f1.日蓮大聖人年表 (にちれんだいしょうにんねんぴょう)

 
 
a (ねんれいは かぞえ どし)

1さい.
1222ねん (じょうおう がんねん) 
2がつ 16にち、あわこく ながさき ごおり とうじょうの ごう、げんざいの ちばけん かもがわしに 「かたうみの あまが こ」と して ごせいたん された。

9さい.
1230ねん (かんぎ 2ねん)
ぜんこくてきに だいききんと なる。(かんぎの ききん)
このとし、ながあめ、ていおん、ぼうふうなど、いじょうきしょうで だいきょうさくと なり、きょうさくは よくとし まで つづき がししゃが ぞくしゅつした。
とうごくには なつばの 7がつ しもが おりている。
とうじの きろくと して 「めいげつき」には 「がししゃが じゅうまんし、その ししゅうが いえに まで およぶ」と しるされて いる。

12さい.
1233ねん (てんぷく がんねん)
せいちょうじに にゅうがく。こくう ぼさつに 「にっぽん だいいちの ちしゃと なしたまえ」と せいがんする。
せいちょうじは てんだいしゅうで あったが、のちに しょうわ 24ねん(1949ねん)に にちれんしゅうに かいしゅう した。

14さい.
1235ねん (かてい がんねん)
かまくらに じしん はっせい。きょうとに てんねんとうが だいりゅうこう した。てんのうけ ばくふようじんも てんねんとうに なっている ことが きろくに のこされて いる。

16さい.
1237ねん (かてい 3ねん)
せいちょうじの どうぜんぼうを しと して、しゅっけ とくどし ぜんしょうぼうと なのる。

17さい.
1238ねん (りゃくにん がんねん)
かまくらに ゆうがく する。

19さい.
1240ねん (にんじ がんねん)
かまくら じしんにて、ばくふ(げんじ)の まもりがみで ある つるがおか はちまんぐうが とうかい。

21さい.
1242ねん (にんじ 3ねん)
かまくら ゆうがくを おえて ひえいざんに ゆうがく。ここを きょてんと して きんないや こうやさんなどで しゅうがく された。だいしょうにんは ひえいざんで あらゆる きょうてんを どくはされ、ほけきょうが しゃくそんの ただしい おしえで あることを かくしん された。

26さい.
1247ねん (ほうじ がんねん)
6がつ 5にち、ほうじょう ときよりが みうらしを うつ。(ほうじの かっせん) みうらけは めつぼう。
11がつ かまくら だいじしん。

32さい.
1253ねん (けんちょう5ねん)
にちれんと なのる。4がつ 28にち、せいちょうじにて りっきょう かいしゅうする。
ちょくご、ねんぶつしゃの とうじょう かげのぶに よって せいちょうじを おわれる。
かまくらの まずばがやつに そうあんを むすぶ。
このとし、とき じょうにんが きえする。

35さい.
1256ねん (こうげん がんねん)
8がつ 6にち、かまくら おおかぜ こうずい。9がつ いこう、せきりなどの でんせんびょうが りゅうこう。
11がつ 23にち、ほうじょう ときより、さいみょうじで しゅっけ。
くどう よしたか、いけがみ むねなか、しじょう きんご らが にゅうしん。

36さい.
1257ねん (しょうか がんねん)
8がつ 23にち、しょうかの だいじしん。かまくらを ちゅうしんに おこった だいじしんで かまくら ぜんいきに ひがいが および、じしん いこう ききん 、えきびょうが ひろがり せいさんを きわめた。
だいしょうにん ごじしん、この しんさいを たいけんされ、このことが けいきとなって りっしょう あんこくろんが しっぴつ される ことになる。

37さい.
1258ねん (しょうか 2ねん)
6がつ、かまくら ていおん。ぜんこくてきに おおあめ、こうずい、えきびょう りゅうこう。
9がつ いこう、しょこくに とうぞくが ほうきし よが みだれる。
にちれん だいしょうには するがのくに(しずおか けん) いわもと じっそうじにて、いっさいきょうを えつらん される。にっこう しょうにんが でしと なる。
いわもと じっそうじには、とうじ、いっさいきょうが おさめられて いた。
(この とし、にちれん だいしょうにんの ちち、しきょ)

