f2. 御在世当時の幕府要人一覧.

 
 
1. 北条 時頼 (ほうじょう ときより)
a.
かまくら ばくふ だい 5だい しっけん。
にちれんだいしょうにんが いず るざいの ごしゃめんまで、じっしつてきな さいこう けんりょくしゃであった。よりときは、ながときに だい 6だいの しっけんを ゆずり、さいみょうじに しゅっけ したが、ばくふの さいこう けんりょくしゃで あることに かわりは なかった。
しんこう めんに おいては ぜんしゅう を じゅうよう して けんちょうじを せつりつ、しゅういの ざんげんで、だいしょうにんへの はくがいを ようにん した。
だいしょうにんは、りっしょう あんこくろんを この ほうじょう ときよりに ていしゅつ された。
りっしょう あんこくろんの ていしゅつ で だいしょうにん は いず るざいとなったが、むじつの つみで あることを しった ときよりは、だいしょうにんの るざいを しゃめん している。
この よりときは、だいしょうにんの いず るざい しゃめんから 9かげつごに 37さいの わかさで ぼっしている。
b.
鎌倉幕府 第5代執権。
日蓮大聖人が伊豆流罪の御赦免まで、実質的な最高権力者であった。
時頼は、長時(ながとき)に第6代の執権を譲り、最明寺に出家したが、幕府の最高権力者であることは変わりなかった。信仰面においては禅宗を重用して建長寺を設立、周囲の讒言などに動かされて、大聖人への迫害を容認した。
大聖人は、立正安国論(りっしょうあんこくろん)を この北条時頼に提出された。
立正安国論の提出で、大聖人は伊豆流罪となったが、無実の罪であることを知った 時頼は、大聖人の流罪を赦免している。
この 時頼は、伊豆流罪赦免から9カ月後に 37歳の若さで没している。



2
. 北条長時 (ほうじょう ながとき)

a.
まくら ばくふ だい 6だい しっけん。ねんぶつの しんじゃで、ねんぶつ そうの ざんげんを しんじて だいしょうにんを さど るざいに した。
b
.
鎌倉幕府 第6代執権。
念仏の信者で、念仏僧の讒言を信じ、大聖人を 伊豆流罪に処した。



3. 北条時宗 (ほうじょう ときむね)
a.
かまくらばくふ だい 7だい しっけん。だい 5だい しっけん ほうじょう ときよりの こ。
ぜんしゅうに きえし、えんかくじを そうせつ、のちに しゅっけして どうこうと しょうした。
にちれんだいしょうにんは、ぶんえい 5ねんに、もうこからの ちょうじょうが はじめて とどいたとき、この ときむねに かくしゅうの きえを やめ、しょうほうに きえすることを もとめる しょじょう 「ほうじよう ときむねへの ごじょう」を おくられて いる。
ときむねは、たびかさなる もうこの ちょうじょう、さらに 2どに わたる もうこの らいしゅう (げんこう)、また ひっぱく する ざいせいに くるしんだ。
b.
鎌倉幕府 第7代執権。第5代執権 北条時頼の子。
禅宗に帰依し、円覚寺を創設、後に出家して道杲(どうこう)と称した。
日蓮大 聖人は、文永5年に、蒙古からの牃状(ちょうじょう)が初めて届いたとき、 この時宗(ときむね)に 各宗への帰依をやめ、正法に帰依することを求める書状「北条時宗への御状」(ほうじょうときむねへのごじょう)を送られている。
時宗は、度重なる蒙古の牃状、さらに2度にわたる蒙古の来襲(元寇)、また逼迫する財政に苦しんだ。



4
. 北条時輔 (ほうじょう ときすけ

a.
かまくら ばくふ だい 7だい しっけんの ときむねの あに。
ばくふの ちゅうすう から とおざけ られて いた。
はん ばくふの たいどを つづけ、ぶんえい 9ねんに いっぽうてきな はんらんの ぎわくを かけられ さつがい された。
この じけんは、にちれん だいしょうにんが さど るざい ちゅうの できごとで、2がつ そうどうと よばれた。
b.
鎌倉幕府 第7代執権の 時宗(ときむね)の兄。幕府の中枢から遠ざけられていた。
反鎌倉幕府の態度を続け、文永9年に 一方的な反乱の疑惑かけられ 殺害された。
この事件は、日蓮大聖人が佐渡流罪中の出来事で、二月騒動と呼ばれた。



