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四条金吾殿御返事 (しじょうきんごどの ごへんじ)
別名、煩悩即菩提御書 (ぼんのうそくぼだい ごしょ).
日蓮大聖人 51歳 御作.

 

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しじょう きんごどの ごへんじ.
四条 金吾殿 御返事.

ぶんえい 9ねん 5がつ 51さい おんさく.
文永 九年 五月 五十一歳 御作.

にちれんが しょなんに ついて おんとぶらい.
日蓮が 諸難に ついて 御とぶらひ.

いまに はじめざる こころざし ありがたく そうろう.
今に はじめざる 志 ありがたく 候.

ほけきょうの ぎょうじゃとして かかる だいなんに あい そうろうは くやしく おもい そうらわず.
法華経の 行者として かかる 大難に あひ 候は くやしく おもひ 候はず.

いかほど せいを うけ しに あい そうろうとも.
いかほど 生を うけ 死に あひ 候とも.

これほどの かほうの しょうじは そうらわじ.
是ほどの 果報の 生死は 候はじ.

また さんあく ししゅに こそ そうらいつらめ.
又 三悪 四趣に こそ 候いつらめ.

いまは しょうじ せつだんし ぶっかを うべき みと なれば よろこばしく そうろう.
今は 生死 切断し 仏果を うべき 身と なれば よろこばしく 候.

てんだい でんぎょうらは しゃくもんの りの いちねんさんぜんの ほうもんを ひろめ たもうすら.
天台 伝教等は 迹門の 理の 一念三千の 法門を 弘め 給うすら.

なお おんしつの なんに あい たまいぬ.
なを 怨嫉の 難に あひ 給いぬ.

にほんにしては でんぎょう より ぎしん えんちょう じかくら そうでんして ひろめ たもう.
日本にしては 伝教 より 義真 円澄 慈覚等 相伝して 弘め 給ふ.

だい18だいの ざす じえだいし なり みでし あまた あり.
第十八代の 座主 慈慧大師 なり 御弟子 あまた あり.

そのなかに だんな えしん そうが ぜんゆらと もうして よにん まします.
其の中に 檀那 慧心 僧賀 禅瑜等と 申して 四人 まします.

ほうもん また ふたつに わかれたり.
法門 又 二つに 分れたり.

だんな そうじょうは きょうを つたう.
檀那 僧正は 教を 伝ふ.

えしん そうずは かんを まなぶ.
慧心 僧都は 観を まなぶ.

されば きょうと かんとは にちがつの ごとし きょうは あさく かんは ふかし.
されば 教と 観とは 日月の ごとし 教は あさく 観は ふかし.

されば だんなの ほうもんは ひろくして あさし.
されば 檀那の 法門は ひろくして あさし.

えしんの ほうもんは せまくして ふかし.
慧心の 法門は せばくして ふかし.

いま にちれんが ぐづうする ほうもんは せまきよう なれども はなはだ ふかし.
今 日蓮が 弘通する 法門は せばきやう なれども はなはだ ふかし.

そのゆえは かの てんだい でんぎょうらの しょぐの ほうよりは いちじゅう たちいりたる ゆえなり.
其の故は 彼の 天台 伝教等の 所弘の 法よりは 一重 立入りたる 故なり.

ほんもん じゅりょうほんの さんだいじとは これなり.
本門 寿量品の 三大事とは 是なり.

なんみょうほうれんげきょうの しちじ ばかりを しゅぎょう すれば せまきが ごとし.
南無妙法蓮華経の 七字 ばかりを 修行 すれば せばきが 如し.

されども さんぜの しょぶつの しはん じっぽうさったの どうし.
されども 三世の 諸仏の 師範 十方薩タの 導師.

いっさいしゅじょう かいじょうぶつどうの しなんにて まします なれば ふかき なり.
一切衆生 皆成仏道の 指南にて まします なれば ふかき なり.

きょうに いわく 「しょぶつちえ じんじんむりょう」うんぬん.
経に 云く「諸仏智慧 甚深無量」 云云.

この きょうもんに しょぶつとは じっぽう さんぜの いっさいの しょぶつ.
此の 経文に 諸仏とは 十方 三世の 一切の 諸仏.

しんごんしゅうの だいにちにょらい じょうどしゅうの あみだ ないし しょしゅう しょきょうの ほとけ.
真言宗の 大日如来 浄土宗の 阿弥陀 乃至 諸宗 諸経の 仏.

ぼさつ かこ みらい げんざいの そうしょぶつ.
菩薩 過去 未来 現在の 総諸仏.

