b505から509.
顕仏未来記 (けんぶつ みらいき).
日蓮大 聖人 52歳御作.

 

b505

けんぶつ みらいき.
顕仏 未来記.

しゃもん にちれん これを かんがう.
沙門 日蓮 之を 勘う.

ほけきょうの だい7に いわく.
法華経の 第七に 云く.

「わが めつどの のち のちの 500さいの なかに えんぶだいに こうせんるふして だんぜつ せしむること なけん」とう うんぬん.
「我が 滅度の 後・ 後の 五百歳の 中に 閻浮提に 広宣流布して 断絶 せしむること 無けん」等 云云、.

よ ひとたびは なげいて いわく.
予 一たびは 歎いて 云く.

ぶつめつご すでに 2220よねんを へだつ いかなる ざいごうに よって ほとけの ざいせに うまれず.
仏滅後 既に 二千二百二十余年を 隔つ 何なる 罪業に 依つて 仏の 在世に 生れず.

しょうほうの しえ ぞうほうの なかの てんだい でんぎょう とうにも あわざるやと.
正法の 四依・ 像法の 中の 天台・ 伝教 等にも 値わざるやと、.

また ひとたびは よろこんで いわく.
亦 一たびは 喜んで 云く.

いかなる さいわいあって ご 500さいに うまれて この しんもんを はいけんする ことぞや.
何なる 幸あつて 後 五百歳に 生れて 此の 真文を 拝見する ことぞや、.

ざいせも むやく なり ぜんしみの ひとは いまだ ほけきょうを きかず.
在世も 無益 なり 前四味の 人は 未だ 法華経を 聞かず.

しょうぞうも また よしなし なんさんほくしち ならびに けごん しんごん とうの がくしゃは ほけきょうを しんぜず.
正像も 又 由し無し 南三北七 並びに 華厳 真言 等の 学者は 法華経を 信ぜず、.

てんだいだいし いわく「ごの 500さい とおく みょうどうに うるおわん」とう うんぬん.
天台大師 云く「後の 五百歳 遠く 妙道に 沾おわん」等 云云.

こうせんるふの ときを さすか.
広宣流布の 時を 指すか、.

でんぎょうだいし いわく.
伝教大師 云く.

「しょうぞう やや すぎ おわって まっぽう はなただ ちかきに あり」とう うんぬん.
「正像 稍 過ぎ 已つて 末法 太だ 近きに 有り」等 云云.

まっぽうの はじめを がんぎょうするの ことばなり じだいを もって かほうを ろんず.
末法の 始を 願楽するの 言なり、 時代を 以て 果報を 論ず.

→a505

b506

されば りゅうじゅ てんじんに ちょうかし てんだい でんぎょうにも まさるる なり.
されば 竜樹・ 天親に 超過し 天台・ 伝教にも 勝るる なり。.

とうて いわく.
問うて 云く.

ご 500さいは なんじ 1にんに かぎらず なんぞ ことに これを きえつ せしむるや.
後 五百歳は 汝 一人に 限らず 何ぞ 殊に 之を 喜悦 せしむるや、.

こたえて いわく.
答えて 云く.

ほけきょうの だい4に いわく.
法華経の 第四に 云く.

「にょらいの げんざいにすら なお おんしつ おおし いわんや めつどの のちをや」もん.
「如来の 現在にすら 猶 怨嫉 多し 況や 滅度の 後をや」文、.

てんだい だいし いわく.
天台 大師 云く.

「いかに いわんや みらいをや り けし がたきに あり」もん.
「何に 況や 未来をや 理・ 化し 難きに 在り」文、.

みょうらくだいし いわく.
妙楽大師 云く.

「りざいなんげとは この りを あかす ことは こころ しゅじょうの けし がたきを しらしむるに あり」もん.
「理在難化とは 此の 理を 明す ことは 意・ 衆生の 化し 難きを 知らしむるに 在り」文、.

ちどほっし いわく.
智度法師 云く.

