b544から557.
法華初心成仏抄 (ほっけ しょしん じょうぶつしょう).
日蓮大聖人 56歳 御作.

 

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ほっけ しょしん じょうぶつしょう.
法華 初心 成仏抄.

けんじ 3ねん 56さい おんさく.
建治 三年 五十六歳 御作.

あたう おかみやみょうほうあま.
与 岡宮妙法尼.

とうて いわく.
問うて 云く.

はっしゅう 9しゅう 10しゅうの なかに いずれか しゃかぶつの たて たまえる しゅう なるか.
八宗 九宗 十宗の 中に 何か 釈迦仏の 立て 給へる 宗 なるや.

こたえて いわく ほっけしゅうは しゃか しょりゅうの しゅう なり.
答えて 云く 法華宗は 釈迦 所立の 宗 なり.

その ゆえは いせつ こんせつ とうせつの なかには ほけきょう だいいち なりと とき たもう.
其の 故は 已説 今説 当説の 中には 法華経 第一 なりと 説き 給う.

これ しゃかぶつの たて たもう ところの おんことば なり.
是れ 釈迦仏の 立て 給う 処の 御語 なり.

ゆえに ほけきょうをば ぶつりゅうしゅうと いい または ほっけしゅうと いう.
故に 法華経をば 仏立宗と 云い 又は 法華宗と 云う.

また てんだいしゅうとも いうなり.
又 天台宗とも 云うなり.

ゆえに でんぎょうだいしの しゃくに いわく.
故に 伝教大師の 釈に 云く.

てんだい しょしゃくの ほっけの しゅうは しゃかせそん しょりゅうのしゅうと いえり.
天台 所釈の 法華の 宗は 釈迦世尊 所立の 宗と 云へり.

ほっけ より ほかの きょうには まったく いこんとうの もん なきなり.
法華 より 外の 経には 全く 已今当の 文 なきなり.

いせつとは ほっけ より いぜんの 40よねんの しょきょうを いう.
已説とは 法華 より 已前の 四十余年の 諸経を 云う.

こんきょうとは むりょうぎきょうを いう.
今説とは 無量義経を 云う.

とうせつとは ねはんぎょうを いう.
当説とは 涅槃経を 云う.

この さんせつの ほかに ほけきょう ばかり じょうぶつ する しゅうなりと ほとけ さだめ たまえり.
此の 三説の 外に 法華経 計り 成仏 する 宗 なりと 仏 定め 給へり.

よしゅうは ほとけ ねはんし たまいて のち.
余宗は 仏 涅槃し 給いて 後.

あるいは ぼさつ あるいは にんしたちの こんりゅうする しゅう なり.
或は 菩薩 或は 人師達の 建立する 宗 なり.

ほとけの おんさだめに そむきて ぼさつ にんしの たてたる しゅうを もちゆべきか.
仏の 御定を 背きて 菩薩 人師の 立てたる 宗を 用ゆべきか.

ぼさつ にんしの ことばを そむきて ほとけの たて たまえる しゅうを もちゆべきか.
菩薩 人師の 語を 背きて 仏の 立て 給へる 宗を 用ゆべきか.
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また いずれをも おもいおもいに わが こころに まかせて こころざし あらん.
又 何れをも 思い思いに 我が 心に 任せて 志 あらん.

きょうほうを たもつべきかと おもう ところに ほとけ これを かねて しろしめして.
経法を 持つべきかと 思う 処に 仏 是を 兼て 知し召して.

まっぽう じょくあくの よに しんじつの どうしん あらん ひとびとの たもつべき きょうを さだめ たまえり.
末法 濁悪の 世に 真実の 道心 あらん 人人の 持つべき 経を 定め 給へり.

きょうに いわく「ほうに よって にんに よらざれ.
経に 云く「法に 依つて 人に 依らざれ.

ぎに よって ことばに よらざれ.
義に 依つて 語に 依らざれ.

ちに よって しきに よらざれ.
知に 依つて 識に 依らざれ.

りょうぎきょうに よって ふりょうぎきょうに よらざれ」.
了義経に 依つて 不了義経に 依らざれ」.

この もんの こころは ぼさつ にんしの ことばには よる べからず.
此の 文の 心は 菩薩 人師の 言には 依る べからず.

ほとけの ごじょうを もちいよ.
仏の 御定を 用いよ.

けごん あごん ほうどう はんにゃきょう とうの しんごん ぜんしゅうねんぶつ とうの ほうには よらざれ.
華厳 阿含 方等 般若経 等の 真言 禅宗 念仏 等の 法には 依らざれ.

りょうぎきょうを たもつべし.
了義経を 持つべし.

りょうぎきょうと いうは ほけきょうを たもつべしと いう もん なり.
了義経と 云うは 法華経を 持つべしと 云う 文 なり.

とうて いわく いま にほんこくを みるに とうじ 5じょくの さわり おもく.
問うて 云く 今 日本国を 見るに 当時 五濁の 障 重く.

とうじょうけんごにして しんにの こころ たけく しっとの おもい はなはだし.
闘諍堅固にして 瞋恚の 心 猛く 嫉妬の 思い 甚し.

かかる くに かかる ときには いずれの きょうをか ひろむべしや.
かかる 国 かかる 時には 何れの 経をか 弘むべきや.

こたえて いわく ほけきょうを ひろむべき くに なり.
答えて 云く 法華経を 弘むべき 国 なり.

その ゆえは ほけきょうに いわく.
其の 故は 法華経に 云く.

「えんぶだいの うちに ひろく るふ せしめて だんぜつ せざらしめん」とう うんぬん.
「閻浮提の 内に 広く 流布 せしめて 断絶 せざらしめん」 等 云云.

ゆいがろんには うしとらの すみに だいじょう みょうほうれんげきょうの るふ すべき しょうこく ありと みえたり.
瑜伽論には 丑寅の 隅に 大乗 妙法蓮華経の 流布 すべき 小国 ありと 見えたり.

あんねんわじょう いわく「わが にほんこく」 とう うんぬん.
安然和尚 云く 「我が 日本国」 等 云云.

てんじく よりは うしとらの かどに この にほんこくは あたる なり.
天竺 よりは 丑寅の 角に 此の 日本国は 当る なり.

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また えしん そうずの いちじょう ようけつに いわく.
又 慧心 僧都の 一乗 要決に 云く.

「にほん いっしゅう えんき じゅんいちにして ちょうや おんごん おなじく いちじょうに きし.
「日本 一州 円機 純一にして 朝野 遠近 同く 一乗に 帰し.

しそきせん ことごとく じょうぶつを きせん」 うんぬん.
緇素貴賤 悉く 成仏を 期せん」 云云.

この もんの こころは にほんこくは きょう かまくら つくし ちんぜい みちおく.
此の 文の 心は 日本国は 京 鎌倉 筑紫 鎮西 みちをく.

とおきも ちかきも ほっけ いちじょうの き のみ ありて.
遠きも 近きも 法華 一乗の 機 のみ 有りて.

かみも しもも きも せんも じかいも はかいも おとこも おんなも.
上も 下も 貴も 賤も 持戒も 破戒も 男も 女も.

みな おしなべて ほけきょうにて じょうぶつ すべき くに なりと いう もん なり.
皆 おしなべて 法華経にて 成仏 すべき 国 なりと 云う 文 なり.

たとえば こんろんざんに いし なく ほうらいさんに どく なきが ごとく.
譬えば 崑崙山に 石 なく 蓬ライ山に 毒 なきが 如く.

にほんは もっぱらに ほけきょうの くに なり.
日本国は 純に 法華経の 国 なり.

しかるに ほけきょうは もとより めでたき おんきょう なれば.
而るに 法華経は 元より めでたき 御経 なれば.

だれか しんぜざると ことばには いうて.
誰か 信ぜざると 語には 云うて.

しかも ちゅうや ちょうぼに みだねんぶつを もうす ひとは.
而も 昼夜 朝暮に 弥陀念仏を 申す 人は.

くすりは めでたしと ほめて あさゆう どくを ふくする ものの ごとし.
薬は めでたしと ほめて 朝夕 毒を 服する 者の 如し.

あるいは ねんぶつも ほけきょうも ひとつなりと いわん ひとは.
或は 念仏も 法華経も 一なりと 云はん 人は.

いしも たまも じょうろうも げろうも どくも くすりも ひとつ なりと いわん ものの ごとし.
石も 玉も 上﨟も 下﨟も 毒も 薬も 一 なりと 云わん 者の 如し.

そのうえ ほけきょうを あだみ ねたみ にくみ そしり かろしめ いやしむ やから のみ おおし.
其の 上 法華経を 怨み 嫉み 悪み 毀り 軽しめ 賤む 族 のみ 多し.

きょうに いわく 「いっさいせけん たおんなんしん」.
経に 云く 「一切世間 多怨難信」.

また いわく 「にょらいげんざい ゆたおんしつ きょうめつどご」の きょうもん すこしも たがわず あたれり.
又 云く 「如来現在 猶多怨嫉 況滅度後」の 経文 少しも 違はず 当れり.

されば でんぎょうだいしの しゃくに いわく.
されば 伝教大師の 釈に 云く.

「よを かたれば すなわち ぞうの おわり まつの はじめ.
「代を 語れば 則ち 像の 終り 末の 初め.

ちを たずぬれば とうの ひがし かつの にし.
地を 尋ぬれば 唐の 東 羯の 西.

ひとを たずぬれば すなわち 5じょくの しょう とうじょうの とき なり.
人を 原ぬれば 則ち 五濁の 生 闘諍の 時 なり.

きょうに いわく ゆたおんしつ きょうめつどごと この ことば まことに ゆえ あるなり」と.
経に 云く 猶多怨嫉 況滅度後と 此の 言 良に 以 有るなり」と.

これらの もんしゃくを もって しるべし.
此等の 文釈を もつて 知るべし.

にほんこくにほ けきょう より ほかの しんごん ぜん りっしゅう ねんぶつしゅう とうの きょうぎょう.
日本国に 法華経 より 外の 真言 禅 律宗 念仏宗 等の 経教.

やまやま てらでら ちょうや おんごんに ひろまると いえども.
山山 寺寺 朝野 遠近に 弘まると いへども.

まさしく くにに そおうして ほとけの ごほんいに あいかない.
正く 国に 相応して 仏の 御本意に 相叶ひ.

しょうじを はなるべき ほうには あらざる なり.
生死を 離るべき 法には あらざる なり.

とうて いわく けごんきょうには 5きょうを たて よの いっさいの きょうは おとれり.
問うて 云く 華厳宗には 五教を 立て 余の 一切の 経は 劣れり.

けごんきょうは まさると いい しんごんしゅうには じゅうじゅうしんを たて.
華厳経は 勝ると 云ひ 真言宗には 十住心を 立て.

よの いっさいきょうは けんきょう なれば おとる なり.
余の 一切経は 顕教 なれば 劣る なり.

