかいに せいを うくるを てんじょうの いとに たとえ.
夫れ 人界に 生を 受くるを 天上の 糸に たとへ.

ぶっぽうの しちょうは うきぎの あなに るいせり.
仏法の 視聴は 浮木の 穴に 類せり.

みを かるくして ほうを おもんずべしと おもうに よって.
身を 軽くして 法を 重んずべしと 思うに 依つて.

しゅうざんに よじ なげきに ひかれて しょじを まわる あしに まかせて.
衆山に 攀 歎きに 引れて 諸寺を 回る 足に 任せて.

ひとつの がんくつに いたるに のちには せいざん ががとして しょうふう じょうらくがじょうを そうし.
一つの 巌窟に 至るに 後には 青山 峨峨として 松風 常楽我浄を 奏し.

まえには へきすい とううとして きし うつ なみ しとくはらみつを とどろかす.
前には 碧水 湯湯として 岸 うつ 波 四徳波羅蜜を 響かす.

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b479

しんやに かいふせる はなも ちゅうどうじっそうの いろを あらわし.
深谷に 開敷せる 花も 中道実相の 色を 顕し.

こうやに ほころぶる うめも かいにょ3000の かおりを そう.
広野に 綻ぶる 梅も 界如三千の 薫を 添ふ.

ごんごどうだん しんぎょうしょ めつせり いいつべし.
言語道断 心行所 滅せり 謂つ可し.

しょうざんの しこうの しょごとも また しらず.
商山の 四皓の 所居とも 又 知らず.

こぶつ きょうぎょうの あと なるか.
古仏 経行の 迹 なるか.

けいうん あしたに たち れいこう ゆうべに げんず.
景雲 朝に 立ち 霊光 夕に 現ず.

ああ こころを もって はかる べからず.
嗚呼 心を 以て 計る べからず.

ことばを もって のぶ べからず.
詞を 以て 宣ぶ べからず.

よ この みぎりに ちんこんと さまよい ほうこうと たち もとおり しいと たたずむ.
予 此の 砌に 沈吟と さまよひ 彷徨と たち もとをり 徙倚と たたずむ.

ここに こつねんとして ひとりの しょうにん ざす.
此処に 忽然として 一の 聖人 坐す.

その ぎょうぎを はいすれば ほっけ どくじゅの こえ ふかく しんかんに そみて.
其の 行儀を 拝すれば 法華 読誦の 声 深く 心肝に 染みて.

かんそうの とぼそを うかがえば げんぎの ゆかに ひじを くだす.
閑ソウの 戸ぼそを 伺へば 玄義の 牀に 臂を くだす.

ここに しょうにん よが ぐほうの こころざしを くみしりて.
爰に 聖人 予が 求法の 志を 酌知て.

ことばを やわらげ よに とうて いわく.
詞を 和げ 予に 問うて 云く.

なんじ なにに よって この しんざんの いわやに いたれるや.
汝 なにに 依つて 此の 深山の 窟に 至れるや.

よ こたえて いわく せいを かろくして ほうを おもく する ものなり.
予 答えて 云く 生を かろくして 法を おもく する 者なり.

しょうにん とうて いわく その ぎょうほう いかん.
聖人 問て 云く 其の 行法 如何.

よ こたえて いわく もとより われは ぞくじんに まじわりて いまだしゅつりを わきまえず.
予 答えて 云く 本より 我は 俗塵に 交りて 未だ 出離を 弁えず.

たまたま ぜんちしきに あいて はじめには りつ.
適 善知識に 値て 始には 律.

つぎに はねんぶつ しんごん ならびに ぜん これらを きくと いえども いまだ しんぎを わきまえず.
次には 念仏 真言 並に 禅 此等を 聞くと いへども 未だ 真偽を 弁えず.

しょうにんが いわく なんじが ことばを きくに じつに もって しかなり.
聖人 云く 汝が 詞を 聞くに 実に 以て 然なり.

みを かろくして ほうを おもく するは せんしょうの おしえ.
身を かろくして 法を おもく するは 先聖の 教へ.

よが そんずる ところなり.
予が 存ずる ところなり.

そもそも かみは ひそうの くもの かみ.
抑 上は 非想の 雲の 上.

しもは ならくの そこまでも せいを うけて しを まぬかるる ものやは ある.
下は 那落の 底までも 生を 受けて 死を まぬかるる 者やは ある.

しかれば げてんの いやしき おしえにも ちょうにこうがん あって せいろに ほこるとも.
然れば 外典の いやしきを しえにも 朝に 紅顔 有つて 世路に 誇るとも.

ゆうべには はっこつと なって こうげんに くちぬと いえり.
夕には 白骨と 為つて 郊原に 朽ちぬと 云へり.

うんじょうに まじわって くもの びんずら あざやかに かいせつ たもとを ひるがえすとも.
雲上に 交つて 雲の びんづら あざやかに 廻雪 たもとを ひるがへすとも.

その たのしみ おもえば ゆめの なかの ゆめ なり.
其の 楽みを おもへば 夢の 中の 夢 なり.

やまの ふもと よもぎが もとは ついの すみか なり.
山の ふもと 蓬が もとは つゐの 栖 なり.

ぎょくの たな にしきの とばりも ごせの みちには なにかせん.
玉の 台 錦の 帳も 後世の 道には なにかせん.

おののこまち そとおりひめが はなの すがたも むじょうの かぜに ちり.
小野の小町 衣通姫が 花の姿も 無常の 風に 散り.

はんかい ちょうりょうが ぶげいに たっせしも ごくそつの じょうを かなしむ.
樊カイ 張良が 武芸に 達せしも 獄卒の 杖を かなしむ.

されば こころ ありし こじんの いわく.
されば 心 ありし 古人の 云く.

あわれ なり とりべの やまの ゆうけむり.
あはれ なり 鳥べの 山の 夕煙.

おくる ひととて とまる べきかは すえの つゆ もとの しずくや.
をくる 人とて とまる べきかは 末の つゆ 本の しづくや.

よの なかの おくれ さきだつ ためし なるらん.
世の 中の をくれ さきだつ ためし なるらん.

せんぼう こうめつの ことわり はじめて おどろくべきに あらず.
先亡 後滅の 理り 始めて 驚くべきに あらず.

ねごうても ねがうべきは ぶつどう もとめても もとむべきは きょうぎょう なり.
願ふても 願ふべきは 仏道 求めても 求むべきは 経教 なり.

そもそも なんじが いうところの ほうもんを きけば あるいは しょうじょう あるいは だいじょう.
抑 汝が 云うところの 法門を きけば 或は 小乗 或は 大乗.

くらいの こうげは しばらく これを おく.
位の 高下は 且らく 之を 置く.

かえって あくどうの ごう たるべし.
還つて 悪道の 業 たるべし.

ここに ぐにん おどろいて いわく.
爰に 愚人 驚いて 云く.

にょらい いちだいの しょうきょうは いずれも しゅじょうを りせんが ためなり.
如来 一代の 聖教は いづれも 衆生を 利せんが 為なり.

