b881から890.
善無畏三蔵抄 (ぜんむいさんぞうしょう).
日蓮大聖人 49歳御作.

 

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ぜんむいさんぞうしょう.
善無畏三蔵抄.

ぶんえい しちねん49さい おんさく.
文永 七年 四十九歳 御作.

あたう ぎじょうぼう じょうけんぼう かまくらに おいて.
与義浄房 浄顕房 於 鎌倉.

ほけきょうは いちだいしょうきょうの かんじん 8まんほうぞうの よりどころ なり.
法華経は 一代聖教の 肝心 八万法蔵の 依りどころ なり.

だいにちきょう けごんきょう はんにゃきょう じんみつきょう とうの もろもろの けんみつの しょきょうは.
大日経 華厳経 般若経 深密経 等の 諸の 顕密の 諸経は.

しんたん がっし りゅうぐう てんじょう じっぽうせかいの こくどの しょぶつの せっきょう ごうしゃじんじゅ なり.
震旦 月氏 竜宮 天上 十方世界の 国土の 諸仏の 説教 恒沙塵数 なり.

たいかいの すずりを みずとし 3000だいせんせかいの そうもくを ふでと しても.
大海を 硯の 水とし 三千大千世界の 草木を 筆と しても.

かき つくしがたき きょうぎょうの なかをも.
書き 尽しがたき 経経の 中をも.

あるいは これを み あるいは はかり すいするに.
或は 此れを 見 或は 計り 推するに.

ほけきょうは さいだいいちに おわします.
法華経は 最第一に おはします.

しかるを いんど とうの しゅう、にちいきの あいだに ぶっちを うかがわざる ろんし にんし おおくして.
而るを 印度 等の 宗、日域の 間に 仏意を 窺はざる 論師 人師 多くして.

あるいは だいにちきょうは ほけきょうに すぐれたり.
或は 大日経は 法華経に 勝れたり.

ある ひとびとは ほけきょうは だいにちきょうに おとれる のみなやず けごんきょうにも およばず.
或る 人人は 法華経は 大日経に 劣れる のみならず 華厳経にも 及ばず.

ある ひとびとは ほけきょうは ねはんぎょう はんにゃきょう じんみつきょう とうには おとる.
或る 人人は 法華経は 涅槃経 般若経 深密経 等には 劣る.

ある ひとびとは へんぺん あり.
或る 人人は 辺辺 あり.

たがいに しょうれつ ある ゆえに.
互に 勝劣 ある 故に.

ある ひとの いわく きに したがって しょうれつ あり.
或る 人の 云く 機に 随つて 勝劣 あり.

じきに かなえば すぐれ かなわざれば おとる.
時機に 叶へば 勝れ 叶はざれば 劣る.

ある ひとの いわく うもん より とくどう すべき き あれば.
或る 人の 云く 有門 より 得道 すべき 機 あれば.

くうもんを そしり うもんを ほむ.
空門を そしり 有門を ほむ.

よも これを もって しるべし なんど もうす.
余も 是を 以て 知るべし なんど 申す.

その ときの ひとびとの なかに この ほうもんを もうし やぶる ひと なければ.
其の 時の 人人の 中に 此の 法門を 申し やぶる 人 なければ.

おろかなる こくおうら ふかく これを しんぜさせ たまい.
おろかなる 国王等 深く 是を 信ぜさせ 給ひ.

でんぱた とうを きしんして ととう あまたに なりぬ.
田畠 等を 寄進して 徒党 あまたに なりぬ.

その ぎ ひさしく ふりぬれば ただ しょうほう なんめりと うちおもって.
其の 義 久く 旧ぬれば 只 正法 なんめりと 打ち思つて.

うたがう ことも なく すぎゆく ほどに.
疑ふ 事も なく 過ぎ行く 程に.

まっせに かれらが ろんし にんし より ちえ かしこき ひと しゅったいして.
末世に 彼等が 論師 人師 より 智慧 賢き 人 出来して.

かれらが たもつ ところの ろんし にんしの りゅうぎ いちいちに.
彼等が 持つ ところの 論師 人師の 立義 一一に.

あるいは しょえの きょうぎょうに そうい するよう.
或は 所依の 経経に 相違 するやう.

あるいは いちだい しょうきょうの しまつ せんじん とうを わきまえざる ゆえに.
或は 一代聖教の 始末 浅深 等を 弁へざる 故に.

もっぱら きょうもんを もって せめ もうす とき.
専ら 経文を 以て 責め 申す 時.

おのおの しゅうじゅうの がんその じゃぎ たすけがたき ゆえに ちんじがたを うしない.
各各 宗宗の 元祖の 邪義 扶け難き 故に 陳じ方を 失ひ.

あるいは うたがって いわく ろんし にんし さだめて きょうろんに しょうもん ありぬらん.
或は 疑つて 云く 論師 人師 定めて 経論に 証文 ありぬらん.

わが ち およばざれば たすけがたし.
我が 智 及ばざれば 扶けがたし.

あるいは うたがって いわく わが しは じょうこの けんてつ なり.
或は 疑つて 云く 我が 師は 上古の 賢哲 なり.

いま われらは まつだいの ぐにん なり なんど おもう ほどに.
今 我等は 末代の 愚人 なり なんど 思う 故に.

うとく こうじんを かたらいえて あだ のみ なすなり.
有徳 高人を かたらひえて 怨 のみ なすなり.

しかりと いえども よ じたの へんとうを なげすて.
しかりと いへども 予 自他の 偏党を なげすて.

ろんし にんしの りょうけんを さしおいて もっぱら きょうもんに よるに.
論師 人師の 料簡を 閣いて 専ら 経文に よるに.

ほけきょうは すぐれて だいいちに おわすと こころえて はべるなり.
法華経は 勝れて 第一に おはすと 意得て 侍るなり.

ほけきょうに すぐれて おわする きょうもん ありと もうす ひと しゅったい そうらわば おぼしめすべし.
法華経に 勝れて おはする 御経 ありと 申す 人 出来 候はば 思食べし.

これは そうじの きょうもんを みたがえて もうすか.
此れは 相似の 経文を 見たがへて 申すか.

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また ひとの わたくしに われと きょうもんを つくりて ことを ぶっせつに よせて そうろうか.
又 人の 私に 我と 経文を つくりて 事を 仏説に よせて 候か.

ちえ おろか なるもの わきまえずして ぶっせつと ごうする なんどと おぼしめすべし.
智慧 おろかなる 者 弁へずして 仏説と 号する なんどと 思食すべし.

えのうが だんきょう ぜんどうが かんねんほうもんきょう.
慧能が 壇経 善導が 観念法門経.

てんじく しんたん にほんこくに わたくしに きょうを ときおける じゃし その かず おおし.
天竺 震旦 日本国に 私に 経を 説きをける 邪師 其の 数 多し.

そのほか わたくしに きょうもんを つくり きょうもんに わたくしの ことばを くわえ なんどせる ひとびと これ おおし.
其の外 私に 経文を 作り 経文に 私の 言を 加へなんどせる 人人 是れ 多し.

しかりと いえども ぐしゃは これを まことと おもうなり.
然りと 雖も 愚者は 是を 真と 思うなり.

たとえば そらに にちげつに すぎたる ほし ありなんど もうせば.
譬えば 天に 日月に すぎたる 星 有りなんど 申せば.

まなこ なき ものは さもやなんど おもわんが ごとし.
眼 無き 者は さもやなんど 思はんが 如し.

わが しは じょうこの けんてつ なんじは まつだいの ぐにん なんど もうす ことをば.
我が 師は 上古の 賢哲 汝は 末代の 愚人 なんど 申す 事をば.

おろかなる ものは さもやと おもう なり.
愚なる 者は さもやと 思う なり.

この ふしんは いまに はじまりたるに あらず.
此の 不審は 今に 始りたるに あらず.

