b256から292.
撰時抄 (せんじしょう)
日蓮大 聖人 54歳御作.

 

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せんじしょう.
撰時抄.

けんじ がんねん 54さい おんさく.
建治 元年 五十四歳 御作.

しゃくし にちれん のぶ.
釈子 日蓮 述ぶ.

それ ぶっぽうを がくせん ほうは かならず まず ときを ならうべし.
夫れ 仏法を 学せん 法は 必ず 先づ 時を ならうべし、.

かこの だいつうちしょうぶつは しゅっせし たまいて 10しょうこうが あいだ 1きょうも とき たまわず.
過去の 大通智勝仏は 出世し 給いて 十小劫が 間 一経も 説き 給はず.

きょうに いわく 1ざ 10しょうこう また いわく.
経に 云く 一坐 十小劫 又 云く.

「ほとけ ときの いまだ いたらざるを しり しょうを うけて もくねんとして ざす」 とう うんぬん.
「仏 時の 未だ 至らざるを 知り 請を 受けて 黙然として 坐す」 等 云云、.

いまの きょうしゅ しゃくそんは 40よねんの ほど ほけきょうを とき たまわず.
今の 教主 釈尊は 四十余年の 程 法華経を 説き 給はず.

きょうに いわく「とく とき いまだ いたらざるが ゆえ」と うんぬん.
経に 云く「説く 時 未だ 至らざるが 故」と 云云、.

ろうしは ははの たいに しょして 80ねん.
老子は 母の 胎に 処して 八十年、.

みろくぼさつは とそつの ないいんに こもらせ たまいて 56おく 7せんまんさいを まち たもうべし.
弥勒菩薩は 兜率の 内院に 篭らせ 給いて 五十六億 七千万歳を まち 給うべし、.

かの ほととぎすは はるを おくり にわとりは あかつきを まつ.
彼の 時鳥は 春を をくり 鶏鳥は 暁をまつ.

ちくしょうすら なお かくのごとし いかに いわんや ぶっぽうを しゅぎょうせん ときを たださざるべしや.
畜生すら なを かくのごとし 何に 況や 仏法を 修行せんに 時を 糾ざるべしや、.

じゃくめつどうじょうの みぎりには じゅっぽうの しょぶつ じげんし いっさいの だいぼさつ しゅうえし たまい.
寂滅道場の 砌には 十方の 諸仏 示現し 一切の 大菩薩 集会し 給い.

ぼんたい してんは ころもを ひるがえし りゅうじん 8ぶは たなごころを あわせ ぼんぷ だいこんじょうの ものは みみを そばだて.
梵帝・四天は 衣を ひるがへし 竜神・八部は 掌を 合せ 凡夫・大根性の 者は 耳を そばだて.

しょうしんとくにんの しょぼさつ げだつがつとう しょうを なし たまい しかども.
生身得忍の 諸菩薩・解脱月等 請を なし 給い しかども.

せそんは にじょうさぶつ くおんじつじょうをば みょうじを かくし.
世尊は 二乗作仏・久遠実成をば 名字を かくし.

そくしんじょうぶつ いちねんさんぜんの かんじん その ぎを のべ たまわず.
即身成仏・一念三千の 肝心、其義を 宣べ 給はず、.

これらは ひとえに これ きは ありしかども ときの きたらざれば のべさせ たまわず.
此等は 偏に これ 機は 有りしかども 時の 来らざれば のべさせ 給はず.

きょうに いわく「とく とき いまだ いたらざるが ゆえに」とう うんぬん.
経に 云く「説く 時 未だ 至らざるが 故」等 云云、.

りょうぜんえじょうの みぎりには えんぶ だい1の ふこうの ひとたりし あじゃせだいおう ざに つらなり.
霊山会上の 砌には 閻浮 第一の 不孝の 人たりし 阿闍世大王 座に つらなり、.

いちだい ほうぼうの だいばだったには てんのうにょらいと なを さずけ.
一代 謗法の 提婆達多には 天王如来と 名を さづけ.

ごしょうの りゅうにょは だしんを あらためずして ほとけに なる.
五障の 竜女は 蛇身を あらためずして 仏に なる、.

けつじょうしょうの じょうぶつは いれる たねの はな さき このみ なり.
決定性の 成仏は 燋れる 種の 花 さき 果 なり.

くおんじつじょうは 100さいの おきな 25ごの こと なれるかと うたがう.
久遠実成は 百歳の 臾・二十五の 子と なれるかと うたがふ、.

いちねんさんぜんは 9かい そく ぶっかい ぶっかい そく 9かいと だんず.
一念三千は 九界 即 仏界・仏界 即 九界と 談ず、.

されば この きょうの いちじは にょいほうじゅ なり いっくは しょぶつの しゅしと なる.
されば 此の 経の 一字は 如意宝珠 なり 一句は 諸仏の 種子と なる.

これらは きの じゅく ふじゅくは さておきぬ ときの いたれる ゆえなり.
此等は 機の 熟 不熟は さてをきぬ 時の 至れる ゆへなり、.

きょうに いわく 「いま まさしく これ その とき なり けつじょうして だいじょうを とかん」とう うんぬん.
経に 云く「今 正しく 是れ 其の 時 なり 決定して 大乗を 説かん」等 云云。.

とうて いわく きに あらざるに だいほうを さずけられば ぐにんは さだめて ひぼうを なして .
問うて 云く 機に あらざるに 大法を 授けられば 愚人は 定めて 誹謗を なして.

あくどうに おつる ならば あに とく ものの つみに あらずや.
悪道に 堕る ならば 豈 説く 者の 罪に あらずや、.

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こたえて いわく ひと みちを つくる みちに まよう もの あり つくる ものの つみと なるべしや.
答えて 云く 人 路を つくる 路に 迷う 者 あり 作る 者の 罪と なるべしや.

りょうい くすりを びょうにんに あたう びょうにん きらいて ふくせずして しせば ろういの とがと なるか.
良医・薬を 病人に あたう 病人 嫌いて 服せず して 死せば 良医の 失と なるか、.

たずねて いわく ほけきょうの だい2に いわく「むちの ひとの なかに この きょうを とく こと なかれ」.
尋ねて 云く 法華経の 第二に 云く「無智の 人の 中に 此の 経を 説く こと 莫れ」.

どう だい4に いわく「ぶんぷして みだりに ひとに じゅよすべからず」.
同 第四に 云く「分布して 妄りに 人に 授与すべからず」.

どう だい5に いわく「この ほけきょうは しょぶつにょらいの ひみつの ぞうなり しょきょうの なかに おいて もっとも その うえに あり じょうやに しゅごして みだりに せんぜつ せざれ」とう うんぬん.
同 第五に 云く「此の 法華経は 諸仏如来の 秘密の 蔵なり、諸経の 中に 於て 最も 其の 上に 在り 長夜に 守護して 妄りに 宣説 せざれ」等 云云、.

これらの きょうもんは きに あらずば とかざれと いうか.
此等の 経文は 機に あらずば 説かざれと いうか、.

いま はんきつして いわく ふぎょうぼんに いわく.
今 反詰して 云く 不軽品に 云く.

「しかも この ことばを なさく われ ふかく なんだちを うやまう とう うんぬん ししゅの なかに しんにを しょうじ こころ ふじょうなる もの あり.
「而も 是の 言を 作さく 我 深く 汝等を 敬う 等 云云 四衆の 中に 瞋恚を 生じ 心 不浄なる 者 有り、.

あっく めりして いわく この むちの びく また いわく しゅにん あるいは じょうもく がしゃくを もって これを ちょうちゃくす」とう うんぬん.
悪口 罵詈して 言く 是の 無智の 比丘○ 又 云く 衆人 或は 杖木瓦石を 以て 之を 打擲す」等 云云、.

かんじほんに いわく「もろもろの むちの ひとの あっくめり とう し および とうじょうを くわうる もの あらん」とう うんぬん.
勧持品に 云く「諸の 無智の 人の 悪口 罵詈 等 し 及び 刀杖を 加うる 者 有らん」等 云云、.

これらの きょうもんは あっく めり ないし ちょうちゃく すれどもと とかれて そうろうは とく ひとの とがと なりけるか.
此等の 経文は 悪口・罵詈・乃至 打擲 すれどもと とかれて 候は 説く 人の 失と なりけるか、.

もとめて いわく この りょうせつは すいかなり いかんが こころうべき.
求めて 云く 此の 両説は 水火なり いかんが 心うべき.

こたえて いわく てんだい いわく「ときに かなうのみ」.
答えて 云く 天台 云く「時に 適うのみ」.

しょうあん いわく「しゅしゃ よろしきを えて いっこうに すべからず」とう うんぬん.
章安 云く「取捨 宜きを 得て 一向に すべからず」等 云云、.

しゃくの こころは ある ときは ぼうじぬべきには しばらく とかず ある ときは ぼうずとも しいて とくべし.
釈の 心は 或る 時は 謗じぬべきには しばらく とかず 或る 時は 謗ずとも 強て 説くべし.

ある ときは いっきは しんずべくとも ばんき そしるべくば とく べからず.
或る 時は 一機は 信ずべくとも 万機 謗べくば とく べからず.

ある ときは ばんき いちどうに ほうずとも しいて とくべし.
或る 時は 万機 一同に 謗ずとも 強て 説くべし、.

しょじょうどうの ときは ほうえ くどくりん こんごうどう こんごうぞう もんじゅ ふげん みろく げだつげつらの だいぼさつ ぼんてん してんとうの ぼんぷ だいこんじょうの もの かずを しらず.
初成道の 時は 法慧・功徳林・金剛幢・金剛蔵・文殊・普賢・弥勒・解脱月等の 大菩薩、梵帝・四天等の 凡夫・大根性の 者 かずを しらず、.

ろくやおんの そのには くりんらの 5にん かしょうらの 250にん しゃりほつらの 250にん 8まんの しょてん.
鹿野苑の 苑には 倶鄰等の 五人・迦葉等の 二百五十人・舎利弗等の 二百五十人・八万の 諸天、.

ほうどうだいえの ぎしきには せそんの じふの じょうぼんだいおう ねんごろに こいさせ たまいしかば.
方等大会の 儀式には 世尊の 慈父の 浄飯大王 ねんごろに 恋せさせ 給いしかば.

ほとけ みやに いらせ たまいて かんぶつさんまいきょうを とかせ たまい.
仏・宮に 入らせ 給いて 観仏三昧経を とかせ 給い、.

ひもの おんために とうりてんに 90日が あいだ こもらせ たまいしには まやきょうを とかせ たまう.
悲母の 御ために 忉利天に 九十日が間 篭らせ 給いしには 摩耶経を とかせ 給う、.

じふ ひも なんどには いかなる ひほうか おしませ たまうべき なれども.
慈父・悲母 なんどには いかなる 秘法か 惜ませ 給うべき なれども.

ほけきょうをば とかせ たまわず せんずる ところ きには よらず.
法華経をば 説かせ 給はず せんずる ところ 機には よらず.

とき いたらざれば いかにも とかせ たまわぬにや.
時 いたらざれば・いかにも とかせ 給はぬにや。.

とうて いわく いかなる ときにか しょうじょう ごんきょうを とき いかなる ときにか ほけきょうを とくべきや.
問うて 云く いかなる 時にか 小乗・権経を とき いかなる 時にか 法華経を 説くべきや、.

こたえて いわく じゅっしんの ぼさつより とうかくの だいしに いたるまで ときと きとをば あい しりがたき ことなり.
答えて 云く 十信の 菩薩より 等覚の 大士に いたるまで 時と 機とをば 相 知りがたき 事なり.

いかに いわんや われらは ぼんぷなり いかでか じきを しるべき.
何に 況や 我等は 凡夫なり いかでか 時機を しるべき、.

もとめて いわく すこしも しる こと ある べからざるか.
求めて 云く すこしも 知る 事 ある べからざるか、.

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こたえて いわく ぶつげんを かって じきを かんがえよ ぶつにちを もって こくどを てらせ.
答えて 云く 仏眼を かつて 時機を かんがへよ 仏日を 用て 国土を てらせ、.

とうて いわく その こころ いかん.
問うて 云く 其の 心 如何、.

こたえて いわく だいしつきょうに だいかくせそん がつぞうぼさつに たいして みらいの ときを さだめ たまえり.
答えて 云く 大集経に 大覚世尊・月蔵菩薩に 対して 未来の 時を 定め 給えり.

いわゆる わが めつどの のちの 500さいの なかには げだつけんご.
所謂 我が 滅度の 後の 五百歳の 中には 解脱堅固・.

つぎの 500ねんには ぜんじょうけんご いじょう 1000ねん つぎの 500ねんには どくじゅたもんけんご.
次の 五百年には 禅定堅固 已上 一千年 次の 五百年には 読誦多聞堅固・.

つぎの 500ねんには たぞうとうじけんご いじょう 2000ねん.
次の 五百年には 多造塔寺堅固 已上 二千年.

つぎの 500ねんには わが ほうの なかに おいて とうじょうごんしょうして びゃくほうおんもつせん とう うんぬん.
次の 五百年には 我 法の 中に 於て 闘諍言訟して 白法隠没せん 等 云云、.

この 5の 500さい 2500よねんに ひとびとの りょうけん さまざまなり.
此の 五の 五百歳・二千五百余年に 人人の 料簡 さまざまなり、.

かんどの どうしゃくぜんじが いわく.
漢土の 道綽禅師が 云く.

しょうぞう 2000 しかの 500さいには しょうじょうと だいじょうとの びゃくほう さかんなるべし.
正像 二千・四箇の 五百歳には 小乗と 大乗との 白法 盛なるべし.

まっぽうに いっては かれらの びゃくほう みな しょうめつして じょうどの ほうもん ねんぶつの びゃくほうを しゅぎょうせん ひと ばかり しょうじを はなるべし.
末法に 入つては 彼等の 白法 皆 消滅して 浄土の 法門・念仏の 白法を 修行せん 人 計り 生死を はなるべし、.

にほんこくの ほうねんが りょうけんして いわく.
日本国の 法然が 料簡して 云く.

いま にほんこくに るふする ほけきょう けごんきょう ならびに だいにちきょう もろもろの しょうじょうきょう てんだい しんごん りつ とうの しょしゅうは だいしつきょうの きもんの しょうぞう 2000ねんの びゃくほうなり.
今 日本国に 流布する 法華経・華厳経 並びに 大日経・諸の 小乗経・天台・真言・律 等の 諸宗は 大集経の 記文の 正像 二千年の 白法 なり.

まっぽうに いっては かれらの びゃくほうは みな めつじんすべし.
末法に 入つては 彼等の 白法は 皆 滅尽すべし.

たとい ぎょうずる ひとあり とも ひとりも しょうじを はなる べからず.
設い 行ずる 人ありとも 一人も 生死を はなる べからず、.

じゅうじゅうびばしゃろんと どんらんほっしの なんぎょうどう どうしゃくの みういちにんとくしゃ ぜんどうの せんちゅうむいち これなり.
十住毘婆沙論と 曇鸞法師の 難行道・道綽の 未有一人得者・善導の 千中無一 これなり、.

かれらの びゃくほうおんもつの つぎには じょうどさんぶきょう みだしょうみょうの いちぎょうばかり だいびゃくほうとして しゅつげん すべし.
彼等の 白法隠没の 次には 浄土三部経・弥陀称名の 一行 ばかり 大白法として 出現 すべし、.

これを ぎょうぜん ひとびとは いかなる あくにん ぐにん なりとも 10そく10しょう 100そく100しょう ただ じょうどの いちもんのみ あって みちに つうにゅうすべしとは これなり.
此を 行ぜん 人人は いかなる 悪人・愚人 なりとも 十即十生・百即百生・唯 浄土の 一門のみ 有つて 路に 通入すべしとは これなり、.

されば ごせを ねがわん ひとびとは えいざん とうじ おんじょう 7だいじとうの にほん 1しゅうの しょじ しょざんの ごきえを とどめて.
されば 後世を 願はん 人人は 叡山・東寺・園城・七大寺等の 日本 一州の 諸寺・諸山の 御帰依を とどめて.

かの じざんに よせおける でんばたぐんごうを うばい とって ねんぶつどうに つけば.
彼の 寺山に よせをける 田畠郡郷を うばい とつて 念仏堂に つけば.

けつじょうおうじょう なみあぶだぶつと すすめ ければ わが ちょう いちどうに その ぎに なりて いまに 50よねん なり.
決定往生・南無阿弥陀仏と すすめ ければ 我が 朝 一同に 其の 義に なりて 今に 五十余年 なり、.

にちれん これらの あくぎを なんじ やぶる ことは ことふり そうらいぬ.
日蓮 此等の 悪義を 難じ やぶる 事は ことふり 候いぬ、.

かの だいしつきょうの びゃくほうおんもつの ときは だい5の 500さい とうせい なる ことは うたがい なし.
彼の 大集経の 白法隠没の 時は 第五の 五百歳 当世 なる 事は 疑ひ なし、.

ただし かの びゃくほうおんもつの つぎには ほけきょうの かんじんたる なんみょうほうれんげきょうの だいびゃくほうの いちえんぶだいの うち 8まんの くに あり.
但し 彼の 白法隠没の 次には 法華経の 肝心たる 南無妙法蓮華経の 大白法の 一閻浮提の 内・八万の 国 あり.

その くにぐにに 8まんの おう あり おうおう ごとに しんか ならびに ばんみん までも.
其の 国国に 八万の 王あり 王王 ごとに 臣下 並びに 万民 までも.

いま にほんこくに みだしょうみょうを ししゅうの くちぐちに となうるが ごとく こうせんるふ せさせ たまう べきなり.
今 日本国に 弥陀称名を 四衆の 口口に 唱うるが ごとく 広宣流布 せさせ 給う べきなり。.

とうて いわく その しょうもん いかん.
問うて 云く 其の 証文 如何、.

こたえて いわく ほけきょうの だい7に いわく.
答えて 云く 法華経の 第七に 云く.

「わが めつどの のち のちの 500さいの なかに こうせんるふして えんぶだいに おいて だんぜつ せしむこと なけん」とう うんぬん.
「我が 滅度の 後 後の 五百歳の 中に 広宣流布して 閻浮提に 於て 断絶 せしむること 無けん」等 云云、.

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きょうもんは だいしつきょうの びゃくほうおんもつの つぎの ときを とかせ たまうに こうせんるふと うんぬん.
経文は 大集経の 白法隠没の 次の 時を とかせ 給うに 広宣流布と 云云、.

どう だい6の まきに いわく あくせ まっぽうの とき よく この きょうを たもつ もの とう うんぬん.
同 第六の 巻に 云く「悪世 末法の 時 能く 是の 経を 持つ 者」等 云云.

また だい5の まきに いわく「のちの まつせの ほう めっせんと する とき」とう うんぬん.
又 第五の 巻に 云く「後の 末世の 法 滅せんと する 時」等・.

また だい4の まきに いわく「しかも この きょうは にょらい げんざいにすら なお おんしつ おおし いわんや めつどの のちをや」.
又 第四の 巻に 云く「而も 此 経は 如来 現在にすら 猶 怨嫉 多し 況や 滅度の 後をや」.

また だい5の まきに いわく「いっさいせけんに あだ おおくして しんじがたし」.
又 第五の 巻に 云く「一切世間 怨 多くして 信じ難し」.

また だい7の まきに だい5の 500さい とうじょうけんごの ときを といて いわく.
又 第七の 巻に 第五の 五百歳 闘諍堅固の 時を 説いて 云く.

「あくま まみん もろもろの てんりゅう やしゃ くはんだとう その たよりを えん」.
「悪魔 魔民 諸の 天竜・夜叉・鳩槃荼等 其の 便を 得ん」.

だいしつきょうに いわく「わが ほうの なかに おいて とうじょうごんしょうせん」とう うんぬん.
大集経に 云く「我が 法の 中に 於て 闘諍言訟せん」等 云云、.

ほけきょうの だい5に いわく「あくせの なかの びく」.
法華経の 第五に 云く「悪世の 中の 比丘」.

また いわく「あるいは あれんにゃに あり」とう うんぬん.
又 云く「或は 阿蘭若に 有り」等 云云.

また いわく「あっき その みに いる」とう うんぬん.
又 云く「悪鬼 其 身に 入る」等 云云、.

もんの こころは だい5の 500さいの とき あっきの みに いれる だいそうら くにじゅうに じゅうまんせん その ときに ちしゃ 1にん しゅつげんせん.
文の 心は 第五の 五百歳の 時・悪鬼の 身に 入る 大僧等・国中に 充満せん 其 時に 智人 一人 出現せん.

かの あっきの いれる だいそうら ときの おうしん ばんみんらを かたらいて あっくめり じょうもくがしゃく るざいしざいに おこなわん とき.
彼の 悪鬼の 入る 大僧等・時の 王臣・万民等を 語て 悪口罵詈・杖木瓦礫・流罪死罪に 行はん 時.

しゃか たほう 10ほうの しょぶつ じゆの だいぼさつらに おおせつけ.
釈迦・多宝・十方の 諸仏・地涌の 大菩薩らに 仰せつけ.

だいぼさつは ぼんたい にちがつ してんとうに もうしくだされ.
大菩薩は 梵帝・日月・四天等に 申しくだされ.

その とき てんぺん ちよう さかん なるべし.
其の 時 天変・地夭・盛 なるべし、.

こくしゅら その いさめを もちいずば りんごくに おおせつけて.
国主等・其の いさめを 用いずば 鄰国に をほせつけて.

かれがれの くにぐにの あくおう あくびくらを せめらるる ならば ぜんだいみもんの だいとうじょう いちえんぶだいに おこるべし.
彼彼の 国国の 悪王・悪比丘等を せめらるる ならば 前代未聞の 大闘諍・一閻浮提に 起るべし.

その とき にちがつしょしょうの してんげの いっさいしゅじょう.
其の 時・日月所照の 四天下の 一切衆生、.

あるいは くにを おしみ あるいは みを おしむゆえに いっさいの ぶつぼさつに いのりを かくとも しるしなくば.
或は 国を をしみ 或は 身を をしむゆへに 一切の 仏菩薩に いのりを かくとも しるしなくば.

かの にくみつる ひとりの しょうそうを しんじて むりょうの だいそうら 8万の だいおうら.
彼の にくみつる 一の 小僧を 信じて 無量の 大僧等 八万の 大王等、.

いっさいの ばんみん みな こうべを ちに つけ たなごころを あわせて いちどうに なむみょうほうれんげきょうと となうべし.
一切の 万民・皆 頭を 地に つけ 掌を 合せて 一同に 南無妙法蓮華経と となうべし、.

れいせば じんりきほんの 10じんりきの とき 10ほうせかいの いっさいしゅじょう ひとりも なく しゃばせかいに むかって だいおんじょうを はなちて.
例せば 神力品の 十神力の 時・十方世界の 一切衆生 一人も なく 娑婆世界に 向つて 大音声を はなちて.

なむしゃかむにぶつ なむしゃかむにぶつ なんみょうほうれんげきょう なんみょうほうれんげきょうと いちどうに さけびしが ごとし.
南無釈迦牟尼仏 南無釈迦牟尼仏・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と 一同に さけびしが ごとし。.

とうて いわく きょうもんは ふんみょうに そうろう てんだい みょうらく でんぎょうらの みらいきの ことばは ありや.
問うて 曰く 経文は 分明に 候・天台・妙楽・伝教等の 未来記の 言は ありや、.

こたえて いわく なじが ふしん さかしまなり.
答えて 曰く 汝が 不審 逆なり.

しゃくを ひかん ときこそ きょうろんは いかにとは ふしんせられたれ きょうもんに ふんみょうならば しゃくを たずぬべからず.
釈を 引かん 時こそ 経論は いかにとは 不審せられたれ 経文に 分明ならば 釈を 尋ぬべからず、.

さて しゃくの もんが きょうに そういせば きょうを すてて しゃくに つくべきか いかん.
さて 釈の 文が 経に 相違せば 経を すてて 釈に つくべきか 如何、.

かれ いわく どうり しごく せり.
彼 云く 道理 至極 せり、.

しかれども ぼんぷの ならい きょうは とおし しゃくは ちかし ちかき しゃく ふんみょうならば いま すこし しんじんを ますべし.
しかれども 凡夫の 習 経は 遠し 釈は 近し 近き 釈 分明ならば いま すこし 信心を ますべし、.

いま いわく なんじが ふしん ねんごろ なれば しょうしょう しゃくを いだす べし.
今 云く 汝が 不審 ねんごろ なれば 少少 釈を いだす べし.

てんだいだいし いわく「のちの 500さい とおく みょうどうに うるおわん」.
天台大師 云く「後の 五百歳 遠く 妙道に 沾わん」.

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みょうらくだいし いわく「まっぽうの はじめ みょうり なきに あらず」
妙楽大師 云く「末法の 初め 冥利 無きに あらず」

でんぎょうだいし いわく「しょうぞう やや すぎおわって まっぽう はなはだ ちかきに あり ほっけ いちじょうの き いま まさしく これ そのとき なり
伝教大師 云く「正像 稍 過ぎ已つて 末法 太だ 近きに 有り 法華 一乗の 機 今 正しく 是れ 其の時 なり、

なにを もって しる ことを うる あんらくぎょうぼんに いわく まつせほうめつの とき なり」
何を 以て 知る ことを 得る、 安楽行品に 云く 末世法滅の 時 なり」

また いわく 「よを かたれば すなわち ぞうの おわり まつの はじめ ちを たずぬれば とうの ひがし かつの にし
又 云く「代を 語れば 則ち 像の 終り 末の 初め 地を 尋ぬれば 唐の 東・羯の 西・

ひとを たずぬれば ごじょくの せい とうじょうの とき なり
人を 原ぬれば 五濁の 生・闘諍の 時 なり、

きょうに いわく ゆたおんしつ きょうめつどごと この ことば まことに ゆえ あるなり」うんぬん
経に 云く 猶多怨嫉 況滅度後と 此の 言 良に 以 有るなり」云云、

それ しゃくそんの しゅっせは じゅうこう だい9の げん にんじゅ 100さいの とき なり
夫れ 釈尊の 出世は 住劫 第九の 減・人寿 百歳の 時 なり

100さいと 10さいとの ちゅうげん ざいせ 50ねん めつご 2000年と 10000年と なり
百歳と 十歳との 中間・在世 五十年・滅後 二千年と 一万年と なり、

その ちゅうげんに ほけきょうの るふの とき 2ど あるべし
其の 中間に 法華経の 流布の 時・二度 あるべし

いわゆる ざいせの 8年 めつごには まっぽうの はじめの 500ねん なり
所謂 在世の 八年・滅後には 末法の 始の 五百年 なり、

しかるに てんだい みょうらく でんぎょうらは すすんでは ざいせ ほけきょうの ときにも もれさせ たまいぬ
而に 天台・妙楽・伝教等は 進んでは 在世 法華経の 時にも・もれさせ 給いぬ、

しりぞいては めつご まっぽうの ときにも うまれ させ たまわず
退いては 滅後・末法の 時にも 生れ させ 給はず

ちゅうげんなる ことを なげかせ たまいて まっぽうの はじめを こいさせ たまう おんふで なり
中間なる 事を なげかせ 給いて 末法の 始を こひさせ 給う 御筆 なり、

れいせば あしだせんにんが しったたいしの うまれさせ たましを みて かなしんで いわく
例せば 阿私陀仙人が 悉達太子の 生れさせ 給いしを 見て 悲んで 云く

げんしょうには 90に あまれり たいしの じょうどうを みる べからず
現生には 九十に あまれり 太子の 成道を 見る べからず

ごしょうには むしきかいに うまれて 50ねんの せっぽうの ざにも つらなる べからず
後生には 無色界に 生れて 五十年の 説法の 坐にも つらなる べからず

しょうぞうまつにも うまる べからずと なげきしが ごとし
正像末にも 生る べからずと なげきしが ごとし、

どうしん あらん ひとびとは これを みききて よろこばせ たまえ
道心 あらん 人人は 此を 見ききて 悦ばせ 給え

しょうぞう 2000ねんの だいおうよりも ごせを おもわん ひとびとは まっぽうの いまの たみにてこそ あるべけれ これを しんぜざらんや
正像 二千年の 大王よりも 後世を をもはん 人人は 末法の 今の 民にてこそ あるべけれ 此を 信ぜざらんや、

かの てんだいの ざすよりも なんみょうほれんげきょうと となうる らいにんとは なるべし
彼の 天台の 座主よりも 南無妙法蓮華経と 唱うる 癩人とは なるべし、

りょうの ぶていの がんに いわく「むしろ だいばだったと なって むけんじごくには しずむとも うずらんほつとは ならじ」と うんぬん
梁の 武帝 の願に 云く「寧ろ 提婆達多と なて 無間地獄には 沈むとも 欝頭羅弗とは ならじ」と 云云。

とうて いわく りゅうじゅ てんじんらの ろんしの なかに この ぎ ありや 
問うて 云く 竜樹・天親等の 論師の 中に 此の 義 ありや、

こたえて いわく りゅうじゅ てんじんらは ないしんには ぞんぜさせ たまうと いえども ことばには この ぎを のべ たまわず
答えて 云く 竜樹・天親等は 内心には 存ぜさせ 給うと いえども 言には 此の 義を 宣べ 給はず、

もとめて いわく いかなる ゆえにか のべ たまわざるや
求めて 云く いかなる 故にか 宣 給ざるや、

こたえて いわく おおくの ゆえ あり
答えて 云く 多くの 故 あり

1には かの ときには き なし 2には とき なし 3には しゃっけ なれば ふぞく せられ たまわず
一には 彼の 時には 機 なし・二には 時 なし・三には 迹化 なれば 付嘱 せられ 給はず、

もとめて いわく ねがわくは この こと よくよく きかんと おもう
求めて 云く 願くは 此の 事 よくよく きかんと をもう、

こたえて いわく それ ほとけの めつご 2がつ 16にちよりは しょうほうの はじめなり
答えて 云く 夫 仏の 滅後 二月 十六日よりは 正法の 始なり

かしょうそんじゃ ほとけの ふぞくを うけて 20ねん つぎに あなんそんじゃ 20ねん つぎに しょうなわしゅ 20ねん つぎに うばくった 20ねん つぎに だいたか 20ねん
迦葉尊者 仏の 付嘱を うけて 二十年、次に 阿難尊者 二十年・次に 商那和修 二十年・次に 優婆崛多 二十年・次に 提多迦 二十年、

いじょう 100ねんが あいだは ただ しょうじょうきょうの ほうもんを のみ ぐつうして しょだいじょうきょうは みょうじも なし
已上 一百年が 間は 但 小乗経の 法門を のみ 弘通して 諸大乗経は 名字も なし

いかに いわんや ほけきょうを ひろむ べしや
何に 況や 法華経を ひろむ べしや、

つぎには みしゃか ぶっだなんだい ぶっだみった きょうびく ふなしゃらの 4 5にん さきの 500よねんが あいだは だいじょうきょうの ほうもん しょうしょう しゅったい せしかども
次には 弥遮迦・仏陀難提・仏駄密多・脇比丘・富那奢等の 四五人、前の 五百余年が 間は 大乗経の 法門 少少・出来 せしかども・

とりたてて くつうし たまわず ただ しょうじょうきょうを おもてとして やみぬ
とりたてて 弘通し 給はず、但 小乗経を 面として やみぬ、

いじょう だいしゅうきょうの さき 500ねん げだつけんごの とき なり
已上 大集経の 先 五百年 解脱堅固の 時 なり、

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しょうほうの のち 600ねん いご 1000ねんが さき その ちゅうげんに.
正法の 後 六百年・已後 一千年が 前・其の 中間に.

