b935から939.
四恩抄(しおんしょう) 背景と大意


 
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こうちょう 2ねん (1262ねん) 1がつ 16にち、いず いとうの るざいの ちより くどう さこんのじょう よしたかに あたえられた ごしょで、べつめいを いずごかんきしょうという。
にちれんだいしょうにんが 41さいのときの ごじゅつさくである。

くどうよしたかは あわのくに、げんざいのちばけんの ひとで、じゅんすいに しんじんにはげみ、ぶんえいがんねん(1264ねん)に じたくに だいしょうにんを ごしょうたいしたが、そのとちゅうの こまつばらにおいて とうじょうかげのぶに しゅうげきされた さい、しんみょうを すてて だいしょうにんを おまもりし、じゅんじした ぶし しんとである。

ほんしょうには、しおん(いっさいしゅじょうのおん、ふぼのおん、こくおうのおん、さんぽうのおん)がしるされている。
だいしょうにんは、いずるざいに ついて、ほけきょうを ひろめるものが うける とうぜんの なんであると のべられ、このような なんに あうことは、ほけきょうを みでよんだ ことになり、これほどのよろこびはないと おおせである.

るざいを させた こくおう こそ、じぶんを ほとけにする おんふかき ひとであり、ほけきょうのために うけた なんは むりょうこうの あいだの つみを けすことであると のべられている。
いっぽうで、だいしょうにんを はくがいするものが きびしい ほうばちを まねくことを なげかられ、だいじひの おこころを しめされていいる。



b
弘長2年(1262年)1月16日、伊豆伊東の流罪の地より、工藤左近尉吉隆(くどう さこんのじょう よしたか)に与えられた御書で、別名を 伊豆御勘気抄という。
日蓮大聖人が41歳の時の御述作である。

工藤吉隆は安房国(あわのくに:千葉県)の人で、純真に信心に励み、文永元年(1264年)に自宅に大聖人を御招待したが、その途中の小松原において 東条景信に襲撃された際、身命を捨てて 大聖人をお護りし 殉死した武士信徒である。

本抄には、四恩(一切衆生の恩、父母の恩、国王の恩、三宝の恩)が記されている。
大聖人は、伊豆流罪について 末法に法華経を弘める者が受ける当然の難であると述べられ、このような難に遭うことは、法華経を身で読んだことになり、これほどの喜びはないと仰せである。流罪をさせた国王こそ、自分を仏にする恩深き人であり、法華経のための難は無量劫の間の罪を消すことであると述べられている。
一方で、大聖人を迫害する者が厳しい法罰を招くことを嘆かれ、大慈悲のお心を示されている。

 
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