ちんずいの よに ちぎほっしと もうせし しょうそう ひとり はべりき.
陳隋の 代に 智顗法師と 申せし 小僧 一人 侍りき.

のちには にだいの てんしの おんし てんだいちしゃだいしと ごうし たてまつる.
後には 二代の 天子の 御師 天台智者大師と 号し 奉る.

この ひと はじめ いやしかりし とき ただ かんど 500よねんの さんぞう にんしを やぶる のみならず.
此の 人 始 いやしかりし 時 但 漢土 五百余年の 三蔵 人師を 破る のみならず.

がっし いっせんねんの ろんしをも はせしかば.
月氏 一千年の 論師をも 破せしかば.

なんぼくの ちじん とう くもの ごとく おこり.
南北の 智人 等 雲の 如く 起り.

とうざいの けんてつ とう ほしの ごとく つらなりて.
東西の 賢哲 等 星の 如く 列りて.

あめの ごとく なんを くだし かぜの ごとく この ぎを やぶり しかども.
雨の 如く 難を 下し 風の 如く 此の 義を 破り しかども.

ついに ろんし にんしの へんじゃの ぎを はして てんだい いっしゅうの せいぎを たてにき.
終に 論師 人師の 偏邪の 義を 破して 天台 一宗の 正義を 立てにき.

にちいきの かんむの ぎょうに さいちょうと もうす しょうそう はべりき.
日域の 桓武の 御宇に 最澄と 申す 小僧 侍りき.

のちには でんぎょうだいしと ごうし たてまつる.
後には 伝教大師と 号し 奉る.

きんめい いらいの 200よねんの もろもろの にんしの しょしゅうを やぶり しかば.
欽明 已来の 二百余年の 諸の 人師の 諸宗を 破り しかば.

はじめは しょにん いかりを なせしかども のちには いちどうに みでしと なりにき.
始は 諸人 いかりを なせしかども 後には 一同に 御弟子と なりにき.

これらの ひとびとの なんに われらが がんそは しえの ろんし じょうこの けんてつ なり.
此等の 人人の 難に 我等が 元祖は 四依の 論師 上古の 賢哲 なり.

なんじは ぞうまつの ぼんぷ ぐにん なりとこそ なんじ はべりしか.
汝は 像末の 凡夫 愚人 なりとこそ 難じ 侍りしか.

しょうぞうまつには よるべからず.
正像末には 依るべからず.

じっきょうの もんに よるべきぞ.
実経の 文に 依るべきぞ.

ひとには よるべからず.
人には 依るべからず.

もっぱら どうりに よるべきか.
専ら 道理に 依るべきか.

げどう ほとけを なんじて いわく
外道 仏を 難じて 云く.

「なんじは じょうこうの まつ じゅうこうの はじめの ぐにん なり.
「汝は 成劫の 末 住劫の 始の 愚人 なり.

われらが ほんしは せんだいの ちしゃ にてん さんせん これなり」 なんど もうせ しかども.
我等が 本師は 先代の 智者 二天 三仙 是なり」 なんど 申せ しかども.

ついに 95しゅの げどうと こそ すてられしか.
終に 九十五種の 外道と こそ 捨てられしか.

にちれん はっしゅうを かんがえたるに ほっそうしゅう けごんしゅう さんろんしゅう とうは ごんきょうに よって.
日蓮 八宗を 勘へたるに 法相宗 華厳宗 三論宗 等は 権経に 依つて.

あるいは じっきょうに おなじ あるいは じっきょうを くだせり.
或は 実経に 同じ 或は 実経を 下せり.

これ ろんし にんし より あやまりぬと みえぬ.
是れ 論師 人師 より 誤りぬと 見えぬ.

くしゃ じょうじつは しさい あるうえ りっしゅう なんどは しょうじょう さいげの しゅう なり.
倶舎 成実は 子細 ある上 律宗 なんどは 小乗 最下の 宗 なり.

にんし より ろんし ごんだいじょう より じつだいじょう なれば.
人師 より 論師 権大乗 より 実大乗経 なれば.

しんごんしゅう だいにちきょう とうは いまだ けごんきょう とうにも およばず.
真言宗 大日経 等は 未だ 華厳経 等にも 及ばず

いかに いわんや ねはん ほけきょう とうに およぶべしや.
何に 況や 涅槃 法華経 等に 及ぶべしや.

しかるに ぜんむいさんぞうは けごん ほっけ だいにちきょう とうの しょうれつを はんずる とき.
而るに 善無畏三蔵は 華厳 法華 大日経 等の 勝劣を 判ずる 時.

りどうじしょうの みょうしゃくを つくりし より このかた.
理同事勝の 謬釈を 作りし より 已来.

あるいは おごりを なして ほけきょうは けごんきょうにも おとりなん.
或は おごりを なして 法華経は 華厳経にも 劣りなん.

いかに いわんや しんごんきょうに およぶべしや.
何に 況や 真言経に 及ぶべしや.

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あるいは いわく いん しんごんの なき ことは ほけきょうに あらそうべからず.
或は 云く 印 真言の なき 事は 法華経に 諍ふべからず.

あるいは いわく てんだいしゅうの そし おおく しんごんしゅうを まさると いい.
或は 云く 天台宗の 祖師 多く 真言宗を 勝ると 云い.

せけんの おもいも しんごんしゅう すぐれたる なんめりと おもえり.
世間の 思いも 真言宗 勝れたる なんめりと 思へり.

にちれん この ことを はかるに ひと おおく まよう こと なれば いさいに かんがえたる なり.
日蓮 此の 事を 計るに 人 多く 迷ふ 事 なれば 委細に かんがへたる なり.

ほぼ よそに ちゅうせり みるべし.
粗 余処に 注せり 見るべし.

また こころざし あらん ひとびとは ざいしょうの とき ならい つたうべし.
又 志 あらん 人人は 存生の 時 習い 伝ふべし.

ひとの おおく おもうには おそる べからず.
人の 多く おもふには おそる べからず.

また じせつの くごんにも よる べからず.
又 時節の 久近にも 依る べからず.

もっぱら きょうもんと どうりとに よるべし.
専ら 経文と 道理とに 依るべし.

じょうどしゅうは どんらん どうしゃく ぜんどう より あやまり おおくして.
浄土宗は 曇鸞 道綽 善導 より 誤り 多くして.

おおくの ひとびとを じゃけんに いれけるを.
多くの 人人を 邪見に 入れけるを.

にほんの ほうねん これを うけとって ひとごとに ねんぶつを しんぜしむる のみならず.
日本の 法然 是を うけ取つて 人ごとに 念仏を 信ぜしむる のみならず.

てんかの しょしゅうを みな うしなわんと するを.
天下の 諸宗を 皆 失はんと するを.

えいざん 3000のたいしゅう なんと こうふくじ とうだいじの はっしゅう より これを せく.
叡山 三千の大衆 南都 興福寺 東大寺の 八宗 より 是を せく.

ゆえに だいだいの こくおう ちょくせんを くだし.
故に 代代の 国王 勅宣を 下し.

しょうぐんけ より みきょうしょを なして せけども とどまらず.
将軍家 より 御教書を なして せけども とどまらず.

いよいよ はんじょうして かえって しゅじょう じょうこう ばんみん とうに いたるまで みな しんぷく せり.
弥弥 繁昌して 返つて 主上 上皇 万民 等に いたるまで 皆 信伏 せり.

しかるに にちれんは あわのくに とうじょう かたうみの いそなかの せんみんが こ なり.
而るに 日蓮は 安房の国 東条 片海の 石中の 賤民が 子 なり.

いとく なく うとくの ものに あらず.
威徳 なく 有徳の ものに あらず.

なにに つけてか なんと ほくれいの とどめがたき てんしの こがの せいしに.
なにに つけてか 南都 北嶺の とどめがたき 天子の 虎牙の 制止に.

かなわざる ねんぶつを ふせぐ べきとは おもえども.
叶はざる 念仏を ふせぐ べきとは 思へども.

