b902から903.
寂日房御書 
(じゃくにちぼう ごしょ)
日蓮大 聖人 58歳御作.


 
b902

じゃくにちぼう ごしょ.
寂日房 御書.

こうあん 2ねん 9がつ 58さい おんさく.
弘安 二年 九月 五十八歳 御作 .

あたう じゃくにちぼう にっか みのぶに おいて.
与 寂日房 日家 於 身延.

これまで おん おとづれ かたじけなく そうろう.
是まで 御 をとづれ かたじけなく 候、.

それ じんしんを うくる ことは まれなる なり.
夫れ 人身を うくる 事は まれなる なり、.

すでに まれなる じんしんを うけたり.
已に まれなる 人身を うけたり.

また あいがたきは ぶっぽう これも また あえり.
又 あひがたきは 仏法・是も 又 あへり、.

おなじ ぶっぽうの なかにも ほけきょうの だいもくに あい たてまつる.
同じ 仏法の 中にも 法華経の 題目に あひ たてまつる.

けっく だいもくの ぎょうじゃと なれり.
結句 題目の 行者と なれり、.

まことに まことに かこ 10まんのくの しょぶつを くようする もの なり.
まことに まことに 過去 十万億の 諸仏を 供養する 者 なり。.

にちれんは にほん だい1の ほけきょうの ぎょうじゃ なり.
日蓮は 日本 第一の 法華経の 行者 なり.

すでに かんじぼんの 20ぎょうの げの もんは にほんこくの なかには にちれん 1にん よめり.
すでに 勧持品の 二十行の 偈の 文は 日本国の 中には 日蓮 一人 よめり、.

80まんのくなゆたの ぼさつは くちには のべたれども.
八十万億那由佗の 菩薩は 口には 宣たれども.

しゅぎょうしたる ひと 1にんも なし.
修行したる 人 一人も なし、.

かかる ふしぎの にちれんを うみ いだせし ふぼは
かかる 不思議の 日蓮を うみ 出だせし 父母は

にほんこくの いっさいしゅじょうの なかには だいかほうの ひと なり
日本国の 一切衆生の 中には 大果報の 人 なり、

ふぼと なり その こと なるも かならず しゅくじゅう なり
父母と なり 其の 子と なるも 必ず 宿習 なり、

もし にちれんが ほけきょう しゃかにょらいの おんつかい ならば
若し 日蓮が 法華経・釈迦如来の 御使 ならば

ふぼ あに その ゆえ なからんや
父母 あに 其の 故 なからんや、

れいせば みょうしょうごんのう じょうとくふじん じょうぞう じょうげんの ごとし.
例せば 妙荘厳王・浄徳夫人・浄蔵・浄眼の 如し、.

しゃかたほうの 2ぶつ にちれんが ふぼと へんじ たまうか.
釈迦多宝の 二仏・日蓮が 父母と 変じ 給うか、.

しからずんば 80まんのくの ぼさつの うまれかわり たまうか.
然らずんば 八十万億の 菩薩の 生れかわり 給うか、.

また じょうぎょうぼさつらの 4ぼさつの なかの すいじゃくか.
又 上行菩薩等の 四菩薩の 中の 垂迹か.

ふしぎに おぼえ そうろう.
不思議に 覚え 候、.

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b903

いっさいの ものに わたりて なの たいせつなる なり.
一切の 物に わたりて 名の 大切なる なり、.

さてこそ てんだいだいし ごじゅうげんぎの はじめに みょうげんぎと しゃくし たまえり.
さてこそ 天台大師・五重玄義の 初めに 名玄義と 釈し 給へり。.

にちれんと なのる こと じげぶつじょうとも いいつべし.
日蓮と なのる 事 自解仏乗とも 云いつべし、.

かように もうせば りこうげに きこえ たれども.
かやうに 申せば 利口げに 聞え たれども.

どうりの さすところ さもや あらん.
道理の さすところ さもや あらん、.

きょうに いわく.
経に 云く.

「にちがつの こうみょうの よく もろもろの ゆうみょうを のぞくが ごとく.
「日月の 光明の 能く 諸の 幽冥を 除くが 如く.

この ひと せけんに ぎょうじて よく しゅじょうの やみを めっす」と.
斯の 人 世間に 行じて 能く 衆生の 闇を 滅す」と.

この もんの こころ よくよく あんじさせ たまえ.
此の 文の 心 よくよく 案じさせ 給へ、.

しにんぎょうせけんの 5じの もじは じょうぎょうぼさつ まっぽうの はじめの 500ねんに しゅつげんして.
斯人行世間の 五の 文字は 上行菩薩・末法の 始の 五百年に 出現して.