めみょうぼさつ びらそんじゃ りゅうじゅぼさつ だいばぼさつ らごそんじゃ そうぎゃなんだい そうぎゃやしゃ くまらだ しゃやな ばんだ まぬら かくろくやな ししらの 10よにんの ひとびと.
馬鳴菩薩・毘羅尊者・竜樹菩薩・提婆菩薩・羅睺尊者・僧佉難提・僧伽耶奢・鳩摩羅駄・闍夜那・盤陀・摩奴羅・鶴勒夜那・師子等の 十余人の 人人.

はじめには げどうの いえに いり つぎには しょうじょうきょうを きわめ のちには しょだいじょうきょうを もて しょしょうじょうきょうを さんざんに はし うしない たまいき.
始には 外道の 家に 入り 次には 小乗経を きわめ 後には 諸大乗経を もて 諸小乗経を さんざんに 破し 失ひ 給いき.

これらの だいしらは しょだいじょうきょうを もって しょしょうじょうきょうをば はせさせ たまい しかども.
此等の 大士等は 諸大乗経を もつて 諸小乗経をば 破せさせ 給い しかども.

しょだいじょうきょうと ほけきょうの しょうれつをば ふんみょうに かかせ たまわず.
諸大乗経と 法華経の 勝劣をば 分明に かかせ 給はず、.

たとい しょうれつを すこし かかせ たまいたる ようなれども.
設い 勝劣を すこし かかせ 給いたる やうなれども.

ほんじゃくの 10みょう にじょうさぶつ くおんじつじょう いこんとうの みょう ひゃっかいせんにょ いちねんさんぜんの かんようの ほうもんは ふんみょう ならず.
本迹の 十妙・二乗作仏・久遠実成・已今当の妙・百界千如・一念三千の 肝要の 法門は 分明 ならず、.

ただ あるいは ゆびを もって つきを さすが ごとくし.
但 或は 指を もつて 月を さすが ごとくし.

あるいは もんに あたり ひとはしばかり かかせ たまいて けどうの しじゅう していの おんごん とくどうの うむは すべて いちぶんも みえず.
或は 文に あたりて ひとはし計り かかせ 給いて 化導の 始終・師弟の 遠近・得道の 有無は すべて 一分も みへず、.

これらは しょうほうの のちの 500ねん だいしゅうきょうの ぜんじょうけんごの ときに あたれり.
此等は 正法の 後の 五百年・大集経の 禅定堅固の 時に あたれり、.

しょうほう 1000年の のちは がっしに ぶっぽう じゅうまんせしかども.
正法 一千年の 後は 月氏に 仏法 充満せしかども.

あるいは しょうを もて だいを はし あるいは ごんきょうを もって じっきょうを おんもつし.
或は 小を もて 大を 破し 或は 権経を もつて 実経を 隠没し.

ぶっぽう さまざまに みだれしかば とくどうの ひと ようやく すくなく ぶっぽうに つけて あくどうに おつる もの かずを しらず.
仏法 さまざまに 乱れしかば 得道の 人 やふやく すくなく 仏法に つけて 悪道に 堕る 者 かずを しらず、.

しょうほう 1000ねんの のち ぞうほうに いって 15ねんと もうせしに ぶっぽう ひがしに ながれて かんどに いりにき.
正法 一千年の 後・像法に 入つて 一十五年と 申せしに 仏法 東に 流れて 漢土に 入りにき、.

ぞうほうの さき 500ねんの うち はじめの 100よねんが あいだは かんどの どうしと がっしの ぶっぽうと じょうろんして いまだ こと さだまらず.
像法の 前 五百年の 内・始の 一百余年が 間は 漢土の 道士と 月氏の 仏法と 諍論して いまだ 事 さだまらず.

たとい さだまりたり しかども ぶっぽうを しんずる ひとの こころ いまだ ふかからず.
設い 定まりたり しかども 仏法を 信ずる 人の 心 いまだ ふかからず、.

しかるに ぶっぽうの なかに だいしょう ごんじつ けんみつを わかつならば しょうぎょう いちどうならざるゆえ うたがいを こりて かえりて げてんと ともなう ものも ありぬ べし.
而るに 仏法の 中に 大小・権実・顕密を わかつならば 聖教 一同ならざる故・疑 をこりて かへりて 外典と ともなう者も ありぬ べし、.

これらの おそれ あるかの ゆえに まとう じくらんは みずからは しって しかも だいしょうを わかたず ごんじつを いわずして やみぬ.
これらの をそれ・あるかの ゆへに 摩騰・竺蘭は 自は 知つて 而も 大小を 分けず 権実を いはずして やみぬ、.

その のち ぎ しん せい そう りょうの 5だいが あいだ ぶっぽうの うちに だいしょう ごんじつ けんみつを あらそいし ほどに .
其の 後・魏・晋・斉・宋・梁の 五代が 間・仏法の 内に 大小・権実・顕密を あらそひし 程に.

いづれこそ どうりとも きこえずして かみ 1にんより しも ばんみんに いたるまで ふしん すくなからず.
いづれこそ 道理とも きこえずして 上み 一人より 下も 万民に いたるまで 不審 すくなからず.

なんさん ほくしちと もうして ぶっぽう 10りゅうに わかれぬ.
南三・北七と 申して 仏法 十流に わかれぬ.

いわゆる みなみには 3じ 4じ 5じ きたには 5じ はんまん 4しゅう 5しゅう 6しゅう 2しゅうの だいじょう いっとんとう.
所謂 南には 三時・四時・五時・北には 五時・半満・四宗・五宗・六宗、二宗の 大乗・一音等・.

おのおの ぎを たて へんしゅう すいか なり しかれども たいこうは いちどう なり.
各各 義を 立て 辺執 水火 なり、しかれども 大綱は 一同 なり.

いわゆる 1だいしょうぎょうの なかには けごんきょう だい1 ねはんぎょう だい2 ほけきょう だい3なり.
所謂 一代聖教の 中には 華厳経 第一・涅槃経 第二・法華経 第三 なり.

ほけきょうは あごん はんにゃ じょうみょう しやく とうの きょうぎょうに たいすれば しんじつ なり.
法華経は 阿含・般若・浄名・思益 等の 経経に 対すれば 真実 なり.

りょうぎきょう しょうけん なり しかりと いえども ねはんぎょうに たいすれば むじょうきょう ふりょうぎきょう じゃけんの きょうとう うんぬん.
了義経・正見 なり しかりと いへども 涅槃経に 対すれば 無常教・不了義経・邪見の 経等 云云、.

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かんより 400よねんの すえ 500ねんに いって ちんずい 2だいに ちぎと もうす しょうそう 1にん あり.
漢より 四百余年の 末へ 五百年に 入つて 陳隋 二代に 智顗と 申す 小僧 一人 あり.

のちには てんだいちしゃだいしと ごうし たてまつる.
後には 天台智者大師と 号し たてまつる、.

なんぼくの じゃぎを やぶりて 1だいしょうぎょうの なかには ほけきょう だい1 ねはんぎょう だい2 けごんきょう だい3なり とう うんぬん.
南北の 邪義を やぶりて 一代聖教の 中には 法華経 第一・涅槃経 第二・華厳経 第三なり 等 云云、
.
これ ぞうほうの さき 500さい だいしゅうきょうの どくじゅたもんけんごの ときに あい あたれり.
此れ 像法の 前・五百歳・大集経の 読誦多聞堅固の 時に あひ あたれり、.

ぞうほうの のち 500さいは とうの はじめ たいそうこうていの ぎょうに げんじょうさんぞう がっしに いって 19ねんが あいだ.
像法の 後 五百歳は 唐の 始・太宗皇帝の 御宇に 玄奘三蔵・月支に 入つて 十九年が 間、.

130かこくの じとうを けんぶんして おおくの ろんしに あい たてまつりて.
百三十箇国の 寺塔を 見聞して 多くの 論師に 値い たてまつりて.

8まんしょうぎょう 12ぶきょうの えんでいを ならい きわめしに その なかに 2しゅう あり.
八万聖教・十二部経の 淵底を 習い きわめしに 其の 中に 二宗 あり.

いわゆる ほっそうしゅう さんろんしゅう なり.
所謂 法相宗・三論宗 なり、.

この 2しゅうの なかに ほっそうだいじょうは とおくは みろく むじゃく ちかくは かいけんろんしに つたえて かんどに かえりて たいそうこうていに さづけさせ たまう.
此の 二宗の 中に 法相大乗は 遠くは 弥勒・無著 近くは 戒賢論師に 伝えて 漢土に かへりて 太宗皇帝に さづけさせ 給う、.

この しゅうの こころは ぶっきょうは きに したがう べし.
此の 宗の 心は 仏教は 機に 随う べし.

1じょうの きの ためには 3じょうほうべん 1じょうしんじつなり いわゆる ほけきょうとう なり.
一乗の 機の ためには 三乗方便・一乗真実なり 所謂 法華経等 なり、.

3じょうの きの ためには 3じょうしんじつ 1じょうほうべん いわゆる じんみつきょう しょうまんぎょうとう これなり.
三乗の 機の ためには 三乗真実・一乗方便・所謂 深密経・勝鬘経等 此れなり、.

てんだいちしゃらは この むねを わきまえずとう うんぬん.
天台智者等は 此の 旨を 弁えず等 云云、.

しかも たいそうは けんのうなり とうじ なを 1てんに ひびかす のみならず 3こうにも こえ 5ていにも すぐれたる よし.
而も 太宗は 賢王なり 当時 名を 一天に ひびかす のみならず 三皇にも こえ 五帝にも 勝れたる よし.

4かいに ひびき かんどを てに にぎる のみならず.
四海に ひびき 漢土を 手に にぎる のみならず.

こうしょう こうらいとうの 1800よこくを なびかし ないげを きわめたる おうと きこえし けんのうの だい1の ごきえの そう なり.
高昌・高麗等の 一千八百余国を なびかし 内外を 極めたる 王と きこへし 賢王の 第一の 御帰依の 僧 なり、.

てんだいしゅうの がくしゃの なかにも こうべを さしいだすひと 1にんも なし.
天台宗の 学者の 中にも 頭を さしいだす人 一人も なし、.

しかれば ほけきょうの じつぎ すでに いっこくに おんもつ しぬ.
而れば 法華経の 実義 すでに 一国に 隠没 しぬ、.

おなじき たいそうの たいし こうそう こうそうの けいぼ そくてんこうごうの ぎょうに ほうぞうほっしと いう もの あり.
同じき 太宗の 太子 高宗・高宗の 継母 則天皇后の 御宇に 法蔵法師と いふ 者 あり.

ほっそうしゅうに てんだいしゅうの おそわるる ところを みて.
法相宗に 天台宗の をそわるる ところを 見て.

さきに てんだいの おんとき せめられし けごんきょうを とりいだして 1だいの なかには けごんだい1 ほっけだい2 ねはんだい3と たてけり.
前に 天台の 御時 せめられし 華厳経を 取出して 一代の 中には 華厳第一・法華第二・涅槃第三と 立てけり、.

たいそう だい4だい げんそうこうていの ぎょう かいげん 4ねん どう 8ねんに さいてん いんど より .
太宗 第四代・玄宗皇帝の 御宇・開元 四年・同 八年に 西天 印度 より.

ぜんむいさんぞう こんごうちさんぞう ふくうさんぞう だいにちきょう こんごうちょうきょう そしつききょうを もて わたり しんごんしゅうを たつ.
善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵・大日経・金剛頂経・蘇悉地経を 持て 渡り 真言宗を 立つ、.

この しゅうの りゅうぎに いわく きょうに 2しゅ あり.
此の 宗の 立義に 云く 教に 二種 あり.

1には しゃかの けんきょう いわゆる けごん ほっけとう 2には だいにちの みっきょう いわゆる だいにちきょう とう なり.
一には 釈迦の 顕教・所謂 華厳・法華等、二には 大日の 密教・所謂 大日経 等 なり、.

ほけきょうは けんきょうの だい1 なり.
法華経は 顕教の 第一 なり.

この きょうは だいにちの みっきょうに たいすれば ごくりは すこし おなじ けれども じそうの いんけいと しんごんとは たえて みえず.
此の 経は 大日の 密教に 対すれば 極理は 少し 同じ けれども 事相の 印契と 真言とは たえて みへず.

3みつ そうおう せざれば ふりょうぎきょう とう うんぬん.
三密 相応 せざれば 不了義経 等 云云、.

いじょう ほっそう けごん しんごんの 3しゅう いちどうに てんだいほっけしゅうを やぶれども.
已上 法相・華厳・真言の三宗 一同に 天台法華宗を やぶれども.

てんだいだいしほどの ちじん ほっけしゅうの なかに なかりけるかの あいだ.
天台大師程の 智人・法華宗の 中に なかりけるかの 間.

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b263

うちうちは いわれなき よしは ぞんじ けれども てんだいの ごとく こうじょうにして ろんぜられ ざりければ.
内内は ゆはれなき 由は 存じ けれども 天台の ごとく 公場にして 論ぜられ ざりければ.

かみ こくおう だいじん しも いっさいの じんみんに いたるまで.
上 国王 大臣・下 一切の 人民に いたるまで.

みな ぶっぽうに まよいて しゅじょうの とくどう みな とどまり けり.
皆 仏法に 迷いて 衆生の 得道 みな とどまり けり、.

これらは ぞうほうの のちの 500ねんの さき 200よねんが うち なり.
此等は 像法の 後の 五百年の 前 二百余年が 内 なり、.

ぞうほうに いって 400よねんと もうし けるに.
像法に 入つて 四百余年と 申し けるに.

くだらこくより いっさいきょう ならびに きょうしゅ しゃくそんの もくぞう そうにとう にほんこくに わたる.
百済国より 一切経 並びに 教主 釈尊の 木像・僧尼等・日本国に わたる、.

かんどの りょうの すえ ちんの はじめに あいたる .
漢土の 梁の 末・陳の 始に あひあたる、.

にほんには じんむてんのう よりは だい30だい きんめいてんのうの ぎょう なり.
日本には 神武天王 よりは 第三十代・欽明天王の 御宇 なり、.

きんめいの みこ ようめいの たいしに じょうぐうおうじ ぶっぽうを ぐづうし たまう のみならず.
欽明の 御子・用明の 太子に 上宮王子・仏法を 弘通し 給う のみならず.

ならびに ほけきょう じょうみょうきょう しょうまんきょうを ちんごこっかの ほうと さだめさせ たまいぬ.
並びに 法華経・浄名経・勝鬘経を 鎮護国家の 法と 定めさせ 給いぬ、.

そののち にんのう だい37だいに こうとくてんのうの ぎょうに さんろんしゅう じょうじつしゅうを かんろくそうじょう くだらこくより わたす.
其の 後・人王 第三十七代に 孝徳天王の 御宇に 三論宗・成実宗を 観勒僧正・百済国より わたす、.

どう みよに どうしょうほっし かんどより ほっそうしゅう くしゃしゅうを わたす .
同 御代に 道昭法師・漢土より 法相宗・倶舎宗を わたす、.

にんのう だい44だい げんしょうてんのうの ぎょうに てんじくより だいにちきょうを わたして ありしかども.
人王 第四十四代・元正天王の 御宇に 天竺より 大日経を わたして 有りしかども.

しかも ぐっう せずして かんどへ かえる この そうをば ぜんむいさんぞうと いう.
而も 弘通 せずして 漢土へ かへる 此の 僧をば 善無畏三蔵と いう、.

にんのう だい45だいに しょうむてんのうの ぎょうに しんじょうだいとく しらぎこくより けごんしゅうを わたして.
人王 第四十五代に 聖武天皇の 御宇に 審祥大徳・新羅国より 華厳宗を わたして.

ろうべんそうじょうは しょうむてんのうに さづけ たてまつりて.
良弁僧正・聖武天王に さづけ たてまつりて.

とうだいじの だいぶつを たてさせ たまえり どう みよに だいとうの がんじんわじょう てんだいしゅうと りっしゅうを わたす.
東大寺の 大仏を 立てさせ 給えり 同御代に 大唐の 鑒真和尚・天台宗と 律宗を わたす、.

その なかに りっしゅうをば ぐつうし しょじょうの かいじょうを とうだいじに こんりゅうせしかども.
其の 中に 律宗をば 弘通し 小乗の 戒場を 東大寺に 建立せしかども.

ほっけしゅうの ことをば みょうじをも もうしいださせ たまわずして にゅうめつし おわんぬ.
法華宗の 事をば 名字をも 申し出させ 給はずして 入滅し 了んぬ、.

そののち にんのう だい50だい ぞうほう 800年に あいあたって かんむてんのうの ぎょうに さいちょうと もうす しょうそう しゅったいせり.
其後・人王 第五十代・像法 八百年に 相当つて 桓武天王の 御宇に 最澄と 申す 小僧 出来せり.

のちには でんぎょうだいしと ごうし たてまつる.
後には 伝教大師と 号し たてまつる、.

はじめには さんろん ほっそう けごん くしゃ じょうじつ りつの 6しゅう ならびに ぜんしゅうとうを ぎょうひょうそうじょうらに しゅうがくせさせ たまいし ほどに.
始には 三論・法相・華厳・倶舎・成実・律の 六宗 並びに 禅宗等を 行表僧正等に 習学せさせ 給いし 程に.

われと たて たまえる こくしょうじ のちには ひえいざんと ごうす.
我と 立て 給える 国昌寺・後には 比叡山と 号す、.

これにして 6しゅうの ほんきょう ほんろんと しゅうじゅうの にんしの しゃくとを ひきあわせて ごらん ありしかば.
此にして 六宗の 本経・本論と 宗宗の 人師の 釈とを 引き合せて 御らむ ありしかば.

かの しゅうじゅうの にんしの しゃく しょえの きょうろんに そういせる こと おおき うえ.
彼の 宗宗の 人師の 釈・所依の 経論に 相違せる 事 多き 上.

びゃっけん たたにして しんじゅせん ひと みな あくどうに おちぬべしと かんがへさせ たまう.
僻見 多多にして 信受せん 人 皆 悪道に 堕ちぬべしと かんがへさせ 給う.

そのうえ ほけきょうの じつぎは しゅうじゅうの ひとびと .
其の上 法華経の 実義は 宗宗の 人人・.

われも えたり われも えたりと じさん ありしかども その ぎ なし.
我も 得たり 我も 得たりと 自讃 ありしかども 其の 義 なし、.

これを もうすならば けんか しゅったいすべし もだして もうさずば ぶっせいに そむきなんと おもい わづらわせ たまい しかども.
此れを 申すならば 喧嘩 出来すべし もだして 申さずば 仏誓に そむきなんと をもひ わづらはせ 給い しかども.

ついに ほとけの いましめを おそれて かんむこうていに そうし たまいしかば.
終に 仏の 誡を をそれて 桓武皇帝に 奏し 給いしかば.

みかど この ことを おどろかせ たまいて 6しゅうの せきがくに めしあわさせ たまう.
帝・此の 事を をどろかせ 給いて 六宗の 碩学に 召し合させ 給う、.

かの がくしゃら はじめは まんどう やまの ごとし.
彼の 学者等・始めは 慢幢・山の ごとし.

あくしん どくじゃの ようなり しかども ついに おうの みまえにして せめ おとされて.
悪心・毒蛇の やうなり しかども 終に 王の 前にして せめ をとされて.

6しゅう 7じ いちどうじ みでしと なりぬ.
六宗・七寺・一同に 御弟子と なりぬ、.

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れいせば かんどの なんぼくの しょし ちんでんに して.
例せば 漢土の 南北の 諸師・陳殿に して.

てんだいだいしに せめおとされて みでしと なりしが ごとし.
天台大師に せめおとされて 御弟子と なりしが ごとし、.

これは これ えんじょう えんね ばかり なり.
此れは これ 円定・円慧 計り なり.

そのうえ てんだいだいしの いまだ せめ たまわざりし しょうじょうの べつじゅかいを せめ おとし.
其の上 天台大師の いまだ せめ 給はざりし 小乗の 別受戒を せめ をとし.

6しゅうの 8だいとくに ぼんもうきょうの だいじょう べつじゅかいを さづけ たまう のみならず.
六宗の 八大徳に 梵網経の 大乗 別受戒を さづけ 給う のみならず.

ほけきょうの えんどんの べつじゅかいを えいざんに こんりゅう せしかば.
法華経の 円頓の 別受戒を 叡山に 建立 せしかば.

えんりゃく えんどんの べつじゅかいは にほん だいいちたる のみならず.
延暦 円頓の 別受戒は 日本 第一たる のみならず.

ほとけの めつご 1800よねんが あいだ けんどくしな いちえんぶだいに いまだ なかりし りょうぜんの だいかい にほんこくに はじまる.
仏の 滅後 一千八百余年が 間 身毒尸那 一閻浮提に いまだ なかりし 霊山の 大戒 日本国に 始まる、.

されば でんぎょうだいしは その こうを ろんずれば りゅうじゅ てんじんにも こえ てんだい みょうらくにも すぐれて おわします しょうにん なり.
されば 伝教大師は 其の 功を 論ずれば 竜樹 天親にも こえ 天台・妙楽にも 勝れて をはします 聖人 なり、.

されば にほんこくの とうせいの とうじ おんじょう 7だいじ しょこくの 8しゅう じょうど ぜんしゅう りっしゅうとうの しょそうら.
されば 日本国の 当世の 東寺・園城・七大寺・諸国の 八宗・浄土・禅宗・律宗等の 諸僧等.

たれびとか でんぎょうだいしの えんかいを そむくべき.
誰人か 伝教大師の 円戒を そむくべき、.

かの かんど 9こくの しょそうらは えんじょう えんねは てんだいの でしに にたれども.
かの 漢土 九国の 諸僧等は 円定・円慧は 天台の 弟子に にたれども.

えんどん いちどうの かいじょうは かんどに なければ かいに おいては でしと ならぬ ものも ありけん.
円頓 一同の 戒場は 漢土に なければ 戒に をいては 弟子と ならぬ 者も ありけん、.

この にほんこくは でんぎょうだいしの みでしに あらざる ものは げどうなり あくにん なり.
この 日本国は 伝教大師の 御弟子に あらざる 者は 外道なり 悪人 なり、.

しかれども かんど にほんの てんだいしゅうと しんごんの しょうれつは だいし しんちゅうには ぞんちせさせ たまい けれども.
而れども 漢土 日本の 天台宗と 真言の 勝劣は 大師 心中には 存知せさせ 給い けれども.

6しゅうと てんだいしゅうとの ごとく こうじょうにして しょうぶ なかりける ゆえにや.
六宗と 天台宗との ごとく 公場にして 勝負 なかりける ゆへにや、.

でんぎょうだいし いごには とうじ 7じ おんじょうの しょじ にほん 1しゅう いちどうに.
伝教大師 已後には 東寺・七寺・園城の 諸寺 日本 一州 一同に.

しんごんしゅうは てんだいしゅうに すぐれたりと かみ 1にんより しも ばんみんに いたるまで おぼしめし おもえり.
真言宗は 天台宗に 勝れたりと 上 一人より 下 万人に いたるまで をぼしめし をもえり、.

しかれば てんだい ほっけしゅうは でんぎょうだいしの おんときばかりにぞ ありける.
しかれば 天台法華宗は 伝教大師の 御時計りにぞ ありける.

この でんぎょうの おんときは ぞうほうの すえ だいしつきょうの たぞうとうじけんごの ときなり.
此の 伝教の 御時は 像法の 末 大集経の 多造塔寺堅固の 時なり、.

いまだ わが ほうの なかに おいて とうじょうごんしょう びゃくほうおんもつの ときには あたらず.
いまだ 於我法中・闘諍言訟・白法隠没の 時には あたらず。.

いま まっぽうに いって 200よさい だいしつきょうの わが ほうの なかに おいて とうじょうごんしょう びゃくほうおんもつの ときに あたれり.
今 末法に 入つて 二百余歳・大集経の 於我法中・闘諍言訟・白法隠没の 時に あたれり.

ぶつご まこと ならば さだんで いちえんぶだいに とうじょう おこるべき じせつ なり.
仏語 まこと ならば 定んで 一閻浮提に 闘諍 起るべき 時節 なり、.

つたえ きく かんどは 360かこく 260よしゅうは すでに もうここくに うち やぶられぬ.
伝え 聞く 漢土は 三百六十箇国・二百六十余州は すでに 蒙古国に 打ち やぶられぬ.

からく すでに やぶられて きそう きんそうの りょうてい ほくばんに いけどりにせられて だったんにして ついに かくれさせ たまいぬ.
華洛 すでに やぶられて 徽宗・欽宗の 両帝・北蕃に いけどりに せられて 韃靼にして 終に かくれさせ 給いぬ、.

きそうの まご こうそうこうていは ちょうあんを せめ おとされて.
徽宗の 孫 高宗皇帝は 長安を せめ をとされて.

いなかの りんあんあんざいふに おちさせ たまいて いまに すうねんが あいだ みやこを みず.
田舎の 臨安行在府に 落ちさせ 給いて 今に 数年が 間 京を 見ず、.

こうらい 600よこくも しらぎ くだらとうの しょこくとうも みな だいもうここくの こうていに せめられぬ.
高麗 六百余国も 新羅 百済等の 諸国等も 皆 大蒙古国の 皇帝に せめられぬ、.

いまの にほんこくの いき つしま ならびに 9こくの ごとし.
今の 日本国の 壱岐・対馬 並びに 九国の ごとし.

とうじょうけんごの ぶつご ちに おちず.
闘諍堅固の 仏語 地に 堕ちず、.

あたかも これ たいかいの しおの ときを たがえざるが ごとし.
あたかも これ 大海の しをの 時を たがへざるが ごとし、.

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b265

これを もって あんずるに だいしつきょうの びゃくほうおんもつの ときに.
是を もつて 案ずるに 大集経の 白法隠没の 時に.

ついで ほけきょうの だいびゃくほうの にほんこく ならびに いちえんぶだいに こうせんるふせん ことも うたがう べからざるか.
次いで 法華経の 大白法の 日本国 並びに 一閻浮提に 広宣流布せん 事も 疑う べからざるか、.

かの だいしつきょうは ぶっせつの なかの ごんだいじょう ぞかし.
彼の 大集経は 仏説の 中の 権大乗 ぞかし、.

しょうじを はなるる みちには ほけきょうの けつえん なき ものの ためには みけんしんじつ なれども.
生死を はなるる 道には 法華経の 結縁 なき 者の ためには 未顕真実 なれども.

6どう 4しょう 3ぜの ことを しるし たまいけるは すんぶんも たがわざりける にや.
六道・四生・三世の 事を 記し 給いけるは 寸分も たがはざりける にや、.

いかに いわんや ほけきょうは しゃくそん かならず まさに しんじつを とくべしと なのらせ たまい.
何に 況や 法華経は 釈尊・要当説真実と なのらせ 給い.