きょうもんを ききょうと さだめ てんだい でんぎょうの しなんを てに にぎりて.
経文を 亀鏡と 定め 天台 伝教の 指南を 手に にぎりて.

けんちょう 5ねん より ことし ぶんえい しちねんに いたるまで 17ねんが あいだ.
建長 五年 より 今年 文永 七年に 至るまで 十七年が 間.

これを せめたるに ほんこくの ねんぶつ だいたい とどまり おわんぬ.
是を 責めたるに 日本国の 念仏 大体 留り 了ぬ.

がんぜんに これ みえたり.
眼前に 是れ 見えたり.

また くちに すてぬ ひとびとは あれども.
又 口に すてぬ 人人は あれども.

こころばかりは ねんぶつは しょうじを はなるる みちには あらざりけると おもう.
心計りは 念仏は 生死を はなるる 道には あらざりけると 思ふ.

ぜんしゅう もって かくの ごとし.
禅宗 以て 是くの 如し.

いちを しって まんを しれ.
一を 以て 万を 知れ.

しんごん とうの しょしゅうの あやまりをだに とどめん こと てに にぎりて おぼゆるなり.
真言 等の 諸宗の 誤りをだに 留めん 事 手に にぎりて おぼゆるなり.

いわんや とうせいの こうそう しんごんし とうは その ち ぎゅうばにも おとり.
況や 当世の 高僧 真言師 等は 其の 智 牛馬にも おとり.

ほたるびの ひかりにも しかず.
螢火の 光にも しかず.

ただ しせるものの てに きゅうせんを ゆいつけ.
只 死せるものの 手に 弓箭を ゆひつけ.

ねごと するものに ものを とうが ごとし.
ねごと するものに 物を とふが 如し.

てに いんを むすび くちに しんごんは じゅすれども その しんちゅうには ぎりを わきまうる ことなし.
手に 印を 結び 口に 真言は 誦すれども 其の 心中には 義理を 弁うる 事なし.

けっく まんしんは やまの ごとく たかく よくしんは うみ よりも ふかし.
結句 慢心は 山の 如く 高く 欲心は 海 よりも 深し.

これは みな みずから きょうろんの しょうれつに まよう より こと おこり.
是は 皆 自ら 経論の 勝劣に 迷ふ より 事 起り.

そしの あやまりを たださざるに よるなり.
祖師の 誤りを たださざるに よるなり.

しょせん ちしゃは 8まんほうぞうをも ならうべし.
所詮 智者は 八万法蔵をも 習ふべし.

12ぶきょうをも がくすべし.
十二部経をも 学すべし.

まつだい あくせの ぐにんは ねんぶつ とうの なんぎょう いぎょう とうをば なげうって.
末代 濁悪世の 愚人は 念仏 等の 難行 易行 等をば 抛つて.

いっこうに ほけきょうの だいもくを なんみょうほうれんげきょうと となえ たもうべし.
一向に 法華経の 題目を 南無妙法蓮華経と 唱え 給うべし.

にちりん とうほうの そらに いでさせ たまえば なんぶの そら みな あきらかなり.
日輪 東方の 空に 出でさせ 給へば 南浮の 空 皆 明かなり.

たいこうを そなえ たまえる ゆえなり.
大光を 備へ 給へる 故なり.

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ほたるびは いまだ こくどを てらさず.
螢火は 未だ 国土を 照さず.

ほうしゅは かいちゅうに たもちぬれば ばんぶつ みな ふらさずと いうこと なし.
宝珠は 懐中に 持ぬれば 万物 皆 ふらさずと 云う事 なし.

がしゃくは たからを ふらさず.
瓦石は 財を ふらさず.

ねんぶつ とうは ほけきょうの だいもくに たいすれば がりゃくと ほうぎょうくと ほたるびと にっこうとの ごとし.
念仏 等は 法華経の 題目に 対すれば 瓦石と 宝珠と 螢火と 日光との 如し.

われらが くらき まなこを もって ほたるびの ひかりを えて ものの いろを わきまうべしや.
我等が 昧き 眼を 以て 螢火の 光を 得て 物の 色を 弁ふべしや.

かたがた ぼんぷの かないがたき ほうは ねんぶつ しんごん とうの しょうじょう ごんきょう なり.
旁 凡夫の 叶いがたき 法は 念仏 真言 等の 小乗 権経 なり.

また わが ししゃかにょらいは いちだいしょうきょう ないし はちまんほうぞうの せっしゃ なり.
又 我が 師 釈迦如来は 一代聖教 乃至 八万法蔵の 説者 なり.

この しゃば むぶつの よの さいさきに いでさせ たまいて.
此の 娑婆 無仏の 世の 最先に 出でさせ 給いて.

いっさいしゅじょうの がんもくを ひらき たもう みほとけ なり.
一切衆生の 眼目を 開き 給ふ 御仏 なり.

とうざい じっぽうの しょぶつ ぼさつも みな この ほとけの おしえ なるべし.
東西 十方の 諸仏 菩薩も 皆 此の 仏の 教 なるべし.

たとえば こうてい いぜんは ひと ちちを しらずして ちくしょうの ごとし.
譬えば 皇帝 已前は 人 父を しらずして 畜生の 如し.

ぎょうおう いぜんは しきを わきまえず ぎゅうばの おろか なるに おなじかりき.
堯王 已前は 四季を 弁へず 牛馬の 癡 なるに 同じかりき.

ほとけ よに いでさせ たまわざりしには びく びくにの にゅしゅうも なく.
仏 世に 出でさせ 給はざりしには 比丘 比丘尼の 二衆も なく.

ただ なんにょ ふたりにて そうらいき.
只 男女 二人にて 候いき.

いま びく びくにの しんごんしら だいにちにょらいを ごほんぞんと さだめて しゃかにょらいを くだし.
今 比丘 比丘尼の 真言師等 大日如来を 御本尊と 定めて 釈迦如来を 下し.

ねんぶつしゃらが あみだぶつを いっこうに たもって しゃかにょらいを なげすてたるも.
念仏者等が 阿弥陀仏を 一向に 持つて 釈迦如来を 抛てたるも.

きょうしゅ しゃくそんの びく びくに なり.
教主 釈尊の 比丘 比丘尼 なり.

がんそが あやまりを つたえ きたる なるべし.
元祖が 誤を 伝え 来る なるべし.

この しゃかにょらいは みっつの ゆえ ましまして たぶつに かわらせ たまいて.
此の 釈迦如来は 三の 故 ましまして 他仏に かはらせ 給ひて.

しゃばせかいの いっさいしゅじょうの うえんの ほとけと なりたもう.
娑婆世界の 一切衆生の 有縁の 仏と なり給ふ.

ひとつには この しゃばせかいの いっさいしゅじょうの せそんにて おわします.
一には 此の 娑婆世界の 一切衆生の 世尊にて おはします.

あみだぶつは この くにの だいおうには あらず.
阿弥陀仏は 此の 国の 大王には あらず.

しゃかぶつは たとえば わが くにの しゅじょうの ごとし.
釈迦仏は 譬えば 我が 国の 主上の ごとし.

まず この くにの だいおうを うやまって のちに たこくの おうをば うやまうべし.
先ず 此の 国の 大王を 敬つて 後に 他国の 王をば 敬ふべし.

てんしょうだいじん しょうはちまんぐう とうは わがくにの ほんしゅ なり.
天照太神 正八幡宮 等は 我が 国の 本主 なり.

しゃっけの のち かみと あらわれさせ たもう.
迹化の 後 神と 顕れさせ 給ふ.

この かみに そむく ひと この くにの しゅと なるべからず.
此の 神に そむく 人 此の 国の 主と なるべからず.

されば てんしょうだいじんをば かがみに うつし たてまつりて ないしどころと ごうす.
されば 天照太神をば 鏡に うつし 奉りて 内侍所と 号す.