しんごんしゅうは みっきょう なれば すぐれたり という.
真言宗は 密教 なれば 勝れたりと 云う.

ぜんしゅうには よの いっさいきょうをば きょうないと きらいて きょうげべつでん ふりゅうもんじと たて.
禅宗には 余の 一切経をば 教内と 簡いて 教外別伝 不立文字と 立て.

かべに むかいて さとれば ぜんしゅう ひとり すぐれたりと いう.
壁に 向いて 悟れば 禅宗 独り 勝れたりと 云う.

じょうどしゅうには しょうぞう 2ぎょうを たて.
浄土宗には 正雑 二行を 立て.

ほけきょうとうの いっさいきょうをば しゃへいかくほうし ぞうぎょうと きらい.
法華経 等の 一切経をば 捨閉閣抛し 雑行と 簡ひ.

じょうどの 3ぶきょうを きに かない めでたき しょうぎょう なりと いう.
浄土の 三部経を 機に 叶ひ めでたき 正行 なりと 云う.

おのおの がまんを たて たがいに へんしゅうを なす.
各各 我慢を 立て 互に 偏執を 作す.

いずれか しゃかぶつの ごほんい なるや.
何れか 釈迦仏の 御本意 なるや.

こたえて いわく しゅうじゅう かくべつに わが きょう こそ すぐれたれ.
答えて 云く 宗宗 各別に 我が 経 こそ すぐれたれ.

よきょうは おとれりと いいて わが しゅう よしと いうことは.
余経は 劣れりと 云いて 我が 宗 吉と 云う事は.

ただ これ にんしの ことばにて ぶっせつに あらず.
唯 是れ 人師の 言にて 仏説に あらず.

ただし ほけきょう ばかりこそ ほとけ 5みの たとえを ときて.
但し 法華経 計りこそ 仏 五味の 譬を 説きて.

5じの きょうに あて この きょうの すぐれたる よしを とき.
五時の 教に 当て 此の 経の 勝れたる 由を 説き.

あるいは また いこんとうの さんせつの なかに ほとけに なる みちは.
或は 又 已今当の 三説の 中に 仏に なる 道は.

ほけきょうに およぶ きょう なしと いうことは ただしき ほとけの きんげん なり.
法華経に 及ぶ 経 なしと 云う事は 正しき 仏の 金言 なり.

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しかるに わが きょうは ほけきょうに すぐれたり.
然るに 我が 経は 法華経に 勝れたり.

わが しゅうは ほっけしゅうに すぐれたりと いわん ひとは.
我が 宗は 法華宗に 勝れたりと 云はん 人は.

げろうが じょうろうを ぼんげと くだし.
下﨟が 上﨟を 凡下と 下し.

そうでんの じゅうしゃが しゅに てきたいして わが げにん なりと いわんが ごとし.
相伝の 従者が 主に 敵対して 我が 下人 なりと 云わんが 如し.

なんぞ だいざいに おこなわれ ざらんや.
何ぞ 大罪に 行なはれ ざらんや.

ほけきょう より よきょうを くだす ことは にんしの ことばに あらず.
法華経 より 余経を 下す 事は 人師の 言に あらず.

きょうもん ふんみょう なり.
経文 分明 なり.

たとえば こくおうの ばんにんに すぐれたりと なのり.
譬えば 国王の 万人に 勝れたりと 名乗り.

さむらいの ぼんげを げろうと いわんに なんの とがか あるべきや.
侍の 凡下を 下﨟と 云わんに 何の 禍か あるべきや.

この きょうは これ ほとけの ごほんい なり.
此の 経は 是れ 仏の 御本意 なり.

てんだい みょうらくの しょうい なり.
天台 妙楽の 正意 なり.

とうて いわく しゃか いちごの せっぽうは みな しゅじょうの ためなり.
問うて 云く 釈迦 一期の 説法は 皆 衆生の ためなり.

しゅじょうの こんじょう ばんさ なれば せっぽうも しゅじゅ なり.
衆生の 根性 万差 なれば 説法も 種種 なり.

いずれも みな とくどう なるを ほんいと す.
何れも 皆 得道 なるを 本意と す.

しかれば わが うえんの きょうは ひとの ためには むえん なり.
然れば 我が 有縁の 経は 人の 為には 無縁 なり.

ひとの うえんの きょうは わが ためには むえん なり.
人の 有縁の 経は 我が 為には 無縁 なり.

ゆえに よきょうの ねんぶつに よりて とくどう なるべき ものの ためには.
故に 余経の 念仏に よりて 得道 なるべき 者の 為には.

かんきょう とうは めでたし ほけきょう とうは むよう なり.
観経 等は めでたし 法華経 等は 無用 なり.

ほっけに よりて じょうぶつ とくどう なるべき ものの ためには よきょうは むよう なり.
法華に よりて 成仏 得道 なるべき 者の 為には 余経は 無用 なり.

ほけきょうは めでたし.
法華経は めでたし.

しじゅうよねん みけんしんじつと とくも すいじしゅじゅどう ごじついぶつじょうと いうも.
四十余年 未顕真実と 説くも 雖示種種道  其実為仏乗と 云うも.

しょうじきしゃほうべん たんせつむじょうどうと いうも.
正直捨方便 但説無上道と 云うも.

ほけきょう とくどうの きの まえの ことなりと いうこと.
法華 得道の 機の 前の 事なりと 云う 事.

よ こぞって あわれ しかるべき どうりかな なんど おもえり.
世 こぞつて あはれ 然るべき 道理かな なんど 思へり.

いかが こころうべきや.
如何 心うべきや.

もし しからば だいじょう しょうじょうの さべつも なく ごんきょうじっきょうの ふどうも なきなり.
若し 爾らば 大乗 小乗の 差別も なく 権教 実教の 不同も なきなり.

いずれをか ほとけの ほんいと とき いずれをか じょうぶつの ほうと とき たまえるや.
何れをか 仏の 本意と 説き 何れをか 成仏の 法と 説き 給えるや.

はなはだ いぶかし いぶかし.
甚だ いぶかし いぶかし.

こたえて いわく およそ ほとけの しゅっせは はじめ より みょうほうを とかんと おぼしめし しかども.
答えて 云く 凡そ 仏の 出世は 始め より 妙法を 説かんと 思し食し しかども.

しゅじょうの きえん ばんさにして ととの おらざり しかば.
衆生の 機縁 万差にして ととの をらざり しかば.

3 しちにちの あいだ しゆし 40よねんの ほど こしらえ おおせて.
三 七日の 間 思惟し 四十余年の 程 こしらへ おおせて.

さいごに この みょうほうを とき たもう.
最後に 此の 妙法を 説き 給う.

ゆえに 「もし ただ ぶつじょうを さんせば しゅじょう くに もつざいし.
故に 「若し 但 仏乗を 讃せば 衆生 苦に 没在し.

その ほうを しんずる こと あたわず.
是の 法を 信ずる こと 能わず.

ほうを はして しんぜざるが ゆえに さんあくどうに おちん」と とき.
法を 破して 信ぜざるが 故に 三悪道に 墜ちん」と 説き.

「せそんの ほうは ひさしくして のち かならず まさに しんじつを とき たもうべし」 とも いえり.
「世尊の 法は 久くして 後 要らず 当に 真実を 説き たまうべし」 とも 云へり.

この もんの こころは はじめ より この ぶつじょうを とかんと おぼしめし しかども.
此の 文の 意は 始め より 此の 仏乗を 説かんと 思し食し しかども.

ぶっぽうの きぶんも なき しゅじょうは しんぜずして さだめて そしりを いたさん.
仏法の 気分も なき 衆生は 信ぜずして 定めて 謗りを 至さん.

ゆえに きを ひとしなに さそえ たもう ほどに.
故に 機を ひとしなに 誘へ 給う ほどに.

はじめに けごん あごん ほうどう はんにゃ とうの きょうを しじゅうよねんの あいだ とき.
初めに 華厳 阿含 方等 般若 等の 経を 四十余年の 間 とき.

さいごに ほけきょうを とき たもう とき.
最後に 法華経を とき 給う 時.

しじゅうよねんの ざせきに ありし しんし もくれん とうの まん2000の しょうもん.
四十余年の 座席に ありし 身子 目連 等の 万二千の 声聞.

もんじゅ みろく とうの 8まんの ぼさつ まんおくの りんおう とう.
文殊 弥勒 等の 八万の 菩薩 万億の 輪王 等.

ぼんのう たいしゃく とうの むりょうの てんにん.
梵王 帝釈 等の 無量の 天人.

おのおの にぜんに ききし ところの ほうをば にょらいの むりょうの ちけんを うしなえりと うんぬん.
各 爾前に 聞きし 処の 法をば 如来の 無量の 知見を 失えりと 云云.

ほけきょうを きいては むじょうの ほうじゅ もとめざるに.
法華経を 聞いては 無上の 宝聚 求めざるに.

おのずから えたりと よろこび たもう.
自ら 得たりと 悦び 給ふ.

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されば 「われら むかし より このかた しばしば せそんの せつを きき たてまつるに.
されば 「我等 昔 より 来数 世尊の 説を 聞き たてまつるに.

いまだ かって かくの ごとき じんみょうの じょうほうを きかず」 とも.
未だ 曾つて 是くの 如き 深妙の 上法を 聞かず」 とも.

「ほとけ けうの ほうを とき たもう むかし より.
「仏 希有の 法を 説き 給う 昔 より.

いまだ かつて きかざる ところ なり」 とも とき たもう.
未だ 曾つて 聞かざる 所 なり」 とも 説き 給う.

これらの もんの こころは しじゅうよねんの ほど.
此等の 文の 心は 四十余年の 程.

じゃっかんの せっぽうを ちょうもん せしかども.
若干の 説法を 聴聞 せしかども.

ほけきょうの ようなる ほうをば すべて きかず.
法華経の 様なる 法をば 総て きかず.

また ほとけも ついに とかせ たまわずと ほけきょうを ほめたる もん なり.
又 仏も 終に 説かせ 給はずと 法華経を 讃たる 文 なり.

42ねんの ききと こんきょうの ききとをば わけ たくらぶ べからず.
四十二年の 聴と 今経の 聴とをば わけ たくらぶ べからず.

しかるに こんきょうを それ ほけきょう とくどうの ためにして.
然るに 今経を それ 法華経 得道の 人の 為にして.

にぜん とくどうの ものの ためには むよう なりと いうこと おおいなる あやまり なり.
爾前 得道の 者の 為には 無用 なりと 云う事 大なる 誤り なり.

おのずから 42ねんの きょうの うちには.
をのづから 四十二年の 経の 内には.

いっき いちえんの ために しつらう ところの ほうべん なれば.
一機 一縁の 為に しつらう 処の 方便 なれば.

たとい うえん むえんの さたは ありとも.
設い 有縁 無縁の 沙汰は ありとも.

ほけきょうは にぜんの きょうぎょうの ざにして とくやき しつる き.
法華経は 爾前の 経経の 座にして 得益 しつる 機.

