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1326.
一谷入道御書 (いちのさわにゅうどう ごしょ) 背景と大意.

 
 
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けんじ がんねん (1275ねん)、にちれんだいしょうにん 54さいの おんとき、みのぶから さどの いちのさわにゅうどうの つまに あたえられた ごしょ。
だいしょうにんが しざい、るざいの ほうなんを さけず ぐきょう された りゆうは、せけんの おんに ほうずる ためで あり、しゃくそんの ほうおんに こたえる ための ふるまいで ある ことを あかされて いる。
だいしょうにんはさどのちでのげごにかんしゃされながら、ねんぶつをすてないおそろしさをもうこしゅうらいのじれをとおしてきびしくしてきされている。
そして にゅうどう よりも しんじんを もとめて いた にょうぼうに、この ほけきょうを たもつ ように のべられて いる。
なお、いちのさわにゅうどうは、ないしんでは だいしょうにんに きふく しながら、はくがいを おそれて ねんぶつしゃの まま こうあんがんねん(1278ねん)に しきょ している。



b
健治元年(1275年)、日蓮大聖人 54歳の御時、身延から佐渡の一谷入道の妻に与えられた御書。
大聖人が死罪、流罪の法難を避けず弘教された理由は、世間の恩に報ずるためであり、釈尊の法恩に応えるための振る舞いであることを明かされています。
大聖人は佐渡の地での外護に感謝されながら、念仏を捨てない恐ろしさを蒙古襲来の事例を通して厳しく指摘されている。
そして入道よりも信心を求めていた女房に、この法華経を持つように述べられている。
尚、一谷入道は内心では大聖人に帰伏しながら、迫害を恐れて念仏者のまま弘安元年(1278年)に死去している。

 
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