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如説修行抄 (にょせつ しゅぎょう しょう).
日蓮大 聖人 52歳御作.

 

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にょせつ しゅぎょう しょう.
如説 修行 抄.

それ おもんみれば まっぽう るふの とき しょうを この どに うけ この きょうを しんぜん ひとは.
夫れ 以んみれば 末法 流布の 時・ 生を 此の 土に 受け 此の 経を 信ぜん 人は.

にょらいの ざいせ より ゆたおんしつの なん はなはだ しかるべしと みえて そうろう なり.
如来の 在世 より 猶多怨嫉の 難 甚 しかるべしと 見えて 候 なり、.

その ゆえは ざいせは のうけの しゅは ほとけ なり.
其の 故は 在世は 能化の 主は 仏 なり.

でし また だいぼさつ あらかん なり.
弟子 又 大菩薩・ 阿羅漢 なり、.

にんてん ししゅ はちぶ にんぴにん とう なりと いえども.
人天・ 四衆・ 八部・ 人非人 等 なりと いへども.

じょうき じょうようして ほけきょうを きかしめ たまう なお おんしつ おおし.
調機 調養して 法華経を 聞かしめ 給ふ 猶 怨嫉 多し、.

いかに いわんや まっぽう いまの ときは きょう き じこく とうらいすと いえども その しを たずねぬれば ぼんし なり.
何に 況んや 末法 今の 時は 教 機 時刻 当来すと いへども 其の 師を 尋ぬれば 凡師 なり、.

でし また とうじょうけんご びゃくほうおんもつ さんどくごうじょうの あくにん とう なり.
弟子 又 闘諍堅固・ 白法隠没・ 三毒強盛の 悪人 等 なり、.

ゆえに ぜんしをば おんりし あくしには しんごん す.
故に 善師をば 遠離し 悪師には 親近 す、.

その うえ しんじつの ほけきょうの にょせつしゅぎょうの ぎょうじゃのしてい だんなと ならんには さんるいの てきじん けつじょう せり.
其の 上 真実の 法華経の 如説修行の 行者の 師弟 檀那と ならんには 三類の 敵人 決定 せり、.

されば この きょうを ちょうもんし はじめん ひより おもい さだむべし.
されば 此の 経を 聴聞し 始めん 日より 思い 定むべし.

きょうめつどごの だいなんの さんるい はなはだ しかるべしと.
況滅度後の 大難の 三類 甚 しかるべしと、.

しかるに わが でしらの なかにも かねて ちょうもん せしかども.
然るに 我が 弟子等の 中にも 兼て 聴聞 せしかども.

だいしょうの なん きたる ときは いま はじめて おどろき きもを けして しんじんを やぶりぬ.
大小の 難 来る 時は 今 始めて 驚き 肝を けして 信心を 破りぬ、.

かねて もうさざりけるか.
兼て 申さざりけるか.

きょうもんを さきとして ゆたおんしつ きょうめつどご きょうめつどごと ちょうせき おしえし ことは これなり.
経文を 先として 猶多怨嫉 況滅度後・ 況滅度後と 朝夕 教へし 事は 是なり・.

よが あるいは ところを おわれ あるいは きずを こうむり.
予が 或は 所を・ をわれ 或は 疵を 蒙り・.

あるいは りょうどの ごかんきを こうむりて おんごくに るざい せらるるを み きくとも.
或は 両度の 御勘気を 蒙りて 遠国に 流罪 せらるるを 見 聞くとも.

いま はじめて おどろくべきに あらざる ものをや.
今 始めて 驚くべきに あらざる 物をや。.

とうて いわく にょせつしゅぎょうの ぎょうじゃは げんせあんのん なるべし.
問うて 云く 如説修行の 行者は 現世安穏 なるべし.

なにが ゆえを さんるいの ごうてき さかん ならんや.
何が 故ぞ 三類の 強敵 盛ん ならんや、.

こたえて いわく しゃくそんは ほけきょうの おんために こんど くおうの だいなんに あい たまう.
答えて 云く 釈尊は 法華経の 御為に 今度・ 九横の 大難に 値ひ 給ふ、.