はじめ しちしょ はちえの えん より おわり ばつだいがの ぎしき まで.
始め 七処 八会の 筵 より 終り 跋提河の 儀式 まで.

いずれか しゃくそんの しょせつ ならざる.
何れか 釈尊の 所説 ならざる.

たとい いちぶんの しょうれつをば はんずとも なんぞ あくどうの いんと いうべきや.
設ひ 一分の 勝劣をば 判ずとも 何ぞ 悪道の 因と 云べきや.

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b480

しょうにん いわく にょらいいちだいの しょうきょうに ごん あり じつ あり だい あり しょう あり.
聖人 云く 如来一代の 聖教に 権 有り 実 有り 大 有り 小 有り.

また けんみつ 2どう あいわかち その ほん ひとつに あらず.
又 顕密 二道 相分ち 其の 品 一に 非ず.

すべからく その だいとを しめして なんじが まよいを さとらしめん.
須く 其の 大途を 示して 汝が 迷を 悟らしめん.

それ さんがいの きょうしゅ しゃくそんは 19さいにして がやじょうを いでて.
夫れ 三界の 教主 釈尊は 十九歳にして 伽耶城を 出て.

だんとくせんに こもりて なんぎょうくぎょうし.
檀特山に 籠りて 難行苦行し.

30じょうどうの きざみに さんわく とみに はし.
三十成道の 刻に 三惑 頓に 破し.

むみょうの だいや ここに あけしかば すべからく.
無明の 大夜 爰に 明しかば 須く.

ほんがんに まかせて いちじょう みょうほうれんげきょうを のぶべしと いえども.
本願に 任せて 一乗 妙法蓮華経を 宣ぶべしと いへども.

きえん ばんさに して そのき ぶつじょうに たえず.
機縁 万差にして 其の 機 仏乗に 堪えず.

しかれば 40よねんに しょひの きえんを ととのえて のち はっかねんに いたって.
然れば 四十余年に 所被の 機縁を 調へて 後 八箇年に 至つて.

しゅっせの ほんかい たる みょうほうれんげきょうを とき たまえり.
出世の 本懐 たる 妙法蓮華経を 説き 給へり.

しかれば ほとけの おんとし 72さいにして じょぶん むりょうぎきょうに とき さだめて いわく.
然れば 仏の 御年 七十二歳にして 序分 無量義経に 説き 定めて 云く.

「われ さきに どうじょう ぼだいじゅの したに たんざ すること 6ねんにして.
「我 先きに 道場 菩提樹の 下に 端坐 すること 六年にして.

あのくたらさんみゃくさんぼだいを じょうずる ことを えたり.
阿耨多羅三藐三菩提を 成ずる ことを 得たり.

ぶつげんを もって いっさいの しょほうを かんずるに せんぜつ すべからず.
仏眼を 以て 一切の 諸法を 観ずるに 宣説 す可からず.

ゆえんは いかん もろもろの しゅじょうの しょうよく ふどう なるを しれり.
所以は 何ん 諸の 衆生の 性慾 不同 なるを 知れり.

しょうよく ふどう なれば しゅじゅに ほうを とく.
性慾 不同 なれば 種種に 法を 説く.

しゅじゅに ほうを とくこと ほうべんの ちからを もってす.
種種に 法を 説くこと 方便の 力を 以てす.

しじゅうよねんには いまだ しんじつを あらわさず」.
四十余年には 未だ 真実を 顕わさず」.

この もんの こころは ほとけは おんとし 30にして じゃくめつどうじょう ぼだいじゅの したに ざして.
此の 文の 意は 仏の 御年三十にして 寂滅道場 菩提樹の 下に 坐して.

ぶつげんを もって いっさいしゅじょうの しんこんを ごらん ずるに.
仏眼を 以て 一切衆生の 心根を 御覧 ずるに.

しゅじょうじょうぶつの じきどうたる ほけきょうをば とく べからず.
衆生成仏の 直道たる 法華経をば 説く べからず.

これを もって くうけんを あげて みどりごを すかすが ごとく.
是を 以て 空拳を 挙げて 嬰児を すかすが 如く.

さまざまの たばかりを もって しじゅうよねんが あいだは いまだ しんじつを あらわさずと ねんきを さして.
様様の たばかりを 以て 四十余年が 間は いまだ 真実を 顕わさずと 年紀を さして.

せいてんに にちりんの いで あんやに まんげつの かかるが ごとくと とき さだめさせ たまえり.
青天に 日輪の 出で 暗夜に 満月の かかるが 如く 説き 定めさせ 給へり.

この もんを みて なんぞ おなじ しんじんを もって ほとけの そらごとと とかるる.
此の 文を 見て 何ぞ 同じ 信心を 以て 仏の 虚事と 説かるる.

ほっけ いぜんの ごんきょうに しゅうじゃくして めずらしからぬ さんがいの こたくに かえるべきや.
法華已前の 権教に 執著して、めずらしからぬ 三界の 故宅に 帰るべきや.

されば ほけきょうの 1のまき ほうべんぼんに いわく.
されば 法華経の 一の巻 方便品に 云く.

「しょうじきに ほうべんを すて ただ むじょうどうを とく」.
「正直に 方便を 捨て 但 無上道を 説く」.

この もんの こころは ぜん 42ねんの きょうぎょう なんじが かたる ところの.
此の 文の 意は 前 四十二年の 経経 汝が 語る ところの.

ねんぶつ しんごん ぜん りつを しょうじきに すてよと なり.
念仏 真言 禅 律を 正直に 捨てよと なり.

この もん めいはく なる うえ かさねて いましめて だい 2の まき ひゆほんに いわく.
此の 文 明白 なる 上 重ねて いましめて 第二の巻 譬喩品に 云く.

「ただ ねがって だいじょうきょうてんを じゅじし ないし よきょうの いちげをも うけざれ」.
「但 楽つて 大乗経典を 受持し 乃至 余経の 一偈をも 受けざれ」.

この もんの こころは ねんき かれこれ わずらわし.
此の 文の 意は 年紀 かれこれ 煩はし.

しょせん ほけきょう より じよの きょうをば いちげをも うく べからずと なり.
所詮 法華経 より 自余の 経をば 一偈をも 受く べからずと なり.

しかるに はっしゅうの いぎ らんぎくに どう ぞく かたちを ことに すれども.
然るに 八宗の 異義 蘭菊に 道 俗 形ちを 異に すれども.

いちどうに ほけきょうをば あがむる よしを いう.
一同に 法華経をば 崇むる 由を 云う.

されば これらの もんをば いかが わきまえたる.
されば 此等の 文をば いかが 弁へたる.

しょうじきに すてよと いって よきょうの いちげをも いましむるに.
正直に 捨てよと 云つて 余経の 一偈をも 禁むるに.

あるいは ねんぶつ あるいは しんごん あるいは ぜん これ よきょうに あらずや.
或は 念仏 或は 真言 或は 禅 或は 律 是れ 余経に あらずや.

