b238から254.
如来滅後五五百歳始観心本尊抄
(にょらいめつご ご ごひゃくさいに はじむ かんじんの ほんぞんしょう).
日蓮大 聖人 52歳御作.

 

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にょらいめつご ご ごひゃくさいに はじむ かんじんの ほんぞんしょう.
如来滅後 五 五百歳 始 観心本尊抄.

ほんちょう しゃもん にちれん せん.
本朝 沙門 日蓮 撰.

ぶんえい 10ねん 52さい おんさく.
文永 十年 五十二歳 御作.

まかしかん だい5に いわく.
摩訶止観 第五に 云く.

せけんと にょぜと 1なり かいごうの い なり.
世間と 如是と 一なり 開合の 異 なり。.

「それ いっしんに じっぽうかいを ぐす.
「夫れ 一心に 十法界を 具す.

いっぽうかいに また じっぽうかいを ぐすれば ひゃっぽうかい なり.
一法界に 又 十法界を 具すれば 百法界 なり.

1かいに 30しゅの せけんを ぐすれば ひゃっぽうかいに すなわち 3000しゅの せけんを ぐす.
一界に 三十種の 世間を 具すれば 百法界に 即 三千種の 世間を 具す、.

この 3000 1ねんの こころに あり.
此の 三千・ 一念の 心に 在り.

もし こころ なくんば やみなん けにも こころ あれば すなわち 3000を ぐす.
若し 心 無んば 而已 介爾も 心 有れば 即ち 三千を 具す.

ないし ゆえに しょうして ふかしぎきょうと なす こころ ここに あり」とう うんぬん.
乃至 所以に 称して 不可思議境と 為す 意 此に 在り」等 云云.

ある ほんに いわく 1かいに 3しゅの せけんを ぐす.
或 本に 云く 一界に 三種の 世間を 具す。.

とうて いわく げんぎに いちねんさんぜんの みょうもくを あかすや.
問うて 云く 玄義に 一念三千の 名目を 明かすや、.

こたえて いわく みょうらく いわく あかさず.
答えて 曰く 妙楽 云く 明かさず、.

とうて いわく もんぐに いちねんさんぜんの みょうもくを あかすや.
問うて 曰く 文句に 一念三千の 名目を 明かすや、.

こたえて いわく みょうらく いわく あかさず.
答え て曰く 妙楽 云く 明かさず、.

とうて いわく その みょうらくの しゃく いかん.
問うて 曰く 其の 妙楽の 釈 如何、.

こたえて いわく ならびに いまだ いちねんさんぜんと いわず とう うんぬん.
答えて 曰く 並に 未だ 一念三千と 云わず 等 云云、.

とうて いわく しかんの 1 2 3 4 とうに いちねんさんぜんの みょうもくを あかすや.
問うて 曰く 止観の 一 二 三 四 等に 一念三千の 名目を 明かすや.

こたえて いわく これ なし.
答えて 曰く 之れ 無し、.

とうて いわく その しょう いかん.
問うて 曰く 其の 証 如何、.

こたえて いわく みょうらく いわく.
答えて 曰く 妙楽 云く.

「ゆえに しかんに いたって まさしく かんぽうを あかす ならびに 3000を もって しなんと なす」とう うんぬん.
「故に 止観に 至つて 正しく 観法を 明かす 並びに 三千を 以て 指南と 為す」等 云云、.

うたがって いわく げんぎ だい2に いわく.
疑つて 曰く 玄義 第二に 云く.

「また いっぽうかいに きゅうほうかいを ぐすれば ひゃっぽうかいに 1000にょぜ」とう うんぬん.
「又 一法界に 九法界を 具すれば 百法界に 千如是」等 云云、.

もんぐ だい1に いわく「いちにゅうに じっぽうかいを ぐすれば いっかい また じっかい なり.
文句 第一に 云く「一入に 十法界を 具すれば 一界 又 十界 なり.

じっかい おのおの 10にょぜ あれば すなわち これ いっせん」とう うんぬん.
十界 各 十如是 あれば 即ち 是れ 一千」等 云云、.

かんのんげんに いわく「じっぽうかい こうご なれば すなわち ひゃっぽうかい あり.
観音玄に 云く「十法界 交互 なれば 即ち 百法界 有り.

1000しゅの しょうそう みょうぶくして こころに あり.
千種の 性相・冥伏して 心に 在り.

げんぜんせずと いえども おんねんとして ぐそくす」とう うんぬん.
現前せずと 雖も 宛然として 具足す」等 云云、.

とうて いわく しかんの さきの しに いちねんさんぜんの みょうもくを あかすや.
問うて 曰く 止観の 前の 四に 一念三千の 名目を 明かすや、.

こたえて いわく みょうらく いわく あかさず.
答えて 曰く 妙楽 云く 明さず、.

とうて いわく その しゃく いかん.
問うて 云く 其の 釈 如何、.

こたう ぐけつ だい5に いわく.
答う 弘決 第五に 云く.

「もし しょうかんに のぞめば まったく いまだ ぎょうを ろんぜず.
「若し 正観に 望めば 全く 未だ 行を 論ぜず.

また 25ほうに へて じに やくして げを しょうず まさに よく しょうしゅうの ほうべんと なすに たえたり.
亦 二十五法に 歴て 事に 約して 解を 生ず 方に 能く 正修の 方便と 為すに 堪えたり.

この ゆえに さきの 6をば みな げに ぞくす」とう うんぬん.
是の 故に 前の 六をば 皆 解に 属す」等 云云、.

また いわく「ゆえに しかんの まさしく かんぽうを あかすに いたって.
又 云く「故に 止観の 正しく 観法を 明かすに 至つて.

ならびに 3000を もって しなんと なす.
並びに 三千 を以て 指南と 為す.

すなわち これ しゅうぐ くきょうの ごくせつ なり.
乃ち 是れ 終窮 究竟の 極説 なり.

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ゆえに じょの なかに「せつこ しんちゅう しょぎょう ほうもん」と いう まことに ゆえ あるなり.
故に 序の 中に「説己 心中 所行 法門」と 云う 良に 以所 有るなり.

こう たずね よまんもの こころに いえん なかれ」とう うんぬん.
請う 尋ね 読まん者 心に 異縁 無れ」等 云云。.

それ ちしゃの ぐほう 30ねん 29ねんの あいだは.
夫れ 智者の 弘法 三十年・ 二十九年の 間は.

げんもん とうの しょぎを といて 5じ 8きょう 100かいせんにょを あかし.
玄文 等の 諸義を 説いて 五時・ 八教・ 百界千如を 明かし.

さき 500よねんの あいだの しょひを せめ.
前き 五百余年の 間の 諸非を 責め.

ならびに てんじくの ろんし いまだ のべざるを あらわす.
並びに 天竺の 論師 未だ 述べざるを 顕す、.

しょうあんだいし いわく「てんじくの だいろん なお その たぐいに あらず.
章安大師 云く 「天竺の 大論 尚 其の 類に 非ず.

しんたんの にんし なんぞ わずらわしく かたるに およばん.
震旦の 人師 何ぞ 労わしく 語るに 及ばん.

これ こように あらず ほっそうの しからしむる のみ」とう うんぬん.
此れ 誇耀に 非ず 法相の 然らしむる のみ」等 云云、.

はかない かな てんだいの まつがくら けごん しんごんの がんその ぬずびとに.
墓ない かな 天台の 末学等 華厳 真言の 元祖の 盗人に.

いちねんさんぜんの じゅうほうを ぬすみ とられて かえって かれらが もんけと なりぬ.
一念三千の 重宝を 盗み 取られて 還つて 彼等が 門家と 成りぬ.

しょうあんだいし かねて この ことを しって なげいて いわく.
章安大師 兼ねて 此の 事を 知つて 歎いて 言く.

「この ことば もし おちなば しょうらい かなしむべし」うんぬん.
「斯の 言 若し 墜ちなば 将来 悲む 可し」云云。.

とうて いわく ひゃっかい1000にょと いちねんさんぜんと さべつ いかん.
問うて 曰く 百界千如と 一念三千と 差別 如何、.

こたえて いわく ひゃっかい1000にょは うじょうかいに かぎり いちねんさんぜんは じょう ひじょうに わたる.
答えて 曰く 百界千如は 有情界に 限り 一念三千は 情 非情に 亘る、.

ふしんして いわく.
不審して 云く.

ひじょうに 10にょぜ わたるならば そうもくに こころ あって うじょうの ごとく じょうぶつを なすべきや いかん.
非情に 十如是 亘るならば 草木に 心 有つて 有情の 如く 成仏を 為す 可きや 如何、.

こたえて いわく この こと なんしんなんげ なり.
答えて 曰く 此の 事 難信難解 なり.

てんだいの なんしんなんげに 2 あり.
天台の 難信難解に 二 有り.

1には きょうもんの なんしんなんげ 2には かんもんの なんしんなんげ なり.
一には 教門の 難信難解 二には 観門の 難信難解 なり、.

その きょうもんの なんしんなんげとは いちぶつの しょせつに おいて.
其の 教門の 難信難解とは 一仏の 所説に 於て.

にぜんの しょきょうには にじょう せんだい みらいに ながく じょうぶつ せず.
爾前の 諸経には 二乗 闡提・ 未来に 永く 成仏 せず.

きょうしゅ しゃくそんは はじめて しょうかくを じょうず.
教主 釈尊は 始めて 正覚を 成ず.

ほけきょう しゃくほん 2もんに らいしし たまい かの 2せつを やぶる.
法華経 迹本 二門に 来至し 給い 彼の 二説を 壊る.

1ぶつ 2ごん すいか なり たれびとか これを しんぜん.
一仏 二言 水火 なり 誰人か 之を 信ぜん.

これは きょうもんの なんしんなんげ なり.
此れは 教門の 難信難解 なり、.

かんもんの なんしんなんげは 100かいせんにょ いちねんさんぜん.
観門の 難信難解は 百界千如 一念三千・.

ひじょうの うえの しきしんの 2ほう 10にょぜ これなり.
非情の 上の 色心の 二法 十如是 是なり、.

しかりと いえども もくえの 2ぞうに おいては げてん ないてん ともに これを ゆるして ほんぞんと なす.
爾りと 雖も 木画の 二像に 於ては 外典 内典 共に 之を 許して 本尊と 為す.

その ぎに おいては てんだい いっけより いでたり.
其の 義に 於ては 天台 一家より 出でたり、.

そうもくの うえに しきしんの いんがを おかずんば もくえの ぞうを ほんぞんに たのみ たてまつること むやく なり.
草木の 上に 色心の 因果を 置かずんば 木画の 像を 本尊に 恃み 奉ること 無益 なり、.

うたがって いわく そうもく こくどの うえの 10にょぜの いんがの 2ほうは いずれの もんに いでたるや.
疑つて 云く 草木 国土の 上の 十如是の 因果の 二法は 何れの 文に 出でたるや、.

こたえて いわく しかん だい5に いわく.
答えて 曰く 止観 第五に 云く.

「こくどせけん また 10しゅの ほうを ぐす ゆえに あっこくど そう しょう たい りき」とうと うんぬん.
「国土世間 亦 十種の 法を 具す 所以に 悪国土・ 相・ 性・ 体・ 力」等と 云云、.

しゃくせん だい6に いわく「そうは ただ しきに あり しょうは ただ しんに あり.
釈籤 第六に 云く「相は 唯 色に 在り 性は 唯 心に 在り.

たい りき さ えんは ぎ しきしんを かね いんがは ただ しん ほうは ただ しきに あり」とう うんぬん.
体・ 力・ 作・ 縁は 義 色心を 兼ね 因果は 唯 心・報は 唯 色に 在り」等 云云、.

こんぺいろんに いわく.
金ぺい論に 云く.

「すなわち これ 1そう 1もく 1りゃく 1じん おのおの 1ぶっしょう おのおの 1いんが あり.
「乃ち 是れ 一草 ・一木・ 一礫・ 一塵・各 一仏性・ 各 一因果 あり.

えん りょうを ぐそくす」とう うんぬん.
縁 了を 具足す」等 云云。.

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とうて いわく しゅっしょ すでに これを きく かんじんの こころ いかん.
問うて 曰く 出処 既に 之を 聞く 観心の 心 如何、.

こたえて いわく かんじんとは わが こしんを かんじて じっぽうかいを みる これを かんじんと いうなり.
答えて 曰く 観心とは 我が 己心を 観じて 十法界を 見る 是を 観心と 云うなり、.

たとえば たにんの 6こんを みると いえども いまだ じめんの 6こんを みざれば じぐの 6こんを しらず.
譬えば 他人の 六根を 見ると 雖も 未だ 自面の 六根を 見ざれば 自具の 六根を 知らず.

みょうきょうに むかうの とき はじめて じぐの 6こんを みるが ごとし.
明鏡に 向うの 時 始めて 自具の 六根を 見るが 如し、.

たとい しょきょうの なかに しょしょに 6どう ならびに ししょうを のすと いえども.
設い 諸経の 中に 処処に 六道 並びに 四聖を 載すと 雖も.

ほけきょう ならびに てんだいだいし しょじゅつの まかしかん とうの みょうきょうを みざれば.
法華経 並びに 天台大師 所述の 摩訶止観 等の 明鏡を 見ざれば.

じぐの じっかい 100かいせんにょ いちねんさんぜんを しらざる なり.
自具の 十界・ 百界千如・ 一念三千を 知らざる なり。.

とうて いわく ほけきょうは いずれの もんぞ てんだいの しゃくは いかん.
問うて 云く 法華経は 何れの 文ぞ 天台の 釈は 如何、.

こたえて いわく ほけきょう だい1 ほうべんぽんに いわく.
答えて 曰く 法華経 第一 方便品に 云く.

「しゅじょうをして ぶっちけんを ひらかしめんと ほっす」とう うんぬん.
「衆生をして 仏知見を 開かしめんと 欲す」等 云云.

これは 9かい しょぐの ぶっかい なり.
是は 九界 所具の 仏界 なり、.

じゅりょうほんに いわく「かくの ごとく われ じょうぶつ してより このかた はなはだ おおいに くおん なり.
寿量品に 云く「是くの 如く 我 成仏 してより 已来 甚 大に 久遠 なり.