かこの ふきょうぼさつは ほけきょうの ゆえに じょうもく がしゃくを こうむり.
過去の 不軽菩薩は 法華経の 故に 杖木 瓦石を 蒙り・.

じくの どうしょうは そざんに ながされ ほうどうさんぞうは かおに かなやきを あてられ.
竺の 道生は 蘇山に 流され 法道三蔵は 面に 火印を あてられ.

ししそんじゃは こうべを はねられ てんだいは なんさん ほくしちに あだまれ.
師子尊者は 頭を はねられ 天台大師は 南三・ 北七に あだまれ.

でんぎょうだいしは ろくしゅうに にくまれ たまえり.
伝教大師は 六宗に にくまれ 給へり、.

これらの ぶつぼさつ だいしょうらは ほけきょうの ぎょうじゃとして しかも だいなんに あい たまえり.
此等の 仏菩薩 ・大聖等は 法華経の 行者として 而も 大難に あひ 給へり、.

これらの ひとびとを にょせつしゅぎょうの ひとと いわずんば いずくにか にょせつしゅぎょうの ひとを たずねん.
此れ 等の 人人を 如説修行の 人と 云わずんば いづくにか 如説修行の 人を 尋ねん、.

しかるに いまの よは とうじょうけんご びゃくほうおんもつ なる うえ あっこく あくおう あくみんのみ ありて.
然るに 今の 世は 闘諍堅固・ 白法隠没 なる 上 悪国 悪王 悪臣 悪民のみ 有りて.

しょうほうに そむきて じゃほう じゃしを すうちょう すれば.
正法を 背きて 邪法・ 邪師を 崇重 すれば.

こくどに あっき みだれいりて さんさい しちなん さかんに おこれり.
国土に 悪鬼 乱れ入りて 三災・ 七難 盛に 起れり、.

かかる じこくに にちれん ぶっちょくを こうむりて この どに うまれける こそ ときの ふしょう なれ.
かかる 時刻に 日蓮 仏勅を 蒙りて 此の 土に 生れける こそ 時の 不祥 なれ、.

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ほうおうの せんじ そむきがたければ きょうもんに まかせて ごんじつ 2きょうの いくさを おこし.
法王の 宣旨 背きがたければ 経文に 任せて 権実 二教の いくさを 起し.

にんにくの よろいを きて みょうきょうの つるぎを ひっさげ いちぶ はっかんの かんじん みょうほう 5じの はたを さしあげて.
忍辱の 鎧を 著て 妙教の 剣を 提げ 一部 八巻の 肝心・ 妙法 五字の 旗を 指上て.

みけんしんじつの ゆみを はり しょうじきしゃごんの やを はげて だいびゃくごしゃに うちのって.
未顕真実の 弓を はり 正直捨権の 箭を はげて 大白牛車に 打乗つて.

ごんもんを かっぱと やぶり かしこへ おしかけ ここへ おしよせ.
権門を かつぱと 破り かしこへ・ おしかけ・ ここへ・ おしよせ.

ねんぶつ しんごん ぜん りつ とうの はっしゅう じっしゅうの てきじんを せむるに.
念仏 ・真言・ 禅・ 律 等の 八宗・ 十宗の 敵人を せむるに.

あるいは にげ あるいは ひき しりぞき あるいは いけどられし ものは わが でしと なる.
或は にげ 或は ひき しりぞき 或は 生取られし 者は 我が 弟子と なる、.

あるいは せめかえし せめおとし すれども かたきは たぜい なり.
或は せめ返し・ せめをとし すれども・ かたきは 多勢 なり.

ほうおうの いちにんは ぶぜい なり.
法王の 一人は 無勢 なり.

いまに いたるまで いくさ やむ こと なし.
今に 至るまで 軍 やむ 事 なし、.

ほっけしゃくぶく はごんもんりの きんげん なれば.
法華折伏・ 破権門理の 金言 なれば.

ついに ごんきょう ごんもんの やからを いちにんも なく せめおとして ほうおうの けにんと なし.
終に 権教 権門の 輩を 一人も なく・ せめをとして 法王の 家人と なし.