いま この みょうほうれんげきょうとは しょぶつ しゅっせの ほんい しゅじょうじょうぶつの じきどう なり.
今 此の 妙法蓮華経とは 諸仏 出世の 本意 衆生成仏の 直道 なり.

されば しゃくそんは ふぞくを のべ たほうは しょうめいを とげ.
されば 釈尊は 付属を 宣べ 多宝は 証明を 遂げ.

しょぶつは ぜっそうを ぼんてんに つけて かいぜしんじつと のべ たまえり.
諸仏は 舌相を 梵天に 付けて 皆是真実と 宣べ 給へり.

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この きょうは 1じも しょぶつの ほんかい いってんも たしょうの たすけ なり.
此の 経は 一字も 諸仏の 本懐 一点も 多生の 助 なり.

いちごん いちごも こもう あるべからず.
一言 一語も 虚妄 あるべからず.

この きょうの いましめを もちいざる ものは しょぶつの したを きり.
此の 経の 禁を 用いざる 者は 諸仏の 舌を きり.

けんせいを あざむく ひとに あらずや.
賢聖を あざむく 人に 非ずや.

その つみ じつに おそるべし.
其の 罪 実に 怖るべし.

されば 2のまきに いわく.
されば 二の巻に 云く.

「もし ひと しんぜずして この きょうを きぼうせば すなわち いっさいせけんの ぶっしゅを だんず」.
「若し 人 信ぜずして 此の 経を 毀謗せば 則ち 一切世間の 仏種を 断ず」.

この もんの こころは もし ひと この きょうの いちげ いっくをも そむかん ひとは.
此の 文の 意は 若 人 此 経の 一偈 一句をも 背かん 人は.

かこ げんざい みらい さんぜ じっぽうの ほとけを ころさん つみと さだむ.
過去 現在 未来 三世十方の 仏を 殺さん 罪と 定む.

きょうぎょうの かがみを もって とうせいに あてみるに ほけきょうを そむかぬ ひとは じつに もって ありがたし.
経教の 鏡を もつて 当世に あてみるに 法華経を そむかぬ 人は 実に 以て 有りがたし.

ことの こころを あんずるに ふしんの ひと なお むけんを まぬがれず.
事の 心を 案ずるに 不信の 人 尚 無間を 免れず.

いわんや ねんぶつの そし ほうねんしょうにんは ほけきょうを もって ねんぶつに たいして なげうてよと うんぬん.
況や 念仏の 祖師 法然上人は 法華経を もつて 念仏に 対して 抛てよと 云云.

5000 7000の きょうぎょうに いずれの ところにか ほけきょうを なげうてよと いう もん ありや.
五千 七千の 経教に 何れの 処にか 法華経を 抛てよと 云う 文 ありや.

さんまいほっとくの ぎょうじゃ しょうしんの みだぶつと あがむる ぜんどうわしょう.
三昧発得の 行者 生身の 弥陀仏と あがむる 善導和尚.

5しゅの ぞうぎょうを たてて ほけきょうをば せんちゅうむいち とて.
五種の 雑行を 立てて 法華経をば 千中無一 とて.

1000にん たもつとも ひとりも ほとけに なるべからずと たてたり.
千人 持つとも 一人も 仏に なるべからずと 立てたり.

きょうもんには にゃくうもんぽうしゃ むいつふじょうぶつと だんじて.
経文には 若有聞法者 無一不成仏と 談じて.

この きょうを きけば じっかいの えしょう みな ぶつどうを じょうずと みえたり.
此の 経を 聞けば 十界の 依正 皆 仏道を 成ずと 見えたり.

ここを もって 5ぎゃくの ちょうだつは てんのうにょらいの きべつに あずかり.
爰を 以て 五逆の 調達は 天王如来の 記ベツに 予り.

ひき 5しょうの りゅうにょも なんぽうに とんかくじょうどうを となう.
非器 五障の 竜女も 南方に 頓覚成道を 唱ふ.

いわんや また きっこうの 6そくを たてて きを もらす こと なし.
況や 復 キッコウの 六即を 立てて 機を 漏らす 事 なし.

ぜんどうの ことばと ほけきょうの もんと じつに もって てんちうんでい せり.
善導の 言と 法華経の 文と 実に 以て 天地雲泥 せり.

いずれに つくべきや.
何れに 付くべきや.

なかんずく その どうりを おもうに しょぶつ しゅうきょうの おんてき.
就中 其の 道理を 思うに 諸仏 衆経の 怨敵.

しょうそうしゅうにんの しゅうてき なり.
聖僧衆人の 讎敵 なり.

きょうもんの ごとく ならば いかでか むけんを まぬがるべきや.
経文の 如く ならば 争か 無間を 免るべきや.

ここに ぐにん いろを なして いわく.
爰に 愚人 色を 作して 云く.

なんじ いやしき みを もって ほしいままに ゆうげんを はく.
汝 賤き 身を 以て 恣に 莠言を 吐く.

さとって いうか まよって いうか.
悟つて 言うか 迷つて 言うか.

りひ わきまえ がたし.
理非 弁え 難し.

かたじきなくも ぜんどうわしょうは みだぜんぜいの おうけ.
忝なくも 善導和尚は 弥陀善逝の 応化.

あるいは せいしぼさつの けしんと いえり.
或は 勢至菩薩の 化身と 云へり.

ほうねんしょうにんも また しかなり.
法然上人も 亦 然なり.

ぜんどうの こうしんと いえり.
善導の 後身と いへり.

じょうこの せんだつ たる うえ ぎょうとくゆうはつし げりょう そこを きわめたり.
上古の 先達 たる 上 行徳秀発し 解了 底を 極めたり.

なんぞ あくどうに おちたもうと いうや.
何ぞ 悪道に 堕ち 給うと 云うや.

しょうにん いわく なんじが ことば しかなり.
聖人 云く 汝が 言 然なり.

よも あおいで しんを とる こと かくの ごとし.
予も 仰いで 信を 取る こと 此くの 如し.

ただし ぶっぽうは あながちに ひとの きせんには よる べからず.
但し 仏法は 強ちに 人の 貴賤には 依る べからず.

ただ きょうもんを さきと すべし.
只 経文を 先きと すべし.

みの いやしきを もって その ほうを かろんずる ことなかれ.
身の 賤を もつて 其の 法を 軽んずる 事なかれ.

うにんぎょうしょうおし うにんぎょうしおしょうの 12じを となえし びまだいこくの きつねは.
有人楽生悪死 有人楽死悪生の 十二字を 唱へし 毘摩大国の 狐は.

たいしゃくの しと あがめられ しょぎょうむじょうとうの 16じを だんぜし.
帝釈の 師と 崇められ 諸行無常 等の 十六字を 談ぜし.

きじんは せっせんどうじに とうとまる.
鬼神は 雪山童子に 貴まる.

これ かならず きつねと きじんとの たっときに あらず.
是れ 必ず 狐と 鬼神との 貴きに 非ず.