はちまんだいぼさつに ちょくし あって もの もうし あわさせ たまいき.
八幡大菩薩に 勅使 有つて 物 申し あはさせ 給いき.

だいかくせそんは われらが そんしゅ なり.
大覚世尊は 我等が 尊主 なり.

まず ごほんぞんと さだむべし.
先づ 御本尊と 定むべし.

ふたつには しゃかにょらいは しゃばせかいの いっさいしゅじょうの ふぼ なり.
二には 釈迦如来は 娑婆世界の 一切衆生の 父母 なり.

まず わが ふぼを こうし のちに たにんの ふぼには およぼすべし.
先づ 我が 父母を 孝し 後に 他人の 父母には 及ぼすべし.

れいせば しゅうのぶおうは ちちの かたちを もくぞうに つくって くるまに のせて.
例せば 周の武王は 父の 形を 木像に 造つて 車に のせて.

いくさの たいしょうと さだめて てんかんを こうむり いんのちゅうおうを うつ.
戦の 大将と 定めて 天感を 蒙り 殷の紂王を うつ.

しゅんおうは ちちの まなこの めしいたるを なげきて なみだを ながし.
舜王は 父の 眼の 盲たるを なげきて 涙を ながし.

てを もって のごい しかば もとの ごとく まなこ あきにけり.
手を もつて のごひ しかば 本の ごとく 眼 あきにけり.

この ほとけも また かくの ごとく.
此の 仏も 又 是くの 如く.

われらが しゅじょうの まなこをば かいぶつちけんとは ひらき たまいしか.
我等 衆生の 眼をば 開仏知見とは 開き 給いしか.

いまだ たぶつは ひらき たまわず.
いまだ 他仏は 開き 給はず.

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みっつには この ほとけは しゃばせかいの いっさいしゅじょうの ほんし なり.
三には 此の 仏は 娑婆世界の 一切衆生の 本師 なり.

この ほとけは げんこう だい9  にんじゅ100さいの とき.
此の 仏は 賢劫 第九 人寿百歳の 時.

ちゅうてんじく じょうぼんだいおうの みこ 19にして しゅっけし.
中天竺 浄飯大王の 御子 十九にして 出家し.

30にして じょうどうし 50よねんが あいだ いちだいしょうきょうを とき.
三十にして 成道し 五十余年が 間 一代聖教を 説き.

80にして ごにゅうめつ.
八十にして 御入滅.

しゃりを とどめて いっさいしゅじょうを しょうぞうまつに すくい たもう.
舎利を 留めて 一切衆生を 正像末に 救ひ 給ふ.

あみだにょらい やくしぶつ だいにちとうは たどの ほとけにして.
阿弥陀如来 薬師仏 大日等は 他土の 仏にして.

この せかいの せそんにては ましまさず.
此の 世界の 世尊にては ましまさず.

この しゃばせかいは じっぽうせかいの なかの さいげの ところ.
此の 娑婆世界は 十方世界の 中の 最下の 処.

たとえば この こくどの なかの ごくもんの ごとし.
譬えば 此の 国土の 中の 獄門の 如し.

じっぽうせかいの なかの じゅうあく ごぎゃく ひぼうしょうほうの じゅうざい ぎゃくざいの ものを.
十方世界の 中の 十悪 五逆 誹謗正法の 重罪 逆罪の 者を.

しょぶつにょらい ひんずいし たまいしを しゃかにょらい この どに あつめ たもう.
諸仏如来 擯出し 給いしを 釈迦如来 此の 土に あつめ 給ふ.

さんあく ならびに むけんだいじょうに おちて その くを つぐのいて.
三悪 並びに 無間大城に 堕ちて 其の 苦を つぐのひて.

にんちゅう てんじょうには うまれたれども その つみの よざん ありて.
人中 天上には 生れたれども 其の 罪の 余残 ありて.

ややもすれば しょうほうを ぼうじ ちしゃを のり つみ つくり やすし.
ややもすれば 正法を 謗じ 智者を 罵り 罪 つくり やすし.

れいせば しんしは あらかん なれども しんにの けしき あり.
例せば 身子は 阿羅漢 なれども 瞋恚の けしき あり.

ひつりょうは けんじを だんぜ しかども まんしんの かたち みゆ.
畢陵は 見思を 断ぜ しかども 慢心の 形 みゆ.

なんだは いんよくを だんじても にょにんに まじわる こころ あり.
難陀は 婬欲を 断じても 女人に 交る 心 あり.

ぼんのうを だんじたれども よざん あり.
煩悩を 断じたれども 余残 あり.

いかに いわんや ぼんぷに おいておや.
何に 況や 凡夫に をいてをや.

されば しゃかにょらいの おんなをば のうにんと なづけて この どに いり たもうに.
されば 釈迦如来の 御名をば 能忍と 名けて 此の 土に 入り 給うに.

いっさいしゅじょうの ひぼうを とがめず.
一切衆生の 誹謗を とがめず.

よく しのび たもう ゆえなり.
よく 忍び 給ふ 故なり.

これらの ひじゅつは たぶつの かけ たまえる ところ なり.
此等の 秘術は 他仏の かけ 給へる ところ なり.

あみだぶつ とうの しょぶつ せそん ひがんを おこさせ たまいて.
阿弥陀仏 等の 諸仏 世尊 悲願を おこさせ 給いて.

こころには はじを おぼしめして かえって この かいに かよい.
心には はぢを おぼしめして 還つて 此の 界に かよひ.

しじゅうはちがん 12たいがん なんどは おこさせ たもう なるべし.
四十八願 十二大願 なんどは 起させ 給ふ なるべし.

かんぜおん とうの たどの ぼさつも またまた かくの ごとし.
観世音 等の 他土の 菩薩も 亦復 是くの 如し.

ほとけには じょうびょうどうの ときは いっさいしょぶつは さべつ なけれども.
仏には 常平等の 時は 一切諸仏は 差別 なけれども.

じょうさべつの ときは おのおのに じっぽうせかいに どを しめて うえん むえんを わかち たもう.
常差別の 時は 各各に 十方世界に 土を しめて 有縁 無縁を 分ち 給ふ.

だいつうちしょうぶつの 16おうじ じっぽうに どを しめて.
大通智勝仏の 十六王子 十方に 土を しめて.

いちいちに わが でしを すくい たもう.
一一に 我が 弟子を 救ひ 給ふ.

その なかに しゃかにょらいは この どに あたり たもう.
其の 中に 釈迦如来は 此土に 当り 給ふ.

われら しゅじょうも また せいを しゃばせかいに うけぬ.
我等 衆生も 又 生を 娑婆世界に 受けぬ.

いかにも しゃかにょらいの きょうけをば はなる べからず.
いかにも 釈迦如来の 教化をば はなる べからず.

しかりと いえども ひと みな これを しらず.
而りと いへども 人 皆 是を 知らず.

くわしく たずね あきらめば ゆいがいちにん のういくごと もうして.
委く 尋ね あきらめば 唯我一人 能為救護と 申して.

しゃかにょらいの みてを はなるべからず.
釈迦如来の 御手を 離るべからず.

しかれば この どの いっさいしゅじょう しょうじを いとい ごほんぞんを あがめんと おぼしめさば.
而れば 此の 土の 一切衆生 生死を 厭ひ 御本尊を 崇めんと おぼしめさば.

かならず まず しゃくそんを もくがの ぞうに あらわして ごほんぞんと さだめさせ たまいて.
必ず 先ず 釈尊を 木画の 像に 顕わして 御本尊と 定めさせ 給いて.

そのご ちから おわしまさば みだ とうの たぶつにも およぶべし.
其の後 力 おはしまさば 弥陀 等の 他仏にも 及ぶべし.

しかるを とうせ しょうぎょう なき この どの ひとびとの ほとけをつくり かかせ たもうに.
然るを 当世 聖行 なき 此の 土の 人人の 仏を つくり かかせ 給うに.

