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ぶんえい 5ねん (1268ねん) 10がつ 11にち、にちれんだいしょうにん 47さいの おんとき、11かしょに ていしゅつされた 11つうの しょじょう。
(ほうじょう ときむね、やどやさえもん みつのり、へいの さえもんのじょう よりつな、ほうじょう やげんた、けんちょうじ どうりゅう、ごくらくじ りょうかん、だいぶつでん べっとう、じゅふくじ、じょうこうみょうじ、たほうじ、ちょうらくじの けい 11かしょ)
かねてより りっしょうあんこくろんで だいしょうにんは、じかい ほんぎゃくなんと たこくしんぴつなんの になんを よげんされていたが、9ねんごの ぶんえい 5ねん 1がつ 18にちに、もうこ より こくしょが とうちゃくした。
このことから、だいしょうにんは 4がつ 5にち、ほうがんぼうに あんこくろん ごかんゆらいを、8がつ 21にち、やどやにゅうどうに しょじょうを おくられ たしゅうの じゃぎを すてて しょうほうに きえするよう、しっけん ほうじょう ときよりへの ごんじょうを いらいされた。
しかし、そのことに はんのうが なかった ために、ほうじょう ときよりを はじめとする ばくふ ようじんと しょしゅうに たいして ちんじょうを したためられたのが じゅういっつう ごしょである。
ないようは、りっしょうあんこくろんの よげんてきちゅうを しめされ、こうじょう たいけつに よって ほうの せいじゃを けってい すべきであると つよく せまられている。
なお、どうじつに したためられた でし だんなちゅうへの そじょうでは、「にちれんが でし だんな るざい しざい いちじょう ならん」「おのおの ようじん あるべし すこしも さいし けんぞくを おもう こと なかれ」と おおせであり、だいなんを かくご されての かんぎょうで あったことが うかがわれる。
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文永5年(1268年)10月11日、日蓮大聖人47歳の御時、11箇所に出された11通の書状。
(北条時頼、宿屋左衛門光則、平左衛門尉頼綱、北条弥源太、建長寺道隆、極楽寺良観、大仏殿別当、寿福寺、浄光寺、多宝寺、長楽寺の計11か所)
かねてより立正安国論(りっしょう あんこくろん)で 大聖人は、自界叛逆難と他国侵逼難の二難を予言されていたが、9年後の文永5年1月18日に、蒙古より国書が到着した。
このことから、大聖人は4月5日、法鑒房(ほうがんぼう)に安国論御勘由来(あんこくろんごかんゆらい)を、8月21日、宿屋入道に書状を送られ 他宗の邪義を捨てて正法に帰依するよう、執権 北条時頼への言上を依頼された。
しかし、そのことに反応がなかったために、北条時頼を始めとする幕府要人と諸宗に対して諌状をしたためられたのが十一通御書である。
内容は、立正安国論の予言的中を示され、公場対決によって法の正邪を決定すべきであると強く迫られている。
尚、同日にしたためられた弟子檀那中への御状では、「日蓮が弟子檀那 流罪 死罪一定ならん」「各々用心有る可し 少しも妻子眷属を憶うこと莫れ」と仰せであり、大難を覚悟されての諌暁であったことがうかがわれる。 |