じゅみょう むりょうあそうぎこう じょうじゅうにして めっせず.
寿命・ 無量阿僧祇劫・ 常住にして 滅せず.

もろもろの ぜんなんし われ もと ぼさつの どうを ぎょうじて じょうぜし ところの じゅみょう いま なお いまだ つきず.
諸の 善男子・ 我 本 菩薩の 道を 行じて 成ぜし 所の 寿命 今 猶 未だ 尽きず.

また かみの すうに ばいせり」とう うんぬん.
復 上の 数に 倍せり」等 云云.

この きょうもんは ぶっかい しょぐの きゅうかい なり.
此の 経文は 仏界 所具の 九界 なり、.

きょうに いわく.
経に 云く.

「だいばだった ないし てんのうにょらい」とう うんぬん.
「提婆達多 乃至 天王如来」等 云云.

じごくかい しょぐの ぶっかい なり.
地獄界 所具の 仏界 なり、.

きょうに いわく.
経に 云く.

「1を らんばと なづけ ないし なんだち ただ よく ほっけの なを ごじする ものは ふく はかる べからず」とう うんぬん.
「一を 藍婆と 名け 乃至 汝等 但 能く 法華の 名を 護持する 者は 福 量る べからず」等 云云、.

これ がきかい しょぐの じっかい なり.
是れ 餓鬼界 所具の 十界 なり、.

きょうに いわく.
経に 云く.

「りゅうにょ ないし じょう とうしょうかく」とう うんぬん.
「竜女 乃至 成 等正覚」等 云云.

これ ちくしょうかい しょぐの じっかい なり.
此れ 畜生界 所具の 十界 なり、.

きょうに いわく.
経に 云く.

「ばじあしゅらおう ないし 1げ 1くを きいて あのくたらさんみゃくさんぼだいを うべし」とう うんぬん.
「婆稚阿修羅王 乃至 一偈 一句を 聞いて・ 阿耨多羅三藐三菩提を 得べし」等 云云.

しゅらかい しょぐの じっかい なり.
修羅界 所具の 十界 なり、.

きょうに いわく.
経に 云く.

「もし ひと ほとけの ための ゆえに ないし みな すでに ぶつどうを じょうず」とう うんぬん.
「若し 人 仏の 為の 故に 乃至 皆 已に 仏道を 成ず」等 云云.

これ にんかい しょぐの じっかい なり.
此れ 人界 所具の 十界 なり、.

きょうに いわく.
経に 云く.

「だいぼんてんのう ないし われらも また かくのごとく かならず まさに さぶつすることを うべし」とう うんぬん.
「大梵天王 乃至 我等も 亦 是くの 如く・ 必ず 当に 作仏することを 得べし」等 云云.

これ てんかい しょぐの じっかい なり.
此れ 天界 所具の 十界 なり、.

きょうに いわく.
経に 云く.

「しゃりほつ ないし けこうにょらい」とう うんぬん これ しょうもんかい しょぐの じっかい なり.
「舎利弗 乃至 華光如来」等 云云 此れ 声聞界 所具の 十界 なり、.

きょうに いわく.
経に 云く.

「その えんかくを もとむる もの びく びくに ないし がっしょうし きょうしんを もって ぐそくの どうを きかんと ほっす」とう うんぬん.
「其の 縁覚を 求むる 者・ 比丘 比丘尼 乃至 合掌し 敬心を 以て 具足の 道を 聞かんと 欲す」等 云云、.

これ すなわち えんがくかい しょぐの じっかい なり.
此れ 即ち 縁覚界 所具の 十界 なり、.

きょうに いわく.
経に 云く.

「じゆせんがい ないし しんじょう だいほう」とう うんぬん これ すなわち ぼさつ しょぐの じっかい なり.
「地涌千界 乃至 真浄 大法」等 云云 此れ 即ち 菩薩 所具の 十界 なり、.

きょうに いわく.
経に 云く.

「わくせつ こしん わくせつ たしん」とう うんぬん.
「或説 己身 或説 他身」等 云云.

すなわち ぶっかい しょぐの じっかい なり.
即ち 仏界 所具の 十界 なり。.

とうて いわく じためんの 6こん ともに これを みる.
問うて 曰く 自他 面の 六根 共に 之を 見る.

ひしの じっかいに おいては いまだ これを みず いかんが これを しんぜん.
彼此の 十界に 於ては 未だ 之を 見ず 如何が 之を 信ぜん、.

こたえて いわく ほけきょう ほっしほんに いわく「なんしん なんげ」.
答えて 曰く 法華経 法師品に 云く「難信 難解」.

ほうとうほんに いわく.
宝塔品に 云く.

「6なんくい」とう うんぬん.
「六難九易」等 云云、.

てんだいだいし いわく.
天台大師 云く

「2もん ことごとく むかしと はんすれば なんしん なんげ なり」.
「二門 悉く 昔と 反すれば 難信 難解 なり」.

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しょうあんだいし いわく.
章安大師云く.

「ほとけ これを もって だいじと なす なんぞ げし やすきことを うべけんや」とう うんぬん.
「仏 此れを 将て 大事 と為す 何ぞ 解し 易きことを 得可けんや」等 云云、.

でんぎょうだいし いわく.
伝教大師 云く.

「この ほけきょうは もっとも これ なんしん なんげ なり ずいじいの ゆえに」とう うんぬん.
「此の 法華経は 最も 為れ 難信 難解 なり 随自意の 故に」等 云云、.

それ ざいせの しょうきは かこの しゅくじゅう あつき うえ.
夫れ 在世の 正機は 過去の 宿習 厚き 上.

きょうしゅ しゃくそん たほうぶつ じっぽうぶんしんの しょぶつ じゆせんがい もんじゅ みろくら.
教主 釈尊・ 多宝仏・ 十方分身の 諸仏・ 地涌千界・ 文殊・ 弥勒等.

これを たすけて かんぎょう せしむるに なお しんぜざるもの これ あり.
之を 扶けて 諌暁 せしむるに 猶 信ぜざる 者 之れ 有り.

5000 せきを さり にんてん うつさる いわんや しょうぞうをや.
五千 席を 去り 人天 移さる 況や 正像をや.

いかに いわんや まっぽうの はじめをや なんじ これを しんぜば しょうほうに あらじ.
何に 況や 末法の 初をや 汝 之を 信ぜば 正法に 非じ。.

とうて いわく きょうもん ならびに てんだい しょうあんらの げしゃくは ぎもう なし.
問うて 曰く 経文 並に 天台 章安等の 解釈は 疑網 無し.

ただし ひを もって みずと いい すみを もって しろしと いう.
但し 火を 以て 水と 云い 墨を 以て 白しと 云う.

たとい ぶっせつ たりと いえども しんを とりがたし.
設い 仏説 為りと 雖も 信を 取り難し、.

いま しばしば ためんを みるに ただ にんかいに かぎって よかいを みず.
今 数ば 他面を 見るに 但 人界に 限つて 余界を 見ず.

じめんも またまた かくの ごとし いかんが しんじんを たてんや.
自面も 亦復 是くの 如し 如何が 信心を 立てんや、.

こたう しばしば ためんを みるに あるときは よろこび あるときは いかり あるときは たいらかに.
答う 数ば 他面を 見るに 或時は 喜び 或時は 瞋り 或時は 平に.

あるときは むさぼり げんじ あるときは おろか げんじ あるときは てんごく なり.
或時は 貪り 現じ 或時は 癡 現じ 或時は 諂曲 なり、.

いかるは じごく むさぼるは がき おろかは ちくしょう.
瞋るは 地獄・ 貪るは 餓鬼・ 癡は 畜生・.

てんごくなるは しゅら よろこぶは てん たいらかなるは にん なり.
諂曲なるは 修羅・ 喜ぶは 天・ 平かなるは 人 なり.

ためんの しきほうに おいては 6どう ともに これ あり.
他面の 色法に 於ては 六道 共に 之れ 有り.

ししょうは みょうぶくして あらわれ ざれども いさいに これを たずねば これ あるべし.
四聖は 冥伏して 現われ ざれども 委細に 之を 尋ねば 之れ 有る可し。.

とうて いわく 6どうに おいて ふんみょう ならずと いえども ほぼ これを きくに これを そなうるに にたり.
問うて 曰く 六道に 於て 分明 ならずと 雖も 粗 之を 聞くに 之を 備うるに 似たり、.

ししょうは まったく みえざるは いかん.
四聖は 全く 見えざるは 如何、.

こたえて いわく さきには にんかいの 6どう これを うたがう.
答えて 曰く 前には 人界の 六道 之を 疑う、.

しかりと いえども しいて これを いって そうじの ことばを いだせし なり.
然りと 雖も 強いて 之を 言つて 相似の 言を 出だせし なり.

ししょうも また しかるべきか こころみに どうりを てんかして まんかいち これを のべん.
四聖も 又 爾る可きか 試みに 道理を 添加して 万か一 之を 宣べん、.

ゆえに せけんの むじょうは がんぜんに あり あに にんかいに 2じょうかい なからんや.
所以に 世間の 無常は 眼前に 有り 豈 人界に 二乗界 無からんや、.

むこの あくにんも なお さいしを じあいす ぼさつかいの いちぶん なり
無顧の 悪人も 猶 妻子を 慈愛す 菩薩界の 一分 なり、.

ただ ぶっかいばかり げんじ がたし.
但 仏界計り 現じ 難し.

9かいを ぐするを もって しいて これを しんじ ぎわく せしむること なかれ.
九界を 具するを 以て 強いて 之を 信じ 疑惑 せしむること 勿れ、.

ほけきょうの もんに にんかいを といて いわく.
法華経の 文に 人界を 説いて 云く.

「しゅじょうを して ぶっちけんを ひらかしめんと ほっす」.
「衆生を して 仏知見を 開かしめんと 欲す」.

ねはんぎょうに いわく.
涅槃経に 云く.

「だいじょうを がくするものは にくげん ありと いえども なづけて ぶつげんと なす」とう うんぬん.
「大乗を 学する者は 肉眼 有りと 雖も 名けて 仏眼と 為す」等 云云、.

まつだいの ぼんぷ しゅっしょうして ほけきょうを しんずるは にんかいに ぶっかいを ぐそくする ゆえなり.
末代の 凡夫 出生して 法華経を 信ずるは 人界に 仏界を 具足する 故なり。.

とうて いわく じっかいごぐの ぶつご ふんみょう なり.
問うて 曰く 十界互具の 仏語 分明 なり.

しかりと いえども われらが れっしんに ぶっぽうかいを ぐすること しんを とりがたき ものなり.
然りと 雖も 我等が 劣心に 仏法界を 具すること 信を 取り難き 者なり.

こんじ これを しんぜずば かならず いっせんだいと ならん.
今時 之を 信ぜずば 必ず 一闡提と 成らん.

ねがわくば だいじひを おこして これを しんぜしめ あびの くを くご したまえ.
願くば 大慈悲を 起して 之を 信ぜしめ 阿鼻の 苦を 救護 したまえ。.

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こたえて いわく.
答えて 曰く.

なんじ すでに ゆいいちだいじいんねんの きょうもんを けんもんして これを しんぜ ざれば.
汝 既に 唯一大事因縁の 経文を 見聞して 之を 信ぜ ざれば.

しゃくそんより いげ しえの ぼさつ ならびに まつだい りそくの われら.
釈尊より 已下 四依の 菩薩 並びに 末代 理即の 我等.

いかんが なんじが ふしんを くご せんや.
如何が 汝が 不信を 救護 せんや、.

しかりと いえども こころみに これを いわん.
然りと 雖も 試みに 之を 云わん.

ほとけに あい たてまつって さとらざる もの.
仏に 値い たてまつつて 覚らざる 者・.

あなんらの へんにして とくどうする もの これ あればなり.
阿難等の 辺にして 得道する 者 之れ 有ればなり、.

それ きに 2あり 1には ほとけを みたて まつり ほっけにして とくどうす.
其れ 機に 二 有り 一には 仏を 見たて まつり 法華にして 得道す.

2には ほとけを みたて まつらざれども ほっけにて とくどう するなり.
二には 仏を 見たて まつらざれども 法華にて 得道 するなり、.

その うえ ぶっきょう いぜんは かんどの どうし がっしの げどう じゅきょう しいだ とうを もって えんと なして しょうけんに いるもの これ あり.
其の 上 仏教 已前は 漢土の 道士・ 月支の 外道・ 儒教・ 四韋陀 等を 以て 縁と 為して 正見に 入る者 之れ 有り、.

また りこんの ぼさつ ぼんぷらの けごん ほうどう はんにゃ とうの しょだいじょうきょうを ききし えんを もって だいつう くおんの げしゅを けんじする もの たたなり.
又 利根の 菩薩 凡夫等の 華厳・ 方等・ 般若 等の 諸大乗経を 聞きし 縁を 以て 大通 久遠の 下種を 顕示する 者 多々なり.

れいせば どっかくの ひけ らくようの ごとし きょうげの とくどう これなり.
例せば 独覚の 飛花 落葉の 如し 教外の 得道 是なり、.

かこの げしゅ けちえん なき ものの ごんしょうに しゅうちゃくする ものは たとい ほけきょうに あいたてまつれども しょうごんの けんを いでず.
過去の 下種 結縁 無き 者の 権小に 執着する 者は 設い 法華経に 値い奉れども 小権の 見を 出でず、.

じけんを もって せいぎと するが ゆえに かえって ほけきょうを もって.
自見を 以て 正義と 為るが 故に 還つて 法華経を 以て.

あるいは しょうじょうきょうに どうじ あるいは けごん だいにちきょう とうに どうじ あるいは これを くだす.
或は 小乗経に 同じ 或は 華厳 大日経 等に 同じ 或は 之を 下す、.

これらの しょしは じゅけ げどうの けんせいより おとれる ものなり.
此等の 諸師は 儒家 外道の 賢聖より 劣れる 者なり、.

これらは しばらく これを おく.
此等は 且らく 之を 置く、.

じっかいごぐ これを たつるは せきちゅうの ひ もくちゅうの はな.
十界互具 之を 立つるは 石中の 火・木中の 花.

しんじがたけれども えんに あうて しゅっしょうすれば これを しんず.
信じ難けれども 縁に 値うて 出生すれば 之を 信ず.