たほうぶつは しんじつなりと ごはんを そえ.
多宝仏は 真実なりと 御判を そへ.

じっぽうの しょぶつは こうちょうぜつを ぼんてんに つけて じょうたいと さし しめし.
十方の 諸仏は 広長舌を 梵天に つけて 誠諦と 指し 示し、.

しゃくそんは かさねて むこもうの したを しきくきょうに つけさせ たまいて のち 500さいに いっさいの ぶっぽうの めっせん とき.
釈尊は 重ねて 無虚妄の 舌を 色究竟に 付けさせ 給いて 後 五百歳に 一切の 仏法の 滅せん 時.

じょうぎょう ぼさつに みょうほうれんげきょうの 5じを もたしめて ほうぼう いっせいだいの びゃくらいびょうの やからの りょうやくと せんと.
上行菩薩に 妙法蓮華経の 五字を もたしめて 謗法 一闡提の 白癩病の 輩の 良薬と せんと.

ぼんたい にちがつ してん りゅうじんとうに おおせつけられし きんげん こもう なるべしや.
梵帝・日月・四天・竜神等に 仰せつけられし 金言 虚妄 なるべしや、.

だいちは はんぷくすとも こうざんは たいらくすとも はるの のちに なつは きたらずとも.
大地は 反覆すとも 高山は 頽落すとも 春の 後に 夏は 来らずとも.

ひは ひがしへ かえるとも つきは ちに おつるとも このことは いちじょう なるべし.
日は 東へ かへるとも 月は 地に 落つるとも 此の 事は 一定 なるべし、.

この こと いちじょうならば とうじょうけんごの とき にほんこくの おうしんと ならびに ばんみんらが ほとけの おんつかい として.
此の 事 一定ならば 闘諍堅固の 時・日本国の 王臣と 並びに 万民等が 仏の 御使 として.

なんみょうほうれんげきょうを るふせんと するを あるいは めりし あるいは あっくし あるいは るざいし あるいは ちょうちゃくし.
南無妙法蓮華経を 流布せんと するを 或は 罵詈し 或は 悪口し 或は 流罪し 或は 打擲し.

でし けんぞくらを しゅじゅのなんに あわする ひとびと いかでか あんのん にては そうろうべき.
弟子 眷属等を 種種の 難に あわする 人人 いかでか 安穏 にては 候べき、.

これをば ぐちの ものは じゅそすと おもいぬべし.
これをば 愚癡の 者は 咒詛すと をもひぬべし、.

ほけきょうを ひろむる ものは にほんこくの いっさいしゅじょうの ふぼ なり.
法華経を ひろむる 者は 日本国の 一切衆生の 父母 なり.

しょうあんだいし いわく「かれが ために あくを のぞくは すなわち これ かれが おやなり」とう うんぬん.
章安大師 云く「彼が 為に 悪を 除くは 即ち 是れ 彼が 親なり」等 云云、.

されば にちれんは とうたいの ふぼ ねんぶつしゃ ぜんしゅう しんごんしらが しはん なり また しゅくん なり.
されば 日蓮は 当帝の 父母・念仏者・禅衆・真言師等が 師範 なり 又 主君 なり、.

しかるを かみ いちにん より しも ばんみんに いたるまで あだを なすをば.
而るを 上 一人 より 下 万民に いたるまで あだを なすをば.

にちがつ いかでか かれらが いただきを てらし たまうべき ちじん いかでか かれらの あしを いただき たまう べき.
日月 いかでか 彼等が 頂を 照し 給うべき 地神 いかでか 彼等の 足を 戴き 給う べき、.

だいばだったは ほとけを うち たてまつり しかば だいち ようどうして かえん いでにき.
提婆達多は 仏を 打ち たてまつり しかば 大地 揺動して 火炎 いでにき、.

だんみらおうは ししそんじゃの くびを きり しかば みぎの てかたなと ともに おちぬ.
檀弥羅王は 師子尊者の 頚を 切り しかば 右の 手刀と ともに 落ちぬ、.

きそうこうていは ほうどうが かおに かなやきを やきて こうなんに ながせしかば.
徽宗皇帝は 法道が 面に かなやきを やきて 江南に ながせしかば.

はんとしが うちに えびすの てに かかり たまいき.
半年が 内に ゑびすの 手に かかり 給いき、.

もうこの せめも また かくの ごとく なるべし.
蒙古の せめも 又 かくの ごとく なるべし、.

たとい 5てんの つわものを あつめて てっちせんを しろと せりとも かなう べからず.
設い 五天の つわものを あつめて 鉄囲山を 城と せりとも かなふ べからず.

かならず にほんこくの いっさいしゅじょう ひょうなんに あうべし.
必ず 日本国の 一切衆生・兵難に 値うべし、

されば にちれんが ほけきょうの ぎょうじゃにて ある なきかは これにても みるべし.
されば 日蓮が 法華経の 行者にて ある なきかは これにても 見るべし、.

きょうしゅ しゃくそん しるして いわく まつだい あくせに ほけきょうを ぐつうする ものを あっくめり とう せん ひとは われを 1こうが あいだ.
教主 釈尊 記して 云く 末代 悪世に 法華経を 弘通する ものを 悪口罵詈 等 せん 人は 我を 一劫が 間.

あだせん ものの つみにも 100せんまんおくばい すぎたるべしと とかせ たまえり.
あだせん 者の 罪にも 百千万億倍 すぎたるべしと・とかせ 給へり、.

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b266

しかるを いまの にほんこくの こくしゅ ばんみんらが がいに まかせて.
而るを 今の 日本国の 国主・万民等・雅意に まかせて.

ふぼ すくせの かたきよりも いたく にくみ むほん さつがいの ものよりも つよく せめぬるは.
父母・宿世の 敵よりも いたく にくみ 謀反・殺害の 者よりも・つよく せめぬるは.

げんしんにも だいち われて いり てんらいも みを さかざるは ふしん なり.
現身にも 大地 われて 入り 天雷も 身を さかざるは 不審 なり、.

にちれんが ほけきょうの ぎょうじゃにて あらざるか もし しからば おおきに なげかし.
日蓮が 法華経の 行者にて あらざるか・もし しからば ををきに なげかし、.

こんじょうには ばんみんに せめられて かたときも やすからず.
今生には 万人に せめられて 片時も やすからず.

ごしょうには あくどうに おちんこと あさましとも もうす ばかりなし.
後生には 悪道に 堕ん事 あさましとも 申す ばかりなし、.

また にちれん ほけんきょうの ぎょうじゃならずば いかなる ものの いちじょうの じしゃにては あるべきぞ.
又 日蓮 法華経の 行者ならずば いかなる者の 一乗の 持者にては あるべきぞ、.

ほうねんが ほけきょうを なげすてよ.
法然が 法華経を なげすてよ.

ぜんどうが せんちゅうむいち どうしゃくが みういちにんとくしゃと もうすが ほけきょうの ぎょうじゃにて そうろうか.
善導が 千中無一・道綽が 未有一人得者と 申すが 法華経の 行者にて 候か、.

また こうぼうだいしの いわく ほけきょうを ぎょうずるは けろんなりと かかれたるが ほけきょうの ぎょうじゃなるべきか.
又 弘法大師の 云く 法華経を 行ずるは 戯論なりと かかれたるが 法華経の 行者なるべきか、.

きょうもんには よく この きょうを たもつ よく この きょうを とかん なんどこそ とかれて そうらえ.
経文には 能持是経 能説此経 なんどこそ とかれて 候へ.

よく とくと もうすは いかなるぞと もうすに しょきょうの なかに おいて もっとも その かみに ありと もうして.
よく とくと 申すは いかなるぞと 申すに 於諸経中最在其上と 申して.

だいにちきょう けごんきょう ねはんぎょう はんにゃきょうとうに ほけきょうは すぐれて そうろうなりと もうす ものを こそ.
大日経・華厳経・涅槃経・般若経等に 法華経は すぐれて 候なりと 申す 者を こそ.

きょうもんには ほけきょうの ぎょうじゃとは とかれて そうらえ.
経文には 法華経の 行者とは とかれて 候へ、.

もし きょうもんの ごとく ならば にほんこくに ぶっぽう わたて 700よねん.
もし 経文の ごとく ならば 日本国に 仏法 わたて 七百余年、.

でんぎょうだいしと にちれんとが ほかは ひとりも ほけきょうの ぎょうじゃは なきぞかし.
伝教大師と 日蓮とが 外は 一人も 法華経の 行者は なきぞかし、.

いかに いかにと おもうところに ずはさしちぶん くそくへいそくの なかりけるは どうりにて そうらいける なり.
いかに いかにと をもうところに 頭破作七分・口則閉塞の なかりけるは 道理にて 候いける なり、.

これらは あさき ばちなり ただ 1にん 2にんとうの こと なり.
此等は 浅き 罰なり 但 一人 二人等の こと なり、.

にちれんは えんぶ だい1の ほけきょうの ぎょうじゃ なり.
日蓮は 閻浮 第一の 法華経の 行者 なり.

これを そしり これを あだむ ひとを けっこうせん ひとは えんぶ だい1の だいなんに あうべし.
此れを そしり 此れを あだむ 人を 結構せん 人は 閻浮 第一の 大難に あうべし、.

これは にほんこくを ふりゆるがす しょうかの おおじしん 1てんを ばっする ぶんえいの だいすいせい とう なり.
これは 日本国を ふりゆるがす 正嘉の 大地震 一天を 罰する 文永の 大彗星 等 なり、.

これらを みよ ほとけ めつごの のち ぶっぽうを ぎょうずる ものに あだを なすと いえども いまの ごとくの だいなんは いちども なきなり.
此等を みよ 仏 滅後の 後 仏法を 行ずる 者に あだを なすと いへども 今の ごとくの 大難は 一度も なきなり、.

なんみょうほうれんげきょうと いっさいしゅじょうに すすめたる ひと 1にんも なし.
南無妙法蓮華経と 一切衆生に すすめたる 人 一人 もなし、.

この とくは たれか 1てんに めを あわせ 4かいに かたを ならぶ べきや.
此の 徳は たれか 一天に 眼を 合せ 四海に 肩を ならぶ べきや。.

うたがって いわく たとい しょうほうの ときは ほとけの ざいせに たいすれば こんき れつなりとも ぞう まつに たいすれば さいじょうの じょうき なり.
疑つて 云く 設い 正法の 時は 仏の 在世に 対すれば 根機 劣なりとも 像 末に 対すれば 最上の 上機 なり、.

いかでか しょうほうの はじめに ほけきょうをば もちいざる べき.
いかでか 正法の 始に 法華経をば 用いざる べき.

したがって めみょう りゅうじゅ だいば むちゃくらも しょうほう 1000ねんの うちに こそ しゅつげんせさせ たまえ.
随つて 馬鳴・竜樹・提婆・無著等も 正法 一千年の 内に こそ 出現せさせ 給へ、.

てんじんぼさつは 1000ぶの ろんじ ほっけろんを つくりて しょきょうの なか だい1の ぎを そんす.
天親菩薩は 千部の 論師・法華論を 造りて 諸経の 中 第一の 義を 存す.

しんたいさんぞうの そうでんに いわく がっしに ほけきょうを ぐつうせる いえ 50よけ てんじんは その1 なりと いじょう しょうほう なり.
真諦三蔵の 相伝に 云く 月支に 法華経を 弘通せる 家・五十余家・天親は 其の一 也と 已上 正法 なり、.

ぞうほうに いっては てんだいだいし ぞうほうの なかばに かんどに しゅつげんして.
像法に 入つては 天台大師・像法の 半に 漢土に 出現して.

げんと もんと しとの 30かんを つくりて ほけきょうの えんでいを きわめたり.
玄と 文と 止との 三十巻を 造りて 法華経の 淵底を 極めたり、.

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ぞうほうの すえに でんぎょうだいし にほんに しゅつげんして.
像法の 末に 伝教大師・日本に 出現して.

てんだいだいしの えんね えんじょうの 2ほうを わが ちょうに ぐつうせしむる のみならず.
天台大師の 円慧・円定の 二法を 我が 朝に 弘通せしむる のみならず.

えんどんの だいかいじょうを えいざんに こんりゅうして にほん 1しゅう みな おなじく えんかいの ちに なして.
円頓の 大戒場を 叡山に 建立して 日本 一州 皆 同じく 円戒の 地に なして.

かみ 1にんより しも ばんみんまで えんりゃくじを しはんと あおがせ たまう.
上 一人より 下 万民まで 延暦寺を 師範と 仰がせ 給う.

あに ぞうほうの とき ほけきょうの こうせんるふに あらずや.
豈に 像法の 時 法華経の 広宣流布に あらずや、.

こたえて いわく にょらいの きょうほうは かならず きに したがうという ことは せけんの がくしゃの ぞんちなり.
答えて 云く 如来の 教法は 必ず 機に 随うという 事は 世間の 学者の 存知なり、.

しかれども ぶっきょうは しからず.
しかれども 仏教は しからず.

じょうこん じょうちの ひとの ために かならず だいほうを とく ならば しょじょうどうの とき なんぞ ほけきょうを とき たまわざる.
上根上智の 人の ために 必ず 大法を 説く ならば 初成道の 時 なんぞ 法華経を とき 給はざる.

しょうほうの さき 500ねんに だいじょうきょうを ぐつう すべし.
正法の 先 五百年に 大乗経を 弘通 すべし、.

うえんの ひとに だいほうを とかせ たまう ならば.
有縁の 人に 大法を 説かせ 給う ならば.

じょうぼんだいおう まやふじんに かんぶつさんまいきょう まやきょうを とく べからず.
浄飯大王・摩耶夫人に 観仏三昧経・摩耶経を とく べからず、.

むえんの あくにん ほうぼうの ものに ひほうを あたえずば かくとくびくは むりょうの はかいの ものに ねはんきょうを さずく べからず.
無縁の 悪人 謗法の 者に 秘法を あたえずば 覚徳比丘は 無量の 破戒の 者に 涅槃経を さづく べからず、.

ふぎょうぼさつは ひぼうの 4しゅに むかって いかに ほけきょうをば ぐつう せさせ たまいしぞ.
不軽菩薩は 誹謗の 四衆に 向つて いかに 法華経をば 弘通 せさせ 給いしぞ、.

されば きに したがって ほうを とくと もうすは おおいなる びゃっけん なり.
されば 機に 随つて 法を 説くと 申すは 大なる 僻見 なり。.

とうて いわく りゅうじゅ せしんらは ほけきょうの じつぎをば のべ たまわずや.
問うて 云く 竜樹・世親等は 法華経の 実義をば 宣べ 給わずや、.

こたえて いわく のべ たまわず.
答えて 云く 宣べ 給はず、.

とうて いわく いかなる きょうをか のべ たまいし.
問うて 云く 何なる 教をか 宣べ 給いし、.

こたえて いわく けごん ほうとう はんにゃ だいにちきょうとうの ごんだいじょう けんみつの しょきょうを のべさせ たまいて ほけきょうの ほうもんをば のべさせ たまわず.
答えて 云く 華厳・方等・般若・大日経等の 権大乗・顕密の 諸経を のべさせ 給いて 法華経の 法門をば 宣べさせ 給はず、.

とうて いわく なにを もって これを しるや.
問うて 云く 何を もつて これを しるや.

こたえて いわく りゅうじゅぼさつの しょぞうの ろん 30まん げ.
答えて 云く 竜樹菩薩の 所造の 論 三十万 偈・.

しかれども つくして かんど にほんに わたらざれば その こころ しりがたしと いえども.
而れども 尽して 漢土・日本に わたらざれば 其の 心 しりがたしと いえども.

かんどに わたれる じゅうじゅうびばしゃろん ちゅうろん だいろんとうを もって てんじくの ろんをも ひちして これを しるなり.
漢土に わたれる 十住毘婆娑論・中論・大論等を もつて 天竺の 論をも 比知して 此れを 知るなり。.

うたがって いわく てんじくに のこる ろんの なかに わたれる ろんよりも すぐれたる ろんや あるらん.
疑つて 云く 天竺に 残る 論の 中に わたれる 論よりも 勝れたる 論や あるらん、.

こたえて いわく りゅうじゅぼさつの ことは わたくしに もうす べからず.
答えて 云く 竜樹菩薩の 事は 私に 申す べからず.

ほとけ しるし たまう わが めつごに りゅうじゅぼさつと もうす ひと みなみてんじくに いずべし.
仏 記し 給う 我が 滅後に 竜樹菩薩と 申す 人・南天竺に 出ずべし.

かの ひとの しょせんは ちゅうろんと いう ろんに あるべしと ほとけ しるし たまう.
彼の 人の 所詮は 中論と いう 論に 有るべしと 仏 記し 給う、.

したがって りゅうじゅぼさつの ながれ てんじくに 70け あり 70にん ともに だいろんじ なり.
随つて 竜樹菩薩の 流・天竺に 七十家 あり 七十人 ともに 大論師 なり、.

かの 70けの ひとびとは みな ちゅうろんを もととす.
彼の 七十家の 人人は 皆 中論を 本とす.

ちゅうろん 4かん 27ほんの かんじんは いんねんしょせいほうの 4くの げ なり.
中論 四巻・二十七品の 肝心は 因縁所生法の 四句の 偈 なり、.

この 4くの げは けごん はんにゃとうの 4きょう 3たいの ほうもん なり.
此の 四句の 偈は 華厳・般若等の 四教・三諦の 法門 なり.

いまだ ほっけかいえの 3たいをば のべ たまわず.
いまだ 法華開会の 三諦をば 宣べ 給はず。.

→a267

b268

うたがって いわく なんじが ごとくに りょうけんせる ひと ありや.
疑つて 云く 汝が ごとくに 料簡せる 人 ありや、.

こたえて いわく てんだい いわく「ちゅうろんを もって あいひ する こと なかれ」.
答えて 云く 天台 云く「中論を 以て 相比 する こと 莫れ」.

また いわく「てんじん りゅうじゅ ないがん れいねんにして そとは ときの よろしきに かなう」とう うんぬん.
又云く「天親 竜樹 内鑒 冷然にして 外は 時の 宜きに 適う」等 云云、.

みょうらく いわく「はえを ろんぜば いまだ ほっけに しかざる ゆえに」うんぬん.
妙楽 云く「破会を 論ぜば 未だ 法華に 若かざる 故に」云云、.

じゅうぎの いわく「りゅうじゅ てんじん いまだ てんだいに しかず」うんぬん.
従義の 云く「竜樹 天親 未だ 天台に 若かず」云云、.

とうて いわく とうの すえに ふくうさんぞう 1かんの ろんを わたす.
問うて 云く 唐の 末に 不空三蔵 一巻の 論を わたす.

その なを ぼだいしんろんと なづく りゅうみょうぼさつの ぞうなり うんぬん.
其の 名を 菩提心論と なづく 竜猛菩薩の 造なり 云云、.

こうぼうだいし いわく「この ろんは りゅうみょう せんぶの なかの だい1 かんじんの ろん」と うんぬん.
弘法大師 云く「此の 論は 竜猛 千部の 中の 第一 肝心の 論」と 云云、.

こたえて いわく この ろん 1ぶ 7ちょう あり りゅうみょうの ことば ならぬ こと しょしょに おおし.
答えて 云く 此の 論 一部 七丁 あり 竜猛の 言 ならぬ 事 処処に 多し.

ゆえに もくろくにも あるいは りゅうみょう あるいは ふくうと りょうほうに いまだ こと さだまらず.
故に 目録にも 或は 竜猛 或は 不空と 両方に いまだ 事 定まらず、.

そのうえ この ろんもんは 1だいを くくれる ろんにも あらず こうりょうなる こと これ おおし.
其の上・此の 論文は 一代を 括れる 論にも あらず 荒量なる 事 此れ 多し、.

まず ゆいしんごんほうちゅうの かんじんの もん あやまり なり.
先ず 唯真言法中の 肝心の 文 あやまり なり.

その ゆえは もんしょう げんしょうある ほけきょうの そくしんじょうぶつをば なきに なして.
其の 故は 文証 現証ある 法華経の 即身成仏をば なきに なして.

もんしょうも げんしょうも あとかたも なき しんごんきょうに そくしんじょうぶつを たて そうろう.
文証も 現証も あとかたも なき 真言経に 即身成仏を 立て 候.

また ゆいと いう ただの いちじは だい1の あやまり なり .
又 唯と いう 唯の 一字は 第一の あやまり なり、.

ことの ていを みるに ふくうさんぞうの わたくしに つくりて そうろうを.
事の ていを 見るに 不空三蔵の 私に つくりて 候を.

ときの ひとに おもく せさせんが ために ことを りゅうみょうに よせたるか.
時の 人に をもく せさせんが ために 事を 竜猛に よせたるか.

そのうえ ふくうさんぞうは あやまる こと かず おおし.
其の上 不空三蔵は 誤る 事 かず をほし.

いわゆる ほけきょうの かんちの ぎきに じゅりょうぼんを あみだぶつと かける めの まえの だいびゃっけん.
所謂 法華経の 観智の 儀軌に 寿量品を 阿弥陀仏と かける 眼の 前の 大僻見・.

だらにほんを じんりきほんの つぎに おける ぞくるいほんを きょうまつに くだせる これらは いう かいなし.
陀羅尼品を 神力品の 次に をける 属累品を 経末に 下せる 此等は いう かひなし、.

さるかと みれば てんだいの だいじょうかいを ぬすんで だいそうこうていに せんじを もうし ごだいさんの 5じに たてたり.
さるかと みれば 天台の 大乗戒を 盗んで 代宗皇帝に 宣旨を 申し 五台山の 五寺に 立てたり、.

しかも また しんごんの きょうそうには てんだいしゅうを すべしと いえり かたがた おうわくの ことども なり.
而も 又 真言の 教相には 天台宗を すべしと いえり かたがた 誑惑の 事ども なり、.

たにんの やく ならば もちゆる ことも ありなん.
他人の 訳 ならば 用ゆる 事も ありなん.

この ひとの やくせる きょうろんは しんぜられず.
此の 人の 訳せる 経論は 信ぜられず、.

そうじて がっしより かんどに きょうろんを わたす ひと くやく しんやくに 186にん なり.
総じて 月支より 漢土に 経論を わたす人・旧訳・新訳に 一百八十六人 なり.

らじゅうさんぞう 1にんを のぞいては いづれの ひとびとも あやまらざるは なし.
羅什三蔵 一人を 除いては いづれの 人人も 悞らざるは なし、.

その なかに ふくうさんぞうは ことに あやまり おおき うえ おうわくの こころ あらわなり.
其の 中に 不空三蔵は 殊に 誤 多き 上 誑惑の 心 顕なり、.

うたがって いわく なにを もって しるぞや らじゅうさんぞうより ほかの ひとびとは あやまり なりとは.
疑つて 云く 何を もつて 知るぞや 羅什三蔵より 外の 人人は あやまり なりとは.

なんじが ぜんしゅう ねんぶつ しんごんとうの 7しゅうを やぶる のみならず.
汝が 禅宗・念仏・真言等の 七宗を 破る のみならず.

かんど にほんに わたる いっさいの やくしゃを もちいざるか いかん.
漢土・日本に わたる 一切の 訳者を 用いざるか いかん、.

こたえて いわく この ことは よが だい1の ひじなり いさいには むかって とうべし.
答えて 云く 此の 事は 余が 第一の 秘事なり 委細には 向つて 問うべし、.

ただし すこし もうすべし らじゅうさんぞうの いわく.
但し すこし 申すべし 羅什三蔵の 云く.

われ かんどの いっさいきょうを みるに みな ぼんごの ごとく ならず いかでか この ことを あらわすべき.
我 漢土の 一切経を 見るに 皆 梵語の ごとく ならず いかでか 此の 事を 顕すべき、.

ただし ひとつの だいがんあり みを ふじょうに なして つまを たいす べし.
但し 一の 大願あり 身を 不浄に なして 妻を 帯す べし.

したばかり せいじょうに なして ぶっぽうに もうご せじ.
舌計り 清浄に なして 仏法に 妄語 せじ.

われ しなば かならず やくべし やかんとき した やけるならば わが きょうを すてよと.
我 死なば 必 やくべし 焼かん時 舌 焼けるならば 我が 経を すてよと.

つねに こうざにして とかせ たまいし なり.
常に 高座にして とかせ 給 しなり、.

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かみ 1にんより しも ばんみんに いたるまで がんじて いわく.
上 一人より 下 万民に いたるまで 願じて 云く.

ねがわくは らじゅうさんぞうより のちに しせんと.
願くは 羅什三蔵より 後に 死せんと、.

ついに しし たまう のち やきたてまつりしかば ふじょうの みは みな はいと なりぬ.
終に 死し 給う 後 焼きたてまつりしかば 不浄の 身は 皆 灰と なりぬ.

おんした ばかり かちゅうに しょうれんげ おいて その うえに あり.
御舌 計り 火中に 青蓮華 生て 其の 上に あり.

5しきの こうみょうを はなちて よるは ひるの ごとく ひるは にちりんの みひかりを うばい たまいき.
五色の 光明を 放ちて 夜は 昼の ごとく 昼は 日輪の 御光を うばい 給いき、.

さてこそ いっさいの やくにんの きょうぎょうは かるくなりて らじゅうさんぞうの やくし たまえる きょうぎょう.
さてこそ 一切の 訳人の 経経は 軽くなりて 羅什三蔵の 訳し 給える 経経・.

ことに ほけきょうは かんどに やすやすと ひろまり たまいしか.
殊に 法華経は 漢土に やすやすと ひろまり 給いしか。.

うたがって いわく らじゅう いぜんは しかるべし いごの ぜんむい ふくうらは いかん.
疑つて 云く 羅什 已前は しかるべし 已後の 善無畏・不空等は 如何、.

こたえて いわく.
答えて 云く.

いご なりとも やくしゃの したの やけるをば あやまり ありけりと しる べし.
已後 なりとも 訳者の 舌の 焼けるをば 悞 ありけりと しる べし.

されば にほんこくに ほっそうしゅうの はやりたりしを でんぎょうだいし せめさせ たまいしには.
されば 日本国に 法相宗の はやりたりしを 伝教大師 責めさせ 給いしには.

らじゅうさんぞうは した やけず げんじょう じおんは した やけぬと せめさせ たまいしかば.
羅什三蔵は 舌 焼けず 玄奘・慈恩は 舌 焼けぬと せめさせ 給いしかば.

かんむてんのうは どうりと おぼして てんだいほっけしゅうへは うつらせ たまいしなり.
桓武天王は 道理と をぼして 天台法華宗へは うつらせ 給いしなり、.

ねはんぎょうの だい3 だい9とうを み まいらすれば わが ぶっぽうは がっしより たこくへ わたらん とき.
涅槃経の 第三・第九等を み まいらすれば 我が 仏法は 月支より 他国へ わたらん 時、.

おおくの あやまり しゅったいして しゅじょうの とくどう うすかるべしと とかれて そうろう.
多くの 謬誤 出来して 衆生の 得道 うすかるべしと とかれて 候、.

されば みょうらくだいしは「ならびに しんたいは ひとに あり なんぞ せいしに かかわらん」とこそ あそばされて そうらえ.
されば 妙楽大師は「並びに 進退は 人に 在り 何ぞ 聖旨に 関らん」とこそ あそばされて 候へ、.

いまの ひとびと いかに きょうの ままに ごせを ねがうとも あやまれる きょうぎょうの ままに ねがわば とくどうも ある べからず.
今の 人人 いかに 経の ままに 後世を ねがうとも あやまれる 経経の ままに ねがはば 得道も ある べからず、.

しかればとて ほとけの おん とがには あらじと かかれて そうろう.
しかればとて 仏の 御 とがには あらじと かかれて 候、.

ぶっきょうを ならう ほうには だいしょう ごんじつ けんみつは さておく これこそ だい1の だいじ にては そうらめ.
仏教を 習ふ 法には 大小・権実・顕密は さてをく これこそ 第一の 大事 にては 候らめ。.

うたがって いわく しょうほう 1せんねんの ろんしの ないしんには.
疑つて 云く 正法 一千年の 論師の 内心には.

ほけきょうの じつぎの けんみつの しょきょうに ちょうかして ある よしは.
法華経の 実義の 顕密の 諸経に 超過して ある よしは・.

しろしめし ながら そとには せんぜつせずして ただ ごんだいじょう ばかりを のべさせ たまう ことは.
しろしめし ながら 外には 宣説せずして 但 権大乗 計りを 宣べさせ 給う ことは・.

しかるべしとは おぼえねども その ぎは すこし きこえ そうらいぬ.
しかるべしとは をぼへねども 其の 義は すこし きこえ 候いぬ、.

ぞうほう 1せんねんの なかばに てんだいちしゃだいし しゅつげんして.
像法 一千年の 半に 天台智者大師・出現して.

だいもくの みょうほうれんげきょうの 5じを げんぎ 10かん 1せんまいに かき つくし.
題目の 妙法蓮華経の 五字を 玄義 十巻 一千枚に かき つくし、.

もんぐ 10かんには はじめ にょぜがもんより おわり さらいにこに いたるまで.
文句 十巻には 始め 如是我聞より 終り 作礼而去に いたるまで.