ただ ほうを おもんずる ゆえなり.
只 法を 重んずる 故なり.

されば われらが じふ きょうしゅしゃくそん そうりんさいごの ごゆいごん.
されば 我等が 慈父 教主釈尊 雙林 最後の 御遺言.

ねはんぎょうの だい6には えほうふえにんとて ふげん もんじゅ とうの とうかく いかんの だいさった.
涅槃経の 第六には 依法不依人とて 普賢 文殊 等の 等覚 已還の 大薩タ.

ほうもんを とき たもうとも きょうもんを てに とらずば もちいざれと なり.
法門を 説き 給ふとも 経文を 手に 把らずば 用ゐざれと なり.

→a481

b482

てんだいだいしの いわく 「しゅたらと がっする ものは ろくして これを もちいよ.
天台大師の 云く「修多羅と 合する 者は 録して 之を 用いよ.

もん なく ぎ なきは しんじゅ すべからず」.
文 無く 義 無きは 信受 す可からず」.

しゃくの こころは きょうもんに あきらか ならんを もちいよ.
釈の 意は 経文に 明 ならんを 用いよ.

もんしょう なからんをば すてよと なり.
文証 無からんをば 捨てよと なり.

でんぎょうだいしの いわく「ぶっせつに えひょうして くでんを しんずる ことなかれ」.
伝教大師の 云く「仏説に 依憑して 口伝を 信ずること 莫れ」.

まえの しゃくと どうい なり.
前の 釈と 同意 なり.

りゅうじゅぼさつの いわく「しゅたら びゃくろんに よって しゅたら こくろんに よらざれ」と.
竜樹菩薩の 云く「修多羅 白論に 依つて 修多羅 黒論に 依らざれ」と.

こころは きょうの なかにも ほっけ いぜんの ごんきょうを すてて この きょうに つけよと なり.
意は 経の 中にも 法華 已前の 権教を すてて 此の 経に つけよと なり.

きょうもんにも ろんもんにも ほっけに たいして しょよの きょうてんを すてよと いうこと ふんみょう なり.
経文にも 論文にも 法華に 対して 諸余の 経典を 捨てよと 云う事 分明 なり.

しかるに かいげんの ろくに あぐる ところの 5000 7000の きょうかんに.
然るに 開元の 録に 挙る 所の 五千 七千の 経巻に.

ほけきょうを すてよ ないし なげうてよと きらう ことも.
法華経を 捨てよ 乃至 抛てよと 嫌ふ ことも.

また ぞうぎょうに せっして これを すてよと いう きょうもんも まったく なし.
又 雑行に 摂して 之を 捨てよと 云う 経文も 全く 無し.

されば たしかの きょうもんを かんがえ いだして ぜんどう ほうねんの むけんの くを すくわるべし.
されば 慥の 経文を 勘へ 出して 善導 法然の 無間の 苦を 救はるべし.

こんぜの ねんぶつの ぎょうじゃ ぞくなん ぞくにょ きょうもんに いする のみならず.
今世の 念仏の 行者 俗男 俗女 経文に 違する のみならず.

また しの おしえにも そむけり.
又 師の 教にも 背けり.

5しゅの ぞうぎょうとて ねんぶつ もうさん ひとの すつべき にっきぜんどうの しゃく これあり.
五種の 雑行とて 念仏 申さん 人の すつべき 日記 善導の 釈 之れ有り.

その ぞうぎょうとは せんちゃくに いわく.
其の 雑行とは 選択に 云く.

「だいいちに どくじゅぞうぎょうとは かみの かんきょう とうの おうじょうじょうどの きょうを のぞいて.
「第一に 読誦雑行とは 上の 観経 等の 往生浄土の 経を 除いて.

いげ だいしょう じょうけんみつの しょきょうに おいて じゅじ どくじゅ するを ことごとく どくじゅ ぞうぎょうと なづく.
已外 大小 乗顕密の 諸経に 於て 受持 読誦 するを 悉く 読誦 雑行と 名く.

ないし だい3に らいはいぞうぎょうとは かみの みだを らいはい するを のぞいて.
乃至 第三に 礼拝雑行とは 上の 弥陀を 礼拝 するを 除いて.

いげ いっさい しょよの ぶつ ぼさつ とう.
已外 一切諸余の 仏 菩薩 等.

および もろもろの せてんに おいて らいはい くぎょう するを ことごとく らいはいぞうぎょうと なずく.
及 諸の 世天に 於て 礼拝 恭敬 するを 悉く 礼拝雑行と 名く.

だいよんに しょうみょうぞうぎょうとは かみの みだの みょうごうを しょうするを のぞいて.
第四に 称名雑行とは 上の 弥陀の 名号を 称するを 除いて.

いげ じよの いっさい ほとけ ぼさつ とう および もろもろの せいてん とうの みょうごうを しょうするを ことごとく ぞうぎょうと なずく.
已外 自余の 一切 仏 菩薩 等 及 諸の 世天 等の 名号を 称するを 悉く 称名雑行と 名く.

だい5に さんたんくようぞうぎょうとは かみの みだぶつを のぞいて.
第五に 讃歎供養雑行とは 上の 弥陀仏を 除いて.

いげ いっさいしょよの ぶつ ぼさつ とう および もろもろの せてん とうに おいて.
已外 一切諸余の 仏 菩薩 等 及諸の 世天 等に 於て.

さんたんし くよう するを ことごとく さんたんくようぞうぎょうと なずく」.
讃歎し 供養 するを 悉く 讃歎供養雑行と 名く」.

この しゃくの こころは だいいちの どくじゅぞうぎょうとは ねんぶつ もうさん.
此の 釈の 意は 第一の 読誦雑行とは 念仏 申さん.

どうぞく なんにょ よむべき きょう あり よむまじき きょう ありと さだめたり.
道俗 男女 読むべき 経 あり 読むまじき 経 ありと 定めたり.

よむまじき きょうは ほけきょう にんのうきょう やくしきょう だいしゅうきょう はんにゃしんぎょう てんにょじょうぶつきょう ほくとじゅみょうきょう.
読むまじき 経は 法華経 仁王経 薬師経 大集経 般若心経 転女成仏経 北斗寿命経.

ことさら うちまかせて しょにん よまるる はっかんの なかの かんのんきょう.
ことさら うち任せて 諸人 読まるる 八巻の 中の 観音経.

これらの しょきょうを いっく いちげも よむ ならば.
此等の 諸経を 一句 一偈も 読む ならば.

たとえ ねんぶつを こころざす ぎょうじゃ なりとも ぞうぎょうに せっせられて おうじょう すべからず うんぬん.
たとひ 念仏を 志す 行者 なりとも 雑行に 摂せられて 往生 す可からず 云云.

よ ぐがんを もって よを みるに たとえ ねんぶつ もうす ひと なれども.
予 愚眼を 以て 世を 見るに 設ひ 念仏 申す 人 なれども.

この きょうぎょうを よむ ひとは おおく してい てきたいして しちぎゃくざいと なりぬ.
此の 経経を 読む 人は 多く 師弟 敵対して 七逆罪と なりぬ.