かなしいかな だいしょう ごんじつ みだりがわしく.
悲しいかな 大小 権実 みだりがわしく.

ほとけの ほんかいを うしないて にぜん とくどうの もののためには ほけきょう むよう なりと いえる ことを よくよく つつしむべし おそるべし.
仏の 本懐を 失いて 爾前 得道の 者のためには 法華経 無用 なりと 云へる 事を 能能 慎むべし 恐るべし.

いにしえの とくいちだいしと いいし ひと.
古の 徳一大師と 云いし 人.

この ぎを ひとにも おしえ わが こころにも そんして さて ほけきょうと よみ たまいしを.
此の 義を 人にも 教へ 我が 心にも 存して さて 法華経を 読み 給いしを.

でんぎょうだいし この ひとを はし たもう ことばに.
伝教大師 此の 人を 破し 給ふ 言に.

「ほけきょうを さんすと いえども かえって ほっけの こころを ころす」と せめ たまい しかば.
「法華経を 讃すと 雖も 還つて 法華の 心を 死す」と 責め 給い しかば.

とくいちだいしは した やっつに さけて うせ たまいき.
徳一大師は 舌八に さけて 失せ 給ひき.

とうて いわく てんだいの しゃくの なかに ぼさつしょしょとくにゅうと いう もんは.
問うて 云く 天台の 釈の 中に 菩薩処処得入と 云う 文は.

ほけきょうは ただ にじょうの ためにして ぼさつの ためならず.
法華経は 但 二乗の 為にして 菩薩の 為ならず.

ぼさつは にぜんの きょうの なかにしても とくどう なると みえたり.
菩薩は 爾前の 経の 中にしても 得道 なると 見えたり.

もし しからば みけんしんじつも しょうじきしゃほうべん とうも そうじて.
若し 爾らば 未顕真実も 正直捨方便 等も 総じて.

ほけきょう はっかんの うち みな もって にじょうの ためにして.
法華経 八巻の 内 皆 以て 二乗の 為にして.

ぼさつは ひとりも あるまじきと こころう べきか いかん.
菩薩は 一人も 有るまじきと 意う べきか 如何.

こたえて いわく ほけきょうは ただ にじょうの ためにして ぼさつのため ならずと いうことは.
答えて 云く 法華経は 但 二乗の 為にして 菩薩の 為 ならずと 云う事は.

てんだい より いぜん とうどに なんさんほくしちと もうして 10にんの がくしょうの ぎ なり.
天台 より 已前 唐土に 南三 北七と 申して 十人の 学匠の 義 なり.

てんだいは その ぎを はしうせて いまは ひろまらず 
天台は 其の 義を 破し失て 今は 弘まらず

もし ぼさつ なしと いわば ぼさつ この ほうを きいて ぎもう みな すでに のぞくと いえる
若し 菩薩 なしと 云はば 菩薩 是の 法を 聞いて 疑網 皆 已に 除くと 云える

あに これ ぼさつの とくやく なしと いわんや.
豈 是れ 菩薩の 得益 なしと 云はんや.

それに なお どんこんの ぼさつは にじょうと つれて とくやく あれども.
それに 尚 鈍根の 菩薩は 二乗と つれて 得益 あれども.

りこんの ぼさつは にぜんの きょうにて とくやくすと いわば.
利根の 菩薩は 爾前の 経にて 得益すと 云はば.

「りこん どんこん ひとしく ほううを ふらす」と とき.
「利根 鈍根 等しく 法雨を 雨す」と 説き.

「いっさいの ぼさつの あのくたらさんみゃくさんぼだいは みな この きょうに ぞくせり」と とくは いかに.
「一切の 菩薩の 阿耨多羅三藐三菩提は 皆 此 経に 属せり」と 説くは 何に.

これらの もんの こころは りこんにても あれ どんこんにても あれ.
此等の 文の 心は 利根にても あれ 鈍根にても あれ.

じかいにても あれ はかいにても あれ きも あれ せんも あれ.
持戒にても あれ 破戒にても あれ 貴も あれ 賤も あれ.

いっさいの ぼさつ ぼんぷ にじょうは ほけきょうにて じょうぶつ とくどう なるべしと いう もん なるをや.
一切の 菩薩 凡夫 二乗は 法華経にて 成仏 得道 なるべしと 云う 文 なるをや.

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また ほっけ とくやくの ぼさつは みな どんこん なりと いわば.
又 法華 得益の 菩薩は 皆 鈍根なりと 云はば.

ふげん もんじゅ みろく やくおう とうの 8まんの ぼさつをば どんこん なりと いうべきか.
普賢 文殊 弥勒 薬王 等の 八万の 菩薩をば 鈍根 なりと 云うべきか.

この ほかに にぜんの きょうにて とくどうする りこんの ぼさつと いうは いかなる ぼさつ ぞや.
其の 外に 爾前の 経にて 得道する 利根の 菩薩と 云うは 何様 なる 菩薩 ぞや.

そもそも にぜんに ぼさつの とくどうと いうは ほけきょうの ごとき とくどうにて そうろうか.
抑 爾前に 菩薩の 得道と 云うは 法華経の 如き 得道にて 候か.

それならば ほけきょうの とくどうにて にぜんの とくぶんに あらず.
其ならば 法華経の 得道にて 爾前の 得分に あらず.

また ほけきょう より ほかの とくどう ならば いこんとうの なかには いずれぞや.
又 法華経 より 外の 得道 ならば 已今当の 中には 何れぞや.

いかさまにも ほけきょう ならぬ とくどうは とうぶんの とくどうにて しんじつの とくどうに あらず.
いかさまにも 法華経 ならぬ 得道は 当分の 得道にて 真実の 得道に あらず.

ゆえに むりょうぎきょうには 「この ゆえに しゅじょうの とくどう さべつ せり」と いい.
故に 無量義経には 「是の 故に 衆生の 得道 差別 せり」と 云い.

また 「ついに むじょうぼだいを じょうずる ことを えじ」と いえり.
又 「終に 無上菩提を 成ずる ことを 得じ」と 云へり.

もんの こころは にぜんきょうの きょうぎょうには とくどうの さべつを とくと いえども.
文の 心は 爾前の 経経には 得道の 差別を 説くと 云へども.

ついに むじょうぼだいの ほけきょうの とうどうは なしと こそ ほとけは とき たまいて そうらえ.
終に 無上菩提の 法華経の 得道は なしと こそ 仏は 説き 給いて 候へ.

とうて いわく とうじは しゃくそん にゅうめつの のち いまに 2230よねん なり.
問うて 云く 当時は 釈尊 入滅の 後 今に 二千二百三十余年 なり.

いっさいきょうの  なかに なにの きょうが ときに そおうして ひろまり りしょうも あるべきや.
一切経の 中に 何の 経が 時に 相応して 弘まり 利生も 有るべきや.

だいしゅうきょうの ごかの 500さいの なかの だい5の 500さいに とうじは あたれり.
大集経の 五箇の 五百歳の 中の 第五の 五百歳に 当時は あたれり.

その だい5の 500さいをば とうじょうけんご びゃくほうおんもつと いって.
其の 第五の 五百歳をば 闘諍堅固 白法隠没と 云つて.

ひとの こころ たけく はら あしく とんよく しんに ごうじょう なれば.
人の 心 たけく 腹 あしく 貪欲 瞋恚 強盛 なれば.

いくさ かっせん のみ さかんにして ぶっぽうの なかに さきざき ひろまりし ところの.
軍 合戦 のみ 盛にして 仏法の 中に 先き先き 弘りし 所の.

しんごん ぜんしゅう ねんぶつ じかい とうの びゃくほうは おんもつすべしと ほとけ とき たまえり.
真言 禅宗 念仏 持戒 等の 白法は 隠没 すべしと 仏 説き 給へり.

だい1の 500さい だい2の 500さい だい3の 500さい だい4の 500さいを みるに.
第一の 五百歳 第二の 五百歳 第三の 五百歳 第四の 五百歳を 見るに.

じょうぶつの みち こそ みけんしんじつ なれ.
成仏の 道 こそ 未顕真実 なれ.

せけんの じほうは ほとけの みことば いちぶんも ちがわず.
世間の 事法は 仏の 御言 一分も 違はず.

これを もって これを おもうに とうじの とうじょうけんご びゃくほうおんもつの きんげんも たがう こと あらじ.
是を 以て 之を 思うに 当時の 闘諍堅固 白法隠没の 金言も 違う 事 あらじ.

もし しからば まっぽうには いずれの ほうも とくやく あるべからず.
若 爾らば 末法には 何の 法も 得益 あるべからず.

いずれの ぶつ ぼさつも りしょう ある べからずと みえたり いかん.
何れの 仏 菩薩も 利生 ある べからずと 見えたり 如何.

さてもだして いずれの ぶつ ぼさつにも つかえ たてまつらず.
さてもだして 何の 仏 菩薩にも つかへ 奉らず.

いずれの ほうをも ぎょうぜず.
何の 法をも 行ぜず.

たのむかた なくして そうろうべきか.
憑む方 なくして 候べきか.

ごせをば いかんが おもいさだめ そうろうべきや.
後世をば 如何が 思い定め 候べきや.

こたえて いわく.
答えて 云く.

まつぽう とうじは くおんじつじょうの しゃかぶつ じょうぎょうぼさつ むへんぎょうぼさつ とうの.
末法 当時は 久遠実成の 釈迦仏 上行菩薩 無辺行菩薩 等の.

ひろめさせ たもうべき ほけきょう にじゅうはっぽんの かんじんたる なんみょうほうれんげきょうの しちじ ばかり.
弘めさせ 給うべき 法華経 二十八品の 肝心たる 南無妙法蓮華経の 七字 計り.

この くにに ひろまりて りしょう とくやくも あり.
此の 国に 弘まりて 利生 得益も あり.

じょうぎょうぼさつの ごりしょう さかんなるべき とき なり.
上行菩薩の 御利生 盛んなるべき 時 なり.

その ゆえは きょうもん めいはく なり.
其の 故は 経文 明白 なり.

どうしん けんごにして こころざし あらん ひとは くわしく たずね きく べきなり.
道心 堅固にして 志 あらん 人は 委く 是を 尋ね 聞く べきなり.

→a548

b549

じょうどしゅうの ひとびと まっぽう まんねんには よきょう ことごとく めっし みだ いっきょう のみと いい.
浄土宗の 人人 末法 万年には 余経 悉く 滅し 弥陀 一教 のみと 云ひ.

また とうこん まつぽうは これ 5じょくの あくせ ただ じょうどの いちもん のみ あって.
又 当今 末法は 是れ 五濁の 悪世 唯 浄土の 一門 のみ 有て.

つうにゅう すべき みち なりと いって そらごとして.
通入 す可き 路 なりと 云つて 虚言して.

だいしゅうきょうに いわくと ひけども かの きょうに すべて この もん なし.
大集経に 云くと 引ども 彼の 経に 都て 此 文 なし.