げんざいの しゃかにょらいを しょぶつと ときあげて つぎに ちえと いえり.
現在の 釈迦如来等を 諸仏と 説き挙げて 次に 智慧と いへり.

この ちえとは なにものぞ.
此の 智慧とは なにものぞ.

しょほうじっそう じゅうにょかじょうの ほったい なり.
諸法実相 十如果成の 法体 なり.

その ほったいとは また なにものぞ.
其の 法体とは 又 なにものぞ.

なんみょうほうれんげきょう これなり.
南無妙法蓮華経 是なり.

しゃくに いわく「じっそうの じんり ほんぬの みょうほうれんげきょう」と いえり.
釈に 云く「実相の 深理 本有の 妙法蓮華経」と いへり.

その しょほうじっそうと いうも しゃか たほうの にぶつと ならう なり.
其の 諸法実相と 云うも 釈迦 多宝の 二仏と ならう なり.

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しょほうをば たほうに やくし じっそうをば しゃかに やくす.
諸法をば 多宝に 約し 実相をば 釈迦に 約す.

これ また きょうちの にほう なり.
是れ 又 境智の 二法 なり.

たほうは きょうなり しゃかは ち なり.
多宝は 境なり 釈迦は 智 なり.

きょうちにににして しかも きょうちふにの ないしょう なり.
境智而二にして しかも 境智不二の 内証 なり.

これらは ゆゆしき だいじの ほうもん なり.
此等は ゆゆしき 大事の 法門 なり.

ぼんのう そく ぼだい しょうじ そく ねはんと いうも これなり.
煩悩 即 菩提 生死 即 涅槃と 云うも これなり.

まさしく なんにょ こうえの とき なんみょうほうれんげきょうと となうる ところを.
まさしく 男女 交会の とき 南無妙法蓮華経と となふる ところを.

ぼんのう そく ぼだい しょうじ そく ねはんと いうなり.
煩悩 即 菩提 生死 即 涅槃と 云うなり.

しょうじの とうたい ふしょうふめつと さとるより ほかに しょうじ そく ねはんは なきなり.
生死の 当体 不生不滅と さとるより 外に 生死 即 涅槃は なきなり.

ふげんきょうに いわく.
普賢経に 云く.

「ぼんのうを だんぜず ごよくを はなれず しょこんを きよむる ことを えて しょざいを めつじょ す」.
「煩悩を 断ぜず 五欲を 離れず 諸根を 浄むる ことを 得て 諸罪を 滅除 す」.

しかんに いわく.
止観に 云く.

「むみょう じんろうは そく これ ぼだい しょうじは そく ねはん なり」.
「無明塵労は 即 是 菩提 生死は 即 涅槃 なり」.

じゅりょうほんに いわく.
寿量品に 云く.

「つねに みずから この ねんを なす なにを もってか しゅじょうを して むじょうどうに いり.
「毎に 自ら 是の 念を 作す 何を 以てか 衆生を して 無上道に 入り.

すみやかに ぶっしんを じょうじゅすることを えせしめん」と.
速に 仏身を 成就することを 得せしめん」と.

ほうべんぼんに いわく「せけんの そう じょうじゅう なり」とうは この こころ なるべし.
方便品に 云く「世間の 相 常住 なり」等は 此の 意 なるべし.

かくの ごとく ほったいと いうも まったく よには あらず.
此くの 如く 法体と 云うも 全く 余には 非ず.

ただ なんみょうほうれんげきょうの ことなり.
ただ 南無妙法蓮華経の 事なり.

かかる いみじく とうとき ほけきょうを かこにて ひざの したに おき たてまつり.
かかる いみじく たうとき 法華経を 過去にて ひざの したに をき たてまつり.

あるいは あなづり くちひそみ あるいは しんじ たてまつらず.
或は あなづり くちひそみ、 或は 信じ 奉らず.

あるいは ほけきょうの ほうもんを ならうて いちにんをも きょうけし ほうみょうを つぐ.
或は 法華経の 法門を ならうて 一人をも 教化し 法命を つぐ.

ひとを あくしんを もって とに よせ かくに よせ おこつき わらい.
人を 悪心を もつて とに よせ かくに よせ おこつき わらひ.

あるいは ごしょうの つとめ なれども まず こんじょう かない がたければ.
或は 後生の つとめ なれども 先 今生 かなひ がたければ.

しばらく さしおけ なんどと むりょうに いいうとめ ぼうぜしに.
しばらく さしをけ なんどと 無量に いひうとめ 謗ぜしに.