「ぞくに りょうやく くちに にがしと いうが ごとく.
「俗に 良薬 口に 苦しと 言うが 如く.

この きょうは 5じょうの いしゅうを はいして いちごくの げんしゅうを たつ ゆえに.
此の 経は 五乗の 異執を 廃して 一極の 玄宗を 立つ 故に.

ぼんを しりぞけ しょうを かし だいを はいし しょうを やぶる.
凡を 斥ぞけ 聖を 呵し 大を 排し 小を 破る.

ないし かくの ごときの と ことごとく るなんを なす」とう うんぬん.
乃至 此くの 如きの 徒 悉く 留難を 為す」等 云云、.

でんぎょうだいし いわく.
伝教大師 云く.

「よを かたれば すなわち ぞうの おわり まつの はじめ ちを たずぬれば とうの ひがし かつの にし.
「代を 語れば 則ち 像の 終り 末の 始・ 地を 尋れば 唐の 東・ 羯の 西.

ひとを たずぬれば すなわち 5じょくの しょう とうじょうの とき なり.
人を 原れば 則ち 五濁の 生・ 闘諍の 時 なり、.

きょうに いわく ゆたおんしつ きょうめつどごと この ことば まことに ゆえ あるなり」とう うんぬん.
経に 云く 猶多怨嫉・ 況滅度後と 此の 言 良に 以 有るなり」等 云云、.

この でんぎょうだいしの ひっせきは その ときに あたるに にたれども こころは とうじを さすなり.
此の 伝教大師の 筆跡は 其 の時に 当るに 似たれども 意は 当時を 指すなり.

しょうぞう やや すぎ おわって まっぽう はなはだ ちかきに ありの しゃくは こころ あるかな.
正像 稍 過ぎ 已つて 末法 太だ 近きに 有りの 釈は 心 有るかな、.

きょうに いわく.
経に 云く.

「あくま まみん しょてんりゅう やしゃ くはんだ とう その たよりを えん」うんぬん.
「悪魔・ 魔民・ 諸天竜・ 夜叉・ 鳩槃荼 等 其の 便りを 得ん」云云、.

いう ところの とうとは この きょうに また いわく.
言う 所の 等とは 此の 経に 又 云わく.

「もしは やしゃ もしは らせつ もしは がき もしは ふるな もしは きっしゃ もしは びだら もしは けんだ もしは うまろぎゃ もしは あばつまら もしは やしゃきっしゃ もしは にんきっしゃ」とう うんぬん.
「若は 夜叉・ 若は 羅刹・ 若は 餓鬼・ 若は 富単那・ 若は 吉遮・ 若は 毘陀羅・ 若は ケン駄 ・若は 烏摩勒伽・ 若は 阿跋摩羅・ 若は 夜叉吉遮・ 若は 人吉遮」等 云云、.

この もんの ごときは せんしょうに しみさんきょう ないし げどう にんてん とうの ほうを じとくして.
此の 文の 如きは 先生に 四味三教・ 乃至 外道・ 人天 等の 法を 持得して.

こんじょうに あくま しょてん しょにん とうの みを うけたる ものが.
今生に 悪魔・ 諸天・ 諸人 等の 身を 受けたる 者が.

えんじつの ぎょうじゃを けんぶんして るなんを いたすべき よしを とく なり.
円実の 行者を 見聞して 留難を 至すべき 由を 説く なり。.

うたがって いわく しょうぞうの にじを まっぽうに そうたい するに.
疑つて 云く 正像の 二時を 末法に 相対 するに.

ときと きと ともに しょうぞうは ことに まさるる なり.
時と 機と 共に 正像は 殊に 勝るる なり.

なんぞ そのじきを すてて ひとえに とうじを さすや.
何ぞ 其の 時機を 捨てて 偏に 当時を 指すや、.

こたえて いわく ぶつい はかり がたし.
答えて 云く 仏意 測り 難し.

よ いまだ これを えず こころみに いちぎを あんじ しょうじょうきょうを もって これを かんがうるに.
予 未だ 之を 得ず 試みに 一義を 案じ 小乗経を 以て 之を 勘うるに.