また だい3の らいはいぞうぎょうとは ねんぶつの ぎょうじゃは みださんぞん より ほかは.
又 第三の 礼拝雑行とは 念仏の 行者は 弥陀三尊 より 外は.

かみに あぐる ところの しょぶつ ぼさつ しょてんぜんじんを れいするをば.
上に 挙ぐる 所の 諸仏 菩薩 諸天善神を 礼するをば.

らいはいぞうぎょうと なづけ これを きんず.
礼拝雑行と 名け 又 之を 禁ず.

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b483

しかるを にほんは しんこくとして いざなぎ いざなみのみこと この くにを つくり.
然るを 日本は 神国として 伊奘諾 伊奘册の尊 此の 国を 作り.

てんしょうだいじん あとたれいまして みもすそかわの ながれ ひさしくして いまに たえず.
天照大神 垂迹御坐して 御裳濯河の 流れ 久しくして 今に たえず.

あに この くにに せいを うけて この じゃぎを もちゆべきや.
豈 此の 国に 生を 受けて 此の 邪義を 用ゆべきや.

また ふてんの もとに うまれて さんこうの おんを こうむり ながら.
又 普天の 下に 生れて 三光の 恩を 蒙り ながら.

まことに にちがつ せいしゅくを はする こと もっとも おそれ あり.
誠に 日月 星宿を 破する 事 尤も 恐れ 有り.

また だい4の しょうみょうぞうぎょうとは ねんぶつ もうさん ひとはとなうべき ぶつ ぼさつの な あり.
又 第四の 称名雑行とは 念仏 申さん 人は 唱うべき 仏 菩薩の 名あり.

とまえ まじき ぶつ ぼさつの な あり.
唱え まじき 仏 菩薩の 名 あり.

となうべき ぶつ ぼさつの な とは みださんぞんの みょうごう.
唱うべき 仏 菩薩の 名とは 弥陀 三尊の 名号.

となう まじき ぶつ ぼさつの みょうごうとは しゃか やくし だいにち とうの しょぶつ.
唱う まじき 仏 菩薩の 名号とは 釈迦 薬師 大日 等の 諸仏.

じぞう ふげん もんじゅ にちげつせい にしょと みしまと くまのと はぐろと てんしょうだいじんと はちまんだいぼさつと.
地蔵 普賢 文殊 日月星 二所と 三嶋と 熊野と 羽黒と 天照大神と 八幡大菩薩と.

これらの なを いっぺんも となえん ひとは ねんぶつを 10まんべん 100まんべん もうしたりとも となうる.
此等の 名を 一遍も 唱えん 人は 念仏を 十万遍 百万遍 申したりとも となうる.

この ぶつ ぼさつ にちがつしん とうの なを となうる とがに よって.
此の 仏 菩薩 日月神 等の 名を 唱うる 過に 依つて.

むけんには おつとも おうじょう すべからずと うんぬん」.
無間には おつとも 往生 すべからずと 云云.

われ せけんを みるに ねんぶつを もうす ひとも.
我 世間を 見るに 念仏を 申す 人も.

これらの しょぶつ ぼさつ しょてんぜんじんの なを となうる ゆえに.
此等の 諸仏 菩薩 諸天善神の 名を 唱うる 故に.

これ また しの おしえに そむけり.
是れ 又 師の 教に 背けり.

だい5の さんたんくようぞうぎょうとは ねんぶつ もうさん ひとは.
第五の 讃歎供養雑行とは 念仏 申さん 人は.

くよう すべき ほとけは みださんぞんを くようせん ほかは.
供養 すべき 仏は 弥陀三尊を 供養せん 外は.

かみに あぐる ところの ぶつ ぼさつ しょてんぜんじんに こうげの すこしも くようせん ひとは.
上に 挙ぐる 所の 仏 菩薩 諸天善神に 香華の すこしをも 供養せん 人は.

ねんぶつの こうは たっとけれども この とがに よって ぞうぎょうに せっすと これを きらう.
念仏の 功は 貴とけれども 此の 過に 依つて 雑行に 摂すと 是を きらふ.

しかるを よを みるに しゃだんに もうでては へいはくを ささげ.
然るに 世を 見るに 社壇に 詣でては 幣帛を 捧げ.

どうしゃに のぞみては らいはいを いたす.
堂舎に 臨みては 礼拝を 致す.

これ また しの おしえに そむけり.
是れ 又 師の 教に 背けり.

なんじ もし ふしん ならば せんちゃくを みよ.
汝 若し 不審 ならば 選択を 見よ.

その もん めいはく なり.
其の 文 明白 なり.

また ぜんぞうわしょうの かんねんほうもんきょうに いわく.
又 善導和尚の 観念法門経に 云く.

「しゅにく 5しん ちかって ほつがんして てに とらざれ かまざれ.
「酒肉 五辛 誓つて 発願して 手に 捉らざれ 口に 喫まざれ.

もし この ことばに いせば すなわち しんく ともに あくそうを つけんと がんぜよ.
若し 此の 語に 違せば 即ち 身口 倶に 悪瘡を 著けんと 願ぜよ」.

この もんの こころは ねんぶつ もうさん なんにょ あまほっしは さけを のまざれ ぎょちょう をも くわざれ.
此の 文の 意は 念仏 申さん 男女 尼法師は 酒を 飲まざれ 魚鳥 をも 食わざれ.

その ほか にら ひる とうの いつつの からく くさきものを くわざれ.
其の 外 にら ひる 等の 五つの からく くさき 物を 食わざれ.

これを もたざる ねんぶつしゃは こんじょうには あくそう みに いで.
是を 持たざる 念仏者は 今生には 悪瘡 身に 出で.

ごしょうには むけんに だすべしと うんぬん.
後生には 無間に 堕すべしと 云云.

しかるに ねんぶつ もうす なんにょ あま ほっし この かいを かえりみず.
然るに 念仏 申す 男女 尼 法師 此の 誡を かへりみず.

ほしいままに さけを のみ ぎょちょうを くらう こと つるぎを のむたとえに あらずや.
恣に 酒を のみ 魚鳥を 食ふ 事 剣を 飲む 譬に あらずや.

ここに ぐにんの いわく まことに これ この ほうもんを きくに.
爰に 愚人の 云く 誠に 是れ 此の 法門を 聞くに.

ねんぶつの もうもん まことに おうじょうすと いえども その ぎょうぎ しゅぎょうし がたし.
念仏の 法門 実に 往生すと 雖も 其の 行儀 修行し 難し.

いわんや かの たのむ ところの きょうろんは みな もって ごんせつ なり.
況や 彼の 憑む 所の 経論は 皆 以て 権説 なり.

おうじょう すべからざるの じょうぶん あきらか なり.
往生 す可からざるの 条分 明 なり.

ただ しんごんを はする ことは その いわれ なし.
但 真言を 破する 事は 其の 謂れ 無し.