てんか ばんみん しょじょう いちぶつじょうと なって みょうほう ひとり はんじょう せん とき.
天下 万民・ 諸乗 一仏乗と 成つて 妙法 独り 繁昌 せん 時、.

ばんみん いちどうに なんみょうほうれんげきょうと となえ たてまつらば.
万民 一同に 南無妙法蓮華経と 唱え 奉らば.

ふく かぜ えだを ならさず あめ つちくれを くだかず よは ぎのうの よと なりて.
吹く 風 枝を ならさず 雨 壤を 砕かず、 代は 羲農の 世と なりて.

こんじょうには ふしょうの さいなんを はらい ちょうせいの じゅつを え.
今生には 不祥の 災難を 払ひ 長生の 術を 得、.

にんぽう ともに ふろうふしの ことわり あらわれん ときを おのおの ごらんぜよ.
人法 共に 不老不死の 理 顕れん 時を 各各 御覧ぜよ.

げんせ あんのんの しょうもん うたがいある べからざる ものなり.
現世 安穏の 証文 疑い有る 可からざる 者なり。.

とうて いわく にょせつしゅぎょうの ぎょうじゃと もうさんは いかように しんずるを もうし そうろう べきや.
問うて 云く 如説修行の 行者と 申さんは 何様に 信ずるを 申し 候 べきや、.

こたえて いわく とうせ にほんこくじゅうの しょにん いちどうに にょせつしゅぎょうの ひとと もうし そうろうは.
答えて 云く 当世・ 日本国中の 諸人・ 一同に 如説修行の 人 と申し 候は.

しょじょう いちぶつじょうと かいえ しぬれば.
諸乗 一仏乗と 開会 しぬれば.

いずれの ほうも みな ほけきょうにして しょうれつ せんじん ある こと なし.
何れの 法も 皆 法華経にして 勝劣 浅深 ある 事 なし、.

ねんぶつを もうすも しんごんを たもつも ぜんを しゅぎょう するも.
念仏を 申すも 真言を 持つも・ 禅を 修行 するも・.

そうじて いっさいの しょきょう ならびに ぶつぼさつの おんなを たもちて となうるも.
総じて 一切の 諸経 並びに 仏菩薩の 御名を 持ちて 唱るも.

みな ほけきょうなりと しんずるが にょせつしゅぎょうの ひととは いわれ そうろうなり とう うんぬん.
皆 法華経なりと 信ずるが 如説修行の 人とは 云われ 候なり 等 云云、.

よが いわく しからず.
予が 云く 然らず.

しょせん ぶっぽうを しゅぎょう せんには ひとの ことばを もちう べからず.
所詮・ 仏法を 修行 せんには 人の 言を 用う 可らず.

ただ あおいで ほとけの きんげんを まもる べきなり.
只 仰いで 仏の 金言を まほる べきなり.

われらが ほんし しゃかにょらいは しょじょうどうの はじめより ほけきょうを とかんと おぼしめしかども.
我等が 本師・ 釈迦如来は 初成道の 始より 法華を 説かんと 思食しかども.

しゅじょうの きこん みじゅくなりしかば まず ごんきょうたる ほうべんを 40よねんが あいだ ときて.
衆生の 機根 未熟なりしかば 先ず 権教たる 方便を 四十余年が 間 説きて.

のちに しんじつたる ほけきょうを とかせ たまいし なり.
後に 真実たる 法華経を 説かせ 給いし なり、.

この きょうの じょぶん むりょうぎきょうにして ごんじつの ほうじを さして ほうべん しんじつを わけ たまえり.
此の 経の 序分 無量義経にして 権実の はうじを 指て 方便 真実を 分け 給へり、.

いわゆる いほうべんりき しじゅうよねん みけんしんじつ これなり.
所謂 以方便力・ 四十余年・ 未顕真実 是なり、.

だいしょうごんらの 8まんの だいし せごん かいごん はいごん とうの いわれを こころえ わけ たまいて りょうげして いわく.
大荘厳等の 八万の 大士・ 施権・ 開権・ 廃権 等の いはれを 心得 分け 給いて 領解して 言く.