そのうえ あるべき さまも なし.
其の上 あるべき 様も なし.

ほとけの ざいせの みことばに とうこん まっぽう 5じょくの あくせには.
仏の 在世の 御言に 当今 末法 五濁の 悪世には.

ただ じょうどの いちもん のみ いるべき みち なりとは.
但 浄土の 一門 のみ 入るべき 道 なりとは.

とき たもう べからざる どうり けんねん なり.
説き 給う べからざる 道理 顕然 なり.

ほんきょうには 「とうらいの よ きょうどう めつじんし.
本経には 「当来の 世 経道 滅尽し.

ひとり この きょうを とどめて しじゅう すること ひゃくさい ならん」と とけり.
特り 此の 経を 留めて 止住 する事 百歳 ならん」と 説けり.

まつぽう 1まんねんの ひゃくさいとは まったく みえず.
末法 一万年の 百歳とは 全く 見えず.

しかるに びょうどうがくきょう だいあみだきょうを みるに.
然るに 平等覚経 大阿弥陀経を 見るに.

ほとけ めつご 1000ねんの のち 100さいと こそ こころえ られたれ.
仏 滅後 一千年の 後の 百歳と こそ 意え られたれ.

しかるに ぜんどうが まどえる しゃくをば もっとも どうりと ひと みな おもえり.
然るに 善導が 惑へる 釈をば 尤も 道理と 人 皆 思へり.

これは しょ びゃくあんの ものなり.
是は 諸 僻案の 者なり.

ただし こころ あらん ひとは せけんの ことわりを もって すいさつ せよ.
但し 心 あらん 人は 世間の ことはりを もつて 推察 せよ.

だいかんばつの あらん ときは たいかいが さきに ひるべきか.
大旱魃の あらん 時は 大海が 先に ひるべきか.

しょうがが さきに ひるべきか.
小河が 先に ひるべきか.

ほとけ これを とき たもうには ほけきょうは たいかい なり.
仏 是を 説き 給うには 法華経は 大海 なり.

かんきょう あみだきょう とうは しょうが なり.
観経 阿弥陀経 等は 小河 なり.

されば ねんぶつ とうの しょうがの びゃくほう こそ さきに ひるべしと.
されば 念仏 等の 小河の 白法 こそ 先に ひるべしと.

きょうもんにも とき たまいて そうらいぬれ.
経文にも 説き 給いて 候ひぬれ.

だいしゅうきょうの 5かの 500さいの なかの だい5の 500さいと いえると.
大集経の 五箇の 五百歳の 中の 第五の 五百歳 白法隠没と 云と.

そうかんきょうに きょうどうめつじんと いえるとは ただ ひとつ こころ なり.
雙観経に 経道滅尽と 云とは 但 一つ 心 なり.

されば まっぽうには はじめ より そうかんきょう とうの きょうどうめつじんすと きこえたり.
されば 末法には 始め より 雙観経 等の 経道滅尽すと 聞えたり.

きょうどうめつじんと いえるは きょうの りしょうの めっすと いうこと なり.
経道滅尽と 云は 経の 利生の 滅すと 云う事 なり.

しきの きょうかん あるには よるべからず.
色の 経巻 有るには よるべからず.

されば とうじは きょうどうめつじんの ときに いたって 200さいに あまれり.
されば 当時は 経道滅尽の 時に 至つて 二百歳に 余れり.

この ときは ただ ほけきょう のみ りしょう とくやく あるべし.
此の 時は 但 法華経 のみ 利生 得益 あるべし.

されば この きょうを じゅじして なんみょうほうれんげきょうと となえ たてまつるべしと みえたり.
されば 此 経を 受持して 南無妙法蓮華経と 唱え 奉るべしと 見えたり.

やくおうほんには 「ごの 500さいの なかに えんぶだいに こうせんるふして だんぜつ せしむる こと なけん」と とき たまい.
薬王品には 「後の 五百歳の 中に 閻浮提に 広宣流布して 断絶 せしむる こと なけん」と 説き 給ひ.

てんだいだいしは 「ごの 500さい とおく みょうどうに うるおわん」と しゃくし.
天台大師は 「後の 五百歳 遠く 妙道に 沾ん」と 釈し.

みょうらくだいしは 「すべからく だいきょうの りゅうこう すべき ときに より」と しゃくして.
妙楽大師は 「且らく 大経の 流行 す可き 時に 拠る」と 釈して.

ごの 500さいの あいだに ほけきょう ひろまりて.
後の 五百歳の 間に 法華経 弘まりて.

その ごは えんぶだいの うちに たえ うせる こと ある べからずと みえたり.
其の 後は 閻浮提の 内に 絶え 失せる 事 有る べからずと 見えたり.

あんらくぎょうほんに いわく 「ごの まっせの ほうめつ せんと ほっせん ときに おいて.
安楽行品に 云く 「後の 末世の 法滅 せんと 欲せん 時に 於て.

その きょうてんを じゅじし どくじゅ せんもの」.
斯の 経典を 受持し 読誦 せん者」.

じんりきほんに いわく「その ときに ほとけ じょうぎょう とうの ぼさつ たいしゅうに つげ たまわく.
神力品に 云く 「爾の 時に 仏 上行 等の 菩薩 大衆に 告げ たまわく.

ぞくるいの ための ゆえに この きょうの くどくを とくとも なお つくす こと あたわじ.
属累の 為の 故に 此の 経の 功徳を 説くとも 猶 尽す こと 能わじ.

ようを もって これを いわば にょらいの いっさいの しょゆうの ほう.
要を 以て 之を 云わば 如来の 一切の 所有の 法.

にょらいの いっさいの じざいの じんりき にょらいの いっさいの ひようの ぞう.
如来の 一切の 自在の 神力 如来の 一切の 秘要の 蔵.

にょらいの いっさいの じんじんの じ みな この きょうに おいてせんじ けんぜつ す」と うんぬん.
如来の 一切の 甚深の 事 皆 此経に 於て 宣示 顕説 す」と 云云.

→a549

b550

これらの もんの こころは しゃくそん にゅうめつの のち.
此等の 文の 心は 釈尊 入滅の 後.

だい5の 500さいと とくも まっせと いうも じょくあくせと とくも.
第五の 五百歳と 説くも 末世と 云うも 濁悪世と 説くも.

しょうぞう 2000ねん すぎて まっぽうの はじめ 200よさいの こんじは.
正像 二千年 過ぎて 末法の 始 二百余歳の 今時は.

ただ ほけきょう ばかり ひろまるべしと いう もん なり.
唯 法華経 計り 弘まるべしと 云う 文 なり.

その ゆえは ひと すでに ひがみ ほうも じつに しるし なく.
其の 故は 人 既に ひがみ 法も 実に しるし なく.

ぶっしんの いけんも ましまさず.
仏神の 威験も ましまさず.

こんじょう ごしょうの いのりも かなわず.
今生 後生の 祈りも 叶はず.

かからん ときは たよりを えて てんま はじゅん みだれいり.
かからん 時は たよりを 得て 天魔 波旬 乱れ入り.

こくど つねに けかちして てんかも えきれいし.
国土 常に 飢渇して 天下も 疫癘し.

たこくしんぴつなん じかいほんぎゃくなんとて わが くにに いくさ かっせん つねに ありて.
他国侵逼難 自界叛逆難とて 我が 国に 軍 合戦 常に ありて.

のちには たこく より つわものども おそい きたりて この くにを せむべしと みえたり.
後には 他国 より 兵ども をそひ 来りて 此の 国を 責むべしと 見えたり.

かくの ごとき とうじょうけんごの ときは よきょうの びゃくほうは しるし うせて.
此くの 如き 闘諍堅固の 時は 余経の 白法は 験し 失せて.

ほけきょうの だいりょうやくを もって この だいなんをば じすべしと みえたり.
法華経の 大良薬を 以て 此の 大難をば 治すべしと 見えたり.

ほけきょうを もって こくどを いのらば かみ いちにん より しも ばんみんに いたるまで.
法華経を 以て 国土を 祈らば 上 一人 より 下 万民に 至るまで.

ことごとく よろこび さかえ たもうべき ちんごこっかの だいびゃくほう なり.
悉く 悦び 栄へ 給うべき 鎮護国家の 大白法 なり.

ただし あじゃせおう あそかだいおうは はじめは あくおう なり しかども.
但し 阿闍世王 阿育大王は 始めは 悪王 なり しかども.

ぎばだいじんの ことばを もちい やしゃそんじゃを しんじ たまいて のちに こそ.
耆婆大臣の 語を 用ひ 夜叉尊者を 信じ 給いて 後に こそ.

けんのうの なをば とどめ たまいしか.
賢王の 名をば 留め 給いしか.

なん3 ほくしちを すてて ちぎほっしを もちい たまいし ちんしゅ.
南三 北七を 捨てて 智顗法師を 用ひ 給いし 陳主.

6しゅうの せきとくを すてて さいちょうほっしを もちい たまいし かんむてんのうは.
六宗の 碩徳を 捨てて 最澄法師を 用ひ 給いし 桓武天皇は.

いまに けんのうの なを とどめ たまえり.
今に 賢王の 名を 留め 給へり.

ちぎほっしと いうは のちには てんだいだいしと ごうし たてまつる.
智顗法師と 云うは 後には 天台大師と 号し 奉る.

さいちょうほっしは のちには でんきょうだいしと いう これなり.
最澄法師は 後には 伝教大師と 云う 是なり.

いまの こくしゅも また かくの ごとし.
今の 国主も 又 是くの 如し.

げんぜあんのん ごしょうぜんしょ なるべき.
現世安穏 後生善処 なるべき.

この だいびゃくほうを しんじて こくどに ひろめ たまわば.
此の 大白法を 信じて 国土に 弘め 給はば.

ばんこくに その みを あおがれ こうだいに けんじんの なを とどめ たもうべし.
万国に 其の 身を 仰がれ 後代に 賢人の 名を 留め 給うべし.

しらず また むへんぎょうぼさつの けしんにてや ましますらん.
知らず 又 無辺行菩薩の 化身にてや ましますらん.

また みょうほうの 5じを ひろめ たまわん ちしゃをば いかに いやしくとも.
又 妙法の 五字を 弘め 給はん 智者をば いかに 賤くとも.

じょうぎょうぼさつの けしんか また しゃかにょらいの おんつかいかと おもうべし.
上行菩薩の 化身か 又 釈迦如来の 御使かと 思うべし.

また やくおうぼさつ やくじょうぼさつ かんのん せいしの ぼさつは しょうぞう 2000ねんの おんつかい なり.
又 薬王菩薩 薬上菩薩 観音 勢至の 菩薩は 正像 二千年の 御使 なり.

これらの ぼさつたちの ごばんは はやすぎたれば じょうこの ように りしょう あるまじき なり.
此等の 菩薩達の 御番は 早過たれば 上古の 様に 利生 有るまじき なり.