まず たぶつを さきと するは その ほとけの ごほんいにも.
先ず 他仏を さきと するは 其の 仏の 御本意にも.

しゃかにょらいの ごほんいにも かなう べからざる うえ.
釈迦如来の 御本意にも 叶ふ べからざる 上.

せけんの れいぎにも はずれて そうろう.
世間の 礼儀にも はづれて 候.

されば うてんだいおうの しゃくせんだん いまだ たぶつをば きざませ たまわず.
されば 優テン大王の 赤栴檀 いまだ 他仏をば きざませ 給はず.

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b886

せんとうおうの がぞうも しゃかにょらい なり.
千塔王の 画像も 釈迦如来 なり.

しかるを しょだいじょうきょうに よる ひとびと.
而るを 諸大乗経に よる 人人.

わが しょえの きょうぎょうを しょきょうに すぐれたりと おもう ゆえに.
我が 所依の 経経を 諸経に 勝れたりと 思ふ 故に.

きょうしゅしゃくそんをば つぎさまに したもう.
教主釈尊をば 次さまに し給ふ.

いっさいの しんごんしは だいにちきょうは しょきょうに すぐれたりとおもう ゆえに.
一切の 真言師は 大日経は 諸経に 勝れたりと 思ふ 故に.

この きょうを せんとする だいにちにょらいを われらが うえんの ほとけと おもい.
此の 経に 詮とする 大日如来を 我等が 有縁の 仏と 思ひ.

ねんぶつしゃらは かんぎょうとうを しんずる ゆえに あみだぶつを しゃば うえんの ほとけと おもう.
念仏者等は 観経 等を 信ずる 故に 阿弥陀仏を 娑婆 有縁の 仏と 思ふ.

とうせいは ことに ぜんどう ほうねんらが じゃぎを せいぎと おもいて.
当世は ことに 善導 法然等が 邪義を 正義と 思いて.

じょうどの さんぶきょうを しなんと する ゆえに.
浄土の 三部経を 指南と する 故に.

10 つくる てらは 9 8は あみだぶつを ほんぞんと す.
十 造る 寺は 八 九は 阿弥陀仏を 本尊と す.

ざいけ しゅっけ いっけ じっけ ひゃっけ せんけに いたるまで.
在家 出家 一家 十家 百家 千家に いたるまで.

じぶつどうの ほとけは あみだ なり.
持仏堂の 仏は 阿弥陀 なり.

そのほか もくがの ぞう いっけに せんぶつ まんぶつ まします.
其の外 木画の像 一家に 千仏 万仏 まします.

おおむねは あみだぶつ なり.
大旨は 阿弥陀仏 なり.

しかるに とうせの ちしゃと おぼしき ひとびと.
而るに 当世の 智者と おぼしき 人人.

これを みて わざわいとは おもわずして.
是を 見て わざはひとは 思はずして.

わが こころに あいかなう ゆえに ただ しょうびさんたんの こころ のみあり.
我が 意に 相叶ふ 故に 只 称美讃歎の 心 のみあり.

ただ いっこう あくにんにして いんがの どうりをも わきまえず.
只 一向 悪人にして 因果の 道理をも 弁へず.

いちぶつをも たもたざる ものは かえって とが なきへんも ありぬべし.
一仏をも 持たざる 者は 還つて 失 なきへんも ありぬべし.

われらが ふぼ せそんは しゅししんの さんとくを そなえて.
我等が 父母 世尊は 主師親の 三徳を 備えて.

いっさいの ほとけに ひんしゅつ せられたる われらを ゆいがいちにんのういくごと はげませ たもう.
一切の 仏に 擯出 せられたる 我等を 唯我一人 能為救護と はげませ 給ふ.

その おん たいかい よりも ふかし その おん だいち よりも あつし.
其の 恩 大海 よりも 深し 其の 恩 大地 よりも 厚し.

その おん こくう よりも ひろし.
其の 恩 虚空 よりも 広し.

ふたつの めを ぬいて ぶつぜんに そらの ほしの かず そなうとも.
二つの 眼を ぬいて 仏前に 空の 星の 数 備ふとも.

みの かわを はいで ひゃくせんまん てんじょうに はるとも.
身の 皮を 剥いで 百千万 天井に はるとも.

なみだを あかの みずとして せんまんおくこう ぶつぜんに はなを そなうとも.
涙を 閼伽の 水として 千万億劫 仏前に 花を 備ふとも.

みの にくけつを むりょうこう ぶつぜんに やまの ごとく つみ たいかいの ごとく たとうとも.
身の 肉血を 無量劫 仏前に 山の 如く 積み 大海の 如く 湛ふとも.

この ほとけの いちぶんの ごおんを ほうじ つくしがたし.
此の 仏の 一分の 御恩を 報じ 尽しがたし.

しかるを とうせの びゃっけんの がくしゃら.
而るを 当世の 僻見の 学者等.

たとい 8まんほうぞうを きわめ 12ぶきょうを そらんじ.
設ひ 八万法蔵を 極め 十二部経を 諳んじ.

だいしょうの かいほんを たもち たもう ちしゃ なりとも.
大小の 戒品を 堅く 持ち 給ふ 智者 なりとも.

この どうりに そむかば あくどうを まぬがる べからずと おぼしめすべし.
此の 道理に 背かば 悪道を 免る べからずと 思食すべし.

れいせば ぜんむいさんぞうは しんごんしゅうの がんそ うじょうなこくの だいおう.
例せば 善無畏三蔵は 真言宗の 元祖 烏萇奈国の 大王.

ぶっしゅおうの たいし なり.
仏種王の 太子 なり.

きょうしゅ しゃくそんは 19にして しゅっけし たまいき.
教主釈尊は 十九にして 出家し 給いき.

この さんぞうは 13にして くらいを すて がっし 70かこく 9まんりを あるき めぐりて.
此の 三蔵は 十三にして 位を 捨て 月氏 七十箇国 九万里を 歩き 回りて.

しょきょう しょろん しょしゅうを ならい つたえ.
諸経 諸論 諸宗を 習い 伝へ.

きたてんじく こんぞくおうの とうの したにして てんに あおぎ きしょうを いたし たまえるに.
北天竺 金粟王の 塔の 下にして 天に 仰ぎ 祈請を 致し 給えるに.

こくうの なかに だいいちにょらいを ちゅうおうとして たいぞうかいのまんだら あらわれさせ たもう.
虚空の 中に 大日如来を 中央として 胎蔵界の 曼荼羅 顕れさせ 給ふ.

じひの あまり この しょうほうを へんどに ひろめんと おぼしめして.
慈悲の 余り 此の 正法を 辺土に 弘めんと 思食して.

かんどに いり たまい げんそうこうていに ひほうを さずけ たてまつり.
漢土に 入り 給ひ 玄宗皇帝に 秘法を 授け 奉り.

かんばつの とき あめの いのりを したまい しかば みっかが うちに てん より あめ ふりし なり.
旱魃の 時 雨の 祈をし 給いしかば 三日が 内に 天より 雨 ふりしなり.

この さんぞうは 1200よそんの しゅし.
此の 三蔵は 千二百余尊の 種子.

そんぎょう さんまや いちじも くもり なし.
尊形 三摩耶 一事も くもり なし.

とうせいの とうじ とうの いっさいの しんごんしゅう ひとりも この みでしに あらざるは なし.
当世の 東寺 等の 一切の 真言宗 一人も 此の 御弟子に 非るは なし.

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しかるに この さんぞう いちじに とんし ありき.
而るに 此の 三蔵 一時に 頓死 ありき.

あまたの ごくそつ きたって てつじょう しちすじ かけ たてまつり えんまおうきゅうに いたる.
数多の 獄卒 来つて 鉄繩 七すぢ 懸け たてまつり 閻魔王宮に 至る.

このこと だいいちの ふしん なり.
此の事 第一の 不審 なり.

