c951から954.
寺泊御書 背景と大意
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ぶんえい 8ねん 10がつ 22にち、にちれんだいしょうにんが 50さいの おんとき、さどるざいの とじょう、えちごこく(にいがたけん)てらどまりに たいざいされた さいに ときじょうにんに あたえられた ごしょ。
ほけきょう、ねはんきょうの もんを ひいて、しゃくそん ざいせの げどうが しゃくそんを だいあくにんと ひぼうしたことを のべられ、にちれんだいしょうにんへの ひはんが このことに あたると ごきょうじ されている。
とうじのひはんは、①ひとびとの きこん をしらない そざつな きょうぎを たて なんに あっている、②かんじほんに とかれている しゃくふくぎょうは しんいの ぼさつが おこなう ものであり、しょうじゅを とく あんらくぎょうほんに いはいしている、③にちれんの きょうぎは じぶんも しっているが いわないだけである、にちれんが いうには きょうそうもんだけであり、かんじもんがない、というものである。
それらを いっしょうに ふされ、ほけきょうの ぎょうじゃの なんに あっているのは だいしょうにん おひとりであり、ごじしんを ふぎょうぼさつに あたると のべられている。



b
文永8年(1271年)10月22日、日蓮大聖人が50歳の御時、佐渡流罪の途上、越後国(新潟県)寺泊に滞在された際に 富木常忍に与えられた御書。
法華経、涅槃経の文を引いて、釈尊在世の外道が釈尊を大悪人と誹謗したことを述べられ、日蓮大聖人への批判がこのことに当たるとご教示されている。
当時の批判は、①人々の機根を知らないで粗雑な教義を立て難に遭っている、②勧持品に解かれている折伏行は 深位の菩薩が行うものであり、摂受(しょうじゅ:相手の機根を認めつつ次第に誘導して正法に入らせる方法)を説く安楽行品に違背している、③日蓮の教義は自分も知っているが言わないだけである、④日蓮が言うには教相門だけであり、観心門がない、というものである。
それらを一笑に付され、法華経の行者の難に遭っているのは大聖人お一人であり、御自身を不軽菩薩に当たると述べられている。

  
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