38さい.
1259ねん (しょうげん がんねん)
だいききん、えきびょうの りゅうこうで かず おおくの ししゃが ひろがる。

39さい.
1260ねん (ぶんおう がんねん)
この とし、えきびょうが りゅうこうして おさまらず。
4がつ 29にち、かまくらで だいかさい。
7がつ 16にち、りっしょう あんこくろんを ぜん しっけん ほうじょう ときよりに ていしゅつ。
8がつ、まつばがやつの ほうなん。

40さい.
1261ねん (こうちょう がんねん)
いず るざい。このとし、りょうかんが かまくらに はいる。
「しいじ しろうどの ごへんじ」「ふなもり やさぶろう もとごしょ」を あらわす。

41さい.
1262ねん (こうちょう 2ねん)
いずに あり。
「しおんしょう」 「きょうきじこくしょう」を あらわす。

42さい.
1263ねん (こうちょう 3ねん)
2がつ 22にち、いず るざいを しゃめんされる。

43さい.
1264ねん (ぶんえい がんねん)
5がつ ふつか えんりゃくじの しゅうとが たいりつ していた おんじょうじを しゅうげき。
7がつ 5にち だいすいせいが しゅつげん。
あわのくにに ききょうし びょうしんの ははを いのり じゅみょうを 4ねん のばす。
11がつ 11にち、こまつばら ほうなん にて、とうじょう かげのぶら すうひゃくにんの ねんぶつしゃらに しゅうげきを うけ、でし、だんと(くどう よしたか)が じゅんし した。だいしょうにんも ひたいを きられ、ひだりうでを うち おられた。

46さい.
1267ねん (ぶんえい 4ねん)
8がつ、りょうかん、ごくらくじに はいる。
だいしょうにんの はは、みょうれん しきょ。

47さい.
1268ねん (ぶんえい 5ねん)
1がつ、もうこの こくしょがくる。にほんに たいする つうしょうのようきゅうで あったが、きょひすれば ぶりょくしんこうも あるとの ないようで あった。
7がつ 17にち、ちょうていが いこく ちょうふくの きとうを めいじる。
どうねん 4がつ 5にち、だいしょうにんは「あんこくろん ごかん ゆらい」をあらわされ、10がつ 11にち、ばくふや じいんなどに「11つう ごしょ」をおくり、しゅうきょうの せいじゃを けっする べきことを こうかいたいけつでもとめられた。

48さい.
1269ねん (ぶんえい 6ねん)
3がつ 7にち、もうこの ししゃが つしまに とうらいして とうみんを らち。
9がつ 17にち、こうらいの ししゃが つしまに とうらいし、もうこの こくしょを とどける。
9がつ 24にち、もうこの こくしょ、ちょうていに とどく。

50さい.
1271ねん (ぶんえい 8ねん)
6がつ、かまくらだいかんばつ。
どうげつ、ごくらくじ りょうかんと にちれん だいしょうにんとの あいだで きう たいけつが おこなわれ りょうかんが やぶれる。
9がつ もうこの ししゃが ちくぜんに じょうりく。 
9がつ 10にち、かまくら より めし だされるが かえって たいらの よりつな(へいの さえもんの じょう)を いさめる。
9がつ12にち へいの さえもんの じょうに「いっさくじつ ごしょ」を おくり、ふたたび いさめる。
9がつ 12にち、めし とられ、たつのくち ほうなん。
ひかりものの しゅつげんにて ざんしゅをまぬがれ ゆうへいされる。
9がつ 13にち、にちろう など 5にんが とうごく。
10がつ 10にち、さど るざいが けってい、さどへ むかう。
10がつ 21にち、えちご てらどまり、10がつ 28にち、さどに つく。