いかなる つみ あって この せめに あい たまいけるやらん.
いかなる 罪 あつて 此の 責に 値い 給ひけるやらん.

こんじょうは じゅうあくは ありもやすらん.
今生は 十悪は 有りもやすらん.

ごぎゃくざいは つくらず.
五逆罪は 造らず.

かこを たずぬれば だいこくの おうと なりたもう ことを かんがうるに.
過去を 尋ぬれば 大国の 王と なり給ふ 事を 勘うるに.

じゅうぜんかいを かたく たもち 500の ぶっだに つかえ たもうなり.
十善戒を 堅く 持ち 五百の 仏陀に 仕へ 給ふなり.

なんの つみか あらん.
何の 罪か あらん.

そのうえ 13にして くらいを すて しゅっけ したまいき.
其の上 十三にして 位を 捨て 出家 し給いき.

えんぶだいいちの ぼだいしん なるべし.
閻浮第一の 菩提心 なるべし.

かこ げんざいの けいじゅうの つみも めっすらん.
過去 現在の 軽重の 罪も 滅すらん.

そのうえ がっしに るふ する ところの きょうろん しょしゅうを ならい きわめ たまいしなり.
其の上 月氏に 流布 する 所の 経論 諸宗を 習い 極め 給いしなり.

なんの つみか きえざらん.
何の 罪か 消えざらん.

また しんごんみっきょうは たに ことなる ほう なるべし.
又 真言密教は 他に 異なる 法 なるべし.

いちいん いちしんごん なれども てに むすび くちに ずすれば.
一印 一真言 なれども 手に 結び 口に 誦すれば.

さんぜの じゅうざいも めっせずと いう こと なし.
三世の 重罪も 滅せずと 云う こと なし.

むりょうくていこうの あいだ つくる ところの しゅうの ざいしょうも.
無量倶低劫の 間 作る 所の 衆の 罪障も.

この まんだらを みれば いちじに みな しょうめつすと こそ もうし そうらえ.
此の 曼荼羅を 見れば 一時に 皆 消滅すと こそ 申し 候へ.

いわんや この さんぞうは 1200よそんの いんしんごんを そらに うかべ.
況や 此の 三蔵は 千二百余尊の 印真言を 諳に 浮べ.

そくしんじょうぶつの かんどう かがみに かかり.
即身成仏の 観道 鏡に 懸り.

りょうぶかんちょうの おんとき だいにちかくおうと なり たまいき.
両部灌頂の 御時 大日覚王と なり 給いき.

いかにして えんまの せめに あずかり たまいける やらん.
如何にして 閻魔の 責に 予り 給いける やらん.

にちれんは けんみつ にどうの なかに すぐれさせ たまいて.
日蓮は 顕密 二道の 中に 勝れさせ 給いて.

われら やすやすと しょうじを はなるべき きょうに いらんと おもい そうらいて.
我等 易易と 生死を 離るべき 教に 入らんと 思い 候いて.

しんごんの ひきょうを あらあら ならい このことを たずね かんがうるに.
真言の 秘教を あらあら 習ひ 此の事を 尋ね 勘うるに.

ひとりとして こたえを する ひと なし.
一人として 答を する 人 なし.

この ひと あくどうを まぬがれずば とうせいの いっさいの しんごん.
此の 人 悪道を 免れずば 当世の 一切の 真言.

ならびに いちいん いちしんごんの どうぞく さんあくどうの つみを まぬがるべきや.
並びに 一印 一真言の 道俗 三悪道の 罪を 免るべきや.

にちれん このことを くわしく かんがうるに ふたつの とが あって えんまおうの せめに あずかり たまえり.
日蓮 此の 事を 委く 勘うるに 二つの 失 有つて 閻魔王の 責に 予り 給へり.

ひとつには だいにちきょうは ほけきょうに おとる のみに あらず.
一つには 大日経は 法華経に 劣る のみに 非ず.

ねはんぎょう けごんきょう はんしゃきょう とうにも およばざる きょうにて そうろうを.
涅槃経 華厳経 般若経 等にも 及ばざる 経にて 候を.

ほけきょうに すぐれたりと する ほうぼうの とが なり.
法華経に 勝れたりと する 謗法の 失 なり.

ふたつには だいにちにょらいは しゃくそんの ぶんしん なり.
二つには 大日如来は 釈尊の 分身 なり.

しかるを だいにちにょらいは きょうしゅしゃくそんに すぐれたりと おもいし びゃっけん なり.
而るを 大日如来は 教主釈尊に 勝れたりと 思ひし 僻見 なり.

この ほうぼうの つみは むりょうこうの あいだ.
此の 謗法の 罪は 無量劫の 間.

1200よそんの ほうを ぎょうずとも あくどうを まぬがる べからず.
千二百余尊の 法を 行ずとも 悪道を 免る べからず.

この さんぞう この とが まぬがれがたき ゆえに しょそんの いんしんごんを なせども かなわざり しかば.
此の 三蔵 此の 失 免れ難き 故に 諸尊の 印真言を 作せども 叶はざり しかば.

ほけきょうだいに ひゆほんの こんしさんがい かいぜがう ごちゅうしゅじょう しつぜごし にこんししょ たしょげんなん ゆいがいちにん のういくごの もんを となえて.
法華経第二 譬喩品の 今此三界 皆是我有 其中衆生 悉是吾子 而今此処 多諸患難 唯我一人 能為救護の 文を 唱へて.

てつの なわを のがれさせ たまいき.
鉄の 繩を 免れさせ 給いき.

しかるに ぜんむい いごの しんごしらは だいにちきょうは いっさいきょうに まさるる のみに あらず.
而るに 善無畏 已後の 真言師等は 大日経は 一切経に 勝るる のみに 非ず.

ほけきょうに ちょうか せり.
法華経に 超過 せり.

あるいは ほけきょうは けごんきょうにも おとる なんど もうす ひとも あり.
或は 法華経は 華厳経にも 劣る なんど 申す 人も あり.

これらは ひとは ことなれども その ほうぼうの つみは おなじきか.
此等は 人は 異なれども 其の 謗法の 罪は 同じきか.

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b888

また ぜんむいさんぞう ほけきょうと だいにちきょうと だいじと すべしと じんりをば どうぜさせ たまい しかども.
又 善無畏三蔵 法華経と 大日経と 大事と すべしと 深理をば 同ぜさせ 給い しかども.

いんと しんごんとは ほけきょうは だいにちきょうに おとりけると おぼしめし びゃっけん ばかりなり.
印と 真言とは 法華経は 大日経に 劣りけると おぼせし 僻見 計りなり.

その いごの しんごんしらは だいじの りをも ほけきょうは おとれりと おもえり.
其の 已後の 真言師等は 大事の 理をも 法華経は 劣れりと 思へり.

いんしんごんは また もうすに およばず.
印真言は 又 申すに 及ばず.

ほうぼうの つみ はるかに かさみたり.
謗法の 罪 遙に かさみたり.

えんまの せめにて だごくの くを のぶべしとも みえず.
閻魔の 責にて 堕獄の 苦を 延ぶべしとも 見えず.

ただちに あびの ほのおや まねくらん.
直に 阿鼻の 炎をや 招くらん.

だいにちきょうには もと いちねん3000の じんり なし.
大日経には 本 一念三千の 深理 なし.

この りは ほけきょうに かぎるべし.
此の 理は 法華経に 限るべし.

ぜんむいさんぞう てんだいだいしの ほけきょうの じんりを よみ いでさせ たまいしを.
善無畏三蔵 天台大師の 法華経の 深理を 読み 出でさせ 給いしを.

ぬすみ とって だいにちきょうに いれ ほけきょうの そうごんとして とかれ そうろう.
盗み 取つて 大日経に 入れ 法華経の 荘厳として 説かれて 候.

だいにちきょうの いんしんごんを かの きょうの とくぶんと おもえり.
大日経の 印真言を 彼の 経の 得分と 思へり.

