c
1394.
松野殿女房御返事 (別名、身延山御書) 背景と大意.

 
 
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こうあん 2ねん (1279ねん) 6がつ はつか、にちれんだいしょうにん 58さいの おんとき、まつのろくろうさえもんのじょうの つまに あたえられた ごしょ。
さいしょに ごくようの こころざしを ほめられ、みのぶでの せいかつは ひじょうに きびしいもので あるが、にちれんが ちゅうやに ほけきょうを よみ しゅぎょうしている ところ なので、りょうぜんじょうどにも てんだいさんにも おとらないと のべられている。
さらに、にょうぼうの ふかい しんじんを よろこばれて ほとけの かごが あることを とかれている。
ほんしょうには、つきの うさぎの せつわが かたられている。
「うさぎは きょうぎょうの ものを くよう せしかば てんてい あわれみを なして つきの なかに おかせ たまいぬ、いま てんを あおぎみるに つきの なかに うさぎ あり」
この はなしは、だいとうさいいききに かかれている。
だいとうさいいききは、りゃくして さいいきき とも いい。ちゅうごく、とうの じだいの げんぞうの りょこうき である。
さいいきから いんどに いどうした きろくで、こうせ、さいゆうきが かかれた。
せつわの ないようを いかに しめす。
りんのに さんじゅう(きつねと うさぎと さる)がいた。そこに ろうふに みを へんじた たんしゃくてんが きて、いまにも うえじに しそうで あると さんじゅうに しょくりょうを こう。
さんじゅうは しょくりょうを もとめて はしり、きつねは さかな、さるは このみを とって ろうふに わたす。うさぎ のみが なにも えられず かえって きた。
うさぎは まきを あつめる ことを きつねと さるに いらい した。
くさを ひき、きを しゅうせきし、ひを つけた。
うさぎは「この みを いっしょくに あてん」と いい、もえさかる かちゅうに みを とうじた。
ろうふは たいしゃくてんの みに ふくして いがいを げつりんに よせて こうせに つたえた。
つきの なかが うさぎの ごとく みえるのは この ことである」



b
弘安2年(1279年)6月20日、日蓮大聖人 58歳の御時、松野六郎左衛門入道の妻に与えられた御書。
最初に御供養の志をほめられ、身延での生活は非常に厳しいものであるが、日蓮が昼夜に法華経を読み修行している所なので、霊山浄土にも天台山にも劣らないと述べられている。
さらに、女房の深い信心を喜ばれて仏の加護があることを説かれている。

本抄には、月の兔の説話が述べられている。
「兎は 経行の 者を 供養 せしかば 天帝 哀みを なして 月の 中に をかせ 給いぬ、今 天を 仰ぎ 見るに 月の 中に 兎 あり」
この話は、大唐西域記(だいとうさいいきき)に書かれている。
大唐西域記は、略して西域記ともいい、中国、唐の時代の玄奘の旅行記である。
西域を通ってインドに移動した記録で、後世、西遊記が書かれた。

説話の内容を以下に示す。
「林野に三獣(狐と兎と猿)がいた。そこに老夫に身を変じた帝釈天がきて、今にも飢え死にそうであると三獣に食料を請う。三獣は、食料を求めて走り、狐は魚を、猿は木の実を採って老夫にすすめた。兎のみがなにも得られず帰ってきた。兎は、薪をあつめることを狐と猿に依頼した。
草をひき、木を集積し、火をつけた。兎は「この身を一餮にあてん」と言い、燃えさかる火中に身を投じた。老夫は帝釈の身に復して遺骸を月輪に寄せて後世に伝えた。
月の中が兎のごとく見えるのはこのことからである」

 
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