ほけきょう いぜんの りゃっこうしゅぎょう とうの しょきょうは しゅうふとくじょう むじょうぼだいと もうしきり たまいぬ.
法華経 已前の 歴劫修行 等の 諸経は 終不得成・ 無上菩提と 申しきり 給ひぬ、.

しかして のち しょうしゅうの ほっけに いたって せそんほうくご ようとうせつしんじつと とき たまいしを はじめとして.
然して 後 正宗の 法華に 至つて 世尊法久後・ 要当説真実と 説き 給いしを 始めとして.

むにやくむさん じょぶつほうべんせつ しょうじきしゃほうべん ないしふじゅよきょういちげと いましめ たまえり.
無二亦無三・ 除仏方便説・ 正直捨方便・ 乃至不受余経一偈と 禁め 給へり、.

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これより いごは ゆいういちぶつじょうの みょうほうのみ いっさいしゅじょうを ほとけに なす だいほうにて.
是より 已後は 唯有一仏乗の 妙法のみ 一切衆生を 仏に なす 大法にて.

ほけきょうより ほかの しょきょうは いちぶんの とくやくも あるまじきに.
法華経より 外の 諸経は 一分の 得益も・ あるまじきに.

まっぽうの いまの がくしゃ いずれも にょらいの せっきょう なれば みな とくどう あるべしと おもいて.
末法の 今の 学者・ 何れも 如来の 説教 なれば 皆 得道 あるべしと 思いて.

あるいは しんごん あるいは ねんぶつ あるいは ぜんしゅう さんろん ほっそう くしゃ じょうじつ りつ とうの しょしゅう しょきょうを とりどりに しんずるなり.
或は 真言・ 或は 念仏・ 或は 禅宗・ 三論・ 法相・ 倶舎・ 成実・ 律 等の 諸宗・ 諸経を 取取に 信ずるなり、.

かくの ごとき ひとをば にゃくにんふしん きぼうしきょう そくだんいっさいせけんぶっしゅ ないしごにんみょうじゅう にゅうあびごくと さだめ たまえり.
是くの 如き 人をば 若人不信・ 毀謗此経・ 即断一切世間仏種・ 乃至其人命終・ 入阿鼻獄と 定め 給へり、.

これらの おきての みょうきょうを もととして いちぶんも たがえず.
此等の をきての 明鏡を 本として 一分も たがえず.

ゆいういちじょうほうと しんずるを にょせつしゅぎょうの ひととは ほとけは さだめさせ たまえり.
唯有一乗法と 信ずるを 如説修行の 人とは 仏は 定めさせ 給へり。.

なんじて いわく さように ほうべん ごんきょうたる しょきょう しょぶつを しんずるを ほけきょうと いわばこそ.
難じて 云く 左様に 方便権教たる 諸経 諸仏を 信ずるを 法華経と 云はばこそ、.

ただ いっきょうに かぎりて きょうもんの ごとく 5しゅの しゅぎょうを こらし.
只 一経に 限りて 経文の 如く 五種の 修行を こらし.

あんらくぎょうほんの ごとく しゅぎょうせんは にょせつしゅぎょうの ものとは いわれ そうろう まじきか いかん.
安楽行品の 如く 修行せんは 如説修行の 者とは 云われ 候 まじきか 如何、.

こたえて いわく およそ ぶっぽうを しゅぎょうせん ものは しょうしゃく 2もんを しるべきなり.
答えて 云く 凡 仏法を 修行せん 者は 摂折 二門を 知る可きなり.

いっさいの きょうろん この ふたつを いでざるなり.
一切の 経論 此の 二を 出でざるなり、.

されば こくじゅうの しょがくしゃら ぶっぽうを あらあら がくすと いえども.
されば 国中の 諸学者等 仏法を あらあら 学すと 云へども.

じこく そうおうの みちを しらず.
時刻 相応の 道を しらず.

しせつ しき とりどりに かわれり.
四節・ 四季 ・取取に 替れり、.

なつは あつく ふゆは つめたく はるは はな さき あきは このみ なる.
夏は 熱く 冬は つめたく 春は 花さき 秋は 菓 なる.

はる たねを くだして あき このみを とるべし.
春 種子を 下して 秋 菓を 取るべし.