→a483

b484

それ だいにちきょうとは だいにちかくおうの ひほう なり.
夫れ 大日経とは 大日覚王の 秘法 なり.

だいにちにょらい より けいも みだれず ぜんむい ふくう これを つたえ.
大日如来 より 系も 乱れず 善無畏 不空 之を 伝え.

こうぼうだいしは にほんに りょうかいの まんだらを ひろめ.
弘法大師は 日本に 両界の 曼陀羅を 弘め.

そんこう 37そん ひおう なる ものなり.
尊高 三十七尊 秘奥 なる ものなり.

しかるに けんきょうの ごくりは なお みっきょうの しょもんにも およばず.
然るに 顕教の 極理は 尚 密教の 初門にも 及ばず.

ここを もって ごとういんは ほっけ なお およばず.
爰を 以て 後唐院は 法華 尚 及ばず.

いわんや じよの おしえおやと しゃくし たまえり.
況や 自余の 教をやと 釈し 給へり.

この こと いかんが こころう べきや.
此の 事 如何が 心う べきや.

しょうにん しめして いわく よも はじめは だいにちに たのみを かけて みっしゅうに こころざしを よす.
聖人 示して 云く 予も 始は 大日に 憑を 懸けて 密宗に 志を 寄す.

しかれども かの しゅうの さいていを みるに その りゅうぎも また ほうぼう なり.
然れども 彼の 宗の 最底を 見るに 其の 立義も 亦 謗法 なり.

なんじが いう ところの こうやの だいしは さがてんのうの ぎょうの にんし なり.
汝が 云う 所の 高野の 大師は 嵯峨天皇の 御宇の 人師 なり.

しかるに こうてい より ぶっぽうの せんじんを はんしゃく すべき よしの せんじを たまいて.
然るに 皇帝 より 仏法の 浅深を 判釈 すべき 由の 宣旨を 給いて.

じゅうじゅうしんろん じっかん これを つくる.
十住心論 十巻 之を 造る.

この しょ こうはく なる あいだ ようを とって 3かんに これを ちぢめ.
此の 書 広博 なる 間 要を 取つて 三巻に 之を 縮め.

その なを ひぞうほうやくと ごうす.
其の 名を 秘蔵宝鑰と 号す.

はじめ いしょうていようしん より おわり ひみつそうごんしんに いたるまで 10に ふんべつし.
始 異生羝羊心 より 終 秘密荘厳心に 至るまで 十に 分別し.

だい8 ほっけ だい9 けごん だい10 しんごんと たてて.
第八 法華 第九 華厳 第十 真言と 立てて.

ほっけは けごんにも おとれば だいにちきょうには さんじゅうの れつと はんじて.
法華は 華厳にも 劣れば 大日経には 三重の 劣と 判じて.

かくの ごときの じょうじょうは じじょうに ほとけの なを うれども.
此くの 如きの 乗乗は 自乗に 仏の 名を 得れども.

のちに のぞめば けろんと なると かいて ほけきょうを きょうげんきごと いい.
後に 望めば 戯論と 作ると 書いて 法華経を 狂言綺語と 云い.

しゃくそんをば むみょうに まよえる ほとけと くだせり.
釈尊をば 無明に 迷へる 仏と 下せり.

よって でんぼういん こんりゅう せし こうぼうの でし しょうかくぼうは.
仍て 伝法院 建立 せし 弘法の 弟子 正覚房は.

ほけきょうは だいにちきょうの はきものとりに およばず.
法華経は 大日経の はきものとりに 及ばず.

しゃかぶつは だいにちにょらいの うしかいにも たらずと かけり.
釈迦仏は 大日如来の 牛飼にも 足らずと 書けり.

なんじ こころを しずめて きけ.
汝 心を 静めて 聞け.

いちだい 5000 7000の きょうぎょう、げてん 3000よかんにも ほけきょうは けろん 3じゅうの れつ.
一代 五千七千の 経教 外典 三千余巻にも 法華経は 戯論 三重の 劣.

けごんきょうにも おとり しゃくそんは むみょうに まよえる ほとけにて.
華厳経にも 劣り 釈尊は 無明に 迷へる 仏にて.

だいにちにょらいの うしかいにも たらずと いう たしかなる もん ありや.
大日如来の 牛飼にも 足らずと 云う 慥なる 文 ありや.

たとい さる もん ありと いうとも よくよく しあん あるべきか.
設ひ さる 文 有りと 云うとも 能く能く 思案 あるべきか.

きょうぎょうは せいてん より とうどに およぼす とき.
経教は 西天 より 東土に オヨぼす 時.

やくしゃの いぎょうに したがって きょうろんの もん ふじょう なり.
訳者の 意楽に 随つて 経論の 文 不定 なり.

さて こうしんの らじゅうさんぞうは われ かんどの ぶっぽうを みるに おおく ぼんほんに いせり.
さて 後秦の 羅什三蔵は 我 漢土の 仏法を 見るに 多く 梵本に 違せり.

わが しゃくする ところの きょう もし あやまり なくば われ しして のち.
我が 訳する 所の 経 若し 誤り なくば 我 死して 後.

みは ふじょう なれば やくると いえども.
身は 不浄 なれば 焼くると 云えども.

した ばかり やけざらんと つねに せっぽうし たまいしに やき たてまつる とき.
舌 計り 焼けざらんと 常に 説法し 給いしに 焼き 奉る 時.

おんみは みな ほねと なると いえども おした ばかりは しょうれんげの うえに こうみょうを はなって にちりんを えいだつし たまいき.
御身は 皆 骨と なると いへども 御舌 計りは 青蓮華の 上に 光明を放つて 日輪を 映奪し 給いき.

ありがたき ことなり.
有り難き 事なり.

さてこそ ことさら かの さんぞうしょやくの ほけきょうは とうどに やすやすと ひろまらせ たまいしか.
さてこそ 殊更 彼の 三蔵所訳の 法華経は 唐土に やすやすと 弘まらせ 給いしか.

しかれば えんりゃくじの こんぽんだいし しょしゅうを せめ たまいしには.
然れば 延暦寺の 根本大師 諸宗を 責め 給いしには.

ほけきょうを やくする さんぞうは したの やけざる しるし あり.
法華を 訳する 三蔵は 舌の 焼けざる 験 あり.

なんじらが えきょうは みな あやまれりと はし たもうは これなり.
汝等が 依経は 皆 誤れりと 破し 給ふは 是なり.

ねはんぎょうにも わが ぶっぽうは たこくへ うつらん とき.
涅槃経にも 我が 仏法は 他国へ 移らん 時.

あやまり おおかるべしと とき たまえば.
誤り 多かるべしと 説き 給へば.

きょうもんに たとい ほけきょうは いたずら ごと.
経文に 設ひ 法華経は いたずら 事.

しゃくそんをば むみょうに まよえる ほとけ なりと ありとも.
釈尊をば 無明に 迷へる 仏 なりと ありとも.

ごんきょう じっきょう だいじょう しょうじょう せつじの ぜんご やくしゃ よくよく たずぬべし.
権教 実教 大乗 小乗 説時の 前後 訳者 能く能く 尋ぬべし.