51さい.
1272ねん (ぶんえい 9ねん)
さどに あり。
1がつ16にち、えちご(にいがた けん)、とおくは しなの(ながの けん)から すうしゃくめいの ねんぶつしゃ しんごんそうが つかはら さんまいどうに しゅうけつ。だいしょうにんは、どうり・もんしょうの うえから かんぺきに ろんぱ された。
ぐんしゅうの なかには がんめんそうはくで ちんもく するもの、あっく するもの、かいしゅう きふくするものまで でた。
2がつ、ほうじょう ときすけの らん(にがつ そうどう)が おこり、りっしょう あんこくろんの じかい ほんぎゃくなんが てきちゅうした。
どうげつ、「かいもくしょう」を あらわす。
3がつ、「さどごしょ」を あらわす。

52さい.
1273ねん (ぶんえい 10ねん)
さどに あり。
4がつ、「にょらい めつご ご ごひゃくさい はじめ かんじんの ほんぞんしょう」を あらわす。
5がつ、「けんぶつみらいき」を あらわす。

53さい.
1274ねん (ぶんえい 11ねん)
2がつ 14にち、ばくふが さどるざいの しゃめんじょうを はっする。
3がつ 8にち、しゃめんじょうが さどに とうちゃく。
どうげつ 14にち、かまくらにむけてしゅっぱつ。
どうげつ 26にち、かまくらに とうちゃく。
4がつ、へいのさえもんのじょうと かいけん、もうこ しゅうらいの じきを「ことしはいちじょうなり」と しんげん。
5がつ、かまくらを しゅっぱつし、みのぶへ にゅうざん する。
10がつ、げん(きゅうめい もうこ)が らいしゅう。(ぶんえいの えき)
ここに りっしょう あんこくろんの たこく しんぴつなんが てきちゅうした。

54さい.
1275ねん (けんじ がんねん)
みのぶに あり。3がつ、ごくらくじ えんじょう。

55さい.
1276ねん (けんじ 2ねん)
3がつ、げん(きゅうめい もうこ)の らいしゅうに そなえ、ばくふは きゅうしゅう ほくぶに せきるいの こうちくを かいし。
7がつ、しで あった どうぜんぼうの しきょで 「ほうおんしょう」を あらわす。
このころ、しじょうきんごが りょうちがえと なる。

56さい.
1277ねん (けんじ 3ねん)
6がつ、しじょうきんごに かわって、よりとも ちんじょうを だす。
(しじょうきんごの しゅくん えましに えんざいを はらす ための ちんじょう)

57さい.
1278ねん (こうあん がんねん)
がんたん、「おんぎくでん」 かんせい。
(このころまでに、しじょうきんごの かんきが とける)
2がつ、あつはらの じんしろう、やごろう、やろくろうが にゅうしん。
6がつ、だいしょうんにんの くだりはら(げり)が あっか。
しじょうきんごの くすりで しょうこうを たもつ。

58さい.
1279ねん (こうあん 2ねん)
9がつ、あつはらの ほうなん。しんと 20めいが たいほされ、かまくらに れんこうされる。
10がつ 12にち、いちえんぶだい そうよの だいごほんぞんを ごずけん。
(どうげつ じんしろうら 3めいが ざんしゅ される)

60さい.
1281ねん (こうあん 4ねん)
5がつ、げん(きゅうめい もうこ)と こうらいぐんが らいしゅう。(こうあんの えき)
6がつ、「しょうもうこごしょ」にて、もんか いちどうに たこく しんぴつなんの よげん てきちゅうを ほこらしげに かたることが ないように いましめる。
11がつ、みのぶに じゅっけん しめんの たいぼう(たてもの)が かんせい。

61さい.
1282ねん (こうあん 5ねん)
9がつ、にっこう しょうにんに「にちれんいちごぐほうふぞくしょ」(みのぶそうじょうしょ)を あたえる。
どうげつ、みのぶ げざん、いけがみに いたる。
10がつ 13にち、にっこうしょうにんに「みのぶふぞくしょ」(いけがみそうじょうしょ)を あたえる。
どうじつ、いけがみてい にて ごにゅうめつ。




b
(年齢は数え年)

1歳.
1222年 (貞応元年) 
2月16日、安房国 長狭郡東条郷(ながさきごおり とうじょうのごう)、現在の千葉県鴨川市に「片海の海女が子」として御生誕された。