にんかい しょぐの ぶっかいは すいちゅうの ひ かちゅうの みず もっとも はなはだ しんじ がたし.
人界 所具の 仏界は 水中の 火・ 火中の 水 最も 甚だ 信じ 難し、.

しかりと いえども りゅうかは みずより いで りゅうすいは ひより しょうず.
然りと 雖も 竜火は 水より 出で 竜水は 火より 生ず.

こころ えられ ざれども げんしょう あれば これを もちゆ.
心 得られ ざれども 現証 有れば 之を 用ゆ、.

すでに にんかいの はっかい これを しんず ぶっかい なんぞ これを もちいざらん.
既に 人界の 八界 之を 信ず、仏界 何ぞ 之を 用いざらん.

ぎょうしゅんらの せいじんの ごときは ばんみんに おいて へんぱ なし.
尭舜等の 聖人の 如きは 万民に 於て 偏頗 無し.

にんかいの ぶっかいの いちぶん なり.
人界の 仏界の 一分 なり、.

ふきょうぼさつは しょけんの ひとに おいて ぶっしんを みる.
不軽菩薩は 所見の 人に 於て 仏身を 見る.

しったたいしは にんかいより ぶっしんを じょうず.
悉達太子は 人界より 仏身を 成ず.

これらの げんしょうを もって これを しんず べきなり.
此等の 現証を 以て 之を 信ず 可きなり。.

とうて いわく きょうしゅ しゃくそんは これより けんごに これを ひす さんなくいだんの ほとけ なり.
問うて 曰く 教主 釈尊は 此れより 堅固に 之を 秘す 三惑已断の 仏 なり.

また じっぽう せかいの こくしゅ いっさいの ぼさつ 2じょう にんてん とうの しゅくん なり.
又 十方 世界の 国主・ 一切の 菩薩・ 二乗・ 人天 等の 主君 なり.

みゆきの ときは ぼんてん ひだりに あり たいしゃく みぎに はべり.
行の 時は 梵天 左に 在り 帝釈 右に 侍べり.

ししゅはちぶ しりえに したがい こんごう さきに みちびき 8まんほうぞうを えんぜつして いっさいしゅじょうを とくだつ せしむ.
四衆八部 後に 聳い 金剛 前に 導びき 八万法蔵を 演説して 一切衆生を 得脱 せしむ.

かくの ごとき ぶっだ なにを もって われら ぼんぷの こしんに じゅう せしめんや.
是くの 如き 仏陀 何を 以て 我等 凡夫の 己心に 住 せしめんや、.

また しゃくもん にぜんの こころを もって これを ろんずれば きょうしゅ しゃくそんは しじょうしょうかくの ほとけ なり.
又 迹門 爾前の 意を 以て 之を 論ずれば 教主 釈尊は 始成正覚の 仏 なり、.

かこの いんぎょうを たずねもとめれば あるいは のうせたいし あるいは じゅどうぼさつ あるいは しびおう.
過去の 因行を 尋ね求れば 或は 能施太子 或は 儒童菩薩 或は 尸毘王.

あるいは さったおうじ あるいは さんぎ 100こう あるいは どうゆじんこう あるいは むりょうあそうぎこう あるいは しょほっしんじ.
或は 薩た王子 或は 三祇・ 百劫 或は 動喩塵劫 或は 無量阿僧祇劫 或は 初発心時.

あるいは 3ぜんじんでん とうの あいだ 7まん 5せん 6せん 7せん とうの ほとけを くようし.
或は 三千塵点 等の 間 七万・ 五千・ 六千・ 七千等の 仏を 供養し.

こうを つみ ぎょう まんじて いまの きょうしゅ しゃくそんと なりたまう.
劫を 積み 行 満じて 今の 教主 釈尊と 成り給う、.

→a242

b243

かくの ごとき いんいの しょぎょうは みな われらが こしん しょぐの ぼさつかいの くどくか.
是くの 如き 因位の 諸行は 皆 我等が 己身 所具の 菩薩界の 功徳か、.

かいを もって これを ろんずれば きょうしゅ しゃくそんは しじょうしょうかくの ほとけ.
果位を 以て 之を 論ずれば 教主 釈尊は 始成正覚の 仏.

40よねんの あいだ しきょうの しきしんを じげんし にぜん しゃくもん ねはんぎょう とうを えんぜつして いっさいしゅじょうを りやくし たまう.
四十余年の 間 四教の 色身を 示現し 爾前・ 迹門・ 涅槃経 等を 演説して 一切衆生を 利益し 給う、.

いわゆる けぞうの とき じっぽう だいじょうの るしゃな あごんきょうの 34しん だんけつじょうどうの ほとけ ほうどう はんにゃの 1000ぶつ とう.
所謂 華蔵の 時 ・十方 台上の 盧舎那・ 阿含経の 三十四心・ 断結成道の 仏、方等 般若の 千仏 等、.

だいにち こんごうちょうの 1200よそん ならびに しゃくもん ほうとうほんの しどしきしん ねはんぎょうの あるいは じょうろくと みる.
大日・ 金剛頂の 千二百余尊、並びに 迹門 宝塔品の 四土色身、涅槃経の 或は 丈六と 見る.

あるいは しょうしん だいしんと げんじ あるいは るしゃなと みる あるいは み こくうに おなじと みる.
或は 小身 大身と 現じ 或は 盧舎那と 見る 或は 身 虚空に 同じと 見る.

ししゅの み ないし 80 ごにゅうめつ しゃりを とどめて しょうぞうまつを りやくし たまう.
四種の 身 乃至 八十 御入滅 舎利 を留めて 正像末を 利益し 給う、.

ほんもんを もって これを うたがわば きょうしゅ しゃくそんは 500じんでん いぜんの ほとけ なり.
本門を 以て 之れを 疑わば 教主 釈尊は 五百塵点 已前の 仏 なり.

いんいも また かくの ごとし.
因位も 又 是くの 如し、.

それより いらい じっぽうせかいに ぶんしんし いちだいしょうぎょうを えんぜつして じんじゅの しゅじょうを きょうけし たまう.
其れより 已来 十方世界に 分身し 一代聖教を 演説して 塵数の 衆生を 教化し 給う、.

ほんもんの しょけを もって しゃくもんの しょけに ひきょう すれば.
本門の 所化を 以て 迹門の 所化に 比校 すれば.

いったいと たいかいと いちじんと だいせんと なり.
一滴と 大海と 一塵と 大山と なり、.

ほんもんの 1ぼさつを しゃくもん じっぽうせかいの もんじゅ かんのんらに たいこう すれば.
本門の 一菩薩を 迹門 十方世界の 文殊 観音等に 対向 すれば.

こうえんを もって たいしゃくに ひするに なお およばず.
猴猿を 以て 帝釈に 比するに 尚 及ばず、.

そのほか じっぽうせかいの だんなくしょうかの 2じょう ならびに ぼんてん たいしゃく にちがつ してん しりんおう.
其の外 十方世界の 断惑証果の 二乗 並びに 梵天・ 帝釈・ 日月・ 四天・ 四輪王・.

ないし むけんだいじょうの だいかえん とう これらは みな わが いちねんの じっかいか こしんの 3000か.
乃至 無間大城の 大火炎 等 此等は 皆 我が 一念の 十界か 己身の 三千か、.

ぶっせつ たりと いえども これを しんず べからず.
仏説 為りと 雖も 之を 信ず 可からず。.

これを もって これを おもうに にぜんの しょきょうは じつじ なり じつご なり.
此れを 以て 之を 思うに 爾前の 諸経は 実事 なり 実語 なり、.

けごんきょうに いわく.
華厳経に 云く.

「くきょうして こもうを はなれ せんなきこと こくうの ごとし」と.
「究竟して 虚妄を 離れ 染 無きこと 虚空の 如し」と.

にんのうきょうに いわく.
仁王経に 云く.

「みなもとを きわめ しょうを つくして みょうち そんせり」.
「源を 窮め 性を 尽して 妙智 存せり」.

こんごうはんにゃきょうに いわく「しょうじょうの ぜんのみ あり」.
金剛般若経に 云く「清浄の 善のみ 有り」.

めみょうぼさつの きしんろんに いわく.
馬鳴菩薩の 起信論に 云く.

「にょらいぞうの なかに しょうじょうの くどくのみ あり」.
「如来蔵の 中に 清浄の 功徳のみ 有り」.

てんじんぼさつの ゆいしきろんに いわく.
天親菩薩の 唯識論に 云く.

「いわく よの うろと れつのむろと しゅは こんごうゆじょうが げんざい ぜんする とき ごくえんみょうじゅんじょうの ほんしきを ひく.
「謂く 余の 有漏と 劣の 無漏と 種は 金剛喩定が 現在 前する 時 極円明純浄の 本識を 引く.

かの えに あらざるが ゆえに みな ながく きしゃす」とう うんぬん.
彼の 依に 非ざるが 故に 皆 永く 棄捨す」等 云云、.

にぜんの きょうぎょうと ほけきょうと これを きょうりょう するに かの きょうぎょうは むすう なり.
爾前の 経経と 法華経と 之を 校量 するに 彼の 経経は 無数 なり.

じせつ すでに ながし いちぶつ2ごん かれに つくべし.
時説 既に 長し 一仏二言 彼に 付く可し、.

めみょうぼさつは ふほうぞう だい11にして ぶっきに これあり.
馬鳴菩薩は 付法蔵 第十一にして 仏記に 之れ有り.

てんじんは 1000ぶの ろんし しえの だいし なり.
天親は 千部の 論師・ 四依の 大士 なり、.

てんだいだいしは へんぴの しょうそうにして いちろんをも のべず たれか これを しんぜん.
天台大師は 辺鄙の 小僧にして 一論をも 宣べず 誰か 之を 信ぜん、.

その うえ たを すて しょうに つくとも ほけきょうの もん ふんみょう ならば すこし じこ あらんも.
其の 上 多を 捨て 小に 付くとも 法華経の 文 分明 ならば 少し 恃怙 有らんも.

ほけきょうの もんに いずれの ところにか じっかいごぐ 100かい1000にょ いちねんさんぜんの ふんみょうなる しょうもん これ ありや.
法華経の 文に 何れの 所にか 十界互具・ 百界千如・ 一念三千の 分明なる 証文 之れ 有りや、.

したがって きょうもんを かいたく するに 「だんしょほうちゅうあく」とう うんぬん.
随つて 経文を 開拓 するに 「断諸法中悪」等 云云、.

→a243

b244

てんじんぼさつの ほっけろん けんねぼさつの ほうしょうろんに じっかいごぐ これ なく.
天親菩薩の 法華論・ 堅慧菩薩の 宝性論に 十界互具 之れ 無く.

かんど なんぼくの しょだいにんし にほん しちじの まっしの なかにも この ぎ なし.
漢土 南北の 諸大人師・ 日本 七寺の 末師の 中にも 此の 義 無し.

ただ てんだい いちにんの びゃっけん なり でんぎょう いちにんの みょうでん なり.
但 天台 一人の 僻見 なり 伝教 一人の 謬伝 なり、.

ゆえに しょうりょうこくしの いわく「てんだいの あやまり なり」.
故に 清涼国師の 云く「天台の 謬り なり」.

えおんほっしの いわく.
慧苑法師の 云く.

「しかるに てんだいは しょうじょうを よんで さんぞうきょうと なし その な みょうらん するを もって」とう うんぬん.
「然るに 天台は 小乗を 呼んで 三蔵教と 為し 其の 名 謬濫 するを 以て」等 云云、.

りょうこうが いわく.
了洪が 云く.

「てんだい ひとり いまだ けごんの こころを つくさず」とう うんぬん.
「天台 独り 未だ 華厳の 意を 尽さず」等 云云、.

とくいちが いわく.
得一が 云く.

「つたないかな ちこう なんじは これ たれが でしぞ.
「咄いかな 智公 汝は 是れ 誰が 弟子ぞ、.

3ずんに たらざる ぜっこんを もって ふめんぜつの しょせつの きょうじを ぼうず」とう うんぬん.
三寸に 足らざる 舌根を 以て 覆面舌の 所説の 教時を 謗ず」等 云云、.

こうぼうだいしの いわく.
弘法大師の 云く.

「しんたんの にんしら あらそって だいごを ぬすんで おのおの じしゅうに なづく」とう うんぬん.
「震旦の 人師等 諍つて 醍醐を 盗んで 各 自宗に 名く」等 云云、.

それ いちねんさんぜんの ほうもんは いちだいの ごんじつに みょうもくを けずり.
夫れ 一念三千の 法門は 一代の 権実に 名目を 削り.

しえの しょろんし その ぎを のせず かんど にちいきの にんしも これを もちいず いかんが これを しんぜん.
四依の 諸論師 其の 義を 載せず 漢土 日域の 人師も 之を 用いず、 如何が 之を 信ぜん。.

こたえて いわく このなん もっとも はなただし もっとも はなはだし.
答えて 曰く 此の難 最も 甚し 最も 甚し.

ただし しょきょうと ほっけとの そういは きょうもんより こと おこって ふんみょう なり.
但し 諸経と 法華との 相違は 経文より 事 起つて 分明 なり.

みけんと いけんと しょうみょうと ぜっそうと にじょうの じょうふと しじょうと くじょうと とう これを あらわす.
未顕と 已顕と 証明と 舌相と 二乗の 成不と 始成と 久成と 等 之を 顕わす、.

しょろんしの こと.
諸論師の 事、.

てんだいだいし いわく.
天台大師 云く.

「てんだい りゅうじゅ ないがん れいねんたり そとには ときの よろしきに かない おのおの ごんに よる ところあり.
「天親 竜樹・ 内鑒 冷然たり 外には 時の 宜きに 適い 各 権に 拠る 所あり、.

しかるに にんし ひとえに げし がくしゃ いやしくも しゅうし ついに しせきを おこし おのおの いっぺんを たもちて おおいに しょうどうに そむけり」とう うんぬん.
而るに 人師 偏に 解し 学者 苟も 執し 遂に 矢石を 興し 各 一辺を 保ちて 大に 聖道に 乖けり」等 云云、.

しょうあんだいし いわく.
章安大師 云く.

