c
956から961.
佐渡御書(さどごしょ) 背景と大意.

 
 
a
ぶんえい 9ねん(1272ねん) 3がつ はつか、さどの ちより でしだんな いちどうに あたえられた ごしょ。
だいしょうにんは、たつのくち、さどるざいの だいなんを うけられたが、どうじに もんか しんとへの はくがいが おこり、なんを おそれて たいてんするものが ぞくしゅつした。
ほんしょうでは、でしだんなの ぎねんを はらし、だいなんを のりこえ、ふしゃくしんみょうの しんじんを つらぬくように しどう、げきれい されている。
ないようは、ししんぐほうの せいしんを つらぬいて こそ ほとけに なれることを、せっせんどうし、ぎょうぼうぼんじの れいで のべられている。
また、あくにんが じゅうまんしている まっぽうに おいては、いのちを すてても ほうぼうを つよく せめるべきであると、しゃくふくの じゅうようせいを きょうちょう されている。
さらに、にちれんだいしょうにん ごじしんは、ぜんみんしゅうの とうりょうであり、にちげつであり、がんもくであり、まっぽうの ごほんぶつで あることを せんげん されている。
この だいしょうにんや でしを はくがい することは、こが おやを うち、ほとけから ちを ながす こういに ひとしく、あっきにゅうごんしんの こういで あるから、はくがいを くわえるものたちは、いまは よろこんで いるけれど、あとになって かならず こうかい することになる。いっぽう、ほうなんは、かこせの じゅうざい、あくごうを かるくうけて しょうめつさせ、さんあくどうの ごうくから だっすることが できることから、だいなんを うけることは くどくで あると のべられている。
さいごに、ほたるの ひかりと たいようやつき、ありずかと かざん、へいぼんなとりと らんぽう(とりのおう)と たいひさせ、たいてんしゃと だいしょうにんの そういをしめされ、でしだんなに こころざしを たかくして、しんじんを つらぬくよう ごしなんされている。



b
文永9年(1272年)3月20日、佐渡の地より弟子檀那一同に与えられた御書。
大聖人は、竜の口、佐渡流罪の大難を受けられたが、同時に門下信徒への迫害が起こり、難を怖れて退転する者が続出した。
本抄では、弟子檀那の疑念をはらし、大難を乗り越え、不自惜身命の信心を貫くよう指導、激励されている。
内容は、死身弘法の精神を貫いてこそ仏になれることを、雪山童子、楽法梵志の例で述べられている。また、悪人が充満している末法にあっては、命を捨てても謗法を強く責めるべきであると、折伏の重要性を強調されている。
さらに、日蓮大聖人御自身は、全民衆の棟梁であり、日月であり、眼目であり、末法の御本仏であることを宣言されている。
この大聖人や弟子を迫害することは、子が親を打ち、仏から血を流す行為に等しく、悪鬼入其身(あっきにゅうごしん)の行為であるから、迫害を加える者たちは、今は悦んでいるけれど、後になって必ず後悔することになる。一方、法難は、過去世の重罪、悪業を軽く受けて消滅させ、三悪道の業苦から脱することができることから、大難を受けることは功徳であると述べられている。
最後に、蛍の光と太陽や月、蟻塚と華山、平凡な鳥と鸞鳳(鳥の王)と対比させ、退転者と大聖人との相違を示され、弟子檀那に志を高くして信心を貫くよう御指南されている。

 
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