あき たねを くだして はる このみを とらんに あに とらるべけんや.
秋 種子を 下して 春 菓を 取らんに 豈 取らる可けんや、.

ごっかんの ときは あつき きぬは ようなり ごくねつの なつは なにかせん.
極寒の 時は 厚き 衣は 用なり 極熱の 夏は なにかせん、.

りょうふうは なつの ようなり ふゆは なにかせん.
凉風は 夏の 用なり 冬は なにかせん、.

ぶっぽうも またまた かくの ごとし.
仏法も 亦復 是くの 如し.

しょうじょうの るふして とくやく あるべき ときも あり.
小乗の 流布して 得益 あるべき 時も あり、.

ごんだいじょうの るふして とくやくあるべき ときも あり.
権大乗の 流布して 得益あるべき 時も あり、.

じっきようの るふして ぶっかを うべきときも あり.
実教の 流布して 仏果を 得べき時も あり、.

しかるに しょうぞう 2せんねんは しょうじょう ごんだいじょうの るふの とき なり.
然るに 正像 二千年は 小乗 権大乗の 流布の 時 なり、.

まっぽうの はじめの 500ねんには じゅんえん いちじつの ほけきょうのみ こうせんるふの とき なり.
末法の 始めの 五百年には 純円・ 一実の 法華経のみ 広宣流布の 時 なり、.

このときは とうじょうけんご びゃくほうおんもつの ときと さだめて ごんじつ ぞうらんの みぎり なり.
此の時は 闘諍堅固・ 白法隠没の 時と 定めて 権実 雑乱の 砌 なり、.

かたき あるときは とうじょうきゅうせんを もつべし.
敵 有る時は 刀杖弓箭を 持つ可し.

かたき なきときは きゅうせんひょうじょう なにかせん.
敵 無き時は 弓箭兵杖 何にかせん、.

いまの ときは ごんきょう そく じっきょうの かたきと なるなり.
今の時は 権教 即 実教の 敵と 成るなり、.

いちじょう るふの ときは ごんきょう あって かたきと なりて まぎらわしくば じっきょうより これを せむべし.
一乗 流布の 時は 権教 有つて 敵と 成りて・ まぎらはしくば 実教より 之を 責む可し、.

これを しょうしゃく 2もんの なかには ほけきょうの しゃくぶくと もうすなり.
是を 摂折 二門の 中には 法華経の 折伏と 申すなり、.

てんだい いわく「ほっけしゃくぶく はごんもんり」と まことに ゆえ あるかな.
天台 云く「法華折伏・ 破権門理」と まことに 故 あるかな、.

しかるに しょうじゅたる しあんらくの しゅぎょうを いまの とき ぎょうずる ならば.
然るに 摂受たる 四安楽の 修行を 今の 時 行ずる ならば.

ふゆ たねを くだして はる このみを もとむるものに あらずや.
冬 種子を 下して 春 菓を 求る者に あらずや、.

にわとりの あかつきに なくは ようなり よいに なくは もっけ なり.
鶏の 暁に 鳴くは 用なり 宵に 鳴くは 物怪 なり、.

ごんじつ ぞうらんの とき ほけきょうの おんてきを せめずして さんりんに とじこもり しょうじゅを しゅぎょう せんは.
権実 雑乱の 時 法華経の 御敵を 責めずして 山林に 閉じ篭り 摂受を 修行 せんは.

あに ほけきょう しゅぎょうの ときを うしなう もっけに あらずや.
豈 法華経 修行の 時を 失う 物怪に あらずや、.

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されば まっぽう いまのとき ほけきょうの しゃくぶくの しゅぎょうをば.
されば 末法・ 今の時・ 法華経の 折伏の 修行をば.

たれか きょうもんの ごとく ぎょうじ たまえしぞ.
誰か 経文の 如く 行じ 給へしぞ、.

だれびとにても おわせ しょきょうは むとくどう だじごくの こんげん.
誰人にても 坐せ 諸経は 無得道・ 堕地獄の 根源・.

ほけきょう ひとり じょうぶつの ほうなりと こえも おしまず よばわり たまいて.
法華経 独り 成仏の 法なりと 音も 惜まず よばはり 給いて.