りも おなじと もうすは びゃっけん なり.
理も 同じと 申すは 僻見 なり.

しんごん いんけいを とくぶんと おもうも じゃけん なり.
真言 印契を 得分と 思ふも 邪見 なり.

たとえば ひとの げにんの ろっこんは しゅの ものなるべし.
譬えば 人の 下人の 六根は 主の 物なるべし.

しかるを わが たからと おもう ゆえに おおくの とが いできたる.
而るを 我が 財と 思ふ 故に 多くの 失 出で来る.

この たとえを もって しょきょうを さとるべし.
此の 譬を 以て 諸経を 解るべし.

おとる きょうに とく ほうもんは すぐれたる きょうの とくぶんと なるべきなり.
劣る 経に 説く 法門は 勝れたる 経の 得分と 成るべきなり.

しかるを にちれんは あわのくに とうじょうのごう きよすみさんの じゅうにん なり.
而るを 日蓮は 安房の国 東条の郷 清澄山の 住人 なり.

ようしょうの ときより こくうぞうぼさつに がんを たてて いわく.
幼少の 時より 虚空蔵菩薩に 願を 立てて 云く.

にほん だいいちの ちしゃと なしたまえと うんぬん.
日本 第一の 智者と なし給へと 云云.

こくうぞうぼさつ がんぜんに こうそうと ならせ たまいて.
虚空蔵菩薩 眼前に 高僧と ならせ 給いて.

みょうじょうの ごとくなる ちえの ほうじゅを さずけさせ たまいき.
明星の 如くなる 智慧の 宝珠を 授けさせ 給いき.

その しるしにや にほんこくの はっしゅう ならびに ぜんしゅう ねんぶつしゅう とうの たいこう ほぼ うかがい はべりぬ.
其の しるしにや 日本国の 八宗 並びに 禅宗 念仏宗 等の 大綱 粗伺ひ 侍りぬ.

ことには けんちょう 5ねんの ころより いま ぶんえい しちねんに いたるまで.
殊には 建長 五年の 比より 今 文永 七年に 至るまで.

この 16 しちねんの あいだ ぜんしゅうと ねんぶつしゅうとを なんずる ゆえに.
此の 十六 七年の 間 禅宗と 念仏宗とを 難ずる 故に.

ぜんしゅう ねんぶつしゅうの がくしゃ はちの ごとく おこり くものごとく あつまる.
禅宗 念仏宗の 学者 蜂の 如く 起り 雲の 如く 集る.

これを つむる こと いちごん にごんには すぎず.
是を つむる 事 一言 二言には 過ぎず.

けっくは てんだい しんごん とうの がくしゃ じしゅうの はいりゅうを ならい うしないて.
結句は 天台 真言 等の 学者 自宗の 廃立を 習ひ 失いて.

わが こころと たしゅうに おなじ ざいけの しんを なせる こと なれば.
我が 心と 他宗に 同じ 在家の 信を なせる 事 なれば.

かの じゃけんの しゅうを たすけんが ために てんだい しんごんは.
彼の 邪見の 宗を 扶けんが 為に 天台 真言は.

ねんぶつしゅう ぜんしゅうに ひとしと りょうけんし なして にちれんを はする なり.
念仏宗 禅宗に 等しと 料簡し なして 日蓮を 破する なり.

これは にちれんを はする ようなれども われと てんだい しんごん とうを うしなうもの なるべし.
此れは 日蓮を 破する 様なれども 我と 天台 真言 等を 失ふ者 なるべし.

よくよく はずべき ことなり.
能く能く 恥ずべき 事なり.

この しょきょう しょろん しょしゅうの とがを わきまうる ことは.
此の 諸経 諸論 諸宗の 失を 弁うる 事は.

こくうぞうぼさつの ごりしょう ほんしどうぜんごぼうの ごおん なるべし.
虚空蔵菩薩の 御利生 本師道善御房の 御恩 なるべし.

かめ すら おんを ほうずる ことあり.
亀魚 すら 恩を 報ずる 事あり.

いかに いわんや じんりんをや.
何に 況や 人倫をや.

この おんを ほうぜんが ために きよすみさんに おいて.
此の 恩を 報ぜんが 為に 清澄山に 於て.

ぶっぽうを ひろめ どうぜんごぼうを みちびき たてまつらんと ほっす.
仏法を 弘め 道善御房を 導き 奉らんと 欲す.

しかるに この ひと ぐちに おわする うえ ねんぶつしゃ なり.
而るに 此の 人 愚癡に おはする 上 念仏者 なり.

さんあくどうを まぬがるべしとも みえず.
三悪道を 免るべしとも 見えず.

しかも また にちれんが きょうくんを もちゆべき ひとに あらず.
而も 又 日蓮が 教訓を 用ふべき 人に あらず.

→a888

b889

しかれども ぶんえい がんねん 11がつ じゅうよっか.
然れども 文永 元年 十一月 十四日.

さいじょうはなぶさの そうぼうにして けんざんに いりし とき.
西条華房の 僧坊にして 見参に 入りし 時.

かの ひとの いわく わが ちえ なければ しょうゆうの のぞみも なし.
彼の 人の 云く 我 智慧 なければ 請用の 望も なし.

としおいて いらえなければ ねんぶつの めいそうをも たてず.
年老いて いらへなければ 念仏の 名僧をも 立てず.

せけんに ひろまる ことなければ ただ なむあみだぶつと もうす ばかりなり.
世間に 弘まる 事なれば 唯 南無阿弥陀仏と 申す 計りなり.

また わが こころ より おこらざれども ことの えん あって あみだぶつを 5たい まで つくり たてまつる.
又 我が 心 より 起らざれども 事の 縁 有つて 阿弥陀仏を 五体 まで 作り 奉る.

これ また かこの しゅくじゅう なるべし.
是れ 又 過去の 宿習 なるべし.

この とがに よって じごくに おつべきや とう うんぬん.
此の 科に 依つて 地獄に 堕つべきや 等 云云.

そのときに にちれん こころに おもわく.
爾時に 日蓮 意に 念はく.

べっして なかたがい まいらする こと なけれども.
別して 中違ひ まいらする 事 無けれども.

とうじょうさえもんにゅうどうれんちが ことに よって この 10よねんの あいだは み たてまつらず.
東条左衛門入道蓮智が 事に 依つて 此の 十余年の 間は 見 奉らず.

ただし なか ふわなるが ごとし.
但し 中 不和なるが 如し.

おんびんの ぎを そんじ おだやかに もうす ことこそ れいぎ なれとは おもい しかども.
穏便の 義を 存じ おだやかに 申す 事こそ 礼義 なれとは 思い しかども.

しょうじかいの ならい ろうしょう ふじょう なり.
生死界の 習ひ 老少 不定 なり.

また にど けんざんの こと かたかるべし.
又 二度 見参の 事 難かるべし.

この ひとの あに どうぎぼう ぎしょう この ひとに むかって.
此の 人の 兄 道義房 義尚 此の 人に 向つて.

むけんじごくに おつべき ひとと もうして ありしが.
無間地獄に 堕つべき 人と 申して 有りしが.

りんじゅう おもう さまにも ましまさざりける やらん.
臨終 思う 様にも ましまさざりける やらん.

この ひとも また しかるべしと あわれに おもいし ゆえに.
此の 人も 又 しかるべしと 哀れに 思いし 故に.

おもい きって つよづよに もうしたりき.
思い 切つて 強強に 申したりき.

あみだぶつを 5たい つくり たまえるは 5ど むけんじごくに おち たもうべし.
阿弥陀仏を 五体 作り 給へるは 五度 無間地獄に 堕ち 給ふべし.

その ゆえは しょうじきしゃほうべんの ほけきょうに.
其の 故は 正直捨方便の 法華経に.

しゃかにょらいは われらが しんぷ あみだぶつは おじと とかせ たもう.
釈迦如来は 我等が 親父 阿弥陀仏は 伯父と 説かせ 給ふ.