「てんじくの だいろん なお その たぐいに あらず しんたんの にんし なんぞ わずらわしく かたるに およばん.
「天竺の 大論 尚 其の 類に 非ず 真旦の 人師 何ぞ 労わしく 語るに 及ばん.

これ こように あらず ほっそうの しからしむる のみ」とう うんぬん.
此れ 誇耀に 非ず 法相の 然らしむる のみ」等 云云、.

てんじん りゅうじゅ めみょう けんねらは ないがん れいねん なり.
天親・ 竜樹・ 馬鳴 ・堅慧等は 内鑒 冷然 なり.

しかりと いえども とき いまだ いたらざるが ゆえに これを のべざるか.
然りと 雖も 時 未だ 至らざるが 故に 之を 宣べざるか、.

にんしに おいては てんだい いぜんは あるいは たまを ふくみ あるいは いっこうに これを しらず.
人師に 於ては 天台 已前は 或は 珠を 含み 或は 一向に 之を 知らず.

いごの にんし あるいは はじめに これを はして のちに きぶくする ひと あり.
已後の 人師 或は 初に 之を 破して 後に 帰伏する 人 有り.

あるいは いっこう もちいざる ものも これ あり.
或は 一向 用いざる 者も 之れ 有り.

ただし だんしょほうちゅうあくの きょうもんを えす べきなり.
但し 断諸法中悪の 経文を 会す 可きなり、.

かれは ほけきょうに にぜんの きょうもんを のするなり.
彼は 法華経に 爾前の 経文を 載するなり.

ゆいて これを みるに きょうもん ふんみょうに じっかいごぐ これを とく.
往いて 之を 見るに 経文 分明に 十界互具 之を 説く.

いわゆる 「よくりょうしゅじょうかいぶっちけん」とう うんぬん.
所謂 「欲令衆生開仏知見」等 云云、.

てんだい この きょうもんを うけて いわく.
天台 此の 経文を 承けて 云く.

「もし しゅじょうに ほとけの ちけん なくんば なんぞ かいを ろんずる ところ あらん.
「若し 衆生に 仏の 知見 無んば 何ぞ 開を 論ずる 所 あらん.

まさに しるべし ほとけの ちけん しゅじょうに うんざいする ことを」うんぬん.
当に 知るべし 仏の 知見 衆生に 蘊在する ことを」云云、.

しょうあんだいしの いわく.
章安大師の 云く.

「しゅじょうに もし ほとけの ちけん なくんば なんぞ かいごする ところ あらん.
「衆生に 若し 仏の 知見 無くんば 何ぞ 開悟する 所 あらん.

もし ひんにょに くら なくんば なんぞ しめす ところ あらんや」とう うんぬん.
若し 貧女に 蔵 無んば 何ぞ 示す 所 あらんや」等 云云。.

ただし えし がたき ところは かみの きょうしゅ しゃくそん とうの だいなん なり.
但し 会し 難き 所は 上の 教主 釈尊 等の 大難 なり、.

この ことを ほとけ しゃえして いわく.
此の 事を 仏 遮会して 云く.

「いこんとうせつ さいい なんしん なんげ」と つぎしもの ろくなんくい これなり.
「已今当説 最為 難信 難解」と 次下の 六難九易 是なり、.

→a244

b245

てんだいだいし いわく.
天台大師 云く.

「2もん ことごとく むかしと はんすれば しんじがたく げしがたし ほこに あたるの なんじ なり」.
「二門 悉く 昔と 反すれば 信じ難く 解し難し 鉾に 当るの 難事 なり」.

しょうあんだいしの いわく.
章安大師の 云く.

「ほとけ これを もって だいじと なす なんぞ げしやすきことを うべけんや」.
「仏 此れを 将つて 大事と 為す 何ぞ 解し易きことを 得可けんや」.

でんぎょうだいし いわく.
伝教大師 云く.

「この ほけきょうは もっとも これ なんしんなんげ なり ずいじいの ゆえに」とう うんぬん.
「此の 法華経は 最も 為れ 難信難解 なり 随自意の 故に」等 云云、.

それ ほとけ めつごに いたって いっせん800よねん.
夫れ 仏 滅後に 至つて 一千八百余年・.

さんごくに きょうりゃくして ただ 3にんのみ あって はじめて この しょうほうを かくち せり.
三国に 経歴して 但 三人のみ 有つて 始めて 此の 正法を 覚知 せり.

いわゆる がっしの しゃくそん しんたんの ちしゃだいし にちいきの でんぎょう この 3にんは ないてんの しょうにん なり.
所謂 月支の 釈尊・ 真旦の 智者大師・ 日域の 伝教 此の 三人は 内典の 聖人 なり、.

とうて いわく りゅうじゅ てんじんらは いかん.
問うて 曰く 竜樹 天親等は 如何、.

こたえて いわく これらの しょうにんは しって これを いわざる ひと なり.
答えて 曰く 此等の 聖人は 知つて 之を 言わざる 仁 なり、.

あるいは しゃくもんの いちぶん これを のべて ほんもんと かんじんとを いわず.
或は 迹門の 一分 之を 宣べて 本門と 観心とを 云わず.

あるいは き あって じ なきか あるいは きと じと ともに これ なきか.
或は 機 有つて 時 無きか 或は 機と 時と 共に 之れ 無きか、.

てんだい でんぎょう いごは これを しるもの たたなり.
天台 伝教 已後は 之を 知る者 多多なり.

2しょうの ちを もちゆるが ゆえなり.
二聖の 智を 用ゆるが 故なり.

いわゆる 3ろんの かじょう なんさんほくしちの 100よにん.
所謂 三論の 嘉祥・ 南三北七の 百余人・.

けごんしゅうの ほうぞう しょうりょうら ほっそうしゅうの げんじょうさんぞう じおんだいしら.
華厳宗の 法蔵・ 清涼等・ 法相宗の 玄奘三蔵・ 慈恩大師等・.

しんごんしゅうの ぜんむいさんぞう こんごうちさんぞう ふくうさんぞうら りつしゅうの どうせんら.
真言宗の 善無畏三蔵・ 金剛智三蔵・ 不空三蔵等 ・律宗の 道宣等.

はじめには はんぎゃくを そんし のちには いっこうに きぶく せしなり.
初には 反逆を 存し 後には 一向に 帰伏 せしなり。.

ただし はじめの だいなんを しゃせば むりょうぎきょうに いわく.
但し 初の 大難を 遮せば 無量義経に 云く.

「たとえば こくおうと ふじんと あらたに おうじを しょうぜん.
「譬えば 国王と 夫人と 新たに 王子を 生ぜん.

もしは 1にち もしは 2にち もしは なのかに いたり もしは ひとつき もしは ふたつき もしは しつつきに いたり.
若は 一日 若は 二日 若は 七日に 至り 若は 一月 若は 二月 若は 七月に 至り.

もしは 1さい もしは 2さい もしは しちさいに いたり.
若は 一歳 若は 二歳 若は 七歳に 至り.

また こくじを りょうりすること あたわずと いえども すでに しんみんに そうぎょう せられ.
復 国事を 領理すること 能わずと 雖も 已に 臣民に 宗敬 せられ.

もろもろの だいおうの こ もって はんりょと ならん.
諸の 大王の 子 以て 伴侶と 為らん、.

おう および ぶにんの あいしん ひとえに おもくして つねに ともに かたらん.
王 及び 夫人の 愛心 偏に 重くして 常に 与共に 語らん.

ゆえんは いかん ちしょう なるを もっての ゆえにと いうが ごとく.
所以は 何ん 稚小 なるを 以ての 故にと 云うが 如く、.

ぜんなんし この じきょうしゃも またまた かくの ごとし.
善男子 是の 持経者も 亦復 是くの 如し、.

しょぶつの こくおうと この きょうの ふじんと わごうして ともに この ぼさつの こを しょうず.
諸仏の 国王と 是の 経の 夫人と 和合して 共に 是の 菩薩の 子を 生ず.

もし ぼさつ この きょうを きくことを えて もしは いっく もしは いちげ.
若し 菩薩 是の 経を 聞くことを 得て 若しは 一句 若しは 一偈.

もしは いってん もしは にてん もしは 10 もしは 100 もしは 1000 もしは まん.
若しは 一転 若しは 二転 若しは 十 若しは 百 若しは 千 若しは 万.

もしは おくまんごうがじゃ むりょうむしゅ てんせば また しんりの ごくを たいすること あたわずと いえども.
若しは 億万恒河沙・ 無量無数 転せば 復 真理の 極を 体すること 能わずと 雖も、.

ないし すでに いっさいの ししゅうはちぶに しゅうぎょう せられ.
乃至 已に 一切の 四衆八部に 宗仰 せられ.

もろもろの だいぼさつを もって けんぞくと なし ないし つねに しょぶつに ごねん せられ じあい ひとえに おおわれん.
諸の 大菩薩を 以て 眷属と 為し 乃至 常に 諸仏に 護念 せられ 慈愛 偏に 覆われん.

しんがく なるを もっての ゆえなり」とう うんぬん.
新学 なるを 以ての 故なり」等 云云、.

ふげんきょうに いわく.
普賢経に 云く.

「この だいじょうきょうてんは しょぶつの ほうぞう じっぽう さんぜの しょぶつの がんもく なり.
「此の 大乗経典は 諸仏の 宝蔵 十方 三世の 諸仏の 眼目 なり.

ないし さんぜの もろもろの にょらいを しゅっしょうする たね なり.
乃至 三世の 諸の 如来を 出生する 種 なり.

ないし なんじ だいじょうを ぎょうじて ぶっしゅを だんぜざれ」とう うんぬん.
乃至 汝 大乗を 行じて 仏種を 断ぜざれ」等 云云、.

また いわく「この ほうどうきょうは これ しょぶつの まなこ なり.
又 云く「此の 方等経は 是れ 諸仏の 眼 なり.

しょぶつ これに よって ごげんを ぐする ことを う.
諸仏 是に 因つて 五眼を 具する ことを 得・.

ほとけの さんしゅの みは ほうどうより しょうず.
仏の 三種の 身は 方等従り 生ず.

これ だいほう いんにして ねはんかいに いんす.
是れ 大法 印にして 涅槃海に 印す.

かくの ごとき かいちゅう よく さんしゅの ほとけの しょうじょうしんを しょうず.
此くの 如き 海中 能く 三種の 仏の 清浄身を 生ず.

この さんしゅの みは にんてんの ふくでん なり」とう うんぬん.
此の 三種の 身は 人天の 福田 なり」等 云云。.

→a245

b246

それ おもんみれば しゃかにょらいの いちだい けんみつ だいしょうの 2きょう けごん しんごん とうの しょしゅうの えきょう ゆいて.
夫れ 以れば・ 釈迦如来の 一代・ 顕密・ 大小の 二教・ 華厳・ 真言 等の 諸宗の 依経 往いて.

これを かんがうるに あるいは じっぽうだいよう びるしゃなぶつ たいしゅううんじゅうの しょぶつにょらい.
之を 勘うるに 或は 十方台葉・ 毘盧遮那仏・ 大集雲集の 諸仏如来・.

はんにゃせんじょうの せんぶつじげん だいにちこんごうちょう とうの 1200そん.
般若染浄の 千仏示現・ 大日金剛頂 等の 千二百尊・.

ただ その ごんいんごんかを えんぜつして その おんいんがを あらわさず.
但 其の 近因近果を 演説して 其の 遠因果を 顕さず、.

そくしつとんじょう これを とけども さんごの おんけを もうしつし けどうの しじゅう あとを けずりて みえず.
速疾頓成 之を 説けども 三五の 遠化を 亡失し 化導の 始終 跡を 削りて 見えず、.

けごんきょう だいにちきょう とうは いちおう これをみるに べつえんしぞう とうに にたれども.
華厳経・ 大日経等は 一往 之を 見るに 別円四蔵 等に 似たれども.

さいおう これを かんがうれば ぞうつう 2きょうに どうじて いまだ べつえんにも およばず.
再往 之を 勘うれば 蔵通 二教に 同じて 未だ 別円にも 及ばず.

ほんぬの さんいん これ なし なにを もってか ほとけの しゅしを さだめん.
本有の 三因 之れ 無し 何を 以てか 仏の 種子を 定めん、.

しかるに しんやくの やくしゃら かんどに らいにゅう するの ひ.
而るに 新訳の 訳者等 漢土に 来入 するの 日・.

てんだいの いちねんさんぜんの ほうもんを けんもんして あるいは みずから しょじの きょうぎょうに てんかし.
天台の 一念三千の 法門を 見聞して 或は 自ら 所持の 経経に 添加し.

あるいは てんじくより じゅじするの よし これを しょうす.
或は 天竺より 受持するの 由 之を 称す、.

てんだいの がくしゃら あるいは じしゅうに どうずるを よろこび あるいは とおきを とうとんで ちかくを さげすみし.
天台の 学者等 或は 自宗に 同ずるを 悦び 或は 遠きを 貴んで 近きを 蔑みし.

あるいは きゅうを すてて しんを とり ましん ぐしん しゅったいす.
或は 旧を 捨てて 新を 取り 魔心・ 愚心 出来す、.

しかりと いえども せんずる ところは いちねんさんぜんの ぶっしゅに あらずんば.
然りと 雖も 詮ずる 所は 一念三千の 仏種に 非ずんば.

うじょうの じょうぶつ もくえ にぞうの ほんぞんは うみょうむじつ なり.
有情の 成仏・ 木画 二像の 本尊は 有名無実 なり。.

とうて いわく かみの だいなん いまだ その えつうを きかず いかん.
問うて 曰く 上の 大難 未だ 其の 会通を 聞かず 如何。.

こたえて いわく むりょうぎきょうに いわく.
答えて 曰く 無量義経に 云く.

「いまだ ろくはらみつを しゅぎょうすることを えずと いえども ろくはらみつ じねんに ざいぜんす」とう うんぬん.
「未だ 六波羅蜜を 修行する事を 得ずと 雖も 六波羅蜜 自然に 在前す」等 云云、.

ほけきょうに いわく「ぐそくの みちを きかんと ほっす」とう うんぬん.
法華経に 云く「具足の 道を 聞かんと 欲す」等 云云、.