しょしゅうの にんぽう ともに しゃくぶくして ごらんぜよ.
諸宗の 人法 共に 折伏して 御覧ぜよ.

3るいの ごうてき きたらん こと うたがい なし.
三類の 強敵 来らん 事 疑い 無し。.

われらが ほんし しゃかにょらいは ざいせ 8ねんの あいだ しゃくぶくし たまい.
我等が 本師・ 釈迦如来は 在世 八年の 間 折伏し 給ひ.

てんだいだいしは 30よねん でんぎょうだいしは 20よねん.
天台大師は 三十余年・ 伝教大師は 二十余年・.

いま にちれんは 20よねんの あいだ ごんりを はす.
今 日蓮は 二十余年の 間 権理を 破す.

その あいだの だいなん かずを しらず.
其の 間の 大難 数を 知らず、.

ほとけの くおうの なんに およぶか およばざるは しらず.
仏の 九横の 難に 及ぶか 及ばざるは 知らず、.

おそらくは てんだい でんぎょうも ほけきょうの ゆえに にちれんが ごとく だいなんに あい たまいし ことなし.
恐らくは 天台・ 伝教も 法華経の 故に 日蓮が 如く 大難に 値い 給いし 事なし、.

かれは ただ あっく おんしつばかり なり.
彼は 只 悪口・ 怨嫉計り なり、.

これは りょうどの ごかんき おんごくに るざいせられ たつのくちの くびの ざ こうべの きず とう そのほか あっく せられ.
是は 両度の 御勘気・ 遠国に 流罪せられ 竜口の 頚の 座 ・頭の 疵 等 其の外 悪口 せられ.

でしらを るざい せられ ろうに いれられ だんなの しょりょうを とられ みうちを いだされし.
弟子等を 流罪 せられ 篭に 入れられ 檀那の 所領を 取られ 御内を 出だされし、.

これらの だいなんには りゅうじゅ てんだい でんぎょうも いかでか および たまうべき.
是等の 大難には 竜樹・ 天台・ 伝教も 争か 及び 給うべき、.

されば にょせつしゅぎょうの ほけきょうの ぎょうじゃには さんるいの ごうてき うちさだんで あるべしと しり たまえ.
されば 如説修行の 法華経の 行者には 三類の 強敵 打ち定んで 有る可しと 知り 給へ、.

されば しゃくそん ごにゅうめつの のち 2せんねんが あいだに にょせつしゅぎょうの ぎょうじゃは.
されば 釈尊 御入滅の 後 二千余年が 間に 如説修行の 行者は.

しゃくそん てんだい でんぎょうの 3にんは さておき そうらいぬ.
釈尊・ 天台・ 伝教の 三人は・ さてをき 候ぬ、.

まっぽうに いっては にちれん ならびに でし だんな とう これなり.
末法に 入つては 日蓮 並びに 弟子 檀那 等 是なり、.

われらを にょせつしゅぎょうの ものと いわずば しゃくそん てんだい でんぎょう とうの 3にんも にょせつしゅぎょうの ひと なる べからず.
我等を 如説修行の 者と いはずば 釈尊 ・天台・ 伝教 等の 三人も 如説修行の 人 なる べからず、.

だいば くぎゃり ぜんしょう こうぼう じかく ちしょう ぜんどう ほうねん りょうかんぼうらは すなわち ほけきょうの ぎょうじゃと いわれ.
提婆・ 瞿伽利・ 善星・ 弘法・ 慈覚・ 智証・ 善導・ 法然・ 良観房等は 即ち 法華経の 行者と 云はれ、.

しゃくそん てんだい にちれん ならびに でし だんなは ねんぶつ しんごん ぜん りつ とうの ぎょうじゃ なるべし.
釈尊・ 天台・ 伝教・ 日蓮 並びに 弟子・ 檀那は 念仏・ 真言・ 禅・ 律 等の 行者 なるべし、.

ほけきょうは ほうべん ごんきょうと いわれ ねんぶつ とうの しょきょうは かえって ほけきょうと なるべきか.
法華経は 方便 権教と 云はれ 念仏 等の 諸経は 還つて 法華経と なるべきか、.