しょうほう せんねんは きょう ぎょう しょうの みっつ つぶさに これを そなう.
正法 千年は 教 行 証の 三つ 具さに 之を 備う.

ぞうほう せんねんには きょう ぎょう のみ あって しょう なし.
像法 千年には 教 行 のみ 有つて 証 無し.

まっぽうには きょう のみ あって ぎょう しょう なし とう うんぬん.
末法には 教 のみ 有つて 行 証 無し 等 云云、.

ほけきょうを もって これを さぐるに しょうほう せんねんに さんじを ぐするは ざいせに おいて ほけきょうに けちえんする ものか.
法華経を 以て 之を 探るに 正法 千年に 三事を 具するは 在世に 於て 法華経に 結縁する 者か.、

その ご しょうほうに うまれて しょうじょうの きょう ぎょうを もって えんと なし しょうじょうの しょうを える なり.
其の 後 正法に 生れて 小乗の 教行を 以て 縁と 為し 小乗の 証を 得る なり、.

ぞうほうに おいては ざいせの けちえん びはくの ゆえに しょうじょうに おいて しょうすること なく.
像法に 於ては 在世の 結縁 微薄の 故に 小乗に 於て 証すること 無く.

この ひと ごんだいじょうを もって えんと なして じっぽうの じょうどに しょうず.
此の 人・ 権大乗を 以て 縁と 為して 十方の 浄土に 生ず、.

まっぽうに おいては だいしょうの やく ともに これ なし.
末法に 於ては 大小の 益 共に 之 無し、.

しょうじょうには きょうのみ あって ぎょう しょう なし.
小乗には 教のみ 有つて 行 証 無し、.

だいじょうには きょう ぎょう のみ あって みょうけんの しょう これ なし.
大乗には 教 行 のみ 有つて 冥顕の 証 之 無し、.

→a506

b507

その うえ しょうぞうの ときの しょりゅうの ごんしょうの にしゅう ぜんぜん まっぽうに いって.
其の 上 正像の 時の 所立の 権小の 二宗・ 漸漸・ 末法に 入て.

しゅうしん いよいよ ごうじょうにして しょうを もって だいを うち ごんを もって じつを やぶり.
執心 弥 強盛にして 小を 以て 大を 打ち 権を 以て 実を 破り.

こくどに だいたい ほうぼうの もの じゅうまんする なり.
国土に 大体 謗法の 者 充満する なり、.

ぶっきょうに よって あくどうに だする ものは だいち みじん よりも おおく.
仏教に 依つて 悪道に 堕する 者は 大地 微塵 よりも 多く.

しょうほうを ぎょうじて ぶつどうを えるものは そうじょうの ど よりも すくなき なり.
正法を 行じて 仏道を 得る 者は 爪上の 土 よりも 少き なり、.

この ときに あたって しょてんぜんじん そのくにを しゃりし.
此の 時に 当つて 諸天善神 其の 国を 捨離し.

ただ じゃてん じゃき とう あって おうしん びく びくにらの しんしんに にゅうじゅうし.
但 邪天・ 邪鬼 等 有つて 王臣・ 比丘・ 比丘尼等の 身心に 入住し.

ほけきょうの ぎょうじゃを めり きにく せしむべき とき なり.
法華経の 行者を 罵詈・ 毀辱 せしむべき 時 なり、.

しかりと いえども ほとけの めつごに おいて しみ さんきょう とうの じゃしゅうを すて.
爾りと 雖も 仏の 滅後に 於て 四味・ 三教 等の 邪執を 捨て.

じつだいじょうの ほけきょうに きせば しょてんぜんじん ならびに じゆせんがい とうの ぼさつ ほっけの ぎょうじゃを しゅごせん.
実大乗の 法華経に 帰せば 諸天善神 並びに 地涌千界 等の 菩薩・ 法華の 行者を 守護せん.