なんみょうほうれんげきょうの 5じの こうみょうを さしいだして.
南無妙法蓮華経の 五字の 光明を さしいだして.

むみょうぼんのうの やみを てらすべしと いう ことなり.
無明煩悩の 闇を てらすべしと 云う 事なり、.

にちれんは この じょうぎょうぼさつの おんつかいとして.
日蓮は 此の 上行菩薩の 御使として.

にほんこくの いっさいしゅじょうに ほけきょうを うけ たもてと すすめしは これなり.
日本国の 一切衆生に 法華経を うけ たもてと 勧めしは 是なり、.

この やまに しても おこたらず そうろうなり.
此の 山に しても をこたらず 候なり、.

いまの きょうもんの つぎしもに といて いわく.
今の 経文の 次下に 説いて 云く.

「わが めつどの のちに おいて まさに この きょうを じゅじ すべし.
「我が 滅度の 後に 於て 応に 此の 経を 受持 すべし.

このひと ぶつどうに おいて けつじょうして うたがい あること なけん」と うんぬん.
是の人 仏道に 於て 決定して 疑い 有ること 無けん」と 云云、.

かかる ものの でし だんなと ならん ひとびとは.
かかる 者の 弟子 檀那と ならん 人人は.

しゅくえん ふかしと おもうて にちれんと おなじく ほけきょうを ひろむ べきなり.
宿縁 ふかしと 思うて 日蓮と 同じく 法華経を 弘む べきなり、.
.
ほけきょうの ぎょうじゃと いわれぬること はや ふしょう なり.
法華経の 行者と いはれぬる事 はや 不祥 なり.

まぬかれがたき み なり.
まぬかれがたき 身 なり、.

かの はんかい ちょうりょう まさかど すみともと いわれたる ものは.
彼の はんくわい ちやうりやう まさかど すみともと いはれたる 者は.

なを おしむゆえに はじを おもう ゆえに.
名を・をしむ故に はぢを 思う 故に・.

ついに おくしたる ことは なし.
ついに 臆したる ことは なし、.

おなじ はじなれども こんじょうの はじは もののかず ならず.
同じ はぢなれども 今生の はぢは・もののかず ならず・.

ただ ごしょうの はじこそ たいせつなれ.
ただ 後生の はぢこそ 大切なれ、.

ごくそつ だつえば けんねおうが さんずのかわの はた にて.
獄卒・だつえば 懸衣翁が 三途河の はた にて・.

いしょうを はがん ときを おぼしめして ほけきょうの どうじょうへ まいり たまうべし.
いしやうを はがん 時を 思食して 法華経の 道場へ まいり 給うべし、.

ほけきょうは ごしょうの はじを かくす ころも なり.
法華経は 後生の はぢを かくす 衣 なり、.

きょうに いわく「らしゃの ころもを えたるが ごとし」うんぬん.
経に 云く「裸者の 衣を 得たるが 如し」云云。.

このごほんぞんこそ めいどの いしょう なれ.
此の 御本尊こそ 冥途の いしやう なれ・.

よくよく しんじ たまうべし.
よくよく 信じ 給うべし、.

おとこの はだえを かくさざる め あるべしや.
をとこの はだへを かくさざる 女 あるべしや・.

この さむさを あわれまざる おや あるべしや.
子の さむさを あわれまざる をや あるべしや、.

しゃかぶつ ほけきょうは めと おやとの ごとく ましまし そうろうぞ.
釈迦仏・法華経は めと をやとの 如く ましまし 候ぞ、.

にちれんを たすけ たまう こと こんじょうの はじを かくし たまう ひとなり.
日蓮を たすけ 給う 事・今生の 恥を かくし 給う 人なり.

ごしょうは また にちれん おんみの はじを かくし もうすべし.
後生は 又 日蓮 御身の はぢを かくし 申すべし、.

きのうは ひとの うえ きょうは わが みの うえ なり.
昨日は 人の 上・今日は 我が 身の 上 なり、.

はな さけば このみ なり よめの しうとめに なること そうろうぞ.
花さ けば このみ なり・よめの しうとめに なる事 候ぞ、.

しんじん おこたらずして なんみょうほうれんげきょうと となえ たまうべし.
信心 をこたらずして 南無妙法蓮華経と 唱え 給うべし、.

たびたびの おんおとずれ もうし つくしがたく そうろうぞ.
度度の 御音信 申し つくしがたく 候ぞ、.

このこと じゃくにちぼう くわしく かたり たまえ.
此の事 寂日房 くわしく かたり 給へ。.

9がつ 16にち.
九月 十六日.

にちれん かおう.
日蓮 花押.

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