ねはんぎょうに いわく「さつとは ぐそくに なづく」とう うんぬん.
涅槃経に 云く「薩とは 具足に 名く」等 云云、.

りゅうじゅぼさつ いわく「さつとは 6なり」とう うんぬん.
竜樹菩薩 云く「薩とは 六なり」等 云云、.

むえむとくだいじょうしろん げんぎきに いわく.
無依無得大乗四論・ 玄義記に 云く.

「さとは やくして 6と いう こほうには 6を もって ぐそくの ぎと なすなり」.
「沙とは 訳して 六と 云う 胡法には 六を 以て 具足の 義と 為すなり」.

きちぞうのしょに いわく「さとは ほんじて ぐそくと なす」.
吉蔵疏に 云く「沙とは 翻じて 具足と 為す」.

てんだいだいし いわく「さとは ぼんごなり ここには みょうと ほんず」とう うんぬん.
天台大師 云く「薩とは 梵語なり 此には 妙と 翻ず」等 云云、.

わたくしに えつうを くわえば ほんもんを けがすが ごとし.
私に 会通を 加えば 本文を 黷が 如し.

しかりと いえども もんの こころは しゃくそんの いんぎょうかとくの 2ほうは みょうほうれんげきょうの 5じに ぐそくす.
爾りと 雖も 文の 心は 釈尊の 因行果徳の 二法は 妙法蓮華経の 五字に 具足す.

われら この 5じを じゅじすれば じねんに かの いんがの くどくを ゆずりあたえ たまう.
我等 此の 五字を 受持すれば 自然に 彼の 因果の 功徳を 譲り与え 給う、.

しだいしょうもんの りょうげに いわく「むじょうほうじゅ ふぐじとく」うんぬん.
四大声聞の 領解に 云く「無上宝聚・ 不求自得」云云、.

われらが こしんの しょうもんかい なり.
我等が 己心の 声聞界 なり、.

「わが ごとく ひとしくして ことなること なし わが むかしの しょがんの ごとき いまは すでに まんぞくしぬ.
「我が 如く 等くして 異なる事 無し 我が 昔の 所願の 如き 今は 已に 満足しぬ.

いっさいしゅじょうを けして みな ぶつどうに いらしむ」.
一切衆生を 化して 皆 仏道に 入らしむ」、.

みょうかくの しゃくそんは われらが けつにくなり いんがの くどくは こつずいに あらずや.
妙覚の 釈尊は 我等が 血肉なり 因果の 功徳は 骨髄に 非ずや、.

→a246

b247

ほうとうほんに いわく.
宝塔品に 云く.

「それ よく この きょうほうを まもること あらんものは すなわち これ われ および たほうを くようする なり.
「其れ 能く 此の 経法を 護る事 有らん者は 則ち 為れ 我 及び 多宝を 供養する なり、.

ないし またまた もろもろの きたり たまえる けぶつの もろもろの せかいを そうごんし こうしょくしたまう ものを くようする なり」とう うんぬん.
乃至 亦復 諸の 来り 給える 化仏の 諸の 世界を 荘厳し 光飾し給う 者を 供養する なり」等 云云、.

しゃか たほう じっぽうの しょぶつは わが ぶっかい なり.
釈迦・ 多宝・ 十方の 諸仏は 我が 仏界 なり.

その あとを けいしょうして その くどくを じゅとくす.
其の 跡を 継紹して 其の 功徳を 受得す.

「しゅゆも これを きく すなわち あのくたらさんみゃくさんぼだいを くきょうするを う」とは これなり.
「須臾も 之を 聞く・ 即 阿耨多羅三藐三菩提を 究竟するを 得」とは 是なり、.

じゅりょうほんに いわく.
寿量品に 云く.

「しかるに われ じつに じょうぶつ してより このかた むりょうむへんひゃくせんまんのくなゆたこう なり」とう うんぬん.
「然るに 我 実に 成仏 してより 已来・ 無量無辺百千万億那由佗劫 なり」等云云、.

われらが こしんの しゃくそんは 500じんでん ないし しょけんの さんじんにして むしの こぶつ なり.
我等が 己心の 釈尊は 五百塵点 乃至 所顕の 三身にして 無始の 古仏 なり、.

きょうに いわく.
経に 云く.

「われ もと ぼさつの みちを ぎょうじて じょうぜし ところの じゅみょう いま なお いまだ つきず また かみの すうに ばいせり」とう うんぬん.
「我 本 菩薩の 道を 行じて・ 成ぜし 所の 寿命・ 今 猶 未だ 尽きず・ 復 上の 数に 倍せり」等 云云、.

われらが こしんの ぼさつ とう なり.
我等が 己心の 菩薩 等 なり、.

じゆせんがいの ぼさつは こしんの しゃくそんの けんぞく なり.
地涌千界の 菩薩は 己心の 釈尊の 眷属 なり、.

れいせば たいこう しゅうこうたんらは しゅうぶの しんか せいおう ようちの けんぞく たけうちの おどどは じんぐうこうごうの とうりょう にんとくおうじの しんかなるが ごとし.
例せば 大公・ 周公旦等は 周武の 臣下・ 成王 幼稚の 眷属・ 武内の 大臣は 神功皇后の 棟梁・ 仁徳王子の 臣下なるが 如し、.

じょうぎょう むへんぎょう じょうぎょう あんりゅうぎょうらは われらが こしんの ぼさつ なり.
上行・ 無辺行・ 浄行・ 安立行等は 我等が 己心の 菩薩 なり、.

みょうらくだいし いわく.
妙楽大師 云く.

「まさに しるべし しんど いちねんの さんぜん なり.
「当に 知るべし 身土 一念の 三千 なり.

ゆえに じょうどうの とき この ほんりに かのうて いっしん いちねん ほうかいに あまねし」とう うんぬん.
故に 成道の 時 此の 本理に 称うて 一身 一念 法界に 遍し」等 云云。.

それ はじめ じゃくめつどうじょう けぞうせかい より しゃらりんに おわるまで 50よねんの あいだ.
夫れ 始め 寂滅道場・ 華蔵世界 より 沙羅林に 終るまで 五十余年の 間・.

けぞう みつごん さんぺん しけん とうの さんど しどは みな じょうこうの うえの むじょうの どに へんげする ところの ほうべん じっぽう じゃっこう あんよう じょうるり みつごん とう なり.
華蔵・ 密厳・ 三変 ・四見 等の 三土 四土は 皆 成劫の 上の 無常の 土に 変化する所の 方便・ 実報・ 寂光・ 安養・ 浄瑠璃・ 密厳 等 なり.
 
のうへんの きょうしゅ ねはんに いりぬれば しょへんの しょぶつ したがって めつじんす ども また もって かくの ごとし.
能変の 教主 涅槃に 入りぬれば 所変の 諸仏 随つて 滅尽す 土も 又 以て 是くの 如し。.

いま ほんじの しゃばせかいは さんさいを はなれ しこうを いでたる じょうじゅうの じょうど なり.
今 本時の 娑婆世界は 三災を 離れ 四劫を 出でたる 常住の 浄土 なり.

ほとけ すでに かこにも めっせず みらいにも しょうぜず.
仏 既に 過去にも 滅せず 未来にも 生ぜず.

しょけ もって どうたい なり.
所化 以て 同体 なり.

これ すなわち こしんの さんぜんぐそく さんしゅの せけん なり.
此れ 即ち 己心の 三千具足・ 三種の 世間 なり.

しゃくもん 14ほんには いまだ これを とかず.
迹門 十四品には 未だ 之を 説かず.

ほけきょうの うちに おいても じき みじゅくの ゆえ なるか.
法華経の 内に 於ても 時機 未熟の 故 なるか。.

この ほんもんの かんじん なんみょうほうれんげきょうの 5じに おいては ほとけ なお もんじゅ やくおうらにも これを ふぞくし たまわず.
此の 本門の 肝心 南無妙法蓮華経の 五字に 於ては 仏 猶 文殊 薬王等にも 之を 付属し 給わず.

いかに いわんや その いげをや.
何に 況や 其の 已外をや.

ただ じゆせんがいを めして 8ほんを といて これを ふぞくし たまう.
但 地涌千界を 召して 八品を 説いて 之を 付属し 給う、.

その ほんぞんの ていたらく ほんしの しゃばの うえに ほうとう くうに こし.
其の 本尊の 為体 本師の 娑婆の 上に 宝塔 空に 居し.

たっちゅうの みょうほうれんげきょうの さゆうに しゃかむにぶつ たほうぶつ しゃくそんの きょうじ じょうぎょうらの しぼさつ.
塔中の 妙法蓮華経の 左右に 釈迦牟尼仏・ 多宝仏・ 釈尊の 脇士 上行等の 四菩薩・.

みろくぼさつらは しぼさつの けんぞくとして まつざに こし.
文殊弥勒等は 四菩薩の 眷属として 末座に 居し.

しゃっけ たほうの だいしょうの しょぼさつは ばんみんの だいちに しょして うんかく げっけいを みるが ごとく.
迹化 他方の 大小の 諸菩薩は 万民の 大地に 処して 雲閣 月卿を 見るが 如く.

じっぽうの しょぶつは だいちの うえに しょし たまう.
十方の 諸仏は 大地の 上に 処し 給う.

→a247

b248

しゃくぶつ しゃくどを ひょうする ゆえなり.
迹仏 迹土を 表する 故なり、.

かくの ごとき ほんぞんは ざいせ 50よねんに これ なし.
是くの 如き 本尊は 在世 五十余年に 之れ 無し.

8ねんの あいだにも ただ 8ほんに かぎる.
八年の 間にも 但 八品に 限る、.

しょうぞう 2000ねんの あいだは しょうじょうの しゃくそんは かしょう あなんを きょうじと なし.
正像 二千年の 間は 小乗の 釈尊は 迦葉・ 阿難を 脇士と 為し.

ごんだいじょう ならびに ねはん ほけきょうの しゃくもん とうの しゃくそんは もんじゅ ふげんらを もって きょうじと なす.
権大乗 並に 涅槃・ 法華経の 迹門 等の 釈尊は 文殊 普賢等を 以て 脇士と 為す.

これらの ほとけをば しょうぞうに つくり えがけども いまだ じゅりょうの ほとけ ましまさず.
此等の 仏をば 正像に 造り 画けども 未だ 寿量の 仏 有さず、.

まっぽうに らいにゅうして はじめて この ぶつぞう しゅつげんせしむ べきか.
末法に 来入して 始めて 此の 仏像 出現せしむ 可きか。.

とう しょうぞう 2000よねんの あいだは しえの ぼさつ ならびに にんしら.
問う 正像 二千余年の 間は 四依の 菩薩 並びに 人師等.

よぶつ しょうじょう ごんだいじょう にぜん しゃくもんの しゃくそんとうの じとうを こんりゅう すれども.
余仏・ 小乗・ 権大乗・ 爾前・ 迹門の 釈尊 等の 寺塔を 建立 すれども.

ほんもん じゅりょうほんの ほんぞん ならびに しだいぼさつをば さんごくの おうしん ともに いまだ これを そうじゅう せざるよし これを もうす.
本門 寿量品の 本尊 並びに 四大菩薩をば 三国の 王臣 倶に 未だ 之を 崇重 せざる由 之を 申す、.

この こと ほぼ これを きくと いえども ぜんだい みもんの ゆえに じもくを きょうどうし.
此の 事 粗 之を 聞くと 雖も 前代 未聞の 故に 耳目を 驚動し.

しんいを めいわくす こう かさねて これを とけ いさいに これを きかん.
心意を 迷惑す 請う 重ねて 之を 説け 委細に 之を 聞かん。.

こたえて いわく ほけきょう いちぶ 8かん 28ほん.
答えて 曰く 法華経 一部 八巻 二十八品・.

すすんでは ぜんしみ しりぞいては ねはんぎょう とうの いちだいの しょきょう そうじて これを くくるに ただ いっきょう なり.
進んでは 前四味・ 退いては 涅槃経 等の 一代の 諸経 惣じて 之を 括るに 但 一経 なり.

はじめ じゃくめつどうじょうより おわり はんにゃきょうに いたるまでは じょぶん なり.
始め 寂滅道場より 終り 般若経に 至るまでは 序分 なり.

むりょうぎきょう ほけきょう ふげんきょうの 10かんは しょうしゅうなり ねはんぎょう とうは るつうぶん なり.
無量義経・ 法華経・ 普賢経の 十巻は 正宗なり 涅槃経 等は 流通分 なり、.

しょうしゅう 10かんの なかに おいて また じょ しょう るつう あり.
正宗 十巻の 中に 於て 亦 序 正 流通 有り.

むりょうぎきょう ならびに じょほんは じょぶん なり.
無量義経 並に 序品は 序分 なり、.

ほうべんぽんより ふんべつくどくほんの 19ぎょうの げに いたるまで 15ほんはんは しょうしゅうぶん なり.
方便品より 分別功徳品の 十九行の 偈に 至るまで 十五品半は 正宗分 なり、.

ふんべつくどくほんの げんざいの ししんより ふげんきょうに いたるまでの 11ほんはんと 1かんは るつうぶん なり.
分別功徳品の 現在の 四信より 普賢経に 至るまでの 十一品半と 一巻は 流通分 なり。.

また ほけきょう とうの 10かんに おいても 2きょう あり おのおの じょ しょう るつうを ぐする なり.
又 法華経 等の 十巻に 於ても 二経 有り 各 序 正 流通を 具する なり、.

むりょうぎきょうと じょほんは じょぶん なり.
無量義経と 序品は 序分 なり.

ほうべんぽんより にんきほんに いたるまでの 8ほんは しょうしゅうぶん なり.
方便品より 人記品に 至るまでの 八品は 正宗分 なり、.

ほっしほんより あんらくぎょうほんに いたるまでの 5ほんは るつうぶん なり.
法師品より 安楽行品に 至るまでの 五品は 流通分 なり、.

その きょうしゅを ろんずれば しじょうしょうかくの ほとけ.
其の 教主を 論ずれば 始成正覚の 仏・.

ほんむこんぬの 100かいせんにょを といて いこんとうに ちょうかせる ずいじい なんしんなんげの しょうほう なり.
本無今有の 百界千如を 説いて 已今当に 超過せる 随自意・ 難信難解の 正法 なり、.