1じ 1くに いんねん やくきょう ほんじゃく かんじんの 4の しゃくを ならべて.
一字 一句に 因縁・約教・本迹・観心の 四の 釈を ならべて.

また 1せんまいに つくし たまう いじょう げんぎ もんぐの 20かんには いっさいきょうの こころを ごうがとして.
又 一千枚に 尽し 給う 已上 玄義・文句の 二十巻には 一切経の 心を 江河として.

ほけきょうを たいかいに たとえ 10ぽうかいの ぶっぽうの つゆ いったいも もらさず.
法華経を 大海に たとえ 十方界の 仏法の 露 一渧も 漏さず.

みょうほうれんげきょうの たいかいに いれさせ たまいぬ.
妙法蓮華経の 大海に 入れさせ 給いぬ、.

そのうえ てんじくの だいろんの しょぎ いってんも もらさず.
其の上 天竺の 大論の 諸義・一点も もらさず.

かんど なんぼくの 10しの ぎ はすべきをば これを はし とるべきをば これを もちう.
漢土・南北の 十師の 義 破すべきをば・これを はし 取るべきをば 此れを 用う、.

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そのうえ しかん 10かんを しるして 1だいの かんもんを いちねんに すべ 10かいの えしょうを 3ぜんに つづめたり.
其の上・止観 十巻を 注して 一代の 観門を 一念に すべ 十界の 依正を 三千に つづめたり、.

この しょの ぶんたいは とおくは がっし 1せんねんの あいだの ろんしにも こえ.
此の 書の 文体は 遠くは 月支・一千年の 間の 論師にも 超え.

ちかくは しな 500ねんの にんしの しゃくにも すぐれたり.
近くは 尸那 五百年の 人師の 釈にも 勝れたり、.

ゆえに さんろんしゅうの きちぞうだいし なんぼく 1ひゃくよにんの せんだつと ちょうじゃらを すすめて てんだいだいしの こうきょうを きけと すすむる じょうに いわく.
故に 三論宗の 吉蔵大師・南北 一百余人の 先達と 長者らを すすめて 天台大師の 講経を 聞けと 勧むる 状に 云く.

「せんねんの こう 500の じつ また こんにちに あり ないし なんがくの えいしょう てんだいの めいてつ むかしは さんごう じゅうじし.
「千年の 興 五百の 実 復 今日に 在り 乃至 南岳の 叡聖 天台の 明哲 昔は 三業 住持し.

いまは にそんに しょうけいす あに ただ かんろを しんたんに そそぐ のみ ならん.
今は 二尊に 紹係す 豈 止 甘呂を 震旦に 灑ぐ のみ ならん.

また まさに ほっくを てんじくに ふるうべし.
亦 当に 法鼓を 天竺に 震うべし、.

しょうちの みょうご ぎしん いらい てんせき ふうよう じつに れんるい なし.
生知の 妙悟 魏晉 以来 典籍 風謡 実に 連類 無し.

ないし ぜんしゅう 1ひゃくよの そうと ともに ちしゃだいしを ぶじょうす」とう うんぬん.
乃至 禅衆 一百余の 僧と 共に 智者大師を 奉請す」等 云云、.

しゅうなんざんの どうせんりっし てんだいだいしを さんたんして いわく.
修南山の 道宣律師 天台大師を 讃歎して 云く.

「ほっけを しょうりょうすること こうきの ゆうこくに のぞむが ごとく まかえんを とくこと ちょうふうの たいこに あそぶに にたり.
「法華を 照了すること 高輝の 幽谷に 臨むが 若く 摩訶衍を 説くこと 長風の 太虚に 遊ぶに 似たり.

たとえ もんじの し せんぐん まんしゅ ありて かの みょうべんを あつめ たずぬとも よく きわむる もの なし.
仮令 文字の 師 千羣 万衆 ありて 彼の 妙弁を 数め 尋ぬとも 能く 窮むる 者 無し、.

ないし ぎ つきを さすに おなじ ないし しゅう いちごくに きす」うんぬん.
乃至 義 月を 指すに 同じ 乃至 宗 一極に 帰す」云云、.

けごんしゅうの ほうぞうだいし てんだいを さんして いわく.
華厳宗の 法蔵大師 天台を 讃して 云く.

「しぜんじ ちしゃらの ごとき じんいに かんつうして しゃく とういに まじわる りょうぜんの ちょう ほう おもい いまに あり」とう うんぬん.
「思禅師 智者等 の如き 神異に 感通して 迹 登位に 参わる 霊山の 聴 法 憶い 今に 在り」等 云云、.

しんごんしゅうの ふくうさんぞう がんこうほっしら してい ともに しんごんしゅうを すてて てんだいだいしに きふくする ものがたりに いわく.
真言宗の 不空三蔵・含光法師等・師弟 共に 真言宗を すてて 天台大師に 帰伏する 物語に 云く.

こうそうでんに いわく「ふくうさんぞうと まのあたり てんじくに あそびたるに かしこに そう あり とうて いわく.
高僧伝に 云く「不空三蔵と 親たり 天竺に 遊びたるに 彼に 僧 有り 問うて 曰く.

だいとうに てんだいの しゃくきょう あり もっとも じゃしょうを えらび へんえんを あきらむるに たえたり.
大唐に 天台の 迹教 有り 最も 邪正を 簡び 偏円を 暁むるに 堪えたり.

よく これを やくして まさに この どに いたらしむべきや」とう うんぬん.
能く 之を 訳して 将に 此土に 至らしむ 可きや」等 云云、.

この ものがたりは がんこうが みょうらくだいしに かたり たまいし なり.
此の 物語は 含光が 妙楽大師に かたり 給し なり、.

みょうらくだいし この ものがたりを きいて いわく.
妙楽大師 此の 物語を 聞いて 云く.

「あに ちゅうごくに ほうを うしないて これを 4いに もとむるに あらずや しかも このかた しること ある もの すくなし ろひとの ごとき のみ」とう うんぬん.
「豈 中国に 法を 失いて 之を 四維に 求むるに 非ずや 而も 此方 識ること 有る 者 少し 魯人の 如き のみ」等 云云、.

けんどくこくの なかに てんだい 30かんの ごとく なる だいろん あるならば.
身毒国の 中に 天台 三十巻の ごとく なる 大論 あるならば.

なんてんの そう いかでか かんどの てんだいの しゃくを ねがう べき.
南天の 僧 いかでか 漢土の 天台の 釈を ねがう べき、.

これ あに ぞうほうの なかに ほけきょうの じつぎ あらわれて なんえんぶだいに こうせんるふ するに あらずや.
これ あに 像法の 中に 法華経の 実義 顕れて 南閻浮提に 広宣流布 するに あらずや、.

こたえて いわく しょうほう 1せんねん ぞうほうの さき 400ねん いじょう ほとけ めつご 1せん400よねんに.
答えて 云く 正法 一千年・像法の 前 四百年・已上 仏 滅後・一千四百余年に.

いまだ ろんしの ぐつうし たまわざる 1だい ちょうかの えんじょう えんねを かんどに ぐつうし たまう のみならず.
いまだ 論師の 弘通し 給はざる 一代 超過の 円定・円慧を 漢土に 弘通し 給う のみならず.

その こえ がっし までも きこえぬ.
其の 声 月氏 までも きこえぬ、.

ほけきょうの こうせんるふには にたれども いまだ えんどんの かいだんを たてられず.
法華経の 広宣流布には にたれども いまだ 円頓の 戒壇を 立てられず.

しょうじょうの いぎを もって えんの え じょうに きりつけるは すこし たより なきに にたり.
小乗の 威儀を もつて 円の 慧定に 切りつけるは すこし 便 なきに にたり、.

れいせば にちりんの しょくするが ごとし げつりんの かけたるに にたり.
例せば 日輪の 蝕するが ごとし 月輪の かけたるに 似たり、.

いかに いわうや てんだいだいしの おんときは だいしつきょうの どくじゅたもんけんごの ときに あい あたって.
何に いわうや 天台大師の 御時は 大集経の 読誦多聞堅固の 時に あひ あたて.

いまだ こうせんるふの ときに あらず.
いまだ 広宣流布の 時に あらず。.

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とうて いわく でんぎょうだいしは にほんこくの ひと なり.
問うて 云く 伝教大師は 日本国の 士 なり.

かんむの ぎょうに しゅっせいして きんめいより 200よねんが あいだの じゃぎを なんじ やぶり.
桓武の 御宇に 出世して 欽明より 二百余年が間の 邪義を なんじ やぶり.

てんだいだしの えんね えんじょうを せんじ たまう のみならず.
天台大師の 円慧・円定を せんじ 給う のみならず、.

がんじんわじょうの ぐつうせし にほんしょうじょうの 3しょの かいだんを なんじ やぶり.
鑒真和尚の 弘通せし 日本小乗の 三処の 戒壇を なんじ やぶり.

えいざんに えんどんの だいじょうべつじゅかいを こんりゅう せり.
叡山に 円頓の 大乗別受戒を 建立 せり、.

この だいじは ほとけ めつご 1せん 800ねんが あいだの けんどく しな ふそう ないし いちえんぶだい だい1の きじ なり.
此の 大事は 仏 滅後 一千 八百年が 間の 身毒・尸那・扶桑 乃至 一閻浮提 第一の 奇事 なり、.

ないしょうは りゅうじゅ てんだいらには あるいは おとるにもや あるいは おなじくもや あるらん.
内証は 竜樹・天台等には 或は 劣るにもや 或は 同じくもや あるらん、.

ぶっぽうの ひとを すべて 1ぽうと なせる ことは りゅうじゅ てんじんにも こえ なんがく てんだいにも すぐれて みえさせ たまう なり.
仏法 の人を すべて 一法と なせる 事は 竜樹・天親にも こえ 南岳・天台にも すぐれて 見えさせ 給う なり、.

そうじては にょらい ごにゅうめつの のち 1せん 800ねんが あいだ この ふたりこそ ほけきょうの ぎょうじゃにては おわすれ.
総じては 如来 御入滅の 後 一千 八百年が 間 此の 二人こそ 法華経の 行者にては をはすれ、.

ゆえに しゅうくに いわく「きょうに いわく もし しゅみを とって たほう むしゅの ぶつどに なげおかんも また いまだ これ かたしと せず.
故に 秀句に 云く「経に 云く 若し 須弥を 接つて 他方 無数の 仏土に 擲げ置かんも 亦 未だ これ 難しと せず.

ないし もし ほとけの めつど あくせの なかに おいて よく この きょうを とかん.
乃至 若し 仏の 滅度 悪世の 中に 於て 能く 此の 経を 説かん.

これ すなわち これ かたし うんぬん この きょうを しゃくして いわく.
是 則ち これ 難し 云云、此 経を 釈して 云く.

あさきは やすく ふかきは かたしとは しゃかの しょはんなり あさきを さって ふかきに つくは じょうぶの こころ なり.
浅は 易く 深は 難しとは 釈迦の 所判なり 浅を 去て 深に 就くは 丈夫の 心 なり.

てんだいだいしは しゃかに しんじゅんし ほっけしゅうを たすけて しんたんに ふようし.
天台大師は 釈迦に 信順し 法華宗を 助けて 震旦に 敷揚し.

えいざんの いっけは てんだいに そうじょうし ほっけしゅうを たすけて にほんに ぐつうす」うんぬん.
叡山の 一家は 天台に 相承し 法華宗を 助けて 日本に 弘通す」云云、.

しゃくの こころは けんこう だい9の げん にんじゅ ひゃくさいの ときより にょらい ざいせ 50ねん めつご 1せん 800よねんが ちゅうげんに.
釈の 心は 賢劫 第九の 減・人寿 百歳の 時より 如来・在世 五十年・滅後 一千 八百余年が 中間に.

たかさ 16まん 8せん ゆじゅん 6ぴゃく 62まんりの こんざんを ある ひと 5しゃくの しょうしんの てを もって.
高さ 十六万 八千 由旬・六百 六十二万里の 金山を 有 人 五尺の 小身の 手を もつて.

ほう いっすん 2すんとうの がりゃくを にぎりて 1ちょう 2ちょうまで なぐるが ごとく.
方 一寸・二寸等の 瓦礫を にぎりて 一丁 二丁まで なぐるが ごとく.

すずめの とぶよりも はやく てっちせんの そとへ なぐる ものは ありとも.
雀鳥の とぶよりも はやく 鉄囲山の 外へ なぐる者は ありとも.

ほけきょうを ほとけの とかせ たまいし ように とかん ひとは まっぽうには まれ なるべし.
法華経を 仏の とかせ 給いし やうに 説かん 人は 末法には まれ なるべし、.

てんだいだいし でんぎょうだいしこそ ぶっせつに そうじして とかせ たまいたる ひとにて おわすれと なり.
天台大師・伝教大師こそ 仏説に 相似して とかせ 給いたる 人にて をはすれと なり、.

てんじくの ろんしは いまだ ほけきょうへ ゆきつき たまわず.
天竺の 論師は いまだ 法華経へ ゆきつき 給はず.

かんどの てんだい いぜんの にんしは あるいは すぎ あるいは たらず.
漢土の 天台 已前の 人師は 或は すぎ 或は たらず、.

じおん ほうぞう ぜんむいらは ひがしを にしと いい てんを ちと もうせる ひとびと なり.
慈恩・法蔵・善無畏等は 東を 西と いゐ 天を 地と 申せる 人人 なり、.

これらは でんぎょうだいしの じさんには あらず.
此等は 伝教大師の 自讃には あらず、.

さる えんりゃく 21ねん しょうがつ 19にち たかおさんに かんむこうてい みゆき なりて.
去る 延暦 二十一年 正月 十九日 高雄山に 桓武皇帝 行幸 なりて.

6しゅう 7だいじの せきとくたる ぜんぎ しょうゆう ほうき ちょうにん けんぎょく あんぷく ごんぞう しゅえん じこう げんよう さいこう どうしょう こうしょう かんびんらの 10ゆうよにん.
六宗・七大寺の碩徳たる善議・勝猷・奉基・寵忍・賢玉・安福・勤操・修円・慈誥・玄耀・歳光・道証・光証・観敏等の 十有余人、.

さいちょうほっしと めしあわせられて しゅうろん ありしに.
最澄法師と 召し合せられて 宗論 ありしに.

あるいは 1ことに したを まいて ふたこと みことに およばず みな いちどうに こうべを かたぶけ てを あざう.
或は 一言に 舌を 巻いて 二言 三言に 及ばず 皆 一同に 頭を かたぶけ 手を あざう、.

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3ろんの 2ぞう 3じ 3てんぽうりん ほっそうの 3じ 5しょう けごんしゅうの 4きょう 5きょう こんぽんしまつ 6そう 10げん みな たいこうを やぶらる.
三論の 二蔵・三時・三転法輪・法相の三時・五性・華厳宗の四教・五教・根本枝末・六相・十玄・皆大綱を やぶらる、.

れいせば おおいえの むなぎうつばりの おれたるが ごとし.
例せば 大屋の 棟梁の をれたるが ごとし.

10だいとくの まんどうも たおれにき.
十大徳の 慢幢も 倒れにき、.

そのとき てんし おおいに おどろかせたまいて どう 29にちに ひろよ くにみちの りょうりを ちょくしとして.
爾の時 天子 大に 驚かせ給いて 同 二十九日に 弘世・国道の 両吏を 勅使として.

かさねて 7じ 6しゅうに おおせ くだされ しかば.
重ねて 七寺・六宗に 仰せ 下れ しかば.

おのおの きぶくの じょうを のせて いわく.
各各 帰伏の 状を 載せて 云く.

「ひそかに てんだいの げんじょを みれば そうじて しゃか 1だいの きょうを くくって ことごとく その おもむきを あらわすに つうぜざる ところ なく.
「竊に 天台の 玄疏を 見れば 総じて 釈迦 一代の 教を 括つて 悉く 其の 趣を 顕すに 通ぜざる 所 無く.

ひとり しょしゅうに こえ ことに 1どうを しめす.
独り 諸宗に 逾え 殊に 一道を 示す.

そのなかの しょせつ じんじんの みょうりなり.
其の中の 所説 甚深の 妙理なり.

7かの だいじ 6しゅうの がくしょう むかしより いまだ きかざるところ かつて いまだ みざる ところ なり.
七箇の 大寺 六宗の 学生 昔より 未だ 聞かざる所 曾て 未だ 見ざる 所 なり.

3ろん ほっそう くねんの あらそい かんえんとして こおりの ごとく とけ. 
三論 法相 久年の 諍い 渙焉として 氷の 如く 釈け.

しょうねんとして すでに あきらかに なお うんむを ひらいて 3こうを みるが ごとし.
照然として 既に 明かに 猶 雲霧を 披いて 三光を 見るが ごとし.

しょうとくの ぐけより このかた いまに 200よねんの あいだ こうずるところの きょうろん その かず おおく かのしりを あらそえども その うたがい いまだ とけず.
聖徳の 弘化より 以降 今に 二百余年の 間 講ずる所の 経論 其の 数 多く 彼此理を 争えども 其の 疑 未だ 解けず、.

しかるに この さいみょうの えんしゅう いまだ せんよう せず.
而るに 此の 最妙の 円宗 未だ 闡揚 せず.

けだし もって この あいだの ぐんじょう いまだ えんみに かなわざるか.
蓋し 以て 此の 間の 羣生 未だ 円味に 応わざるか、.

ふして おもんみれば せいちょう ひさしく にょらいの ふを うけ ふかく じゅんえんの きを むすび.
伏して 惟れば 聖朝 久しく 如来の 付を 受け 深く 純円の 機を 結び.

いちみょうの ぎり はじめて すなわち こうけんし 6しゅうの がくしゃ はじめて しごくを さとる.
一妙の 義理 始めて 乃ち 興顕し 六宗の 学者 初めて 至極を 悟る.

この かいの がんりょう いまより のち ことごとく みょうえんの ふねに のり はやく ひがんに わたる ことを うると いいつ べし.
此の 界の 含霊 今より 後 悉く 妙円の 船に 載り 早く 彼岸に 済る 事を 得ると 謂いつ べし、.

ないし ぜんぎら ひかれて きゅううんに あい すなわち きしを けみす.
乃至 善議等 牽れて 休運に 逢い 乃ち 奇詞を 閲す.

じんごに あらざるよりは なんぞ せいせいに たくせんや」とう うんぬん.
深期に 非ざるよりは 何ぞ 聖世に 託せんや」等 云云、.

かの かんどの かじょうらは 100よにんを あつめて てんだいだいしを しょうにんと さだめたり.
彼の 漢土の 嘉祥等は 百余人を あつめて 天台大師を 聖人と 定めたり、.

いま にほんの 7じ 200よにんは でんぎょうだいしを しょうにんと ごうし たてまつる.
今 日本の 七寺・二百余人は 伝教大師を 聖人と がうし たてまつる、.

ほとけの めつご 2せんよねんに およんで りょうごくに しょうにん 2にん しゅつげん せり.
仏の 滅後 二千余年に 及んで 両国に 聖人 二人・出現 せり.

そのうえ てんだいだいしの みぐの えんとん だいかいを えいざんに こんりゅうし たまう.
其の上 天台大師の 未弘の 円頓 大戒を 叡山に 建立し 給う.

これ あに ぞうほうの すえに ほけきょう こうせんる ふするに あらずや.
此れ 豈 像法の 末に 法華経 広宣流布 するに あらずや、.

こたえて いわく.
答えて 云く.

かしょう あなんらの ぐつうせざる だいほうを めみょう りゅうじゅ だいば てんじんらの ぐつうせること さきの なんに あらわれたり.
迦葉 阿難等の 弘通せざる 大法を 馬鳴・竜樹・提婆・天親等の 弘通せる事 前の 難に 顕れたり、.

また りゅうじゅ てんじんらの るふし のこしたまえる だいほう てんだいだいしの ぐつうしたまうこと また なんに あらわれぬ.
又 竜樹・天親等の 流布し 残し給える 大法天台大師の 弘通し給う事 又 難に あらはれぬ、.

また てんだいちしゃだいしの ぐつうし たまわざる えんどんの だいかいを でんぎょうだいしの こんりゅう せさせ たまう こと また けんねん なり.
又 天台智者大師の 弘通し 給はざる 円頓の 大戒を 伝教大師の 建立 せさせ 給う 事 又 顕然 なり、.

ただし せんと ふしんなることは ほとけは とき つくし たまえども.
但し 詮と 不審なる 事は 仏は 説き 尽し 給えども.

ほとけ めつごに かしょう あなん めみょう りゅうじゅ むじゃく てんじん ないし てんだい でんぎょうの いまだ ぐつうし ましまさぬ.
仏 滅後に 迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親・乃至天台・伝教の いまだ 弘通し ましまさぬ.

さいだいの じんみつの しょうほう きょうもんの おもてに げんぜんなり.
最大の 深密の 正法 経文の 面に 現前 なり、.

この じんぽう いま まっぽうの はじめ 5 500さいに. 
此の 深法・今 末法の 始 五 五百歳に.

いちえんぶだいに こうせんるふ すべきやの こと ふしん きわまり なき なり.
一閻浮提に 広宣流布 すべきやの 事 不審 極り 無き なり。.

→a272

b273

とう いかなる ひほうぞ.
問う いかなる 秘法ぞ.

まず なを きき つぎに ぎを きかんと おもう.
先ず 名を きき 次に 義を きかんと をもう.

このこと もし じつじならば しゃくそんの 2ど よに しゅつげんし たまうか.
此の事 もし 実事ならば 釈尊の 二度・世に 出現し 給うか.

じょうぎょうぼさつの かさねて ゆじゅつ せるか.
上行菩薩の 重ねて 涌出 せるか.

いそぎいそぎ じひを たれられよ.
いそぎいそぎ 慈悲を たれられよ、.

かの げんじょうさんぞうは 6しょうを へて がっしに いりて 19ねん ほっけ 1じょうは ほうべんきょう しょうじょう あごんきょうは しんじつきょう.
彼の 玄奘三蔵は 六生を 経て 月氏に 入りて 十九年・法華 一乗は 方便教・小乗 阿含経は 真実教、.

ふくうさんぞうは けんどくに かえりて じゅりょうほんを あみだぶつと かかれたり これらは ひがしを にしと いう.
不空三蔵は 身毒に 返りて 寿量品を 阿弥陀仏と かかれたり、此等は 東を 西と いう.

ひを つきと あやまてり みを くるしめて なにかせん こころに そみて ようなし.
日を 月と あやまてり 身を 苦めて なにかせん 心に 染て ようなし、.

さいわい われら まっぽうに うまれて 1ぽを あゆまずして 3ぎを こえ.
幸い 我等 末法に 生れて 一歩を あゆまずして 三祇を こゑ.

こうべを とらに かわずして むけんちょうそうを えん.
頭を 虎に かわずして 無見頂相を ゑん、.

こたえて いわく この ほうもんを もうさんことは きょうもんに そうらえば やすかるべし.
答えて 云く 此の 法門を 申さん事は 経文に 候へば やすかるべし.

ただし この ほうもんには まず みっつの だいじ あり.
但し 此の 法門には 先ず 三の 大事 あり.

たいかいは ひろけれども しがいを とどめず だいちは あつけれども ふこうの ものをば のせず.
大海は 広けれども 死骸を とどめず 大地は 厚けれども 不孝の 者をば 載せず、.

ぶっぽうには 5ぎゃくを たすけ ふこうをば すくう.
仏法には 五逆を たすけ 不孝をば すくう.

ただし ひぼう いっせいだいの もの じかいにして だい1 なるをば ゆるされず.
但し 誹謗 一闡提の 者 持戒にして 第一 なるをば ゆるされず、.

この みっつの わざわいとは いわゆる ねんぶつしゅうと ぜんしゅうと しんごんしゅうと なり.
此の 三の わざはひとは 所謂 念仏宗と 禅宗と 真言宗と なり、.

1には ねんぶつしゅうは にほんこくに じゅうまんして 4しゅの くち あそびと す.
一には 念仏宗は 日本国に 充満して 四衆の 口 あそびと す、.

2に ぜんしゅうは 3ね 1ぱつの だいまんの びくの 4かいに じゅうまんして 1てんの みょうどうと おもえり.
二に 禅宗は 三衣 一鉢の 大慢の 比丘の 四海に 充満して 一天の 明導と をもへり、.

3に しんごんしゅうは また かれらの 2しゅうには にるべくも なし.
三に 真言宗は 又 彼等の 二宗には にるべくも なし.

えいざん とうじ 7じ おんじょう あるいは かんしゅ あるいは おむろ あるいは ちょうり あるいは けんぎょうなり かの ないじどころの しんきょう じんかいと なり しかども.
叡山・東寺・七寺・園城 或は 官主 或は 御室 或は 長吏 或は 検校なり かの 内侍所の 神鏡 燼灰と なり しかども.

だいにちにょらいの ほういんを ぶつきょうと たのみ ほうけん さいかいに いり しかども.
大日如来の 宝印を 仏鏡と たのみ 宝剣 西海に 入り しかども.

5だいそんを もって こくてきを きらんと おもえり.
五大尊を もつて 国敵を 切らんと 思へり、.

これらの けんごの しんじんは たとい こうせきは ひすらぐとも かたぶくべしとは みえず.
此等の 堅固の 信心は 設い 劫石は ひすらぐとも・かたぶくべしとは みへず.

だいちは はんぷくすとも ぎしん おこりがたし.
大地は 反覆すとも 疑心 をこりがたし、.

かの てんだいだいしの なんぼくを せめ たまいし ときも この しゅうは いまだ わたらず.
彼の 天台大師の 南北を せめ 給いし 時も 此の 宗は いまだ わたらず.

この でんぎょうだいしの 6しゅうを しえたげ たまいし ときも もれぬ.
此の 伝教大師の 六宗を しゑたげ 給いし 時も もれぬ、.

かたがたの ごうてきを まぬがれて かえって だいほうを かすめ うしなう.
かたがたの 強敵を まぬがれて かへつて 大法を かすめ 失う、.

そのうえ でんぎょうだいしの みでし じかくだいし この しゅうを とりたてて.
其の上 伝教大師の 御弟子・慈覚大師・此の 宗を とりたてて.

えいざんの てんだいしゅうを かすめ おとして いっこう しんごんしゅうに なししかば この ひとには たれの ひとか てきを なすべき.
叡山の 天台宗を かすめ をとして 一向 真言宗に なししかば 此の 人には 誰の 人か 敵を なすべき、.

かかる びゃっけんの たよりを えて こうぼうだいしの じゃぎをも とがむる ひとも なし.
かかる 僻見の たよりを えて 弘法大師の 邪義をも とがむる 人も なし、.

あんねんわじょう すこし こうぼうを なんぜんと せしかども ただ けごんしゅうの ところ ばかり とがむるに にて かえって.
安然和尚 すこし 弘法を 難ぜんと せしかども 只 華厳宗の ところ 計り とがむるに にて かへて.

ほけきょうをば だいにちきょうに たいして しずめ はてぬ.
法華経をば 大日経に 対して 沈め はてぬ、.

ただ せけんの たていりの ものの ごとし.
ただ 世間の たて入の 者の ごとし。.

とうて いわく この 3しゅうの みょうご いかん こたえて いわく.
問うて 云く 此の 三宗の 謬悞 如何 答えて 云く.

じょうどしゅうは せいの よに どんらんほっしと もうす ものあり.
浄土宗は 斉の 世に 曇鸞法師と 申す 者あり.

もとは 3ろんしゅうの ひと りゅうじゅぼさつの じゅうじゅうびばしゃろんを みて なんぎょうどう いぎょうどうを たてたり.
本は 三論宗の 人 竜樹菩薩の 十住毘婆娑論を 見て 難行道 易行道を 立てたり、.

→a273

b274

どうしゃくぜんじと いう もの あり.
道綽禅師と いう 者 あり.

とうの よの もの もとは ねはんぎょうを こうじけるが.
唐の 世の 者 本は 涅槃経を かうじけるが.

どんらんほっしが じょうどに うつる ふでを みて ねはんぎょうを すてて じょうどに うつって しょうどう じょうど 2もんを たてたり.
曇鸞法師が 浄土に うつる 筆を 見て 涅槃経を すてて 浄土に うつて 聖道・浄土 二門を 立てたり、.

また どうしゃくが でしに ぜんどうと いう もの あり ぞうぎょう しょうぎょうを たつ.
又 道綽が 弟子に 善導と いう 者 あり 雑行 正行を 立つ、.

にほんこくに まっぽうに いって 200よねん ごとばいんの ぎょうに ほうねんと いう もの あり.
日本国に 末法に 入つて 二百余年・後鳥羽院の 御宇に 法然と いう もの あり.

いっさいの どうぞくを すすめて いわく.
一切の 道俗を すすめて 云く.

ぶっぽうは じきを もととす.
仏法は 時機を 本とす.

ほけきょう だいにちきょう てんだい しんごんとうの 8しゅう 9しゅう 1だいの だいしょう けんみつ ごんじつとうの しょしゅうとうは じょうこん じょうちの しょうぞう 2せんねんの きの ためなり.
法華経 大日経 天台 真言等の 八宗 九宗 一代 の大小・顕密・権実等の 諸宗等は 上根 上智の 正像 二千年の 機の ためなり、.

