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1344.
祈祷抄(きとう しょう) 背景と大意

 
 
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ぶんえい 9ねん (1272ねん) にちれんだいしょうにん 51さいの おんとき、さどで さいれんぼうに あたえられた ごしょ。
ぼうとう 「しょゆうの なかで どのゆうきょうの いのりが かなうのか」との しつもんを もうけられ、「しょしゅうの きょうてんは ぶっせつであるから いちおうは いのりとなるが ほけきょうの いのりこそが さいじょうの いのりである」との ごしなんを されている。
その りゆうは、まず、にじょうは、ほけきょう いぜんの おしえでは ほとけに なれず、ほけきょうで はじめて ほとけになることが できた。また、ほかの ぼさつ、すべての しゅじょうが ほけきょうで ほとけに なっている。
しゃくそんの しゅっせいの もくてきとは、いっさいしゅじょうを じょうぶつさせること であり、ほけきょうを とく ことにあった。
ほけきょうで じょうぶつした りゅうにょや だいばだったは ほけきょうの ぎょうじゃの しゅごをちかっているが、この ぶつぜんでの ちかいと、じぶんじしんの じょうぶつの おんを わすれるはずがない。
かりに しおの かんまんがなくなり たいようが にしから のぼることが あっても、ほけきょうの ぎょうじゃの いのりが かなわない わけがないと述べられている。
ぶんまつでは、しんごんしゅうの きとうは、いのる ものも、いのらせる ものも、かえって みを ほろぼす けっかに なることを、もんしょうから、また げんしょうから はしゃくされている。


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文永9年(1272年)、日蓮大聖人 51歳の御時、佐渡で 最蓮房に与えられた御書。
冒頭、「諸宗の中でどの宗教の祈りが叶うのか」との質問を設けられ、「諸宗の経典は仏説であるから一往は祈りとなるが、法華経の祈りこそが最上の祈りである」とご指南されている。
その理由は、まず、二乗は、法華経以前の経では仏になれず、法華経で初めて仏になることができた。また、他の菩薩、すべての衆生が法華経で仏となっている。
釈尊の出世の目的とは、一切衆生を成仏させることであり、法華経を説くことにあった。
法華経で成仏した竜女や提婆達多は、法華経の行者守護を誓っているが、この仏前での誓いと、自分自身の成仏の恩を忘れるはずがない。
仮に、潮の干満がなくなり、太陽が西から昇ることがあっても、法華経の行者の祈りが叶わないわけがないと述べられている。
文末では、真言宗の祈祷は、祈る者も、祈らせる者も、かえって身を滅ぼす結果になることを文証から、また現証から破折されている。

 
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