この ひとは しゅごの ちからを えて ほんもんの ほんぞん みょうほうれんげきょうの 5じを もって えんぶだいに こうせんるふ せしめんか.
此の 人は 守護の 力を 得て 本門の 本尊・ 妙法蓮華経の 五字を 以て 閻浮堤に 広宣流布 せしめんか、.

れいせば いおんのうぶつの ぞうほうの とき ふきょうぼさつ がじんきょう とうの 24じを もって かのどに こうせんるふし.
例せば 威音王仏の 像法の 時・ 不軽菩薩・ 我深敬 等の 二十四字を 以て 彼の土に 広宣流布し.

いっこくの じょうもく とうの だいなんを まねきしが ごとし.
一国の 杖木 等の 大難を 招きしが 如し、.

かの 24じと この 5じと その ことば ことなりと いえども その い これ おなじ.
彼の 二十四字と 此の 五字と 其の 語 殊なりと 雖も 其の 意 是れ 同じ.

かの ぞうほうの まつと この まっぽうの はじめと まったく おなじ.
彼の 像法の 末と 是の 末法の 初と 全く 同じ.

かの ふきょうぼさつは しょずいきの ひと にちれんは みょうじの ぼんぷ なり.
彼の 不軽菩薩は 初随喜の 人・ 日蓮は 名字の 凡夫 なり。.

うたがって いわく なにを もって これを しる.
疑つて 云く 何を 以て 之を 知る.

なんじを まっぽうの はじめの ほけきょうの ぎょうじゃなりと なすと いうことを.
汝を 末法の 初の 法華経の 行者なりと 為すと 云うことを、.

こたえて いわく ほけきょうに いわく「いわんや めつどの のちをや」また いわく.
答えて 云く 法華経に 云く「況んや 滅度の 後をや」又 云く.

「もろもろの むちの ひと あって あっくめり とう し および とうじょうを くわうるもの あらん」.
「諸の 無智の 人 有つて 悪口罵詈 等 し 及び 刀杖を 加うる 者 あらん」.

また いわく「しばしば ひんずい せられん」.
又 云く「数数 擯出 せられん」.

また いわく「いっさいせけん あだ おおくして しんじ がたし」.
又 云く「一切世間 怨 多くして 信じ 難し」.

また いわく「じょうもくがしゃくを もって これを ちょうちゃくす」.
又 云く「杖木瓦石を もつて 之を 打擲す」.

また いわく「あくま まみん しょてんりゅう やしゃ くはんだ とう その たよりを えん」とう うんぬん.
又 云く「 悪魔・ 魔民・ 諸天竜・ 夜叉・ 鳩槃荼 等 其の 便りを 得ん」等 云云、.

この みょうきょうに ついて ぶつごを しんぜしめんが ために.
此の 明鏡に 付いて 仏語を 信ぜしめんが 為に、.

にほんこくじゅうの おうしん ししゅうの めんもくに ひき むかえたるに.
日本国中の 王臣・ 四衆の 面目に 引き 向えたるに.

よ よりの ほかには いちにんも これ なし.
予 よりの 外には 一人も 之 無し、.

ときを ろんずれば まっぽうの はじめ いちじょう なり.
時を 論ずれば 末法の 初め 一定 なり、.

しかる あいだ もし にちれん なくんば ぶつごは こもうと ならん.
然る 間 若し 日蓮 無くんば 仏語は 虚妄と 成らん、.

なんじて いわく なんじは だいまんの ほっしにして だいてんに すぎ しぜんびくにも こえたり いかん.
難じて 云く 汝は 大慢の 法師にして 大天に 過ぎ 四禅比丘にも 超えたり 如何、.

こたえて いわく なんじ にちれんを べつじょするの じゅうざい また だいばだったに すぎ むくろんじにも こえたり.
答えて 云く 汝 日蓮を 蔑如するの 重罪 又 提婆達多に 過ぎ 無垢論師にも 超えたり、.

わが ことばは だいまんに にたれども ぶっきを たすけ にょらいの じつごを あらわさんが ためなり.
我が 言は 大慢に 似たれども 仏記を 扶け 如来の 実語を 顕さんが 為なり、.