まっぽうに いりては いかに こうを なして ぎょうずるとも その やく あるべからず.
末法に 入りては いかに 功を なして 行ずるとも 其の 益 あるべからず、.

そのうえ みだ ねんぶつに まじえて ぎょうずるならば ねんぶつも おうじょう すべからず.
其の上・弥陀念仏に まじへて 行ずるならば 念仏も 往生 すべからず.

これ わたくしに もうすには あらず.
此れ わたくしに 申すには あらず.

りゅうじゅぼさつ どんらんほっしは なんぎょうどうと なづけ どうしゃくは みういちにんとくしゃと きらい ぜんどうは せんちゅうむいちと さだめたり.
竜樹菩薩・曇鸞法師は 難行道と なづけ、道綽は 未有一人得者と きらひ 善導は 千中無一と さだめたり、.

これらは たしゅうなれば ごふしんも あるべし.
此等は 他宗なれば 御不審も あるべし、.

えしん せんとくに すぎさせたまえる てんだい しんごんの ちしゃは まつだいに おわすべきか.
慧心 先徳に すぎさせ 給へる 天台 真言の 智者は 末代に をはすべきか.

かの おうじょうようしゅうには けんみつの きょうほうは よが ししょうを はなるべき ほうには あらず.
彼の 往生要集には 顕密の 教法は 予が 死生を はなるべき 法には あらず、.

また 3ろんの えいかんが 10いんとうを みよ されば ほっけ しんごんとうを すてて いっこうに ねんぶつせば.
又 三論の 永観が 十因等を みよ されば 法華 真言等を すてて 一向に 念仏せば.

10そく10しょう 100そく100しょうと すすめ ければ.
十即十生・百即百生と すすめ ければ、.

えいざん とうじ おんじょう 7じとう はじめは じょうろんする ようなれども.
叡山・東寺・園城・七寺等 始めは 諍論する やうなれども、.

おうじょうようしゅうの じょの ことば どうりかと みえければ けんしん ざす おちさせ たまいて ほうねんが でしと なる.
往生要集の 序の 詞 道理かと みへければ 顕真 座主 落ちさせ 給いて 法然が 弟子と なる、.

そのうえ たとい ほうねんが でしと ならぬ ひとびとも みだねんぶつは たぶつに にるべくもなく.
其の上 設い 法然が 弟子と ならぬ 人々も 弥陀念仏は 他仏に にるべくもなく.

くちずさみとし こころよせに おもいければ にほんこく みな いちどうに ほうねんぼうの でしと みえけり.
口ずさみとし 心よせに をもひければ 日本国 皆 一同に 法然房の 弟子と 見へけり、.

この 50ねんが あいだ 1てん 4かい 1にんも なく ほうねんが でしと なる.
此の 五十年が 間・一天四海・一人も なく 法然が 弟子と なる.

ほうねんが でしと なりぬれば にほんこく ひとりも なく ほうぼうの ものと なりぬ.
法然が 弟子と なりぬれば 日本国 一人も なく 謗法の 者と なりぬ、.

たとえば せんにんの こが いちどうに 1にんの おやを さつがいせば せんにん ともに 5ぎゃくの もの なり.
譬へば 千人の 子が 一同に 一人の 親を 殺害せば 千人 共に 五逆の 者 なり.

1にん あびに おちなば よにん おちざる べしや.
一人 阿鼻に 堕ちなば 余人 堕ちざる べしや、.

けっくは ほうねん るざいを あだみて あくりょうと なって われ ならびに でしらを とがせし こくしゅ さんじの そうらが みに いって.
結句は 法然・流罪を あだみて 悪霊と なつて 我 並びに 弟子等を とがせし 国主・山寺の 僧等が 身に 入つて.

あるいは むほんを おこし あるいは あくじを なして みな かんとうに ほろぼされぬ.
或は 謀反を をこし 或は 悪事をなして 皆 関東に ほろぼされぬ、.

わづかに のこれる えいざん とうじとうの しょそうは ぞくなん ぞくにょに あなづらるる こと えんこうの ひとに わらわれ.
わづかに のこれる 叡山・東寺等の 諸僧は 俗男 俗女に あなづらるる こと 猿猴の 人に わらはれ.

えぞが どうじに べつじょ せらるるが ごとし.
俘囚が 童子に 蔑如 せらるるが ごとし、.

ぜんしゅうは また この たよりを えて じさいらと なって ひとの まなこを まどわかし たっとげなる けしき なれば.
禅宗は 又 此の 便を 得て 持斎等と なつて 人の 眼を 迷かし たつとげなる 気色 なれば.

いかに ひが ほうもんを いいくるえども とがとも おぼえず.
いかに ひが ほうもんを いゐくるへども 失とも をぼへず、.

ぜんしゅうと もうす しゅうは きょうがいべつでんと もうして しゃくそんの いっさいきょうの ほかに かしょうそんじゃに ひそかに ささやかせ たまえり.
禅宗と 申す 宗は 教外別伝と 申して 釈尊の 一切経の 外に 迦葉尊者に ひそかに ささやかせ 給へり、.

→a274

b275

されば ぜんしゅうを しらずして いっさいきょうを ならう ものは いぬの いかずちを かむが ごとし.
されば 禅宗を しらずして 一切経を 習う ものは、 犬の 雷を かむが ごとし、.

さるの つきに かげを とるに にたり うんぬん.
猿の 月の 影を とるに にたり 云云、.

この ゆえに にほんこくの なかに ふこうにして ふぼに すてられ ぶれいなる ゆえに しゅくんに かんどう せられ.
此の 故に 日本国の 中に 不孝にして 父母に すてられ 無礼なる 故に、 主君に かんどう せられ.

あるいは じゃくなる ほっしらの がくもんに ものうき あそびめの ものぐるわしき ほんしょうに かなえる じゃほうなる ゆえに.
あるいは 若なる 法師等の 学文に ものうき 遊女の ものぐるわしき 本性に 叶る 邪法なる ゆへに.

みな いちどうに じさいに なりて くにの ひゃくしょうを くらう いなむしと なれり.
皆 一同に 持斎に なりて 国の 百姓を くらう 蝗虫と なれり、.

しかれば てんは てんげんを いからかし ちじんは みを ふるう.
しかれば 天は 天眼を いからかし 地神は 身を ふるう、.

しんごんしゅうと もうすは かみの ふたつの わざわいには にるべくも なき だいびゃっけん なり.
真言宗と 申すは 上の 二の わざはひには にるべくも なき 大僻見 なり.

あらあら これを もうすべし.
あらあら 此れを 申すべし、.

いわゆる だいとうの げんそうこうていの ぎょうに ぜんむいさんぞう こんごうちさんぞう ふくうさんぞう だいにちきょう こんごうちょうきょう そしつききょうを がっしより わたす.
所謂 大唐の 玄宗皇帝の 御宇に 善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵、大日経・金剛頂経・蘇悉地経を 月支より わたす、.

この 3きょうの せっそう ふんみょう なり.
此の 三経の 説相 分明 なり.

その ごくりを たずぬれば えにはにの 1じょう その そうを ろんずれば いんと しんごんと ばかりなり.
其の 極理を 尋ぬれば 会二破二の 一乗・其の 相を 論ずれば 印と 真言と 計りなり、.

なお けごん はんにゃの さんいちそうたいの 1じょうにも およばず てんだいしゅうの にぜんの べちえんほども なし.
尚 華厳 般若の 三一相対の 一乗にも 及ばず 天台宗の 爾前の 別円程も なし.

ただ ぞうつう 2きょうを おもてとするを ぜんむいさんぞう おもわく.
但 蔵通 二教を 面とするを 善無畏三蔵 をもはく.

この きょうもんを あらわに いいだす ほどならば けごん ほっそうにも おこづかれ てんだいしゅうにも わらわれなん.
此の 経文を あらわに いゐ出す 程ならば 華厳 法相にも をこつかれ 天台宗にも わらはれなん.

だいじとして がっしよりは もち きたりぬ さて もだせば ほんいに あらずとや おもいけん.
大事として 月支よりは 持ち 来りぬ さて もだせば 本意に あらずとや をもひけん、.

てんだいしゅうの なかに いちぎょうぜんじと いう びゃくにん 1にん あり.
天台宗の 中に 一行禅師と いう 僻人 一人 あり.

これを かたらいて かんどの ほうもんを かたらせ けり.
これを かたらひて 漢土の 法門を かたらせ けり、.

いちぎょうあじゃり うちぬかれて 3ろん ほっそう けごんとうを あらあら かたる のみならず.
一行阿闍梨 うちぬかれて 三論・法相・華厳等を あらあら・かたる のみならず.

てんだいしゅうの たてられける ようを もうしければ ぜんむい おもわく.
天台宗の 立てられける やうを 申しければ 善無畏 をもはく.

てんだいしゅうは てんじくにして ききしにも なお うちすぐれて かさむべき ようも なかりければ.
天台宗は 天竺にして 聞きしにも・なを うちすぐれて かさむべき やうも なかりければ.

ぜんむい いちぎょうを うちぬいて いわく.
善無畏・一行を うちぬひて 云く.

わそうは かんどには こざかしき ものにて ありけり.
和僧は 漢土には・こざかしき 者にて ありけり、.

てんだいしゅうは しんみょうの しゅうなり いま しんごんしゅうの てんだいしゅうに かさむ ところは いんと しんごんと ばかりなりと いいければ.
天台宗は 神妙の 宗なり 今 真言宗の 天台宗に かさむ ところは 印と 真言と 計りなりと いゐ ければ.

いちぎょう さもやと おもいければ ぜんむいさんぞう いちぎょうに かたて いわく.
一行 さもやと をもひければ 善無畏三蔵 一行に かたて 云く、.

てんだいだいしの ほけきょうに しょを つくらせたまえるが ごとく だいにちきょうの しょを つくりて しんごんを ぐづうせんと おもう.
天台大師の 法華経に 疏を つくらせ 給へる ごとく 大日経の 疏を 造りて 真言を 弘通せんと をもう.

なんじ かきなんやと いいければ いちぎょうが いわく やすう そうろう ただし いかように かき そうろう べきぞ.
汝 かきなんやと いゐければ 一行が 云く やすう 候、但し いかやうに かき 候 べきぞ.

てんだいは にくき しゅう なり.
天台宗は にくき 宗 なり.

しょしゅうは われも われもと あらそいを なせども いっさいに かなわざる こと ひとつ あり.
諸宗は 我も 我もと あらそいを なせども 一切に 叶わざる 事 一 あり、.

いわゆる ほけきょうの じょぶんに むりょうぎきょうと もうす きょうを もって ぜん 40よねんの きょうぎょうをば その もんを うち ふさぎ そうらいぬ.
所謂 法華経の 序分に 無量義経と 申す 経を もつて 前 四十余年の 経経をば 其の 門を 打ち ふさぎ 候いぬ、.

ほけきょうの ほっしぼん じんりきぼんを もって のちの きょうぎょうをば また ふせがせぬ.
法華経の 法師品・神力品を もつて 後の 経経をば 又 ふせがせぬ.

かたを ならぶ きょうぎょうをば こんせつの もんを もって せめ そうろう.
肩を ならぶ 経経をば 今説の 文を もつて せめ 候.

→a275

b276

だいにちきょうをば 3せつの なかには いづくにか おき そうろうべきと とい ければ.
大日経をば 三説の 中には いづくにか をき 候べきと 問ひ ければ.

そのときに ぜんむいさんぞう おおいに たくらんで いわく だいにちきょうに じゅうしんぼんと いう ほん あり.
爾の時に 善無畏三蔵 大に 巧んで 云く 大日経に 住心品という 品 あり.

むりょうぎきょうの 40よねんの きょうぎょうを うち はらうが ごとし.
無量義経の 四十余年の 経経を 打ち はらうが ごとし、.

だいにちきょうの にゅうまんだらいげの しょほんは かんどにては ほけきょう だいにちきょうとて 2ほん なれども てんじくにては 1きょうの ごとし.
大日経の 入漫陀羅已下の 諸品は 漢土にては 法華経・大日経とて 二本 なれども 天竺にては 一経の ごとし、.

しゃかぶつは しゃりほつ みろくに むかって だいにちきょうを ほけきょうと なづけて.
釈迦仏は 舎利弗・弥勒に 向つて 大日経を 法華経と なづけて

いんと しんごんとを すてて ただ り ばかりを とけるを らじゅうさんぞう これを わたす.
印と 真言とを すてて 但 理 計りを とけるを 羅什三蔵 此れを わたす.

てんだいだいし これを みる だいにちにょらいは ほけきょうを だいにちきょうと なづけて こんごうさったに むかって.
天台大師 此れを みる、大日如来は 法華経を 大日経と なづけて 金剛薩埵に 向つて.

とかせたまう これを だいにちきょうと なづく.
とかせ給う 此れを 大日経と なづく.

われ まの あたり てんじくにして これを みる.
我 まの あたり 天竺にして これを 見る、.

されば なんじが かくべきようは だいにちきょうと ほけきょうとをば みずと ちちとの ように いちみと なす べし.
されば 汝が かくべきやうは 大日経と 法華経とをば 水と 乳との やうに 一味と なす べし、.

もし しからば だいにちきょうは いこんとうの 3せつをば みな ほけきょうの ごとく うちおとす べし.
もし しからば 大日経は 已今当の 三説をば 皆 法華経の ごとく うちをとす べし、.

さて いんと しんごんとは しんぽうの いちねんさんぜんに そうごんする ならば さんみつそうおうの ひほう なるべし.
さて 印と 真言とは 心法の 一念三千に 荘厳する ならば 三密相応の 秘法 なるべし、.

さんみつそうおうする ほどなれば てんだいしゅうは いみつ なり.
三密相応する 程ならば 天台宗は 意密 なり.

しんごんは こうなる しょうぐんの こうがいを たいして きゅうせんを よこたえ たちを こしに はけるが ごとし.
真言は 甲なる 将軍の 甲鎧を 帯して 弓箭を 横たへ 太刀を 腰に はけるが ごとし、.

てんだいしゅうは いみつ ばかり なれば こうなる しょうぐんの あかはだか なるが ごとく ならんと いい ければ.
天台宗は 意密 計り なれば 甲なる 将軍の 赤裸 なるが ごとく ならんと いゐ ければ、.

いちぎょうあじゃりは この ように かきけり.
一行阿闍梨は 此の やうに かきけり、.

かんど 360かこくには この ことを しる ひと なかりける かの あいだ.
漢土 三百六十箇国には 此の 事を 知る 人 なかりける かの あひだ.

はじめには しょうれつを じょうろんし けれども ぜんむいらは ひとがらは おもし てんだいしゅうの ひとびとは かるかりけり.
始めには 勝劣を 諍論し けれども 善無畏等は 人がらは 重し 天台宗の 人人は 軽かりけり、.

また てんだいだいし ほどの ち ある ものも なかりければ ただ ひびに しんごんしゅうに なりて さて やみにけり.
又 天台大師 ほどの 智 ある 者も なかりければ 但 日日に 真言宗に なりて さて やみにけり、.

とし ひさしくなれば いよいよ しんごんの おうわく ね ふかく かくれて そうらいけり.
年 ひさしくなれば いよいよ 真言の 誑惑の 根 ふかく かくれて 候いけり、.

にほんこくの でんぎょうだいし かんどに わたりて てんだいしゅうを わたし たまう ついでに しんごんしゅうを ならべ わたす.
日本国の 伝教大師・漢土に わたりて 天台宗を わたし 給う ついでに 真言宗を ならべ わたす、.

てんだいしゅうを にほんの こうていに さづけ しんごんしゅうを 6しゅうの だいとくに ならわせ たまう.
天台宗を 日本の 皇帝に さづけ 真言宗を 六宗の 大徳に ならはせ 給う、.

ただし 6しゅうと てんだいしゅうの しょうれつは にっとういぜんに さだめさせ たまう.
但し 六宗と 天台宗の 勝劣は 入唐已前に 定めさせ 給う、.

にっとう いごには えんどんの かいじょうを たてう たてじの ろんの ばかり なかりけるかの あいだ.
入唐 已後には 円頓の 戒場を 立てう 立てじの 論の 計り なかりけるかの あひだ.

てき おおく しては かいじょうの 1じ なりがたし とや おぼしめけん.
敵 多く しては 戒場の 一事 成りがたし とや をぼしめしけん、.

また まっぽうに せめさせんとや おぼしけん.
又 末法に せめさせんとや をぼしけん.

こうていの みまえに しても ろんぜさせ たまわず でしら にも はかばかしく かたらせ たまわず.
皇帝の 御前に しても 論ぜさせ 給はず 弟子等 にも はかばかしく かたらせ 給はず、.

ただし えひょうしゅうと もうす 1かんの ひしょ あり.
但し 依憑集と 申す 一巻の 秘書 あり.

7しゅうの ひとびとの てんだいに おちたる ようを かかれて そうろう ふみ なり.
七宗の 人人の 天台に 落ちたる やうを かかれて 候 文 なり.

かの ふみの じょに しんごんしゅうの おうわく 1ぴつ みえて そうろう.
かの 文の 序に 真言宗の 誑惑 一筆 みへて 候.

こうぼうだいしは おなじき えんりゃく ねんちゅうに ごにっとう せいりゅうじの けいかに あい たまいて しんごんしゅうを ならわせ たまえり.
弘法大師は 同じき 延暦 年中に 御入唐・青竜寺の 慧果に 値い 給いて 真言宗を ならはせ 給へり、.

→a276

b277

ごきちょうの のち 1だいの しょうれつを はんじ たまいけるに だい1 しんごん だい2 けごん だい3 ほっけと かかれて そうろう.
御帰朝の 後・一代の 勝劣を 判じ 給いけるに 第一 真言・第二 華厳・第三 法華と かかれて 候、.

この だいしは せけんの ひとびと もっての ほかに おもんずる ひと なり.
此の 大師は 世間の 人人 もつての ほかに 重ずる 人 なり、.

ただし ぶっぽうの ことは もうすに おそれ あれども もっての ほかに あらき ことども はんべり.
但し 仏法の 事は 申すに をそれ あれども・ もつての ほかに あらき 事ども はんべり、.

この ことを あらあら かんがえたるに.
此の 事を あらあら・かんがへたるに.

かんどに わたらせ たまいては ただ しんごんの じそうの いん しんごん ばかり ならい つたえて.
漢土に わたらせ 給いては 但 真言の 事相の 印 真言 計り 習い つたえて.

その ぎりをば くわしくも さわぐらせ たまわざりける ほどに.
其の 義理をば くはしくも さはぐらせ 給はざりける ほどに.

にほんに わたりて のち おおいに せけんを みれば てんだいしゅう もっての ほかに かさみたり ければ.
日本に わたりて 後 大に 世間を 見れば 天台宗 もつての ほかに・かさみたり ければ、.

わが おもんずる しんごんしゅう ひろめ がたかりける かの ゆえに.
我が 重ずる 真言宗 ひろめ がたかりける かの ゆへに.

もと にほんこくにして ならいたりし けごんしゅうを とりいだして ほけきょうに まされるよしを もうしけり.
本 日本国にして 習いたりし 華厳宗を とりいだして 法華経に まされる よしを 申しけり、.

それも つねの けごんしゅうに もうすように もうすならば ひと しんずまじとや おぼしめけん.
それも 常の 華厳宗に 申すやうに 申すならば 人 信ずまじとや をぼしめしけん・.

すこし いろを かえて これは だいにちきょう りゅうみょうぼさつの ぼだいしんろん ぜんむいらの じつぎ なりと だいもうごを ひきそえたり けれども.
すこし いろを かえて 此れは 大日経・竜猛菩薩の 菩提心論・善無畏等の 実義 なりと 大妄語を ひきそへたり けれども.

てんだいしゅうの ひとびと いとう とがめ もうす こと なし.
天台宗の 人人 いたう とがめ 申す 事 なし。.

とうて いわく こうぼうだいしの じゅうじゅうしんろん ひぞうほうやく 2きょうろんに いわく.
問うて 云く 弘法大師の 十住心論・秘蔵宝鑰 二教論に 云く.

「かくの ごとき じょうじょう じじょうに なを えれども のちに のぞめば けろんと なす」.
「此くの 如き 乗乗 自乗に 名を 得れども 後に 望めば 戯論と 作す」.

また いわく「むみょうの へんいきにして みょうの ぶんいに あらず」.
又 云く「無明の 辺域にして 明の 分位に 非ず」.

また いわく「だい4 じゅくそみ なり」.
又 云く「第四 熟蘇味 なり」.

また いわく「しんたんの にんしら あらそって だいごを ぬすんで おのおの じしゅうに なづく」とう うんぬん.
又 云く「震旦の 人師等 諍つて 醍醐を 盗んで 各 自宗に 名く」等 云云、.

これらの しゃくの こころ いかん こたえて いわく.
此等の 釈の 心 如何、答えて 云く.

よ この しゃくに おどろいて いっさいきょう ならびに だいにちの 3ぶきょうとうを ひらき みるに.
予 此の 釈に をどろいて 一切経 並びに 大日の 三部経等を ひらき みるに.

けごんきょうと だいにちきょうとに たいすれば ほけきょう けろん.
華厳経と 大日経とに 対すれば 法華経 戯論・.

ろくはらみつきょうに たいすれば ぬすびと しゅごきょうに たいすれば むみょうの へんいきと もうす きょうもんは いちじいっくも そうらわず.
六波羅蜜経に 対すれば 盗人・守護経に 対すれば 無明の 辺域と 申す 経文は 一字一句も 候はず.

この ことは いと はかなき こと なれども.
此の 事は いと はかなき 事 なれども.

この 3 400よねんに にほんこくの そこばくの ちしゃ どもの もちいさせ たまえば さだめて ゆえ あるかと おもいぬべし.
此の 三 四百余年に 日本国の そこばくの 智者 どもの 用いさせ 給へば 定めて ゆへ あるかと をもひぬべし、.

しばらく いと やすき ひがごとを あげて よじの はかなきことを しらすべし.
しばらく いと やすき ひが事を あげて 余事の はかなき事を しらすべし、.

ほけきょうを だいごみと しょうすることは ちんずいの よ なり.
法華経を 醍醐味と 称することは 陳隋の 代 なり.

ろくはらみつきょうは とうの なかばに はんにゃさんぞう これを わたす.
六波羅蜜経は 唐の 半に 般若三蔵・此れを わたす、.

ろくはらみつきょうの だいごは ちんずいの よには わたりて あらばこそ てんだいだいしは しんごんの だいごをば ぬすませ たまわめ.
六波羅蜜経の 醍醐は 陳隋の 世には わたりて あらばこそ 天台大師は 真言の 醍醐をば 盗ませ 給はめ、.

ぼうれい あり にほんの とくいちが いわく.
傍例 あり 日本の 得一が 云く.

「てんだいだいしは じんみつきょうの 3じきょうを やぶる 3ずんの したを もって 5しゃくの みを たつべし」と ののしりしを.
「天台大師は 深密経の 三時教を やぶる 三寸の 舌を もつて 五尺の 身を たつべし」と ののしりしを.

でんぎょうだいし これを ただして いわく.
伝教大師 此れを ただして 云く.

じんみつきょうは とうの はじめ げんじょう これを わたす.
深密経は 唐の 始 玄奘 これを わたす.

てんだいは ちんずいの ひと ちしゃ ごにゅうめつの のち すうかねん あって じんみつきょう わたれり.
天台は 陳隋の 人・智者 御入滅の 後・数箇年 あつて 深密経 わたれり、.

→a277

b278

しして いごに わたれる きょうをば いかでか やぶり たまう べきと せめさせ たまいて そうらい しかば.
死して 已後に わたれる 経をば いかでか 破り 給う べきと せめさせ 給いて 候い しかば.

とくいちは つまる のみならず した やつに さけて しし そうらいぬ.
得一は つまる のみならず 舌 八に さけて 死し 候いぬ、.

これは かれには にる べくもなき あっく なり.
これは 彼には にる べくもなき 悪口 なり、.

けごんの ほうぞう 3ろんの かじょう ほっそうの げんじょう てんだいら ないし なんぼくの しょし.
華厳の 法蔵・三論の 嘉祥・法相の 玄奘・天台等・乃至 南北の 諸師・.

ごかんより いげの さんぞう にんしを みな おさえて ぬすびとと かかれて そうろうなり.
後漢より 已下の 三蔵 人師を 皆 をさえて 盗人と かかれて 候なり、.

そのうえ また ほけきょうを だいごと しょうする ことは てんだいらの わたくしの ことばには あらず.
其の上・又 法華経を 醍醐と 称する ことは 天台等の 私の 言には あらず、.

ほとけ ねはんぎょうに ほけきょうを だいごと とかせ たまい てんじんぼさつは ほけきょう ねはんぎょうを だいごと かかれて そうろう.
仏・涅槃経に 法華経を 醍醐と とかせ 給い 天親菩薩は 法華経・涅槃経を 醍醐と かかれて 候、.

りゅうじゅぼさつは ほけきょうを みょうやくと なづけ させ たまう.
竜樹菩薩は 法華経を 妙薬と なづけ させ 給う、.

されば ほけきょうとうを だいごと もうす ひと ぬすびとならば しゃか たほう じっぽうの しょぶつ りゅうじゅ てんじんらは みな ぬすびとにて おわす べきか.
されば 法華経等を 醍醐と 申す 人・盗人ならば 釈迦・多宝・十方の 諸仏・竜樹・天親等は 盗人にて をはす べきか、.

こうぼうの もんじんら ないし にほんの とうじの しんごんし いかに じげんの こくびゃくは.
弘法の 門人等・乃至 日本の 東寺の 真言師・如何に 自眼の 黒白は.

つたなくして わきまえずとも たの かがみを もって じかを しれ.
つたなくして 弁へずとも 他の 鏡を もつて 自禍を しれ、.

このほか ほけきょうを けろんの ほうと かかるること だいにちきょう こんごんちょうきょう とうに たしかなる きょうもんを いだされよ.
此の外 法華経を 戯論の 法と かかるること 大日経・金剛頂経 等に たしかなる 経文を いだされよ、.

たとい かれがれの きょうぎょうに ほけきょうを けろんと とかれたりとも やくしゃの あやまる ことも あるぞかし.
設い 彼彼の 経経に 法華経を 戯論と とかれたりとも 訳者の 悞る 事も あるぞかし.

よくよく しりょの ある べかりけるか.
よくよく 思慮の ある べかりけるか、.

こうしは くしいちごん しゅうこうたんは ゆあみには みたび にぎり しょくには みたび はかれけり.
孔子は 九思一言・周公旦は 沐には 三 にぎり 食には 三 はかれけり.

げしょの はかなき せけんの あさきことを ならうひとすら ちじんは こう そうろうぞかし.
外書の はかなき 世間の 浅き事を 習う人すら 智人は かう 候ぞかし、.

いかに かかる あさましき ことは ありけるやらん.
いかに かかる あさましき 事は ありけるやらん、.

かかる びゃっけんの すえ なれば かの でんぽういんの ほんがんと ごうする しょうかくぼうが しゃりこうの しきに いわく.
かかる 僻見の 末へ なれば 彼の 伝法院の 本願と がうする 聖覚房が 舎利講の 式に 云く.

「そんこうなる ものは ふにまかえんの ほとけなり ろごの 3じんは くるまを たすくること あたわず.
「尊高なる 者は 不二摩訶衍の 仏なり 驢牛の 三身は 車を 扶くること 能はず.

ひおうなる ものは りょうぶ まんだらの きょうなり けんじょうの 4ほうは はきものを とるに たえず」と うんぬん.
秘奥なる 者は 両部・漫陀羅の 教なり 顕乗の 四法は 履を 採るに 堪へず」と 云云、.

けんじょうの 4ほうと もうすは ほっそう 3ろん けごん ほっけの 4にん.
顕乗の 四法と 申すは 法相・三論・華厳・法華の 四人、.

ろごの 3じんと もうすは ほっけ けごん はんにゃ じんみつきょうの きょうしゅの 4ぶつ.
驢牛の 三身と 申すは 法華・華厳・般若・深密経の 教主の 四仏、.

これらの ぶつ そうは しんごんしに たいすれば しょうかく こうぼうの うしかい はきものとりにも たらぬ ほどの ことなりと かいて そうろう.
此等の 仏 僧は 真言師に 対すれば 聖覚 ・弘法の 牛飼・履物取者にも たらぬ 程の 事なりと かいて 候、.

かの がっしの だいまんばらもんは しょうちの はくがく けんみつ 2どう むねに うかべ ないげの てんせき たなごころに にぎる.
彼の 月氏の 大慢婆羅門は 生知の 博学・顕密 二道 胸に うかべ 内外の 典籍・掌に にぎる、.

されば おうしん こうべを かたぶけ ばんにん しはんと あおぐ.
されば 王臣 頭を かたぶけ 万人 師範と 仰ぐ.

あまりの まんしんに せけんに そんすうする ものは だいじざいてん ばそてん ならえんてん だいかくせそん この しせい なり.
あまりの 慢心に 世間に 尊崇する 者は 大自在天・婆籔天・那羅延天・大覚世尊・此の 四聖 なり.

わが ざの 4そくに せんと ざの あしに つくりて ざして ほうもんを もうしけり.
我が 座の 四足に せんと 座の 足に つくりて 坐して 法門を 申しけり、.