ひがしは にしと なり にしは ひがしと なるとも.
東は 西と なり 西は 東と なるとも.

だいちは たもつ ところの そうもく ともに とびあがりて てんと なり.
大地は 持つ 所の 草木 共に 飛び上りて 天と なり.

てんの にちがつ せいしゅくは ともに おちくだりて ちと なる ためしは ありとも.
天の 日月・ 星宿は 共に 落ち下りて 地と なる ためしは ありとも・.

いかでか この ことわり あるべき.
いかでか 此の 理 あるべき。.

あわれなるかな いま にほんこくの ばんみん にちれん ならびに でし だんならが
哀なるかな 今・ 日本国の 万民・ 日蓮 並びに 弟子 檀那等が.

さんるいの ごうてきに せめられて だいくに あうを みて よろこんで わらうとも.
三類の 強敵に 責められ 大苦に 値うを 見て 悦んで 笑ふとも.

きのうは ひとの うえ きょうは みの うえ なれば.
昨日は 人の 上・ 今日は 身の 上 なれば.

にちれん ならびに でし だんな ともに そうろの いのちの ひかげを まつ ばかり ぞかし.
日蓮 並びに 弟子・ 檀那 共に 霜露の 命の 日影を 待つ 計り ぞかし、.

ただいま ぶっかに かないて じゃっこうの ほんどに きょじゅうして じじゅうほうらくせん とき.
只今 仏果に 叶いて 寂光の 本土に 居住して 自受法楽せん 時、.

なんじらが あびだいじょうの そこに しずみて だいくに あわん とき.
汝等が 阿鼻大城の 底に 沈みて 大苦に 値わん 時.

われら いかばかり むざんと おもわんずらん.
我等 何計 無慚と 思はんずらん、.

なんじら いかばかり うらやましく おもわんずらん.
汝等 何計 うらやましく 思はんずらん、.

いちごを すぐる ことほども なければ いかに ごうてき かさなるとも.
一期を 過ぐる 事程も 無ければ いかに 強敵 重なるとも・.

ゆめゆめ たいするこころ なかれ おそるる こころ なかれ.
ゆめゆめ 退する 心 なかれ 恐るる 心 なかれ、.

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たとい くびをば のこぎりにて ひききり どうをば ひしほこを もって つつき.
縦ひ 頚をば 鋸にて 引き切り・ どうをば ひしほこを 以て・ つつき・.

あしには ほだしを うって きりを もって もむとも.
足には ほだしを 打つて きりを 以て もむとも、.

いのちの かよわん ほどは なんみょうほうれんげきょう なんみょうほうれんげきょうと となえて となえ じに しぬるならば.
命の かよはん ほどは 南無妙法蓮華経 ・南無妙法蓮華経と 唱えて 唱へ 死に 死るならば.

しゃか たほう じっぽうの しょぶつ りょうぜんえじょうにして ごけいやく なれば.
釈迦・ 多宝・ 十方の 諸仏 ・霊山会上にして 御契約 なれば.

しゅゆの ほどに とびきたりて てを とり かたに ひっかけて りょうぜんへ はしり たまわば.
須臾の 程に 飛び 来りて 手を とり 肩に 引懸けて 霊山へ・ はしり 給はば.

にしょう にてん じゅうらせつにょは じゅじの ものを おうごし.
二聖・ 二天・ 十羅刹女は 受持の 者を 擁護し.

しょてん ぜんじんは てんがいを さし はたを あげて われらを しゅごして.
諸天・ 善神は 天蓋を 指し 旛を 上げて 我等を 守護して.

たしかに じゃっこうの ほうせつへ おくり たまう べきなり.
慥かに 寂光の 宝刹へ 送り 給う べきなり、.

あらうれしや あらうれしや.
あらうれしや・ あらうれしや。.

ぶんえい 10ねん みずのととり 5がつ にち.
文永 十年 癸酉 五月 日.

にちれん ざいごはん.
日蓮 在御判.

ひとびと おんちゅうへ.
人々 御中へ.

この しょ おんみを はなさず つねに ごらん あるべく そうろう.
此の 書 御身を 離さず 常に 御覧 有る可く 候.

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