かこの けちえんを たずねれば だいつう 16の とき ぶっかの げしゅを くだし.
過去の 結縁を 尋れば 大通 十六の 時 仏果の 下種を 下し.

すすんでは けごんきょう とうの ぜんしみを もって じょえんと なして だいつうの しゅしを かくち せしむ.
進んでは 華厳経 等の 前四味を 以て 助縁と 為して 大通の 種子を 覚知 せしむ、.

これは ほとけの ほんいに あらず ただ どくはつ とうの いちぶん なり.
此れは 仏の 本意に 非ず 但 毒発 等の 一分 なり.

にじょう ぼんぷらは ぜんしみを えんと なし.
二乗 凡夫等は 前四味を 縁と 為し.

ぜんぜんに ほっけに らいしして しゅしを あらわし かいけんを とぐるの き これなり.
漸漸に 法華に 来至して 種子を 顕わし 開顕を 遂ぐるの 機 是なり、.

また ざいせに おいて はじめて 8ほんを きく.
又 在世に 於て 始めて 八品を 聞く.

にんてんら あるいは いっく いちげ とうを きいて げしゅとし.
人天等 或は 一句 一偈 等を 聞て 下種とし.

あるいは じゅくし あるいは だっし あるいは ふげん ねはん とうに いたり.
或は 熟し 或は 脱し 或は 普賢・ 涅槃 等に 至り.

あるいは しょうぞうまつ とうに しょうごん とうを もって えんと なして ほっけに いる.
或は 正像末 等に 小権 等を 以て 縁と 為して 法華に 入る.

れいせば ざいせの ぜんしみの ものの ごとし.
例せば 在世の 前四味の 者の 如し。.

→a248

b249

また ほんもん 14ほんの いっきょうに じょ しょう るつう あり.
又 本門 十四品の 一経に 序 正 流通 有り.

ゆじゅっぽんの はんぽんを じょぶんと なし じゅりょうほんと ぜんごの 2はんと これを しょうしゅうと なす.
涌出品の 半品を 序分と 為し 寿量品と 前後の 二半と 此れを 正宗と 為す.

そのよは るつうぶん なり.
其の余は 流通分 なり、.

その きょうしゅを ろんずれば しじょうしょうかくの しゃくそんに あらず.
其の 教主を 論ずれば 始成正覚の 釈尊に 非ず.

しょせつの ほうもんも また てんちの ごとし.
所説の 法門も 亦 天地の 如し.

じっかい くおんの うえに こくどせけん すでに あらわれ いちねんさんぜん ほとんど ちくまくを へだつ.
十界 久遠の 上に 国土世間 既に 顕われ 一念三千 殆んど 竹膜を 隔つ、.

また しゃくもん ならびに ぜんしみ むりょうぎきょう ねはんぎょう とうの さんせつは.
又 迹門 並びに 前四味・ 無量義経・ 涅槃経等の 三説は.

ことごとく ずいたいの いしんいげ ほんもんは さんせつの ほかの なんしんなんげ ずいじい なり.
悉く 随他意の 易信易解・ 本門は 三説の 外の 難信難解・ 随自意 なり。.

また ほんもんに おいて じょ しょう るつうあり.
又 本門に 於て 序 正 流通 有り.

かこ だいつうぶつの ほけきょう より ないし げんざいの けごんきょう.
過去 大通仏の 法華経 より 乃至 現在の 華厳経.

ないし しゃくもん 14ほん ねはんぎょう とうの いちだい 50よねんの しょきょう.
乃至 迹門 十四品 涅槃経 等の 一代 五十余年の 諸経・.

じっぽう さんぜ しょぶつの みじんの きょうぎょうは みな じゅりょうの じょぶん なり.
十方 三世 諸仏の 微塵の 経経は 皆 寿量の 序分 なり.

いっぽん 2はん よりの ほかは しょうじょうきょう じゃきょう みとくどうきょう ふぞうきょうと なづく.
一品 二半 よりの 外は 小乗教・ 邪教・ 未得道教・ 覆相教と 名く、.

その きを ろんずれば とくはくくじゅう ようち びんぐ ころにして きんじゅうに どうずる なり.
其の 機を 論ずれば 徳薄垢重・ 幼稚・ 貧窮・ 孤露にして 禽獣に 同ずる なり、.

にぜん しゃくもんの えんきょう なお ぶついんに あらず.
爾前 迹門の 円教 尚 仏因に 非ず.

いかに いわんや だいにちきょう とうの しょしょうじょうきょうをや.
何に 況や 大日経 等の 諸小乗経をや.

いかに いわんや けごん しんごん とうの しちしゅう とうの ろんしにんしの しゅうをや.
何に 況や 華厳・ 真言 等の 七宗 等の 論師・ 人師の 宗をや、.

あたえて これを ろんずれば ぜんさんきょうを いでず.
与えて 之を 論ずれば 前三教を 出でず.

うばって これを いえば ぞうつうに どうず.
奪つて 之を 云えば 蔵通に 同ず、.

たとい ほうは じんじんと しょうすとも いまだ しゅ じゅく だつを ろんぜず.
設い 法は 甚深と 称すとも 未だ 種 熟 脱を 論ぜず.

かえって けだんに おなじ けの しじゅう なしとは これなり.
還つて 灰断に 同じ 化の 始終 無しとは 是なり、.

たとえば おうじょたりと いえども ちくしゅを かいにんすれば そのこ なお せんだらに おとれるが ごとし.
譬えば 王女たりと 雖も 畜種を 懐妊すれば 其の子 尚 旃陀羅に 劣れるが 如し、.

これらは しばらく これを おく.
此等は 且く 之を 閣く.

しゃくもん 14ほんの しょうしゅうの はっぽんは いちおう これを みるに にじょうを もって しょうと なし ぼさつ ぼんぷを もって ぼうと なす.
迹門 十四品の 正宗の 八品は 一往 之を 見るに 二乗を 以て 正と 為し 菩薩 凡夫を 以て 傍と 為す、.

さいおう これを かんがうれば ぼんぷ しょうぞうまつを もって しょうと なす.
再往 之を 勘うれば 凡夫・ 正像末を 以て 正と 為す.

しょうぞうまつの さんじの なかにも まっぽうの はじめを もって しょうが なかの しょうと なす.
正像末の 三時の 中にも 末法の 始を 以て 正が 中の 正と 為す、.

とうて いわく そのしょう いかん.
問うて 曰く 其の証 如何ん、.

こたえて いわく ほっしほんに いわく.
答えて 曰く 法師品に 云く.

「しかも このきょうは にょらいの げんざいすら なお おんしつ おおし いわんや めつどの のちをや」.
「而も 此の経は 如来の 現在すら 猶 怨嫉 多し 況や 滅度の 後をや」.

ほうとうほんに いわく「ほうをして くじゅうせしむ ないし きたれる ところの けぶつ まさに この こころを しるべし」とう.
宝塔品に 云く「法をして 久住せしむ 乃至 来れる 所の 化仏 当に 此の 意を 知るべし」等、.

かんじ あんらく とう これを みるべし しゃくもん かくの ごとし.
勧持 安楽 等 之を 見る可し 迹門 是くの 如し、.

ほんもんを もって これを ろんずれば いっこうに まっぽうの はじめを もって しょうきと なす.
本門を 以て 之を 論ずれば 一向に 末法の 初を 以て 正機と 為す.

いわゆる いちおう これを みる ときは くしゅを もって げしゅと なし.
所謂 一往 之を 見る 時は 久種を 以て 下種と 為し.

だいつう ぜんしみ しゃくもんを じゅくと なして ほんもんに いたって とうみょうに のぼらしむ.
大通 前四味 迹門を 熟と 為して 本門に 至つて 等妙に 登らしむ、.

さいおう これを みれば しゃくもんには あらず.
再往 之を 見れば 迹門には 似ず.

ほんもんは じょ しょう るつう ともに まっぽうの はじめを もって せんと なす.
本門は 序 正 流通 倶に 末法の 始を 以て 詮と 為す、.

ざいせの ほんもんと まっぽうの はじめは いちどうに じゅんえん なり.
在世の 本門と 末法の 始は 一同に 純円 なり.

ただし かれは だつ これは しゅなり かれは いっぽん にはん これは ただ だいもくの 5じ なり.
但し 彼は 脱 此れは 種なり 彼は 一品 二半 此れは 但 題目の 五字 なり。.

とうて いわく その しょうもん いかん.
問うて 曰く 其の 証文 如何、.

→a249

b250

こたえて いわく ゆじゅっぽんに いわく.
答えて 云く 涌出品に 云く.

「その ときに たほうの こくどの もろもろの きたれる ぼさつ まかさつの.
「爾の 時に 他方の 国土の 諸の 来れる 菩薩 摩訶薩の.

はちごうがしゃの かずに すぎたる たいしゅの なかに おいて きりつし がっしょうし らいを なして ほとけに もうして もうさく.
八恒河沙の 数に 過ぎたる 大衆の 中に 於て 起立し 合掌し 礼を 作して 仏に 白して 言さく、.

せそん もし われらに ほとけの めつごに おいて しゃばせかいに あって ごんかしょうじんして この きょうてんを ごじし.
世尊 若し 我等に 仏の 滅後に 於て 娑婆世界に 在つて 勤加精進して 是の 経典を 護持し.

どくじゅし しょしゃし くよう せんことを ゆるし たまわば まさに この どに おいて ひろく これを とき たてまつるべし.
読誦し 書写し 供養 せんことを 聴し 給わば 当に 此の 土に 於て 広く 之を 説き たてまつるべし、.

その ときに ほとけ もろもろの ぼさつ まかさつしゅに つげ たまわく.
爾の 時に 仏・ 諸の 菩薩 摩訶薩衆に 告げ 給わく.

やみね ぜんなんし なんじらが この きょうを ごじせん ことを もちいじ」とう うんぬん.
止ね 善男子・ 汝等が 此の 経を 護持せん ことを 須いじ」等 云云、.

ほっし より いげ 5ほんの きょうもん ぜんご すいか なり.
法師 より 已下 五品の 経文 前後 水火 なり、.

ほうとうほんの まつに いわく「だいおんじょうを もって あまねく ししゅに つぐ.
宝塔品の 末に 云く「大音声を 以て 普く 四衆に 告ぐ.

たれか よく この しゃばこくどに おいて ひろく みょうほけきょうを とかん ものなる」とう うんぬん.
誰か 能く 此の 娑婆国土に 於て 広く 妙法華経を 説かん ものなる」等 云云、.

たとい きょうしゅ いちぶつたりと いえども これを しょうかんし たまわば.
設い 教主 一仏為りと 雖も 之を 奨勧し 給わば.

やくおうらの だいぼさつ ぼんたい にちがつ してんらは これを おもんず べき ところに.
薬王等の 大菩薩・ 梵帝・ 日月・ 四天等は 之を 重んず 可き 処に.

たほうぶつ じっぽうの しょぶつ きゃくぶつとして これを かんぎょうし たまう.
多宝仏・ 十方の 諸仏 客仏と為て 之を 諌暁し 給う、.

もろもろの ぼさつらは この おんごんの ふぞくを きいて「がふあいしんみょう」の せいごんを たつ.
諸の 菩薩等は 此の 慇懃の 付属を 聞いて「我不愛身命」の 誓言を 立つ、.

これらは ひとえに ぶついに かなわんが ためなり.
此等は 偏に 仏意に 叶わんが 為なり、.

しかるに しゅゆの あいだに ぶつご そういして かはちごうしゃの この どの ぐきょうを せいし たまう.
而るに 須臾の 間に 仏語 相違して 過八恒沙の 此の 土の 弘経を 制止し 給う.

しんたい これ きわまり ぼんちに およばず.
進退 惟れ 谷まり 凡智に 及ばず、.

てんだいちしゃだいし ぜんさんごさんの 6しゃくを つくって これを えし たまえり.
天台智者大師 前三後三の 六釈を 作つて 之を 会し 給えり、.

しょせん しゃっけ たほうの だいぼさつらに わが ないしょうの じゅりょうほんを もって じゅよ すべからず.
所詮 迹化 他方の 大菩薩等に 我が 内証の 寿量品を 以て 授与 すべからず.

まっぽうの はじめは ほうぼうの くににして あっきなる ゆえに これを とどめて じゆせんがいの だいぼさつを めして.
末法の 初は 謗法の 国にして 悪機なる 故に 之を 止めて 地涌 千界の 大菩薩を 召して.

じゅりょうほんの かんじんたる みょうほうれんげきょうの 5じを もって えんぶの しゅじょうに じゅよせしめ たまう.
寿量品の 肝心たる 妙法蓮華経の 五字を 以て 閻浮の 衆生に 授与せしめ 給う、.

また しゃっけの たいしゅは しゃくそん しょほっしんの でしらに あらざる ゆえなり.
又 迹化の 大衆は 釈尊 初発心の 弟子等に 非ざる 故なり、.

てんだいだいし いわく「これ わが でしなり まさに わが ほうを ひろむべし」.
天台大師 云く「是れ 我が 弟子なり 応に 我が 法を 弘むべし」.

みょうらく いわく「こ ちちの ほうを ひろむ せかいの やく あり」.
妙楽 云く「子 父の 法を 弘む 世界の 益 有り」、.

ふしょうきに いわく「ほう これ くじょうの ほうなるを もっての ゆえに くじょうの ひとに ふす」とう うんぬん.
輔正記に 云く「法 是れ 久成の 法なるを 以ての 故に 久成の 人に 付す」等 云云。.

また みろくぼさつ ぎしょうして いわく きょうに いわく.
又 弥勒菩薩 疑請して 云く 経に 云く.

「われらは また ほとけの ずいぎの しょせつ ほとけ しょすいの みこと いまだ すべて こもう ならず.
「我等は 復た 仏の 随宜の 所説・ 仏 所出の 言 未だ 曾て 虚妄 ならず・.

ほとけの しょちは みな ことごとく つうたつし たまえりと しんずと いえども.
仏の 所知は 皆 悉く 通達し 給えりと 信ずと 雖も.