されば とうせいの いのりを ごらんぜよ.
されば 当世の 祈を 御覧ぜよ.

いっさい かなわざる ものなり.
一切 叶はざる 者なり.

まっぽう いまの よの ばんしゅうは じょうぎょう むへんぎょう とうにて おわします なり.
末法 今の 世の 番衆は 上行 無辺行 等にて をはします なり.

これらを よくよく あきらめ しんじて こそ ほうの しるしも ぶつ ぼさつの りしょうも あるべしと みえたれ.
此等を 能能 明らめ 信じて こそ 法の 験も 仏 菩薩の 利生も 有るべしとは 見えたれ.

たとえば よき ひうちと よき いしの かどと よき ほくちと.
譬えば よき 火打と よき 石の かどと よき ほくちと.

この みっつ よりあいて ひを もちゆる なり.
此の 三 寄り合いて 火を 用ゆる なり.

いのりも また かくの ごとし.
祈も 又 是く の如し.

よき しと よき だんなと よき ほうと この みっつ よりそいて.
よき 師と よき 檀那と よき 法と 此の 三 寄り合いて.

いのりを じょうじゅし こくどの だいなんをも はらうべき ものなり.
祈を 成就し 国土の 大難をも 払ふべき 者なり.

よき しとは さしたる せけんの とが なくして.
よき 師とは 指したる 世間の 失 無くして.

いささかの へつらう ことなく しょうよくちそくにして じひ あらん.
聊の へつらう ことなく 少欲知足にして 慈悲 有らん.

→a550

b551

そうの きょうもんに まかせて ほけきょうを よみ たもちて ひとをもすすめて たもたせん そうをば.
僧の 経文に 任せて 法華経を 読み 持ちて 人をも 勧めて 持たせん 僧をば.

ほとけは いっさいの そうの なかの よき だいいちの ほっし なりと ほめられたり.
仏は 一切の 僧の 中に 吉 第一の 法師 なりと 讃められたり.

よき だんなとは きじんにも よらず.
吉 檀那とは 貴人にも よらず.

せんじんをも にくまず.
賤人をも にくまず.

うえにも よらず したをも いやしまず.
上にも よらず 下をも いやしまず.

いっさい ひとをば もちいずして いっさいきょうの なかに ほけきょうを たもたん ひとをば.
一切 人をば 用いずして 一切経の 中に 法華経を 持たん 人をば.

いっさいの ひとの なかに よき ひと なりと ほとけは とき たまえり.
一切の 人の 中に 吉 人 なりと 仏は 説 給へり.

よき ほう とは この ほけきょうを さいい だいいちの ほうと とかれたり.
吉 法 とは 此の 法華経を 最為 第一の 法と 説かれたり.

いせつの きょうの なかにも こんせつの きょうの なかにも とうせつの きょうの なかにも.
已説の 経の 中にも 今説の 経の 中にも 当説の 経の 中にも.

この きょう だいいちと みえて そうらえば よき ほう なり.
此の 経 第一と 見えて 候へば 吉 法 なり.

ぜんしゅう しんごんしゅう とうの きょうほうは だい2だい だい3 なり.
禅宗 真言宗 等の 経法は 第二 第三 なり.

ことに とりわけて もうせば しんごんの ほうは だいしちじゅうの れつ なり.
殊に 取り分けて 申せば 真言の 法は 第七重の 劣 なり.

しかるに にほんこくには だい2 だい3 ないし だいしちじゅうの れつを もって.
然るに 日本国には 第二 第三 乃至 第七重の 劣の 法を もつて.

ごきとう あれども いまだ その しょうこを みず.
御祈祷 あれども 未だ 其の 証拠を みず.

さいじょう だい1の みょうほうを もって ごきとう あるべきか.
最上 第一の 妙法を もつて 御祈祷 あるべきか.

これを しょうじきしゃほうべん たんせつむじょうどう ゆいしいちじじつと いえり.
是を 正直捨方便 但説無上道 唯此一事実と 云へり.

だれか うたがいを なすべきや.
誰か 疑を なすべきや.

とうて いわく.
問うて 云く.

むちの ひと きたりて しょうじを はなるべき みちを とわん ときは.
無智の 人 来りて 生死を 離るべき 道を 問わん 時は.

いずれの きょうの こころをか とくべき.
何れの 経の 意をか 説くべき.

ほとけ いかんが おしえ たまえるや.
仏 如何が 教へ 給へるや.

こたえて いわく ほけきょうを とく べきなり.
答えて 云く 法華経を 説く べきなり.

ゆえに ほっしほんに いわく 「もし ひと あって なんらの しゅじょうか.
所以に 法師品に 云く 「若し 人 有つて 何等の 衆生か.

みらいせに おいて まさに さぶつ することを うべきと とわば まさに しめすべし.
未来世に 於て 当に 作仏 することを 得べきと 問わば 応に 示すべし.

この しょにんら みらいせに おいて かならず さぶつ することを えん」と うんぬん.
是の 諸人 等 未来世に 於て 必ず 作仏 することを 得ん」と 云云.

あんらくぎょうほんに いわく 「なんもん する ところ あらば しょうじょうの ほうを もって こたえず.
安楽行品に 云く 「難問 する 所 有らば 小乗の 法を 以て 答えず.

ただ だいじょうを もって しかも ために かいせつせよ」 うんぬん.
但 大乗を 以て 而も 為に 解説せよ」 云云.

これらの もんの こころは いかなる しゅじょうか ほとけに なるべきと とわば.
此等の 文の 心は 何なる 衆生か 仏に なるべきと 問わば.

ほけきょうを じゅじし たてまつらん ひと かならず ほとけに なるべしと こたう べきなり.
法華経を 受持し 奉らん 人 必ず 仏に なるべしと 答う べきなり.

これ ほとけの ごほんい なり.
是れ 仏の 御本意 なり.

これに つけて ふしん あり.
之に 付て 不審 あり.

しゅじょうの こんじょう まちまちにして ねんぶつを きかんと ねがう ひとも あり.
衆生の 根性 区にして 念仏を 聞かんと 願ふ 人も あり.

ほけきょうを きかんと ねがう ひとも あり.
法華経を 聞かんと 願ふ 人も あり.

ねんぶつを きかんと ねがう ひとに ほけきょうを といて きかせんは なんの とくやくか あるべき.
念仏を 聞かんと 願ふ 人に 法華経を 説いて 聞かせんは 何の 得益か あるべき.

また ねんぶつを きかんが ために しょうじたらん ときにも しいて ほけきょうを とく べきか.
又 念仏を 聞かんが 為に 請じたらん 時にも 強て 法華経を 説く べきか.

ほとけの せっぽうも きに したがいて とくやく あるを こそ ほんいとし たもうらんと ふしん する ひと あらば いうべし.
仏の 説法も 機に 随いて 得益 有るを こそ 本意とし 給うらんと 不審 する 人 あらば 云うべし.

もとより まっぽうの よには むちの ひとに きに かない かなわざるを かえりみず.
元より 末法の 世には 無智の 人に 機に 叶ひ 叶はざるを 顧みず.

ただ しいて ほけきょうの 5じの みょうごうを といて たもたす べきなり.
但 強いて 法華経の 五字の 名号を 説いて 持たす べきなり.

その ゆえは しゃかぶつ むかし ふぎょうぼさつと いわれて ほけきょうを ひろめ たまいしには.
其の 故は 釈迦仏 昔 不軽菩薩と 云はれて 法華経を 弘め 給いしには.

なんにょ あまほっしが おしなべて もちいざりき.
男女 尼法師が おしなべて 用ひざりき.

あるいは のられ そしられ あるいは うたれ おわれ ひとしな ならず.
或は 罵られ 毀られ 或は 打れ 追はれ 一しな ならず.

あるいは あだまれ そねまれ たまいしかども すこしも こりも なくして.
或は 怨まれ 嫉まれ 給いしかども 少しも こりも なくして.

しいて ほけきょうを とき たまいし ゆえに いまの しゃかぶつと なり たまいしなり.
強いて 法華経を 説き 給いし 故に 今の 釈迦仏と なり 給いしなり.

→a551

b552

ふぎょうぼさつを のり まいらせし ひとは くちも ゆがまず.
不軽菩薩を 罵り まいらせし 人は 口も ゆがまず.

うち たてまつりし かいなも すくまず.
打ち 奉りし かいなも すくまず.

ふほうぞうの ししそんじゃも げどうに ころされぬ.
付法蔵の 師子尊者も 外道に 殺されぬ.

また ほうどうさんぞうも かなやきを かおに あてられて こうなんに ながされ たまいし ぞかし.
又 法道三蔵も 火印を 面に あてられて 江南に 流され 給いし ぞかし.

まして まっぽうに かいなき そうの ほけきょうを ひろめんには.
まして 末法に かひなき 僧の 法華経を 弘めんには.

かかる なん あるべしと きょうもんに まさしく みえたり.
かかる 難 あるべしと 経文に 正く 見えたり.

されば ひと これを もちいず きに かなわずと いえども.
されば 人 是を 用ひず 機に 叶はずと 云へども.

しいて ほけきょうの 5じの だいもくを きかす べきなり.
強いて 法華経の 五字の 題名を 聞かす べきなり.

これならでは ほとけに なる みちは なきが ゆえなり.
是ならでは 仏に なる 道は なきが 故なり.

また あるひと ふしんして いわく.
又 或人 不審して 云く.

きに かなわざる ほけきょうを しいて といて ぼうぜさせて あくどうに ひとを おとさん よりは.
機に 叶はざる 法華経を 強いて 説いて 謗ぜさせて 悪道に 人を 堕さん よりは.

きに かなえる ねんぶつを といて ほっしん せしむべし.
機に 叶へる 念仏を 説いて 発心 せしむべし.

りやくも なく ぼうぜさせて かえって じごくに おとさんは ほけきょうの ぎょうじゃにも あらず.
利益も なく 謗ぜさせて 返つて 地獄に 堕さんは 法華経の 行者にも あらず.

じゃけんの ひとにて こそ あるらめと ふしんせば いうべし.
邪見の 人にて こそ 有るらめと 不審せば 云うべし.

きょうもんには いかていにもあれ まっぽうには しいて ほけきょうを とくべしと.
経文には 何体にもあれ 末法には 強いて 法華経を 説くべしと.

ほとけの とき たまえるをば さて いかが こころうべく そうろうや.
仏の 説き 給へるをば さて いかが 心うべく 候や.

しゃかぶつ ふぎょうぼさつ てんだい みょうらく でんぎょう とうは.
釈迦仏 不軽菩薩 天台 妙楽 伝教 等は.

さて じゃけんの ひと げどうにて おわしまし そうろうべきか.
さて 邪見の 人 外道にて おはしまし 候べきか.

また あくどうにも おちず.
又 悪道にも 堕ちず.

さんがいの しょうを はなれたる にじょうと いう ものをば ほとけの のたまわく.
三界の 生を 離れたる 二乗と 云う 者をば 仏の の給はく.

