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船守弥三郎許御書(ふなもりやさぶろうもとごしょ) 背景と大意

 
 
a
けんちょう がんねん (1261ねん)6がつ 27にち、だいしょうにん 40さいの おんとき、いずこく(しずおかけん)いとう、かわなの ぎょし ふなもり やさぶろうに あたえられた ごしょである。
ふなもりとは せんどうの かしらの いみである。
ふなもり ふさいは、いずるざいと なった だいしょうにんを 30にち あまり げごし、しきゅうしている。

だいしょうにんは、ぜんねんの 7がつ 16にち、りっしょうあんこくろんを ていしゅつ して、やく いっかげつ ごに まつばがやつの そうあんを しゅうげきされた。(そうあんは ぜんしょう)
このご、だいしょうにんは かまくらを はなれていたが、ふたたび よくとしの はるに かまくらに もどられたとき、ばくふは だいしょうにんを めしとり いずに るざいした。
だいしょうにんは いずるざいに おいて かわなで ひろうの きょくに たっせられて くるしんでいたが、やさぶろうふさいは わがみの きけんを かえりみず 30日 あまりも だいしょうにんを かくまい つづけた。
さらに じとうの いとうはちろう ざえもんのじょうが じゅうびょうに おちいり、これを だいしょうにんが びょうき へいゆの きがんをされ、けっか びょうきが へいゆした。
やさぶろうは かいちゅうより ひきあげた ぶつぞう(しゃかぞう)を だいしょうにんに ささげた。
このぶつどうを だいしょうにんは しゅうせい しょじされていたと つたえられる。
ほんしょうでは、これらの げごと しきゅうとが おおきな くどくに なることを のべられている。



b
弘長元年(1261年)6月27日、大聖人40歳の御時、伊豆国(静岡県)伊東、川奈の漁師、船守弥三郎に与えられた御書。
船守とは、船頭のかしらの意味である。
船守夫妻は、伊豆流罪となった大聖人を30日あまり外護し、支給している。

大聖人は、前年の7月16日、立正安国論を提出して、約一か月後に松葉ヶ谷の草庵が襲撃された。(草庵は全焼)
この後、大聖人は鎌倉を離れていたが、再び翌年の春に鎌倉に戻られたとき、幕府は大聖人を召し捕り、伊豆に流罪した。
大聖人は、伊豆流罪において 川奈で疲労の極に達せられ苦しんでいたが、弥三郎夫妻は我が身の危険を顧みず、30日余りも 大聖人をかくまい続けた。
さらに 地頭の伊東八郎左衛門尉が重病に陥り、これを 大聖人が病気平癒の祈願をされ、結果 病気が平癒している。
弥三郎は、海中より引き上げた仏像(釈迦像)を大聖人にささげた。この仏像を大聖人は終生、所持されたと伝えられる。
本抄は、これらの外護と支給の行為が 大きな功徳になることを述べられている。

尚、大聖人滅後、この釈迦像は 墓のかたわらに立て置かれたが、にちろう(日朗)がこれを持ち去り、のちに京に運ばれる途中、海路、嵐に遭って、再び海中に沈んだとされる。

 
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