5. 平左衛門尉頼綱 (へいの さえもんのじょう よりつな)
a.
かまくら ばくふの ぶしょう。たいらの よりつな とも よばれた。
かまくら ばくふの せいじ じょうの じつりょくしゃ として けんいを ふるった。
ぐんじ、けいさつ、せいむを とうかつ していた。
しんごん りっしゅうの ごくらくじ りょうかんと けったくし、にちれん だいしょうにんを はくがい、だいしょうにん もんかを だんあつ した。
だいしょうにんは、この へいの さえもんのじょうを、2ど かんぎょう されて いる。
それは たつのくちの ほうなんの ちょくごと、さど るざいの しゃめんの あと である。
へいの さえもんのじょうは、こうあん 2ねん、あつはらの ほうなんに おいて、のうみん しんと 20めいを とらえ、みずから かいしゅうを せまって ごうもんし、うち 3めいを ざんしゅ、17めいを ついほう している。
こうあん 7ねん には、しっけんを しのぐほどの いせいを ほこったが、やがて はんぎゃくの つみで、ざんしゅにて ぼっして いる。
しそくらも ことごとく ざんしゅ、さどるざい となり、いちぞくは めつぼう した。
b.
鎌倉幕府の武将。平頼綱(たいらの よりつな)とも呼ばれた。
鎌倉幕府の政治上の実力者として権威をふるった。
軍事、警察、政務を統轄していた。
真言律宗の極楽寺良観と結託し、日蓮大聖人を迫害、大 聖人門下を弾圧した。
大聖人は、この平左衛門尉を、二度 諌暁されている。
それは、竜の口の法難の直前と、佐渡流罪の赦免の後である。
この平左衛門尉は、弘安2年の熱原(あつはら)法難において、農民信徒20名を捕え、自ら改宗を迫って拷問し、内 3名を斬首、17名を追放している。
弘安7年には、執権をしのぐほどの威勢を誇ったが、やがて反逆の罪で、斬首にて没している。
子息らもことごとく 斬首、また 佐渡流罪となり 一族は滅亡した。



6. 宿屋左衛門入道光則 (やどや さえもんのじょう にゅうどう みつのり)
a.

やどや にゅうどう、やどや みつのり とも よばれる。
しっけん ほうじょう ときより、および ときむねの そっきんと して つかえた ぶし。
にちれん だいしょうにんは、ぶんえい がんねん 7がつ 16にちに、この やどや にゅうどうを つうじて さいこう けんりょくしゃの ほうじょう ときよりに りっしょう あんこくろんを ていしゅつ された。
また、もうこの さいしょの ちょうじょうが とどけられた ぶんえい 5ねんには、しょしゅうの こうそう との こうかい たいけつを せまる しょじょうを、この やどや にゅうどうを つうじて、ふたたび しっけん ほうじょう ときむねに おくって いる。
やどや にゅうどうは ごくらくじ りょうかんに きふくして りっしゅうと ねんぶつを しんこう したが、さいしゅう てきに かいしゅうし、にちれん だいしょうにんの しんこうに はいったと される。
b.
宿屋入道(やどや にゅうどう)、宿屋光則(やどや みつのり)とも呼ばれる。
執権 北条時頼、及び 時宗の側近として仕えた武士。
日蓮大聖人は、文応元年7月16日に、この宿屋入道を通じて 最高権力者の北条時頼に 立正安国論を提出された。
また、蒙古の最初の牃状(ちょうじょう)が届けられた 文永5年には、諸宗の高僧との公場対決を迫る書状を、この宿屋入道を通じて、再び 執権 北条時宗(ときむね)に送っている。
宿屋入道は 極楽寺良観に帰服して 律宗と念仏を信仰していたが、最終的に改宗し、日蓮大聖人の信仰に入ったと伝えられている。
 
 
 

 
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