たとい いぬ やかんの こころをば おこすとも にじょうの こころを もつべからず.
設ひ 犬 野干の 心をば 発すとも 二乗の 心を もつべからず.

ごぎゃく じゅうあくを つくりて じごくには おつとも.
五逆 十悪を 作りて 地獄には 堕つとも.

にじょうの こころをば もつ べからず なんどと いましめられし ぞかし.
二乗の 心をば もつ べからず なんどと 禁められし ぞかし.

あくどうに おちざる ほどの りやくは いかでか あるべき なれども.
悪道に おちざる 程の 利益は 争でか 有るべき なれども.

それをば ほとけの ごほんいとも おぼしめさず.
其れをば 仏の 御本意とも 思し食さず.

じごくには おつるとも ほとけに なる ほけきょうを みみに ふれぬれば.
地獄には 堕つるとも 仏に なる 法華経を 耳に ふれぬれば.

これを たねとして かならず ほとけに なるなり.
是を 種として 必ず 仏に なるなり.

されば てんだい みょうらくも この こころを もって しいて ほけきょうを とくべしとは しゃくし たまえり.
されば 天台 妙楽も 此の 心を 以て 強いて 法華経を 説くべしとは 釈し 給へり.

たとえば ひとの ちに よりて たおれたる ものの かえって ちを おさえて たつが ごとし.
譬えば 人の 地に 依りて 倒れたる 者の 返つて 地を おさへて 起が 如し.

じごくには おつれども とく うかんで ほとけに なるなり.
地獄には 堕つれども 疾く 浮んで 仏に なるなり.

とうせいの ひと なんとなくとも ほけきょうに そむく とがに よりて.
当世の 人 何となくとも 法華経に 背く 失に 依りて.

じごくに おちん こと うたがい なき ゆえに とても かくても.
地獄に 堕ちん 事 疑 なき 故に とても かくても.

ほけきょうを しいて とき きかすべし.
法華経を 強いて 説き 聞かすべし.

しんぜん ひとは ほとけに なるべし.
信ぜん 人は 仏に なるべし.

ぼうぜん ものは どっくの えんと なって ほとけに なる べきなり.
謗ぜん 者は 毒鼓の 縁と なつて 仏に なる べきなり.

いかにとしても ほとけの たねは ほけきょう より ほかに なきなり.
何にとしても 仏の 種は 法華経 より 外に なきなり.

ごんきょうを もって ほとけに なる ゆえだに あらば なにしにか.
権教を もつて 仏に なる 由だに あらば なにしにか.

ほとけは しいて ほけきょうを といて ぼうずるも しんずるも りやくあるべしと とき.
仏は 強いて 法華経を 説いて 謗ずるも 信ずるも 利益 あるべしと 説き.

われ しんみょうをあいさずとは おおせらるべきや.
我 不愛身命とは 仰せらるべきや.

よくよく これらを どうしん ましまさん ひとは おんこころえ あるべきなり.
よくよく 此等を 道心 ましまさん 人は 御心得 あるべきなり.

→a552

b553

とうて いわく むちの ひとも ほけきょうを しんじたらば そくしんじょうぶつ すべきか.
問うて 云く 無智の 人も法華経を 信じたらば 即身成仏 すべきか.

また いずれの じょうどに おうじょう すべきぞや.
又 何れの 浄土に 往生 すべきぞや.

こたえて いわく ほけきょうを たもつに おいては ふかく ほけきょうの こころを しり しかんの ざぜんをし.
答えて 云く 法華経を 持つに おいては 深く 法華経の 心を 知り 止観の 坐禅をし.

いちねん3000 じっきょう じゅうじょうの かんぽうを こらさん ひとは.
一念三千 十境 十乗の 観法を こらさん 人は.

じつに そくしんじょうぶつし さとりを ひらく ことも あるべし.
実に 即身成仏し 解を 開く 事も あるべし.

その ほかに ほけきょうの こころをも しらず むちにして.
其の 外に 法華経の 心をも しらず 無智にして.

ひらしんじんの ひとは じょうどに かならず うまるべしと みえたり.
ひら信心の 人は 浄土に 必ず 生べしと 見えたり.

されば しょうじっぽうぶつぜんと とき あるいは そくおうあんらくせかいと ときき.
されば 生十方仏前と 説き 或は 即往安楽世界と 説きき.

この ほけきょうを しんずる ものの おうじょうすと いう みょうもん なり.
是の 法華経を 信ずる 者の 往生すと 云う 明文 なり.

これに ついて ふしん あり.
之に 付いて 不審 あり.

その ゆえは わが みは ひとつにして じっぽうの ぶつぜんに うまるべしと いうこと こころえられず.
其の 故は 我が 身は 一にして 十方の 仏前に 生るべしと 云う事 心得られず.

いずれにてもあれ いっぽうに かぎるべし.
何れにてもあれ 一方に 限るべし.

まさに いずれの かたをか しんじて おうじょう すべきや.
正に 何れの 方をか 信じて 往生 すべきや.

こたえて いわく いっぽうに さだめずして じっぽうと とくは もっとも いわれある なり.
答えて 云く 一方に さだめずして 十方と 説くは 最も いはれある なり.

ゆえに ほけきょうを しんずる ひとの いちご おわる ときには.
所以に 法華経を 信ずる 人の 一期 終る 時には.

じっぽうせかいの なかに ほけきょうを とかん ほとけの みもとに うまる べきなり.
十方世界の 中に 法華経を 説かん 仏の みもとに 生る べきなり.

よの けごん あごん ほうどう はんにゃきょうを とく じょうどへは うまる べからず.
余の 華厳 阿含 方等 般若経を 説く 浄土へは 生る べからず.

じょうど じっぽうに おおくして しょうもんの ほうを とく じょうども あり.
浄土 十方に 多くして 声聞の 法を 説く 浄土も あり.

ひゃくしぶつの ほうを とく じょうども あり.
辟支仏の 法を 説く 浄土も あり.

あるいは ぼさつの ほうを とく じょうども あり.
或は 菩薩の 法を 説く 浄土も あり.

ほけきょうを しんずる ものは これらの じょうどには いっこう うまれずして ほけきょうを とき たもう.
法華経を 信ずる 者は 此等の 浄土には 一向 生れずして 法華経を 説き 給う.

じょうどへ ただちに おうじょうして ざせきに つらなりて.
浄土へ 直ちに 往生して 座席に 列りて.

ほけきょうを ちょうもんして やがてに ほとけに なるべきなり.
法華経を 聴聞して やがてに 仏に なるべきなり.

しかるに こんぜにして ほけきょうは きに かなわずと いいうとめて.
然るに 今世にして 法華経は 機に 叶はずと 云いうとめて.

さいほうじょうどにて ほけきょうを さとるべしと いわん ものは.
西方浄土にて 法華経を さとるべしと 云はん 者は.

あみだの じょうどにても ほけきょうを さとる べからず.
阿弥陀の 浄土にても 法華経を さとる べからず.

じっぽうの じょうどにも うまる べからず.
十方の 浄土にも 生る べからず.

ほけきょうに そむく とが おもきが ゆえに ながく じごくに おつべしと みえたり.
法華経に 背く 咎 重きが 故に 永く 地獄に 堕つべしと 見えたり.

ごにんみょうじゅう にゅうあびごくと いえる これなり.
其人命終 入阿鼻獄と 云へる 是なり.

とうて いわく そくおうあんらくせかい あみだぶつと うんぬん.
問うて 云く 即往安楽世界 阿弥陀仏と 云云.

この もんの こころは ほけきょうを じゅじし たてまつらん にょにんは.
此の 文の 心は 法華経を 受持し 奉らん 女人は.

あみだぶつの じょうどに うまるべしと とき たまえり.
阿弥陀仏の 浄土に 生るべしと 説き 給へり.

ねんぶつを もうしても あみだの じょうどに うまるべしと いう.
念仏を 申しても 阿弥陀の 浄土に 生るべしと 云ふ.

じょうど すでに おなじ ねんぶつも ほけきょうも ひとしと こころえ そうろうべきか いかん.
浄土 既に 同じ 念仏も 法華経も 等と 心え 候べきか 如何.

こたえて いわく かんきょうは ごんきょう なり.
答えて 云く 観経は 権教 なり.

ほけきょうは じっきょう なり まったく ひとしかる べからず.
法華経は 実教 なり 全く 等しかる べからず.

その ゆえは ほとけ よに いでさせ たまいて 40よねんの あいだ おおくの ほうを とき たまい しかども.
其の 故は 仏 世に 出でさせ 給いて 四十余年の 間 多くの 法を 説き 給い しかども.

2じょうと あくにんと にょにんとをば きらい はてられて じょうぶつ すべしとは ひとことも おおせられ ざりしに.
二乗と 悪人と 女人とをば 簡ひ はてられて 成仏 すべしとは 一言も 仰せられ ざりしに.

この きょうに こそ はいしゅの 2じょうも 3ぎゃくの ちょうだつも 5しょうの にょにんも.
此の 経に こそ 敗種の 二乗も 三逆の 調達も 五障の 女人も.

ほとけに なるとは とき たまい そうらいつれ.
仏に なるとは 説き 給い 候つれ.

その むね きょうもんに みえたり.
其の 旨 経文に 見えたり.

→a553

b554

けごんきょうには 「にょにんは じごくの つかい なり ほとけの しゅしを だんず.
華厳経には 「女人は 地獄の 使 なり 仏の 種子を 断ず.

がいめんは ぼさつに にて ないしんは やしゃの ごとし」と いえり.
外面は 菩薩に 似て 内心は 夜叉の 如し」と 云へり.

ごんじきにょきょうには さんぜの しょぶつの まなこは ぬけて だいちに おつるとも.
銀色女経には 三世の 諸仏の 眼は 抜けて 大地に 落つるとも.

ほうかいの にょにんは ながく ほとけに なる べからずと みえたり.
法界の 女人は 永く 仏に なる べからずと 見えたり.

また きょうに いわく 「にょにんは だいきじん なり よく いっさいの ひとを くらう」と.
又 経に 云く 「女人は 大鬼神 なり 能く 一切の 人を 喰う」と.

りゅうじゅぼさつの だいろんには いちど にょにんを みれば ながく じごくの ごうを むすぶと みえたり.
竜樹菩薩の 大論には 一度 女人を 見れば 永く 地獄の 業を 結ぶと 見えたり.

されば まことにてや ありけん.
されば 実にてや ありけん.

ぜんどうわしょうは ほうぼう なれども にょにんを みずして いちごしょうと いわれたり.
善導和尚は 謗法 なれども 女人を みずして 一期生と 云はれたり.

また なりひらが うたにも .
又 業平が 歌にも.

むぐらおいて あれたる やどの うれたきは かりにも おにの すだく なりけりと いうも.
葎をいて あれたる 宿の 憂たきは かりにも 鬼の 集く なりけりと 云うも.

にょにんをば おにと よめるに こそ はべれ.
女人をば 鬼と よめるに こそ 侍れ.