しかりと いえども にほんこくじゅうに にちれんを のぞいては だれびとを とりいだして ほけきょうの ぎょうじゃと なさん.
然りと 雖も 日本国中に 日蓮を 除いては 誰人を 取り出して 法華経の 行者と 為さん.

なんじ にちれんを そしらんとして ぶっきを こもうに す あに だいあくにんに あらずや.
汝 日蓮を 謗らんとして 仏記を 虚妄に す 豈 大悪人に 非ずや。.

→a507

b508


うたがって いわく にょらいの みらいき なんじに あいあたれり.
疑つて 云く 如来の 未来記 汝に 相当れり、.

ただし 5てんじく ならびに かんど とうにも ほけきょうの ぎょうじゃ これ あるか いかん.
但し 五天竺 並びに 漢土 等にも 法華経の 行者 之 有るか 如何、.

こたえて いわく してんげの なかに まったくの ふたつの ひ なし しかいの うち あに りょうしゅ あらんや.
答えて 云く 四天下の 中に 全く 二の 日 無し 四海の 内 豈 両主 有らんや、.

うたがって いわく なにを もって なんじ これを しる.
疑つて 云く 何を 以て 汝 之を 知る、.

こたえて いわく つきは にしより いでて ひがしを てらし ひは ひがしより いでて にしを てらす.
答えて 云く 月は 西より 出でて 東を 照し 日は 東より 出でて 西を 照す.

ぶっぽうも また もって かくの ごとし.
仏法も 又 以て 是くの 如し.

しょうぞうには にしより ひがしに むかい まっぽうには ひがしより にしに ゆく.
正像には 西より 東に 向い 末法には 東より 西に 往く、.

みょうらくだいしの いわく「あに ちゅうごくに ほうを うしないて これを しいに もとむるに あらずや」とう うんぬん.
妙楽大師の 云く「豈 中国に 法を 失いて 之を 四維に 求むるに 非ずや」等 云云、.

てんじくに ぶっぽう なき しょうもん なり.
天竺に 仏法 無き 証文 なり.

かんどに おいて こうそうこうていの とき ほくてき とんきんを りょうして いまに 150よねん ぶっぽう おうほう ともに つき おわんぬ.
漢土に 於て 高宗皇帝の 時 北狄 東京を 領して 今に 一百五十余年 仏法 王法 共に 尽き 了んぬ、.

かんどの だいぞうの なかに しょうじょうきょうは いっこう これ なく だいじょうきょうは たぶん これを しっす.
漢土の 大蔵の 中に 小乗経は 一向 之れ 無く 大乗経は 多分 之を 失す、.

にほん より じゃくしょうら しょうしょう これを わたす しかりと いえども.
日本 より 寂照等 少少 之を 渡す 然りと 雖も.

でんじの ひと なければ なお もくせきの えはつを たいじ せるが ごとし.
伝持の 人 無れば 猶 木石の 衣鉢を 帯持 せるが 如し、.

ゆえに じゅんしきの いわく.
故に 遵式の 云く.

「はじめ にしより つたう なお つきの しょうずるが ごとし いままた ひがしより かえる なお ひの のぼるが ごとし」とう うんぬん.
「始 西より 伝う 猶 月の 生ずるが 如し 今復 東より 返る 猶 日の 昇るが 如し」等 云云、.

これらの しゃくの ごとくんば てんじく かんどに おいて ぶっぽうを しっせる こと もちろん なり.
此等の 釈の 如くんば 天竺 漢土に 於て 仏法を 失せる こと 勿論 なり、.

とうて いわく がっし かんどに おいて ぶっぽう なきことは これを しれり.
問うて 云く 月氏 漢土に 於て 仏法 無きことは 之を 知れり、.

とうざいほくの さんしゅうに ぶっぽう なきことは なにを もって これを しる.
東西北の 三洲に 仏法 無き事は 何を 以て 之を 知る、.

こたえて いわく ほけきょうの だい8に いわく.
答えて 云く 法華経の 第八に 云く.