→a484

b485

いわゆる ろうし こうしは きゅうしいちごん さんしいちごん.
所謂 老子 孔子は 九思一言 三思一言.

しゅうこうたんは しょくするに さんど はき もくするに さんど にぎる.
周公旦は 食するに 三度 吐き 沐するに 三度 にぎる.

げてんの あさき なお かくの ごとし.
外典の あさき 猶 是くの 如し.

いわんや ないてんの じんぎを ならわん ひとをや.
況や 内典の 深義を 習はん 人をや.

その うえ この ぎ きょうろんに あとかたも なし.
其の 上 此の 義 経論に 迹形も なし.

ひとを そしり ほうを ぼうじては あくどうに おつべしとは こうぼうだいしの しゃく なり.
人を 毀り 法を 謗じては 悪道に 堕つべしとは 弘法大師の 釈 なり.

かならず じごくに おちんこと うたがい なき ものなり.
必ず 地獄に 堕んこと 疑い 無き 者なり.

ここに ぐにん ぼうぜんと ほれ こつねんと なげいて やや ひさしゅうして いわく.
爰に 愚人 茫然と ほれ 忽然と なげひて 良 久しうして 云く.

この だいしは ないがいの みょうきょう しゅうにんの どうし たり.
此の 大師は 内外の 明鏡 衆人の 導師 たり.

とくぎょう よに すぐれ めいよ あまねく きこえて.
徳行 世に 勝れ 名誉 普く 聞えて.

あるいは とうど より さんこを 8まんよりの かいじょうを なぐるに.
或は 唐土 より 三鈷を 八万余里の 海上を なぐるに.

そく にほんに いたり あるいは しんきょうの むねを つづるに.
即 日本に 至り 或は 心経の 旨を つづるに.

そせいの やから みちに たたずむ.
蘇生の 族 途に 彳む.

しかれば この ひと ただびとに あらず.
然れば 此の 人 ただ人に あらず.

だいしょうごんげの すいじゃく なり.
大聖権化の 垂迹 なり.

あおいで しんを とらんには しかじ.
仰いで 信を 取らんには しかじ.

しょうにん いわく よも はじめは しかなり.
聖人 云く 予も 始めは 然なり.

ただし ぶつどうに いって りひを かんがえみるに.
但し 仏道に 入つて 理非を 勘へ見るに.

ぶつぽうの じゃしょうは かならず とくつうじざいには よらず.
仏法の 邪正は 必ず 得通自在には よらず.

これを もって ほとけは えほうふえにんと さだめ たまえり.
是を 以て 仏は 依法不依人と 定め 給へり.

まえに しめすが ごとし.
前に 示すが 如し.

かの あかだせんは ごうがを かたみみに ただえて 12ねん.
彼の 阿伽陀仙は 恒河を 片耳に ただへて 十二年.

ぎとせんは 1にちの なかに たいかいを すいほす.
耆兎仙は 一日の 中に 大海を すひほす.

ちょうかいは きりを はき らんばは くもを はく.
張階は 霧を 吐き 欒巴は 雲を 吐く.

しかれども いまだ ぶっぽうの ぜひを しらず.
然れども 未だ 仏法の 是非を 知らず.

いんがの どうりをも わきまえず.
因果の 道理をも 弁へず.

いちょうの ほううんほっしは こうきょうごんしゅうの みぎりに しゅゆに てんげを ふらせ しかども.
異朝の 法雲法師は 講経勤修の 砌に 須臾に 天華を ふらせ しかども.

みょうらくだいしは かんのう かくの ごときも なお りに かなわずとて.
妙楽大師は 感応 斯くの 如きも 猶 理に 称わずとて.

いまだ ぶっぽうをば しらずと はし たもう.
いまだ 仏法をば しらずと 破し 給う.

それ この ほけきょうと もうすは いこんとうの さんせつを きらって.
夫れ 此の 法華経と 申すは 已今当の 三説を 嫌つて.

いぜんの きょうをば みけんしんじつと うちやぶり.
已前の 経をば 未顕真実と 打破り.

かたを ならぶる きょうをば こんせつの もんを もって せめ.
肩を 並ぶる 経をば 今説の 文を 以て せめ.

いごの きょうをば とうせつの もんを もって やぶる.
已後の 経をば 当説の 文を 以て 破る.

じつに さんせつ だいいちの きょう なり.
実に 三説 第一の 経 なり.

だい4の まきに いわく「やくおう いま なんじに つぐ.
第四の 巻に 云く「薬王 今 汝に 告ぐ.

われ しょせつの きょうてん しかも この きょうの なかに おいて ほっけ さいだいいち なり」.
我 所説の 経典 而かも 此の 経の 中に 於て 法華 最第一 なり」.

この もんの こころは りょうぜんえじょうに やくおうぼさつと もうせし ぼさつに ほとけ つげて いわく.
此の 文の 意は 霊山会上に 薬王菩薩と 申せし 菩薩に 仏 告げて 云く.

はじめ けごん より おわり ねはんぎょうに いたるまで むりょうむへんの きょう ごうがしゃ とうの かず おおし.
始 華厳 より 終 涅槃経に 至るまで 無量無辺の 経 恒河沙 等の 数 多し.

その なかには いまの ほけきょう さいだいいちと とかれたり.
其の 中には 今の 法華経 最第一と 説かれたり.

しかるを こうぼうだいしは 1の じを 3と よまれたり.
然るを 弘法大師は 一の 字を 三と 読まれたり.

どうかんに いわく 「われ ぶつどうの ために むりょうの どに おいて はじめ より いまに いたるまで ひろく しょきょうを とく.
同巻に 云く 「我 仏道の 為に 無量の 土に 於て 始 より 今に 至るまで 広く 諸経を 説く.

しかも その なかに おいて この きょう だいいち なり」.
而も 其の 中に 於て 此の 経 第一 なり」.

この もんの こころは また しゃくそん むりょうの こくどにして あるいは みょうじを かえ.
此の 文の 意は 又 釈尊 無量の 国土にして 或は 名字を 替え.

あるいは ねんきを ふどうに なし しゅじゅの かたちを あらわして.
或は 年紀を 不同に なし 種種の 形を 現して.

とく ところの しょきょうの なかには この ほけきょうを だいいちと さだめられたり.
説く 所の 諸経の 中には 此の 法華経を 第一と 定められたり.

→a485

b486

おなじき だい5かんには さいざいごじょうと のべて.
同き 第五巻には 最在其上と 宣べて.

だいにちきょう こんごうちょうきょう とうの むりょうの きょうの いただきに この きょうは あるべしと とかれたるを.
大日経 金剛頂経 等の 無量の 経の 頂に 此の 経は 有るべしと 説かれたるを.

こうぼうだいしは さいざいごげと おもえり.
弘法大師は 最在其下と 謂へり.

しゃくそんと こうぼうと ほけきょうと ほうやくとは じつにもって そうい せり.
釈尊と 弘法と 法華経と 宝鑰とは 実に以て 相違 せり.