また にょにんには 5しょう 3じゅうと いうこと あるが.
又 女人には 五障 三従と 云う事 有るが.

ゆえに つみ おもしと みえたり.
故に 罪 深しと 見えたり.

5しょうとは 1には ぼんてんのう 2には たいしゃく 3には まおう 4には りんてんじょうおう 5には ほとけに ならずと みえたり.
五障とは 一には 梵天王 二には 帝釈 三には 魔王 四には 転輪聖王五には 仏に ならずと 見えたり.

また 3じゅうとは にょにんは おさなき ときは おやに したがいて こころに まかせず.
又 三従とは 女人は 幼き 時は 親に 従いて 心に 任せず.

ひとと なりては おとこに したがいて こころに まかせず.
人と なりては 男に 従いて 心に まかせず.

としより ぬれば こに したがいて こころに まかせず.
年より ぬれば 子に 従いて 心に まかせず.

かように おさなき とき より ろうもうに いたるまで 3にんに したがいて こころに まかせず.
加様に 幼き 時 より 老耄に 至るまで 三人に 従て 心に まかせず.

おもう ことをも いわず みたき ことをも みず ちょうもん したき ことも きかず.
思う 事をも いはず 見たき 事をも みず 聴聞 したき 事をも きかず.

これを 3じゅうとは とくなり.
是を 三従とは 説くなり.

されば えいけいきが 3らくを たてたるにも.
されば 栄啓期が 三楽を 立てたるにも.

にょにんの みと うまれざるを ひとつの たのしみと いえり.
女人の 身と 生れざるを 一の 楽みと いへり.

かように ないてん げてんにも きらわれたる にょにんの み なれども.
加様に 内典 外典にも 嫌はれたる 女人の 身 なれども.

この きょうを よまねども かかねども みと くちと こころとに うけたもちて.
此の 経を 読まねども かかねども 身と 口と 意とに うけ持ちて.

ことに くちに なんみょうほうれんげきょうと となえ たてまつる にょにんは.
殊に 口に 南無妙法蓮華経と 唱へ 奉る 女人は.

ざいせの りゅうにょ きょうどんみ やしゅだらにょの ごとくに.
在世の 竜女 キョウ曇弥 耶輸陀羅女の 如くに.

やすやすと ほとけに なるべしと いう きょうもん なり.
やすやすと 仏に なるべしと 云う 経文 なり.

また あんらくせかいと いうは いっさいの じょうどをば みな あんらくと とく なり.
又 安楽世界と 云うは 一切の 浄土をば 皆 安楽と 説く なり.

また あみだと いうも かんきょうの あみだには あらず.
又 阿弥陀と 云うも 観経の 阿弥陀には あらず.

ゆえに かんきょうの あみだぶつは ほうぞうびくの あみだ.
所以に 観経の 阿弥陀仏は 法蔵比丘の 阿弥陀.

しじゅうはちがんの あるじ じっこうじょうどうの ほとけ なり.
四十八願の 主 十劫成道の 仏 なり.

ほけきょうにも しゃくもんの あみだは だいつうちしょうぶつの 16おうじの なかの だい9の あみだにて.
法華経にも 迹門の 阿弥陀は 大通智勝仏の 十六王子の 中の 第九の 阿弥陀にて.

ほけきょうだいがんの あるじの ほとけ なり.
法華経 大願の 主の 仏 なり.

ほんもんの あみだは しゃか ぶんしんの あみだ なり.
本門の 阿弥陀は 釈迦分身の 阿弥陀 なり.

したがって しゃくにも 「すべからく さらに かんぎょうとうを さす べからざるなり」と しゃくし たまえり.
随つて 釈にも 「須く 更に 観経 等を 指す べからざるなり」と 釈し 給へり.

とうて いわく きょうに なんげなんにゅうと いえり.
問うて 云く 経に 難解難入と 云へり.

せけんの ひと この もんを ひいて.
世間の 人 此の 文を 引いて.

ほけきょうは きに かなわずと もうし そうろうは どうりと おぼえ そうろうは いかん.
法華経は 機に 叶はずと 申し 候は 道理と 覚え 候は 如何.

こたえて いわく いわれなき ことなり.
答えて 云く 謂れなき 事なり.

この ゆえは この きょうを よくも こころえぬ ひとの いうこと なり.
其の 故は 此の 経を 能も 心えぬ 人の 云う事 なり.

ほっけ より いぜんの きょうは さとりがたく いりがたし.
法華 より 已前の 経は 解り難く 入り難し.

ほっけの ざに きたりては さとりやすく いりやすしと いうこと なり.
法華の 座に 来りては 解り 易く 入り易しと 云う事 なり.

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されば みょうらくだいしの おんしゃくに いわく.
されば 妙楽大師の 御釈に 云く.

「ほっけ いぜんは ふりょうぎ なるが ゆえに なんげ という.
「法華 已前は 不了義 なるが 故に 故に 難解と 云う.

すなわち いまの きょうには ことごとく みな じつに いるを さす ゆえに いちと いう」.
即ち 今の 教には 咸く 皆 実に 入るを 指す 故に 易知と 云う」.

この もんの こころは ほっけ より いぜんの きょうにては き つたなくして さとりがたく いりがたし.
此の 文の 心は 法華 より 已前の 経にては 機 つたなくして 解り難く 入り難し.

いまの きょうに きたりては き かしこく さとりやすく いりやすしと しゃくし たまえり.
今の 経に 来りては 機 賢く 成りて 解り易く 入り易しと 釈し 給へり.

その うえ なんげなんにゅうと とかれたる きょうが きに かなわずば.
其の 上 難解難入と 説かれたる 経が 機に 叶はずば.

まず ねんぶつを すてさせ たもうべきなり.
先 念仏を 捨てさせ 給うべきなり.

その ゆえは そうかんきょうに 「かたきが なかの かたき.
其の 故は 雙観経に 「難きが 中の 難き.

この かたきに すぎたるは なし」と とき.
此の 難に 過ぎたるは 無し」と 説き.

あみだきょうには なんしんの ほうと いえり.
阿弥陀経には 難信の 法と 云へり.

もんの こころは きょうを うけ たもたん ことは かたきが なかの かたき なり.
文の 心は 此の 経を 受け 持たん 事は 難きが 中の 難き なり.

これには すぎたる かたきは なし.
此れに 過ぎたる 難きは なし.

なんしんの ほう なりと みえたり.
難信の 法 なりと 見えたり.

とうて いわく きょうもんに 「しじゅうよねん いまだ しんじつを あらわさず」と いい.
問うて 云く 経文に 「四十余年 未だ 真実を 顕さず」と 云い.

また 「むりょうむへん ふかしぎあそうぎこうを すぐるとも.
又 「無量無辺 不可思議阿僧祇劫を 過るとも.

ついに むじょうぼだいを じょうずる ことを えじ」と いえり.
終に 無上菩提を 成ずる ことを 得じ」と 云へり.

この もんは いかていの ことにて そうろうや.
此の 文は 何体の 事にて 候や.

こたえて いわく この もんの こころは しゃかぶつ いちご 50ねんの せっぽうの なかに.
答えて 云く 此の 文の 心は 釈迦仏 一期 五十年の 説法の 中に.

はじめの けごんきょうにも しんじつを とかず.
始めの 華厳経にも 真実を とかず.

ちゅうの ほうどう はんにゃにも しんじつを とかず.
中の 方等 般若にも 真実を とかず.

この ゆえに ぜんしゅう ねんぶつ かい とうを ぎょうずる ひとは.
此の 故に 禅宗 念仏 戒 等を 行ずる 人は.

むりょうむへんこうをば すぐとも ほとけに ならじと いう もん なり.
無量無辺劫をば 過ぐとも 仏に ならじと 云う 文 なり.

ほとけ しじゅうよねんの さいげつを へて のち ほけきょうを とき たもう.
仏 四十二年の 歳月を 経て 後 法華経を 説き 給ふ.

もんには 「せそんの ほうは ひさしくして のちに かならず.
文には 「世尊の 法は 久くして 後に 要らず.

まさに しんじつを とき たもうべし」と おおせられ しかば.
当に 真実を 説き 給うべし」と 仰せられ しかば.

しゃりほつ とうの 1200の らかん まん2000の しょうもん.
舎利弗 等の 千二百の 羅漢 万二千の 声聞.

みろく とうの 8まんにんの ぼさつ ぼんのう たいしゃく とうの まんおくの てんにん.
弥勒 等の 八万人の 菩薩 梵王 帝釈 等の 万億の 天人.

あじゃせおう とうの むりょうむへんの こくおう.
阿闍世王 等の 無量無辺の 国王.

ほとけの みことばを りょうげ する もんには 「われら むかし よりこのかた しばしば.
仏の 御言を 領解 する 文には 「我等 昔 より 来数.

せそんの せつを きき たてまつるに いまだ かって.
世尊の 説を 聞き たてまつるに 未だ 曾つて.

かくの ごとき じんみょうの じょうほうを きかず」と いって.
是くの 如き 深妙の 上法を 聞かず」と 云つて.

われら ほとけに はなれ たてまつらずして しじゅうにねん.
我等 仏に 離れ 奉らずして 四十二年.

じゃっかんの せっぽうを ちょうもん しつれども.
若干の 説法を 聴聞 しつれども.

いまだ かくの ごとき ほけきょうをば きかずと いえる.
いまだ 是くの 如き 貴き 法華経をば きかずと 云へる.

これらの みょうもんをば いかが こころえて せけんの ひとは ほけきょうと よきょうと ひとしく おもい.
此等の 明文をば いかが 心えて 世間の 人は 法華経と 余経と 等しく 思ひ.

あまつさえ きに かなわねば やみの なかの にしき こぞの こよみ なんど いいて.
剰へ 機に 叶はねば 闇の 夜の 錦 こぞの 暦 なんど 云ひて.

たまたま たもつ ひとを みては いやしみ かろしめ にくみ ねたみ くちを すくめ なんどする.
適 持つ 人を 見ては 賤み 軽しめ 悪み 嫉み 口を すくめ なんどする.

これ しかしながら ほうぼう なり.
是れ 併ら 謗法 なり.

いかでか おうじょう じょうぶつも あるべきや.
争か 往生 成仏も あるべきや.

かならず むけんじごくに おつべき ものと みえたり.
必ず 無間地獄に 堕つべき 者と 見えたり.

とうて いわく およそ ぶっぽうを よく こころえて ぶついに かなえる ひとをば.
問うて 云く 凡そ 仏法を 能く 心得て 仏意に 叶へる 人をば.

せけんに これを おもんじ いっさい これを たっとむ.
世間に 是を 重んじ 一切是を 貴む.

→a555

b556

しかるに とうせい ほけきょうを たもつ ひとびとをば よ こぞって にくみ ねたみ かろしめ いやしみ.
然るに 当世 法華経を 持つ 人人をば 世 こぞつて 悪み 嫉み 軽しめ 賤み.