しかも もろもろの しんぼっちの ぼさつ ほとけの めつごに おいて もし この みことを きかば.
然も 諸の 新発意の 菩薩・仏の 滅後に 於て 若し 是の 語を 聞かば.

あるいは しんじゅせずして ほうを はする ざいごうの いんねんを おこさん.
或は 信受せずして 法を 破する 罪業の 因縁を 起さん、.

ただ しかり せそん ねがわくは ために げせつして われらが うたがいを のぞき たまえ.
唯 然り 世尊・ 願くは 為に 解説して 我等が 疑を 除き 給え.

および みらいせの もろもろの ぜんなんし この ことを きき おわって また うたがいを しょうぜじ」とう うんぬん.
及び 未来世の 諸の 善男子 此の 事を 聞き 已つて 亦 疑を 生ぜじ」等 云云、.

もんの こころは じゅりょうの ほうもんは めつごの ために これを しょうずる なり.
文の 意は 寿量の 法門は 滅後の 為に 之を 請ずる なり、.

じゅりょうほんに いわく「あるいは ほんしんを うしなえる あるいは うしなわざる ものあり.
寿量品に 云く「或は 本心を 失える 或は 失わざる 者あり.

ないし こころを うしなわざる ものは この ろうやくの しきこう ともに よきを みて すなわち これを ふくするに やまい ことごとく のぞこり いえぬ」とう うんぬん.
乃 至心を 失わざる者は 此の 良薬の 色香 倶に 好きを 見て 即便 之を 服するに 病 尽く 除 癒ぬ」等 云云、.

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b251

くおん げしゅ だいつうけちえん ないし ぜんしみ しゃくもん とうの いっさいの ぼさつ 2じょう にんてんらの ほんもんに おいて とくどうする これなり.
久遠 下種・ 大通結縁 乃至 前四味 迹門 等の 一切の 菩薩・ 二乗・ 人天等の 本門に 於て 得道する 是なり、.

きょうに いわく「よの こころを うしなえる ものは その ちちの きたれるを みて.
経に 云く「余の 心を 失える 者は 其の 父の 来れるを 見て.

また かんきし もんじんして やまいを じせん ことを もとむと いえども しかも.
亦 歓喜し 問訊して 病を 治せん ことを 求むと 雖も 然も.

その くすりを あたうるに しかも あえて ふくせず.
其の 薬を 与うるに 而も 肯えて 服せず、.

ゆえんは いかん どっけ ふかく いって ほんしんを うしなえるが ゆえに.
所以は 何ん 毒気 深く 入つて 本心を 失えるが 故に.

この よき しきこうある くすりに おいて うまからずと おもえり.
此の 好き 色香ある 薬に 於て 美からずと 謂えり.

ないし われ いま まさに ほうべんを もうけ この くすりを ふくせしむ べし.
乃至 我 今 当に 方便を 設け 此の 薬を 服せしむ べし、.

ないし この よき ろうやくを いま とどめて ここに おく なんじ とって ふくすべしと いえじと ううること なかれ.
乃至 是の 好き 良薬を 今 留めて 此に 在く 汝 取つて 服す可し 差じと 憂うること 勿れ、.

この おしえを なしおわって また たこくに いたって つかいを つかわして かえって つぐ」とう うんぬん.
是の 教を 作し已つて 復た 他国に 至つて 使を 遣わして 還つて 告ぐ」等 云云、.

ふんべつくどくほんに いわく「あくせ まっぽうの とき」とう うんぬん.
分別功徳品に 云く「悪世 末法の 時」等 云云。.

とうて いわく この きょうもんの けんし げんこうは いかん.
問うて 曰く 此の 経文の 遣使 還告は 如何、.

こたえて いわく しえなり しえに しるい あり.
答えて 曰く 四依なり 四依に 四類 有り、.

しょうじょうの しえは たぶんは しょうほうの さきの 500ねんに しゅつげんす.
小乗の 四依は 多分は 正法の 前の 五百年に 出現す、.

だいじょうの しえは たぶんは しょうほうの のちの 500ねんに しゅつげんす.
大乗の 四依は 多分は 正法の 後の 五百年に 出現す、.

さんに しゃくもんの しえは たぶんは ぞうほう 1000ねん しょうぶんは まっぽうの はじめなり.
三に 迹門の 四依は 多分は 像法 一千年・ 少分は 末法の 初なり、.

しに ほんもんの しえは じゆせんがい まっぽうの はじめに かならず しゅつげんすべし.
四に 本門の 四依は 地涌千界 末法の 始に 必ず 出現す可し.

いまの けんし げんこうは じゆ なり.
今の 遣使 還告は 地涌 なり.

ぜこうろうやくとは じゅりょうほんの かんようたる みょうたいしゅうゆうきょうの なんみょうほうれんげきょう これなり.
是好良薬とは 寿量品の 肝要たる 名体宗用教の 南無妙法蓮華経 是なり、.

この ろうやくをば ほとけ なお しゃっけに じゅよし たまわず いかに いわんや たほうをや.
此の 良薬をば 仏 猶 迹化に 授与し 給わず 何に 況や 他方をや。.

じんりきほんに いわく「その ときに せんせかい みじん とうの ぼさつ まかさつの ちより ゆじゅつせる もの.
神力品に 云く「爾の 時に 千世界 微塵 等の 菩薩 摩訶薩の 地より 涌出せる 者.

みな ぶつぜんに おいて いっしんに がっしょうし そんがんを せんごうして ほとけに もうして もうさく.
皆 仏前に 於て 一心に 合掌し 尊顔を 瞻仰して 仏に 白して 言さく.

せそん われら ほとけの めつご せそん ぶんしんの しょざいの こくど めつどの ところに おいて まさに ひろく このきょうを とくべし」とう うんぬん.
世尊・ 我等 仏の 滅後・ 世尊 分身の 所在の 国土・ 滅度の 処に 於て 当に 広く 此の 経を 説くべし」等 云云、.

てんだいの いわく「ただ かほうの はっせいのみを みたり」とう うんぬん.
天台の 云く「但 下方の 発誓のみを 見たり」等 云云、.

どうせん いわく「ふぞくとは この きょうをば ただ かほう ゆじゅつの ぼさつに ふす.
道暹 云く「付属とは 此の 経をば 唯 下方 涌出の 菩薩に 付す.

なにが ゆえに しかる ほう これ くじょうの ほうなるに よるが ゆえに くじょうの ひとに ふす」とう うんぬん.
何が 故に 爾る 法 是れ 久成の 法なるに 由るが 故に 久成の 人に 付す」等 云云、.

それ もんじゅしりぼさつは とうほうこんじきせかいの ふどうぶつの でし.
夫れ 文殊師利菩薩は 東方金色世界の 不動仏の 弟子・.

かんのんは さいほうむりょうじゅぶつの でし やくおうぼさつは にちがつじょうみょうとくぶつの でし.
観音は 西方無量寿仏の 弟子・ 薬王菩薩は 日月浄明徳仏の 弟子・.

ふげんぼさつは ほういぶつの でし なり.
普賢菩薩は 宝威仏の 弟子 なり.

いちおう しゃくそんの ぎょうけを たすけんために しゃばせかいに らいにゅうす.
一往 釈尊の 行化を 扶けん為に 娑婆世界に 来入す.

また にぜん しゃくもんの ぼさつ なり.
又 爾前 迹門の 菩薩 なり.

ほんぽう しょじの ひとに あらざれば まっぽうの ぐほうに たらざるものか.
本法 所持の 人に 非れば 末法の 弘法に 足らざる者か、.

きょうに いわく.
経に 云く.

「そのときに せそん ないし いっさいの しゅの まえに だいじんりきを げんじ たまう.
「爾の時に 世尊 乃至 一切の 衆の 前に 大神力を 現じ 給う.

こうちょうぜつを いだして かみ ぼんせに いたらしめ.
広長舌を 出して 上 梵世に 至らしめ.

ないし じっぽうせかい もろもろの ほうじゅの もと ししの ざの うえの しょぶつも またまた かくの ごとく こうちょうぜつを いだし たまう」とう うんぬん.
乃至 十方世界 衆の 宝樹の 下 師子の 座の 上の 諸仏も 亦復 是くの 如く 広長舌を 出し 給う」等 云云、.

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b252

それ けんみつ 2どう いっさいの だいしょうじょうきょうの なかに しゃか しょぶつ ならびざし ぜっそう ぼんてんに いたる もん これ なし.
夫れ 顕密 二道・ 一切の 大小乗経の 中に 釈迦 諸仏 並び坐し 舌相 梵天に 至る 文 之 無し、.

あみだきょうの こうちょうぜっそう 3000を おおうは うみょうむじつ なり.
阿弥陀経の 広長舌相 三千を 覆うは 有名無実 なり、.

はんにゃきょうの ぜっそう 3000 ひかりを はなって はんにゃを ときしも まったく しょうめいに あらず.
般若経の 舌相三千 光を 放つて 般若を 説きしも 全く 証明に 非ず、.

これは みな けんたいの ゆえに くおんを ふそうする ゆえなり.
此は 皆 兼帯の 故に 久遠を 覆相する 故なり、.

かくの ごとく 10じんりきを げんじて じゆの ぼさつに みょうほうの 5じを ぞくるいして いわく.
是くの 如く 十神力を 現じて 地涌の 菩薩に 妙法の 五字を 嘱累して 云く、.

きょうに いわく「そのときに ほとけ じょうぎょうらの ぼさつ たいしゅに つげ たまわく.
経に 曰く「爾の時に 仏 上行等の 菩薩 大衆に 告げ 給わく.

しょぶつの じんりきは かくの ごとく むりょうむへん ふかしぎ なり.
諸仏の 神力は 是くの 如く 無量無辺 不可思議 なり.

もし われ この じんりきを もって むりょうむへん ひゃくせんまんのくあそぎこうに おいて.
若し 我れ 是の 神力を 以て 無量無辺 百千万億阿僧祇劫に 於て.

ぞくるいの ための ゆえに この きょうの くどくを とくとも なお つくすこと あたわじ.
嘱累の 為の 故に 此の 経の 功徳を 説くとも 猶 尽すこと 能わじ.

ようを もって これを いわば にょらいの いっさいの しょゆうの ほう にょらいの いっさいの じざいの じんりき.
要を 以て 之を 言わば 如来の 一切の 所有の 法・ 如来の 一切の 自在の 神力・.

にょらいの いっさいの ひようの ぞう にょらいの いっさいの じんじんの じ みな この きょうに おいて せんじけんぜつす」とう うんぬん.
如来の 一切の 秘要の 蔵・ 如来の 一切の 甚深の 事 皆 此の 経に 於て 宣示顕説す」等 云云、.

てんだい いわく.
天台 云く.

「にじぶつごう じょうぎょうより しもは だい3けっちょうふぞく なり」うんぬん.
「爾時仏告 上行より 下は 第三結要付属 なり」云云、.

でんぎょう いわく.
伝教 云く.

「また じんりきほんに いわく いようごんし にょらいいっさいしょゆうしほう ないし せんじけんぜつ いじょう きょうもん あきらかに しんぬ.
「又 神力品に 云く 以要言之・ 如来一切所有之法・ 乃至 宣示顕説 已上 経文 明かに 知んぬ.

かぶんの いっさいの しょゆうの ほう かぶんの いっさいの じざいの じんりき かぶんの いっさいの ひようの ぞう かぶんの いっさいの じんじんの じ.
果分の 一切の 所有の 法・ 果分の 一切の 自在の 神力・ 果分の 一切の 秘要の 蔵・ 果分の 一切の 甚深の 事.

みな ほっけに おいて せんじ けんぜつする なり」とう うんぬん.
皆 法華に 於て 宣示 顕説する なり」等 云云、.

この じゅうじんりきは みょうほうれんげきょうの 5じを もって.
此の 十神力は 妙法蓮華経の 五字を 以て.

じょうぎょう あんりゅうぎょう じょうぎょう むへんぎょうらの しだいぼさつに じゅよし たまうなり.
上行・ 安立行・ 浄行 ・無辺行等の 四大菩薩に 授与し 給うなり.

さきの 5じんりきは ざいせの ため のちの 5じんりきは めつごの ためなり.
前の 五神力は 在世の 為後の 五神力は 滅後の 為なり、.

しかりと いえども さいおう これを ろんずれば いっこうに めつごの ためなり.
爾りと 雖も 再往 之を 論ずれば 一向に 滅後の 為なり、.

ゆえに つぎしもの もんに いわく.
故に 次下の 文に 云く.

「ほとけ めつどの のちに よく このきょうを たもたんを もっての ゆえに しょぶつ みな かんきして むりょうの じんりきを げんじ たまう」とう うんぬん.
「仏 滅度の 後に 能く 此の経を 持たんを 以ての 故に 諸仏 皆 歓喜して 無量の 神力を 現じ 給う」等 云云。.

つぎしもの ぞくるいほんに いわく.
次下の 嘱累品に 云く.

「そのときに しゃかむにぶつ ほうざより たって だいじんりきを げんじ たまう.
「爾の時に 釈迦牟尼仏・ 法座より 起つて 大神力を 現じ 給う.

みぎの てを もって むりょうの ぼさつ まかさつの いただきを なで ないし いま もって なんだちに ふぞくす」とう うんぬん.
右の 手を 以て 無量の 菩薩 摩訶薩の 頂を 摩で 乃至 今 以て 汝等に 付属す」等 云云、.

じゆの ぼさつを もって はじめと なして しゃっけ たほう ないし ぼんしゃく してんらに この きょうを ぞくるい したまう.
地涌の 菩薩を 以て 頭と 為して 迹化 他方 乃至・ 梵釈・ 四天等に 此の経を 嘱累 し給う・.

じっぽうより きたる もろもろの ぶんしんの ほとけ おのおの ほんどに かえり たまう.
十方より 来る 諸の 分身の 仏 各 本土に 還り 給う.

ないし たほうぶつの とう かえって もとの ごとくし たまうべし とう うんぬん.
乃至 多宝仏の 塔 還つて 故の 如くし 給う可し 等 云云、.

やくおうほん いげ ないし ねはんぎょう とうは じゆの ぼさつ さり.
薬王品 已下 乃至 涅槃経 等は 地涌の菩薩 去り.