とうじの しんごしが しゃかぶつとうの いっさいの ほとけを かきあつめて かんじょうする とき しきまんだらと するが ごとし.
当時の 真言師が 釈迦仏等の 一切の 仏を かきあつめて 潅頂する 時 敷まんだらと するが ごとし、.

ぜんしゅうの ほっしらが いわく.
禅宗の 法師等が 云く.

この しゅうは ほとけの いただきを ふむ だいほうなりと いうが ごとし.
此の 宗は 仏の 頂を ふむ 大法なりと いうが ごとし、.

→a278

b279

しかるを けんあいろんじと もうせし しょうそう あり.
而るを 賢愛論師と 申せし 小僧 あり.

かれを ただすべき よし もうせ しかども おうしん ばんみん これを もちいず.
彼を ただすべき よし 申せ しかども 王臣 万民 これを もちゐず、.

けっくは だいまんが でしら だんならに もうしつけて むりょうの もうごを かまえて あっく ちょうちゃく せしかども.
結句は 大慢が 弟子等・檀那等に 申しつけて 無量の 妄語を かまへて 悪口 打擲 せしかども.

すこしも いのちも おしまず ののしり しかば.
すこしも 命も をしまず ののしり しかば.

ていおう けんあいを にくみて つめさせんと したまいし ほどに.
帝王・賢愛を にくみて つめさせんと し給いし ほどに.

かえりて だいまんが せめられたり しかば.
かへりて 大慢が せめられたり しかば、.

だいおう てんに あおぎ ちに ふして なげいて のたまわく.
大王 天に 仰ぎ 地に 伏して なげひて の給はく.

ちんは まのあたり このことを きいて じゃけんを はらしぬ.
朕は まのあたり 此の 事を きひて 邪見を はらしぬ.

せんのうは いかに この ものに たぼらされて あびじごくに おわすらんと けんあいろんじの みあしに とりつきて ひるい せさせ たまい しかば.
先王は いかに 此の 者に たぼらされて 阿鼻地獄に をはすらんと 賢愛論師の 御足に とりつきて 悲涙 せさせ 給い しかば、.

けんあいの おんはからいとして だいまんを ろに のせて 5じくに おもてを さらし たまい ければ.
賢愛の 御計いとして 大慢を 驢にのせて 五竺に 面を さらし 給い ければ.

いよいよ あくしん さかんになりて げんしんに むけんじごくに おちぬ.
いよいよ 悪心 盛になりて 現身に 無間地獄に 堕ちぬ、.

いまの よの しんごんと ぜんしゅうとうは これに かわれりや.
今の 世の 真言と 禅宗等とは 此れに かわれりや、.

かんどの さんがいぜんじの いわく きょうしゅ しゃくそんの ほけんきょうは だい1 だい2かいの しょうぞうの ほうもん なり.
漢土の 三階禅師の 云く 教主 釈尊の 法華経は 第一・第二階の 正像の 法門 なり.

まつだいの ためには わが つくれる ふきょう なり.
末代の ためには 我が つくれる 普経 なり.

ほけきょうを いまの よに ぎょうぜんものは じっぽうの だいあびごくに おつべし.
法華経を 今の 世に 行ぜん者は 十方の 大阿鼻獄に 堕つべし、
.
まつだいの きこんに あたらざる ゆえなりと もうして.
末代の 根機に あたらざる ゆへなりと 申して、.

6じの らいさん 4じの ざぜん しょうしんぶつの ごとく なりしかば.
六時の 礼懺・四時の 坐禅・生身仏の ごとく なりしかば、.

ひと おおく とうとみて でし まんよにん ありしかども わづかの しょうにょの ほけきょうを よみしに せめられて.
人 多く 尊みて 弟子 万余人 ありしかども わづかの 小女の 法華経を よみしに せめられて.

とうざには こえを うしない のちには だいじゃに なりて そこばくの だんな でし ならびに しょうにょ しょじょらを のみ くらいし なり.
当坐には 音を 失い 後には 大蛇に なりて そこばくの 檀那 弟子 並びに 小女 処女等を のみ 食いし なり、.

いまの ぜんどう ほうねんらが せんちゅうむいちの あくぎも これにて そうろう なり.
今の 善導・法然等が 千中無一の 悪義も これにて 候 なり、.

これらの 3だいじは すでに ひさしくなり そうらえば いやしむ べきには あらねども もうさば しんずる ひともや ありなん.
此等の 三大事は すでに 久くなり 候へば いやしむ べきには あらねども 申さば 信ずる 人もや ありなん、.

これよりも 100せんまんのくばい しんじがたき さいだいの あくじ はんべり.
これよりも 百千万億倍・信じがたき 最大の 悪事 はんべり、.

じかくだいしは でんぎょうだいしの だい3の みでし なり しかれども.
慈覚大師は 伝教大師の 第三の 御弟子 なり しかれども.

かみ 1にんより しも ばんみんに いたるまで でんぎょうだいしには すぐれておわします ひとなりと おもいり.
上 一人より 下 万民に いたるまで 伝教大師には 勝れてをはします 人なりと をもひり、.

このひと しんごんしゅうと ほっけしゅうの じつぎを きわめさせ たまいて そうろうが しんごんは ほけきょうには すぐれたりと かかせ たまえり.
此の人 真言宗と 法華宗の 実義を 極めさせ 給いて 候が 真言は 法華経には 勝れたりと かかせ 給へり、.

しかるを えいざん 3000にんの だいしゅ にほん 1しゅうの がくしゃら いちどうの きぶくの ぎなり.
而るを 叡山 三千人の 大衆・日本 一州の 学者等・一同の 帰伏の 義なり、.

こうぼうの もんじんらは だいしの ほけきょうを けごんきょうに おとると かかせ たまえるは.
弘法の 門人等は 大師の 法華経を 華厳経に 劣ると かかせ 給えるは、.

わがかた ながらも すこし つよき よう なれども.
我がかた ながらも 少し 強き やう なれども、.

じかくだいしの しゃくを もって おもうに しんごんしゅうの ほけきょうに すぐれたる ことは いちじょうなり.
慈覚大師の 釈を もつて をもうに 真言宗の 法華経に 勝れたる ことは 一定なり、.

にほんこくにして しんごんしゅうを ほけきょうに まさるると たつるをば えいざんこそ こわき かたき なりぬ べかりつるに.
日本国にして 真言宗を 法華経に 勝るると 立つるをば 叡山こそ 強き かたき なりぬ べかりつるに
.
じかくを もって 3000にんの くちを ふさぎなば しんごんしゅうは おもう ごとし.
慈覚を もつて 三千人の 口を ふさぎなば 真言宗は をもう ごとし、.

されば とうじ だい1の かとうど じかくだいしには すぐ べからず.
されば 東寺 第一の かたうど 慈覚大師には すぐ べからず、.

→a279

b280

れいせば じょうどしゅう ぜんしゅうは よこく にては ひろまるとも.
例せば 浄土宗・禅宗は 余国 にては ひろまるとも.

にほんこくに しては えんりゃくじの ゆるされ なからんには むへんこうは ふとも かなうまじ かりしを.
日本国に しては 延暦寺の ゆるされ なからんには 無辺劫は ふとも 叶うまじ かりしを.

あんねんわじょうと もうす えんざん だい1の ことく きょうじじょうろんと もうす ふみに.
安然和尚と 申す 叡山 第一の 古徳・教時諍論と 申す 文に.

9しゅうの しょうれつを たてられたるに だい1 しんごんしゅう だい2 ぜんしゅう だい3 てんだいほっけしゅう だい4 けごんしゅうとう うんぬん.
九宗の 勝劣を 立てられたるに 第一 真言宗・第二 禅宗・第三 天台法華宗・第四 華厳宗等 云云、.

この だいみょうしゃくに ついて ぜんしゅうは にほんこくに じゅうまんして すでに ぼうこくと ならんとは するなり.
此の 大謬釈に つひて 禅宗は 日本国に 充満して すでに 亡国と ならんとは するなり.

ほうねんが ねんぶつしゅうの はやりて 1こくを うしなわんとする いんねんは えしんの おうじょうようしゅうの じょより はじまれり.
法然が 念仏宗の はやりて 一国を 失わんとする 因縁は 慧心の 往生要集の 序より はじまれり、.

ししの みの なかの むしの ししを くらうと ほとけの しるし たまうは まこと なるかなや.
師子の 身の 中の 虫の 師子を 食うと 仏の 記し 給うは まこと なるかなや。.

でんぎょうだいしは にほんこくにして 15ねんが あいだ.
伝教大師は 日本国にして 十五年が 間・.

てんだい しんごんとうを みずから みせさせ たまう しょうちの みょうごにて し なくして さとらせ たまい しかども.
天台 真言等を 自 見せさせ 給う 生知の 妙悟にて 師 なくして さとらせ 給い しかども、.

せけんの ふしんを はらさんが ために かんどに わたりて てんだい しんごんの 2しゅうを つたえ たまいし とき.
世間の 不審を はらさんが ために 漢土に 亘りて 天台 真言の 二宗を 伝へ 給いし 時.

かんどの ひとびとは ようようの ぎ あり しかども.
漢土の 人人は やうやうの 義 あり しかども.

わが こころには ほっけは しんごんに すぐれたりと おぼしめしし ゆえに.
我が 心には 法華は 真言に すぐれたりと をぼしめしし ゆへに.

しんごんしゅうの しゅうの みょうじをば けずらせ たまいて てんだいしゅうの しかん しんごんとう かかせ たまう.
真言宗の 宗の 名字をば 削らせ 給いて 天台宗の 止観・真言等 かかせ 給う、.

12ねんの ねんぶん とくどの もの 2にんを おかせ たまい.
十二年の 年分 得度の 者 二人を をかせ 給い、.

かさねて しかんいんに ほけきょう こんこうみょうきょう にんのうきょうの 3ぶを ちんごこっかの 3ぶと さだめて せんじを もうし くだし.
重ねて 止観院に 法華経・金光明経・仁王経の 三部を 鎮護国家の 三部と 定めて 宣旨を 申し 下し.

えいたい にほんこくの だい1の じゅうほう しんじ ほうけん ないじどころと あがめさせ たまいき.
永代・日本国の 第一の 重宝・神璽・宝剣・内侍所と あがめさせ 給いき、.

えいざん だい1の ざす ぎしんわじょう だい2のざす えんちょうだいし までは この ぎ そうい なし.
叡山 第一の 座主・義真和尚・第二の 座主・円澄大師 までは 此の 義 相違 なし、.

だい3の じかくだいし ごにっとう かんどに わたりて 10ねんが あいだ.
第三の 慈覚大師・御入唐・漢土に わたりて 十年が 間・.

けんみつ 2どうの しょうれつを 8かの だいとくに ならい つたう.
顕密 二道の 勝劣を 八箇の 大徳に ならひ つたう、.

また てんだいしゅうの ひとびと こうしゅう ゆいけんらに ならわせ たまい しかども.
又 天台宗の 人人・広修・惟蠲等に ならはせ 給い しかども.

こころの うちに おぼしけるは しんごんしゅうは てんだいしゅうには すぐれ たりけり.
心の 内に をぼしけるは 真言宗は 天台宗には 勝れ たりけり、.

わが し でんぎょうだいしは いまだ このことをば くわしく ならわせ たまわざりけり.
我が 師・伝教大師は いまだ 此の事をば くはしく 習せ 給わざりけり.

かんどに ひさしくも わたらせ たまわざりける ゆえに.
漢土に 久しくも わたらせ 給わざりける 故に.

この ほうもんは あらうちに おわしけるやと おぼして にほんこくに きちょうし.
此の 法門は あらうちに をはしけるやと をぼして 日本国に 帰朝し・.

えいざん とうとう しかんいんの にしに そうじいんと もうす だいこうどうを たて.
叡山・東塔・止観院の 西に 総持院と 申す 大講堂を 立て.

ごほんぞんは こんごうかいの だいにちにょらい この みまえにして だいにちきょうの ぜんむいの しょを もととして.
御本尊は 金剛界の 大日如来・此の 御前にして 大日経の 善無畏の 疏を 本として.

こんごうちょうきょうの しょ 7かん そしつちきょうの しょ 7かん いじょう 14かんを つくる.
金剛頂経の 疏 七巻・蘇悉地経の 疏 七巻・已上 十四巻を つくる、.

この しょの かんじんの しゃくに いわく.
此の疏の 肝心の 釈に 云く.

「きょうに 2しゅあり 1は けんじきょう いわく 3じょうきょうなり せぞくと しょうぎと いまだ えんゆう せざる ゆえに.
「教に 二種有り 一は 顕示教 謂く 三乗教なり 世俗と 勝義と 未だ 円融 せざる 故に、.

2は ひみつきょう いわく 1じょうきょうなり せぞくと しょうぎと いったいにして ゆうする ゆえに.
二は 秘密教 謂く 一乗教なり 世俗と 勝義と 一体にして 融する 故に、
.
ひみつきょうの なかに また 2しゅあり 1には りひみつの きょう もろもろの けごん はんにゃ ゆいま ほっけ ねはん とう なり.
秘密教の 中に 亦 二種有り 一には 理秘密の 教 諸の 華厳 般若 維摩 法華 涅槃 等 なり.

→a280

b281

ただ せぞくと しょうぎとの ふにを といて いまだ しんごん みついんの じを とかざる ゆえに.
但だ 世俗と 勝義との 不二を 説いて 未だ 真言 密印の 事を 説かざる 故に、.

2には じりぐみつきょう いわく だいにちきょう こんごうちょうきょう そしつじきょう とう なり.
二には 事理倶密教 謂く 大日教 金剛頂経 蘇悉地経 等 なり.

また せぞくと しょうぎとの ふにを とき また しんごん みついんの じを とく ゆえに」とう うんぬん.
亦 世俗と 勝義との 不二を 説き 亦 真言 密印の 事を 説く 故に」等 云云、.

しゃくの こころは ほけきょうと しんごんの 3ぶとの しょうれつを さだめさせ たまうに.
釈の 心は 法華経と 真言の 三部との 勝劣を 定めさせ 給うに.

しんごんの 3ぶきょうと ほっけとは しょせんの りは おなじく いちねんさんぜんの ほうもんなり.
真言の 三部経と 法華とは 所詮の 理は 同じく 一念三千の 法門なり、.

しかれども みついんと しんごんとうの じほうは ほけきょう かけて おわせず.
しかれども 密印と 真言等の 事法は 法華経 かけて をはせず.

ほけきょうは りひみつ しんごんの 3ぶきょうは じりくみつ なれば てんちうんでい なりと かかれたり.
法華経は 理秘密・真言の 三部経は 事理倶密 なれば 天地雲泥 なりと かかれたり、.

しかも この ふでは わたくしの しゃくには あらず.
しかも 此の 筆は 私の 釈には あらず.

ぜんむいさんぞうの だいにちきょうの しょの こころなりと おぼせども なおなお 2しゅうの しょうれつ ふしんにや ありけん.
善無畏三蔵の 大日経の 疏の 心なりと をぼせども なをなを 二宗の 勝劣 不審にや ありけん、.

はたまた たにんの うたがいを さんぜんとや おぼしけん.
はた又 他人の 疑いを さんぜんとや をぼしけん、.

だいしじかくの でんに いわく.
大師慈覚の 伝に 云く.

「だいし 2きょうの じょを つくり こうを なし おわって しんちゅう ひとり おもえらく この じょ ぶついに つうずるや いなや.
「大師 二経の 疏を 造り 功を 成し 已畢つて 心中 独り 謂らく 此の 疏 仏意に 通ずるや 否や.

もし ぶついに つうぜざれば よに るでん せじ よって ぶつぞうの まえに あんちし なぬか 7や じんじょうを ぎょうきし きしょうを ごんしゅす.
若し 仏意に 通ぜざれば 世に 流伝 せじ 仍つて 仏像の 前に 安置し 七日 七夜 深誠を 翹企し 祈請を 勤修す.

いつかの 5こうに いたって ゆめみらく しょうごに あたって にちりんを あおぎみ ゆみを もって これを いる.
五日の 五更に 至つて 夢らく 正午に 当つて 日輪を 仰ぎ 見 弓を 以て 之を 射る.

そのや にちりんに あたって にちりん そく てんどうす ゆめ さめての のち ふかく ぶついに つうだつせりと さとり ごせに つたうべし」とう うんぬん.
其の箭 日輪に 当つて 日輪 即 転動す 夢 覚めての 後 深く 仏意に 通達せりと 悟り 後世に 伝うべし」等 云云、.

じかくだいしは ほんちょうに しては でんぎょう こうぼうの りょうけを ならい きわめ.
慈覚大師は 本朝に しては 伝教・弘法の 両家を 習い きわめ.

いちょうに しては 8だいとく ならびに なんてんの ほうげつさんぞうらに 10ねんが あいだ さいだいじの ひほうを きわめさせ たまえる うえ.
異朝に しては 八大徳 並に 南天の 宝月三蔵等に 十年が 間・最大事の 秘法を きわめさせ 給える 上.

2きょうの しょを つくりおわり かさねて ほんぞんに きしょうを なすに.
二経の 疏を つくり了り 重ねて 本尊に 祈請を なすに.

ちえの や すでに ちゅうどうの にちりんに あたりて うち おどろかせ たまい.
智慧の 矢 すでに 中道の 日輪に あたりて うち をどろかせ 給い、.

かんきの あまりに にんめいてんのうに せんじを もうし そえさせ たまい.
歓喜の あまりに 仁明天王に 宣旨を 申し そへさせ 給い・.

てんだいの ざすを しんごんの かんしゅと なし.
天台の 座主を 真言の 官主と なし.

しんごんの ちんごこっかの 3ぶとて いまに 400よねんが あいだ せきがくとうまの ごとし かつごうちくいに おなじ.
真言の 鎮護国家の 三部とて 今に 四百余年が 間・碩学稲麻の ごとし 渇仰竹葦に 同じ、.

されば かんむ でんぎょうらの にほんこく こんりゅうの じとうは 1うも なく しんごんの てらと なりぬ.
されば 桓武・伝教等の 日本国・建立の 寺塔は 一宇も なく 真言の 寺と なりぬ.

くげも ぶけも いちどうに しんごんしを めして ししょうと あおぎ かんを なし てらを あづけ たまう.
公家も 武家も 一同に 真言師を 召して 師匠と あをぎ 官を なし 寺を あづけ 給ふ、.

ぶつじの もくえの かいげんくようは 8しゅう いちどうに だいにち ぶつげんの いん しんごん なり.
仏事の 木画の 開眼供養は 八宗 一同に 大日 仏眼の 印 真言 なり。.

うたがって いわく ほけきょうを しんごんに まさると もうす ひとは この しゃくをば いかがせん もちう べきか また すつ べきか.
疑つて 云く 法華経を 真言に 勝ると 申す 人は 此の 釈をば いかがせん 用う べきか 又 すつ べきか、.

こたう ほとけの みらいを さだめて いわく「ほうに よって にんに よらざれ」.
答う 仏の 未来を 定めて 云く「法に 依つて 人に 依らざれ」.

りゅじゅぼさつの いわく「しゅたらに よれるは びゃくろんなり しゅたらに よらざれば こくろんなり」.
竜樹菩薩の 云く「修多羅に 依れるは 白論なり 修多羅に 依らざれば 黒論なり」.

てんだいの いわく「また しゅたらと がっせば ろくして これを もちゆ もんなく ぎなきは しんじゅ すべからず」.
天台の 云く「復 修多羅と 合せば 録して 之を 用ゆ 文無く 義無きは 信受 すべからず」.

でんぎょうだいし いわく「ぶっせつに えひょうして くでんを しんずる こと なかれ」とう うんぬん.
伝教大師 云く「仏説に 依憑して 口伝を 信ずる こと 莫れ」等 云云、.

→a281

b282

これらの きょう ろん しゃくの ごときんば ゆめを もとには すべからず.
此等の 経 論 釈の ごときんば 夢を 本には すべからず.

ただ ついさして ほけきょうと だいにちきょうとの しょうれつを ふんみょうに ときたらん きょうろんの もんこそ たいせつに そうらわめ.
ただ ついさして 法華経と 大日経との 勝劣を 分明に 説きたらん 経論の 文こそ たいせちに 候はめ、.

ただ いん しんごん なくば もくえの ぞうの かいげんの こと これ また をこの こと なり.
但 印 真言 なくば 木画 の像の 開眼の 事・此れ 又 をこの 事 なり.

しんごんの なかりし いぜんには もくえの かいげんは なかりしか.
真言の なかりし 已前には 木画の 開眼は なかりしか、.

てんじく かんど にほんには しんごんしゅう いぜんの もくえの ぞうは あるいは いき あるいは せっぽうし あるいは おんものがたり あり.
天竺・漢土・日本には 真言宗 已前の 木画の 像は 或は 行き 或は 説法し 或は 御物言 あり、.

いん しんごんを もて ほとけを くようせしより このかた りしょうも かたがた うせたる なり.
印・真言を もて 仏を 供養せしより このかた 利生も かたがた 失たる なり、.

これは つねの ろんだんの ぎ なり.
此れは 常の 論談の 義 なり、.

この 1じに おいては ただし にちれんは ふんみょうの しょうこを よそに ひく べからず.
此の 一事に をひては 但し 日蓮は 分明の 証拠を 余所に 引く べからず.

じかくだいしの おんしゃくを あおいで しんじて そうろう なり.
慈覚大師の 御釈を 仰いで 信じて 候 なり。.

とうて いわく いかにと しんぜらるるや.
問うて 云く 何にと 信ぜらるるや、.

こたえて いわく このゆめの こんげんは しんごんは ほけんきょうに まさると つくりさだめての おんゆめ なり.
答えて 云く 此の 夢の 根源は 真言は 法華経に 勝ると 造定めての 御ゆめ なり、.

このゆめ きちむならば じかくだいしの あわさせたまうが ごとく しんごん まさるべし.
此の 夢 吉夢 ならば 慈覚大師の 合せさせ給うが ごとく 真言 勝るべし、.

ただ にちりんを いると ゆめに みたるは きちむなりと いうべきか.
但 日輪を 射ると ゆめに みたるは 吉夢なりと いうべきか、.

ないてん 5せん 7せんよかん げてん 3ぜんよかんの なかに ひを いると ゆめに みて きちむなる しょうこを うけ たまわる べし.
内典 五千 七千余巻 外典 三千余巻の 中に 日を 射ると ゆめに 見て 吉夢なる 証拠を うけ 給わる べし、.

しょうしょう これより いだしもうさん あじゃせおうは てんより つき おつると ゆめに みて ぎばだいじんに あわさせ たまいしかば.
少少 此れより 出し申さん 阿闍世王は 天より 月 落ると ゆめに みて 耆婆大臣に 合せさせ 給しかば.

だいじん あわせて いわく.
大臣 合せて 云く.

ほとけの ごにゅうめつなり しゅばつたら てんより ひ おつると ゆめに みる われと あわせて いわく ほとけの ごにゅうめつ なり.
仏の 御入滅なり 須抜多羅 天より 日 落ると ゆめに みる 我と あわせて 云く 仏の 御入滅 なり、.

しゅらは たいしゃくと かっせんの とき まづ にちがつを いたて まつる.
修羅は 帝釈と 合戦の 時 まづ 日月を いたて まつる、.

かの けつ いんの ちゅうと もうせし あくおうは つねに ひを いて みを ほろぼし くにを やぶる.
夏の 桀・殷の 紂と 申せし 悪王は 常に 日を いて 身を ほろぼし 国を やぶる、.

まやふじんは ひを はらむと ゆめに みて しったたいしを うませ たまう.
摩耶夫人は 日を はらむと ゆめに みて 悉達太子を うませ 給う、.

かるがゆえに ほとけの わらわなをば にっしゅと いう.
かるがゆへに 仏の わらわなをば 日種と いう、.

にほんこくと もうすは あまてらすおおみかみの にってんにて まします ゆえなり.
日本国と 申すは 天照太神の 日天にて まします ゆへなり、.

されば このゆめは あまてらすおおみかみ でんぎょうだいし しゃかぶつ ほけきょうを いたて まつれる やにてこそ 2ぶの しょは そうろう なれ.
されば 此のゆめは 天照太神・伝教大師・釈迦仏・法華経を いたて まつれる 矢にてこそ 二部の 疏は 候 なれ、.

にちれんは ぐちの ものなれば きょうろんも しらず.
日蓮は 愚癡の 者なれば 経論も しらず.

ただ このゆめを もって ほけきょうに しんごん すぐれたりと もうす ひとは.
但 此の 夢を もつて 法華経に 真言 すぐれたりと 申す 人は.

こんじょうには くにを ほろぼし いえを うしない ごしょうには あびじごくに いるべしとは しりて そうろう.
今生には 国を ほろぼし 家を 失ひ 後生には あび地獄に 入るべしとは しりて 候、.

いま げんしょう あるべし.
今 現証 あるべし.

にほんこくと もうことの かっせんに いっさいの しんごんしの じょうぶくを おこない そうらえば.
日本国と 蒙古との 合戦に 一切の 真言師の 調伏を 行ひ 候へば.

にほん かちて そうろう ならば しんごんは いみじかりけりと おもい そうろうなん.
日本 かちて 候 ならば 真言は いみじかりけりと おもひ 候なん、.

ただし じょうきゅうの かっせんに そこばくの しんごんしの いのり そうらいしが じょうぶく せられ たまいし ごんの たいふどのは かたせ たまい.
但し 承久の 合戦に そこばくの 真言師の いのり 候しが 調伏 せられ 給し 権の 大夫殿は かたせ 給い、.

ごとばいんは おきの くにへ みこの てんしは さどの しまじまへ じょうぶくし やりまいらせ そうらいぬ.
後鳥羽院は 隠岐の 国へ 御子の 天子は 佐渡の 嶋嶋へ 調伏し やりまいらせ 候いぬ、.

→a282

b283

けっくは やかんの なきの みに おうようなるように げんちゃくおほんにんの きょうもんに すこしも たがわず.
結句は 野干の なきの 身に をうなるやうに 還著於本人の 経文に すこしも たがはず.

えいざんの 3000にん かまくらに せめられて いちどうに したがい はてぬ.
叡山の 三千人 かまくらに せめられて 一同に したがい はてぬ、.

しかるに いまは かまくらの よ さかんなる ゆえに とうじ てんだい おんじょう 7じの しんごんしらと.
しかるに 今は かまくらの 世 さかんなる ゆへに 東寺・天台・園城・七寺の 真言師等と.

ならびに じりつを わすれたる ほっけしゅうの ほうぼうの ひとびと.
並びに 自立を わすれたる 法華宗の 謗法の 人人・.

かんとうに おち くだりて こうべを かたぶけ ひざを かがめ ようように ぶしの こころを とりて.
関東に をち くだりて 頭を かたぶけ ひざを かがめ やうやうに 武士の 心を とりて、.

しょじ しょざんの べっとうと なり ちょうりと なりて おういを うしないし あくほうを とりいだして こくどあんのんと いのれば.
諸寺・諸山の 別当と なり 長吏と なりて 王位を 失いし 悪法を とりいだして 国土安穏と いのれば、.

しょうぐんけ ならびに しょじゅうの さむらい いげは こくどの あんのん なるべき こと なんめりと うちおもいて あるほどに.
将軍家 並びに 所従の 侍 已下は 国土の 安穏 なるべき 事 なんめりと うちをもひて 有るほどに.

ほけきょうを うしなう だいかの そう  どもを もちいらるれば くに さだめて ほろびなん.
法華経を 失う 大禍の 僧 どもを 用いらるれば 国 定めて ほろびなん、.

ぼうこくの かなしさ ぼうしんの なげかしさに しんみょうを すてて この ことを あらわすべし.
亡国の かなしさ 亡身の なげかしさに 身命を すてて 此の 事を あらわすべし、.

こくしゅ よを もつべき ならば あやしと おもいて たづぬべき ところに.
国主 世を 持つべき ならば あやしと おもひて たづぬべき ところに.

ただ ざんげんの ことばのみ もちいて ようようの あだを なす.
ただ ざんげんの ことばのみ 用いて やうやうの あだを なす、.

しかるに ほけきょう しゅごの ぼんてん たいしゃく にちがつ 4てん ちじんとうは いにしえの ほうぼう をば.
而るに 法華経 守護の梵天・帝釈・日月・四天・地神等は 古の 謗法 をば.

ふしぎとは おぼせども これを しれる ひと なければ.
不思議とは をぼせども 此れを しれる 人 なければ.

1しの あくじの ごとく うちゆるして いつわり おろかなる ときも あり.
一子の 悪事の ごとく うちゆるして、いつわり をろかなる 時も あり.

また すこし つみしらする ときも あり.
又 すこし つみしらする 時も あり、.

いまは ほうぼうを もちいたる だに ふしぎ なるに まれまれ かんぎょう する ひとを かえりて あだをなす.
今は 謗法を 用いたる だに 不思議 なるに まれまれ 諌暁 する 人を かへりて あだをなす、.

1にち 2にち 1つき 2つき 1ねん 2ねんならず すうねんに およぶ.
一日 二日・一月・二月・一年・二年 ならず 数年に 及ぶ、.