あるいは ところを おいだし あるいは るざいし.
或は 所を 追ひ出し 或は 流罪し.

くようを なすまでは おもいも よらず.
供養を なすまでは 思いも よらず.

あだがたきの ように にくまるるは いかさまにも こころ わろくして ぶついにも かなわず.
怨敵の 様に にくまるるは いかさまにも 心 わろくして 仏意にも かなはず.

ひがさまに ほうを こころえたる なるべし.
ひがさまに 法を 心得たる なるべし.

きょうもんには いかんが ときたるや.
経文には 如何が 説きたるや.

こたえて いわく きょうもんの ごとく ならば まっぽうの ほけきょうの ぎょうじゃは.
答えて 云く 経文の 如く ならば 末法の 法華経の 行者は.

ひとに にくまるる ほどに たもつを まことの だいじょうの そうと す.
人に 悪まるる 程に 持つを 実の 大乗の 僧と す.

また きょうを ひろめて ひとを りやく する ほっし なり.
又 経を 弘めて 人を 利益 する 法師 なり.

ひとに よしと おもわれ ひとの こころに したがいて たっとしと おもわれん そうをば.
人に 吉と 思はれ 人の 心に 随いて 貴しと 思はれん 僧をば.

ほけきょうの かたき せけんの あくちしき なりと おもうべし.
法華経の かたき 世間の 悪知識 なりと 思うべし.

この ひとを きょうもんには りょうしの めを ほそめにして しかを ねらい.
此の 人を 経文には 猟師の 目を 細めにして 鹿を ねらひ.

ねこの つめを かくして ねずみを ねらうが ごとくにして.
猫の 爪を 隠して 鼠を ねらふが 如くにして.

ざいけの ぞくなん ぞくにょの だんなを へつらい いつわり たぼらかすべしと とき たまえり.
在家の 俗男 俗女の 檀那を へつらい いつわり たぼらかすべしと 説き 給へり.

その うえ かんじほんには ほけきょうの てきじん 3るいを あげられたるに.
其の 上 勧持品には 法華経の 敵人 三類を 挙げられたるに.

いちには ざいけの ぞくなん ぞくにょ なり.
一には 在家の 俗男 俗女 なり.

この ぞくなん ぞくにょは ほけきょうの ぎょうじゃを にくみ のり うち はり きりころし ところを おい いだし.
此の 俗男 俗女は 法華経の 行者を 憎み 罵り 打ち はり きり殺し 所を 追ひ 出だし .

あるいは かみへ ざんそうして おんるし なさけなく あだむ ものなり.
或は 上へ 讒奏して 遠流し なさけなく あだむ 者なり.

にには しゅっけの ひと なり.
二には 出家の 人 なり.

この ひとは まんしん たかくして ないしんには ものも しらざれども.
此の 人は 慢心 高くして 内心には 物も 知らざれども.

ちしゃげに もてなして せけんの ひとに がくしょうと おもわれて.
智者げに もてなして 世間の 人に 学匠と 思はれて.

ほけきょうの ぎょうじゃを みては あだみ ねたみ かろしめ いやしみ.
法華経の 行者を 見ては 怨み 嫉み 軽しめ 賤み.

いぬ やかん よりも わろき ようを ひとに いいうとめ.
犬 野干 よりも わろき ようを 人に 云いうとめ.

ほけきょうをば われ ひとり こころえたりと おもう ものなり.
法華経をば 我 一人 心得たりと 思う 者なり.

3には あれんにゃの そう なり.
三には 阿練若の 僧 なり.

この そうは きわめて たっとき そうを かたちに あらわし.
此の 僧は 極めて 貴き 相を 形に 顕し.

3ね いっぱつを たいして さんりんの しずかなる ところに こもり いて.
三衣 一鉢を 帯して 山林の 閑かなる 所に 籠り 居て.

ざいせの らかんの ごとく しょにんに たっとまれ ほとけの ごとく まんにんに あおがれて.
在世の 羅漢の 如く 諸人に 貴まれ 仏の 如く 万人に 仰がれて.

ほけきょうを せつの ごとくに よみ たもち たてまつらん そうを みては にくみ そねんで いわく.
法華経を 説の 如くに 読み 持ち 奉らん 僧を 見ては 憎み 嫉んで 云く.

だいぐちの もの だいじゃけんの ものなり.
大愚癡の 者 大邪見の 者なり.

すべて じひ なきもの げどうの ほうを とく なんど いわん.
総て 慈悲 なき者 外道の 法を 説く なんど 云わん.

かみ いちにん より あおいで しんを とらせ たまわば その いげ ばんみんも ほとけの ごとくに くようを なすべし.
上 一人 より 仰いで 信を 取らせ 給はば 其の 已下 万人も 仏の 如くに 供養を なすべし.

ほけきょうを せつの ごとく よみ たもたん ひとは.
法華経を 説の 如く よみ 持たん 人は.

かならず この さんるいの てきじんどに あだまる べきなりと ほとけ とき たまえり.
必ず 此の 三類の 敵人に 怨まる べきなりと 仏説き 給へり.

とうて いわく ほとけの みょうごうを たもつ ように ほけきょうの みょうごうを とりわけて たもつ べき しょうこ ありや いかん.
問うて 云く 仏の 名号を 持つ 様に 法華経の 名号を 取り分けて 持つべき 証拠 ありや 如何.

こたえて いわく きょうに いわく 「ほとけ もろもろの らせつにょに つげたまわく.
答えて 云く 経に 云く 「仏諸の 羅刹女に 告げたまわく.

よきかな よきかな なんじ ただ よく ほっけの なを じゅじ する ものを おうごせん.
善き哉 善き哉 汝等 但 能く 法華の 名を 受持 する 者を 擁護せん.

さいわい はかる べからず」と うんぬん.
福 量る 可からず」と 云云.

この もんの こころは じゅうらせつの ほけきょうの なを たもつ ひとを まもらんと せんごんを たて たもうを.
此の 文の 意は 十羅刹の 法華の 名を 持つ 人を 護らんと 誓言を立て 給うを.

だいかくせそん ほめて いわく よきかな よきかな.
大覚世尊 讃めて 言く 善き哉 善き哉.

なんじら なんみょうほうれんげきょうと うけ たもたん ひとを まもらん.
汝等 南無妙法蓮華経と 受け 持たん 人を 守らん.

くどく いくらほどとも はかりがたく めでたき くどく なり.
功徳 いくら程とも 計りがたく めでたき 功徳 なり.

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しんみょう なりと おおせられたる もん なり.
神妙 なりと 仰せられたる 文 なり.

これ われら しゅじょうの ぎょうじゅうざがに なんみょうほうれんげきょうと となうべしと いう もん なり.
是れ 我等 衆生の 行住坐臥に 南無妙法蓮華経と 唱ふべしと 云う 文 なり.

およそ みょうほうれんげきょうとは われら しゅじょうの ぶっしょうとぼんのう たいしゃく とうの ぶっしょうと.
凡そ 妙法蓮華経とは 我等 衆生の 仏性と 梵王 帝釈 等の 仏性と.

しゃりほつ もくれん とうの ぶっしょうと もんじゅ みろく とうの ぶっしょうと さんぜの しょぶつの さとりの みょうほうと.
舎利弗 目連 等の 仏性と 文殊 弥勒 等の 仏性と 三世の 諸仏の 解の 妙法と.

いったいふに なる ことわりを みょうほうれんげきょうと なづけたる なり.
一体不二 なる 理を 妙法蓮華経と 名けたる なり.

ゆえに いちど みょうほうれんげきょうと となうれば いっさいの ほとけ いっさいの ほう.
故に 一度 妙法蓮華経と 唱うれば 一切の 仏 一切の 法.

いっさいの ぼさつ いっさいの しょうもん いっさいの ぼんのう たいしゃく えんまほうおう.
一切の 菩薩 一切の 声聞 一切の 梵王 帝釈 閻魔法王.

にちがつ しゅうせい てんじん ないし じごく がき ちくしょう しゅら にんてん.
日月 衆星 天神 地神 乃至 地獄 餓鬼 畜生 修羅 人天.

いっさいしゅじょうの しんちゅうの ぶっしょうを ただ いちおんに よび あらわし たてまつる くどく むりょうむへん なり.
一切衆生の 心中の 仏性を 唯 一音に 喚び 顕し 奉る 功徳 無量無辺 なり.

わが こしんの みょうほうれんげきょうを ほんぞんと あがめ たてまつりて.
我が 己心の 妙法蓮華経を 本尊と あがめ 奉りて.

わが こしんちゅうの ぶっしょう なんみょうほうれんげきょうと よび よばれて.
我が 己心中の 仏性 南無妙法蓮華経と よび よばれて.

あらわれ たもう ところを ほとけとは いうなり.
顕れ 給う 処を 仏とは 云うなり.

たとえば かごの なかの とり なけば そらとぶ とりの よばれて あつまるが ごとし.
譬えば 籠の 中の 鳥 なけば 空とぶ 鳥の よばれて 集まるが 如し.

そらとぶ とりの あつまれば かごの なかの とりも いでんと するが ごとし.
空とぶ 鳥の 集まれば 籠の 中の 鳥も 出でんと するが 如し.

くちに みょうほうを よび たてまつれば わがみ の ぶっしょうも よばれて かならず あらわれ たもう.
口に 妙法を よび 奉れば 我が 身の 仏性も よばれて 必ず 顕れ 給ふ.

ぼんのう たいしゃくの ぶっしょうは よばれて われらを まもり たもう.
梵王 帝釈の 仏性は よばれて 我等を 守り 給ふ.

ぶつ ぼさつの ぶっしょうは よばれて よろこび たもう.
仏 菩薩の 仏性は よばれて 悦び 給ふ.

されば 「もし しばらくも たもつ ものは われ すなわち かんき す.
されば 「若し 暫くも 持つ 者は 我れ 則ち 歓喜 す.

しょぶつも また しかなり」と とき たもうは この こころ なり.
諸仏も 亦 然なり」と 説き 給うは 此の 心 なり.

されば さんぜの しょぶつも みょうほうれんげきょうの 5じを もってほとけに なり たまいし なり.
されば 三世の 諸仏も 妙法蓮華経の 五字を 以て 仏に 成り 給いし なり.

さんぜの しょぶつの しゅっせの ほんかい いっさいしゅじょう かいじょうぶつどうの みょうほうと いうは これなり.
三世の 諸仏の 出世の 本懐 一切衆生 皆成仏道の 妙法と 云うは 是なり.

これらの おもむきを よくよく こころえて.
是等の 趣きを 能く能く 心得て.

ほとけに なる みちには がまんへんしゅうの こころ なく.
仏に なる 道には 我慢偏執の 心 なく.

なんみょうほうれんげきょうと となえ たてまつるべき ものなり.
南無妙法蓮華経と 唱へ 奉るべき 者なり.

にちれん ざいごはん.
日蓮 在御判.

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