「にょらいの めつごに おいて えんぶだいの うちに ひろく るふ せしめて だんぜつ せざらしめん」とう うんぬん.
「如来の 滅後に 於て 閻浮提の 内に 広く 流布 せしめて 断絶 せざらしめん」等 云云、.

うちの じは さんしゅうを きらう もん なり.
内の 字は 三洲を 嫌う 文 なり、.

とうて いわく ぶっき すでに かくの ごとし なんじが みらいき いかん.
問うて 曰く 仏記 既に 此くの 如し 汝が 未来記 如何、.

こたえて いわく ぶっきに じゅんじて これを かんがうるに.
答えて 曰く 仏記に 順じて 之を 勘うるに.

すでに ご 500さいの はじめに あいあたれり ぶっぽう かならず とうどの にほん より いずべきなり.
既に 後五百歳の 始に 相当れり 仏法 必ず 東土の 日本 より 出づべきなり、.

その ぜんそう かならず しょうぞうに ちょうかせる てんぺんちよう これ あるか.
其の 前相 必ず 正像に 超過せる 天変地夭 之れ 有るか、.

いわゆる ぶっしょうの とき てんぽうりんの とき にゅうねはんの とき きちずい きょうずいともに ぜんごに たえたる だいずい なり.
所謂 仏生の 時・ 転法輪の 時・ 入涅槃の 時 吉瑞・ 凶瑞 共に 前後に 絶えたる 大瑞 なり、.

ほとけは これ しょうにんの もと なり.
仏は 此れ 聖人の 本 なり.

きょうぎょうの もんを みるに ほとけの ごたんじょうの ときは 5しきの こうき しほうに あまねくして よるも ひるの ごとし.
経経の 文を 見るに 仏の 御誕生の 時は 五色の 光気・ 四方に 遍くして 夜も 昼の 如し.

ほとけ ごにゅうめつの ときには 12の はっこう なんぼくに わたり だいにちりん ひかり なくして あんやの ごとく なりし.
仏 御入滅の 時には 十二の 白虹・ 南北に 亘り 大日輪 光り 無くして 闇夜の 如く なりし、.

その のち しょうぞう 2せんねんの あいだ ないげの しょうにん しょうめつ あれども この だいずいには しかず.
其の 後 正像 二千年の 間・ 内外の 聖人・ 生滅 有れども 此の 大瑞には 如かず、.

しかるに いぬる しょうか ねんちゅうより ことしに いたるまで あるいは おおじしん あるいは だいてんぺん あたかも ぶっだの しょうめつの ときの ごとし.
而るに 去ぬる 正嘉 年中より 今年に 至るまで 或は 大地震・ 或は 大天変・ 宛かも 仏陀の 生滅の 時の 如し、.

まさに しるべし ほとけの ごとき しょうにん うまれ たまわんか.
当に 知るべし 仏の 如き 聖人 生れ たまわんか、.

おおぞらに わたって だいすいせい いず たれの おうしんを もって これに たいせん.
大虚に 亘つて 大彗星 出づ 誰の 王臣を 以て 之に 対せん、.

とうずい だいちを けいどうして みたび しんれつす.
当瑞 大地を 傾動して 三たび 振裂す.

いずれの せいけんをもって これに おおせん
何れの 聖賢を 以て 之に 課せん、.

まさに しるべし つうず せけんの きっきょうの だいずいには あらざるべし.
当に 知るべし 通途 世間の 吉凶の 大瑞には 非ざるべし.

これ ひとえに この だいほう こうはいの だいずい なり.
惟れ 偏に 此の 大法 興廃の 大瑞 なり、.

→a508

b509

てんだい いわく.
天台 云く.

「あめの たけきを みて りゅうの だいなるを しり はなの さかんなるを みて いけの ふかきを しる」とう うんぬん.
「雨の 猛きを 見て 竜の 大なるを 知り 華の 盛なるを 見て 池の 深きを 知る」等 云云、.

みょうらくの いわく.
妙楽の 云く.