しゃくそんを すて たてまつって こうぼうに つくべきか.
釈尊を 捨て 奉つて 弘法に 付くべきか.

また こうぼうを すてて しゃくそんに つき たてまつる べきか.
又 弘法を 捨てて 釈尊に 付 奉る べきか.

また きょうもんに そむいて にんしの ことばに したがうべきか.
又 経文に 背いて 人師の 言に 随ふべきか.

にんしの ことばを すてて きんげんを あおぐべきか.
人師の 言を 捨てて 金言を 仰ぐべきか.

ようしゃ こころに あるべし.
用捨 心に 有るべし.

また だいしちの かん やくおうほんに じゅうゆを あげて きょうを たんずるに.
又 第七の 巻 薬王品に 十喩を 挙げて 教を 歎ずるに.

第1は みずの たとえ なり.
第一は 水の 譬 なり.

ごうがを しょきょうに たとえ たいかいを ほっけに たとえたり
江河を 諸経に 譬へ 大海を 法華に 譬へたり.

しかるを だいにちきょうは すぐれたり ほっけは おとれりと いう ひとは.
然るを 大日経は 勝れたり 法華は 劣れりと 云う 人は.

すなわち たいかいは しょうが よりも すくなしと いわん ひと なり.
即 大海は 小河 よりも すくなしと 云わん 人 なり.

しかるに いまの よの ひとは うみの しょがに まさる ことをば しると いえども.
然るに 今の 世の 人は 海の 諸河に 勝る 事をば 知ると いへども.

ほけきょうの だいいち なることをば わきまえず.
法華経の 第一 なる 事をば 弁へず.

だい 2は やまの たとえ なり.
第二は 山の 譬 なり.

しゅうざんを しょきょうに たとえ しゅみせんを ほっけに たとえたり.
衆山を 諸経に 譬へ 須弥山を 法華に 譬へたり.

しゅみせんは じょうげ 16まん8000ゆじゅんの やま なり.
須弥山は 上下 十六万八千由旬の 山 なり.

いずれの やまか かたを ならぶべき.
何れの 山か 肩を 並ぶべき.

ほけきょうを だいにちきょうに おとると いう ひとは ふじさんは しゅみせん より だいなりと いわん ひと なり.
法華経を 大日経に 劣ると 云う 人は 富士山は 須弥山 より 大 なりと 云わん 人 なり.

だい3は ほしつきの たとえ なり.
第三は 星月の 譬 なり.

しょきょうを ほしに たとえ ほけきょうを つきに たとう.
諸経を 星に 譬へ 法華経を 月に 譬ふ.

つきと ほしとは いずれ まさりたりと おもえるや.
月と 星とは 何れ 勝りたりと 思へるや.

ないし つぎしもには この きょうも またまた かくの ごとし.
乃至 次下には 此の 経も 亦復 是くの 如し.

いっさいの にょらいの しょせつ もしは ぼさつの しょせつ.
一切の 如来の 所説 若しは 菩薩の 所説.

もしは しょうもんの しょせつ もろもろの きょうほうの なかに もっとも これ だい1とて.
若しは 声聞の 所説 諸の 経法の 中に 最も 為れ 第一とて.

この ほけきょうは ただ しゃくそん 1だいの だい1と とき たもう のみに あらず.
此の 法華経は 只 釈尊 一代の 第一と 説き 給う のみに あらず.

だいにち および やくし あみだ とうの しょぶつ ふげんもんじゅ とうの ぼさつの いっさいの しょせつ しょきょうの なかに.
大日 及び 薬師 阿弥陀 等の 諸仏 普賢文殊 等の 菩薩の 一切の 所説 諸経の 中に.

この ほけきょう だいいちと とけり.
此の 法華経 第一と 説けり.

されば もし この きょうに まさりたりと いう きょう あらば.
されば 若し 此の 経に 勝りたりと 云う 経 有らば.

げどう てんまの せつと しるべきなり.
外道 天魔の 説と 知るべきなり.

そのうえ だいにちにょらいと いうは くおんじつじょうの きょうしゅ しゃくそん 42ねん.
其の上 大日如来と 云うは 久遠実成の 教主 釈尊 四十二年.

わこうどうじんして その きに おうずる とき.
和光同塵して 其の 機に 応ずる 時.

さんじんそくいちの にょらい しばらく びるしゃなと しめせり.
三身即一の 如来 暫く 毘盧遮那と 示せり.

この ゆえに かいけんじっそうの まえには しゃかの おうけと みえたり.
是の 故に 開顕実相の 前には 釈迦の 応化と 見えたり.

ここを もって ふげんきょうには しゃかむにぶつを びるしゃなへんいっさいしょと なづけ.
爰を 以て 普賢経には 釈迦牟尼仏を 毘盧遮那遍一切処と 名け.

その ほとけの じゅうしょを じょうじゃっこうと とけり.
其の 仏の 住処を 常寂光と 名くと 説けり.

いまほ けきょうは じっかいごぐ いちねん3000 さんたいそくぜ しどふにと だんず.
今 法華経は 十界互具 一念三千 三諦即是 四土不二と 談ず.

その かみに いちだいしょうきょうの こつずいたる にじょうさぶつ くおんじつじょうは こんきょうに かぎれり.
其の 上に 一代聖教の 骨髄たる 二乗作仏 久遠実成は 今経に 限れり.

なんじ かたる ところの だいにちきょう こんごうちょうきょう とうのさんぶの ひきょうに これらの だいじ あるや.
汝 語る 所の 大日経 金剛頂経 等の 三部の 秘経に 此等の 大事 ありや.

ぜんむい ふくう とう これらの だいじの ほうもんを ぬすみとって おの がきょうの がんもくと せり.
善無畏 不空 等 此等の 大事の 法門を 盗み取つて 己が 経の 眼目と せり.

ほんきょう ほんろんには あとかたも なき おうわく なり.
本経 本論には 迹形も なき 誑惑 なり.

いそぎいそぎ これを あらたむべし.
急ぎ急ぎ 是を 改むべし.

そもそも だいにちきょうとは しきょう がんぞうして じんぎょうじゅかい とうを あかせり.
抑 大日経とは 四教 含蔵して 尽形寿戒 等を 明せり.

とうどの にんしは てんだい しょりゅうの だいさんじ ほうどうぶの きょう なりと さだめたる ごんきょう なり.
唐土の 人師は 天台 所立の 第三時 方等部の 経 なりと 定めたる 権教 なり.

あさまし あさまし.
あさまし あさまし.

なんじ じつに どうしん あらば いそいで せんぴを くゆべし.
汝 実に 道心 あらば 急いで 先非を 悔ゆべし.

それ おもんみれば この ほけきょうは いちだいの かんもんを いちねんに すべ.
夫れ 以れば 此の 妙法蓮華経は 一代の 観門を 一念に すべ.

じっかいの えしょうを 3000に ちぢめたり.
十界の 依正を 三千に つづめたり.

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