かの ふぎょうぼさつの じょうもくの なんに あいしにも すぐれ かくとくびくの さつがいに およびしにも こえたり.
彼の 不軽菩薩の 杖木の 難に 値いしにも すぐれ 覚徳比丘の 殺害に 及びしにも こえたり、.

しかる あいだ ぼんしゃくの 2おう にちがつ 4てん しゅうせい ちじんとう ようように いかり たびたび いさめらるれども.
而る 間・梵釈の 二王・日月・四天・衆星・地神等 やうやうに いかり 度度 いさめらるれども・.

いよいよ あだを なすゆえに てんの おんはからいとして りんごくの しょうにんに おおせつけられて.
いよいよ あだを なすゆへに 天の 御計いとして 隣国の 聖人に をほせつけられて.

これを いましめ だいきじんを くにに いれて ひとの こころを だぼらかし じかいほんぎゃく せしむ.
此れを いましめ 大鬼神を 国に 入れて 人の 心を たぼらかし 自界反逆 せしむ、.

きっきょうに つけて きざし だいなれば なん おおかるべき ことわりにて.
吉凶に つけて 瑞 大なれば 難 多かるべき ことわりにて.

ほとけ めつご 2せん2ひゃく30よねんが あいだ いまだ いでざる だいちょうせい いまだ ふらざる おおじしん しゅったい せり.
仏 滅後・二千二百三十余年が 間 いまだ いでざる 大長星 いまだ ふらざる 大地しん 出来 せり、.

かんど にほんに ちえ すぐれ さいのう いみじき しょうにんは たびたび あり しかども.
漢土・日本に 智慧 すぐれ 才能 いみじき 聖人は 度度 あり しかども.

いまだ にちれんほど ほけきょうの かとうどして こくどに ごうてき おおく もうけたる もの なきなり.
いまだ 日蓮ほど 法華経の かたうどして 国土に 強敵 多く まうけたる 者 なきなり、.

まず がんぜんの ことをもって にちれんは えんぶだい だい1の ものと しるべし.
まづ 眼前の 事をもつて 日蓮は 閻浮提 第一の 者と しるべし、.

ぶっぽう にほんに わたって 700よねん.
仏法 日本に わたて 七百余年・.

いっさいきょうは 5せん 7せん しゅうは 8しゅう 10しゅう ちじんは とうまの ごとし ぐつうは ちくいに にたり.
一切経は 五千 七千・宗は 八宗 十宗・智人は 稲麻の ごとし 弘通は 竹葦に にたり、.

しかれども ほとけには あみだぶつ しょぶつの みょうごうには みだの みょうごうほど ひろまりて おわするは そうらわず.
しかれども 仏には 阿弥陀仏・諸仏の 名号には 弥陀の 名号ほど ひろまりて をはするは 候はず、.

→a283

b284

この みょうごうを ぐつう する ひとは えしんは おうじょうようしゅうを つくる.
此の 名号を 弘通 する 人は 慧心は 往生要集を つくる.

にほんこく 3ぶんが 1は いちどうの みだねんぶつしゃ.
日本国・三分が 一は 一同の 弥陀念仏者・.

えいかんは 10いんと おうじょうこうの しきを つくる.
永観は 十因と 往生講の 式を つくる.

ふそう 3ぶんが 2ぶんは いちどうの ねんぶつしゃ.
扶桑 三分が二分は 一同の 念仏者・.

ほうねん せんちゃくを つくる.
法然 せんちやくを つくる.

ほんちょう いちどうの ねんぶつしゃ.
本朝 一同の 念仏者、.

しかれば いまの みだの みょうごうを となうる ひとびとは 1にんが でしには あらず.
而れば 今の 弥陀の 名号を 唱うる 人人は 一人が 弟子には あらず、.

この ねんぶつと もうすは そうかんぎょう かんぎょう あみだきょうの だいめい なり.
此の 念仏と 申すは 雙観経・観経・阿弥陀経の 題名 なり.

ごんだいじょうきょうの だいもくの こうせんるふ するは じつだいじょうきょうの だいもくの るふ せんずる じょに あらずや.
権大乗経の 題目の 広宣流布 するは 実大乗経の 題目の 流布 せんずる 序に あらずや、.

こころ あらんひとは これを すいしぬべし.
心 あらん人は 此れを すひしぬべし、.

ごんきょう るふ せば じっきょう るふ すべし.
権経 流布 せば 実経 流布 すべし.

ごんきょうの だいもく るふ せば じっきょうの だいもくも また るふ すべし.
権経の 題目 流布 せば 実経の 題目も 又 流布 すべし、.

きんめいより とうていに いたるまで 700よねん いまだ きかず いまだ みず.
欽明より 当帝に いたるまで 七百余年 いまだ きかず いまだ 見ず.

なんみょうほうれんげきょうと となえよと たにんを すすめ われと となえたる ちじん なし.
南無妙法蓮華経と 唱えよと 他人を すすめ 我と 唱えたる 智人 なし、.

ひ いで ぬれば ほし かくる けんのう きたれば ぐおう ほろぶ.
日 出で ぬれば 星 かくる 賢王 来れば 愚王 ほろぶ.

じっきょう るふ せば ごんきょうの とどまり.
実経 流布 せば 権経の とどまり.

ちじん なんみょうほうれんげきょうと となえば ぐにんの これに したがわん こと かげと みと こえと ひびきとの ごとくならん .
智人・南無妙法蓮華経と 唱えば 愚人の 此れに 随はん こと 影と 身と 声と 響との ごとくならん、.

にちれんは にほん だい1の ほけきょうの ぎょうじゃなる こと あえて うたがい なし.
日蓮は 日本 第一の 法華経の 行者なる 事 あえて 疑ひ なし、.

これを もって すいせよ.
これを もつて すいせよ.

がっし かんどにも いちえんぶだいの うちにも かたを ならぶる ものは ある べからず.
漢土 月支にも 一閻浮提の 内にも 肩を ならぶる 者は 有る べからず。.
 
とうて いわく しょうかの おおじしん ぶんえいの だいすいせいは いかなる ことに よって しゅったい せるや.
問うて 云く 正嘉の 大地しん 文永の 大彗星は いかなる 事に よつて 出来 せるや.

こたえて いわく てんだい いわく「ちじんは きを しり じゃは みずから じゃを しる」とう うんぬん.
答えて 云く 天台 云く「智人は 起を 知り 蛇は 自ら 蛇を 識る」等 云云、.

とうて いわく こころ いかん.
問て 云く 心 いかん、.

こたえて いわく じょうぎょうぼさつの だいちより しゅつげんし たまいたりしをば.
答えて 云く 上行菩薩の 大地より 出現し 給いたりしをば.

みろくぼさつ もんじゅしりぼさつ かんぜおんぼさつ やくおうぼさつとうの 41ぽんの むみょうを だんぜし ひとびとも.
弥勒菩薩・文殊師利菩薩・観世音菩薩・薬王菩薩等の 四十一品の 無明を 断ぜし 人人も.

がんぽんの むみょうを だんぜざれば ぐにんと いわれて じゅりょうほんの なんみょうほうれんげきょうの まっぽうに るふせんずる ゆえに.
元品の 無明を 断ぜざれば 愚人と いはれて 寿量品の 南無妙法蓮華経の 末法に 流布せんずる ゆへに、.

この ぼさつを めし いだされたるとは しらざりしと いう ことなり.
此の 菩薩を 召し 出されたるとは しらざりしと いう 事なり、.

とうて いわく にほん かんど がっしの なかに この ことを しる ひと あるべしや.
問うて 云く 日本 漢土 月支の 中に 此の 事を 知る 人 あるべしや、.

こたえて いわく けんじを だんじんし 41ぽんの むみょうを つくせる だいぼさつ だにも この ことを しらせ たまわず.
答えて 云く 見思を 断尽し 四十一品の 無明を 尽せる 大菩薩 だにも 此の 事を しらせ 給はず.

いかに いわうや いちごうの わくをも だんぜぬ ものどもの この ことを しるべきか.
いかに いわうや 一毫の 惑をも 断ぜぬ 者どもの 此の 事を 知るべきか、.

とうて いわく ちじん なくば いかでか これを たいじすべき.
問うて 云く 智人 なくば いかでか 此れを 対治すべき.

れいせば やまいの しょきを しらぬ ひとの びょうにんを じすれば ひと かならず しす.
例せば 病の 所起を 知らぬ 人の 病人を 治すれば 人 必ず 死す、.

この わざわいの こんげんを しらぬ ひとびとが いのりをなさば くに まさに ほろびん こと うたがい なきか.
此の 災の 根源を 知らぬ 人人が いのりを なさば 国 まさに 亡びん 事 疑い なきか、.

あら あさましや あら あさましや.
あら あさましや あら あさましや、.

こたえて いわく じゃは 7かが うちの おおあめを しり からすは ねんちゅうの きっきょうを しる.
答えて 云く 蛇は 七日が 内の 大雨を しり 烏は 年中の 吉凶を しる.

これ すなわち だいりゅうの しょじゅう また くがくの ゆえか.
此れ 則ち 大竜の 所従 又 久学の ゆへか、.

→a284

b285

にちれんは ぼんぷ なり この ことを しる べからずと いえども なんじらに ほぼ これを さとさん.
日蓮は 凡夫 なり、此の 事を しる べからずと いえども 汝等に ほぼ これを さとさん、.

かの しゅうの へいおうの とき かぶろにして はだか なる もの しゅつげんせしを しんゆうと いいし もの うらなって いわく.
彼の 周の 平王の 時・禿にして 裸なる 者 出現せしを 辛有と いゐし 者 うらなつて 云く.

100ねんが うちに よ ほろびん.
百年が 内に 世 ほろびん.

おなじき ゆうおうの とき さんせん くづれ だいち ふるいき はくようと いう もの かんがえて いわく.
同じき 幽王の 時 山川 くづれ 大地 ふるひき 白陽と 云う 者 勘えて いはく.

12ねんの うちに だいおう ことに あわせ たまうべし.
十二年の 内に 大王 事に 値せ 給うべし、.

いまの おおじしん だいちょうせいとうは こくおう にちれんを にくみて ぼうこくの ほうたる ぜんしゅうと ねんぶつしゃと しんごんしを かとうど せらるれば.
今の 大地震・大長星等は 国王・日蓮を にくみて 亡国の 法たる 禅宗と 念仏者と 真言師を かたふど せらるれば.

てん いからせ たまいて いださせ たまう ところの さいなん なり.
天 いからせ 給いて いださせ 給う ところの 災難 なり。.

とうて いわく なにを もってか これを しんぜん.
問うて 云く なにを もつてか 此れを 信ぜん、.

こたえて いわく さいしょうおうきょうに いわく.
答えて 云く 最勝王経に 云く.

「あくにんを あいぎょうし ぜんにんを ちばつするに よるが ゆえに せいしゅく および ふうう みな ときを もって おこなわれず」とう うんぬん.
「悪人を 愛敬し 善人を 治罰するに 由るが 故に 星宿 及び 風雨 皆 時を 以て 行われず」等 云云、.

この きょうもんの ごときんば このくにに あくにんの あるを おうしん これを きえす ということ うたがいなし.
此の 経文の ごときんば 此国に 悪人の あるを 王臣 此れを 帰依す という事 疑いなし、.

また この くにに ちじんあり こくしゅ これを にくみて あだす という ことも また うたがいなし.
又 此の 国に 智人あり 国主 此れを にくみて あだす という 事も 又 疑いなし、.

また いわく「33てんの しゅ みな ふんぬの こころを しょうじ へんげ りゅうせい おち 2のひ ぐじに いで たほうの おんぞく きたりて くにびと そうらんに あわん」とう うんぬん.
又 云く「三十三天の 衆 咸 忿怒の 心を 生じ 変怪 流星 堕ち 二の日 倶時に 出で 他方の 怨賊 来りて 国人 喪乱に 遭わん」等 云云、.

すでに このくにに てんぺんあり ちようあり たこくより これを せむ.
すでに 此の 国に 天変あり 地夭あり 他国より 此れを せむ.

33てんの おんいかり あること また うたがい なきか.
三十三天の 御いかり 有こと 又 疑い なきか、.

にんのうきょうに いわく.
仁王経に 云く.

「もろもろの あくびく おおく みょうりを もとめ こくおう たいし おうじの まえに おいて みずから はぶっぽうの いんねん はこくの いんねんを とく そのおう わきまえずして しんじて このごを きく」とう うんぬん.
「諸の 悪比丘 多く 名利を 求め 国王 太子 王子の 前に 於て 自ら 破仏法の 因縁 破国の 因縁を 説く 其王 別ずして 信じて 此語を 聴く」等 云云、.

また いわく.
又 云く.

「にちがつ どを うしない じせつ ほんぎゃくし あるいは しゃくにち いで あるいは こくにち いで 2 3 4 5のひ いで あるいは にっしょくして ひかりなく あるいは にちりん 1じゅう 2じゅう 4 5じゅうりん げんず」とう うんぬん.
「日月 度を 失い 時節 反逆し 或は 赤日 出で 或は 黒日 出で 二 三 四 五の日 出で 或は 日蝕して 光 無く 或は 日輪 一重 二重 四 五重輪 現ず」等 云云、.

もんの こころは あくびくら くにに じゅうまん して.
文の 心は 悪比丘等・国に 充満 して.

こくおう たいし おうじらを たぼらかして はぶっぽう はこくの いんねんを とかば.
国王・太子・王子等を たぼらかして 破仏法・破国の 因縁を とかば.

その くにの おうら このひとに たぼらかされて おぼすよう.
其の 国の 王等 此の 人に たぼらかされて をぼすやう、.

この ほうこそ じぶっぽうの いんねん じこくの いんねんと おもい この ことばを おさめて おこなう ならば.
此の 法こそ 持仏法の 因縁・持国の 因縁と をもひ 此の 言を をさめて をこなう ならば.

にちがつに へんあり おおかぜと おおあめと だいかとう しゅったいし つぎには ないぞくと もうして しんるい より だいひょうらん おこり.
日月に 変あり大 風と 大雨と 大火等 出来し 次には 内賊と 申して 親類 より 大兵乱 おこり.

わが かとうど しぬべき ものをば みな うち うしないて のちには たこくに せめられて.
我が かたうど しぬべき 者をば 皆 打ち 失いて 後には 他国に せめられて.

あるいは じさつし あるいは いけどりに せられて あるいは こうにんと なるべし.
或は 自殺し 或は いけどりに せられて 或は 降人と なるべし.

これ ひとえに ぶっぽうを ほろぼし くにを ほろぼす ゆえ なり.
是れ 偏に 仏法を ほろぼし 国を ほろぼす 故 なり、.

しゅごきょうに いわく.
守護経に 云く.

「かの しゃかむににょらい しょうの きょうほうは いっさいの てんま げどう あくにん 5つうの しんせん みな ないし しょうぶんをも はえせず.
「彼の 釈迦牟尼如来 所有の 教法は 一切の 天魔 外道 悪人 五通の 神仙 皆 乃至 少分をも 破壊せず.

しかるに この みょうそうの もろもろの あくしゃもん みな ことごとく きめつ して あまりあること なからしむ.
而るに 此の 名相の 諸の 悪沙門 皆 悉く 毀滅 して 余り 有ること 無からしむ.

しゅみせんを たとい 3000かいの なかの そうもくを つくして たきぎと なし ちょうじに ふんしょうすとも いちごうも そんすること なし.
須弥山を 仮使 三千界の 中の 草木を 尽して 薪と 為し 長時に 焚焼すとも 一毫も 損すること 無し.

もし ごうか おこりて ひ うちより しょうじ しゅゆも しょうめつ せんには かいじん をも あますなきが ごとし」とう うんぬん.
若し 劫火 起りて 火 内従り 生じ 須臾も 焼滅 せんには 灰燼 をも 余す 無きが 如し」等 云云、.

→a285

b286

れんげめんきょうに いわく.
蓮華面経に 云く.

「ほとけ あなんに つげたまわく たとえば ししの みょう じゅうせんに.
「仏 阿難に 告わく 譬えば 師子の 命 終せんに.

もしは くう もしは ち もしは みず もしは りく しょうの しゅじょう あえて.
若しは 空 若しは 地 若しは 水 若しは 陸 所有の 衆生 敢て.

ししの みの にくを くわず ただ しし みずから もろもろの むしを しょうじて みずから ししの にくを くらうが ごとし.
師子の 身の 宍を 食わず 唯 師子 自ら 諸の 虫を 生じて 自ら 師子の 宍を 食うが 如し.

あなん わが この ぶっぽうは よの よく やぶるに あらず.
阿難 我が 之の 仏法は 余の 能く 壊るに 非ず.

それ わが ほうの なかの もろもろの あくびく わが 3だいあそぎこう しゃくぎょう ごんくし あつむる ところの ぶっぽうを やぶらん」とう うんぬん.
是れ 我 法の 中の 諸の 悪比丘 我が 三大阿僧祇劫 積行 勤苦し 集むる 所の 仏法を 破らん」等 云云、.

きょうもんの こころは かこの かしょうぶつ しゃかにょらいの まっぽうの ことを きりきおうに かたらせ たまい.
経文の 心は 過去の 迦葉仏 釈迦如来の 末法の事を 訖哩枳王に かたらせ 給い.

しゃかにょらいの ぶっぽうをば いかなる ものが うしなう べき.
釈迦如来の 仏法をば いかなる ものが うしなう べき、.

だいぞくおうの 5てんの どうしゃを やき はらい.
大族王の 五天の 堂舎を 焼き 払い.

16だいこくの そうにを ころせし かんどの ぶそうこうていの 9こくの じとう 4せん600よしょを しょうめつ せしめ.
十六大国の 僧尼を 殺せし 漢土の 武宗皇帝の 九国の 寺塔 四千六百余所を 消滅 せしめ.

そうに 26まん500にんを げんぞくせし とうの ごとくなる あくにんらは しゃかの ぶっぽうをば うしなう べからず.
僧尼 二十六万五百人を 還俗せし 等の ごとくなる 悪人等は 釈迦の 仏法をば 失う べからず、.

3ねを みに まとい 1ぱつを くびにかけ 8まんほうぞうを むねにうかべ 12ぶきょうを くちに ずうせん そうりょが かの ぶっぽうを うしなう べし.
三衣を 身に まとひ 一鉢を 頚にかけ 八万法蔵を 胸に うかべ 十二部経を 口に ずうせん 僧侶が 彼の 仏法を 失う べし、.

たとえば しゅみせんは こがねの やま なり.
譬へば 須弥山は 金の 山 なり.

3ぜんだいせんせかいの そうもくを もって 4てん 6よくに じゅうまんして つみこめて.
三千大千世界の 草木を もつて 四天 六欲に 充満して つみこめて.

1ねん 2ねん ひゃくせんまんのくねんが あいだ やくとも いちぶんも そんず べからず.
一年 二年 百千万億年が 間 やくとも 一分も 損ず べからず、.

しかるを ごうか おこらん とき しゅみの ねより まめ ばかりの ひ いでて しゅみせんを やく のみならず 3ぜんだいせんせかいを やき うしなうべし.
而るを 劫火 をこらん 時 須弥の 根より 豆 計りの 火 いでて 須弥山を やく のみならず 三千大千世界を やき 失うべし、.

もし ぶっきの ごとくならば 10しゅう 8しゅう ないてんの そうらが ぶっきょうの しゅみせんをば やき はらう べきにや.
若し 仏記の ごとくならば 十宗・八宗・内典 の僧等が 仏教の 須弥山をば 焼き 払う べきにや、.

しょうじょうの くしゃ じょうじつ りつそうらが だいじょうを そねむ むねの しんには ほのお なり.
小乗の 倶舎・成実・律僧等が 大乗を そねむ 胸の 瞋恚は 炎 なり.

しんごんの ぜんむい ぜんしゅうの さんがいら じょうどしゅうの ぜんどうらは ぶっきょうの ししの にくより しゅったいせる いなむしの びく なり.
真言の 善無畏・禅宗の 三階等・浄土宗の 善導等は 仏教の 師子の 肉より 出来せる 蝗虫の 比丘 なり、.

でんぎょうだいしは 3ろん ほっそう けごんとうの にほんの せきとくとうを 6ちゅうと かかせ たまえり.
伝教大師は 三論・法相・華厳等の 日本の 碩徳等を 六虫と かかせ 給へり、.

にちれんは しんごん ぜんしゅう じょうどとうの がんそを 3ちゅうと なづく.
日蓮は 真言・禅宗・浄土等の 元祖を 三虫と なづく、.

また てんだいしゅうの じかく あんねん えしんらは ほけきょう でんぎょうだいしの ししの みの なかの 3ちゅう なり.
又 天台宗の 慈覚・安然・慧心等は 法華経・伝教大師の 師子の 身の 中の 三虫 なり。.

これらの だいほうぼうの こんげんを ただす にちれんに あだを なせば.
此等の 大謗法の 根源を ただす 日蓮に あだを なせば.

てんじんも おしみ ちぎも いからせ たまいて さいようも おおいに おこる なり.
天神も をしみ 地祇も いからせ 給いて 災夭も 大に 起る なり、.

されば こころうべし.
されば 心うべし.

いちえんぶだい だい1の だいじを もうす ゆえに さいだい1の ずいそう これ おこれり.
一閻浮提 第一の 大事を 申す ゆへに 最第一の 瑞相 此れ をこれり、.

あわれなる かなや なげかしき かなや にほんこくの ひと みな むけんだいじょうに おちん ことよ.
あわれなる かなや・なげかしき かなや 日本国の 人 皆 無間大城に 堕ちむ 事よ、

よろこばしき かなや たのしき かなや ふしょうの みとして このたび しんでんに ぶっしゅを うえたる.
悦しき かなや・楽 かなや 不肖の 身として 今度 心田に 仏種を うえたる、.

いまにしも みよ だいもうここく すうまんそうの へいせんを うかべて にほんを せめば.
いまにしも みよ 大蒙古国・数万艘の 兵船を うかべて 日本を せめば.

かみ 1にんより しも ばんみんに いたるまで いっさいの ぶつじ いっさいの しんじをば なげすてて.
上 一人より 下 万民に いたるまで 一切の 仏寺 一切の 神寺をば なげすてて.

おのおの こえを つるべて なんみょうほうれんげきょう なんみょうほうれんげきょうと となえ たなごころを あわせて たすけ たまえ.
各各 声を つるべて 南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と 唱え 掌を 合せて たすけ 給え、.

にちれんの ごぼう にちれんの ごぼうと さけび そうらわんずる にや.
日蓮の 御房・日蓮の 御房と さけび 候はんずる にや、.

→a286

b287

れいせば がっしの いう だいぞくおうは げんにちおうに たなごころを あわせ にほんの むねもりは かじわらを うやまう.
例せば 月支の いう 大族王は 幻日王に 掌を あはせ 日本の 宗盛は かぢわらを うやまう、.

だいまんの ものは てきに したがう という この ことわり なり.
大慢の ものは 敵に 随うと いう・この ことわり なり、.

かの きょうき だいまんの びくらは はじめには じょうもくを ととのえて ふぎょうぼさつを うち しかども のちには たなごころを あわせて とがを くゆ.
彼の 軽毀 大慢の 比丘等は 始めには 杖木を ととのへて 不軽菩薩を 打ち しかども 後には 掌を あはせて 失を くゆ、.

だいばだったは しゃくそんの おんみに ちを いだししかども りんじゅうの ときには なむと となえたりき.
提婆達多は 釈尊の 御身に 血を いだし しかども 臨終の 時には 南無と 唱えたりき、.

ほとけと だに もうしたり しかば じごくには おつ べからざりしを.
仏と だに 申したり しかば 地獄には 堕つ べからざりしを.

ごう ふかくして ただ なむと のみ となえて ぶつは いわず.
業 ふかくして 但 南無と のみ となへて 仏とは いはず、.

いま にほんこくの こうそうらも なむにちれんしょうにんと となえんとすとも なむ ばかりにてや あらんずらん.
今 日本国の 高僧等も 南無日蓮聖人と となえんとすとも 南無 計りにてや あらんずらん.

ふびん ふびん.
ふびん ふびん。.

げてんに いわく みぼうを しるを しょうにんと いう.
外典に 曰く 未萠を しるを 聖人と いう.

ないてんに いわく さんぜを しるを しょうにんと いう.
内典に 云く 三世を 知るを 聖人と いう.

よに さんどの こうみょう あり.
余に 三度の かうみよう あり.

1には いにし ぶんおう がんねん たいさい かのえさる 7がつ 16にちに りっしょうあんこくろんを さいみょうじどのに そうし たてまつりし とき.
一には 去し 文応 元年 太歳 庚申 七月 十六日に 立正安国論を 最明寺殿に 奏し たてまつりし 時.

やどやの にゅうどうに むかって いわく.
宿谷の 入道に 向つて 云く.

ぜんしゅうと ねんぶつしゅうとを うしない たまうべしと もうさせ たまえ.
禅宗と 念仏宗とを 失い 給うべしと 申させ 給へ.

この ことを おんもちい なきならば この いちもんより こと おこりて たこくに せめられさせ たまうべし.
此の 事を 御用い なきならば 此の 一門より 事 をこりて 他国に せめられさせ 給うべし、.

2には いにし ぶんえい 8ねん 9がつ 12にち さるの ときに へいのさえもんのじょうに むかって いわく.
二には 去し 文永 八年 九月 十二日 申の 時に 平左衛門尉に 向つて 云く.

にちれんは にほんこくの とうりょう なり よを うしなうは にほんの はしらを たおすなり.
日蓮は 日本国の 棟梁 なり 予を 失なうは 日本国の 柱橦を 倒すなり、.

ただいまに じかいほんぎゃくなんとて どしうちして たこくしんぴつなん とて.
只今に 自界反逆難とて どしうちして 他国侵逼難 とて.

このくにの ひとびと たこくに うち ころさる のみならず おおく いけどりに せらるべし.
此の国の 人人・他国に 打ち 殺さる のみならず 多く いけどりに せらるべし、.

けんちょうじ じゅふくじ ごくらいじ だいぶつ ちょうらくじとうの いっさいの ねんぶつしゃ ぜんそうらが じとうをば やきはらいて.
建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の 一切の 念仏者・禅僧等が 寺塔をば やきはらいて.

かれらが くびを ゆいのはまにて きらずば にほんこく かならず ほろぶべしと もうし そうらい おわんぬ.
彼等が 頚を ゆひのはまにて 切らずば 日本国 必ず ほろぶべしと 申し 候 了ぬ、.

だい3には こぞ ぶんえい 11ねん 4がつ 8か さえもんのじょうに かたって いわく.
第三には 去年 文永 十一年 四月 八日 左衛門尉に 語つて 云く、.

おうちに うまれたれば みをば したがえられ たてまつる ようなりとも こころをば したがえられ たてまつる べからず.
王地に 生れたれば 身をば 随えられ たてまつる やうなりとも 心をば 随えられ たてまつる べからず.

ねんぶつの むけんごく ぜんの てんまの しょいなる ことは うたがい なし.
念仏の 無間獄・禅の 天魔の 所為なる 事は 疑い なし、.

ことに しんごんしゅうが この こくどの おおいなる わざわい にては そうろう なり.
殊に 真言宗が 此の 国土の 大なる わざはひ にては 候 なり.

だいもうこを じょうぶくせん こと しんごんしには おおせ つけられる べからず.
大蒙古を 調伏せん 事・真言師には 仰せ 付けらる べからず.

もし だいじを しんごんし じょうぶく するならば いよいよ いそいで この くに ほろぶべしと もうせ しかば.
若し 大事を 真言師・調伏 するならば いよいよ いそいで 此の 国 ほろぶべしと 申せ しかば.

よりつな とうて いわく いつごろ よせ そうろう べき.
頼綱 問うて 云く いつごろ よせ 候 べき、.

よ いわく きょうもんには いつとは みえ そうらわねども てんの みけしき いかり すくなからず.
予 言く 経文には いつとは みへ 候はねども 天の 御気色 いかり すくなからず・.

きゅうに みえて そうろう よも ことしは すごし そうらわじと かたり たりき.
きうに 見へて 候 よも 今年は すごし 候はじと 語り たりき、.

→287

b288

この 3つの だいじは にちれんが もうしたるには あらず.
此の 三つの 大事は 日蓮が 申したるには あらず.

ただ ひとえに しゃかにょらいの おんたましい わがみに いりかわせ たまいけるにや.
只 偏に 釈迦如来の 御神・我身に 入りかわせ 給いけるにや.

わが み ながらも よろこび みに あまる ほけきょうの いちねんさんぜんと もうす だいじの ほうもんは これなり.
我が 身 ながらも 悦び 身に あまる 法華経の 一念三千と 申す 大事の 法門は これなり、.

きょうに しょいしょほうにょうぜそうと もうすは なにごとぞ.
経に 云く 所謂諸法如是相と 申すは 何事ぞ.

じゅうにょぜの はじめの そうにょぜが だい1の だいじにてそうらえば ほとけは よに いでさせ たまう.
十如是の 始の 相如是が 第一の 大事にて 候へば 仏は 世に いでさせ 給う、.

ちじんは きを しる じゃ みずから じゃを しるとは これなり.
智人は 起を しる 蛇 みづから 蛇を しるとは これなり、.