「ちじんは きを しり じゃは みずから じゃを しる」とう うんぬん.
「智人は 起を 知り 蛇は 自ら 蛇を 識る」等 云云、.

にちれん この どうりを ぞんして すでに 21ねん なり.
日蓮 此の 道理を 存して 既に 二十一年 なり、.

ひごろの わざわい つきごろの なん この りょう 3ねんの あいだの こと すでに しざいに およばんと す.
日来の 災・ 月来の 難・ 此の 両 三年の 間の 事 既に 死罪に 及ばんと す.

ことし こんげつ まんがいちも のがれがたき しんみょう なり.
今年・ 今月 万が一も 脱がれ難き 身命 なり、.

よの ひと うたがい あらば いさいの ことは でしに これを とえ.
世の 人 疑い 有らば 委細の 事は 弟子に 之を 問え、.

さいわいなるかな いっしょうの うちに むしの ほうぼうを しょうめつせん ことを.
幸なるかな 一生の 内に 無始の 謗法を 消滅せん ことを.

よろこばしいかな いまだ けんもんせざる きょうしゅ しゃくそんに つかえ たてまつらん ことよ.
悦ばしいかな 未だ 見聞せざる 教主 釈尊に 侍え 奉らん ことよ、.

ねがわくは われを そんずる こくしゅ とうをば さいしょに これを みちびかん.
願くは 我を 損ずる 国主 等をば 最初に 之を 導かん、.

われを たすくる でし とうをば しゃくそんに これを もうさん.
我を 扶くる 弟子 等をば 釈尊に 之を 申さん、.

われを うめる ふぼ とうには いまだ しせざる いぜんに この だいぜんを すすめん.
我を 生める 父母 等には 未だ 死せざる 已前に 此の 大善を 進めん、.

ただし いま ゆめの ごとく ほうとうほんの こころを えたり.
但し 今 夢の 如く 宝塔品の 心を 得たり、.

この きょうに いわく.
此の 経に 云く.

「もしを しゅみを とって たほうの むしゅの ぶつどに なげ おかんも また いまだ これ かたしと せず.
「若し 須弥を 接つて 他方の 無数の 仏土に 擲げ 置かんも 亦 未だ 為 難しと せず.

ないし もし ほとけの めつごに あくせの なかに おいて よく この きょうを とかん これ すなわち これ かたし」とう うんぬん.
乃至 若し 仏の 滅後に 悪世の 中に 於て 能く 此の 経を 説かん 是れ 則ち 為 難し」等 云云、.

でんぎょうだいし いわく.
伝教大師 云く.

「あさきは やすく ふかきは かたしとは しゃかの しょはん なり あさきを さって ふかきに つくは じょうぶの こころ なり.
「浅きは 易く 深きは 難しとは 釈迦の 所判 なり 浅きを 去つて 深きに 就くは 丈夫の 心 なり、.

てんだいだいしは しゃかに しんじゅんし ほっけしゅうを たすけて しんたんに ふようし.
天台大師は 釈迦に 信順し 法華宗を 助けて 震旦に 敷揚し・.

えいざんの いっけは てんだいに そうじょうし ほっけしゅうを たすけて にほんに ぐづうす」とう うんぬん.
叡山の 一家は 天台に 相承し 法華宗を 助けて 日本に 弘通す」等 云云、.

あんしゅうの にちれんは おそらくは さんしに そうじょうし ほっけしゅうを たすけて まっぽうに るつうす.
安州の 日蓮は 恐くは 三師に 相承し 法華宗を 助けて 末法に 流通す.

3に 1を くわえて さんごく ししと なづく.
三に 一を 加えて 三国 四師と 号く、.

なんみょうほうれんげきょう なんみょうほうれんげきょう.
南無妙法蓮華経・ 南無妙法蓮華経。.

ぶんえい 10ねん たいさい みずのととりのちの 5がつ 11にち.
文永 十年 太歳 癸酉後 五月 十一日.

そうもん にちれん これを しるす.
桑門 日蓮 之を 記す.


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