わが おじをば 5たいまで つくり くよう せさせ たまいて.
我が 伯父をば 五体まで 作り 供養 せさせ 給いて.

しんぷをば いったいも つくり たまわざりけるは あに ふこうの ひとに あらずや.
親父をば 一体も 造り 給はざりけるは 豈 不孝の 人に 非ずや.

なかなか やまがつ あま なんどが とうざいを しらず.
中中 山人 海人 なんどが 東西を しらず.

いちぜんをも しゅうせざる ものは かえって つみ あさきもの なるべし.
一善をも 修せざる 者は 還つて 罪 浅き者 なるべし.

とうせいの どうしんしゃが ごせを ねがうとも.
当世の 道心者が 後世を 願ふとも.

ほけきょう しゃかぶつをば うちすて あみだぶつ ねんぶつ なんどを.
法華経 釈迦仏をば 打ち捨て 阿弥陀仏 念仏 なんどを.

ねんねんに すて もうさざるは いかがある べかるらん.
念念に 捨て 申さざるは いかがある べかるらん.

うち みる ところは ぜんにんとは みえたれども.
打ち 見る 処は 善人とは 見えたれども.

おやを すてて たにんに つく とが まぬがるべしとは みえず.
親を 捨てて 他人に つく 失 免るべしとは 見えず.

いっこう あくにんは いまだ ぶっぽうに きせず.
一向 悪人は いまだ 仏法に 帰せず.

しゃかぶつを すて たてまつる とがも みえず.
釈迦仏を 捨て 奉る 失も 見えず.

えん あって しんずる へんもや あらんずらん.
縁 有つて 信ずる 辺もや 有らんずらん.

ぜんどう ほうねん ならびに とうせいの がくしゃらが じゃぎに ついて.
善導 法然 並びに 当世の 学者等が 邪義に 就いて.

あみだぶつを ほんぞんとして いっこうに ねんぶつを もうす ひとびとは.
阿弥陀仏を 本尊として 一向に 念仏を 申す 人人は.

たしょう こうごうを ふるとも この じゃけんを ひるがえして.
多生 曠劫を ふるとも 此の 邪見を 翻へして.

しゃかぶつ ほけきょうに きすべしとは みえず.
釈迦仏 法華経に 帰すべしとは 見えず.

されば そうりん さいごの ねはんぎょうに 10あく ごぎゃく よりも すぎて おそろしき ものを いださせ たもうに.
されば 雙林 最後の 涅槃経に 十悪 五逆 よりも 過ぎて おそろしき 者を 出ださせ 給ふに.

ほうぼう せんだいと もうして 250かいを たもち.
謗法 闡提と 申して 二百五十戒を 持ち.

さんね いっぱちを みに まとえる ちしゃどもの なかに こそ あるべしと みえ はべれと.
三衣 一鉢を 身に 纒へる 智者共の 中に こそ 有るべしと 見え 侍れと.

こまごまと もうして そうらいしかば この ひとも こころえず げに おもいて おわしき.
こまごまと 申して 候いしかば 此の 人も こころえず げに 思いて おはしき.

ぼうざの ひとびとも こころえず げに おもわれ しかども.
傍座の 人人も こころえず げに をもはれ しかども.

そのご うけたまわりしに ほけきょうを たもたるるの よし うけたまわり しかば この ひと じゃけんを ひるがえし たもうか.
其の後 承りしに 法華経を 持たるるの 由 承り しかば 此の 人 邪見を 翻し 給ふか.

ぜんにんに なり たまいぬと よろこび おもい そうろう ところに.
善人に 成り 給いぬと 悦び 思ひ 候 処に.

また この しゃかぶつを つくらせ たもう こと もうす ばかりなし.
又 此の 釈迦仏を 造らせ 給う 事 申す 計りなし.

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とうざには つよげなる ように ありしかども.
当座には 強なる 様に 有りしかども.

ほけきょうの もんの ままに とき そうらいしかば こう おれさせ たまえり.
法華経の 文の ままに 説き 候いしかば かう おれさせ 給へり.

ちゅうげん みみに さからい りょうやく くちに にがしと もうす ことは これなり.
忠言 耳に 逆らい 良薬 口に 苦しと 申す 事は 是なり.

いま すでに にちれん しの おんを ほうず.
今 既に 日蓮 師の 恩を 報ず.

さだめて ぶっしん のうじゅ したまわんか.
定めて 仏神 納受し 給はんか.

おのおの この よしを どうぜんぼうに もうし きかせ たもうべし.
各各 此の 由を 道善房に 申し 聞かせ 給ふべし.

たとい ごうげん なれども ひとを たすくれば じつご なんご なるべし.
仮令 強言 なれども 人を たすくれば 実語 ナン語 なるべし.

たとい なんご なれども ひとを そんずるは もうご ごうげん なり.
設ひ ナン語 なれども 人を 損ずるは 妄語 強言 なり.

とうせい がくしょう とうの ほうもんは なんご じつごと ひとびとはおぼしめし たれども みな ごうげん もうご なり.
当世 学匠 等の 法門は ナン語 実語と 人人は 思食したれども 皆 強言 妄語 なり.

ほとけの ほんいたる ほけきょうに そむく ゆえ なるべし.
仏の 本意たる 法華経に 背く 故 なるべし.

にちれんが ねんぶつ もうす ものは むけんじごくに おつべし.
日蓮が 念仏 申す 者は 無間地獄に 堕つべし.

ぜんしゅう しんごんしゅうも また あやまりのしゅう なり なんど もうし そうろうは.
禅宗 真言宗も 又 謬の宗 なりなんど 申し 候は.

ごうげんとは おぼしめすとも じつご なんご なるべし.
強言とは 思食すとも 実語 ナン語 なるべし.

れいせば この どうぜんごぼうの ほけきょうを むかえ しゃかぶつを つくらせ たもう ことは にちれんが ごうげん より おこる.
例せば 此の 道善御房の 法華経を 迎へ 釈迦仏を 造らせ 給う 事は日蓮が 強言 より 起る.

にほんこくの いっさいしゅじょうも またまた かくの ごとし.
日本国の 一切衆生も 亦復 是くの 如し.

とうせい この 10よねん いぜんは いっこう ねんぶつしゃにて そうらいしが.
当世 此の 十余年 已前は 一向 念仏者にて 候いしが.

10にんが ひとり ふたりは いっこうに なんみょうほうれんげきょうと となえ.
十人が 一 二人は 一向に 南無妙法蓮華経と 唱へ.

ふたり さんにんは りょうほうに なり.
二 三人は 両方に なり.

また いっこう ねんぶつ もうす ひとも うたがいを なす ゆえに.
又 一向 念仏 申す 人も 疑を なす 故に.

しんちゅうに ほけきょうを しんじ また しゃかぶつを かき つくり たてまつる.
心中に 法華経を 信じ 又 釈迦仏を 書き 造り 奉る.

これ また にちれんが ごうげん より おこる.
是れ 亦 日蓮が 強言 より 起る.

たとえば せんだんは いらん より しょうじ れんげは どろ より いでたり.
譬えば 栴檀は 伊蘭 より 生じ 蓮華は 泥 より 出でたり.

しかるに ねんぶつは むけんじごくに おつると もうせば.
而るに 念仏は 無間地獄に 堕つると 申せば.

とうせい ぎゅうばの ごとく なる ちしゃどもが にちれんが ほうもんを かりそめにも そしるは.
当世 牛馬の 如く なる 智者どもが 日蓮が 法門を 仮染にも 毀るは.

やせいぬが ししおうを ほえ こざるが たいしゃくを わらうに にたり.
糞犬が 師子王を ほへ 癡猿が 帝釈を 笑ふに 似たり.

ぶんえい しちねん.
文永 七年.

にちれん かおう.
日蓮 花押.

ぎじょうぼう じょうけんぼう.
義浄房 浄顕房.

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