おわって しゃっけの しゅ たほうの ぼさつらの ために かさねて これを ふぞくし たまう.
了つて 迹化の 衆 他方の 菩薩等の 為に 重ねて 之を 付属し 給う.

くんじゅういぞく これなり.
くん拾遺嘱 是なり。.

うたがって いわく しょうぞう 2000ねんの あいだに じゆ せんがい えんぶだいに しゅつげんして この きょうを るつう するや.
疑つて 云く 正像 二千年の 間に 地涌 千界 閻浮提に 出現して 此の 経を 流通 するや、.

こたえて いわく しからず.
答えて 曰く 爾らず、.

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おどろいて いわく.
驚いて 云く.

ほけきょう ならびに ほんもんは ほとけの めつごを もって ほんと なして まず じゆに これを じゅよす.
法華経 並びに 本門は 仏の 滅後を 以て 本と 為して 先ず 地涌に 之を 授与す.

なんぞ しょうぞうに しゅつげんして この きょうを ぐづう せざるや.
何ぞ 正像に 出現して 此の 経を 弘通 せざるや、.

こたえて いわく のべず かさねて とうて いわく いかん.
答えて 云く 宣べず、 重ねて 問うて 云 く如何、.

こたう これを のべず また かんさねて とう いかん.
答う 之を 宣べず、 又 重ねて 問う 如何、.

こたえて いわく これを のぶれば いっさいせけんの しょにん いおんのうぶつの まっぽうの ごとく.
答えて 曰く 之を 宣ぶれば 一切世間の 諸人・ 威音王仏の 末法の 如く.

また わが でしの なかにも ほぼ これを とかば みな ひぼうを なすべし もくしせん のみ.
又 我が 弟子の 中にも 粗 之を 説かば 皆 誹謗を 為す可し 黙止せん のみ、.

もとめて いわく とかずんば なんじ けんどんに だせん.
求めて 云く 説かずんば 汝 慳貪に 堕せん、.

こたえて いわく しんたい これ きわまれり こころみに ほぼ これを とかん.
答えて 曰く 進退 惟れ 谷れり 試みに 粗 之を 説かん、.

ほっしほんに いわく「いわんや めつどの のちをや」.
法師品に 云く「況んや 滅度の 後をや」.

じゅりょうほんに いわく「いま とどめて ここに おく」.
寿量品に 云く「今 留めて 此に 在く」.

ふんべつくどくほんに いわく「あくせ まっぽうの とき」.
分別功徳品に 云く「悪世 末法の 時」.

やくおうほんに いわく「ごの 500さい えんぶだいに おいて こうせんるふ せん」.
薬王品に 云く「後の 五百歳閻浮提に 於て 広宣流布 せん」.

ねはんぎょうに いわく「たとえば しちしあり ふぼ びょうどう ならざるに あらざれども.
涅槃経に 云く「譬えば 七子あり 父母 平等 ならざるに 非ざれども.

しかれども びょうしゃに おいて こころ すなわち ひとえに おもきが ごとし」とう うんぬん.
然れども 病者に 於て 心 則ち 偏に 重きが 如し」等 云云、.

いぜんの みょうきょうを もって ぶついを すいち するに.
已前の 明鏡を 以て 仏意を 推知 するに.

ほとけの しゅっせは りょうぜん 8ねんの しょにんの ために あらず しょうぞうまつの ひとの ためなり.
仏の 出世は 霊山 八年の 諸人の 為に 非ず 正像末の 人の 為なり、.

また しょうぞう 2000ねんの ひとの ために あらず まっぽうの はじめ よが ごときものの ためなり.
又 正像 二千年の 人の 為に 非ず 末法の 始め 予が 如き者の 為なり、.

しかれども びょうしゃに おいてと いうは めつご ほけきょう ひぼうの ものを さすなり.
然れども 病者に 於いてと 云うは 滅後 法華経 誹謗の 者を 指すなり、.

「こんるざいし」とは「おしこうしきこうやくにいふみ」の ものを さすなり.
「今留在此」とは「於此好色香薬而謂不美」の 者を 指すなり。.

じゆ せんがい しょうぞうに いでざることは しょうほう 1000ねんの あいだは しょうじょう ごんだいじょう なり.
地涌 千界 正像に 出でざることは 正法 一千年の 間は 小乗 権大乗 なり.

き じ ともに これ なく しえの だいし しょうごんを もって えんと なして ざいせの げしゅ これを だっせしむ.
機 時 共に 之れ 無く 四依の 大士 小権を 以て 縁と 為して 在世の 下種 之を 脱せしむ.

ぼう おおくして じゅくやくを やぶるべき ゆえに これを とかず.
謗 多くして 熟益を 破る可き 故に 之を 説かず.

れいせば ざいせの ぜんしみの きこんの ごとし.
例せば 在世の 前四味の 機根の 如し、.

ぞうほうの ちゅうまつに かんのん やくおう なんがく てんだいらとうと じげんし しゅつげんして.
像法の 中末に 観音・ 薬王・ 南岳・ 天台 等と 示現し 出現して.

しゃくもんを もって おもてと なし ほんもんを もって うらと なして 100かいせんにょ いちねんさんぜん その ぎを つくせり.
迹門を 以て 面と 為し 本門を 以て 裏と 為して 百界千如・ 一念三千 其の 義を 尽せり、.

ただ りぐを ろんじて じぎょうの なんみょうほうれんげきょうの 5じ ならびに ほんもんの ほんぞん いまだ ひろく これを ぎょうぜず.
但 理具を 論じて 事行の 南無妙法蓮華経の 五字 並びに 本門の 本尊 未だ 広く 之を 行ぜず.

しょせん えんき あって えんじ なき ゆえなり.
所詮 円機 有つて 円時 無き 故なり。.

いま まっぽうの はじめ しょうを もって だいを うち.
今 末法の 初 小を 以て 大を 打ち.

ごんを もって じつを はし とうざい ともに これを しっし てんち てんどう せり.
権を 以て 実を 破し 東西 共に 之を 失し 天地 顛倒 せり.

しゃっけの しえは かくれて げんぜん せず.
迹化の 四依は 隠れて 現前 せず.

しょてん そのくにを すて これを しゅご せず.
諸天 其の 国を 棄て 之を 守護 せず、.

この とき じゆの ぼさつ はじめて よに しゅつげんし.
此の 時 地涌の 菩薩 始めて 世に 出現し.

ただ みょうほうれんげきょうの 5じを もって ようちに ふくせしむ.
但 妙法蓮華経の 五字を 以て 幼稚に 服せしむ.

「いんぼうだあくひついんとくやく」とは これなり.
「因謗堕悪必因得益」とは 是なり、.

わが でし これを おもえ じゆせんがいは きょうしゅ しゃくそんの しょほっしんの でし なり.
我が 弟子 之を 惟え 地涌 千界は 教主 釈尊の 初発心の 弟子 なり.

じゃくめつどうじょうに きたらず そうりん さいごにも とぶらわず ふこうの とが これ あり.
寂滅道場に 来らず 雙林 最後にも 訪わず 不孝の 失 之れ 有り.

しゃくもんの 14ほんにも きたらず ほんもんの 6ほんには ざを たつ.
迹門の 十四品にも 来らず 本門の 六品には 座を 立つ.

ただ 8ほんの あいだに らいげん せり.
但 八品の 間に 来還 せり、.

→a253

b254

かくの ごとき こうきの だいぼさつ さんぶつに やくそくして これを じゅじす.
是くの 如き 高貴の 大菩薩・ 三仏に 約束して 之を 受持す.

まっぽうの はじめに いで たまわざる べきか.
末法の 初に 出で 給わざる 可きか、.

まさに しるべし この しぼさつ しゃくぶくを げんずる ときは.
当に 知るべし 此の 四菩薩 折伏を 現ずる 時は.

けんのうと なって ぐおうを かいしゃくし しょうじゅを ぎょうずる ときは そうと なって しょうほうを ぐじす.
賢王と 成つて 愚王を 誡責し 摂受を 行ずる 時は 僧と 成つて 正法を 弘持す。.

とうて いわく ほとけの きもんは いかん.
問うて 曰く 仏の 記文は 云何.

こたえて いわく「のちの 500さい えんぶだいに おいて こうせんるふ せん」と.
答えて 曰く「後の 五百歳 閻浮提に 於て 広宣流布 せん」と、.

てんだいだいし しるして いわく「のちの 500さい とおく みょうどうに うるおわん」.
天台大師 記して 云く「後の 五百歳 遠く 妙道に 沾おわん」.

みょうらく しるして いわく「まっぽうの はじめ みょうり なきに あらず」.
妙楽 記して 云く「末法の 初 冥利 無きに あらず」.

でんぎょうだいし いわく「しょうぞう やや すぎ おわって まっぽう はなはだ ちかきに あり」とう うんぬん.
伝教大師 云く「正像 稍 過ぎ 已つて 末法 太だ 近きに 有り」等 云云、.

まっぽうたうごんの しゃくは わが ときは しょうじに あらずと いう こころ なり.
末法太有近の 釈は 我が 時は 正時に 非ずと 云う 意 なり、.

でんぎょうだいし にほんにして まっぽうの はじめを しるして いわく.
伝教大師 日本にして 末法の 始を 記して 云く.

「よを かたれば ぞうの おわり まつの はじめ ちを たずねれば とうの ひがし かつの にし.
「代を 語れば 像の 終り 末の 初・ 地を 尋れば 唐の 東・ 羯の 西・.

ひとを たずぬれば すなわち ごじょくの しょう とうじょうの とき なり.
人を 原れば 則ち 五濁の 生・ 闘諍の 時 なり.

きょうに いわく ゆたおんしつ きょうめつどごと この ことば まことに ゆえ あるなり」.
経に 云く 猶多怨嫉・ 況滅度後と 此の 言 良とに 以 有るなり」.

この しゃくに とうじょうの ときと うんぬん.
此の 釈に 闘諍の 時と 云云、.

いまの じかいほんぎゃく さいかいしんぴつの 2なんを さすなり.
今の 自界叛逆・ 西海侵逼の 二難を 指すなり、.

このとき じゆせんがい しゅつげんして ほんもんの しゃくそんを きょうじと なす.
此の時 地涌千界 出現して 本門の 釈尊を 脇士と 為す.

いちえんぶだい だい1の ほんぞん この くにに たつべし.
一閻浮提 第一の 本尊 此の 国に 立つ可し.

がっし しんたんに いまだ この ほんぞん ましまさず.
月支 震旦に 未だ 此の 本尊 有さず、.

にほんこくの じょうぐう してんのうじを こんりゅうして いまだ とき きたらざれば あみだ たほうを もって ほんぞんと なす.
日本国の 上宮・ 四天王寺を 建立して 未だ 時 来らざれば 阿弥陀・ 他方を 以て 本尊と 為す、.

しょうむてんのう とうだいじを こんりゅうす けごんきょうの きょうしゅ なり.
聖武天皇・ 東大寺を 建立す、 華厳経の 教主 なり、.

いまだ ほけきょうの じつぎを あらわさず でんぎょうだいし ほぼ ほけきょうの じつぎを けんじす.
未だ 法華経の 実義を 顕さず、 伝教大師 粗 法華経の 実義を 顕示す.

しかりと いえども とき いまだ きたらざるの ゆえに とうほうの がおうを こんりゅうして ほんもんの しぼさつを あらわさず.
然りと 雖も 時 未だ 来らざるの 故に 東方の 鵝王を 建立して本 門の 四菩薩を 顕わさず、.

しょせん じゆせんがいの ために これを ゆずりあたえ たまう ゆえなり.
所詮 地涌千界の 為に 此れを 譲り与え 給う 故なり、.

この ぼさつ ぶっちょくを こうむりて ちかく だいちの したに あり.
此の 菩薩 仏勅を 蒙りて 近く 大地の 下に 在り.

しょうぞうに いまだ しゅつげんせず まっぽうにも また いできたり たまわずば だいもうごの だいし なり
正像に 未だ 出現せず 末法にも 又 出で来り 給わずば 大妄語の 大士 なり、.

さんぶつの みらいきも また ほうまつに おなじ.
三仏の 未来記も 亦 泡沫に 同じ。.

これを もって これを おもうに しょうぞうに なき おおじしん だいすいせい とう しゅったいす.
此れを 以て 之を 惟うに 正像に 無き 大地震・ 大彗星 等 出来す、.

これらは こんじちょう しゅら りゅうじん とうの どうへんに あらず.
此等は 金翅鳥・ 修羅・ 竜神 等の 動変に 非ず.

ひとえに しだいぼさつを しゅつげん せしむべき せんちょう なるか.
偏に 四大菩薩を 出現 せしむ可き 先兆 なるか、.

てんだい いわく.
天台 云く.

「あめの たけきを みて りゅうの だいなるを しり はなの さかんなるを みて いけの ふかきことを しる」とう うんぬん.
「雨の 猛きを 見て 竜の 大なるを 知り 花の 盛なるを 見て 池の 深きことを 知る」等 云云、.

みょうらく いわく.
妙楽 云く.

「ちじんは きを しり じゃは みずから じゃを しる」とう うんぬん.
「智人は 起を 知り 蛇は 自ら 蛇を 識る」等 云云、.

てん はれぬれば ち あきらかなり ほっけを しるものは せほうを うべきか.
天 晴れぬれば 地 明かなり 法華を 識る者は 世法を 得可きか。.

いちねんさんぜんを しらざる ものには ほとけ だいじひを おこし.
一念三千を 識らざる 者には 仏・ 大慈悲を 起し.

5じの うちに この たまを つつみ まつだい ようちの くびに かけさしめ たまう.
五字の 内に 此の 珠を 裹み 末代 幼稚の 頚に 懸けさしめ 給う、.

しだいぼさつの この ひとを しゅごし たまわんこと たいこうしゅうこうの ぶんのうを しょうぶし.
四大菩薩の 此の 人を 守護し 給わんこと 太公周公の 文王を 摂扶し.

しこうが けいていに じぶせしに ことならざる ものなり.
四皓が 恵帝に 侍奉せしに 異ならざる 者なり。.

ぶんえい 10ねん たいさい みずのとり うづき 25にち.
文永 十年 太歳 癸酉 卯月 二十五日.

にちれん これを しるす.
日蓮 之を 註す.

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