9歳.
1230年 (寛喜2年)
全国的に大飢饉となる。(寛喜の飢饉)
この年、長雨、低温、暴風などの異常気象で大凶作となり、凶作は翌年まで続いて餓死者が続出した。東国には、夏場の7月中旬に霜が降りている。当時の記録として、「明月記」には、「餓死者が充満し、その死臭が家までに及ぶ」と記されている。

12歳.
1233年 (天福元年)
清澄寺に入学。虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となしたまえ」(888頁)と誓願する。
清澄寺は天台宗であったが、のちに真言宗となり、昭和24年(1949年)には日蓮宗に改宗した。

14歳.
1235年 (嘉禎元年)
鎌倉に地震続発。京都に疱瘡(天然痘)が大流行した。天皇家、幕府要人も天然痘になっていることが記録に残されている。

16歳.
1237年 (嘉禎3年)
清澄寺の道善房を師として出家得度し、是聖房と名乗る。

17歳.
1238年 (暦仁元年)
鎌倉に遊学する。

19歳.
1240年 (仁治元年)
鎌倉地震にて、源氏の守り神である鶴岡八幡宮が倒壊。

21歳.
1242年 (仁治3年)
鎌倉遊学を終えて、比叡山に遊学。ここを拠点として、畿内や高野山などで修学された。大聖人は比叡山であらゆる経典を読破され、法華経が釈尊の正しい教えであることを確信された。

26歳.
1247年 (宝治元年)
6月5日、北条時頼が三浦氏を討つ。(宝治の合戦)三浦家は滅亡。
11月26日、鎌倉大地震。

32歳.
1253年 (建長5年)
日蓮と名乗る。4月28日、安房国清澄寺にて立教開宗する。
直後、念仏者の地頭・東条景信によって清澄寺を追われる。
鎌倉の松葉ヶ谷に草庵を結ぶ。
この年、富木常忍が帰依する。

35歳.
1256年 (康元元年)
8月6日、鎌倉大風洪水。9月以降、赤痢などの伝染病が流行。
11月23日、北条時頼、最明寺で出家。
工藤吉隆、池上宗仲、四条金吾らが入信。

36歳.
1257年 (正嘉元年)
8月23日、正嘉の大地震。鎌倉を中心に起こった大地震で、鎌倉全域に甚大な被害に及び、地震以降、飢饉、疫病が広がり凄惨を極めた。
大聖人ご自身、この震災を体験され、このことが契機となって「立正安国論」が執筆されることになる。

37歳.
1258年 (正嘉2年)
6月、鎌倉大寒気し、全国的に大雨、洪水、疫病流行。
9月以降、諸国にて盗賊群が蜂起。
日蓮大聖人は、駿河国(静岡県)岩本実相寺にて、一切経閲覧される。日興上人が弟子となる。岩本実相寺には、当時、一切経が収められていたという。
(この年、日蓮大聖人の父、死去)

38歳.
1259年 (正元元年)
大飢饉、疫病の流行で数多くの死者が広がる。

39歳.
1260年 (文応元年)
この年、疫病が流行して収まらず。
4月29日、鎌倉で大火災。
7月16日、「立正安国論」を前執権・北条時頼に提出。
8月、松葉ヶ谷の法難。

40歳.
1261年 (弘長元年)
伊豆流罪。この年、良観が鎌倉に入る。
「椎地四郎殿御書」 「船守弥三郎許御書」を著す。

41
歳.
1262年 (弘長2年)
伊豆にあり。
「四恩抄」「教機時国抄」を著す。

42歳.
1263年 (弘長3年)
2月22日、伊豆流罪を赦免される。

43歳.
1264年 (文永元年)
5月2日、延暦寺の衆徒が対立していた園城寺を襲撃。
7月5日、大彗星が出現。
安房国に帰郷し、病身の母を祈り寿命を4年延ばす。
11月11日、小松原法難にて、東条景信ら数百人の念仏者らに襲撃を受け、弟子、檀徒(工藤吉隆)が殉死した。大聖人も額を切られ、左腕を打ち折られた。