しゅる あつまりて たいかいと なる みじん つもりて しゅみせんと なれり.
衆流 あつまりて 大海と なる 微塵 つもりて 須弥山と なれり、.

にちれんが ほけきょうを しんじ はじめしは にほんこくには 1たい 1みじんの ごとし.
日蓮が 法華経を 信じ 始めしは 日本国には 一渧・一微塵の ごとし、.

ほけきょうを 2にん 3にん 10にん 100せんまんのくにん となえ つたうるほど ならば みょうかくの しゅみせんと もなり.
法華経を 二人・三人・十人・百千万億人・唱え 伝うるほど ならば 妙覚の 須弥山とも なり.

だいねはんの たいかいとも なるべし.
大涅槃の 大海とも なるべし.

ほとけに なる みちは これより ほかに また もとむる こと なかれ .
仏になる 道は 此れより ほかに 又 もとむる 事 なかれ。.

とうて いわく.
問うて 云く.

だい2の ぶんえい 8ねん 9がつ 12にちの ごかんきの ときは いかにとして われを そんせば じたの いくさ おこるべしとは しり たまうや.
第二の 文永 八年 九月 十二日の 御勘気の 時は いかにとして 我を そんせば 自他の いくさ をこるべしとは しり 給うや、.

こたう だいしゅっきょう 50に いわく.
答う 大集経 五十に 云く.

「もし また もろもろの せつりこくおう もろもろの ひほうを なし せそんの しょうもんの でしを のうらんし もしは もって きめし とうじょうをもて ちょうしゃくし.
「若し 復 諸の 刹利国王 諸の 非法を 作し 世尊の 声聞の 弟子を 悩乱し 若しは 以て 毀罵し 刀杖を もて 打斫し.

および えはつ しゅじゅの しぐを うばい もしは たの きゅうせに るなんを なすもの あらば われら かれをして じねんに にわかに たほうの おんてきを おこさしめ.
及び 衣鉢 種種の 資具を 奪い 若しは 他の 給施に留 難を 作す者 有らば 我等 彼をして 自然に 卒に 他方の 怨敵を 起さしめ.

および じかいの こくどにも また へい おこり きえき ききん ひじの ふうう とうじょう ごんしょう きぼう せしめ.
及び 自界の 国土にも 亦 兵 起り 飢疫 飢饉 非時の風雨 闘諍 言訟 譏謗 せしめ、.

また その おうを して ひさしからずして また まさに おのれが くにを もうしつ せしむべし」とう うんぬん.
又 其の 王を して 久しからずして 復 当に 己れが 国を 亡失 せしむべし」等云云、.

それ しょきょうに しょもん おおしと いえども この きょうもんは みに あたり ときに のぞんで ことに とうとく おぼうる ゆえに これを せんし いだす.
夫れ 諸経に 諸文 多しと いえども 此の 経文は 身に あたり 時に のぞんで 殊に 尊く をぼうる ゆへに これを せんし いだす、.

この きょうもんに われらとは ぼんのうと たいしゃくと だい6てんの まおうと にちがつと 4てんらの さんがいの いっさいの てんりゅう とう なり.
此の 経文に 我等とは 梵王と 帝釈と 第六天の 魔王と 日月と 四天等の 三界の 一切の 天竜 等 なり、.

これらの じょうしゅ ぶつぜんに けいして ちかって いわく.
此等の 上主・仏前に 詣して 誓つて 云く.

ほとけの めつご しょうほう ぞうほう まつだいの なかに しょうほうを ぎょうぜん ものを じゃほうの びくらが こくしゅに うったえば.
仏の 滅後・正法・像法・末代の 中に 正法を 行ぜん 者を 邪法の 比丘等が 国主に うつたへば.

おうに ちかき もの おうに こころ よせなる もの わが たっとしと おもうものの いうこと なれば りふじんに ぜひを たださず.
王に 近き もの 王に 心 よせなる 者・我が たつとしと をもう者の いうこと なれば 理不尽に 是非を 糾さず・.

かの ちじんを さんざんと はじに よばせ なんどせば その ゆえ ともなく.
彼の 智人を さんざんと はぢにを よばせ なんどせば、其の 故 ともなく.

その くに にわかに だいひょうらん しゅつげんし のちには たこくに せめらるべし.
其の 国に にわかに 大兵乱・ 出現し 後には 他国に せめらるべし.

その こくしゅも うせ そのくにも ほろびなんずと とかれて そうろう.
其の 国主も うせ 其の 国も ほろびなんずと とかれて 候、.

いたひと かゆきとは これなり.
いたひと かゆきとは これなり、.

よが みには こんじょうには させる とがなし.
予が 身には 今生には させる 失なし.

ただ くにを たすけんがため しょうごくの おんを ほうぜんと もうせしを おんもちい なからんこそ ほんいに あらざるに.
但 国を たすけんがため 生国の 恩を ほうぜんと 申せしを 御用い なからんこそ 本意に あらざるに、.

あまさえ めし いだして ほけきょうの だい5の まきを かいちゅう せるを とりいだして さんざんと さいなみ.
あまさへ 召し 出して 法華経の 第五の 巻を 懐中 せるを とりいだして さんざんと さいなみ、.

けっくは こうじを わたし なんど せしかば もうしたりし なり.
結句は こうぢを わたし なんど せしかば 申したりし なり、.

→a288

b289

にちがつ てんに しょし たまい ながら にちれんが だいなんに あうを このたび かわらせ たまわずば.
日月 天に 処し 給い ながら 日蓮が 大難に あうを 今度 かわらせ 給はずば.

ひとつには にちれんが ほけきょうの ぎょうじゃ ならざるか たちまちに じゃけんを あらたむべし.
一つには 日蓮が 法華経の 行者 ならざるか 忽に 邪見を あらたむべし、.

もし にちれん ほけきょうの ぎょうじゃ ならば たちまちに くにに しるしを みせ たまえ.
若し 日蓮・法華経の 行者 ならば 忽に 国に しるしを 見せ 給へ
.
もし しからずば いまの にちがつ とうは しゃか たほう じっぽうの ほとけを たぶらかし たてまつる だいもうごの ひとなり.
若し しからずば 今の 日月 等は 釈迦・多宝・十方の 仏を たぶらかし 奉る 大妄語の 人なり、.

だいばが こおうざい くぎゃりが だいもうごにも 100せんまんのくばい すぎさせ たまえる だいもうごの てんなりと.
提婆が 虚誑罪・倶伽利が 大妄語にも 百千万億倍 すぎさせ 給へる 大妄語の 天なりと.

こえを あげて もうせしかば たちまちに しゅったいせる じかいほんぎゃくなん なり.
声を あげて 申せしかば 忽に 出来せる 自界反逆難 なり、.

されば こくど いたく みだれば わがみは いうに かいなき ぼんぷ なれども.
されば 国土 いたく みだれば 我身は いうに かひなき 凡夫 なれども.

おんきょうを たもち まいらせ そうろう ぶんざいは とうせいには にほんだい1の だいにんなりと もうすなり.
御経を 持ち まいらせ 候 分斉は 当世には 日本 第一の 大人なりと 申すなり。.

とうて いわく まんぼんのうは 7まん 9まん 8まんあり.
問うて 云く 慢煩悩は七慢・九慢・八慢あり.

なんじが だいまんは ぶっきょうに あかす ところの だいまんにも 100せんまんのくばい すぐれたり.
汝が 大慢は 仏教に 明す ところの 大慢にも 百千万億倍 すぐれたり、.

かの とっこうろんじは みろくぼさつを れいせず だいまんばらもんは 4しょうを ざと せり.
彼の 徳光論師は 弥勒菩薩を 礼せず・大慢婆羅門は 四聖を 座と せり、.

だいてんは ぼんぷにして あらかんと なのる むくろんじが 5てん だい1と いいし.
大天は 凡夫にして 阿羅漢と なのる・無垢論師が 五天 第一と いゐし、.

これらは みな あびに おちぬ むけんの ざいにん なり.
此等は 皆 阿鼻に 堕ちぬ 無間の 罪人 なり.

なんじ いかでか いちえんぶだい だい1の ちじんと なのれる じごくに おちざるべしや.
汝 いかでか 一閻浮提 第一の 智人と なのれる 地獄に 堕ちざるべしや.

おそろし おそろし.
おそろし おそろし、.

こたえて いわく なんじは 7まん 9まん 8まんらをば しれりや.
答えて 云く 汝は 七慢・九慢・八慢等をば しれりや.

だいかくせそんは さんがい だい1と なのらせ たまう.
大覚世尊は 三界 第一と なのらせ 給う.

いっさいの げどうが いわく ただいま てんに ばっせらるべし だいち われて いり なんと.
一切の 外道が 云く 只今 天に 罰せらるべし 大地 われて 入り なんと、.

にほんこくの 7じ 300よにんが いわく.
日本国の 七寺・三百余人が 云く.

さいちょうほっしは だいてんが そせいか てっぷくが さいたんか とう うんぬん.
最澄法師は 大天が 蘇生か 鉄腹が 再誕か 等 云云、.

しかりと いえども てんも ばっせず かえて さゆうを しゅごし ちも われず こんごうの ごとし.
而りと いえども 天も 罰せず かへて 左右を 守護し 地も われず 金剛の ごとし、.

でんぎょうだいしは えいざんを たて いっさいしゅじょうの がんもくと なる.
伝教大師は 叡山を 立て 一切衆生の 眼目と なる.

けっく 7だいじは おちて でしと なり しょこくは だんなと なる.
結句 七大寺は 落ちて 弟子と なり 諸国は 檀那と なる、.

されば げんに すぐれたるを すぐれたりと いうことは まんに にて だいくどく なりけるか.
されば 現に 勝れたるを 勝れたりと いう事は 慢に にて 大功徳 なりけるか、.

でんぎょうだいし いわく.
伝教大師 云く.

「てんだいほっけしゅうの しょしゅうに すぐれたるは しょえの きょうに よるが ゆえに じさん きた ならず」とう うんぬん.
「天台法華宗の 諸宗に 勝れたるは 所依の 経に 拠るが 故に 自讃 毀他 ならず」等 云云.

ほけきょう だい7に いわく.
法華経 第七に 云く.

「しゅざんの なかに しゅみせん これ だい1なり この ほけきょうも またまた かくの ごとし しょきょうの なかに おいて もっとも これ そのうえ なり」とう うんぬん.
「衆山の 中に 須弥山 これ 第一なり 此の 法華経も 亦復 かくの 如し 諸経の 中に 於て 最も これ 其の上 なり」等 云云、.

この きょうもんは いせつの けごん はんにゃ だいにちきょうとう こんせつの むりょうぎきょう.
此の 経文は 已説の 華厳・般若・大日経等、今説の 無量義経、.

とうせつの ねはんぎょうとうの 5せん 7せん がっし りゅうぐう してんのう とうりてん にちげつの なかの いっさいきょう.
当説の 涅槃経等の 五千・七千・月支・竜宮・四王天・忉利天・日月の 中の 一切経・.

じんじっぽうかいの しょきょうは どせん こくせん しょうてっちせん だいてっちせんの ごとし.
尽十方界の 諸経は 土山・黒山・小鉄囲山・大鉄囲山の ごとし.

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にほんこくに わたらせ たまえる ほけきょうは しゅみせんの ごとし.
日本国に わたらせ 給える 法華経は 須弥山の ごとし。.

また いわく.
又 云く.

「よく この きょうてんを じゅじする こと あらん ものも またまた かくの ごとし いっさいしゅじょうの なかに おいて また これ だい1 なり」とう うんぬん.
「能く 是の 経典を 受持する こと 有らん 者も、亦復 是くの 如し、一切衆生の 中に 於て 亦 これ 第一 なり」等 云云、.

この きょうもんを もって あんずるに けごんきょうを たもてる ふげんぼさつ げだつがつぼさつら りゅうじゅぼさつ めみょうぼさつ ほうぞうだいし しょうりょうこくし そくてんこうごう しんじょうだいとく ろうべんそうじょう しょうむてんのう.
此の 経文を もつて 案ずるに 華厳経を 持てる 普賢菩薩・解脱月菩薩等・竜樹菩薩・馬鳴菩薩・法蔵大師・清涼国師・則天皇后・審祥大徳・良弁僧正・聖武天皇・.

じんみつ はんにゃきょうを たもてる しょうぎしょうぼさつ しゅぼだいそんじゃ かじょうだいし げんじょうさんぞう たいそう こうそう かんろく どうしょう こうとくてんのう.
深密 般若経を 持てる 勝義生菩薩・須菩提尊者・嘉祥大師・玄奘三蔵・太宗・高宗・観勒・道昭・孝徳天皇、.

しんごんしゅうの だいにちきょうを たもてる こんごうさった りゅうみょうぼさつ りゅうちぼさつ いんしょうおう ぜんむいさんぞう こんごうちさんぞう ふくうさんぞう げんそう だいそう けいか こうぼうだいし じかくだいし ねはんぎょうを たもてる かしょうどうじぼさつ 52るい どんむさんさんぞう.
真言宗の 大日経を 持てる 金剛薩埵・竜猛菩薩・竜智菩薩・印生王・善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵・玄宗・代宗・慧果・弘法大師・慈覚大師、涅槃経を 持てる 迦葉童子菩薩・五十二類・曇無懺三蔵、.

こうたくじの ほううん なん3 ほく7の 10しら よりも まつだい あくせの ぼんぷの いっかいも たもたず.
光宅寺の 法雲 南三 北七の 十師等 よりも 末代 悪世の 凡夫の 一戒も 持たず.

いっせんだいの ごとくに ひとには おもわれ たれども.
一闡提の ごとくに 人には 思はれ たれども、.

きょうもんの ごとく いこんとうに すぐれて ほけきょうより ほかは ほとけに なる みち なしと ごうじょうに しんじて.
経文の ごとく 已今当に すぐれて 法華経より 外は 仏に なる 道なしと 強盛に 信じて.

しかも 1ぶんの げ なからん ひとびとは かれらの だいしょうには 100せんまんのくばいの まさりなりと もうす きょうもん なり.
而も 一分の 解 なからん 人人は、彼等の 大聖には 百千万億倍の まさりなりと 申す 経文 なり、.

かの ひとびとは あるいは かの きょうぎょうに しばらく ひとを いれて ほけきょうへ うつさんが ためなる ひとも あり.
彼の 人人は 或は 彼の 経経に 且く 人を 入れて 法華経へ うつさんが ためなる 人も あり、.

あるいは かの きょうに じゃくを なして ほけきょうへ いらぬ ひとも あり.
或は 彼の 経に 著を なして 法華経へ 入らぬ 人 もあり、.

あるいは かの きょうぎょうに とどまる のみならず かの きょうぎょうを ふかく しゅうする ゆえに ほけきょうを かの きょうに おとると いう ひとも あり.
或は 彼の 経経に 留逗 のみならず 彼の 経経を 深く 執する ゆへに 法華経を 彼の 経に 劣ると いう 人も あり、.

されば いま ほけきょうの ぎょうじゃは こころうべし.
されば 今 法華経の 行者は 心うべし、.

たとえば「いっさいのせんる こうがの しょすいの なかに うみ これ だい1 なるが ごとく ほけきょうを たもつものも またまた かくの ごとし.
譬えば「一切の 川流 江河の 諸水の 中に 海 これ 第一 なるが 如く 法華経を 持つ者も 亦復 是くの 如し、.

また しゅせいの なかに がってんし もっとも これ だい1 なるが ごとく ほけきょうを たもつ ものも またまた かくの ごとし」とう と おんこころえ あるべし.
又 衆星の 中に 月天子 最も これ 第一 なるが 如く 法華経を 持つ 者も 亦復 是くの 如し」等と 御心え あるべし、.

とうせい にほんこくの ちじんらは しゅせいの ごとし.
当世 日本国の 智人等は 衆星の ごとし.

にちれんは まんげつの ごとし.
日蓮は 満月の ごとし。.

とうて いわく いにしえ かくの ごとく いえる ひと ありや.
問うて 云く 古へ かくの ごとく いえる 人 ありや、.

こたえて いわく でんぎょうだいしの いわく.
答えて 云く 伝教大師の 云く.

「まさに しるべし たしゅう しょえの きょうは いまだ さいい だい1 ならず その よく きょうを たもつ ものも また いまだ だい1 ならず.
「当に 知るべし 他宗 所依の 経は 未だ 最為 第一 ならず 其の 能く 経を 持つ 者も 亦 未だ 第一 ならず.

てんだいほっけしゅうは しょじの きょう さいい だい1 なるが ゆえに よく ほっけを たもつ ものも また しゅじょうの なかに だい1 なり.
天台法華宗は 所持 の経 最為 第一 なるが 故に 能く 法華を 持つ 者も 亦 衆生の 中に 第一 なり、.

すでに ぶっせつに よる あに じたん ならんや」とう うんぬん.
已に 仏説に 拠る 豈 自歎 ならんや」等 云云、.

それ きりんの おに つける だにの 1にちに せんりを とぶと いい.
夫れ 麒麟の 尾に つける だにの 一日に 千里を 飛ぶと いゐ、.

てんおうに したがえる れっぷの しゅゆに 4てんげを めぐると いうをば なんずべしや うたがうべしや.
転王に 随える 劣夫の 須臾に 四天下を めぐると いうをば 難ずべしや 疑うべしや、.

あに じたん ならんやの しゃくは きもに めいずるか.
豈 自歎 哉の 釈は 肝に めいずるか.

もし しからば ほけきょうを きょうの ごとくに たもつ ひとは ぼんのうにも すぐれ たいしゃくにも こえたり.
若し 爾らば 法華経を 経の ごとくに 持つ 人は 梵王にも すぐれ 帝釈にも こえたり、.

しゅらを したがえば しゅみせんをも にないぬべし りゅうを せめつかわば たいかいをも くみほしぬべし.
修羅を 随へば 須弥山をも になひぬべし 竜を せめつかはば 大海をも くみほしぬべし、.

でんぎょうだいし いわく「ほむる ものは ふくを あんみょうに つみ そしる ものは つみを むけんに ひらく」とう うんぬん.
伝教大師 云く「讃むる 者は 福を 安明に 積み 謗る 者は 罪を 無間に 開く」等 云云、.

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ほけきょうに いわく.
法華経に 云く.

「きょうを どくじゅし しょじする こと あらん ものを みて きょうせん ぞうしつして けっこんを いだかん.
「経を 読誦し 書持する こと 有らん 者を 見て 軽賤 憎嫉して 結恨を 懐かん.

ないし そのひと みょうじゅうして あびごくに いらん」とう うんぬん.
乃至 其の人 命終して 阿鼻獄に 入らん」等 云云、.

きょうしゅ しゃくそんの きんげん まこと ならば たほうぶつの しょうみょう たがずば.
教主 釈尊の 金言 まこと ならば 多宝仏の 証明 たがずば.

じっぽうの しょぶつの ぜっそう いちじょうならば いま にほんこくの いっさいの しゅじょう むけんじごくに おちん こと うたがうべしや.
十方の 諸仏の 舌相 一定ならば 今 日本国の 一切の 衆生・無間地獄に 堕ちん 事 疑うべしや、.

ほけきょうの 8の まきに いわく.
法華経の 八の 巻に 云く.

「もし のちの よに おいて この きょうてんを じゅじし どくじゅせん ものは ないし しょがん むなしからず  .
「若し 後の 世に 於て 是の 経典を 受持し 読誦せん 者は 乃至 諸願 虚しからず、.

また げんせに おいて そのふくほうを えん」.
亦 現世に 於て 其の 福報を 得ん」.

また いわく「もし これを くようし さんたん すること あらん ものは まさに こんぜに おいて げんの かほうを うべし」とう うんぬん.
又 云く「若し 之を 供養し 讃歎 すること 有らん 者は 当に 今世に 於て 現の 果報を 得べし」等 云云、.

この ふたつの もんの なかに また げんせに おいて そのふくほうを えんの 8じ まさに こんぜに おいて げんの かほうを うべしの 8じ.
此の 二つの 文の 中に 亦於現世・得其福報の 八字・当於今世・得現果報の 八字・.

いじょう 16じの もん むなしくして にちれん こんじょうに だいかほう なくば にょらいの きんげんは だいばが そらごとに おなじく.
已上 十六字の 文 むなしくして 日蓮 今生に 大果報 なくば 如来の 金言は 提婆が 虚言に 同じく.

たほうの しょうみょうは くぎゃりが もうごに ことならじ.
多宝の 証明は 倶伽利が 妄語に 異ならじ、.

ほうぼうの いっさいしゅじょうも あびじごくに おつ べからず.
謗法の 一切衆生も 阿鼻地獄に 堕つ べからず、.

さんぜ しょぶつも ましまさざるか.
三世の 諸仏も ましまさざるか、.

されば わが でしら こころみに ほけきょうの ごとく しんみょうも おしまず しゅぎょうして このたび ぶっぽうを こころみよ.
されば 我が 弟子等 心みに 法華経の ごとく 身命も おしまず 修行して 此の度 仏法を 心みよ、.

なんみょうほうれんげきょう なんみょうほうれんげきょう.
南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。.

そもそも この ほけきょうの もんに「われ しんみょうを あいせず ただ むじょうどうを おしむ」 .
抑 此の 法華経の 文に「我身 命を 愛せず 但 無上道を 惜しむ」.

ねはんぎょうに いわく「たとえば おうしの よく だんろん して ほうべんに たくみなる めいを たこくに うくるに.
涅槃経に 云く「譬えば 王使の 善能 談論して 方便に 巧なる 命を 他国に 奉るに.

むしろ しんみょうを うしなうとも ついに おう しょせつの ごんきょうを かくさざるが ごとし.
寧ろ 身命を 喪うとも 終に 王 所説の 言教を 匿さざるが 如し.

ちしゃも また しかなり ぼんぷ ちゅうに おいて しんみょうを おしまず.
智者も 亦 爾なり 凡夫 中に 於て 身命を 惜まず.

かならず だいじょうほうとうにょらいの ひぞう いっさいしゅじょうに みな ぶっしょうありと せんぜつ すべし」とう うんぬん.
かならず 大乗方等如来の 秘蔵 一切衆生に 皆 仏性 有りと 宣説 すべし」等 云云.

いかような ことの ある ゆえに しんみょうを すつる までにて あるらん.
いかやうな 事の ある ゆへに 身命を すつる までにて あるやらん.

いさいに うけ たまわり そうらわん.
委細に うけ 給わり 候はん、.

こたえて いわく.
答えて 云く.

よが しょしんの ときの ぞんねんは でんぎょう こうぼう じかく ちしょうらの ちょくせんを たまいて かんどに わたりし ことの がふあいしんみょうに あたれるか.
予が 初心の 時の 存念は伝教・弘法・慈覚・智証等の 勅宣を 給いて 漢土に わたりし 事の 我不愛身命に あたれるか、.

げんじょうさんぞうの かんどより がっしに いりしに 6しょうが あいだ しんみょうを ほろぼしし これらか.
玄奘三蔵の 漢土より 月氏に 入りしに 六生が 間・身命を ほろぼしし これ等か、.

せっせんどうじの はんげの ために みを なげ.
雪山童子の 半偈の ために 身を なげ、.

やくおうぼさつの 7まん2せんさいが あいだ ひじを やきしことか なんど おもいしほどに きょうもんの ごときんば これらには あらず.
薬王菩薩の 七万二千歳が 間・臂を やきし事か なんど をもひしほどに 経文の ごときんば 此等には あらず、.

きょうもんに がふあいしんみょうと もうすは かみに さんるいの てきじんを あげて かれらが のりせめ とうじょうに およんで しんみょうを うばうとも みえたり.
経文に 我不愛身命と 申すは 上に 三類の 敵人 をあげて 彼等が のりせめ 刀杖に 及んで 身命を うばうとも みへたり、.

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また ねはんぎょうの もんに むしろ しんみょうを うしなうとも とうと とかれて そうろうは つぎしもの きょうもんに いわく.
又 涅槃経の 文に 寧喪身命 等と とかれて 候は 次下の 経文に 云く.

「いっせんだい あり らかんの かたちを なし くうしょに じゅうし ほうとうきょうてんを ひぼうす.
「一闡提 有り 羅漢の 像を 作し 空処に 住し 方等経典を 誹謗す、.

もろもろの ぼんぷ にんみ おわって みな しんの あらかん これ だいぼさつなりと いわん」とう うんぬん.
諸の 凡夫 人見 已つて 皆 真の 阿羅漢 是れ 大菩薩なりと 謂わん」等 云云、.

かの ほけきょうの もんに だい3の てきじんを といて いわく.
彼の 法華経の 文に 第三の 敵人を 説いて 云く.

「あるいは あれんにゃに のうえにして くうげんに あって ないし よに くぎょう せらるる こと 6つうの らかんの ごとき あらん」とう うんぬん.
「或は 阿蘭若に 納衣にして 空閑に 在つて 乃至 世に 恭敬 せらるる こと 六通の 羅漢の 如き 有らん」等 云云、.

はつないおんきょうに いわく.
般泥洹経に 云く.

「らかんに にたる いっせんだい あって あくごうを ぎょうず」とう うんぬん.
「羅漢に 似たる 一闡提 有つて 悪業を 行ず」等 云云、.

これらの きょうもんは しょうほうの ごうてきと もうすは あくおう あくしん よりも.
此等の 経文は 正法の 強敵と 申すは 悪王 悪臣 よりも.

げどう まおう よりも はかいの そうりょ よりも.
外道 魔王 よりも 破戒の 僧侶 よりも、.

じかい うちの だいそうの なかに だいほうぼうの ひとあるべし.
持戒 有智の 大僧の 中に 大謗法の 人 あるべし、.

されば みょうらくだいし かいて いわく.
されば 妙楽大師 かいて 云く.

「だい3 もっとも はなはだし のちのちの ものは うたた しりがたきを もっての ゆえなり」とう うんぬん.
「第三 最も 甚し 後後の 者は 転 識り難きを 以ての 故なり」等 云云、.

ほけきょうの だい5の まきに いわく.
法華経の 第五の 巻に 云く.

「この ほけきょうは しょぶつにょらいの ひみつの ぞうなり しょきょうの なかに おいて もっとも そのかみに あり」とう うんぬん.
「此の 法華経は 諸仏如来の 秘密の 蔵なり、諸経の 中に 於て 最も 其の 上に 在り」等 云云、.

この きょうもんに もっとも その かみにありの 4じあり.
此の 経文に 最在其上の 四字あり、.

されば この きょうもんの ごときんば ほけきょうを いっさいきょうの いただきに ありと もうすが ほけきょうの ぎょうじゃ にては あるべきか.
されば 此の 経文の ごときんば 法華経を 一切経の 頂にありと 申すが 法華経の 行者 にては あるべきか、.

しかるを また こくおうに そんじゅう せらるる ひとびと あまた ありて.
而るを 又 国王に 尊重 せらるる 人人 あまた ありて、.

ほけきょうに まさりて おわする きょうぎょう ましますと もうすひとに せめあい そうらわん とき.
法華経に まさりて をはする 経経 ましますと 申す人に せめあひ 候はん 時、.

かの ひとは おうしんに ごきえあり ほけきょうの ぎょうじゃは ひんどうなる ゆえに.
かの人は 王臣に 御帰依あり 法華経の 行者は 貧道なる ゆへに、.

くに こぞって これを いやしみ そうらわん とき.
国 こぞつて これを いやしみ 候はん 時、.

ふぎょうぼさつの ごとく けんあいろんじが ごとく もうしつおらば しんみょうに およぶべし.
不軽菩薩の ごとく 賢愛論師が ごとく 申しつをらば 身命に 及ぶべし、.

これが だい1の だいじ なるべしと みえて そうろう.
此れが 第一の 大事 なるべしと みへて 候.

この ことは いまの にちれんが みに あたれり.
此の 事は 今の 日蓮が 身に あたれり、.

よが ぶんざいとして こうぼうだいし じかくだいし ぜんむいさんぞう こんごうちさんぞう ふくうさんぞう なんどを.
予が 分斉として 弘法大師・慈覚大師・善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵 なんどを.

ほけきょうの ごうてきなり きょうもん まことならば むけんじごくは うたがいなし なんど もうすは.
法華経の 強敵なり 経文 まことならば 無間地獄は 疑なし なんど 申すは.

あははだかにて たいかに いるは やすし しゅみを てに とって なげんは やすし.
裸形にて 大火に 入るは やすし 須弥を 手に とて なげんは やすし.

だいせきを おうて たいかいを わたらんは やすし にほんこくに して この ほうもんを たてんは だいじ なるべし うんぬん .
大石を 負うて 大海を わたらんは やすし 日本国に して 此の 法門を 立てんは 大事 なるべし 云云。.

りょうぜんじょうどの きょうしゅしゃくそん ほうじょうせかいの たほうぶつ じっぽうぶんしんの しょぶつ じゆせんがいの ぼさつ とう.
霊山浄土の 教主釈尊・宝浄世界の 多宝仏・十方分身の 諸仏・地涌千界の 菩薩 等・.

たいしゃく にちがつ 4てんとう みょうに かし けんに たすけ たまわずば 1じ 1にちも あんのん なるべしや.
梵釈・日月・四天等・冥に 加し 顕に 助け 給はずば 一時 一日も 安穏 なるべしや。.

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