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1390-2.
松野殿後家尼御前御返事 (別名、盲亀浮木抄) 背景と大意

 
 
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こうあん 2ねん (1279ねん) 3がつ 26にち、にちれんだいしょうにん 58さいの おんとき、まつのどのごけあまごぜんに あたえられた しょじょう。
いちげんの かめの はなしから、べつめいを もうき ふぼく しょう という。
ほけきょうに あいがたい ことは、いちげんの かめが ふぼくに あいがたいのと どうようであり、まして、なんみょうほうれんげきょうと となえる ことは なんじちゅうの なんじである。
だいしょうにんは けんちょう5年から 20よねんが あいだ、なんみょうほうれんげきょうと となえつづけて きたがゆえに、ばんにんから にくまれ、あっくめりされ、2どに わたる るざいを うけた。
これは ほけきょうの だいごの まきに よげんされている とおりで、これを おもえば よろこびに なみだすると のべられて いる。
さいごに、ごけあまごぜんが ほけきょうの ぎょうじゃを くようする ふしぎな いんねんを かたられ、げきれい されている。



b
弘安2年(1279年)3月26日、日蓮大聖人 58歳の御時、松野殿後家尼御前に与えられた御書。
一眼の亀の話から、別名を盲亀浮木抄という。
法華経に会いがたいことは、一眼の亀が浮木に会い難いのと同様であり、まして、南無妙法蓮華経と唱えることは難事中の難事である。
大聖人は建長5年から二十余年が間、南無妙法蓮華経と唱え続けてきたがゆえに、万人から憎まれ、悪口罵詈され、二度に渡る流罪を受けた。
これは法華経の第五の巻に予言されている通りで、これを思えば喜びに涙すると述べられている。
最後に、後家尼御前が法華経の行者を供養する不思議な因縁を語られ、激励されている。

 
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