よって こんじょうに にちれん しゅじゅの だいなんに あうなり.
よつて 今生に 日蓮 種種の 大難に あうなり.

しょきょうの ちょうじょうたる おんきょうを ひくく おき たてまつる ゆえに よりて.
諸経の 頂上たる 御経を ひきく をき 奉る 故に よりて.

げんせに また ひとに さげられ もちいられざる なり.
現世に 又 人に さげられ 用いられざる なり.

ひゆほんに 「ひとに したしみ つくとも じんしんに いれて ふびんと おもう べからず」と ときたり.
譬喩品に 「人に したしみ つくとも 人心に いれて 不便と おもふ べからず」と 説きたり.

しかるに きへん ほけきょうの ぎょうじゃと なり.
然るに 貴辺 法華経の 行者と なり.

けっく だいなんにも あい にちれんをも たすけ たもう こと.
結句 大難にも あひ 日蓮をも たすけ 給う 事.

ほっしほんの もんに 「けんげ ししゅう びく びくに うばそく うばい」と とき たもう.
法師品の 文に 「遣化 四衆 比丘 比丘尼 優婆塞 優婆夷」と 説き 給ふ.

この なかの うばそくとは きへんの ことに あらずんば だれをか ささむ.
此の 中の 優婆塞とは 貴辺の 事に あらずんば たれをか ささむ.

すでに ほうを きいて しんじゅして さからわざれば なり.
すでに 法を 聞いて 信受して 逆はざれば なり.

ふしぎや ふしぎや.
不思議や 不思議や.

もし しからば にちれん ほけきょうの ほっし なること うたがい なきか.
若し 然らば 日蓮 法華経の 法師 なる事 疑 なきか.

すなわち にょらいにも にたるらん.
則ち 如来にも にたるらん.

ぎょうにょらいじをも ぎょうずるに なりなん.
行如来事をも 行ずるに なりなん.

たほう たっちゅうにして にぶつ びょうざの とき.
多宝 塔中にして 二仏 並坐の 時.

じょうぎょうぼさつに ゆずり たまいし だいもくの ごじを にちれん ほぼ ひろめ もうすなり.
上行菩薩に 譲り 給いし 題目の 五字を 日蓮 粗 ひろめ 申すなり.

これ すなわち じょうぎょうぼさつの おんつかいか.
此れ 即ち 上行菩薩の 御使いか.

きへん また にちれんに したがいて ほけきょうの ぎょうじゃとして しょにんに かたり たまう.
貴辺 又 日蓮に したがひて 法華経の 行者として 諸人に かたり 給ふ.

これ あに るつうに あらずや.
是れ 豈 流通に あらずや.

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ほけきょうの しんじんを とおし たまえ.
法華経の 信心を とをし 給へ.

ひを きるに やすみぬれば ひを えず.
火を きるに やすみぬれば 火を えず.

ごうじょうの だいしんりきを いだして ほっけしゅうの しじょう きんご しじょう きんごと.
強盛の 大信力を いだして 法華宗の 四条 金吾 四条 金吾と.

かまくらじゅうの じょうげ ばんみん ないし にほんこくの いっさいしゅじょうの くちに うたわれ たまえ.
鎌倉中の 上下 万人 乃至 日本国の 一切衆生の 口に うたはれ 給へ.

あしき なさえ ながす いわんや よき なをや.
あしき 名さへ 流す 況や よき 名をや.

いかに いわんや ほけきょう ゆえの なをや.
何に 況や 法華経 ゆへの 名をや.

にょうぼうにも この よしを いいふくめて にちがつ りょうげん そうの つばさと ととのい たまえ.
女房にも 此の 由を 云ひふくめて 日月 両眼 さうの つばさと 調ひ 給へ.

にちがつ あらば めいど あるべきや.
日月 あらば 冥途 あるべきや.

りょうげん あらば さんぶつの がんみょう はいけん うたがい なし.
両眼 あらば 三仏の 顔貌 拝見 疑 なし.

そうの つばさ あらば じゃっこうの ほうせつへ とばん こと しゅゆ せつな なるべし.
さうの つばさ あらば 寂光の 宝刹へ 飛ばん 事 須臾 刹那 なるべし.

くわしくは またまた もうすべく そうろう.
委しくは 又又 申べく 候.

きょうきょう きんげん.
恐恐 謹言.

5がつ ふつか.
五月 二日.

にちれん かおう.
日蓮 花押.

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