46歳.
1267年 (文永4年)
8月、良観、極楽寺に入る。
大聖人の母、妙蓮死去。

47歳.
1268年 (文永5年)
1月、蒙古の国書が来る。日本に対する通商の要求であったが、拒否すれば武力侵攻もあるとの内容であった。
7月17日、朝廷が異国降伏の祈祷を命じる。
同年4月5日、大聖人は「安国論御勘由来」を顕され、10月11日、幕府や寺院などに「十一通御書」を送り、宗教の正邪を決するべきことを公場対決で求められた。

48歳.
1269年 (文永6年)
3月7日、元(旧名・蒙古)の使者が対馬に到来して島民を拉致。
9月17日、高麗の使者が対馬に到来し、蒙古の国書を届ける。
9月24日、蒙古の国書、朝廷に届く。

50歳.
1271年 (文永8年)
6月、鎌倉大干ばつ。同月、極楽寺良観と祈雨対決が行われ、良観が敗れる。
9月、元(旧名・蒙古)の使者が筑前に上陸。
9月10日、幕府より召し出されるが かえって平頼綱(たいらの よりつな:平左衛門尉)を諌める。
9月12日、平左衛門尉に「一昨日御書」を送り、再び諌める。
同日、召し捕られ、竜の口法難。光物の出現にて斬首を免れ、幽閉される。
9月13日、日朗等5人が投獄。
10月10日、佐渡流罪が決定、佐渡へ向かう。
10月21日、越後寺泊、10月28日、佐渡に着く。

51歳.
1272年 (文永9年)
佐渡にあり。
1月16日、越後(新潟県)、遠くは信濃(長野県)から数百名の念仏者、真言僧が塚原三昧堂に集結した。大 聖人は、道理・文証のうえから完璧に論破された。
群衆の中には顔面蒼白で沈黙する者、悪口する者、改宗帰伏する者までが出た。
2月、北条時輔の乱(2月騒動)が起こり、立正安国論の自界叛逆難(じかいほんぎゃくなん)が的中した。
2月、「開目抄」を顕す。
3月、「佐渡御書」を顕す。

52歳.
1273年 (文永10年)
佐渡にあり。
4月、「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」を顕す。
5月、「顕仏未来記」を顕す。

53歳.
1274年 (文永11年)
2月14日、幕府が佐渡流罪の赦免状を発する。
3月8日、赦免状が佐渡に到着。
同月14日、鎌倉に向けて出発。
同月26日、鎌倉に到着。
4月、平左衛門尉と会見、蒙古 襲来の時期を「今年は一定なり」と進言。
5月、鎌倉を出発し、身延へ入山する。
10月、元(旧名・蒙古)来襲。(文永の役)
立正安国論の他国侵逼難が的中した。

54歳.
1275年 (建治元年)
身延にあり。3月、極楽寺炎上。

55歳.
1276年 (建治2年)
3月、蒙古の来襲に備え、九州北部に石塁の構築を開始。
7月、師・道善房の死去で、「報恩抄」を顕す。
このころ、四条金吾が領地替えとなる。

56歳.
1277年 (建治3年)
6月、四条金吾に代わって、「頼基陳状」を著す。
(四条金吾の主君・江間氏に冤罪を晴らすための陳状)

57歳.
1278年 (弘安元年)
1月元旦、「御義口伝」完成。
(このころまでに、四条金吾の勘気が解ける)
2月、熱原の神四郎、弥五郎、弥六郎が入信。
6月、大聖人の「下痢(くだりはら)」が悪化。
四条金吾の薬で小康を保つ。

58歳.
1279年 (弘安2年)
9月、熱原の法難。信徒20名が逮捕され、鎌倉に連行される。
10月12日、一閻浮提総与の大御本尊を御図顕。
(同月、神四郎、弥五郎、弥六郎が斬首)

60歳.
1281年 (弘安4年)
5月、元(旧名・蒙古)・高麗軍が来襲。(弘安の役)
6月、小蒙古御書にて、門下一同に他国侵逼難の予言的中を誇らしげに語ることのないように諌める。
11月、身延に十間四面(じゅつけんしめん)の大坊が完成。

61歳.
1282年 (弘安5年)
9月、日興上人に「日蓮一期弘法付属書」(身延相承書)を与える。
同月、身延下山、池上に入る。
10月13日、日興上人に「身延山付属書」(池上相承書)を与える。
同日、池上邸にて御入滅。

 
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